1.カトリック学校教師の資質
まず、カトリック学校の教員はキリスト者が相応しい。
かといって信者であればそれで足りるということではないし、未信者では望ましくないというわけでもない。むしろ重要なのは、神の存在を信じ、イエス=キリストの教えとカトリック教育をよく理解し、それに賛同して教育活動に献身的に奉仕するという姿勢があるかどうかである。
この点においてキリスト者であるということは、受洗の有無ではなく、日頃から教会共同体に深く関わり、カトリック教育をよく理解し信仰に根ざした教育活動に邁進する意志を持っているということである。また、未信者であってもキリスト教の教えとカトリック教育を理解し、受け入れていこうという意志と、学校(学園)の教育方針に従い献身的に教育活動に当たるのであれば、カトリック学校の教員としての資質があると認められる。
カトリック学校の教師の資質における重要な観点は、キリストの教えとカトリック教育を理解し、献身的に教育活動に奉仕するという点である。より明確にするために箇条書きにし、それぞれについて述べてみよう。
(1)神の存在を信じていること。(無神論者では相応しくない。)
カトリック学校に限らず、キリスト教系のミッションスクールや仏教等の他の宗教による学校においても、建学の精神や教育方針を宗教に委ねている学校であれば、神の存在や精神性を根幹にしているのであるから、それらを理解し受け入れるか、最低限賛同できなければ、教育活動に支障をきたすばかりか、教員個人におけるパーソナリティをも生かすことができないであろう。
よって、学校教育活動の実践において、教員とは教育活動を行う主体となる者であるから、教育活動の全ての場面において重要な位置づけとなるわけで、園児・児童・生徒・学生との関わりの中で絶対者である神の存在を受け入れていることを前提としなければ、学校の建学の精神や教育方針を貫徹できなくなり、その結果カトリック学校としての存在意義を失いかねない事態を招くこととなろう。
(2)特にイエス=キリストの教えを学び、理解し受け入れていること。(あるいは受け入れようと努力していること。)
カトリック学校の教育理念や教育方針を日々の教育活動の中で具現化していく上で、園児・児童・生徒・学生に聖書を中心としたイエス=キリストの教えに触れさせる機会は少なくないであろう。その点において、カトリック学校に奉職する教員は、日頃より自ら聖書に触れ、イエス=キリストの教えをまずは知り、理解していることはカトリック学校の教員の資質としては、非常に重要な要件となる。
その上で、担当教科やクラス運営、そして特別活動における指導にどう生かしていくかの方法論の探求が、そこで初めて始まると言っていいであろうし、そのような姿勢があってこそ、初めて日常の教育活動に自然に発揮され生かされていくものなのである。そして、これらの実践こそがカトリック学校における福音宣教の出発点に他ならない。
(3)カトリック教育を学び理解していること。(理解しようと努力していること。)
カトリック教育つまり、カトリック教会が人間そのものをどう捉え、教育の対象者となる園児・児童・生徒・学生という人間の発達過程の途上にある者たちへ、何をどのように教育するかは、カトリック学校の教員にとっては、日々の教育活動の根幹を成すものであるから、最重要事項と言っても過言ではないことである。
よって、カトリック学校に奉職する教員は、カトリック教会のカテキズムを学び、ローマ=カトリック教会教育聖省からの公式文書を学ぶとともにカトリックの教育理念や教育観を理解し身に付ける必要性がある。そして、その上でカトリック学校における日常の教育活動の中で、何を根幹としどのような具体的教育を実践するのかを深く探らなければならない。
このような実践がなされなければ、教員一人ひとりの個人的な教育観のもと教育活動が行われ、カトリック学校としての統一した教育活動の障害となり、たちまちのうちにカトリック学校の特色を失い崩壊を招くことになるであろう。
前述のとおり、学校教育活動の実践における主体者は教師であるのだから、カトリック学校における教員が、カトリック教育を深く学び、理解し、実践できることは、カトリック教育における大前提となることは言うまでもない。よって、学校管理職である校長および教頭、もしくは学校経営者である法人や理事会は、自校(自学園)の教職員に対してカトリック教育に関する研修会棟を度々開き、周知徹底させる必要性がある。
(4)イエス=キリストの福音を教育活動のなかで伝えることができること。
学校教育活動の中で、つまり学習活動や特別活動のなかで、イエス=キリストの福音をどのように伝えていくかは簡単ではない。
特に、学習活動の中においては数学などのように、教科によっては非常に困難を極めるものもある。しかし、何らかの形で頻度は少ないにしろ、また直接的ではなく間接的にでも教科指導の中において、イエス=キリストの福音が述べ伝えられなければカトリック学校として十分とは言えない。そこで、全ての教科・科目の担当者は、それぞれの教科・科目の特性を踏まえた上で、どの単元でどのような形でイエス=キリストの福音を述べ伝えられるかの教材研究をしていかなければならないのである。
