「裁いてはならない。そうすればあなた方も裁かれるであろう。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなたがたも罪に定められないであろう。ゆるしなさい。そうすればあなたがたもゆるされるであろう。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺さぶり、こぼれるほどますの量りをよくして、あなた方のふところに入れてくださるであろう。あなたがたが計るそのますで、あなたがたも量りかえされるからである。
(ルカ6:37〜38)

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カトリック教育 Catholic Education

『時のしるし』を見きわめ、主の道を歩もう。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
 
わたしたちもキリストにおいて一つの体であり、一人びとり互いにキリストの一部分なのです。わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜を持っているので、それが預言の賜であれば信仰に応じて預言をし、奉仕の賜であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです。
(ローマ12:5〜8)
 
カトリック教育とカトリック学校
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 13     [ カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校 (1)第二バチカン公会議による教会から派遣されたカトリック学校と現代世界憲章の具現化 2012年7月14日(土) 
(1)第二バチカン公会議による教会から派遣されたカトリック学校と現代世界憲章の具現化
 
 教育とは常に時代に即した対応が迫られる一面がある。第二バチカン公会議の成果として「教会憲章」と共に現代の世界に語りかける教会としての「現代世界憲章」がある。この「現代世界憲章」とは、第二バチカン公会議のスローガンとも言えるアジョルナメント(現代化)の具体的使命と言える。「現代世界憲章」の序文に「現代人の希望、悲しみと苦しみ、とりわけ貧しい人々と、すべて苦しんでいる人々のものは、キリストの弟子たちの喜びと希望、悲しみと苦しみでもある。真に人間的な事柄で、キリストの弟子たちの心の中に反響を呼び起こさせないものは一つもない。」とあるように、「現代世界憲章」は、現代社会に生きる人々の苦しみや悲しみに寄り添いながら共感し、私たちが生きる人間社会にキリストの福音を宣べ伝え、神の国の実現をめざそうとするものである。
 
 よって、カトリック学校においても「現代世界憲章」が呼びかける現代の変革に応え、神の救いが教育活動をとおしてすべての学習者とその保護者および教職員や外郭団体等、すべての学校関係者に及ぶよう福音化に努めていかなければならない。では、カトリック学校が社会に開かれた学校として存在するためには、具体的にどのような状態でいることが重要なのか考察してみよう。
「現代世界憲章」の現代社会に生きる人々の苦しみや悲しみに寄り添いながら共感するという趣旨を学校教育現場に当てはめるのならば、以下のようなことに対処し教育活動の実践をしていくことが不可欠である。
 
 @両親の離婚や不仲、親子間の断絶等の家庭崩壊による問題を抱えている学習者に対する精神的支  援と宗教的教示。
 A経済的困窮による学習継続の困難や学力低下に陥る学習者の経済的支援と学習支援。
 B生命の尊厳(性教育と男女関係および恋愛を含む)と人権教育およびいじめ対策とその根絶。
 C不登校やひきこもり(精神疾患を含む)になった学習者の学力保障と心のケア。
 D自己の存在価値に気付けずに、希望を失い無気力状態でいる学習者への宗教的教示。
 E道徳観念や貞操観念の欠如により、人間の尊厳を自棄する学習者への宗教的教示。
 F学力低下や学習能力の偏重に陥った学習者の学力の補習と均整化および幅広い教養の教授。
 G環境問題および資源エネルギー問題に関する現状と将来的展望について。
 Hグローバル時代に対応した国際関係(国際政治・国際経済・マルチカルチャリズム)の構築につ  いて。
 I自然災害の宗教的意味と災害時避難および避難生活のあり方について。
 J福音的共生生活の実現とボランティア活動に対する宗教的教示。
 K現代社会における社会的事象についての正しい知識と理解および宗教的教示。
 
 いわば学校とは社会の縮図であるから、学習者は家庭での問題をはじめそれぞれの人間関係の問題や地域社会の問題、そして時には国家や国家間における国際関係の問題など多岐に及ぶさまざまな問題を抱えながら毎日の学校生活を過ごしているわけであるから、当然そこには社会の影響や社会問題が反映され、学校教育現場独自の問題として表れてくるのである。よって学校は学習者がそれらの社会事象についての正しい知識や理解ができるよう教示し、さまざまな困難を乗り越えていけるような生きる力を身に付けさせ、どんな誘惑や不正にも負けることのない崇高で純潔な人格を形成できるよう教え導いていかなければならない。
 
 これらの観点において、「現代世界憲章」は現代社会を生きるカトリック学校の教職員と学習者及びその保護者(学校関係者を含む)に、重要でより具体的な示唆を与えているから、それらの項目を日々の教育活動の中で実践していくことで、カトリック学校は正に社会に開かれた学校としての社会地位および市民権を得ることになろう。しかし、学校には一つにして最大の欠点がある。それは閉鎖性である。学校は社会の縮図であるから、さまざまな問題が持ち込まれている。にも関わらず学校は、空間的にも情報開示の面においても伝統的に閉鎖的であって、それは学習者によって持ち込まれた問題や学習者間に起きた問題あるいは教職員と学習者の間に起きた問題が、重大であればあるほどその傾向は顕著で、時には事実の隠蔽にも至ることさえあるほどのものである。
 
 よって、社会に開かれた学校を実現するために必要不可欠なことは、学校の開放と情報開示および学校評価の実施である。そもそもカトリック学校は教会から派遣された学校であるのだから、教会が成立されたイエス・キリストの時代から、神の福音を宣べ伝えることが使命であったように、カトリック学校も教育活動を通して福音を宣べ伝えることが使命であることは疑う余地の無いところである。また、カトリック学校の福音宣教の使命は、第二バチカン公会議の「キリスト教的教育に関する宣言」でもより明確になったはずである。つまり、カトリック学校においては、学習者とその保護者に対して福音を宣べ伝えることによって、それらの人々をとおして社会に福音が及ぶのである。このように「社会に開かれた学校としてのカトリック学校」の実現とは、福音を学習者を中心にその保護者と学校関係者に広く宣べ伝え、カトリック学校が福音共同体を目指すことによってのみ実現しうるものなのである。然るに、どんなに学校を開放し、情報を開示して学校評価を行おうが、それらの活動が福音を宣べ伝えることに帰着するのでなければ、カトリック学校の本来的な社会に開かれた学校とはならないのである。しかも、ただ単に聖書のみ言葉を述べることに終始するのではなく、あくまでも学習者とその保護者が抱える苦しみや悲しみに寄り添いながら共感するというイエス・キリストの生き様に学びながら、それらの人々と関わることがカトリック学校に求められる大切な心構えなのである。現代社会における社会病理とも言えるさまざまな問題を抱える人々にイエス・キリストをとおして示された神の福音が、教育活動をとおしてより多くの人々に行き渡り癒やされることで、「社会に開かれた学校としてのカトリック学校」は完成するのである。
 
 14     [ カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校(2)学校の閉鎖性と学校評価およびディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任) 2012年7月25日(水) 
(2)学校の閉鎖性と学校評価およびディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任)
 
 私たちが暮らすこの現代社会において、あらゆる組織の社会的責任は、ディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任)を果たすことが最重要課題であるといってよい。特に私立学校であるカトリック学校は、企業が負う社会的責任(CSR Corporate Social Responsibility)を同様に果たしていかなければならない性格を有していると言える。そして、その責任を果たすことがまた学校の閉鎖性を打開し、カトリック学校に社会との交流(パブリックリレーション)をもたらすとともに、カトリック学校を社会に開かれた学校に導いていくことになるであろう。
 
 そもそも学校の閉鎖性とは、学校教育現場の人間関係が主に学習者と教職員から構成されるごく狭い閉鎖社会にあるという特異性にある。その点においてはカトリック学校も決して例外ではない。よって、このような学校教育現場の閉鎖性という特異性を前提に、カトリック学校が学習者の保護者および地域社会に開かれた学校として、そしてカトリック学校の本来的使命である福音宣教のミッションを果たしていくため、さらにはカトリック学校が福音共同体として成長していくためには、学校評価や情報開示および説明責任は必要不可欠な条件である。何故ならば、単なる集団が共同体として成長していくためには、その集団を構成する個々の人間同士の繋がりなくしては不可能なことであって、そのつながりが何によってつくられていくかというと、集団内の構成単位である個々の人間が共通の目的や利益および情報あるいは信仰を共有するということによって成し遂げられていくからである。
 
 学校の閉鎖性という特異性は、学校組織の構成員という要因によるところが大きいが、それはやむを得ないことでもあろう。それは日常的な学校教育現場においての活動は、いうまでもなく学習指導を中心に特別活動や部活動等の諸活動であって、これらの活動は学習者と教師との関係を中心とした関わりによって成り立っているものであるから、当然のことながら校内においての人間関係は、学習者間および教職員間そして学習者と教職員間という関係に限定されがちであるからだ。
 
 では、それらの学校の閉鎖性という特異性を前提に、如何にしたら学校の閉鎖性を打ち破り社会に開かれた学校を実現していけるのであろうか。それは、徹底した学校の公開である。では、学校の公開とは何か、そして誰に向かって公開すれば良いのであろうか。それは以下の項目および範囲が想定できる。具体的評価項目としては、以下の5つがあげられる。
 
 @教育活動(授業・特別活動・部活動等)の公開
 A学校評価の実施
 B情報開示(Disclosure)の実施
 C説明責任(Accountability)の遂行
 D保護者・地域社会・教会の代表者による評価・監視機関(第三者委員会)の設置
 
