3.カトリック学校の教育目標達成のためのプロファイルの実践的な活用法と問題点
プロファイルの作成の背景には、第二バチカン公会議における「キリスト教的教育に関する宣言」があることは既知のことであるが、それはカトリック学校がカトリック学校の本旨やカトリック学校の使命を果たせないでいるとの反省からであったはずのものである。つまり、第二バチカン公会議の標語ともなった「アジョルナメント」、教会の現代化・刷新の具現化としての社会に開かれ福音宣教する教会の実現である。この趣旨に照らし合わせると、果たして現代のカトリック学校が「福音宣教」という使徒職を果たしていると言えるのだろうか。という疑問が当然投げかけられるわけであるが、実はそのような批判に対する反省と軌道修正という観点が、カトリック学校のプロファイル作りの原点であったとのことである。(福音宣教2012年12月号 特集 カトリック教育の未来像−第二バチカン公会議の実り 「教育改革のチャンスを活かせるか」上智学院理事長 高祖敏明氏 参照)
しかし、その本来的なカトリック学校の使命を取り戻すために実施されたプロファイル作りがなぜ消えてしまったのか、そしてなぜ形骸化し実践的な活用がなされなくなってしまったのか、その原因と問題点について考察し、実践的なプロファイル作りと活用法についての基本原則を明らかにしてみたい。
(1)プロファイル作りや運用についてのキックオフがあったか。
どんなプロジェクトにも共通することであるが、新しいことを始めるということは、現体制を変えることである。一般的に人間にとって最も敬遠されることは変化であるという。何故ならば、変化には希望と同時にリスクも伴うので、誰にとってもハイリスク・ハイリターンの選択よりは、現状維持が無難に思えるからである。よって、新しいことを始めるためには、その目的を明らかにすると共に、メリットとデメリットを明確化することが重要である。そして、特にそのプロジェクトが個人や集団にもたらす効果的な実益を明示して、その実現のための教職員の意識改革と共通理解をすることが是が非でも欠かせないのである。
このキックオフ無しに、学校組織にとってどんなに革新的で必要かつ実益をもたらすプロジェクトの実現を図ろうとしても、全体として失敗に終わるか上層部の自己満足もしくは、プロジェクトそのものを形骸化させ、やがては自然消滅することになってしまうであろう。
特に、プロファイルはカトリック学校運営の根幹をなすものであるから、学校組織における教職員間の共通理解や意識改革および経営責任者の信仰に根ざした熱意と誠意ある教育理念および揺るぎないリーダーシップとマネジメント力が欠かせない。逆に、一般教職員の立場から捉えれば、それはいかに学校経営責任者が一般教職員から信頼され受容されているかということに他ならないであろう。
カトリック学校のプロファイルとは、作成に当たっても運用に当たっても、福音共同体としての学校経営責任者をはじめとした管理職と一般教職員との間の、また一般教職員一人ひとりとの間の信頼関係と協力関係が根底になければ成功するようなものではない。そして、それらを前提としたキックオフこそが、カトリック学校におけるプロファイル作りや実践・運用の成功の鍵を握っていると言えるであろう。
(2)第二バチカン公会議における「キリスト教的教育に関する宣言」についての学びや共通理解があったか。
「(1)プロファイル作りや運用についてのキックオフがあったか。」における「学校組織における教職員間の共通理解や意識改革および経営責任者の信仰に根ざした熱意と誠意ある教育理念および揺るぎないリーダーシップとマネジメント力」の原点は「第二バチカン公会議文書におけるキリスト教的教育に関する宣言」の理解そのものである。何故ならば、カトリック学校のプロファイルとは、カトリック学校の原点回帰、つまりミッションスクールであるカトリック学校の使徒的使命というミッションそのものの再確認と具現化というカトリック学校の再福音化であるからである。