「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 6     3.カトリック学校のポジショニング 2006年2月13日(月) 
3.カトリック学校のポジショニング
 
 では、カトリック学校のポジショニングはどうあればいいのだろうか。全国のカトリック学校には種々様々な学校があり、教育目標も対象とする児童・生徒・学生層もまちまちである。しかし、その経営母体が修道会であれ教区であれ、どのような学習能力の児童・生徒・学生を対象としているのであれ、カトリック学校と銘打って学校経営がなされているのであれば、そこには一貫したしかも微動だにしない教育目的と教育理念があるはずである。勿論それは、教育聖省から示されている『カトリック学校』に帰着するものであり、一言で言うならばそこには唯一の師であるイエス・キリストに倣い神の福音を教育活動を通して児童・生徒・学生に宣べ伝え、その完成に寄与する人材の育成を行う、ということになるのであろう。そして、ここにカトリック学校としてのミッションがあるのであって、他校とは決定的に性格を異にする要素が差別的優位性として存在するのである。
 
この観点からするとカトリック学校のポジショニングは明確であり、たとえ進学実績や進学率および部活動の戦績がいいことで児童・生徒・学生が集まっている学校であろうが、その位置付けはチャンピオン校でもチャレンジャー校でもフォロワァー校でもない、キリストの福音の使徒たる学校として、唯一ニッチャーであるスモールチャンピオン校でなければならないと言えよう。 カトリック学校の本来的存在意義は、進学実績や部活動における戦績を得て世間に名声を誇り知名度を上げることにあるのではなく、あくまでもイエスキリストの述べ伝えた福音を教育活動を通して宣べ伝え、全人格的教育と相まって神の福音を実行し、よりよい社会の実現を目指す人材の育成に専念するというところにある。
 
つまりこの点において、カトリック学校の目指す教育目標は、他の教育機関が目指すところのものとは相容れない普遍性と独自性を帯びている正にニッチャーとして自律・存立する要素なのである。以上の根拠により、現行の教育市場の現状という条件を考慮すれば、カトリック学校の戦略的マネージメントにおけるポジショニングは、ニッチャーたるスモールチャンピオン校となる以外、考えられないのではないと思うのである。しかもそのニッチャーとしての要素とは、他者が見過ごしている単なる隙間というよりは、一般的多くの教育機関が陥りやすい悲しいかな時代の流れに翻弄・感化され迎合してしまうという必然性と一線を画することを可能とするものではないかと考える。それは、『時のしるし』を読むというキリスト教における信徒の共同体たる教会への賜物としての『聖霊の導き』という独自性にあるのではないかということである。
 
よって、カトリック学校は、神の福音を宣べ伝えその実現を目指すという観点において、常に融和的でありながらも革新的でなければならない。故にカトリック学校は教育界におけるリーダーでありながらもチャンピオン校ではなくニッチャーたるスモールチャンピオン校としての地位を確立し続けていなければならないのである。
 
 7     5 カトリック学校における広報活動の原理・原則 2012年10月22日(月) 
5 カトリック学校における広報活動の具体的原理・原則
 
 私が奉職する中・高等学校で広報部長として8年間務めて得た、カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動の原理・原則を箇条書きで記しておく。
 (1)カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動は、「福音宣教」そのものである。(「福音宣教」に繋がるようにしなければならない。)
 (2)カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動において、カトリック学校 は教育活動をとおして「福音宣教」を実施し、「福音的人間観」および「福音的教育 観」のもとに教育活動を実践する学校であることを明確に伝えなければならない。
 (3)カトリック学校の広報活動におけるイノベーションは、「福音」のすばらしさをどのような具体的方法で伝えるかにある。
 (4)カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動の広告塔は「学習者の今の 姿」そのものである。
 (5)カトリック学校においての広報・生徒(学習者)募集活動には、学習者からの学納 金は、学習者に還元されなければならないとの原則から、必要以上の経費をかけて はならない。
   (基本的にはオープンスクール・入試説明会・ホームページ・パンフレットで十分 である。)
 (6)自校の教育ビジョンと教育システムによる学習者の将来像をより明確に提示すること。(出口保証をするという狭義の意味においてではない)
 (7)広報戦略としての進学実績(進学一辺倒)は、必ずしも生徒募集には結びつかない。
 (8)カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動の根幹は、学習者とその保 護者および卒業生、更に多くの教育関係者や地域社会の人々との繋がりや関わりに ある。
 (9)カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動において、学習者自体を手段とすることがあってはならない。
 (10)カトリック学校における広報・生徒(学習者)募集活動において、教育活動を広報 ・宣伝を目的に実施してはならない。(特に宗教行事や学校行事を用いての広報・ 宣伝活動および売名行為は、カトリック教育を腐敗させる。)
 (11)自校にとっての教育市場および地域社会におけるマーケティングを怠ってはならない。
 (12)カトリック学校の広報活動担当者は、主イエス・キリストの「福音」とカトリック   教育の理念を十分に学び理解していなければならない。
 
