「もし、わたしたちに罪はないというならば、自分自身を欺くことになり、真理はわたしたちの中にありません。罪の告白をするならば、真実で正しい神は、わたしたちの罪をゆるし、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。もし、罪を犯したことがないというならば、神を偽り者にすることになり、神のことばはわたしたちの中にはありません。
(Tヨハネ1:8〜10)

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学校経営 School Management

「カトリック学校としての学校経営の在り方」
カトリック学校としての戦略的学校マネジメントの展開
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 1     『カトリック学校における学校マネジメント』 「はじめに」 2006年2月13日(月) 
 
『カトリック学校における学校マネジメント』
 
はじめに
 
 『学校(スクール)マネジメント』という言葉が言われるようになってからまだ間もないというべきか、久しいというべきか…。それは、おそらく『学校経営』という言葉に置き換えるのならば、学校が創設されて以来ということになるだろうし、少子化に端を発し、企業マネジメントから派生したという観点においては、まだ間もないと言っていいものであろう。
 
 そもそも、現代における「(マネジメント)management」や「(経営コンサルタント)a management consultant」は、アメリカにおけるMBA(Master of Business Administration)schoolに始まると言っていいのではないだろうか。それは、ひいてはグローバル経済をつり上げた、アメリカ型の戦略的企業経営のバックボーンとなった考え方や方法論であるとも言っていいものに違いない。更にそれは歴史的に辿れば、古代中国における孫子の兵法やローマ帝国におけるキリスト教の国教化に始まるローマカトリック教会の構造・組織化等に帰着するのであろう。
 
そこで、私が論ずるところの『学校マネジメント』は、あくまでも『カトリック学校における学校マネジメント』に限定するものであって、一般的な学校マネジメントではないことをお断りするが、土台一般的な学校マネジメントというものもあり得ないと考えている。それは、企業においてもそうであるように学校においても、教育目的や児童・生徒・学生等教育する対象が違うからであって、それぞれの教育機関においてそれぞれの学校マネジメントが必要となると考えるからである。よって、『カトリック学校における学校マネジメント』というものも、一般化するには困難な面が多いのだが、幸いにもカトリック学校の場合、独自の使命やその教育目的を持ち、更にそこには普遍性があるので、その観点や領域において論ずることができるので、それらのことがらに焦点と深度を絞り込み展開させていこうと考えている。そうすることにおいて、少なくとも現代の日本社会におけるカトリック学校としての在り方や進むべき指針を探り出し、それに基づいた『学校マネジメント』というものが見えてくるのではないかと思うのである。
 
勿論、私が『カトリック学校における学校マネジメント』を考えるようになったのは、私が奉職する学校も例外に漏れず、少子化の煽りを受け生徒数が減少し、毎年生徒募集に翻弄させられるという現実があるからである。その上、本校においては、3年前から生徒募集を担当する広報部という専門の分掌を立ち上げ、その部長に抜擢されたということが、その必要性に迫られる最も大きな要因になった事情であったと言える。当時の私は、「経営」に関するいろはも知らず、コトラーやドラッガーに代表される経営に関する書物や雑誌等を読むことから始まったのを覚えている。そして、それはカトリック学校の本来的使命や教育目的をあらためて考え直す機会を得ることにもなり、更には、このホームページ開設の原動力やカトリック教育教聖省からの文書を紐解く機会になったのも確かな事実である。
 
 私立学校にとって、生徒募集はその教育活動の継続もしくは学校自体の存続につながるものであって、私立学校の特徴や教育方針ならびに差別的優位性を明瞭化させるため等々、『学校マネジメント』は全ての点において今や必要不可欠なものとなっている。それはカトリック学校においても同様なことである。特にカトリック学校には独自のミッションがあるのだから、その本来的使命や教育目的をより明確化させ具体化するという作業からは逃れることはできない。よって、『カトリック学校における学校マネジメント』とは、その本来的使命や教育目的をより明確化させ具体化するという作業に始まり、そのこと自体に差別的優位性を見いださせることができるかということが、カトリック学校の存続を可能にさせるであろう。そして、そのことができなかったカトリック学校は、その存在意義を見失い、廃校への一途を辿る結果とならざるを得ないだろう。
 