よって、「第二バチカン公会議」の標語にも示されているように「教会のアジョルナメント(現代化・刷新)」という社会に開かれた福音宣教する教会の再構築の具体的精神を知った上で、「キリスト教的教育に関する宣言」をいかにそれぞれのカトリック学校の教育的使命や実情に合わせながら、プロファイルによって実現するのかが問われているのであるから、「教会のアジョルナメント(現代化・刷新)」の基本的精神や「キリスト教的教育に関する宣言」の内容および「カトリック教会のカテキズム」を含めた知識を学ばずに、プロファイルを作成したり実施するなどということは、あり得ないことであり、残念ながら「御言葉を聞くだけで行わない者のが皆、砂を土台として家を建てた愚かな人(マタイ7:24〜27)」であるのと等しいのであり、そうならないためにもプロファイルの土台である岩が、わたしたちの主・イエスキリストの御言葉であり、「教会のアジョルナメント(現代化・刷新)」の基本的精神や「キリスト教的教育に関する宣言」でなければならない。よって、プロファイル作りやその運用には、教職員全員が少なくとも日頃から聖書に慣れ親しんでいるとともに、御言葉の真の意味と「第二バチカン公会議における憲章や宣言」を学ぶことが重要な前提条件となろう。
(3)プロファイル作りや運用にあたって、カトリック学校の使命や使徒職を果たすための管理職のリーダーシップとマネジメント力があったか。
現代組織マネジメントは、学校と言わずどんな組織体にとっても困難を極めるものであると言ってよい。何故ならば、それはグローバル化やボーダレス化(Globalization)がもたらした負の要素としての国際経済や国際政治における干渉関係が、人間の予測を超えた結果を招いているからである。また、日本における私立学校の学校経営をひどく困難な状況にしている超少子高齢社会である。これらの要素が複雑に絡み合った状況で組織運営や組織経営をしていかなければならないということは、どんな有能な人物にとっても至難の業であることは確かな事実である。
しかし、「プロファイル作りや運用にあたって、カトリック学校の使命や使徒職を果たすため」という明確で限定的な目的のための管理職のリーダーシップとマネジメント力となれば、かなり具体的な要件を示すことができよう。それは、先にも述べたようにプロファイルとはカトリック学校の教育活動の根幹をなし、道標となるものであるから、以下の事柄が挙げらる。
@プロファイル作りにあたっての管理職のリーダーシップ
1.全教職員にプロファイルの根幹がカトリック学校の使命、特に「教育活動を通しての福音宣教」を果たすための具体的教育目標であることを理解してもらっていること。
2.プロファイルの根幹は、わたしたちの主イエス・キリストの御言葉と第二バチカン公会議文書(特に「現代世界憲章」と「キリスト教的な教育に関する宣言」)であるこ とを理解してもらい、私たちカトリック学校の教職員は、それらの実現に向けて参与 するという使命を持っているという自覚を持ってもらっていること。
3.管理職として、日常的に聖書の御言葉や第二バチカン公会議文書(特に「現代世界憲 章」と「キリスト教的な教育に関する宣言」)の学びの場を設け、自ら率先して指導・参加していること。
Aプロファイル作りにあたっての管理職のマネジメント力
1.作成にあたっての資料の収集と教職員に対する資料の提示(第二バチカン公会議文書(特に「現代世界憲章」と「キリスト教的な教育に関する宣言」、バチカン教育聖省 カトリック学校に関する一連の教書等)
2.プロファイル作りのための学習会の企画・運営
3.プロファイル作りにあたってのスケジュールや作成のための方法論および運用方法と評価方法の提示
4.各分掌・学年・部署における運用方法と評価方法の提示とその指導
5.運用状況および評価結果の管理と学習者とその保護者および教職員からの意見徴収とそのフィードバック。
なお、現代組織におけるリーダーシップやマネジメント力の共通する重要なスタンスは、「人を動かすことではなく、人を生かすこと」である。そして、「上から目線ではなく、同じ目線もしくは下から目線」である。正に、これは私たちの主イエス・キリストのこの世での態度「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た。(マタイ20:28)」であり、私たちカトリック学校の奉職するすべての教職員が学び守るべき態度そのものである。本来いかなる組織にも賢明なリーダーが不可欠なのであって、独裁的で独善的なリーダーは不必要であるし、存在してはならない。特にカトリック学校のように「福音共同体」を目指す組織体にとっては、カリスマティックなリーダーがたとえ一時的には必要と思われるような時があっても、その選択は結果的には学校崩壊を招くことになるだろう。