「裁いてはならない。そうすればあなた方も裁かれるであろう。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなたがたも罪に定められないであろう。ゆるしなさい。そうすればあなたがたもゆるされるであろう。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺さぶり、こぼれるほどますの量りをよくして、あなた方のふところに入れてくださるであろう。あなたがたが計るそのますで、あなたがたも量りかえされるからである。
(ルカ6:37〜38)

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カトリック教育 Catholic Education

『時のしるし』を見きわめ、主の道を歩もう。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
 
わたしたちもキリストにおいて一つの体であり、一人びとり互いにキリストの一部分なのです。わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜を持っているので、それが預言の賜であれば信仰に応じて預言をし、奉仕の賜であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです。
(ローマ12:5〜8)
 
カトリック教育とカトリック学校
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 25     「福音的人間観と福音的教育観」(「福音的自己実現とは何か」)4.カトリック学校の教育目標達成のためのプロファイルの実践的な活用法と問題点 2012年12月12日(水) 
3.カトリック学校の教育目標達成のためのプロファイルの実践的な活用法と問題点
 
 プロファイルの作成の背景には、第二バチカン公会議における「キリスト教的教育に関する宣言」があることは既知のことであるが、それはカトリック学校がカトリック学校の本旨やカトリック学校の使命を果たせないでいるとの反省からであったはずのものである。つまり、第二バチカン公会議の標語ともなった「アジョルナメント」、教会の現代化・刷新の具現化としての社会に開かれ福音宣教する教会の実現である。この趣旨に照らし合わせると、果たして現代のカトリック学校が「福音宣教」という使徒職を果たしていると言えるのだろうか。という疑問が当然投げかけられるわけであるが、実はそのような批判に対する反省と軌道修正という観点が、カトリック学校のプロファイル作りの原点であったとのことである。(福音宣教2012年12月号 特集 カトリック教育の未来像−第二バチカン公会議の実り 「教育改革のチャンスを活かせるか」上智学院理事長 高祖敏明氏 参照)
 
 しかし、その本来的なカトリック学校の使命を取り戻すために実施されたプロファイル作りがなぜ消えてしまったのか、そしてなぜ形骸化し実践的な活用がなされなくなってしまったのか、その原因と問題点について考察し、実践的なプロファイル作りと活用法についての基本原則を明らかにしてみたい。
 
 (1)プロファイル作りや運用についてのキックオフがあったか。
 
 どんなプロジェクトにも共通することであるが、新しいことを始めるということは、現体制を変えることである。一般的に人間にとって最も敬遠されることは変化であるという。何故ならば、変化には希望と同時にリスクも伴うので、誰にとってもハイリスク・ハイリターンの選択よりは、現状維持が無難に思えるからである。よって、新しいことを始めるためには、その目的を明らかにすると共に、メリットとデメリットを明確化することが重要である。そして、特にそのプロジェクトが個人や集団にもたらす効果的な実益を明示して、その実現のための教職員の意識改革と共通理解をすることが是が非でも欠かせないのである。
 
 このキックオフ無しに、学校組織にとってどんなに革新的で必要かつ実益をもたらすプロジェクトの実現を図ろうとしても、全体として失敗に終わるか上層部の自己満足もしくは、プロジェクトそのものを形骸化させ、やがては自然消滅することになってしまうであろう。
 
 特に、プロファイルはカトリック学校運営の根幹をなすものであるから、学校組織における教職員間の共通理解や意識改革および経営責任者の信仰に根ざした熱意と誠意ある教育理念および揺るぎないリーダーシップとマネジメント力が欠かせない。逆に、一般教職員の立場から捉えれば、それはいかに学校経営責任者が一般教職員から信頼され受容されているかということに他ならないであろう。
 
 カトリック学校のプロファイルとは、作成に当たっても運用に当たっても、福音共同体としての学校経営責任者をはじめとした管理職と一般教職員との間の、また一般教職員一人ひとりとの間の信頼関係と協力関係が根底になければ成功するようなものではない。そして、それらを前提としたキックオフこそが、カトリック学校におけるプロファイル作りや実践・運用の成功の鍵を握っていると言えるであろう。
 
 (2)第二バチカン公会議における「キリスト教的教育に関する宣言」についての学びや共通理解があったか。
 
 「(1)プロファイル作りや運用についてのキックオフがあったか。」における「学校組織における教職員間の共通理解や意識改革および経営責任者の信仰に根ざした熱意と誠意ある教育理念および揺るぎないリーダーシップとマネジメント力」の原点は「第二バチカン公会議文書におけるキリスト教的教育に関する宣言」の理解そのものである。何故ならば、カトリック学校のプロファイルとは、カトリック学校の原点回帰、つまりミッションスクールであるカトリック学校の使徒的使命というミッションそのものの再確認と具現化というカトリック学校の再福音化であるからである。よって、「第二バチカン公会議」の標語にも示されているように「教会のアジョルナメント(現代化・刷新)」という社会に開かれた福音宣教する教会の再構築の具体的精神を知った上で、「キリスト教的教育に関する宣言」をいかにそれぞれのカトリック学校の教育的使命や実情に合わせながら、プロファイルによって実現するのかが問われているのであるから、「教会のアジョルナメント(現代化・刷新)」の基本的精神や「キリスト教的教育に関する宣言」の内容および「カトリック教会のカテキズム」を含めた知識を学ばずに、プロファイルを作成したり実施するなどということは、あり得ないことであり、残念ながら「御言葉を聞くだけで行わない者のが皆、砂を土台として家を建てた愚かな人(マタイ7:24〜27)」であるのと等しいのであり、そうならないためにもプロファイルの土台である岩が、わたしたちの主・イエスキリストの御言葉であり、「教会のアジョルナメント(現代化・刷新)」の基本的精神や「キリスト教的教育に関する宣言」でなければならない。よって、プロファイル作りやその運用には、教職員全員が少なくとも日頃から聖書に慣れ親しんでいるとともに、御言葉の真の意味と「第二バチカン公会議における憲章や宣言」を学ぶことが重要な前提条件となろう。
 
 (3)プロファイル作りや運用にあたって、カトリック学校の使命や使徒職を果たすための管理職のリーダーシップとマネジメント力があったか。
 
 現代組織マネジメントは、学校と言わずどんな組織体にとっても困難を極めるものであると言ってよい。何故ならば、それはグローバル化やボーダレス化(Globalization)がもたらした負の要素としての国際経済や国際政治における干渉関係が、人間の予測を超えた結果を招いているからである。また、日本における私立学校の学校経営をひどく困難な状況にしている超少子高齢社会である。これらの要素が複雑に絡み合った状況で組織運営や組織経営をしていかなければならないということは、どんな有能な人物にとっても至難の業であることは確かな事実である。
 
 しかし、「プロファイル作りや運用にあたって、カトリック学校の使命や使徒職を果たすため」という明確で限定的な目的のための管理職のリーダーシップとマネジメント力となれば、かなり具体的な要件を示すことができよう。それは、先にも述べたようにプロファイルとはカトリック学校の教育活動の根幹をなし、道標となるものであるから、以下の事柄が挙げらる。
 
 @プロファイル作りにあたっての管理職のリーダーシップ
 
 1.全教職員にプロファイルの根幹がカトリック学校の使命、特に「教育活動を通しての福音宣教」を果たすための具体的教育目標であることを理解してもらっていること。
 
 2.プロファイルの根幹は、わたしたちの主イエス・キリストの御言葉と第二バチカン公会議文書(特に「現代世界憲章」と「キリスト教的な教育に関する宣言」)であるこ  とを理解してもらい、私たちカトリック学校の教職員は、それらの実現に向けて参与  するという使命を持っているという自覚を持ってもらっていること。
 3.管理職として、日常的に聖書の御言葉や第二バチカン公会議文書(特に「現代世界憲  章」と「キリスト教的な教育に関する宣言」)の学びの場を設け、自ら率先して指導・参加していること。
 
 Aプロファイル作りにあたっての管理職のマネジメント力
 1.作成にあたっての資料の収集と教職員に対する資料の提示(第二バチカン公会議文書(特に「現代世界憲章」と「キリスト教的な教育に関する宣言」、バチカン教育聖省  カトリック学校に関する一連の教書等)
 
 2.プロファイル作りのための学習会の企画・運営
 3.プロファイル作りにあたってのスケジュールや作成のための方法論および運用方法と評価方法の提示
 4.各分掌・学年・部署における運用方法と評価方法の提示とその指導
 
 5.運用状況および評価結果の管理と学習者とその保護者および教職員からの意見徴収とそのフィードバック。
 
 なお、現代組織におけるリーダーシップやマネジメント力の共通する重要なスタンスは、「人を動かすことではなく、人を生かすこと」である。そして、「上から目線ではなく、同じ目線もしくは下から目線」である。正に、これは私たちの主イエス・キリストのこの世での態度「人の子は、仕えられるためではなく、仕えるために来た。(マタイ20:28)」であり、私たちカトリック学校の奉職するすべての教職員が学び守るべき態度そのものである。本来いかなる組織にも賢明なリーダーが不可欠なのであって、独裁的で独善的なリーダーは不必要であるし、存在してはならない。特にカトリック学校のように「福音共同体」を目指す組織体にとっては、カリスマティックなリーダーがたとえ一時的には必要と思われるような時があっても、その選択は結果的には学校崩壊を招くことになるだろう。それは、歴史的に見ても人間社会に独裁的な強いリーダーの存在が、いかに人間の尊厳を疎外してきたかということや、人類の歴史が明らかに王や皇帝などの独裁政治から共和制そして民主制に変革・発展してきていることが、何よりも国家や組織のあり方の真実な姿を物語っていると言えるではないか。たとえ小さな学校組織であろうとも、もしも校長等の管理職がトップダウン方式の独善的な学校運営をするならば、その学校組織内部は支配と被支配そして抑圧する者とされる者とのグループ化がなされ、組織全体が不健全で発展性のない萎縮した状態になり、やがては崩壊を招くことになるであろう。
 