まず、第1に「@教育活動(授業・特別活動・部活動等)の公開」については、何といっても学校は教育活動を目的とする機能的集団であるから、その第一目的である教育活動のすべてを学習者の保護者を中心に、学習者が通学する範囲を中心とした地域社会、そしてカトリック学校は教会から派遣された学校であることから、学校が所属する小教区や教区に対して公開しなければならない。公開のあり方はいろいろ考えられるであろうが、年間をとおして定期的に実施したり、生徒募集のためのオープンスクールを活用したりすることが考えられる。また、日常的な学校教育現場を見てもらうということに関しては、学校公開月間や週間の設定ということも有効である。
 
 次に第2の「A学校評価の実施」の実施については、学習者とその保護者および地域社会と教会からそれぞれ評価されることが望ましい。学校評価の主役は何といっても、教育活動の対象たる学習者とその保護者であり、より具体的で体験的に評価できる立場にある。学校評価の項目について考えられるのは、以下の10項目が考えられる。
 
  1.授業評価
  2.ホームルーム運営評価
  3.指導3部門(学習指導・生徒指導・進路指導)等評価
  4.学校行事評価
  5.宗教指導評価
  6.委員会活動・部活動評価
  7.理事長および理事、校長・教頭・事務長等管理職評価
  8.一般教職員評価
  9.学校施設評価
 10.財務・会計管理評価
 
 第3に、「B情報開示(Disclosure)の実施」については、本来情報開示(Disclosure)とは、高度に情報化が発達した現代において、情報発信や管理がもたらすリスクを回避するために生まれた考え方である。しかし、学校とは情報化が発達した今日以前から、学習者とその保護者の個人情報をふんだんに扱ってきた組織であり、その情報量は以前にも増して増えているといっても過言ではないし、その扱いにおいては同じ情報でありながら過去においてよりも、格段に慎重を期さなければならない性質のものに変化してきている。とは言え、基本的人権における新しい人権の「知る権利」の主張とともに、情報開示の要求に応じなければならない機会も増えていることも確かである。特に学習者や卒業生の在校時の成績等の個人情報などがそれにあたるであろう。また、学校でさまざまな問題が発生した際には、情報開示の手順や制度などの体制をしっかり構築していないと、必要な情報を提供できないばかりか、情報操作や隠蔽工作などの疑いを保護者や地域社会そして各メディアに与えかねない結果となってしまい、かえって不信感をもたれてしまうことになるであろう。
 
 また、個人情報に限らず学校内でどのような教育活動が実施されているのかなど、学校評価項目に関する実態や評価結果等について情報開示をすることは、開かれたカトリック学校を目指していく上においても重要な要件となるし、生徒募集における学校選びの重要な判断材料にもなる。
 
 第4に、「C説明責任(Accountability)の実施」についてであるが、この観点においても「B情報開示(Disclosure)の実施」同様、学校評価項目に関する実態や評価結果についての説明責任が第一にあげられよう。「B情報開示(Disclosure)の実施」と「C説明責任(Accountability)の実施」は関連・連続性が強くあり、切っても切り離せない関係にある。特に説明責任(Accountability)を果たすことは、学習者(卒業生)とその保護者および地域社会や教会に対し、私立学校であっても公共性の性格を色濃く帯びた教育機関としての社会的責任を果たすこととなり、どのような人々からの質問や問い合わせにも誠実に応えていくことが、広く社会から信頼を得ることに繋がり、それはカトリック学校が日本社会や教会共同体においてシティズンシップを確固たるものにすることでもある。
 
 第5に、「D保護者・地域社会・教会の代表者による評価・監視機関(第三者委員会)の設置」についてであるが、これはもとより学校組織の閉鎖性という特異性によって、管理職による独裁的な学校運営や教職員・学習者及びその保護者に対する人権侵害、そして学習者間や教職員と学習者間および教職員間におけるいじめ問題やパワー・ハラスメントそしてセクシュアル・ハラスメント等の違法行為の事実が、隠蔽されたり改ざんされたり、あるいは事実の歪曲によって学習とその保護者および教職員等が人権を侵害されないためである。
 
 特に、第二バチカン公会議による「キリスト教的な教育に関する宣言」や「現代世界憲章」において、崇高で高潔な精神と理念をもって福音共同体の完成を目指しているカトリック学校においては、日々の教育活動がどんな場面においても、キリストの愛の精神に則って実践されなければならない。よって、学校経営者をはじめすべての教職員がキリストの教えを学ぶと共に行動として表すことができるように努力を怠ってはならない。そのためにも、学校組織内部の自助努力のみに依存することなく、外部による第三者委員会を積極的に取り入れ、公正で平等な評価ができる機関や制度の構築が不可欠である。
 
 以上、学校が閉鎖性という特異性を持った組織であるから、尚更のこと以上のような学校評価5項目にわたる内容をもって、学校内で実施されている教育活動全般にわたって広く公開していく必要性があると考えられる。そして、これらの実践によって学校を閉鎖性という特異性から解き放ち、学習者の保護者や地域社会、そして教会に対して透明性を保つことで信頼かつ支持され、閉鎖社会にありがちな隠蔽体質や事実の歪曲・改ざん、組織の保身等の不正を防ぎ、学校組織内部においての自浄作用や権力の抑制、そして非社会的行為や犯罪を阻止できるような機能を持たせることが重要なのである。
 
なお、公開項目実施の対象者および範囲としては、基本的には以下の5つである。
 
 @学習者
 A学習者の保護者(PTA)
 B卒業生とその保護者(同窓会・後援会等の外郭団体)
 C学習者が通学する範囲を中心とした地域社会(地方公共団体)
 D学校が所属する小教区および教区の教会組織と設立母体となった外国宣教師会と修道会
 
 第1の「@学習者」は、学校の閉鎖性という特異性をつくりあげている要因の一つではあるが、学習者は教育活動の第一の主体たる対象者であるから、学校には学習者に対して、自ずと情報開示と説明責任を果たす義務がある。
 
 第2の「A学習者の保護者」は、学習者の親権を持つ立場にあり、教育活動は学校の働きかけのみならず、家庭環境の保護や保護者の経済力等の協力無しには、その目的は達成し得ない。また、たとえ二十歳を超えた学生や院生であっても、学業継続のために経済的に保護者に依存しているのであれば、やはりその保護者に対しても情報開示や説明責任の義務が当然帯びて来る。
 
 第3の「B卒業生とその保護者(同窓会・後援会等の外郭団体)」は、卒業したとはいえそれらの人々は学校にとって重要な支持者(サポーター)であることは間違いない。また、愛校心とは学習者とその保護者が在学中に限って持つものではないし、私立学校にとって支持者(サポーター)やリピーターの存在は学校経営上非常に重要であり、とくに校内を除く地域社会での学校評価(地域の評判)に大きな影響を与えるのは、正に卒業生とその保護者(同窓会・後援会等の外郭団体)なのである。
 
 第4の「C学習者が通学する範囲を中心とした地域社会(地方公共団体)」は、学校もまた地域社会を構成する重要な一構成員であるから、学校が地域社会から信頼を得て学習者を地域社会と一体となって教育することも学校教育の重要な要素である。そのためには学校が地域社会に対して情報開示や説明責任を果たしながら、地域住民を学校行事に招いたり学校施設を提供するなどして、地域社会との交流を円滑にすることで信頼と協力関係を基盤とした地域一体型の教育の実践が可能になるとともに、カトリック学校が目指す福音共同体の完成を地域社会の範囲にまで広げることができるのである。
 
 第5の「D学校が所属する小教区および教区の教会組織と設立母体となった外国宣教師会と修道会」は、カトリック学校が教会から派遣された学校であるとの位置づけからである。カトリック学校のミッションは教育活動をとおした福音宣教であることは今まで何度も繰り返し述べてきた。つまり、もとよりカトリック学校も教会の構成員そのものなのである。よって、どのカトリック学校も小教区や教区に所属しているのであるから、当然それぞれの学校の挙育活動全般に関する情報開示や説明責任があるのだ。特に、小教区や教区および設立母体となった外国宣教師会と修道会に対しては、教育活動をとおした福音宣教活動や宗教指導がどのように実践されているかについては必須事項である。また、カトリック学校を認定する所属する教区の責任者である司教に対しては、定期的に学校経営責任者が、教育活動に関するすべての部面について情報開示や説明責任を果たし、福音宣教を中心としたカトリック学校としての使徒職について、霊的指導を仰ぎながらカトリック学校として常に正しい方向性を見失わないようにしなければならない。
 
 では、情報開示や説明責任をどのような手段や方法によって以上の5者に対して果たしていけばよいだろうか。それには、以下の三つの方法が考えられる。
 
 @説明会・報告会
 A報告書や学報
 Bホームページ(インターネット)
 
 「@の説明会・報告会」は、先に述べた5者に直接顔と顔をつきあわせて実施する方法である。現代においてコミュニケーションをとる手段はさまざまなメディアの発達により選択肢が多い。しかし、双方向でかつその場の雰囲気や相手の声の抑揚など、実に現実的で臨場感のあるコミュニケーションとは、一対一であろうが多対一であろうが対面によるものの他にはない。さらに、情報開示・説明対象者の反応や質問を受けながら進行できるし、一定のルールや節度を越えない(感情的になったり、その場を一部の人が牛耳ってしまうなど)限りにおいては、基本的に両者にとってメリットの多い方法であり、情報開示や説明責任を果たすための方法としては不可欠であると言ってよい。
 
 「A報告書や学報」の方法は、記録として残すという観点と説明会や報告会には出席できない対象者のためという観点において不可欠である。ただし、注意しなければならないのは@の説明会・報告会での内容と報告書や学報に掲載された内容が異なったり乖離していないことが重要である。できれば理想的には、報告書等活字としての記録書を完成させた上で、情報開示や説明会が実施されることが望ましいし、あるいは説明会の記録書を開示していくことも不可欠なことでる。
 