それは、歴史的に見ても人間社会に独裁的な強いリーダーの存在が、いかに人間の尊厳を疎外してきたかということや、人類の歴史が明らかに王や皇帝などの独裁政治から共和制そして民主制に変革・発展してきていることが、何よりも国家や組織のあり方の真実な姿を物語っていると言えるではないか。たとえ小さな学校組織であろうとも、もしも校長等の管理職がトップダウン方式の独善的な学校運営をするならば、その学校組織内部は支配と被支配そして抑圧する者とされる者とのグループ化がなされ、組織全体が不健全で発展性のない萎縮した状態になり、やがては崩壊を招くことになるであろう。
カトリック学校におけるリーダーシップやマネジメントとは、現代アメリカ型グローバル経済における戦略的経営マネジメントの論理が通用しない「福音共同体」としての独自性があるのである。
(4)プロファイルに基づいた「福音共同体」づりに対する全教職員の一致協力体制があったか。
どのような組織にとっても、とりわけ機能的集団という同じ目標を共有し実現しようというとする組織にとっては、その共通した目的をいかに、そしてどのように共有するかということが、組織を一つにまとめるばかりではなく、構成員間の連帯を強め最大限の力を発揮する原動力となるかを決定づける。
カトリック学校の場合の共有すべき目標とは明白である。それは、「教育活動を通した福音宣教」と「それらをとおした福音共同体の完成」というものであるから、それらを如何にして共有し合い、それらを目標として実現していくかということに専念すればよいのである。そのための具体的教育目標となるものがプロファイルである。
しかし、学校組織内においてこのプロファイルの位置づけが曖昧であると、プロファイル自体が教職員および学習者にとっての共通の教育目標として共有できなくなるばかりか、むしろ煩雑で押しつけがましく面倒な無用の長物と化してしまうのである。
カトリック学校の教育の根幹をなすべきプロファイルがこのように受け止められてしまった瞬間、プロファイルは形骸化する。紙面一杯に並べられた18歳の姿としての生徒像は、単に御託を並べ立てた無味乾燥な言葉や文章の羅列に過ぎなくなり、「心の教育・知性の教育・行動の教育」それぞれの教育目標は虚しいお題目か美辞麗句と化してしまい、学習者や教職員にとっても評価するにも大儀で何の意味も価値もないものに姿を変えてしまうのである。
このように、多くの時間と労力そして能力をかけて作成したカトリック学校のプロファイルが、悲惨な末路を辿らないため、そしてプロファイルが本来持っている目的を有機的に果たされていくためには、教育活動を主導する教職員とりわけ教師集団の一致協力が絶対必要条件としてあげらる。しかし、この教職員の一致協力体制というものは、一瞬にして形作られるものではなく、日頃からの教育活動における協力体制や教職員間の人間関係の構築等、それぞれの学校において積み上げられてきた組織としての力量である組織力が問われるのである。それは同時に教職員一人ひとりの「教育活動を通した福音宣教」と「それらをとおした福音共同体の完成」に対する理解度の深浅や熱意にかかっているとも言えるものである。
(5)プロファイル作成にあたり、全教職員がその作業に携わり意見交換がなされたか。
プロファイル作成にあたり、全教職員がその作業に携わり意見交換がなされるということは、プロファイル作りのみならずプロファイルを教職員全員で共有するため、そしてプロファイルをカトリック学校の教育活動の根幹としていくための最も重要な要件である。
人は、自ら労苦して作り上げたものには、深い愛情を覚えるし、よって自ずと大切にもする。どんなにすばらしく理屈の通った合点のいくものでも、他者から与えられ命じられて強制されるものに対しては、反発や疑問が湧き気乗りもしなければ、その運用や作業においても義務的になってしまうものである。それは、自分には関わりのないそして自分の意見が生かされていないものに対する低関与の反応というごく自然な態度である。つまり愛情や熱意が湧いてこないものには、人は一生懸命にはなれないものなのである。だから、プロファイル作りに全教職員がその作業に携わり意見交換をし共通理解を持つことは、プロファイルに全教職員の息を吹き込み、プロファイルを学校組織を動かすエネルギーに満ちた躍動する動体にすることになるのである。