 8     V.カトリック学校における教員のあり方 1.カトリック学校教師の資質 2007年3月7日(水) 
1.カトリック学校教師の資質
 
 まず、カトリック学校の教員はキリスト者が相応しい。
 
 かといって信者であればそれで足りるということではないし、未信者では望ましくないというわけでもない。むしろ重要なのは、神の存在を信じ、イエス=キリストの教えとカトリック教育をよく理解し、それに賛同して教育活動に献身的に奉仕するという姿勢があるかどうかである。
 
 この点においてキリスト者であるということは、受洗の有無ではなく、日頃から教会共同体に深く関わり、カトリック教育をよく理解し信仰に根ざした教育活動に邁進する意志を持っているということである。また、未信者であってもキリスト教の教えとカトリック教育を理解し、受け入れていこうという意志と、学校(学園)の教育方針に従い献身的に教育活動に当たるのであれば、カトリック学校の教員としての資質があると認められる。
 
 カトリック学校の教師の資質における重要な観点は、キリストの教えとカトリック教育を理解し、献身的に教育活動に奉仕するという点である。より明確にするために箇条書きにし、それぞれについて述べてみよう。
 
 (1)神の存在を信じていること。(無神論者では相応しくない。)
 
 カトリック学校に限らず、キリスト教系のミッションスクールや仏教等の他の宗教による学校においても、建学の精神や教育方針を宗教に委ねている学校であれば、神の存在や精神性を根幹にしているのであるから、それらを理解し受け入れるか、最低限賛同できなければ、教育活動に支障をきたすばかりか、教員個人におけるパーソナリティをも生かすことができないであろう。
 
 よって、学校教育活動の実践において、教員とは教育活動を行う主体となる者であるから、教育活動の全ての場面において重要な位置づけとなるわけで、園児・児童・生徒・学生との関わりの中で絶対者である神の存在を受け入れていることを前提としなければ、学校の建学の精神や教育方針を貫徹できなくなり、その結果カトリック学校としての存在意義を失いかねない事態を招くこととなろう。
 
(2)特にイエス=キリストの教えを学び、理解し受け入れていること。(あるいは受け入れようと努力していること。)
 
 カトリック学校の教育理念や教育方針を日々の教育活動の中で具現化していく上で、園児・児童・生徒・学生に聖書を中心としたイエス=キリストの教えに触れさせる機会は少なくないであろう。その点において、カトリック学校に奉職する教員は、日頃より自ら聖書に触れ、イエス=キリストの教えをまずは知り、理解していることはカトリック学校の教員の資質としては、非常に重要な要件となる。
 
 その上で、担当教科やクラス運営、そして特別活動における指導にどう生かしていくかの方法論の探求が、そこで初めて始まると言っていいであろうし、そのような姿勢があってこそ、初めて日常の教育活動に自然に発揮され生かされていくものなのである。そして、これらの実践こそがカトリック学校における福音宣教の出発点に他ならない。
 
(3)カトリック教育を学び理解していること。(理解しようと努力していること。)
 
 カトリック教育つまり、カトリック教会が人間そのものをどう捉え、教育の対象者となる園児・児童・生徒・学生という人間の発達過程の途上にある者たちへ、何をどのように教育するかは、カトリック学校の教員にとっては、日々の教育活動の根幹を成すものであるから、最重要事項と言っても過言ではないことである。
 
 よって、カトリック学校に奉職する教員は、カトリック教会のカテキズムを学び、ローマ=カトリック教会教育聖省からの公式文書を学ぶとともにカトリックの教育理念や教育観を理解し身に付ける必要性がある。そして、その上でカトリック学校における日常の教育活動の中で、何を根幹としどのような具体的教育を実践するのかを深く探らなければならない。   
 
 このような実践がなされなければ、教員一人ひとりの個人的な教育観のもと教育活動が行われ、カトリック学校としての統一した教育活動の障害となり、たちまちのうちにカトリック学校の特色を失い崩壊を招くことになるであろう。
 