 いずれにしても報告書や記録書等の文書は、実際に情報開示や説明責任を果たしたという確固たる証拠や校内外における学習者による事件・事故の再発を防いだり、学校組織をよりよいものに改善していくための検証資料ともなる実に重要なものである。
 
 「Bホームページ(インターネット)」による公開は、たとえカトリック学校が私立学校であったとしても極めて公共性の高い教育機関であるから、広範囲に社会的責任を果たしていこうとするのならば、学校に関する情報の開示や説明責任を自校のホームページなどでインターネットをとおして公開することは時代に即した有効な手段である。確かにインターネットの今日的事情を考慮すれば、メリットのみならずデメリットも十分に予測可能なことは言うまでもない。しかし、リスクマネジメントの観点から判断するのであれば、インターネットを通して情報開示や説明責任を果たしていくメリットとデメリットおよびインターネットをとおした公開を拒否するメリットとデメリットを比較検討するならば、過去から現在に至るネット社会の進展と普及および将来に向けてのネット社会の発展性や可能性の観点から展望するのであれば、決してインターネットが万能ではないにしろ、そしてまたインターネットを使った情報開示や説明責任の対象を、どの範囲にまで広げるかについては検討の余地はあるものの、ネット社会に対して学校を公開しないことのリスクの方が明らかに大きいであろうと考えられる。よって、むしろネット社会に対して公明正大に自信と誇りを持って毅然とした態度で、包み隠さず求められる重要な情報の開示や説明責任の義務を果たすことに大きなメリットがあると考えるのが正当であろう。
 
 以上、カトリック学校が学校の閉鎖性を、ディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任)を十分に果たすことでその特異性を解消し、カトリック学校を開かれた学校に変容させていくとともに、求められる社会的責任を遂行し、カトリック学校が地域社会を福音的共同体の完成へと導いていくことの可能性とその一方法論について述べた。
 
 15     [ カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校 (3)カトリック学校におけるコンプライアンス(Compliance 法令遵守) 2012年7月31日(火) 
(3)カトリック学校におけるコンプライアンス(Compliance 法令遵守)
 
 私たちの生活形態や価値観がますます多様化・複雑化する今日において、カトリック学校が社会に対して開かれた学校としてのシティズンシップ(市民権)を得るために欠かせない最低限にして基本的な条件は、法令遵守(Compliance)であると断言してよい。そして、カトリック学校におけるコンプライアンス(Compliance 法令遵守)の重要性は、「教職員一人ひとりの法令遵守」という観点と「学校組織としての法令遵守」および「教会組織としての法令遵守」という三つの観点がある。
 
 私たちが生きるこの現代社会において、事件や事故は残念なことに日常茶飯事どころか、受け止める許容限度を超えて上からは溢れ出し、下からは漏れ出しているている状態である。そして、そのような事件・事故は教育現場においても例外ではないし、先にも述べたように学校は社会の縮図であるから、「いじめ問題」や「不登校」また「学級(学校)崩壊」や「学習者の自死」そして「教職員の不祥事」等々の問題が、学校教育現場特有の事件・事故さらには犯罪に及ぶまでの事例として現れており、それらの問題の解決・防止策は今日の教育現場においては急務であると叫ばれ続けている。また、実にこれらの教育問題は、現代という時代を背景としながら、社会構造や教育制度および生活文化や家庭環境の変化、そして学校教育そのものがもたらした社会問題(社会病理)なのである。このような現況の中で、教育現場である学校をはじめ教育行政機関としての社会的責任が、ますます強く求められているにも関わらず、現実的にはさまざまな教育問題に学校も教育行政機関もその対応に追われて翻弄されながら喘ぎ彷徨っているというのが現在の教育問題に対する学校事情であろう。
 
 社会問題を解決していく上で、それらの問題に対する世論形成は極めて重要であると言ってよい。例えば、社会問題に対してその真実を追求し、社説やニュースキャスターの意見等によってそれらの問題に言及しながら、情報提供や世論形成の上で重要な役割を担っているのは、新聞・通信社およびテレビ局等のマス=メディア(情報伝達機関)であるが、このように国際社会・国家社会・地域社会に向けて情報を発信し、特に国民の世論形成に働きかける報道機関の社会的責任が極めて重大であるのと同じく、これらのオピニオンリーダー(マス=メディア等)に対して教育問題に関する対象となるのはいうまでもなく学校教育機関(学校及び教育行政機関)である。そのような観点において、世論を形成するもととなる対場という意味(情報そのものとなる立場)においては、学校はオピニオンリーダーとなり得るともいえるのではないだろうか。
 
 学校そのものがオピニオンリーダーとなりうる可能性の裏付けとなるのは、当事者である学校教育に関わるすべての人々や組織における「法令遵守」である。しかもそれは、最低限の条件として厳格に保持しされていなければばならない。何故ならば、日本において今更教職が聖職であるなどと自負する教師もいなければ、そのように受け止めている国民も極めて少ないだろうが、伝統的に教師という仕事が学習指導に留まらず、倫理的・道徳的な人間の生き方にまで及び、学校教育には全人的教育が求められてきたから、自ずとそこに携わる教師にも人間的な優秀性や徳目が求められ、それらの最低条件としても、人の道に外れてはならないという意味以上の「法令遵守」が強く要求されるのである。例えば、罪には、法律に触れる罪である「crime」や宗教上・道徳上の罪悪である「Sin」そして不道徳な週間や行為である「vice」があるが、先の理由により教師にはいずれの罪に対しても厳しい目が向けられ、常に学習者をはじめその保護者等の社会全体から人格者であることが要求されるため、その社会的責任が大きく、何かと批判の的にもなり易い立場にあることは確かである。
 
 また、学校組織という観点においても「法令遵守」が求められることはいうまでもない。それは、学校組織の構成単位が個々の教職員であると同時に、その個々の教職員における「法令遵守」が徹底されているかどうかは、組織マネジメントにかかっている面が大きいからである。
 
 どんな人間も多くの場合何らかの組織に属しているか、社会のつながりの中で生活している。そして、一人の人間という個は集団の中で生き集団によって規定される面を持っている。だから、個人が所属する集団が統制されていない場合、その集団には所属する個人に対しても社会に対しても教育力や謝意貢献という意味においての正の影響力を失うことになる。同じく、ある集団に属する個人がどんなに「法令遵守」を忠実に実践していたとしても、他の者が不忠実であったとしたのならば、その集団は社会から断罪され信頼を得ることはないのである。
 
 このような観点から、「組織としての法令遵守」も社会的信頼やシティズンシップの獲得にとっては重要な要素なのである。よって、ただ単に組織に属する個人を規則によってがんじがらめに束縛するということではなく、如何に個々人が持っているパーソナリティを十二分に引き出しながら、組織に属する個々人及び組織全体の運営管理をしていくかという組織マネジメントの確立のもとに、「組織としての法令遵守」を徹底することが不可欠である。
 
 次に第三の観点である「教会組織としての法令遵守」についてであるが、カトリック学校は宗教上のより神聖で崇高な教育理念を掲げて教育活動を実践しているので、一般の公立学校や宗教とは関わりの無い私立学校の教職員以上に、宗教上の倫理観や道徳観が校内や一般社会からも求められることは言うまでもない。特に、カトリック学校は教会から派遣され福音宣教という使命(ミッション)を持った学校であるから、教会組織やそこに所属する聖職者をはじめ奉献生活者そしてすべての信徒に対しても、教会組織の一員としての責任を果たすことが求められる。勿論カトリック学校が教会組織に対して負う責務の第一は、「福音宣教」というカトリック学校としての使徒職であろうが、それらの使命を遂行していく上で最も重要なことは、教会組織とすべての信徒から信頼を得ることである。その最低条件がやはり「法令遵守」であろう。
 
 しかし、第三の観点である「教会組織としての法令遵守」とは、先に述べた一般社会に対する「法令遵守」とは、いくらかの観点で異なる。それは、「教職員一人ひとりの法令遵守」において述べた宗教上・道徳上の罪悪である「Sin」を犯さないという観点だけではない。それはカトリック学校も教会組織の一員であるから、当然のことながら「カトリックの教義」や「教会法」そして「バチカンからの勅令・公文書」等を忠実に守ることと、特に第二バチカン公会議における「キリスト教的教育に関する宣言」や「世界現代憲章」および「バチカン教育省からの公文書」の具現化を目指す努力義務、さらにはそれぞれの学校が所属する教区長の宗教上の指導に従うことも「教会組織としての法令遵守」に含まれるのである。また、「世界現代憲章」の具現化のための実践は、カトリック学校が現代の教育問題解決のためのオピニオンリーダーとなる可能性にも繋がるものである。
 
これら「教会組織としての法令遵守」については、ことにカトリック学校の設立母体である外国宣教師会や修道会の聖職者や奉献生活者の激減によって危ぶまれているところであるから、学校組織の経営責任者や管理責任者が教会組織と結び付きのない非信者の場合は、特に憂慮と緊迫感をもって教区長の指導を入れるなどの具体的な対策を困じていかなければ、カトリック学校本来の使命を果たせなくなるばかりか、宗教行事や聖書のみ言葉の解釈等が歪曲され、本来的なカトリック教育の実践ができなり、有名無実のカトリック学校となってしまう恐れがあるし、既にそのようなカトリック学校が現れ徐々に増えつつある。
 
 以上、カトリック学校における「法令遵守」は、「教職員一人ひとりの法令遵守」という観点と「学校組織としての法令遵守」および「教会組織としての法令遵守」という三つの観点からの「法令遵守」があって、これらの三つの「法令遵守」が保たれて初めて、教育活動の実践者とし社会的に信頼を得て受容され、さまざまな教育問題にもコミットすることが可能となり、カトリック学校が日本社会において真の教育の実践者(Genuine Educator) として、また教育界の先導者(Educational Leader)となり得るのである。
 