 カトリック学校におけるリーダーシップやマネジメントとは、現代アメリカ型グローバル経済における戦略的経営マネジメントの論理が通用しない「福音共同体」としての独自性があるのである。
 
 (4)プロファイルに基づいた「福音共同体」づりに対する全教職員の一致協力体制があったか。
 
 どのような組織にとっても、とりわけ機能的集団という同じ目標を共有し実現しようというとする組織にとっては、その共通した目的をいかに、そしてどのように共有するかということが、組織を一つにまとめるばかりではなく、構成員間の連帯を強め最大限の力を発揮する原動力となるかを決定づける。
 
 カトリック学校の場合の共有すべき目標とは明白である。それは、「教育活動を通した福音宣教」と「それらをとおした福音共同体の完成」というものであるから、それらを如何にして共有し合い、それらを目標として実現していくかということに専念すればよいのである。そのための具体的教育目標となるものがプロファイルである。
 
 しかし、学校組織内においてこのプロファイルの位置づけが曖昧であると、プロファイル自体が教職員および学習者にとっての共通の教育目標として共有できなくなるばかりか、むしろ煩雑で押しつけがましく面倒な無用の長物と化してしまうのである。
 
 カトリック学校の教育の根幹をなすべきプロファイルがこのように受け止められてしまった瞬間、プロファイルは形骸化する。紙面一杯に並べられた18歳の姿としての生徒像は、単に御託を並べ立てた無味乾燥な言葉や文章の羅列に過ぎなくなり、「心の教育・知性の教育・行動の教育」それぞれの教育目標は虚しいお題目か美辞麗句と化してしまい、学習者や教職員にとっても評価するにも大儀で何の意味も価値もないものに姿を変えてしまうのである。
 
 このように、多くの時間と労力そして能力をかけて作成したカトリック学校のプロファイルが、悲惨な末路を辿らないため、そしてプロファイルが本来持っている目的を有機的に果たされていくためには、教育活動を主導する教職員とりわけ教師集団の一致協力が絶対必要条件としてあげらる。しかし、この教職員の一致協力体制というものは、一瞬にして形作られるものではなく、日頃からの教育活動における協力体制や教職員間の人間関係の構築等、それぞれの学校において積み上げられてきた組織としての力量である組織力が問われるのである。それは同時に教職員一人ひとりの「教育活動を通した福音宣教」と「それらをとおした福音共同体の完成」に対する理解度の深浅や熱意にかかっているとも言えるものである。
 
 (5)プロファイル作成にあたり、全教職員がその作業に携わり意見交換がなされたか。
 
 プロファイル作成にあたり、全教職員がその作業に携わり意見交換がなされるということは、プロファイル作りのみならずプロファイルを教職員全員で共有するため、そしてプロファイルをカトリック学校の教育活動の根幹としていくための最も重要な要件である。
 
 人は、自ら労苦して作り上げたものには、深い愛情を覚えるし、よって自ずと大切にもする。どんなにすばらしく理屈の通った合点のいくものでも、他者から与えられ命じられて強制されるものに対しては、反発や疑問が湧き気乗りもしなければ、その運用や作業においても義務的になってしまうものである。それは、自分には関わりのないそして自分の意見が生かされていないものに対する低関与の反応というごく自然な態度である。つまり愛情や熱意が湧いてこないものには、人は一生懸命にはなれないものなのである。だから、プロファイル作りに全教職員がその作業に携わり意見交換をし共通理解を持つことは、プロファイルに全教職員の息を吹き込み、プロファイルを学校組織を動かすエネルギーに満ちた躍動する動体にすることになるのである。
 
 その具体的な方法論としては、時間はかかるが「KJ法」や「ブレインストーム」または「バランススコアカード」などが考えられよう。いずれにしても、時間と労力を惜しまず、全教職員がプロファイルの作成に取り組み、何らかの形で教職員一人ひとりの意見が具体的に反映されていることが重要なことなのである。このプロファイルの作成過程こそが、それぞれのカトリック学校におけるプロファイルの位置づけの高低やプロファイル運用の成功・不成功を決定づけることになることは間違いない。
 
 (6)プロファイルと教育基本法や学校教育法および指導要領との整合性や乖離・矛盾の問題を精査・解決したか。
 
 カトリック学校における教育活動の障害の一つに、教育基本法および学校教育法の拘束力が上げられる。無論、日本社会において教育活動を実践する限りやむを得ない制約であろうが、カトリック学校における教育活動の最も特徴的な部分を表すプロファイルが、「教会のカテキズム」や「第二バチカン公会議各文書」、特にに「キリスト教的教育に関する宣言」および「バチカン教育聖省の教書」そして「中央協議会学校教育委員会」を原点に成り立っていることから、2006年の教育基本法の改正に伴う「日本カトリック司教協議会社会司教委員会による教育基本法改定への懸念についての教育に関する発表」に見られるように、国策としての教育制度や教育行政と聖書や教会のカテキズムとの間に不一致や乖離があるということは既知の事実である。とはいえ、日本のカトリック学校において教育基本法や学校教育法に代わる教育制度に関する独自かつ明確な自主的基本法や学校教育法がないばかりか、統一された教育行政機関があるかと問われれば、ないと言わざるを得ないのが現状でなのである。
 
 よって、いくらカトリック学校の使命や独自性を教育目標として表すプロファイルを作成しても、教育基本法や学校教育法および指導要領との整合性を持たせざるを得ないという現実的制約があることから、プロファイル自体に日本国家が求める人物像や教育目標に矛盾が生じてくることになる。この問題を解決できないままにプロファイルを作成すると、プロファイル自体がお題目になり、運用においても形骸化してしまう結果を招いてしまう危険性を増すことになる。つまり、それは本来的にはカトリック学校のプロファイルの原点である聖書や教会のカテキズム自体とプロファイルそのものが、学校教育を規定する教育基本法や学校教育法および指導要領との対峙関係にあるために、そこにカトリック学校教育におけるジレンマが必然的に発生してしまい、現実的には学習指導要領に沿ったカリキュラムや教育目標が設定され、結果的にはプロファイルが宙に浮かざるを得ないということになるのだ。要は、現実的には少なくとも、プロファイルと教育基本法や学校教育法および指導要領の折衷案的融合を図る作業を必要とするのである。
 
 (7)プロファイルを学習指導(カリキュラムやシラバス)や生徒指導そして進路指導など実質的な教育活動全般との関連性を持たせたか。
 
 この点に関しては、前述のプロファイルと教育基本法や学校教育法および指導要領の折衷案的融合とは別に、プロファイルの作成段階からプロファイルのそれぞれの項目を明確な教育目標として学校教育全般の教育活動に具体的に関連づけ反映させていったのかということである。日常的教育活動に対して具体的関連づけのないプロファイルは、自ずと実践も、評価も、その結果をフィードバックすることも出来ない運用不可能な無用の長物になってしまう。しかし、プロファイルを教育活動の各指導に具体的に反映させるためには、前述したように、厳密に言うのならば例えば学習指導については、プロファイルをもとに独自の学習指導要領を作成しなければならないことになるが、それは現実的に言って極めて困難であるから、折衷案的融合を図る作業がどうしても必要となる。要は、その際にプロファイルをもとに各指導部門における指導目標なり実践項目がつくられ、教職員や学習者に提示され、日々の教育活動が実践されているのかが問題となるのである。至極当然のことではあるが、プロファイルが有機的に実質的に機能するためには、プロファイルを根幹に各学校のすべての教育活動が計画・実践・評価、そしてその結果が次なる教育活動にフィードバックされることである。
 
 (8)プロファイルの具体的運用法と評価方法およびフィードバック(修正・調節)方法およびその過程を明確化したか。
 
 プロファイルはその作成に膨大な時間と労力を要するため、作成しただけで満足してしまい、その他の運用方法や評価方法及びその結果をどのようにフィードバックするのかが疎かになりがちである。それは同時にプロファイルの持っている特徴の一つであって、作成・運用・評価・フィードバックという過程の中では、作成が最も容易であるからだが、得てして「何事も計画するに易く、行うに難し」であることからも分かるであろう。
 
 プロファイルに基づいた教育活動の実践には、「キックオフ→教職員の共通理解と一致→作成→実践→評価→フィードバック」という一連の流れを綿密に計画し、学校運営責任者のぶれないリーダーシップのもとに、それぞれの段階と全体におけるマネジメントが確立していなければ現実のものにはならないのである。
 