 いずれにせよ、今後展開されていく『カトリック学校における学校マネジメント』が、少子化によって生徒募集に悩まされる特に地方で活躍されている数多くのカトリック学校が、現代日本社会における『時のしるし』を読み取り、教育の改善と社会の発展に貢献しながら、カトリック学校としての本来的使命と教育目的を果たしていくためのヒントやアイディアもしくは一考察の機会、指針等の提供となれば幸いである。現代の日本社会における少子高齢社会は、多くのカトリック学校にとって、危機的状況を招いていることは事実ではあるが、むしろ、この機会をカトリック学校がその原点に立ち返り、カトリック学校の再編と日本の教育の欠如に『光』を投じる教育改革の好機として捉え、その実現につなげていかなければなるまい。
 
 2     Tカトリック学校のコンセプト(基本概念) 2006年2月13日(月) 
T 『カトリック学校のコンセプト(基本概念)』
 
 カトリック学校の第一の建設目的は、『キリストの福音宣教』という一言に集約できるであろうが、カトリック学校のコンセプトは何であるのかは、1977年3月にローマカトリック教会教育聖省から出された「カトリック学校」に著されている。(カトリック教育聖省文書のページを参照)
 
 しかし、教育において重要なことは、時代の変化において教育そのものも変化しなければならないということである。勿論時代を超えて変わらないもの、たとえば究極的な教育目的等もあるのだが、ことそれらを教授するための方法論に至っては、変化・発展させていかなければならないものであると考える。また、それぞれの時代や世代における特徴的で新たな現象にも対処していかなければならないし、できればそれらを予知・予見して防いでいくことが望ましいと言える。とかく教育は社会現象を後追いし対処療法に終始しがちであるから、いわゆる『時のしるしを読む』ということの重要性を常に認識しながら児童・生徒たちを教え導くと共に、自らが価値判断できる力を養っていく必要性がある。教育の最大の危険性は社会に適応できる能力を養うという役割の部分である。勿論その必要性も充分にあるのだが、もしそれぞれの社会における価値観を無批判に容認し受け入れてしまうのであれば、社会は荒廃の一途を辿らざるを得ないのである。それは、良くも悪くも人間そのものが原罪故に欲望に駆られる存在であるからで、そこには道徳による規制や信仰による導き「司牧」の必要性が生まれてくるのである。そして、それらはいずれも『キリストの福音』を学び受け入れることによって成就するものである。
 
 このように、カトリック学校は、キリストによる共同体である「教会」の一枝として、教育活動を通してその時々の時代や社会、そしてその構成員たる個人、とくに幼児・児童・生徒学生という人間形成の只中にある者達に『キリストの福音』を宣べ伝え、神の国の実現に向けて働き生きる人間を養成していくという明確な使命を帯びた教育機関であると結論づけることができよう。
 
 しかし、残念ながら現存の日本におけるカトリック学校が、その目的を充分に果たしているとは言えないという状況にあるということである。その理由にはいくつかあると考えられるが、その第一には、カトリック学校における教師団の構成員である。司祭や修道者の教員が極端に減ると共に信者の教員も減少するばかりか教会とのつながりが希薄でカトリック学校の本来的在り方についても解さない有様では到底『キリストの福音宣教』とはほど遠いとしか言えない。
 
 今は、価値観の反乱、道徳観念の欠如、命に対する無教養、経済の暴走化などによる混迷の時代である。そればかりか地球の温暖化やオゾン層の破壊、砂漠化や酸性雨など地球環境の破壊によって全ての命あるものの危機を招いているのだ。まさに「終末」の時である。「終末」とは世の終わりであって新たな時の始まりでもある。時の分岐点にあって今「カトリック教育」が何を果たさなければならないのか、何を果たすことができるのかが問われている。そのためにもカトリック学校のコンセプトを今一度再確認し、「カトリック学校の再編」を図ることが、わたしたちの『主イエス・キリストの福音』に応えていくことになるであろう。
 3     U 1.カトリック学校の広報活動とは 2012年10月22日(月) 
1.カトリック学校の広報活動とは
 