 前述のとおり、学校教育活動の実践における主体者は教師であるのだから、カトリック学校における教員が、カトリック教育を深く学び、理解し、実践できることは、カトリック教育における大前提となることは言うまでもない。よって、学校管理職である校長および教頭、もしくは学校経営者である法人や理事会は、自校(自学園)の教職員に対してカトリック教育に関する研修会棟を度々開き、周知徹底させる必要性がある。
 
(4)イエス=キリストの福音を教育活動のなかで伝えることができること。
 
 学校教育活動の中で、つまり学習活動や特別活動のなかで、イエス=キリストの福音をどのように伝えていくかは簡単ではない。
 
 特に、学習活動の中においては数学などのように、教科によっては非常に困難を極めるものもある。しかし、何らかの形で頻度は少ないにしろ、また直接的ではなく間接的にでも教科指導の中において、イエス=キリストの福音が述べ伝えられなければカトリック学校として十分とは言えない。そこで、全ての教科・科目の担当者は、それぞれの教科・科目の特性を踏まえた上で、どの単元でどのような形でイエス=キリストの福音を述べ伝えられるかの教材研究をしていかなければならないのである。
 
 また、特別活動における生徒指導に至っては、より重要な機会であると言えよう。なぜならば、特別活動における部活動などは学習活動における教科指導の場面以上に精神的・人格的交流が展開される場であるから、それらを担当する教師の世界観や人間観および価値観が、生徒一人ひとりの人間的成長に大きな影響力となる。そこで、この場においても教師の世界観や人間観および価値観が、カトリック教育の観点から外れているとするならば、前述のとおりこの事についても、カトリック教育の具現化の障害になるであろう。
 
 むしろ、特別活動が持つ性格上、そこにおいては教師と生徒との精神的・人格的交流が深く行われる場面であるからこそ、なおさら教師の言動や行動を含めた教育活動全体が、イエス=キリストの福音に基づいたものであなければ、カトリック学校の使命もしくは本来的存在意義である「福音宣教」が困難となり、その存在価値を自ら失いかねない事態を招くことになるのである。
 
(5)献身的に奉仕する意志と姿勢を持つこと。
 
 カトリック学校における教育活動とは、奉仕活動であるといってよい。誰に対し奉仕するのかと言えば、勿論まずは生徒とその父母と言うことになるであろうが、それは突き詰めればイエス=キリストをとおして神に奉仕するというところに帰着する。教師という立場において決して忘れてはならないのが謙遜という姿勢である。とかく教師とは、成長過程にある者を教育の対象にしているので、正しさを武器に傲慢となり、それが度を超すと独善的で高慢な独裁者とさえ化してしまう。人間の傲慢という姿勢は、旧約時代から教えられてきた最も神ご自身がよしとしない人間のあり方なのである。
 
 新約聖書のマタイ福音書23節第8章から第10章に次のようなことが記されている。
 
 「しかし、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の先生はただ一人であり、あなた方は皆兄弟だからである。地上のものを『父』と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、天におられる父だけである。また、あなた方は『教師』と呼ばれてはならない。あなた方の教師はただひとり、メシアだけである。」
 
 これはまさにわたしたち教師に対する掟ともいうべきイエス=キリストの福音と言えるものである。わたしたち教師のみならず、人間はこの謙遜という姿勢を常に忘れてはならないのであって、特に教師という立場の者はなおさらのこと、神に対する謙遜という徳を身にまとい日々の教育活動に携わらなければならないのであって、この謙遜こそが教師を教師足らしめるもっとも重要な要件なのである。
 
(6)教会共同体と学校共同体の一員としての自覚があること。
 
 カトリック学校の場合は、そのものが教会の一枝である。イエス=キリストの次の教えのとおりである。
 
 「もしあなた達の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして願うならば、天におられるわたしたちの父はそれをかなえてくださるであろう。二、三人がわたしの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。」(マタイ18:19〜20)
 
よって、カトリック学校もイエス=キリストの名の下、主の教えを教育の根幹につくられた教育機関なのであるから、当然のごとくそこには主イエス=キリストが中心におられる共同体、つまりは教会ということになるのである。
 
 そこで、わたしたちカトリック学校に奉職する教職員は、当然のことながら教会共同体に関わりを持つ者としての自覚が求められるとともに、教会共同体に貢献する一員であるとの事実とともに、その意識も求められることとなろう。
 
 また、それと同時に、イエス=キリストをとおしてつくられた学校共同体としての一員でもあり、イエス=キリストの福音を述べ伝える使命を託された者、あるいはそれにともに与る者としての自覚と責任も求められることになるのである。
 