また、特別活動における生徒指導に至っては、より重要な機会であると言えよう。なぜならば、特別活動における部活動などは学習活動における教科指導の場面以上に精神的・人格的交流が展開される場であるから、それらを担当する教師の世界観や人間観および価値観が、生徒一人ひとりの人間的成長に大きな影響力となる。そこで、この場においても教師の世界観や人間観および価値観が、カトリック教育の観点から外れているとするならば、前述のとおりこの事についても、カトリック教育の具現化の障害になるであろう。
むしろ、特別活動が持つ性格上、そこにおいては教師と生徒との精神的・人格的交流が深く行われる場面であるからこそ、なおさら教師の言動や行動を含めた教育活動全体が、イエス=キリストの福音に基づいたものであなければ、カトリック学校の使命もしくは本来的存在意義である「福音宣教」が困難となり、その存在価値を自ら失いかねない事態を招くことになるのである。
(5)献身的に奉仕する意志と姿勢を持つこと。
カトリック学校における教育活動とは、奉仕活動であるといってよい。誰に対し奉仕するのかと言えば、勿論まずは生徒とその父母と言うことになるであろうが、それは突き詰めればイエス=キリストをとおして神に奉仕するというところに帰着する。教師という立場において決して忘れてはならないのが謙遜という姿勢である。とかく教師とは、成長過程にある者を教育の対象にしているので、正しさを武器に傲慢となり、それが度を超すと独善的で高慢な独裁者とさえ化してしまう。人間の傲慢という姿勢は、旧約時代から教えられてきた最も神ご自身がよしとしない人間のあり方なのである。
新約聖書のマタイ福音書23節第8章から第10章に次のようなことが記されている。
「しかし、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。あなた方の先生はただ一人であり、あなた方は皆兄弟だからである。地上のものを『父』と呼んではならない。あなた方の父はただひとり、天におられる父だけである。また、あなた方は『教師』と呼ばれてはならない。あなた方の教師はただひとり、メシアだけである。」
これはまさにわたしたち教師に対する掟ともいうべきイエス=キリストの福音と言えるものである。わたしたち教師のみならず、人間はこの謙遜という姿勢を常に忘れてはならないのであって、特に教師という立場の者はなおさらのこと、神に対する謙遜という徳を身にまとい日々の教育活動に携わらなければならないのであって、この謙遜こそが教師を教師足らしめるもっとも重要な要件なのである。
(6)教会共同体と学校共同体の一員としての自覚があること。
カトリック学校の場合は、そのものが教会の一枝である。イエス=キリストの次の教えのとおりである。
「もしあなた達の二人が、どんなことでも地上で心を一つにして願うならば、天におられるわたしたちの父はそれをかなえてくださるであろう。二、三人がわたしの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。」(マタイ18:19〜20)
よって、カトリック学校もイエス=キリストの名の下、主の教えを教育の根幹につくられた教育機関なのであるから、当然のごとくそこには主イエス=キリストが中心におられる共同体、つまりは教会ということになるのである。
そこで、わたしたちカトリック学校に奉職する教職員は、当然のことながら教会共同体に関わりを持つ者としての自覚が求められるとともに、教会共同体に貢献する一員であるとの事実とともに、その意識も求められることとなろう。
また、それと同時に、イエス=キリストをとおしてつくられた学校共同体としての一員でもあり、イエス=キリストの福音を述べ伝える使命を託された者、あるいはそれにともに与る者としての自覚と責任も求められることになるのである。
(7)基本的な教育活動(学習活動と特別活動)を実践できること。
最後になってしまったが、カトリック学校の教育的使命は、イエス=キリストをとおして宣 べ伝えられた神の福音宣教にあるのだが、学校教育機関である以上は、一般的教育機関が持つ教育的役割も十分果たしていく必要があることは言うまでもない。
よって、カトリック学校に奉職する教員は、他の教員同様、教師としての資質を常に高めることをモットーとし、園児・児童・生徒および学生を一人の人間として、その人格を最大限に尊重しつつ、個々の能力の開発・発展・成長の手助けを職務としながら、地域社会と国家に対して貢献をしていくとともに、将来を担う人材を育成するという使命も帯びているのである。
そのために、われわれ教師は、教師という職業人としての誇りと自覚を持って、確かで的確な学習指導力と、個性豊かな個々の園児・児童・生徒・学生の人格を生かしつつ、一人ひとりの成長に必要な導きができるという生徒指導力、および学習能力以外の能力を、部活動等の特別活動で引き出し、伸張させていくという指導力を持ち合わせていなければならないのである。
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