 16     [ カトリック学校と地域社会 2.カトリック学校とパブリック・リレーション(Public Relation) 2012年8月3日(金) 
(1)カトリック学校のフィランソロピー(Philanthropy)とメセナ活動
 
 カトリック学校におけるパブリック・リレーション(Public Relation)とは福音宣教そのものであると言ってよい。何故ならば、一般的なパブリック・リレーションとは企業の戦略広報を意味し、如何に自己の会社組織を社会的に広く知らしめ、良好な関係をつくって利潤に繋げていくかというものであるが、それを具現化する方法論としてフィランソロピーやメセナ活動が代表的である。しかし、カトリック学校にとって福音宣教はパブリック・リレーションの方法・手段ではなく目的そのものであって、カトリック学校の使命である福音宣教を果たしていくことで、結果的にパブリック・リレーションが出来上がっていくというものでなければならない。
 
 もともとフィランソロピー(Philanthropy)とは、広く人類愛にもとづいてに自己の時間、労力、金銭、物品などを提供することで社会貢献し、人間生活におけるクオリティ・オ・ブライフ(QOL)を高めることを目的とした、利他的・奉仕的な慈善活動全般のことをいう。また、その語源であるギリシア語のφ?λο?(フィロス=愛)と、 ?νθρωπο?(アントロポス=人間)からも、人間を無差別かつ平等に愛することという神の愛(アガペー=Agape)であるキリスト教の隣人愛(Charity=Caritas)・人類愛(Brotherhood)・博愛(Philanthropy)は、同義語であり同じの精神なのである。よって、カトリック学校における福音宣教とフィランソロピーは正に合致するものである。
 
 特に、学校教育においてのフィランソロピーの具現化としては、ボランティア活動がある。ボランティア活動もその語源(志願兵)からして、自ら志をもって行動するということであるから、学習者自身が自主性を持って他者のために無償で働くということを体現できる貴重な教育機会ともなるものである。ただし、最近の傾向としてボランティア活動を教育機会の目的としたり、進路目標の達成など自己実現のための手段とすることが見受けられるが、ボランティア活動とはあくまでもキリスト教的隣人愛(フィランソロピー)の精神で、自己犠牲のもとに自分が他者に対してしてあげたいことではなく、他者が望むことを他者のために行うことが重要なのであって、金銭的な報酬のみならず精神的な学びさえをも目的として実施することがあってはならず、自己にかえってくる気づきや学びそして人と人とのつながりなどは、ボランティア活動を実施した結果の副産物として得られたというものにならなければならない。特にボランティア活動の対象が人でる場合、それらの人々の人格を手段として扱ってしまうことになるから、ボランティア活動としての動機付けとしては不純なものとなると言わざるを得ない。さらに、ボランティア活動を学校としての広報宣伝の目的に使うなどは、キリスト教的精神から全く外れた卑劣で恥ずべき売名行為であり、カトリック学校がそれらを目的として行うこなどということが決してあってはならない。
 
 以上のように、カトリック学校のフィランソロピーは、キリスト教の根本的思想である隣人愛の精神をもってボランティア活動を実践することで、カトリック学校の使命である福音宣教とパブリック・リレーションの構築の両者を実現させることができる。
 
 次にメセナ活動についてであるが、メセナ(mecenat)とはフランス語で「文化の擁護」を意味し、企業が主として資金や人材及び施設等を提供して文化、芸術活動を支援することである。このメセナ活動の思想的背景には、身分の高い人には相応の大きな社会的責任と義務があるという「ノーブレス・オブリージュ」(Noblesse Oblige)という考え方がある。では、カトリック学校がどのような点で身分が高いとか社会的大きな責任や義務があると考えられるであろうか。
 
 日本において少子化現象に歯止めがかからない中、公私立学校に関わらず生徒確保には難儀しているのが現状であるが、特に私立学校の場合は学習者の募集・確保が学校運営の根幹に影響してくることは言うまでもない。そのような状況の中で、経済的に余裕があり文化・芸術活動を資金的に支援できる学校はそう多くはあるまい。また、たとえカトリック学校だとしても身分が高いとの認識は自他共にないのではないだろうか。しかし、メセナ活動とは確かに文化・芸術活動に資金提供をすることで支援することが中心となる活動ではあるが、人材や学校設備の提供という点においては、社会に開かれた学校の実現や福音宣教という観点から、カトリック学校においてもその可能性や責任及び義務が十分にあると考えられる。
 
 では、具体的にどのようなことが可能かと言えば、まずは学校施設の開放提供である。勿論、学校施設は学習者の教育活動を目的に使用するのが原則ではあるが、休日や長期休業期間など学校施設が学習者に使用されていない時間であればホールやチャペル、体育館や陸上トラック等の体育施設、あるいは図書館や視聴覚室など地域社会に提供可能な施設が十分にある。また、学校教職員による講演会や出張授業等による人材派遣、そして校内における講座の開講あるいは教育カウンセリング(教育相談)など、教育現場に携わる教職員だからこそ地域社会や住民に提供できる知識や実践例(Know-how・Do-how)がある。さらに、カトリック学校の場合は福音宣教という観点からも聖職者や奉献生活者または宗教・倫理担当者の人材派遣や聖書研究講座を設けることなどが考えられるし、これらはカトリック学校としての重要な社会的責任及び義務でもあり、キリスト教文化の正しい理解や普及にも繋がることである。
 
 また、資金提供にしても全く不可能とは言えないであろう。例えば、自ら街頭募金を実施したり目的を明らかにした上で地域住民や小教区さらには教区と連携をとり、定期的にバザーを開くなどして資金調達を図ることが可能だろうし、学習者の保護者や卒業生あるいは後援会そして教区などに寄付を募ることも考えられる。いずれにしろ、目的とするメセナ活動に十分な人道上あるいは社会的価値がありさえすれば、身を削ってでもお金を出してくれる人々はいるものである。
 
 以上、カトリック学校におけるパブリック・リレーションのあり方として、フィランソロピーという概念をもとにしたボランティア活動と学校施設と人材派遣を中心としたメセナ活動という二つの観点で述べたが、カトリック学校におけるパブリック・リレーションのあり方として決して欠如してならないことは、福音宣教という概念である。たとえどんなに素晴らしい活動であったとしても、そこにわたしたちの主イエス・キリストがおられなければ、ただの慈善活動に終わってしまうのである。それは、慈善活動が無駄であるという意味ではなく、私たち教会共同体の一員としてのカトリック学校が行う行為は、キリストの名によって集まり、キリストのうちに一致して、祈りと共に行動するというものでなければ、神の意志も聖霊の力も働かない空しい人間の行為で終わってしまうからである。人間の行為とは、往々にして独善や慢心、偽善や傲慢をもたらし、やがてはそれが権力となって他者を支配し、不正と抑圧を招くことになるのだ。
 
 社会に開かれたカトリック学校を目指すことは、福音宣教の観点から不可欠であるが、社会とのつながりを強く持とうとすればするほど、人間社会が織りなす不正や偽善そして誘惑などの醜悪に打ち勝つ強さがなければならない。それには、謙虚さを忘れないことである。人間は人間としての分を弁えることである。人間が人間の分を知り謙虚でいるためには、人間を遙かに越える絶対者である神の存在を知ることである。人間が人知を尽くして如何に生きようが、すべては神の御旨のままに、御摂理に従って、このすべての世界(宇宙)は動いているのだ。私たち人間の生の理由(わけ)は神にあるから、人間の都合で事は運ばないし、思いどおりにもならない。それを忘れないことが実に肝要なのである。
 
 17     2.カトリック学校とパブリック・リレーション(Public Relation) (2)カトリック学校における社会的責任投資(SRI Socially Responsible Invesment )と適格検査(スクリーニング Screening) 2012年8月14日(火) 
(2)カトリック学校における社会的責任投資(SRI Socially Responsible Invesment )と適格検査(スクリーニング Screening)
 
 カトリック学校の社会的責任とは何であろうか。そして、その社会的責任を果たしているかどうかが、カトリック学校の学校評価やスクリーニング(Screening)の評価基準となるものである。社会的責任投資(SRI:Socially responsible investment)とは、一般的に企業が社会的責任(CSR Corporate Social Responsibility)の状況をもとに行う投資のことであるが、これをカトリック学校に当てはめるのであれば、カトリック学校がどれだけ社会的責任を果たしているかどうかをもとに一般市民や教会共同体の人々から投資を受けるということを意味する。
 
 一般企業、特に株式会社の場合は投資家や金融機関の資金によって運営されるから、この社会的責任投資という考え方は、重要な判断材料となり得よう。しかし、学校の場合はそもそも株式会社のような資金調達の仕組みではないから、余り意味をなさないようにも思えても当然かも知れない。しかし、本当にそうであろうか。受験生とその保護者、或いは地域住民は進学実績の善し悪しや部活動の勝敗など目に見える教育効果だけで学校を判断しているのだろうか。そして、特にカトリック学校の場合は、教会から派遣された学校であるから、教会共同体全体からも評価されるわけであるから当然のことながら、進学実績の善し悪しや部活動の勝敗等の目に見える教育効果以外に、カトリック学校の本来的使命である福音宣教という観点からも評価されているわけである。よってカトリック学校の社会的責任とは本来的学校機能の責任と共に(それ以上に)教会共同体の一員としての責任という観点が加味されることになる。
 