 (9)プロファイルがスキル教育やキャリア教育の手段として利用され、本来の目的が変容してしまっていないか。
 
 プロファイルが、「学校が学習者に何を身に付けさせたのか。」を中心的な目的として運用されると、スキル教育やキャリア教育の手段や方法論として利用されることとなり、ひいては一般社会から高い学校評価を得て、学校経営の安泰や存続のためのアドバルーン(Commercial)に変容してしまう危険性がある。勿論、スキル教育やキャリア教育の必要性は認めるが、スキル教育やキャリア教育のためのプロファイルになってしまうと、プロファイル本来の目的からいって本末転倒になってしまい、プロファイルが目的ではなく手段となってしまうという点と、プロファイルが学習者の主体性を奪い学校教育全体を受動的なものにしてしまい、その結果スキル教育やキャリア教育の重要性を説きながらも、本来的なプロファイルの目的である学習者個々の「福音的自己実現」やアイデンティティの確立および人格の陶冶を疎外してしまう結果を招き、一人の人間としての自立性を欠いたモラトリアム人間をつくり出してしまう危険性があるのではないかとの危惧感を払拭できないのである。
 
 (10)日常の教育活動、特にホームルーム運営の教育目標として実践的に活用されていたか。
 
 学校教育の基本的原則は、学校集団という機能的集団の中で、個を育てることにあると言ってよい。私たち人間は、神と私との関わりである個としての実存と集団や他者との関わりである社会的存在としての自覚が常に求められている。この観点から学習者個人の自発的成長を最も期待できるのは、ホームルーム活動や部活動における生徒指導であると言ってよいだろう。よって、ホームルーム活動や部活動における教職員の教育的働きかけが、プロファイルに根ざしたものとなっていなければ、プロファイルが有機的に機能しているとは言い難い。幼児教育から中等教育に至るまで、学習者が最も密接な関わりを持つのは、担任や部活動の顧問である。よって、校長・教頭等の管理職をはじめ、学年主任や部活動を管轄する分掌責任者は、クラス担任や各部活動・委員会の顧問がプロファイルをもとに指導計画を立て、クラス経営や部活動・委員会活動の実践および評価、そして評価結果のフィードバックをすることができるよう指示・指導できる体制を整えていなければならない。
 
 以上、カトリック学校の教育目標達成のためのプロファイルの実践的な活用法における留意点を列挙したが、おそらく多くのカトリック学校でプロファイルが作られ所有していることだろう。しかし、実質的にプロファイルが機能している学校と形骸化もしくは消滅してしまった学校との差異は、今まで述べた(1)〜(10)の要件を満たしているかいないかによっているのではないだろうか。
 
 本来、カトリック学校にとってプロファイルは欠かせないものであったはずである。いや、それ以上に「第二バチカン公会議公文書」や「バチカン教育聖省教書」が重要なカトリック学校の指針として既に明示されていたのである。しかし、アジョルナメント(現代化・刷新)を標語に現代社会に開かれた「福音宣教」する教会の実現のため始められた第二バチカン公会議の本来的趣旨は、教会をはじめカトリック学校においてもいささか曲解もしくは歪曲されてしまったところがあったのではないだろうか。それは、「アジョルナメント(現代化・刷新)」は、それまでの古い教会の体制や伝統を打ち破り、現代に適応する開かれた「福音宣教」する教会づくりというものが、現代社会のさまざまな問題に「福音」を宣べ伝えるという本来的目的が、多様化し複雑化かつ不確実な現代社会の価値観に翻弄されて同化してしまい「福音宣教」という私たちの主イエス・キリストから与った最も重要な使命が十分に果たされなかったことにあったのではないかと考えるのである。
 
 日本社会におけるカトリック学校は、「福音宣教」の聖地である。未だ「福音」を知らない子ども達(学習者)、そして様々な現代社会がもたらす問題を抱えながら、物質的・表面的には満たされているようには見えても、実は霊的(内面的)・精神的にはそれぞれが孤独で苦悩する現代の子ども達(学習者)。こんな社会の縮図である学校で、次代を担う子ども達・若者達(学習者)に「福音」を宣べ伝えずして、どうしてかトリック学校の使命を果たしていると言えようか。
 
 カトリック学校におけるプロファイルには、そんなカトリック学校としての「教育活動を通した福音宣教」と「それらをとおした福音共同体の完成」および「教育的使命」というものが、込められているはずのものなのである。
 もう一つ、ここでプロファイルそのもの自体が持っている問題を二つ指摘しておこう。その第一には、プロファイルは日常の教育活動の中で起きる様々な教育問題の防止策にはなり得ても、具体的な解決策にはなり得ないというものである。
 これは、プロファイルが回避できない問題と言わざるを得ないであろう。何故ならば、いじめや不登校、あるいは学習者個々人が抱えている問題というものは、あくまでも学習者固有の個別のものであり、一般化することができない、否一般化してはいけないものであって、解決していくためにはケースバイケースの方法論を考え出していかなければならないという対処法が原則となるからである。教育活動の難しさは、その対象である学習者の固有性から、教育方法や教育問題解決のための定石という方法論がないことや過去のどの経験に基づいた方法論もそのままでは通用しないところである。確かに理論に根ざしていない方法論は危うい面があるが、様々な経験やデータから体系化・一般化された理論や方法論を、現実で起きている教育問題をそのまま当てはめること以上に、その問題を複雑かつ難解にし、当事者を危険に陥らせてしまうことはない。ある程度の経験を積んだ教師がよくはまってしまう落とし穴である。
 
 よって、プロファイルの運用にあたってこのようなプロファイル自身が持っている限界や問題点を受け止め、学校教育活動における位置づけを明確にし、教職員全体がそれを共通理解として自覚することである。プロファイル自体は、カトリック学校の教育活動の根幹となる具体的教育目標であることには一寸の疑いの余地もないが、プロファイルは日々の教育活動の中で生じる様々な問題の解決手段や方法論ではないということを肝に銘じなければならない。
 
 第二のプロファイルそのものが持っている問題は、プロファイルをスキル教育として扱う危険性である。確かにプロファイルは、それぞれの学校の教育目標に沿った徳目や学習能力そして行動力を身に付けてた18歳の姿そのものであろう。そして、このプロファイルに従って3年または6年の期間をとおして身に付けさせるべきスキルとして受け止められがちなところがある。しかし、高等教育機関においてもその傾向は顕著であるように、スキル教育やキャリア教育によって学生(学習者)にどのような能力を身に付けさせたか、あるいは中等教育においてはどのような進路結果(出口保証)を保証しているのかが、それぞれの学校評価に繋がるという切実な経営上の問題が絡んでいるために、本来的なプロファイルの趣旨に従った教育活動が歪められ、かつ学習者にとっては受動的で消極的な教育活動にさせられてしまっているという点である。特に、高等教育機関におけるスキル教育やキャリア教育の流行は、学生自体の主体性や自立性を奪いモラトリアム期のさらなる延長を助長している面があり、いつまでも自立できない若者をつくりだしてきたのだ。日本の初等教育から高等教育まで一貫して欠落もしくは希薄化している点は、学習者の個性の発掘および主体的自立性を育成(アイデンティティの確立)することである。これらの日本の教育問題のその根源には、学習者個々人の「福音的自己実現」の完成という視点に欠けた教育制度や教育現場における教育活動の実践そのものにあるのではないだろうか。そんな危険性や脆弱性がプロファイル自体にも内在してはいないかとの検証が必要に思うのである。
 
 
 26     「カトリック学校が崩壊するとき」1.崩壊の第一段階 2010年12月7日(火) 
1.崩壊の第一段階
 
 日本のカトリック学校が危ない。少子化現象の波に呑み込まれ、私立学校の経営が行き詰まっている今日、カトリック学校もその例外ではない。今後、日本のカトリック学校、特に人口が少なく学校規模の小さな地方のカトリック学校は、このままでは経営困難に陥るか、カトリック学校としての本来的役割を果たすことができなくなっていくだろう。では、なぜカトリック学校は崩壊に向かっているのだろうか、その原因を崩壊を避けるための方法とともに探ってみる。
 
 まず、カトリック学校は、次のような段階を経て崩壊していく。
 
 カトリック学校崩壊の第一段階は、学校教育に関わる聖職者・修道者の減少、特に園長・校長・並びに学長たる学校責任者が、それぞれの設立母体である宣教師会や教区および修道会の一員である司祭や修道者でなくなることに始まる。この現象の要因は二つに分類できるが、その一つは危機的な学校経営に迫られ、学校の存続という経営判断から、経営マネジメント力や社会的な人脈のある人物を、学校の責任者に登用するというものである。二つ目には、それぞれの学校の設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭や修道者が高齢化したか減少したために、そのメンバーの中から適任者を学校責任者として送り出すことができなくなったかである。
 
 いずれにせよ、学校の責任者が聖職者や修道者でなくなり、公立学校の校長歴任者や経営コンサルタント等の社会人出身の一般人に代わることは、カトリック学校のアイデンティティを著しく揺らがすことになっている事実は否めない。無論、このことは公立学校の長の歴任者(園長・校長・学長)や経営コンサルタント出身の未信徒である一般人が、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧の実践が可能であるとい条件下では、カトリック学校の責任者になることを全否定するか、全く相応しくないとするものではない。というのは、学校責任者が聖職者や修道者でない場合でも、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧の実践が可能な環境づくりがなされていれば問題がないわけなのだが、そういった場合の学校の責任者は相当の覚悟が求められるであろう。それもそのはず、聖職者や修道者という者は、それ相応の神学を修め、修行を重ねて司祭叙階や終生誓願を立てて教育現場にいるのであるから、宣教司牧に対する熱意やそれに懸ける気概は、一般人と一線を画するのは当然のことである。
 
 よって、カトリック学校の責任者が聖職者や修道者でない一般人である場合は、福音的人間観をもとにしたキリスト教的全人教育をできる限りよく学び、学校経営の全般にわたって特に学習者に直接関わる教育現場や経営判断の場面において、福音的教育活動の実践を具現化していけるようにしなければならない。また、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧に関しては、日々の教育現場で実戦可能な人材の登用や組織を構築できるよう、緻密な組織マネジメントを可能にしていくことが求められるのである。
 