その具体的な方法論としては、時間はかかるが「KJ法」や「ブレインストーム」または「バランススコアカード」などが考えられよう。いずれにしても、時間と労力を惜しまず、全教職員がプロファイルの作成に取り組み、何らかの形で教職員一人ひとりの意見が具体的に反映されていることが重要なことなのである。このプロファイルの作成過程こそが、それぞれのカトリック学校におけるプロファイルの位置づけの高低やプロファイル運用の成功・不成功を決定づけることになることは間違いない。
(6)プロファイルと教育基本法や学校教育法および指導要領との整合性や乖離・矛盾の問題を精査・解決したか。
カトリック学校における教育活動の障害の一つに、教育基本法および学校教育法の拘束力が上げられる。無論、日本社会において教育活動を実践する限りやむを得ない制約であろうが、カトリック学校における教育活動の最も特徴的な部分を表すプロファイルが、「教会のカテキズム」や「第二バチカン公会議各文書」、特にに「キリスト教的教育に関する宣言」および「バチカン教育聖省の教書」そして「中央協議会学校教育委員会」を原点に成り立っていることから、2006年の教育基本法の改正に伴う「日本カトリック司教協議会社会司教委員会による教育基本法改定への懸念についての教育に関する発表」に見られるように、国策としての教育制度や教育行政と聖書や教会のカテキズムとの間に不一致や乖離があるということは既知の事実である。とはいえ、日本のカトリック学校において教育基本法や学校教育法に代わる教育制度に関する独自かつ明確な自主的基本法や学校教育法がないばかりか、統一された教育行政機関があるかと問われれば、ないと言わざるを得ないのが現状でなのである。
よって、いくらカトリック学校の使命や独自性を教育目標として表すプロファイルを作成しても、教育基本法や学校教育法および指導要領との整合性を持たせざるを得ないという現実的制約があることから、プロファイル自体に日本国家が求める人物像や教育目標に矛盾が生じてくることになる。この問題を解決できないままにプロファイルを作成すると、プロファイル自体がお題目になり、運用においても形骸化してしまう結果を招いてしまう危険性を増すことになる。つまり、それは本来的にはカトリック学校のプロファイルの原点である聖書や教会のカテキズム自体とプロファイルそのものが、学校教育を規定する教育基本法や学校教育法および指導要領との対峙関係にあるために、そこにカトリック学校教育におけるジレンマが必然的に発生してしまい、現実的には学習指導要領に沿ったカリキュラムや教育目標が設定され、結果的にはプロファイルが宙に浮かざるを得ないということになるのだ。要は、現実的には少なくとも、プロファイルと教育基本法や学校教育法および指導要領の折衷案的融合を図る作業を必要とするのである。
(7)プロファイルを学習指導(カリキュラムやシラバス)や生徒指導そして進路指導など実質的な教育活動全般との関連性を持たせたか。
この点に関しては、前述のプロファイルと教育基本法や学校教育法および指導要領の折衷案的融合とは別に、プロファイルの作成段階からプロファイルのそれぞれの項目を明確な教育目標として学校教育全般の教育活動に具体的に関連づけ反映させていったのかということである。日常的教育活動に対して具体的関連づけのないプロファイルは、自ずと実践も、評価も、その結果をフィードバックすることも出来ない運用不可能な無用の長物になってしまう。しかし、プロファイルを教育活動の各指導に具体的に反映させるためには、前述したように、厳密に言うのならば例えば学習指導については、プロファイルをもとに独自の学習指導要領を作成しなければならないことになるが、それは現実的に言って極めて困難であるから、折衷案的融合を図る作業がどうしても必要となる。要は、その際にプロファイルをもとに各指導部門における指導目標なり実践項目がつくられ、教職員や学習者に提示され、日々の教育活動が実践されているのかが問題となるのである。至極当然のことではあるが、プロファイルが有機的に実質的に機能するためには、プロファイルを根幹に各学校のすべての教育活動が計画・実践・評価、そしてその結果が次なる教育活動にフィードバックされることである。
(8)プロファイルの具体的運用法と評価方法およびフィードバック(修正・調節)方法およびその過程を明確化したか。