 では、これらの観点がどうして投資に関連するのかというと、基本的に私立学校の収入は学習者の授業料と公的補助金であることは言うまでもない。しかし、現代の少子高齢社会では、幼児・児童・生徒・学生等の学習者の減少は、ますます進展していくことは既に予測されているし、私立の幼稚園や小・中・高等学校そして短大や大学、大学院に至るまで、ほぼ例外なくといって差し支えないだろうが経営難に陥る学校が続出し、このままでは多くの私立学校が閉校に追い込まれるだろうとの予想は、私立学校の関係者ならずとも既知のことである。よって、少子化現象と人口減少が進む中、受験者数や学習者数も減り、さらには納税者も減るわけであるから、今までのように授業料や公的補助金では賄えなくなのは当然の結果である。
 
 さて、ではいかにしてカトリック学校の教育資金を調達したら良いのであろうか。それは、カトリック学校としての社会的責任を果たすことで、一般市民と教会共同体からの適格検査(スクリーニング Screening)をもとに社会的責任投資を受けることである。ただし、学校教育機関は利潤追求組織ではないから、一般企業とくに株式会社のように利潤を配当金として分配することは不可能である。しかし、前項の「2.カトリック学校とパブリック・リレーション(Public Relation)(1)カトリック学校のフィランソロピー(Philanthropy)とメセナ活動」でも述べたように、教育施設の開放や教育活動の提供そしてボランティア活動、特に福音宣教という形で還元できるものと考える。そこで、社会的責任投資の判断材料や基準になるのは、適格検査(スクリーニング Screening)であるが、カトリック学校にとっての適格検査の基準となるものは学校評価(「[ カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校(2)学校の閉鎖性と学校評価およびディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任)」を参照)そのものである。よって、学校評価は社会的責任投資を受けるための必要不可欠な条件と言えるのだ。このような観点で社会的責任投資を受けることは、カトリック学校にとってパブリック・リレーション(Public Relation)を深め、開かれた教会あるいは教会の現代化の実現に繋がるのである。
 
 適格検査(スクリーニング Screening)は、企業が行っている社会的責任経営を評価し、その評価に基づいて投資を行うポジティブスクリーニングと一定基準に満たない企業を投資先から排除するネガティブスクリーニングがあるが、当然のことながらカトリック学校が社会的責任投資を受けるには、一般市民や教会共同体からポジティブに評価されることが求められる。そのためには、目に見える教育効果だけにとらわれることなく、学習者一人ひとりを福音的人間観のもとに教育し、自己実現を果たしていけるような人間に育てることである。カトリック学校の教育の最大の目的は、学習者一人ひとりが神から授かった命と使命を生き抜く人間に導くことである。その教育目的をぶれずにしっかりと見据えて、日々の教育活動を実践していくならば、必ずや一般市民および教会共同体からもポジティブスクリーニングを受けることになろう。
 
 このようにカトリック学校にとっての社会的責任投資とは、一般市民および教会共同体の人々から学習活動や特別活動または部活動や進学実績等の本来的学校の教育活動以外に、カトリック学校の本来的使命である福音宣教という観点から評価しもらうことにあると言える。そして、社会的責任投資という考え方および方法論は、混沌とした現代社会において福音がいかに希望をもたらすものなのかという現代社会における福音の必要性を、カトリック学校をとおして宣べ伝えることで、カトリック学校の社会的存在意義の認定や存続につなげていくことである。カトリック学校が一般市民や教会共同体の人々から社会的責任投資を受けることで、ますますその社会的責任と福音宣教という使命を果たすように邁進するであろうし、ひいてはそれがカトリック学校が平和で希望に満ちた持続可能な社会を構築するという「神の御国の実現」に参与することにつながっていくのである。
 
 18     [ カトリック学校と地域社会 3.(2)A学校施設におけるバリアフリー 2012年2月3日(金) 
 もう一つのバリアフリーは、「施設・設備面におけるバリアフリー」である。
 
 本格的な高齢社会の到来を迎え、高齢者や「Challenged person」の自立および積極的な社会参加を促進していくために、公共施設や公共性のある建築物の円滑かつ安全な利用を目的として、1994年(平成6)にハートビル法が制定された。その後、その主旨をより積極的に進めるため2003年(平成15年4月1日)に改正法が施行され、更に2006年12月(平成18)に同法(不特定多数利用の建物が対象)と交通バリアフリー法(駅や空港等の旅客施設が対象)が統合され、バリアフリー新法として施行された。
 
 同法では、新たに特定道路や特定公園のバリアフリー化についての規定が追加されたが、特定建築物は努力義務に留まり、特別特定建築物では適合義務が求められている。また、地方公共団体はその実現のため、条例によって拡充強化出来ると規定しており、東京都では建築物バリアフリー条例によって適合義務対象が拡大されているという実態もある。
 
 では、学校施設におけるバリアフリー化の現状はどうなっているであろうか。文部科学省の文部科学省委嘱調査研究(2005年3月(平成17) 社団法人 日本建築学会 文教施設委員会 学校施設のバリアフリー化等に関する調査研究委員会 主査 上野 淳)によると、「学校施設は、障害の有無にかかわらず、児童生徒が学習・生活できるように整備するとともに、地域住民の生涯学習の場、地域コミュニティの拠点、地震等の災害時の応急的な避難場所としての役割を果たすことが求められており、児童生徒、教職員、保護者、地域住民等の多様な人々の利用を考慮する必要がある。」としている。
 
 このような状況のなか、2003年度(平成15)には、文部科学省において、学校施設のバリアフリー化等の在り方を検討するための調査研究協力者会議が設置され、2004年3月(平成16年)に報告書「学校施設のバリアフリー化等の推進について」が取りまとめられ、その成果を踏まえ「学校施設バリアフリー化推進指針」が策定されている。
 
 つまり、学校施設には学習者を対象とすることに留まらず、2011年の東日本大震災の際にも公私立を問わず、小・中・高・大の多くの教育機関が避難所として活用されたように、学校施設とはパブリックリレーションの観点からも、おおいに公共的性格と地域社会に積極的に貢献していくとの責任と使命を帯びているのであって、その自覚のもとにそれらの役割を担っていかなければならない。そして特に私立学校の場合は、そのような活動がフィランソロピーの活性化にも繋がっていくことになる。
 
 では、カトリック学校における学校施設のバリアフリーはどのように考えれば良いであろうか。「[ カトリック学校と地域社会 3.カトリック学校におけるバリアフリーとノーマライゼーションの(1)カトリック学校におけるノーマライゼーション」において述べたように、イエス・キリストの福音は特に「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(ルカ4:18)」とあるように、虐げられた者、病気に苦しむ者、抑圧されている者など、救いを必要としている人々のために宣べ伝えられたのものである。よって、福音を最も必要としているのは社会的弱者である。この点において、カトリック学校はイエス・キリストの福音を宣べ伝えるという使命をいただいているのであるから、可能な限り私たちが暮らす社会の中の弱者を受け入れ、それらの人々に教育機会を平等に提供し、福音を宣べ伝えるというカトリック学校としての使徒職としての使命を果たしていかなければならない。よって、「Challenged person」の学習者が日常の学校生活において支障をきたすことがないように、施設面におけるバリアフリーの整備は、カトリック学校の経営上、「心のバリアフリー」の実現とともに最も重要な達成事項である。特に、教育機関である学校施設においは、日常生活における廊下や階段の段差の解消やエレベーターなどの昇降機そして車椅子対応のトイレや誘導用ブロック等の施設面だけではなく、黒板や机・椅子等の教室環境やパソコン・体育用具等の各教科指導に関わる実技設備・教材等々にも十分な配慮がなされている必要がある。
 
 これらの学校施設におけるバリアフリー化の実現に向けては、まずどのような「Challenged person」の学習者を受け入れていくのかということが大前提になるだろうし、それは教員の配置や施設の充実など財政面における制約を大きく受けることにもなることは言うまでもない。しかし、カトリック学校におけるノーマライゼーション化の実現をイエス・キリストの福音の原点という観点から考えていくのならば、物心二面におけるバリアフリー化は欠かすことはできない。これからは、カトリック学校においても「Challenged person」の学習者が通常学級で学ぶインクルージョン教育(包括的教育 Inclusive Education)の普及が重要な課題であり、今後のカトリック学校の再福音化の重要な機会となることは間違いないであろう。学校教育現場における物心両面のバリアフリー化をもとに、「Challenged person」の人々を蔑視したり差別したりすることなく、むしろそのような人々を助け、共に生きていこうとする共生社会(ノーマライゼーション)の実現こそが、新たなカトリック学校の教育的使命であり、福音の実践課題である。
 
 19     [ カトリック学校と地域社会 3.(2)カトリック学校におけるバリアフリー」 2012年1月24日(火) 
 学校教育現場におけるノーマライゼーションの実現には、バリアフリーの確立が前提にある。バリアフリーとは、どのような立場や条件にある人々にとっても施設・設備に関して支障を来さない環境をいうのであるが、近年のバリアフリーの概念には施設・設備のみならず、社会的に保護ないし支援を必要とする人々に対する差別や蔑視をなくするという精神的な心のバリアフリーということが加味されてきている。よって、ここの項目においては、「心のバリアフリー」と「学校施設におけるバリアフリー」の二つの観点で述べることにする。
 
@心のバリアフリー
 とかくバリアフリーというと施設や設備面で論ぜられることが多いが、むしろ心のバリアフリー がより重要であると考える。なぜならば、施設・設備面におけるバリアフリーを完備させようという発想は、そのような施設・設備を必要とする人々への思いやりや配慮から出発するからである。つまり社会的に保護または手助けを必要とする年少者や高齢者あるいは妊婦、そして身体的・精神的その他のハンディを持つ「Challenged person」の人々に対する思いや配慮があってはじめて浮かび上がってくる対策がバリアフリーであると言えるからである。よって、そのような社会的弱者や「Challenged person」の人々に対する差別や蔑視または軽視が、一般的に言われる健常者の心の中にあるバリア(隔たり)の根源である。前項にも触れたが、「健常者・障害者」というような区別・分類自体が差別的な表現であって、むしろ困っている者や弱い者を助け共生していこうという人間の本来的あり方・生き方(人間を人間たらしめる習性)という観点からは、健常者と言われる人々で「Challenged person」の人々を蔑視したり差別したりする者の方こそが、障害もしくは欠陥を持っていると言うべきなのである。
 