 人は他者に対して、持っているもの、身につけているもの、所有しているもの以外に、何ものをも与えることも提示することさえもできない。信仰や宗教心がなくましてやイエス・キリストの福音を知らない人間が、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧を、自ら実践することは到底できまい。よって、自分自身ができないのであれば、その自覚のもと宣教司牧のできる者に依り頼めばいいのである。それが、公立学校の校長歴任者や経営コンサルタント等の社会人出身の一般人が、イエス・キリストの福音を受け入れることなく、(カトリックの洗礼を受けることがないという意味において)カトリック学校の本来的使命である宣教司牧の実戦を可能にする唯一の方法である。
 
 もし、公立学校の校長歴任者や経営コンサルタント等の社会人出身の一般人が、以上の方法を取らないのであれば、その責任者は自分に与えられた地位と権力とで、自らの教育観や経営判断で独善的な学校経営をすることに陥いり、そのことがやがてはカトリック学校の本来的使命である宣教司牧の実践を忘れさせて、カトリック学校としてのアイデンティティを喪失させる事態を招くこになるであろう。
 
 このように、カトリック学校が崩壊する第一段階は、学校教育に携わる宣教司牧の実戦可能な聖職者や修道者および信徒の減少が発端となって、やがてその学校の責任者が、それぞれの設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭・修道者でなくなり、裁量権を持つ管理職や学校教育活動の要である教務主任などが、カトリック学校の本来的使命を理解しない者に取って代わっていくことに始まるのである。
 
 27     「カトリック学校が崩壊するとき」2.崩壊の第二段階 2010年12月7日(火) 
2.カトリック学校崩壊の第二段階
 
 カトリック学校崩壊の第二段階は、学校法人組織の最上部である理事会の構成や理事会の決定事項が、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧(福音宣教と司牧)の実現を目的としなくなることにある。
 
 まず理事会の構成が、どのような立場の人によって組織されているかである。ここにおいても、理事会の最高責任者である理事長が、それぞれの学校の設立母体である宣教師会や教区および修道会の一員である司祭や修道者であることが、カトリック学校の本来的使命を果たす上での要となる。また、その他の理事は、学校責任者である園長・校長・学長、学校組織が所属する教区の長である司教、所属する小教区の主任司祭、信徒会長、設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭・修道者の院長、カトリック信徒の教育関係者、PTA会長、後援会会長、その他公益代表として学校が所属する地域社会の代表者である町会長やカトリック信徒の有識者などの人々によって構成されていることが望ましい在り方である。特に、カトリック学校の本来的使命を果たすためには、カトリック教会に所属する理事を一定以上集めることが必須であることは言うまでもない。
 
 次に理事会の決定についてであるが、決定権に関しては理事会の三分の二もしくは過半数以上の賛成によって議決されるよう、理事会の構成員を選任していかなければならない。このことにおいても前述したように、カトリック学校の本来的使命を果たすために、カトリック信徒である理事を一定以上集めることが必要である。
 
 しかし、ここで気をつけなければならないのは、理事会の構成員が設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭・修道者で占められていても、必ずしもカトリック学校の本来的使命を果たすことを目的とした決定を下すことができない場合や理事会と実際の学校現場のつながりや関わりが希薄で、理事会の決定と教育現場の現状が乖離しているという場合もあるというケースである。いかに理事会の構成員が相応しい人材で組織されていても、理事の一人ひとりが実際の教育現場を視察し、どのような施策や決定、人材の登用・採用が必要なのかを見極めていなければ、機能しないということに陥ってしまう。
 
 特に、学校経営責任者等の管理職の採用決定にいたっては、その決定を誤ると学校経営の破綻につながる取り返しのつかない結果を招くことになる。そこで、理事会は学校経営責任者等の管理職の決定に当たっては、カトリック学校の本来的使命である福音宣教を実践できる人物を選任できるよう、慎重な議論と決定を下さなければならない。この件に関しては、それぞれのカトリック学校が所属する教区長の承認が必要である等、カトリック学校もカトリック教会に所属する組織として明確な位置づけとして組み込むことが、今後のカトリック学校がカトリック学校としての存在意義を継続させる鍵となるであろう。カトリック学校がカトリック教会の一翼であり、その本来的使命が教育活動を通しての宣教司牧であるのならば、教区長である司教は、現代のカトリック学校の現状を直視し、そこで働くカトリック信徒の苦悩を直に受け取り、キリストがしたように共に歩む導き手としてて関わって欲しいのである。
 
 カトリック学校にとって、理事長や理事会の決定はあまりにもといって良いほど絶大である。その決定によっては、学校経営そのものを左右し、そこで働く教職員の人物評価と時にはその人の人生の行く末にまでも及ぶほどの影響力を持つ。だから、理事会の構成や議論とその決定のすべてが、聖霊によって福音に満ちあふれたものであって欲しいのである。そうでなければ、現代のカトリック学校で信仰に従って奉職する数少ない弱者となった聖職者や修道者そして信徒は居たたまれない。
 
 以上、カトリック学校崩壊の第二段階は、学校法人組織の最上部である理事会の構成や理事会の決定が、イエス・キリストの福音に従い、福音を述べ伝えることをその使命とするという「カトリック学校宣言」をしなくなることに始まる。その結果、具体的な現象として学校経営責任者等の裁量権を持つ管理職が、それぞれの設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭・修道者またはカトリック信徒でもなくなる期間が、三年単位もしくは五年単位で継続することに始まり、やがては学校経営の中枢からカトリック信徒が排除されていき、学校組織として宣教司牧を実践していくことが不可能になっていくのである。
 
 28     「カトリック学校が崩壊するとき」3.崩壊の第三段階 2010年12月10日(金) 
3.崩壊の第三段階
 
カトリック学校崩壊の第三段階は、次の三つに分類できる。
 
 その一つは、学校経営全体に裁量権を持つ学校法人理事長や園長・校長・学長等の直接的な学校経営責任者と、教頭職等の一部の裁量権を持つ管理職および部長・主任職等に当たる中間管理職を担っている人々が、カトリック学校としての学校マネジメント力や組織をまとめる統率力を失うか希薄化することによって、学校組織全体が脆弱化していくことにある。勿論、そのような実力や経験・実績を持たない者が、そのような重職を担うことは論外のことである。
 
 その二つには、教職員に対するカトリック教育研修の不徹底によって、教職員の教育観が多様化し、カトリック学校の固有かつ統一的で一貫した福音的全人教育による教育の実践が不可能になることである。
 
 そもそも人間観や教育観などというものは、百人百通り、千差万別、捨てるほどあると言っても過言ではない。それもそのはず、人間というものは根源的にそれだけ多様で個性的で不統一な存在であると言っていいものなのだ。しかし、だからこそ学校組織という教育機関である集団には、統一的で一貫した教育理念や教育目標というものが必要なのであって、これなくしては機能的集団としての学校教育機関は成り立たなくなる。ただし断っておくが、学校教育組織に統一的で一貫した教育理念ないし教育目標が必要であることと、学習者個人を画一的で偏重した価値観や観念および人間観で縛り上げるというようなことではなく、むしろ多様で個性的な人間そのものが、どのような生き方を選択していけばよいのかという判断力と生きる力を身につけ、各人が神から与えられた命と使命を果たすために、それぞれに人生を生き抜くことができるようにすることが、教育の本来的目的であるはずである。カトリック学校とは、そのような教育をイエス・キリストの福音を原初に実践していく福音的共同体なのである。
 
 よって、カトリック学校に奉職する教職員は、このことをよく踏まえた上で、校内研修を始め、教区やカトリック学校連盟等の全国組織が実施するカトリック教育研修会に参加し、カトリック学校という福音的共同体の一員として、カトリック学校の固有かつ統一的で一貫した福音的全人教育の実践ができるように研鑽を積んで行かなければならない。
 
 しかし、学校経営全体に裁量権を持つ学校法人理事長や園長・校長・学長等の直接的な学校経営責任者と、教頭職等の一部の裁量権を持つ管理職および部長・主任職等に当たる中間管理職を担っている人々が、カトリック学校としての学校マネジメント力や組織をまとめる統率力を失い、またカトリック教育研修の不徹底によって教職員の教育観が多様化し混乱すると、カトリック学校としての固有かつ統一的で一貫した福音的全人教育による教育の実践が不可能になる段階に入る。そうなると、学校組織はカトリック学校としての存続以前の状況に陥り、末期的段階に入る。できれば、このような状況下に入る以前に、有効かつ実質的な対策を講じて、何とかしてこの段階に入ってしまうことを阻止しなければならなのだが、残念ながらこの段階にまで来ると、その組織自体には自助作用や自浄作用が働かなくなっているため、教職員の勤労意欲とともに急速に組織力が減退し、カトリック学校は崩壊に向けて衰退の一途を加速度を増して墜ちていくことになる。
 
 カトリック学校が崩壊する時の最終段階の三つには、学習者である園児・児童・生徒および学生に関わる教員の教師力が低下し、カトリック学校から福音を述べ伝える聖職者や修道者そしてカトリック信徒の教師が消滅してしまうことにある。
 