プロファイルはその作成に膨大な時間と労力を要するため、作成しただけで満足してしまい、その他の運用方法や評価方法及びその結果をどのようにフィードバックするのかが疎かになりがちである。それは同時にプロファイルの持っている特徴の一つであって、作成・運用・評価・フィードバックという過程の中では、作成が最も容易であるからだが、得てして「何事も計画するに易く、行うに難し」であることからも分かるであろう。
プロファイルに基づいた教育活動の実践には、「キックオフ→教職員の共通理解と一致→作成→実践→評価→フィードバック」という一連の流れを綿密に計画し、学校運営責任者のぶれないリーダーシップのもとに、それぞれの段階と全体におけるマネジメントが確立していなければ現実のものにはならないのである。
(9)プロファイルがスキル教育やキャリア教育の手段として利用され、本来の目的が変容してしまっていないか。
プロファイルが、「学校が学習者に何を身に付けさせたのか。」を中心的な目的として運用されると、スキル教育やキャリア教育の手段や方法論として利用されることとなり、ひいては一般社会から高い学校評価を得て、学校経営の安泰や存続のためのアドバルーン(Commercial)に変容してしまう危険性がある。勿論、スキル教育やキャリア教育の必要性は認めるが、スキル教育やキャリア教育のためのプロファイルになってしまうと、プロファイル本来の目的からいって本末転倒になってしまい、プロファイルが目的ではなく手段となってしまうという点と、プロファイルが学習者の主体性を奪い学校教育全体を受動的なものにしてしまい、その結果スキル教育やキャリア教育の重要性を説きながらも、本来的なプロファイルの目的である学習者個々の「福音的自己実現」やアイデンティティの確立および人格の陶冶を疎外してしまう結果を招き、一人の人間としての自立性を欠いたモラトリアム人間をつくり出してしまう危険性があるのではないかとの危惧感を払拭できないのである。
(10)日常の教育活動、特にホームルーム運営の教育目標として実践的に活用されていたか。
学校教育の基本的原則は、学校集団という機能的集団の中で、個を育てることにあると言ってよい。私たち人間は、神と私との関わりである個としての実存と集団や他者との関わりである社会的存在としての自覚が常に求められている。この観点から学習者個人の自発的成長を最も期待できるのは、ホームルーム活動や部活動における生徒指導であると言ってよいだろう。よって、ホームルーム活動や部活動における教職員の教育的働きかけが、プロファイルに根ざしたものとなっていなければ、プロファイルが有機的に機能しているとは言い難い。幼児教育から中等教育に至るまで、学習者が最も密接な関わりを持つのは、担任や部活動の顧問である。よって、校長・教頭等の管理職をはじめ、学年主任や部活動を管轄する分掌責任者は、クラス担任や各部活動・委員会の顧問がプロファイルをもとに指導計画を立て、クラス経営や部活動・委員会活動の実践および評価、そして評価結果のフィードバックをすることができるよう指示・指導できる体制を整えていなければならない。
以上、カトリック学校の教育目標達成のためのプロファイルの実践的な活用法における留意点を列挙したが、おそらく多くのカトリック学校でプロファイルが作られ所有していることだろう。しかし、実質的にプロファイルが機能している学校と形骸化もしくは消滅してしまった学校との差異は、今まで述べた(1)〜(10)の要件を満たしているかいないかによっているのではないだろうか。
本来、カトリック学校にとってプロファイルは欠かせないものであったはずである。いや、それ以上に「第二バチカン公会議公文書」や「バチカン教育聖省教書」が重要なカトリック学校の指針として既に明示されていたのである。しかし、アジョルナメント(現代化・刷新)を標語に現代社会に開かれた「福音宣教」する教会の実現のため始められた第二バチカン公会議の本来的趣旨は、教会をはじめカトリック学校においてもいささか曲解もしくは歪曲されてしまったところがあったのではないだろうか。それは、「アジョルナメント(現代化・刷新)」は、それまでの古い教会の体制や伝統を打ち破り、現代に適応する開かれた「福音宣教」する教会づくりというものが、現代社会のさまざまな問題に「福音」を宣べ伝えるという本来的目的が、多様化し複雑化かつ不確実な現代社会の価値観に翻弄されて同化してしまい「福音宣教」という私たちの主イエス・キリストから与った最も重要な使命が十分に果たされなかったことにあったのではないかと考えるのである。