 無論、人間には二面性があることは周知の事実である。一つには他者よりも自分を優先しようとしたり、競争に勝ち抜き他者を退けようとするエゴイスチックな面と、自分のものを他者に分け合ったり、困っている者や弱い者を助けながら共に生きていこうとする面である。心のバリアフリーとは、まさに後者の意味における本来的人間のあり方・生き方を具現化する「隣人愛」の教えに通じるイエス・キリストの福音のキーワードが込められているものである。
 
 人間関係が希薄化した今日において、「無縁社会」(NHKによる提言)の言葉に代表されるように、都心、地方に関わらず孤独死する人々が急増していることが社会問題として取り糺されている。この現象は、少子高齢社会の進行と家庭の崩壊、そして地域社会のつながりの希薄化がもたらした結果であろうが、2011年3月11日の東日本大震災を契機に再認識された、人間関係における「絆」ということにもあらわされている。バリアフリーとは、単なる施設・設備を用意することに完成されるものではなく、人間的な思いやりや弱い者、困っている者を助け、共生していこうという人間を人間たらしめる人間の本来的あり方・生き方から生まれてくる愛そのものであると言っても過言ではない。もともと人間は、助け合わなければ生きていくことができない存在なのである。だから、他者との関わりを断ち切られ、孤独になった人々は生きて行くことができないのである。親に捨てられ誰からも抱かれてもらえずに育った乳児や幼児の多くが、孤独死していくということからも、人間にとっていかに他者からの愛情や他者とのつながりが重要であるかがわかるであろう。
 
 以上の観点から、カトリック学校におけるバリアフリーは、まずは学校経営者・教職員がバリアフリーが持つ福音的観点と人間を人間たらしめる共生の観念を十分理解することが大前提である。そして、それらを日々の教育活動をとおして学習者に伝え、学習者は日常の生活の中でバリアフリーの持つ福音的観点と共生の考え方に従って行動していけるようになることが重要である。さらに、それらの実践が日常の学校生活で達成されることが理想的なのであって、この観点からカトリック学校においても「Challenged person」の学習者が通常学級で学ぶインクルージョン教育(包括的教育 Inclusive Education)の普及が重要な機会となることは間違いないであろう。学校教育現場におけるバリアフリー、特に「Challenged person」の人々を蔑視したり差別したりすることなく、むしろそのような人々を助け、共に生きていこうとする心のバリアフリーを身に付けるためには、日常の学校生活において、同じ世代の「Challenged person」が友人となり、共に生活することが日常となること重要である。このような心のバリアフリーの実現した教育環境こそが、学校教育現場におけるノーマライゼーションの実現にも繋がることとなる。
 
 20     [ カトリック学校と地域社会 3.カトリック学校におけるノーマライゼーション 2012年1月4日(水) 
 学校教育におけるバリアフリーとノーマライゼーションの意味するところは、それはおそらく、身体的・精神的そして知的能力等にハンディを持った幼児・児童・生徒とその保護者たちのことを意味するであろう。そして、そのようなハンディを背負った人々を日本社会では「障害者」と呼ばれ法的にもそのように位置づけられている。しかし、ここにおいてわたしは、あえて「障害者」という言葉を避けたい。なぜならば、日本語の「障害者」とは、「障=さわりがあって、害=じゃまをする者」という意味にも解せるからであって、それが社会的にそのような意味づけに繋がらないようにするためである。よって、ここでは英語の「Challenged person」(困難を持った人の意)を使うことにしたい。
 
 カトリック学校は、言うまでもなくイエス・キリストの教えに基づいた教育活動を行う学校であり、かつすべての学習者に福音を宣べ伝えることを使命とした学校である。そのイエス・キリストの福音は、すべての人々に開かれたものであるが、特に「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである。(ルカ4:18)」とあるように、虐げられた者、病気に苦しむ者、抑圧されている者など、救いを必要としている人々のために宣べ伝えられたのものである。よって、福音を最も必要としているのは社会的弱者である。この点において、カトリック学校は可能な限り私たちが暮らす社会の中の弱者を受け入れ、それらの人々に教育機会を平等に提供し、福音を宣べ伝えるという使徒職を使命としていると言える。
 
 そもそも、日本の「Challenged person」の幼児・児童・生徒に対する教育は、日本の教育行政の恥部であった。それは、「健常者と障害者」という差別的区分により、「Challenged person」の学習者とその保護者に、教育機会均等の権利を与えず子どもたちから人間的尊厳を奪ってきたという経緯があったからであるが、近年ようやく法的整備に伴い一般教育機関における「Challenged person」の幼児・児童・生徒に対する教育が充実してきていると言えるであろう。これらのことは、わが国における「Challenged person」に対する教育行政のあゆみを振り返ることで理解できる。
 
 日本の「Challenged person」の幼児・児童・生徒に対する教育は、学校制度上、明治23年に制定された小学校令に初めて盲唖学校に関する規定が設けられて以来、明治期後半から次第に整備が進められ、昭和22年に制定された学校教育法では、「特殊教育」として盲学校、聾学校及び養護学校並びに特殊学級が位置付けられた。また、昭和54年度からは養護学校における教育の義務制が実施されるなど、「Challenged person」の幼児・児童・生徒のための教育制度は、次第にその充実が図られてきた。これにより、「Challenged person」の幼児・児童・生徒の教育は、教育を受ける機会の確保を旨としつつ、盲・聾・養護学校や小・中学校の障害児学級(学校教育法上の名称)・通級指導教室において、障害の種類や程度に対応した教育の知識と経験等の蓄積が重ねられるとともに、施設や設備等の教育環境面の整備が進められてきたのである。
 
 さらに近年、日本の医学や心理学等および人権意識が向上・進展するとともに、社会生活におけるバリアフリーの考え方を基本としたノーマライゼーションの理念が浸透する一方で、学習障害(LD・ADHD・自閉症等)を含めた「Challenged person」である幼児・児童・生徒数の増加やハンディの内容(重度・重複)の多様化への適切な対応が教育上の課題となり、2001年(平成13)1月には、21世紀の特殊教育の在り方に関する調査研究協力者会議から出された『21世紀の特殊教育の在り方について』の最終答申の中で特別支援教育の理念が示された。
 
 その後、2003年度(平成15年度)を初年度とする『障害者基本計画』が閣議決定され、この中で教育に関しては、ハンディのある子ども一人ひとりのニーズに応じたきめ細かな支援を行うため、乳幼児期から学校卒業後まで一貫して計画的に教育や療育を行うとともに、LD・ADHD・自閉症等についても教育的支援を行うといった基本方針が盛り込まれた。
 文部科学省が設置した特別支援教育の在り方に関する調査研究協力者会議では、2003年(平成15)3月に『今後の特別支援教育の在り方について』最終報告がとりまとめられ、これまでの障害の程度等に応じ特別な場で指導を行う特殊教育から、障害のある幼児児童生徒一人ひとりの教育的ニーズに応じて適切な教育的支援を行う特別支援教育への転換を図ることが提言された。
 
 これを受け、中央教育審議会において学校教育制度等の在り方について審議が重ねられ、2005年(平成1)12月、『特別支援教育を推進するための制度の在り方について』答申が出され、この答申に基づき、特別支援教育の推進のための学校教育法等の一部改正が行われた。そして、2006年(平成18)12月22日に公布・施行された改正教育基本法では、教育の機会均等に関し、国や地方公共団体は、障害のある者が、その障害の状態に応じ、十分な教育を受けられるよう教育上必要な支援を講ずべきこととする条文が追加されたのである。(参考文献 香川県教育委員会HP第1章障害児教育の歩みと現状、今後の課題等第1節わが国における障害児教育の歩みと現況1わが国における障害児教育の歩み)
 
 以上、我が国における「Challenged person」の幼児・児童・生徒に対する公教育は、ノーマライゼーション化の普及へ向けての動きに伴い、変化・前進しつつあると言える。私たちが生活する一般社会においては、身体的にも精神的にも、また能力的にもさまざまな人々が共に暮らしているという状況から言って、教育現場においても本来「健常者・障害者」というような差別的な区別は、不自然であると共に、あってはならないことというべきであろう。共生社会の実現および教育機会均等の原則という観点からすれば、幼児教育から高等教育に至るまで、同じ教育環境において「Challenged person」の幼児・児童・生徒・学生が、教育を受けることができるようにしなければならないし、そのような教育環境が整備されてこそ、身体的・精神的・学習能力的ハンディを超えて、互いに協力し合い理解し合えるという共生社会、つまりはノーマライゼーションが教育現場において実現すると言えるであろう。私たち人間は、何人も完全な者ではなく、元来何らかのハンディや不可能(できないこと)を背負っている。そして、それは誰かの助けを必要とし、それ無しには生きてはいけないという人間存在の事実(「人間の惨めさ」)なのである。勿論、その反面である「人間の逞しさ」も人間存在の事実事実ではあるが、この表裏一体の人間存在の事実を理解するには、幼児期からノーマライゼーションが確立した教育環境で学ぶ必要がある。自分にできることできないこと、他者に協力できることできないこと、そして自分の弱さと他者の弱さを学び理解してこそはじめて共生社会は実現していく。そして、まさにこのような関わりの中にイエス・キリストの福音が息づいていかなければならない。
 