 たとえカトリック学校が福音的共同体として、あるいは学校組織全体として一貫した宣教司牧の実践をすることが不可能になってしまったとしても、学校組織に関わる教職員の中に、福音宣教の実戦が可能な聖職者や修道者もしくはカトリック信徒が、たった一人でも残って居れば、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧を行う可能性を、ほんの僅かとはいえゼロではないという極めて稀少な範囲で幾ばくかの希望が残っている。
 
 しかし、現実問題としては、たった一人でもなどとは豪語できない。なぜならば、私たちの主イエス・キリストは神の子であったにもかかわらず、(いや、むしろ人としてお生まれになったからこそ、そうであったに違いないが)神の福音を述べ伝えるために、12人の弟子たちを必要としたではないか。人、一人の力は小さく、限りあるものであることは、疑いようのない真実である。集団組織において、数の論理は当然のごとく働く。そして、その集団は数という力に、大いに振り回され翻弄されざるを得ない。少数派は、どんなに真実を語ろうが、多数派によって圧迫と迫害を受ける。その圧迫と迫害は、少数派が多数派に追い着き追い越し、数の均衡がとれるまで続くことになるだろう。組織における力の論理とは、全くそのようなものだ。たった独りになってしまったイエス・キリストの福音の語部に、一体何ができるというのであろうか。組織というからくりの仕組みの中では、その孤独な語り部の福音は、戯言としてかき消され、闇に葬られてしまうしかないのである。そこには、微かな希望を抱きつつ、聖霊の働きによる奇蹟を待ち望むしかない。福音を述べ伝えることができなくなったカトリック学校の復活はあるのだろうか。
 
 29     「カトリック学校が崩壊するとき」4.カトリック学校崩壊の要因とその対策のまとめ(1) 2010年12月24日(金) 
4.「カトリック学校崩壊」の要因とその対策のまとめ
(1)崩壊の第一段階の要因とその対策
 カトリック学校が崩壊する第一段階の要因は、先に述べたように以下の通りである。
 @学校教育に関わる聖職者・修道者および信徒の教員の減少
 A学校長・教頭職の一般人化(聖職者・修道者もしくは信徒でもない管理職者)
 
 この崩壊の第一段階を防ぐことは、崩壊の過程としては初期段階であるにも関わらず実は一番困難で地道な活動を要する。「@学校教育に関わる聖職者・修道者および信徒の教員の減少」の具体的な解決方法の第一は、司祭の召命養成や修道会員の養成である。今の時代にあって、誠に気の遠くなる非現実的なことのように思われるが、実は現代の教会にとって最も重要課題であるとともに、教会から派遣されたカトリック学校にも通じる課題である。司祭召命養成や修道者の養成は、教会が声を大にして福音を述べ伝える福音共同体となること以外にはないのである。
 
 また、「@学校教育に関わる聖職者・修道者および信徒の教員の減少」の具体的な解決方法の第二は、教会共同体ないにおける次世代への信仰教育である。私たち大人の信徒がそうであったように、次代を担う幼児・児童および青年たちを信仰によって徹底して育て、福音を次世代に継承していくことである。そうやって教会共同体が、福音を述べ伝える福音共同体として成長していれば、必ずやそこから司祭や修道者の養成につながる動きが聖霊の導きによって生まれてくるはずである。そして、その中から教育活動に召される司祭や修道者が誕生するはずであるし、次世代を育てる教会学校や中学生会、高校生会や青年会などの活動らも司祭召命や修道者の養成につながる動きは生まれてくるし、カトリック学校の教員を目指す学生も出てくるのである。
 
 そして、カトリック学校の使命は、一般の教育機関の教育目的だけに留まらず、その最終的な使命は、教育活動をとおして福音を述べ伝えるということにあるのだから、カトリック学校の教員養成については、カトリックの大学にカトリック学校専門の教員養成課程である教育学部か大学院を設置し、幼稚園から高等学校までのカトリック学校専門の教員を養成して、福音を述べ伝えることができる信徒の教員を育成するための高等教育機関を早期のうちに設立すべきである。特にカトリック信徒のカトリック学校教員養成は、急務である。
 
 以上、このような地道な教会共同体の本来的で最も重要な使命である福音を共同体内外に宣べ伝えるという活動こそが、この崩壊の第一段階を根源的かつ確実に解決する唯一の方法である。
 
 次に、崩壊の第一段階の「A学校長・教頭職の一般人化(聖職者・修道者もしくは信徒でもない管理職者)」の具体的な解決方法は、未信徒であるこれらの学校長・教頭職等の管理職の人々に対して、まずは、福音を述べ伝えることである。あとは、主イエス・キリストがおっしゃるとおり、「聞く耳のあるものは聞きなさい。」に付き従うか従わないかの二者択一の結果以外にはなり得ない。そこで、それらの人々が福音を受け容れるならば、その学校はカトリック学校の本来的使命を果たすための道を歩むことになるだろうし、福音を受け容れないのであればその学校は茨の道を歩み、やがてはカトリック学校としての存続は不可能になり、その使命を終えることとなる。
 
 では、学長・校長・園長等の学校経営に裁量権を持つ管理職が、最低限カトリック信徒でなければカトリック学校としての存続は不可能なのかというと、その可能性は全くゼロとは断言できないだろう。しかし、現実問題として全国の様々なカトリック学校で実際に未信徒の学校経営者が長く勤めて成功しているケースは、残念ながら少ないのではないだろうか。福音を述べ伝えるということが、カトリック学校の使命である以上、福音を受け容れ福音に突き動かされた者以外に、福音を述べ伝えることはできない。しかし、若干の可能性としては、学長・校長・園長等の学校経営に裁量権を持つ管理職が信徒でなくても、日々の学校教育活動の中でそれぞれの学校が所属する教区や小教区とのつながりを強く持ち、教区長である司教や小教区の主任司祭の指導を受け、宗教教育や宗教行事をとおして福音を学習者に伝える機会を十分に設けることで何とか果たせるかも知れない。
 
 しかし、いずれにせよそのような宗教教育や宗教行事を中心に、全ての教育活動をとおしてキリストの福音を学習者に伝えようと判断を下すのは学校経営責任者であるから、福音を述べ伝えることがカトリック学校の最大の使命であるとの認識がなければ、当然できないことであることは言うまでもない。学校教育機関という組織として、カトリック学校の使命を果たそうとするならば、どうしても学校経営責任者の判断に委ねざるを得ないので、理事会の決定もさることながら、現実問題として直接的な学校経営責任者である学長・校長・園長等の学校経営責任者が、カトリック学校の使命が福音を述べ伝えることであるとの認識がない場合は、非常に困難を極めることとなる。
 
 ともあれ、カトリック学校の経営に責任を持つ方々がカトリック信徒でない場合、その学校機関に関わる教区の司教や小教区の司祭または信徒が、それらの人々にカトリック学校の使命を果たせるように福音を語り続けることが必要である。カトリック学校の崩壊の第一段階である「学校教育に関わる聖職者・修道者および信徒の教員の減少および学校長・教頭職の一般人化(聖職者・修道者もしくは信徒でもない管理職者)」の対策は、崩壊の過程としては初期段階であるにも関わらず実は一番困難で地道な活動を要すると文頭に述べたが、それはその学校機関に関わる教区の司教や小教区の司祭または信徒が、それらの人々にカトリック学校の使命を果たせるように福音を語り続けることと、教会共同体ないにおける次世代への信仰教育の徹底によって福音を次世代に継承し、教会共同体が、福音を述べ伝える福音共同体として成長していという誠に地道でありながらも、教会共同大意と信徒の使命を果たしていくということが、確実で唯一の方法であると断言できる。
 
 30     「カトリック学校が崩壊するとき」4.カトリック学校崩壊の要因とその対策のまとめ(2) 2010年12月25日(土) 
(2)第二段階の要因とその対策
 カトリック学校が崩壊する第二段階の要因は、先の述べたように以下の通りである。
 @カトリック学校の本来的目的を果たすための学校法人における理事会の機能喪失。
 Aカトリック学校が所属する教区および小教区との連携の希薄化または欠如。
 
 カトリック学校崩壊の第二段階は、学校法人組織の最上部である理事会の構成や理事会の決定事項が、カトリック学校の本来的使命である宣教司牧(福音宣教と司牧)の実現を目的としなくなることにあるが、この対策としては次のようなことが必要であろう。
 
 まず、理事会の構成であるが、理事会の最高責任者である理事長は、それぞれの学校の設立母体である宣教師会や教区および修道会の一員である司祭や修道者にすることである。また、その他の理事に関しては、それぞれの学校が所属する教区長である司教、所属する小教区の主任司祭、信徒会長、設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭・修道院長、カトリック信徒の教育関係者、PTA会長、後援会会長、その他公益代表として学校が所属する地域社会の代表者である町会長やカトリック信徒の有識者などの人々によって構成されていることが望ましい。
 
 特に、カトリック学校の本来的使命を果たすためには、カトリック教会に所属する理事を一定以上集めることが必須であることは言うまでもない。それは、カトリック学校は教育活動をとおして福音を述べ伝えるという教会共同体の使命を果たすために、教会自身から派遣された機関であるからだ。ここに教会とカトリック学校のアイデンティティの共有が認められ、カトリック学校も教会同様に福音共同体を目指していくという最も重要な使命を果たしていかなければならないのであって、そのためには学校法人の最上部・最高決定機関である理事会は、その使命遂行のための判断や決定が可能な人員構成になっていなければならない。また、構成人数の内訳についても、カトリック学校の本来的使命を果たすため、理事会の議決に関して必要な三分の二もしくは過半数以上の賛成が得られるよう、聖職者や修道者を含めたカトリック信徒である理事を一定以上集めた理事会の構成を考えていかなければならない。
 