日本社会におけるカトリック学校は、「福音宣教」の聖地である。未だ「福音」を知らない子ども達(学習者)、そして様々な現代社会がもたらす問題を抱えながら、物質的・表面的には満たされているようには見えても、実は霊的(内面的)・精神的にはそれぞれが孤独で苦悩する現代の子ども達(学習者)。こんな社会の縮図である学校で、次代を担う子ども達・若者達(学習者)に「福音」を宣べ伝えずして、どうしてかトリック学校の使命を果たしていると言えようか。
カトリック学校におけるプロファイルには、そんなカトリック学校としての「教育活動を通した福音宣教」と「それらをとおした福音共同体の完成」および「教育的使命」というものが、込められているはずのものなのである。
もう一つ、ここでプロファイルそのもの自体が持っている問題を二つ指摘しておこう。その第一には、プロファイルは日常の教育活動の中で起きる様々な教育問題の防止策にはなり得ても、具体的な解決策にはなり得ないというものである。
これは、プロファイルが回避できない問題と言わざるを得ないであろう。何故ならば、いじめや不登校、あるいは学習者個々人が抱えている問題というものは、あくまでも学習者固有の個別のものであり、一般化することができない、否一般化してはいけないものであって、解決していくためにはケースバイケースの方法論を考え出していかなければならないという対処法が原則となるからである。教育活動の難しさは、その対象である学習者の固有性から、教育方法や教育問題解決のための定石という方法論がないことや過去のどの経験に基づいた方法論もそのままでは通用しないところである。確かに理論に根ざしていない方法論は危うい面があるが、様々な経験やデータから体系化・一般化された理論や方法論を、現実で起きている教育問題をそのまま当てはめること以上に、その問題を複雑かつ難解にし、当事者を危険に陥らせてしまうことはない。ある程度の経験を積んだ教師がよくはまってしまう落とし穴である。
よって、プロファイルの運用にあたってこのようなプロファイル自身が持っている限界や問題点を受け止め、学校教育活動における位置づけを明確にし、教職員全体がそれを共通理解として自覚することである。プロファイル自体は、カトリック学校の教育活動の根幹となる具体的教育目標であることには一寸の疑いの余地もないが、プロファイルは日々の教育活動の中で生じる様々な問題の解決手段や方法論ではないということを肝に銘じなければならない。
第二のプロファイルそのものが持っている問題は、プロファイルをスキル教育として扱う危険性である。確かにプロファイルは、それぞれの学校の教育目標に沿った徳目や学習能力そして行動力を身に付けてた18歳の姿そのものであろう。そして、このプロファイルに従って3年または6年の期間をとおして身に付けさせるべきスキルとして受け止められがちなところがある。しかし、高等教育機関においてもその傾向は顕著であるように、スキル教育やキャリア教育によって学生(学習者)にどのような能力を身に付けさせたか、あるいは中等教育においてはどのような進路結果(出口保証)を保証しているのかが、それぞれの学校評価に繋がるという切実な経営上の問題が絡んでいるために、本来的なプロファイルの趣旨に従った教育活動が歪められ、かつ学習者にとっては受動的で消極的な教育活動にさせられてしまっているという点である。特に、高等教育機関におけるスキル教育やキャリア教育の流行は、学生自体の主体性や自立性を奪いモラトリアム期のさらなる延長を助長している面があり、いつまでも自立できない若者をつくりだしてきたのだ。日本の初等教育から高等教育まで一貫して欠落もしくは希薄化している点は、学習者の個性の発掘および主体的自立性を育成(アイデンティティの確立)することである。これらの日本の教育問題のその根源には、学習者個々人の「福音的自己実現」の完成という視点に欠けた教育制度や教育現場における教育活動の実践そのものにあるのではないだろうか。そんな危険性や脆弱性がプロファイル自体にも内在してはいないかとの検証が必要に思うのである。
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