 このような観点において、カトリック学校のノーマライゼーション化の現状を顧みると、必ずしも進んでいるとはいえないと共に、社会的ニーズに十分応えているとは言えないのではないだろうか。日本のカトリック学校の多くは、昭和初期から戦後の混乱期に設立された。その時代に求められた教育的使命は、公教育の整備の遅れから、多くの子女に充実した幼児・初等・中等および高等教育の機会を提供するということであったであろう。そして、カトリック学校はその社会的ニーズに応え、特に戦後混乱期の教育的使命を十分果たしてきた。しかし、その後、公的教育機関が充実・発展した今日においては、カトリック学校におけるそのような教育的使命は既に終わったと言わざるを得ない。では、現代におけるこれからのカトリック学校の教育的使命は何かと言えば、画一化された教育によって様々な教育問題が発生し、教育の荒廃が進行しつつある教育現場に、改めてイエス・キリストの福音による全人教育の実践と共に、カトリック学校の本来的使命である福音宣教そのものといって良いであろう。つまり、これはカトリック学校の原点である福音宣教に回帰することである。このような意味においても、カトリック学校は公教育機関以上に、ノーマライゼーション化の促進を図っていかなければならなであろう。具体的には、施設的なバリアフリー化と2005年4月施行の発達障害者支援法に定められている広汎性発達障害、ADHD(注意欠陥多動性障害)、LD(学習障害)等の幼児・児童・生徒・学生の積極的受け入るための特別支援学級の設置はもとより、「Challenged person」の学習者に対する教育機会の提供によって、教育現場におけるノーマライゼーション化を図ることこそが、次代に向けたカトリック学校の再福音化につながるであろう。これらの実現に向けては、教員の配置や施設の充実など、財政面におけるハードルが高いことは言うまでもないが、カトリック学校におけるノーマライゼーション化は、カトリック学校そのものの存在意義やイエス・キリストの福音を再認識することそのものである。
 
 21     [ カトリック学校と地域社会 4.福音的な生徒募集と入試制度および合否判定のあり方 2012年8月15日(水) 
4.福音的な生徒募集と入試制度および合否判定のあり方
 
 まず、前置きしておかなければならないが、おそらくこの主題についての筆者の意見は、首都圏のカトリック学校や地方においても名門と言われるようないわゆる偏差値の高いカトリック学校の関係者からは賛同を得ないかも知れない。しかし、あえてそのような皆様方にも「福音的」という観点から今一度考え直していただくことによって、筆者の言わんとする真意を解ってもらえれば幸いである。
なお、日本における名門と言われるようなカトリック学校の伝統および現況を否定するものではないことも合わせてご理解下さるようお願い申し上げたい。
 
 では、カトリック学校の本来的使命である「福音宣教」と言う観点においてこの項の主題である「福音的な生徒募集と入試制度および合否判定のあり方」について述べることとする。
 
 さて、最初にイエス・キリストによって宣べ伝えられた「福音」とは、どのような人々に向けて宣べられたのかという原点に立ち戻ってみれば、それはすべての人々(人類)にではあるが、特に貧しい者・虐げられた者たちに向けられた「良き知らせ」であることは、新約聖書が語るところである。では、現在のカトリック学校がどれだけすべての学習者、そして特に貧しく虐げられた学習者に福音を宣べ伝えるために、門戸を開いているのかという問いが自ずと発せられよう。神の愛であるアガペー(Agape)とは、無差別・無条件に与えられ見返りを求めない完全な愛である。そして、貧しく虐げられた人々には、この無条件・無差別な愛によってしか救われないという止むに止まれぬ状況があるのである。イエス・キリストの「福音」とは、正にこのような人々のためにある。
 
 では、「福音」がすべての人々に無条件・無差別に、特に貧しい者虐げられた者に向けて宣べ伝えられたものであるという観点から、カトリック学校の生徒募集を考えるならば、すべての幼児・園児・児童・生徒・学生に受験機会が与えられなければならないという大原則が基本になければならない。そのうえで、それぞれの学校の建学の精神や教育施設そして学習者の許容人数等の条件で選抜していくことになる。
 
 次に、その選抜に関わる入試制度についてであるが、先に述べた「福音」が誰のために宣べ伝えられたものかという観点から、特に貧しい者・虐げられた者を排除するようなことが決してあってはならない。むしろ、「福音」を必要とするのはそのような人々なのであるから、そのような受験者および保護者が「福音」を切に求めるのならば(志望理由の第一としているのならば)、積極的に入学を許可することが望ましい。また、日本におけるカトリック学校は私立学校であるから、高額な学納金を支払うことができない経済的困窮者についても、それらを十分に補うだけの奨学金や特待制度等の措置を設けておかなければならない。また、「第二バチカン公会議のキリスト教的教育に関する宣言」にあるように、カトリック学校には、カトリック信徒の家庭の子女に対する司牧もその使命にあるのだから、カトリック信徒の学習者についても積極的に入学させる用意がなければならない。
 
 更に、「福音」が分け隔てなく、すべての人々(人類)に向けて宣べ伝えられたという観点や人間は神の前においてみな平等であるという観点から、カトリック学校におけるクラス編成は自然学級であるべきではないだろうか。そのためには当然合否判定において、入学試験特に学力考査のみの点数で選別することは相応しいと言えないであろう。私たちが暮らす社会は、さまざまな人々によって構成され、日々の生活はそのようなさまざまな人々の中で織りなされるのである。学力が高い人、低い人、意志の強い人、弱い人、運動能力が高い人、低い人、情感の豊かな人、貧弱な人等々、人にはさまざまなパーソナリティがあって、さらには善人もいれば悪人もいるし、善人の中にも悪の心があり、悪人の中にも善意があるという有象無象の集合体が現実社会なのである。よって、そのような社会に適応していくためには、幼い頃からそのような環境で生き、それぞれの成長過程における発達課題を乗り越えて人格を形成していく必要があるのだ。学校は、社会の縮図であると以前にもお話しした。もし、学校社会が一定の学力や同じ考え方、または似通った家庭環境の学習者だけを集めたのならばどうなるであろうか。日本には学力偏重志向が強いから、学力の高い学習者だけを集めれば、偏った優越感を持つようになるだろうし、低い学力の学習者だけを集めれば劣等感で自分を卑下するようになるのは当たり前であろう。そのような教育環境では、優越感や劣等感を助長することにはなっても、他者を思いやったり、弱い者を助けるなどの相互扶助や共同体意識を持つことができる人間を育てることは非常に困難である。
 
 確かに入試選抜の合否判定において、学力以外の能力や心のあり方などを点数化したり、客観的に判断することは非常に難しい。しかし、あえて学力以外の能力や感性および資質をさまざまな方法で判断することで、カトリック学校に相応しい学習者を選抜できると筆者は確信している。そして、学力を中心とした輪切り的な選抜によってではなく、広くさまざまな能力や感性を持った学習者を入学させることで初めて、カトリック学校は福音的共同体を目指していけるのではないだろうか。
 
 1549年、フランシスコ=ザビエルによって初めて日本に福音が宣べ伝えられたが、豊臣・徳川氏の禁教令によって明治時代に至るまで日本の福音化は閉ざされた。しかし、幕末の開国以来徐々に多くの外国宣教会や修道会が来日し、教会やカトリック学校そして福祉施設の建設に尽力することで、日本の再福音化が試みられてきた。しかし、日本は日清戦争や日露戦争、そして第一次世界大戦や日中戦争そして太平洋戦争など幾度もの戦争によって、日本の再福音化は再び阻まれた。そして、戦後更なる日本の再福音化が本格化するが、1950年代後半以降の高度経済成長の活気に宗教心や心の豊かさの重要性はかき消されてしまうこととなる。
 
 そのような環境の中で日本のカトリック学校は、高所得者・高学歴のステータスシンボルにさせられてしまったか、それを選択していったのではなかろうか。勿論、学習能力の高い学習者に福音を伝え、エリートを育成することで国家機関の高官や大企業の経営者を福音化するという方法もあろうが、それはイエス・キリストの本来的福音の趣旨ではないのではなかろうかと考える。そして、戦後70年近くなるが、日本のカトリック信徒の数は大幅に増えることはなく(信徒数が増えればいいというものではないことは分かるが…。)停滞している。
 
 今後、少子高齢社会が進展していけばいずれ明確になることだろうが、日本のカトリック教会の信徒数は減少し、司祭や助祭等の聖職者や修道会の奉献生活者もかなり減っていくことであろう。その時にカトリック学校を含めた教会共同体が「福音宣教」という使徒職を如何にどれだけ果たしたかが問われることになる。信仰を受け継ぎ、引き継ぐということは、家庭においても教会においても、カトリック学校においても、外国宣教師会や修道会においてもそう容易いことではない。カトリック学校がその本来的使命である「福音宣教」を怠れば、その存在価値を失うだけでなく、イエス・キリストの福音を宣べ伝えることができるという貴重で大きな喜びを自ら放棄することになるのである。
 
 22     「福音的人間観と福音的教育観」(「福音的自己実現とは何か」)1.福音的人間観 2011年11月2日(水) 
1.福音的人間観
 
 人は、男女の結びつきである結婚をとおして、絶対者である神から固有の生を授かり、そしてその生は、父母を中心として家庭や学校および社会の中で育くまれ、やがては自己実現を果たしていく。
 
 キリスト教的宗教観ないしは福音的観点に立った人間観とは、『私たち人間の一人ひとりは、神が計画されている御国の完成のために、神がその人をお望みになり必要とされたからこそ、それぞれが固有の生を授けらるとともに、固有の使命と存在価値を与えられたのであって、私たち人間の一人ひとりは、神よりこの世に神ご自身の意思によって招かれた、かけがえのない存在である。』というものである。よって、どのような人間のいのちも存在も、誰からもまたどんな理由によっても否定されることのない、絶対的存在である神に由来する最も尊く至高のものであると言える。
 