 さらに、これらの構成員で組織された理事会が、有機的かつ実質的にカトリック学校の本来的使命を果たすために機能するためには、理事会組織として、また理事の一人ひとりが実際の教育現場を視察し熟知した上で、どのような施策や決定、人材の登用・採用が必要なのかを見極めていくことができなければ、せっかくの構成員で組織した理事会も機能しないということに陥ってしまう。特に、学校経営責任者等の管理職の採用決定にいたっては、その決定を誤ると学校経営の破綻につながる取り返しのつかない結果を招くことになる。そこで、理事会は学校経営責任者等の管理職の決定に当たっては、カトリック学校の本来的使命である福音宣教を実践できる人物を選任できるよう、慎重な議論と決定を下さなければならない。
 
 また、理事会の決定事項に関しては、それぞれのカトリック学校が所属する教区長の承認が必要であるとともに、カトリック学校の認定条件も明確にし最終的には教区長である司教が認定して始めてカトリック学校として認定される等、カトリック学校もカトリック教会に所属する組織として明確な位置づけとして組み込むことが、今後のカトリック学校がカトリック学校としての存在意義を継続させていく鍵となるのではないか。教区が運営する学校法人はともかく、宣教師会や修道会が設立母体である場合は、伝統的に教区長である司教との関連より、宣教師会や修道会内の会則や父権的な長上の関わりが強いため、教区との関わりが希薄であることが多く、そのことが今日のカトリック学校の閉塞性を招いたのかも知れない。今後、カトリック学校が教会から派遣された福音共同体として、その本来的使命である教育活動を通しての宣教司牧を果たしていくためには、教区における司法・立法・行政、三権の全てを掌握している教区長である司教が、現代のカトリック学校の現状を顧みて、必要な措置を執り、カトリック学校の経営に密接に関わっていく必要性があるのではないだろうか。
 
 カトリック学校にとって、理事長や理事会の決定は絶大である。その決定は、学校経営そのものを根幹から揺るがすばかりか、教会共同体とカトリック学校との関係のあり方やカトリック学校で働く教職員の人生そのものにまでも及ぶといっても過言ではない。それ故に、理事会の構成や決定のそのすべてが、聖霊によって福音に満ちあふれたものでなければならない。そうでなければ、現代のカトリック学校で信仰に従って奉職する数少ない聖職者や修道者そして信徒の教職員が、毎日の教育活動の中で福音を述べ伝えようと努力している労苦が報われないままに終わってしまうやも知れない。
 
 以上、カトリック学校崩壊の第二段階は、学校法人組織の最上部である理事会の構成や理事会の決定が、イエス・キリストの福音に従い、福音を述べ(宣べ)伝えることをその使命とすることを止めてしまうことに始まる。その結果、具体的な現象として学校経営責任者等の裁量権を持つ管理職が、それぞれの設立母体である宣教師会や教区および修道会の司祭・修道者またはカトリック信徒でもなくなる期間が、三年単位もしくは五年単位で継続することに始まり、やがては学校経営の中枢からカトリック信徒が排除されていき、学校組織として宣教司牧を実践していくことが不可能になっていくのである。これらの現象を防止し改善していくためには、上記に述べたように学校法人における理事会の構成員や組織そのものを見直していくことと、それぞれの学校が所属する教区、特に教区長である司教および所属する小教区の司祭および信徒との連携を密接に図り、カトリック学校の本来的使命である福音宣教と司牧教育(宣教司牧)を果たしていくことで、カトリック学校そのものを福音共同体に導き育てることができるようにしていくことである。
 
 31     「カトリック学校が崩壊するとき」4.カトリック学校崩壊の要因とその対策のまとめ(3) 2010年12月30日(木) 
(3)第三段階の要因とその対策
 カトリック学校が崩壊する第三段階の要因は、先に述べたように以下の通りである。
 @教職員に対するカトリック教育研修の不徹底(教育観の多様化・乱立)
 A経営責任者の学校経営力および統率力(学校マネジメント力)の低下および欠如
 B教職員採用における経営責任者の人事権の乱用
 C教師力(教職員の指導力=教科・学習指導、児童・生徒指導、進路指導、教育熱など)の低下
  (生徒指導の荒廃、進路実績の低迷による地域社会からの評価の低下)
 D教職員団の団結力の欠如と世代間の断絶および教職員間における生涯発達の欠如
 E教職員集団における倦怠感とマンネリ化
 
 カトリック学校崩壊の第三段階は、カトリック学校特有のものというよりは、学校組織そのものが崩壊する段階で、極めて危機的状況である。しかし、学校組織の崩壊を目前にする危機的状況でありながら、その対策としては、崩壊の前段階である第一および第二段階のものに比して、より具体的にかつ早急に対処していけるものであり、その効果においても即時に結果を出して改善を図ることができるものである。
 
 まず、「@教職員に対するカトリック教育研修の不徹底(教育観の多様化・乱立)」の対策としては、既に全国組織や各地方および地区などで、あるいは学校単位で実施されているカトリック研修会に教職員を積極的に派遣し、カトリック学校の本来的使命や福音的人間観に基づいた全人教育がとはどのようなものであるかを浸透させていくことで解決できる。ただし、この大前提には、カトリック学校そのものが、教会から派遣された教育機関であるから、カトリック学校が福音共同体を目指して成長することと、カトリック学校に奉職する教職員の一人ひとりがこの福音共同体を作り上げていく構成員として、イエス・キリストのうちに一致団結して協力していかなければならないとの共通認識が是が非でも必要である。さもなければ、どんなにカトリック教育研修を繰り返しても、カトリック学校が福音共同体であるとの認識のない教職員は、「笛吹けど踊らず(マタ11:17」か「豚に真珠(マタ7:6」または「対岸の火事を観る烏合の衆」という結果に終わってしまうしかない。だが、カトリック学校の本来的使命とカトリック学校が福音共同体であるとの認識が、教職員の中に一致して芽生えさえすれば、そこには必ずや聖霊が働き、イエス・キリストが「二人または三人が私の名によって集まるところには、私もその中にいるのである。(マタ18:20)」と述べたとおり、そこには福音共同体である教会が誕生するのである。ここに、教会のアイデンティティとカトリック学校のアイデンティティの一致がみられるとともに、教会から派遣された教育機関であるカトリック学校が、福音共同体として成長し、その完成をみることとなるのである。
 
 次に、「A経営責任者の学校経営力および統率力(学校マネジメント力)の低下および欠如」についての対策としては、学校経営責任者が現代の企業経営マネジメントや組織マネジメントのノウハウ・ドウハウの基本を一通り学んでおかなければならない。なぜならば、カトリック学校といえども公立学校とは違い、赤字経営でも税金で補填されるわけではなく、一企業としての利潤を上げなければ学校経営そのものが立ちゆかなくなるからである。この観点においてカトリック学校はまず第一に生徒募集にかかる業務が最重要課題の一つであることを経営者は忘れてはいけない。現在のカトリック学校の経営者は、カトリック学校の本来的使命を果たしていくことを持続できるように、マーケティングマネジメントを中心に、それぞれの学校に即してどのような経営戦略を立案すればよいのかを具体的に提示できないようでは、価値観が多様化し氾濫した、しかも少子化現象の進行する中で私立学校間の競争が激しい今日の社会の中では、カトリック学校の教育の具現化とその使命を果たすための学校経営は不可能である。
 
 その具体的な方法としては学校経営責任者が、マーケティングマネジメントをビジネススクールで学んだり、経営コンサルタント会社が企画する経営マネジメントに関する研修を積極的に受講すること、または経営コンサルタントを導入することなどが上げられる。ただし、ここで一つだけ気をつけておくべきことは、企業の経営マネジメントが、即そのままの形で学校マネジメントに直結するものではないということであって、あくまでも最終的にはそれぞれの学校に即した独自の学校マネジメントを構築していかなければならないのであって、そのための基礎を学ぶのだという大原則を自覚しておく必要があるということである。
 
 「B教職員採用における経営責任者の人事権の乱用」についてであるが、そもそもカトリック学校という教育機関とは、学習者である園児・児童・生徒・学生と教職員とからなる基礎的(福音共同体を目指しているという意味においては、基礎的集団と言っても良い。)かつ機能的集団であるといってよい。そのような集団の中でどのような教育活動が実践されるかは、日々の教育活動に直接関わる教師集団がどうあるかで決まると言っても過言ではないだろう。よって、人事採用権を掌握する学校経営責任者が、どのような人材を教職員として採用するかは、その学校がどのような教育活動を実践できるのかを決定づけることになるから、ここにおいても人事裁量権のある学校責任者の責任は、重大であることは言うまでもない。
 
 人はとかく自分の意見に賛同する者や自分に近しい者を、側に置きたがる傾向があることは否めない。しかし、カトリック学校は、イエス・キリストの福音を教育活動をとおして学習者やその保護者に宣(述)べ伝えることがその使命であり、その使命を果たすことで福音共同体として成長し完成していくことを目指しているのだから、カトリック学校のこの使命を果たすための教職員採用でなければ意味がない。この目的の実現のため以外の教職員の採用や人事決定の全ては、学校経営責任者の人事権の乱用ということになるのである。また、カトリック学校を福音共同体に成長させるとの観点から、最低でも20%〜30%の教職員数をカトリック信徒の教員で確保・維持していく必要がある。このぐらいの信徒の教職員を確保・維持していかなければ、学校教育機関という組織としてカトリック学校の本来的使命である宣教司牧の使命を果たすことは難しくなる。
 