 カトリック学校における園児・児童・生徒・学生の募集活動・広報活動の基本は、「福音宣教」の一環という位置づけが必要である。
 
カトリック学校の本来的目的が「福音宣教」にあるのだから、教育活動の対象である学習者は即、「福音宣教」の対象者となるわけである。(ただし、「福音宣教」とは、キリスト者(キリスト教信者)に対する司牧(教育)とイコールではなく、あくまでもキリストの「福音」(教え)を宣べ伝えることである。)よって、カトリック学校の生徒募集・広報活動は、主イエス・キリストの「福音」を教育活動をとおして述べ伝える対象者となる学習者を募ることであるから、「福音宣教」そのものであるか、あるいはその出会いを提供することにつながるものなのである。
 
 しかし、現実は残念ながら、カトリック学校の生徒募集も経営上のそろばん勘定や経営マネジメントまたはマーケティング理論から展開されていることが多いということである。もちろん経営上のマーケティング・マネジメントの必要性や重要性を否定するものではないし、むしろ大いに必要であると言える。学習者やその保護者を顧客と受け止め、顧客のニーズは?そしてそれをどう満足させるのか?さらに、その満足度は?などと実益重視の顧客主義やそのための戦略的マネジメント等々も悪いとは言えないであろう。しかし、それらの根拠がどこにあるのか、それらのコンセプトが何であるのか、立脚点はどこなのか?ということは、カトリック学校の場合はかなり重要な要素となるのである。
 
 経営上の戦略とは、コンセプトそのものやそれを支えるさまざまな要件で目指すところの目標や目的が随分違ってくるものである。教育に関して言えば、何のために学校経営をするのか、誰のために教育活動をするのか、どのような人間づくりを目指しているのか、どのようなかたちで社会貢献をしようとしているのかなど、教育の根幹を決定づける要件へとつながるものである。よって、私たちカトリック学校の最も重要な教育の根幹は、主キリストの「福音」であるのだから、そこに息づく人間観や人生観である「福音的人間観」、そして教育観である「福音的教育観」が常に日々の教育活動に生かされていなければならず、私たちカトリック学校の戦略もそのために策定されなければならない。そして、その戦略には神の息吹である「聖霊」が吹き込まれるような在り方でなければならないのである。
 
 少子化問題は、教育界のみならず国家の根幹である政治・経済にも及ぶ国家的危機にもつながりかねない社会的問題として、私たちが暮らす現代社会に投げ込まれ大きな波紋を広げている。何と言っても、教育における対象は学習者であるのだから、その肝心の学習者(こども)がいないのでは、教育活動そのものが成り立たない。目的を失った教育活動が意味を見出せなくなるのは必然であるとしか言いようがない。
 
少子化現象の進行がもたらす影響は、教育現場を取り巻環境を一変させた。それは、私立学校のみならず公立学校までもが、少子化の逆巻く怒濤の波にのまれ、学校の統廃合や募集人員の変更など、その事態の収拾や対策に翻弄されているのだ。私立学校といえども、こんなにも生徒募集や学校経営に嘖まれることが今までかつてあったであろうか。まさに少子化に喘ぐ学校が混沌とした世の中を彷徨い歩き、うめき声を上げているかのようである。
 
 さて、教育とは時代によって変化・変容するものである。残念ながら、現代日本の教育の現状は、決して時代の先端を歩むべく道標となり得てはいないし、次代を切り拓くべくイニシアティブをとる先駆者ともなり得てはいない。むしろ先行する現実を後追いしながら辛うじて時代の流れに乗り遅れないようにとしながらも、時の変化に翻弄され救いを求めている子ども達の声に応えきれずに、ごく僅かなエリート集団と少しの常識人、そして不本意ではあるが溢れんばかりに多くの社会に適応できない人間をつくり出してきたのではないかと嘆かざるを得ないのではないだろうか。
 
 それもこれも、教育に携わる者たちが、その時々が問いかけていることがらに耳を傾けずに変化を嫌い、時が問いかけ求めている「時のしるし」に応えてこなかった結果ではあるまいか。私たちカトリック教育に携わる者に今最も求められるものは、その時々の「時のしるし」を読むという作業とそれに応えるために必要な知識と判断力と行動力を与えるという教育活動なのではないのか。しかるに、この観点においてカトリック学校は最も敏感でにあらねばならず、それは取りも直さず主イエス=キリストの教え、メッセージである「福音」を宣べ伝えることに他ならない。
 