(7)基本的な教育活動(学習活動と特別活動)を実践できること。
 
 最後になってしまったが、カトリック学校の教育的使命は、イエス=キリストをとおして宣 べ伝えられた神の福音宣教にあるのだが、学校教育機関である以上は、一般的教育機関が持つ教育的役割も十分果たしていく必要があることは言うまでもない。
 
 よって、カトリック学校に奉職する教員は、他の教員同様、教師としての資質を常に高めることをモットーとし、園児・児童・生徒および学生を一人の人間として、その人格を最大限に尊重しつつ、個々の能力の開発・発展・成長の手助けを職務としながら、地域社会と国家に対して貢献をしていくとともに、将来を担う人材を育成するという使命も帯びているのである。
 
 そのために、われわれ教師は、教師という職業人としての誇りと自覚を持って、確かで的確な学習指導力と、個性豊かな個々の園児・児童・生徒・学生の人格を生かしつつ、一人ひとりの成長に必要な導きができるという生徒指導力、および学習能力以外の能力を、部活動等の特別活動で引き出し、伸張させていくという指導力を持ち合わせていなければならないのである。
 
 9     2.カトリック学校における教員採用 2007年3月8日(木) 
2.カトリック学校における教員採用
 
 前述したとおり、カトリック学校の教員にはキリスト者が相応しい。よって、カトリック学校の経営における人事権所有者は、キリスト者特にカトリック教会に属する学生で、共同体内の教会学校や青年会活動に深く関わった経験と教員資格を取得しているか、その取得を目指している人材の把握に努め、カトリック教育の具現化に相応しい人材の確保ができるようにしていかなければならない。先ずはもって、カトリック学校の教員採用には、信者の教員確保を基本とすることが望ましい。
 
 この理由については、前述したところでもあるがその他の理由として、学校閉鎖社会の中で教師集団そのものが持つ特異性と、教員そのものが持つ独自の教育観や価値観そして主義主張が、学校運営の中では度々弊害となり、日々の教育活動に障害をきたす結果を招くことになるからである。しかも、多くのカトリック学校においては(多くの私立学校においてもであろうが)、人事異動がほとんどなく、固定的な人員により教師集団が構成されているので、人間関係における軋轢や教育活動に関する新しい動きや改善のために生じる対立や混乱を避けようとする配慮から、マンネリ化を招いてしまうという欠点を潜在的に持ってしまっている。
 
 このようにカトリック教育の具現化やそのために必要な改善・改革を実施しようとするとき、最も必要な一致団結や一丸となるということが、残念ながらわれわれ教師集団にとっては、最も苦手な作業なのである。それは、多くの学校組織の中では、形の上ではビューロクラシーによるピラミッド構造になっているようには見えても、内部構造的には企画・調査・研究・分析をおこなうスタッフ組織と、指揮・命令系統のおけるライン組織が上手く噛み合わないか機能していないというのが現状であるからだ。これもまた、教師や教師集団は、企業集団のような組織にはまるのが苦手か、それを良しとせず、自己の独自な教育観や価値観で行動するという特異性があるからなのである。この教師や教師集団が持つ特異性というものは、決してマイナス要素だけではなく、時には個々の教師の的確な判断力と行動力が臨機応変に求められる場合もあるのであるが、こと教師集団としての一致団結ということに関して言えば、困難を極めるケースが一般的傾向としてあることは否めない。
 
 そこで、一致団結がきわめて困難であるという教師や教師集団が持つ特異性があればこそ、イエス=キリストの下に一致することを前提とした教育活動を実践しようとするカトリック学校においては、大きな障害となるのである。その点、キリスト者もしくはキリストの福音を理解し受け入れた者たちによる教師集団であるのならば、どんなに意見の相違や対立があろうとも紆余曲折の末に、わたしたちの主イエス=キリストの下に一致する(一致させられる)に違いないだろう。
 
 このような観点において、カトリック学校における教員採用のあり方が自ずと見えてくるのである。といっても現実的には、信者の教員を確保することは日本のカトリック教会の現状から推測しても難しいと言わざるを得ない。そこで、いかにカトリック教育に賛同し、積極的にイエス=キリストの教えを学び理解し理想的にはそれらを受け入れながら、カトリック学校における教育活動に意欲的に与ろうとする教員を養成・育成していくのかが、大きな課題として見えてくるわけである。この事については、次項において詳しく述べることとするが、カトリック学校における教員採用の最重要条件は、イエス=キリストの福音宣教という下に集い、一致できる教員を採用するという結論に達するのである。
 