 崩壊の第三段階の要因である「C教師力(教職員の指導力=教科・学習指導、児童・生徒指導、進路指導、教育熱など)の低下(生徒指導の荒廃、進路実績の低迷による地域社会からの評価の低下)」、「D教職員団の団結力の欠如と世代間の断絶および教職員間における生涯発達の欠如」、「E教職員集団における倦怠感とマンネリ化」についての対策は、兎にも角にも徹底した教員研修をすることと、人事考課の導入そして定期的な教職員の採用を実施し教師団におけるバランスの取れた世代構成を図ることである。そして、教職員の意識改革と教育活動に対する飽くなき追求と挑戦および教職員間の健全な競争意識と切磋琢磨を常に喚起させることが必要である。
 
 また、これらの崩壊の要因は、何もカトリック学校に限ったものではなく、他の一般の教育機関にもいえる問題であるから、それぞれの学校単位や地域の教育研修会・学会等に各教科や分掌などの集団単位または一人ひとりの教職員の個人単位で積極的かつ継続的に参加し、研鑽を積んでいくことである。特に、教員は常に学び謙虚でいなければならない。そして、イエス・キリストが言われたように「だが、あなたがたは『先生』と呼ばれてはならない。中略『教師』と呼ばれてもいけない。あなた方の教師はキリスト一人だけである。(マタ23:8〜10)」という謙虚さを常に忘れずに、学習者とその保護者を中心に全ての人々に接していかなければならない存在なのである。学校は、学校経営責任者をはじめ教師集団が学習者とともに成長していれば、善い教育活動が現在進行形の形で実践されていく。カトリック学校の場合も、学習者とその保護者そして全ての学校関係者を含めた人々とともに、教職員がイエス・キリストのうちに一致し、福音共同体を目指してくのならば、おのずとその使命を永久に果たし続け、そこに神の国の到来を見ることになるであろう。
 
 カトリック学校が崩壊する三段階とその12の要因をまとめると以下の通りとなる。
第一段階
 @学校教育に関わる聖職者・修道者および信徒の教員の減少
 A学校長・教頭職の一般人化(聖職者・修道者もしくは信徒でもない管理職者)
 B教職員内における信徒の減少
 C設立母体である修道会の学校経営からの撤退
 
第二段階
 @カトリック学校の本来的目的を果たすための学校法人における理事会の機能喪失。
 Aカトリック学校が所属する教区および小教区との連携の希薄化または欠如。
 
第三段階
 @教職員に対するカトリック教育研修の不徹底(教育観の多様化・乱立)
 A経営責任者の学校経営力および統率力(学校マネジメント力)の低下および欠如
 B教職員採用における経営責任者の人事権の乱用
 C教師力(教職員の指導力=教科・学習指導、児童・生徒指導、進路指導、教育熱など)の低下
  (生徒指導の荒廃、進路実績の低迷による地域社会からの評価の低下)
 D教職員団の団結力の欠如と世代間の断絶および教職員間における生涯発達の欠如
 E教職員集団における倦怠感とマンネリ化
 
 32     「カトリック学校が崩壊するとき」 5.カトリック学校宣言 2011年1月4日(火) 
5.カトリック学校宣言
 
 カトリック学校の本来的使命は、初等教育・中等教育・高等教育それぞれの教育機関が果たすべき教育的使命のみならず、それらの教育活動をとおして、イエス・キリストの福音を述べ伝え、学習者個々に与えられた天賦の命と使命を全うできるよう、福音によって教え育て、そこに導くという宣教司牧の実践ということに尽きる。
 
 では、カトリック学校の本来的使命が明確であるにも関わらず、日本中のカトリック学校に奉職する多くの教職員の皆さん、特にカトリック信徒の教職員の方々のほとんどが、カトリック学校は存続の危機に瀕しているという危惧感を持っているのは何故でしょうか。それは、十中八九それぞれの学校の設立母体である外国宣教師会や教区の聖職者および修道会のシスターやブラザーが、学校経営責任者や教員として教育現場からいなくなってきているということや、外国宣教師会や教区そして修道会が学校経営そのものから手を引いてきていることによって、カトリック学校としての本来的使命を果たすことに困難を感じているということの他にないのではないだろうか。つまり、日本の多くのカトリック学校が、前述した「カトリック学校が崩壊するとき」の第一段階から第三段階のいずれかの課程に、当てはまっているということではないのだろうか。
 
 私たち日本のカトリック学校のその多くが、戦前から戦後(日中戦争・太平洋戦争)にかけて、教区や外国宣教師会および修道会によって設立され、そこで多くの聖職者や修道者の方々が、それぞれの教区の意向や会の創設者の信仰心を受け継ぎ、日本の教育の普及と向上のため、気概を持って教育活動に専念されてきたことは誰もが認める既知の功績である。それは、正にキリストの福音を述べ伝えるという原点においては、どの教区や外国宣教師会も修道会も共通の宣教司牧というイエス・キリストがお与え下さった使命を果たすという点で、一致しているものである。
 
 ところが、聖職者や修道者の高齢化と後継者の減少やカトリック信徒の教員の減少に伴い、カトリック学校を支える聖職者や修道者および信徒の教職員が激減したこと、また聖職者や修道者の教職員に育てられてきた未信徒の教職員も激減したことによって、創設以来の聖職者や修道者および信徒の教職員を中核としたカトリック教育の実践というものが、困難になってきているというところに、現代の多くのカトリック学校が、存続の危機に瀕しているという危機感を、感じさせる根拠となっているのだ。とするならば、その根源的な解決は、聖職者や修道者および信徒の教職員を創設時の数に、あるいはそれ以上に増やすことが求められるのであろうが、「(1)崩壊の第一段階の要因とその対策」で述べたとおり、これは地道な宣教司牧活動を永続的に時間をかけて、教会とカトリック学校が一致して実践していくことの他に対策はない。
 
 無論、従来のような聖職者や修道者および信徒を中核としたカトリック学校の経営のあり方だけが、その本来的使命であるイエス・キリストの福音を述べ伝えるという宣教司牧を果たす唯一の道ではないのかも知れない。しかし、これも前述したように、イエス・キリストの福音を述べ伝えることができる者は、イエスキリストの福音に突き動かされ、それに付き従う者だけができる業なのであって、そうでなければカトリック学校は、教区や外国宣宣教師会および修道会によって創立されはしなかったであろうし、キリスト教文化ではない日本において公的機関によるカトリック学校などという教育機関は未だ存在していないことを顧みるのであれば、カトリック学校の使命を果たすためには、やはり教会から派遣された聖職者や修道者および信徒の関わりが絶対必要条件とみなさなければならないであって、カトリック学校が聖職者や修道者および信徒によって経営されなければ、その本来的使命を果たすことができない存在であることを、証明しているということにもなる。
 
 では、そうは言っても現実問題として、今の状況をどのように乗り越え改善していくかが急務であるのだが、それは先にも述べたように、地道な宣教司牧活動を永続的に時間をかけて、教会とカトリック学校が一致して実践していくことに他ならない。つまりこの両者のアイデンティティが、イエス・キリストの福音を述べ伝える福音共同体であるという点で一致しているのであるから、この地道で確実な宣教司牧という活動を、それぞれのカトリック学校に残っている数少ない聖職者や修道者および信徒の教職員の皆さんと、それぞれの学校が所属する小教区の主任司祭と信徒の皆さんが、各教区の教区長である司教と共に、父と子と聖霊である神の名のもとに一致団結して、イエス・キリストの福音を述べ伝えていこうという宣言を声高らかにすることである。これを私は「カトリック学校宣言」と言いたい。この「カトリック学校宣言」を実践することで、カトリック学校で学ぶ学習者とその保護者および教職員など、カトリック学校に関わる全ての人々に、イエス・キリストの福音が述べ伝えられることとなり、その結果としてこれらの人々の中から福音に生きようと新たに生まれる人が誕生してくことで、カトリック学校は福音共同体として成長していくのである。こうして、カトリック学校における宣教司牧が、現代のカトリック学校が抱えるカトリック学校としての存続の危機という最大の問題を招いた、聖職者や修道者および信徒の教職員の減少という根本原因を解消していくことになるであろう。
 
 現代のカトリック学校が、「カトリック学校宣言」をすること無しに、カトリック学校として次代に向けて存続していくことはあり得ない。カトリック学校は、カトリック学校を宣言するからこそ、カトリック学校なのであって、カトリック学校がカトリック学校であるための唯一で真実な方法が、「カトリック学校宣言」の実行ということなのである。それは正に、私たちの主イエス・キリストが私たちに教えて下さった神聖な教えであり使命ではなかったのか。現代のカトリック学校が、「カトリック学校宣言」をすることこそが、今後のカトリック学校に聖霊の働きと希望をもたらし、その存在価値を世の光、地の塩たらしめ、カトリック学校がその本来的使命であるイエス・キリストの福音を述べ伝えるという使命を果たすことになる。そして、このような「カトリック学校宣言」の実践によって、カトリック学校の再生と存続への門が開かれて、カトリック学校がこの現実社会に息づきながら、福音共同体として完成していくための道行きを歩んでいけるのではないかと考える。
 