 以上、現代におけるカトリック学校の使命は、その時々の「時のしるし」を読みとり、学習者に現在および将来に求められる知識と判断力と行動力を身に付けさせることにある。よって、カトリック学校における広報活動のコンセプトは、主イエス・キリストの「福音」を原点に、これらのことがらを提供できる学校であるとの基本概念に根ざしたものでなければならない。
 
 広報活動の現実的な困難は、至極当然のことではあるが、実態のないものは広報できず、教育活動の実践や実績のあるもののみしか広報できないというところにあり、実態や実績のないものをあるかのように広報することは、即誇大広告や虚偽広報であり、それは偽善行為以外の何ものにもなり得ないということである。
 
 よって、カトリック学校における児童・生徒等の学習者募集・広報活動の在り方には、以下の二つの条件が整っていることが求められる。
 
 一つには、カトリック学校での教育現場そのものが、「福音」を宣べ伝える実践の場となっていること。
 
 二つめには、広報活動そのもの自体も「福音宣教」活動につながっていること。
 
 これらの二つの条件が、カトリック学校としての広報活動に求められる必要不可欠な要件であると共に、カトリック学校としての広報活動になっているのかどうかの判断基準となるものである。
 
 4     Uカトリック学校の戦略的学校マネジメント 1.戦略的マネジメント 2006年2月13日(月) 
1.戦略的マネジメント
 
 まず、ここにおいて論じておきたいのは、現代資本主義社会における競争原理に基づく教育市場のなかで、カトリック学校がいかにすれば生き残れるのかということである。
 
先に述べたように、現代における「(マネジメント)management」や「(経営コンサルタント)a management consultant」は、アメリカにおけるMBA(Master of Business Administration)schoolに始まると言っていいのではないだろうか。それは、ひいてはグローバル経済をつり上げた、アメリカ型の戦略的企業経営のバックボーンとなった考え方や方法論であるとも言っていいものに違いない。更にそれは歴史的に辿れば、古代中国における孫子の兵法やローマ帝国におけるキリスト教の国教化に始まるローマカトリック教会の構造・組織化等に帰着するのであろう。この観点において、今後のカトリック学校の存続を考えると次のようなことがらが言えるのではないかと思う。
 
  「経営戦略、それはコンセプトである。」という言葉を数々の経営に関する書物の中に記されている。カトリック学校のコンセプトはローマ教育聖省やそれぞれのカトリック学校の経営母体である修道会や教区等で定めた教育方針があるであろう。それで充分すぎるほど確たる理念として樹立されている。
 
 しかし、その展開の仕方や方法論については一考の予知がまだまだあるようである。なぜなら、少子化現象のなかった時代に生徒募集において、少なくとも他校と同じ土俵上では闘う必要がなかったのであるから、「カトリック学校」であることや「ミッションスクール」であること、あるいは「難関校へ合格できる進学校」というネームバリューか、地方においては公立高校の受け皿としての位置づけとしてだけでも生徒確保ができていたからである。
 
 それが、少子化の影響が顕著化した現在はその事情は一変してしまった。ありとあらゆる方法、例えば私が論じているような学校マネジメントという経営戦略やそれに付随するコマーシャルやポスターまたはホームページやバーナー広告など、マス・コミやインターネットを通しての広報活動が盛んに行われているのが実状である。このような競争原理もしくは市場原理という社会構造の上に成り立っているのであるから、それを前提とした戦略、あるいは戦い方を学ばなければならないこととなる。
 
 現代におよぶ軍事・経営・スポーツ等、戦略と名の付くそのすべては少なからずあるいはおおかた古代中国の孫子による兵法を基本としていると言ってよいだろう。つまり、闘うためには、まずは自己をよく知ること(自己分析)=自己の強みと弱み(長所と短所)を明らかにすることから始めることである。それが、差別化に留まることなく差別的優位性をもたらすこととなる。
 