 10     3.カトリック学校における教員養成と教員研修 2007年3月16日(金) 
3.カトリック学校における教員養成と教員研修
 
 前述したとおり、カトリック学校における教員には信者が相応しいし、信者ではなくてもイエス=キリストの教えに共感し、その福音宣教に協力できる者であることが求められる。
 
 とはいっても現実問題として、はじめからそのような人材を確保することは非情に難しい。これも前述したとおりであるが、現代の日本におけるカトリック信者は減少しているのだし、少子高齢社会なのであるから、自ずと信者の教員の退職者は増え、教員を目指す信者の若者は少なくなっていくということになる。
 
 では、カトリック学校として福音宣教を根本とした教育活動を実践していくためにはどのようにしていったらいいのであろうか。それは、カトリック教育の実践者に相応しい教員を育てていくことに他ならないであろう。信者、未信者にかかわらず、カトリック学校の教員として必要な知識や姿勢を学んでもらい、カトリック学校の教員としての資質を身に付けていくことができるように教員養成をしていかなければならないのと、これらの実践のための教員研修や教員養成プログラムの作成とそのための研修所や養成所の設置が必要である。
 
 まず、教員研修であるが、すでにカトリック学校の教員として採用され、日常の教育活動に関わっている教員を対象とする者であって、「イエス=キリストをとおしての神の福音とは何か?(キリスト教の教え)」・「キリスト教の人間観」・「カトリック教育とは何か?」などの研修が必要である。中でも、教育活動の対象となる園児・児童・生徒・学生をどのような存在として受け止めて、日常の教育活動に当たるのかということが特に重要な要素となるのだが、つまるところ教育活動の対象となる者たちが、人間の成長過程の途上にある者たちで、その一人ひとりが神に必要とされ、この世に存在させられた神の計画に与る者たちであるという認識なのである。そして、このキリスト教における人間観が教育の根幹にしっかりと一本通っているのかどうかが、福音宣教ができる本来的ミッションスクールであると言えるかどうかの分かれ道となるであろう。
 
 次ぎに教員養成であるが、これからカトリック学校の教員となることを目指そうとする学生やその立場にある者たちが対象である。そこでいうのだが、カトリック学校の教員としての資質はもとより、教員の資質などというものは、生まれつき備わっているわけではない。確かに教員全般に求められる要件として、人を見極める力や他者を受容すること、リーダーシップや正しい判断力、そして教科をはじめとする指導力など、求められることはあまりにも多いと言わざるを得ないほど沢山ある。しかし、これらのことを初めから持ち合わせている教員がいったいどれほどいるというのだろうか。そう、本当のところ教員の資質というものは、天性から身についているものというよりは、学んで身に付けていくところのものが多いということである。いわんや、カトリック学校の教員としての資質などというものは尚更のことなのである。
 
 では、どこでそのような教員研修や教員養成のためのプログラムを策定し、将来にわたってカトリック学校の教育を構築していけばよいのだろうか。一昔前までのように、それぞれのカトリック学校の設立母体であった教育修道会が理事会や教育現場に会員を派遣し、教育活動の中核をなしていた時代であればいざしらず、現在のように司祭や修道者がどんどん減少していく中、カトリック教育の維持・発展のためには、既存のカトリック教育を育成・発展させてきた教区や・修道会を補うか、それに代わる機関が是が非でも必要となってきている。中には、いくつかの学校法人が合併しカトリック教育を堅持しようとの取り組みも見られる。
 
 そこで、わたしは教区もしくは地区を中心としたカトリック学校教員研修養成所の設立を提言したい。この提言についての詳細は、次項の「4.教区におけるカトリック学校教員研修養成所設立の提言」で後述するが、カトリック学校にとって最も重要な福音宣教を基盤とし、信仰に基づいた精神性が息づく教育活動の展開を考えるのであれば、自ずと司祭や修道者に代わり、それぞれのカトリック学校に奉職する教員自体がその役割を受け継いでいかなければならないであろう。さもなければ、カトリック学校は他の公立教育機関や私立の教育機関との差別的優位性を失うと同時に、その存続の危機をも招く結果とになり兼ねないのは目に見えているのである。
 
 カトリック学校には、教会共同体との関わりが、その設立の目的である福音宣教という観点から、なくてはならない要件である。そのためにも、カトリック学校に奉職する信者の教職員は、教会共同体との関わりを密にし、カトリック学校が教会共同体の一枝でるとの証を示していかなければならない。そして、それがカトリック学校に奉職する未信者の教職員に対する福音宣教にもつながることとなるであろう。
 

Last updated: 2012/12/3