 33     「教会とカトリック学校のアイデンティティ」の提言を終えて 2010年2月12日(金) 
 今大会の森一弘司教様の基調講演の冒頭で、「現在カトリック学校に危機感を感じている方は挙手をお願います。」との問いかけがありました。私はちょうど階段教室の最後列の席に座っていたので会場を見渡すことができ、お一人だけを除いた参加者の全ての方が、一斉に手を挙げられたのが見て取れました。どうやら、現在のカトリック学校に何かしらの危機感を感じているのは私だけではないようで、学会のような高等教育機関に携わる方々が多い専門機関においても、同じ問題意識を共有している方が多いということで、ちょっとした安堵感と心強さを覚えたのでした。
 
 そもそもシンポジストとしてこのような機会を与えていただいた経緯には、私自身がカトリック学校に奉職する傍ら、現在のカトリック学校が存続の危機に瀕しているとの危機感から、カトリック学校の本来的使命を再認識することが、その存続につながるとの基本理念に立ち、それらのことを自身のホームページで展開してきたことが、今大会の実行委員の方々に評価していただいたことにあります。
 
 この度のシンポジウムで提言させていただいた「教会とカトリック学校のアイデンティティ」は、先にも述べたとおりカトリック学校の本来的使命を再認識することが、今後のカトリック学校の存続に不可欠であるとの認識からで、発表内容の項目は以下のとおりでした。
 
 1.カトリック学校のアイデンティティ
 (1)カトリック学校の独自性とその条件
 (2)カトリック学校の独自性とカトリック学校のアイデンティティ
 2.教会のアイデンティティとカトリック学校のアイデンティティの一致性
 (1)教会のアイデンティティ
 (2)教会とカトリック学校のアイデンティティの相違点
 3.カトリック学校のアイデンティティの持続と存続の危機
 (1)少子高齢社会が招いた二つの危機
 4.カトリック学校のアイデンティティの再編と再構築
 (1)カトリック学校のアイデンティティの再編
 (2)カトリック学校の教職員に対する「問いかけ」
 (3)カトリック学校のアイデンティティを担う者
 5.福音が持っている性格と問いかけ
 (1)イエス・キリストの福音の伝え方
 (2)イエス・キリストの問いかけ
 
 今大会の発表で特に強調したかったのは、カトリック学校のアイデンティティと教会のアイデンティティは、「福音宣教」と「司牧」という二つの観点において基本的に共通し、カトリック学校がその独自性を発揮し、カトリック学校としての使命を教会共同体の一員として果たしていくことが、カトリック学校のアイデンティティの確立とその存続につながるのだということです。
 
 カトリック学校がなぜ存続の危機に瀕しているのかについて、一つには少子化現象、もう一つにはカトリック学校を支えてきた聖職者や修道者の方々の高齢化と減少の二つをあげました。このことについて、参加者の方から「カトリック学校の危機は、少子化が最大の原因ではなく、一つの時のしるしではないか?」との質問を受けました。確かに経営的な危機については、初等教育から高等教育まで例外なく少子化現象が第一の原因として疑う余地のないところでしょう。しかし、私たちの主キリストが、問いかけた「時のしるし」という点においては、どのように受け止めたらよいのでしょうか。特に、カトリック学校のアイデンティティを支え続けてきた聖職者や修道者の方々が減少してきているという現実については、教会共同体の中で私たちの信仰が正しく受け継がれてきたのかという問いかけの一端かも知れません。そのような意味においては、確かに現在のカトリック学校の危機を一つの「時のしるし」として読み取ることができると思います。
 
 戦後の日本における教育の普及と向上に、カトリック学校が果たしてきた功績が大きいことは誰もが認めるところですが、それはカトリック学校が、戦後の混乱期から高度経済成長期さらにはバブル経済の崩壊にいたるまで、日本の社会や企業および国際社会が必要としてきた人材育成などの教育市場における需要に応えてきたことにあるでしょう。
 
 しかし、日本における少子高齢化現象は、教育市場における需給関係を大きく変化させてきているのではないでしょうか。教育の充実はどの社会にも不可欠なものですが、教育内容や教育の目指すところを間違えると、社会を混乱させ果てには社会そのものを崩壊させ兼ねません。ですから、カトリック学校の経営手段も一歩間違えれば、取り返しのつかない事態を招いてしまうことでしょう。少子化に伴いカトリック学校のみならず、多くの私立学校や企業は経営難を回避するために、あの手この手と生徒募集や需要の創出に躍起となり、他校や他社との差別化をはかり、優位性と独自性を持つことで競争に勝ち抜くことこそが、市場原理の中で生き残る術であると信じて疑わないのです。しかし、そのような現代の経営学の主流となったアメリカにおけるMBAに端を発する経営マネジメントは、一体何をもたらしたでしょうか。アメリカ型の戦略的グローバル経済への反発として、世界を震撼させた2001年同時多発テロ、あるいは実体経済のなさの弱点を暴露したリーマン=ショックなどでしょうか。いずれにせよこれらの社会現象は、現代の教育の内容と方向性への警告でもあったのではないでしょうか。
 
 私たちカトリック学校の教育も今、分岐点に立たされています。もし私たちカトリック学校も学習者に対して実社会における実益とスキルのみを与える教育を第一とし、その教育効果を広報材料としながら学校経営の基盤とするならば、私たちはカトリック学校としての本来的使命を忘れ、いずれは学校企業体としては存続させることができても、カトリック学校の本来的使命を果たす教会共同体の一員である教育機関としての存続はできなくなるでしょう。
 
 日本におけるカトリック学校を実質的に支えてきた聖職者や修道会の方々の高齢化と減少は、現況からみてますます進行していくと言わざるを得ません。そこで、この度最後に私が提言したことに、カトリック学校に奉職している全教職員が信者・未信者に関わらず、これらの問題をどのように受け止め行動していくのかが問われているということです。それは同時に、イエス・キリストの福音を聞き知った者への問いかけでもあります。
 
 発表内容の「5.福音が持っている性格と問いかけ (1)イエス・キリストの福音の伝え方および (2)イエス・キリストの問いかけ」において述べたように、イエス・キリストの福音は、すべての人に述べ伝えられたもので、すべての人が福音の恵みに与るように招かれているのです。そして、すべての人がその福音に対してどう応えるのかとの問いかけがなされているのです。ですから、正にカトリック学校の存続の危機が叫ばれている今こそが、その時と言えるのではないでしょうか。カトリック学校に奉職する私たち教職員が、カトリック学校をどのように存続させていくのか、これまで築いてきたカトリック学校の歴史や建学の精神そしてそれらを培い支えてきた方々、特に経営母体となったそれぞれの宣教師会や修道会の方々、そして今いる教職員および小教区の方々とが一体となって、カトリック学校の独自性を再確認し、そのアイデンティティの確立に努め、カトリック学校の本来的使命を果たすことに邁進していかなければならないと思います。
 
 今学会の参加を通して新たに考えたことが、二つあります。その一つは、カトリック学校の教員を養成することを目的とした教育機関として、カトリック大学に専門の教育学部を設置することと、もう一つはカトリック学校の存続のために所属の教区の方々に聖霊の働きを祈ってもらうということです。教会とカトリック学校に関わるすべての人々の願いが希望のうちに一致して主の道を歩めるようになることをお祈りし、今大会のシンポジストとしてのご報告といたします。
 
 末尾になりましたが、日本カトリック教育学会シンポジウムという貴重な機会を与えてくださった大会事務局の方々と、シンポジウムに参加し私の発表を聞いて下さったすべての会員の方々に感謝すると共に、皆様の今後のご活躍と所属のカトリック学校に神様の祝福が豊かに注がれますようにお祈りし失礼いたします。
以上。
日本カトリック教育学会
カトリック教育研究第27号投稿原稿より
 34     「教会とカトリック学校のアイデンティティ」 Top pege 2009年9月7日(月) 

Top pege

「カトリック教育における〈連携〉の可能性を探る −アイデンティティの再確認を求めて」のテーマのもと、2009年9月6日(日)日本カトリック教育学会第33回全国大会シンポジウム(於:仙台市白百合学園中学高等学校)において発題した原稿を掲載いたします。
 35     1.カトリック学校のアイデンティティ−1 2009年9月7日(月) 

1.カトリック学校のアイデンティティ
 
(1)カトリック学校の独自性とその条件
 
 カトリック学校の独自性とその条件は、以下の五つにまとめることができる。
 
 第一には、「教育活動をとおして福音宣教をおこなっていること」
 第二に、「福音的人間観に基づいた全人教育を実施していること」
 第三に、「宣教司牧・宗教教育を実施していること」
 第四に、「教会共同体の構成員としての完成を目指していること」
 第五には、「教区長からカトリック学校として認定されていること」
 
 以上、カトリック学校の独自性とその条件は、カトリック学校のアイデンティティを確立していく上での重要な骨子であって、カトリック学校がどうあるべきかを示すものに他ならない。よって、私たちカトリック学校に関わるすべての教職員は、この「カトリック学校の独自性とその条件」を共通認識として常に自覚し、日々の教育活動の中でその実践に努めていかなければならないものであって、この実践こそがカトリック学校としてのアイデンティティを確立することになる。
 
 36     1.カトリック学校のアイデンティティ−2 2009年9月7日(月) 

(2)カトリック学校の独自性とカトリック学校のアイデンティティ
 
 カトリック学校の独自性は、カトリック学校としての条件や規定であるが、カトリック学校のアイデンティティとは条件や規定ではなく、あくまでもカトリック学校の独自性を日々の教育活動の中で具現化する実質そのものでなければならない。
 
 

Last updated: 2014/10/22

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