 次に、相手を十分に知り見極めることである。学校経営において同業のライバル校は往々にして一校ではない。多くの場合は、数校から数十校と闘うことになる。その中で、まずは自分の学校が闘うべき相手を絞り込み、その上でその学校を分析しどのような戦い方をしなければならないのかを策定しなければならない。この時、闘う相手を決定する要素は自分の学校にあるということを忘れてはならない。つまりそれは、それぞれの学校が置かれている教育市場における事項のポジショニングで決定されることとなる。自分の学校がその地域においてどのような位置づけになっているのか、あるいはどのような地位を占めたいのかということが明確になっていなければならないということである。経営戦術におけるポジショニングは次の通りである。1.チャンピオン 2.チャレンジャー 3.フォロワー 4.ニッチャー(スモールチャンピオン)これら四つの中のどれに位置するのか、あるいはどこに位置づけるかの見極めと決断が求められることとなる。
 
 5     2.自校のポジショニング 2006年2月13日(月) 
2.自校のポジショニング
 
 前述の経営戦術におけるポジショニングである、1.チャンピオン 2.チャレンジャー 3.フォロワー 4.ニッチャー(スモールチャンピオン)を教育市場に当てはめてみると次のようになるのではないかと思う。
 
 教育市場におけるチャンピオンは、名実および自他共にナンバーワンと認められる学校である。このような学校は、おおかた進学実績や部活動において他を寄せ付けない好実績を持続してあげていて、伝統もあり有能な人材や著名人を世に輩出しているものである。よってこのような学校は、全国的な教育市場や地域社会からも絶対的な信頼を受け、時には神格化されるほどである。しかし、このような学校は、進学実績や戦績を上げることを校内外から求められるあまり必死になり学校というよりは予備校化したり、教科指導に偏重するがあまり特別活動や生徒指導をないがしろにしがちになるか、その逆の現象をもたらすこととなり、それが結果として人格形成に偏りをもたすこととなっている。こういった、教育における全人格的教育のバランスの欠如こそが、ナンバーワンであるチャンピオン校の落とし穴やアキレス腱があると言えるであろう。
 
 次にチャンピオンに対する挑戦者として存在する学校がチャレンジャーである。チャレンジャーは教育市場におけるナンバーツーであるから、王者たるチャンピオンと同じ土俵でがっぷり四つとなって対等に闘う存在であり、常に隙を見てはナンバーワンを狙っているのである。よって、チャレンジャー校はやはり進学実績や野球の甲子園に代表されるスポーツなどの特別活動で全国に名を馳せるようなことを第一の教育目標としているのだ。
 
 フォロワーは、チャレンジャーを追随し、まずは業界ナンバーツーを目指そうとするポジションである。よってフォロワー校の競争相手は、決してナンバーワンのチャンピオン校ではなく、あくまでもナンバーツーなのであって、挑戦者の権利を獲得することをその目的とするのである。用は、未だチャンピオンやチャレンジャーと同じ土俵に登ってはいないので、その土俵に登ることを当面の目標とするのである。
 
 さて、スモールチャンピオンともいわれるニッチャーとはどのようなポジションであるかというと、ニッチャー=隙間という言葉のとおり、業界において独自の路線を選択し、誰もがやらない分野を開拓することで他との差別化と優位性を打ち出そうとする立場である。誰も未だに手を付けていない未開拓の隙間の分野でナンバーワンになるので、スモールチャンピオンということになるのである。
 
 では、教育市場におけるニッチャー校とはどのような学校であろうか。それは生徒総数や教育施設の規模に関係なく、チャンピオンやその地位を常に狙うチャレンジャーそしてそれを追随するフォロワーのいずれの学校も目指してはいない教育目標を打ち立てて、社会にその必要性を訴えかける学校である。それは、現行の教育市場における競争課題である進学実績や進学率、あるいは部活動における戦績など、一般社会にアピール性が高く、自校の名声を広める他めに実益をもたらすものとは縁遠い要素となるものではないだろうか。
 
 いずれにせよ、現代資本主義社会における競争原理に基づく教育市場のなかで、カトリック学校がいかにすれば生き残れるのかということを考えるに当たって、まずは自校のポジショニングを明らかにすることは、競争校を知る以前に自分をまず知ることであるから、最重要事項であると言えよう。
 

Last updated: 2012/12/3