 その根拠となる部分を旧約聖書の中の人間観に見つけることができる。
 
 『神は言われた。「我々にかたどり、我々似せて、人を造ろう。そして海の魚、空の鳥、家畜、地の獣、地を這うものすべてを支配させよう。」神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。神は彼らを祝福して言われた。「生めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ。海の魚、空の鳥、地の上を這う生き物すべて支配せよ。」…中略 神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ、それは極めて良かった。』(創世記1:26〜31)
 
 この部分は、人間が神によって神の似姿として創造され、その存在が極めて良いものであるという、人間の存在そのものにおける根源的な本質を表しているものに他ならず、人間が神によって、しかも神の似姿として創造されたと著することで、人間の本質を神の絶対性を根拠として崇高で尊厳な存在であるものとして位置づけているのである。また、他の箇所にもこうある。
 
 『全能のゆえに、あなたはすべての人を憐れみ、回心させようとして、人々の罪を見過ごされる。あなたは存在するものすべてを愛し、お造りになったものを何一つ嫌われない。憎んでおられるのなら、造られなかったはずだ。あなたがお望みにならないのに存続し、あなたが呼び出されないのに存在するものが果たしてあるだろうか。命を愛される主よ、すべてはあなたのもの、あなたはすべてをいとしまれる。』(知恵の書11:23〜26)
 
 ここにおいて人間とは、神の被造物であるゆえに、神とのつながりにおいて常に愛されて、罪からも回心することによって刷新されて自由に生きる存在であることと、人間は神に望まれて呼ばれたからこそ、存在している者であることを明言している。このように、旧約聖書に見られる基本的人間観は、神の愛とのつながりである信仰において、人間の存在の根源が神そのものであるからこそ、肯定的に是認されて存在する者として位置づけられているのである。
 
 しかしながら、このような旧約聖書における人間観が、人間そのもののあり方を完全視するというものではない。それは、人間の存在を肯定的に認め価値ある者とする根拠は、あくまでも神の愛とのつながりにおいてという前提のもとなのである。そして、そのつながりを断ち切るとどのようになるかということは、創世記のアダムとエバの罪による失楽園の物語(創世記3:1〜23)に著されているとおりである。そして我々人間は、根本的に罪につながれているという、いわゆる原罪を持っており、それ故に神がこの世に使わされた主イエス・キリストの十字架の罪の贖いによるゆるしなしには、生きて行くことができない存在であるのだ。ここに旧約から新約へと発展・完成される神の人間への救いの業が、イエス・キリストによる贖罪と復活をとおして示された全能の神の愛への信仰によって、全人類が永遠の命に復活することができるという新訳的(福音的)人間観が示されたのである。
 
 このように福音的人間観とは、旧約聖書においては、個々の人間一人ひとりが、神の御国の完成のために御旨に沿って望まれてこの世に生を授けられ、神の御計画の業に参与するために固有の命と使命を与えられた、かけがえのない存在であるというものである。そして、唯一絶対の神への揺るぎない信仰によって、大国や他民族からの支配という苦しみから解放され、約束された安住の地(土地)としての神の国へと招かれるというものである。
 
 また、新約聖書においては、神の御一人子であるイエス・キリストという救い主の御業である十字架上の苦しみと死(人間の罪の贖いのためのいけにえ)によって、全人類が罪から解放され、永遠の命へと復活するという神の人類に対する永遠の愛が示されたのである。これがイエス・キリストをとおして現された神と人間との新しい契約なのであって、かつ私たち人類が、この救いに与り罪から解放され、永遠の命に復活することができる存在であるということこそが、新約聖書に示された福音的人間観なのである。
 
 よって私たちカトリックミッションスクールの教職員は、以上のような福音的人間観をもって日々の教育活動に従事しなければならないとともに、学習者の一人ひとりが神から授けられた命と固有の使命を持った存在であると同時に、イエス・キリストをとおして示された福音、特に永遠の命に与る存在でもあることを、常に意識して教え育て導いていかなければならない。福音的人間観とは、まさにカトリック学校における教育理念の根幹そのものであり、根源的な人間存在をどう捉えるかという普遍的概念である。
 
 23     「福音的人間観と福音的教育観」(「福音的自己実現とは何か」)2.福音的教育観 2011年11月7日(月) 
2.福音的教育観
 
 教師が100人いれば、100通りの教育観をそれぞれに述べるであろう。しかし、カトリック学校において教職員の教育観が、個人的な主義・主張のように異なるようなことがあってはならない。勿論、日本国憲法が認めるところの個人における思想・良心の自由や信教の自由を阻むものではないが、カトリック学校の教育観はあくまでも先に述べた福音的人間観に根ざしたものでなければ、カトリック教育の実践は成り立たない。よって、カトリック学校に奉職する教職員のすべてが、共通した教育観をもって日々の教育活動に従事し、カトリック学校が目指す福音共同体の完成に向けて一致して協力していかなければならない。よって、この福音共同体の一員となることに賛同・同意できる者のみが、カトリック教育の実践に参与していくことができる教職員となれるのである。
 
 では、福音的教育観とはどのようなものであるかというと、その根底にあるのは、「人間とは、神の被造物であるゆえに、神とのつながりにおいて常に愛されて、罪からも回心することによって刷新されて自由に生きる存在である。また、人間は神の御計画に従って神に望まれて必要とされたからこそ、神に呼ばれ招かれた存在であるということ。よって、人間の存在には、神の計らいにおける必然性があり、そのために人間個々に与えられた固有の命と使命が存在し、人間はかけがえのない存在となる。よって、人間は、神の愛とのつながりである信仰においてのみ、初めて肯定的に是認された存在する者となり得るのである。さらにその存在は、神の御一人子、救い主イエス・キリストの御業である十字架上の苦しみと死(人間の罪の贖い)によって、全人類が罪から解放され、永遠の命へと復活するという、神の人類に対する永遠の愛が示されたことによって、私たち人間はこの救いに与り罪から解放されて、永遠の命に復活することができる存在となったのである。」という福音的人間観である。この福音的人間観を根幹にした教育理念こそが福音的教育観ということになるのだが、具体的な要素としては、学習者個々の存在を以下に述べることがらとして受け止め、学習者個々の自己実現を果たしていけるように導くということが福音的教育観ということになる。
 
 (1)学習者一人ひとりの存在を、神の御計画に従って神が必要とされたからこそ、神によって愛され、神より授けられた固有の命と使命を持った存在であると受け止め、個々の学習者がこの観点において自己実現できるように教え導くこと。
 
 (2)学習者の一人ひとりは、主イエス・キリストの贖いによって罪から解放され、永遠の命に復活し神の国に招かれている存在である(学習者の一人ひとりは、イエス・キリストをとおして示された福音に与ることができる存在である)と受け止め、人間は回心と信仰によって罪から解放され、ゆるされて生きていく存在であることを、学習者一人ひとりに教え説くこと。
 
 (3)学習者が自己の存在を福音的人間観を根拠に肯定的に受け止め、自分に与えられた命と使命を果たし本来的な自己実現を達成させることによって社会貢献し、神の御計画の完成に参与する者となり得るよう教え諭すこと。
 
 以上が、福音的人間観を根拠とした福音的教育観というものであるが、これらを教育活動の根幹と位置づけて、それぞれの学校教育機関において、教育基本法及び学習指導要領等に則り学習活動や特別活動および学術研究活動等を実践していくこととなる。特に、それぞれの人間の成長の発達段階における発達課題である「基本的信頼の育成、および自立性・主体性・勤勉性・アイデンティティの確立」を養い育てていくことが重要であり、福音的人間観及び福音的教育観から個々の学習者を捉えてそれらを実践していくことが最も重要なことなのである。そして、それらを完成させるために、それぞれの教育機関における人間の発達段階における固有の教育的使命または目的を、日々の教育活動の実践をとおして果たし、最終的には学習者個々における人格の陶冶を図っていくことになる。その学習者個々の人格の陶冶の結実こそが、神が御国の完成のために、御自分のみ計画に従って私たち人間の一人ひとりに、固有の命と使命をお与えになり、かけがえのない存在とした所以であるととに、その命と使命を他者との関わりの中で全うして初めて神の御計画に参与する者として、福音を生きる人間となることができるのである。
 
 このように福音的教育観とは、学習者の個々が神より自分に与えられた命と使命に覚醒し、福音を生きる人間として完成されるための、人間の教育全般を貫く概念そのものである。
 
 24     「福音的人間観と福音的教育観」(「福音的自己実現とは何か」)3.福音的自己実現と教育目標 2011年11月24日(木) 
3.福音的自己実現とカトリック学校の教育目標
 
 カトリック学校における教育目標は、福音的人間観に基づいた福音的教育観による学習者個々の人間の発達段階に応じた福音的自己実現達成のための援助活動の実践に他ならない。
 
 では、福音的自己実現とは何であろうか。それは、福音的人間観に基づく自己実現のことであり、私たち人間は、神が御国の完成のために御計画に従って、個々の人間に固有の使命を与え、それを果たすために命を与えられて生きる者となったわけでああるから、その使命を全うすることこそが福音的自己実現ということになる。
 
 そもそも、私たち人間の誕生は、何人も自分の意思決定によって生まれてくるわけではない。では、両親による意思決定によるものかといえば、どんなに子を望む夫婦にでさえも、子が授からない場合もあることからもわかるように、夫婦の意思決定だけで新たな命が誕生するとも言えない。と同時にそれは、命の誕生以外に人間の成長についても同じようなことが言える。全ての子どもは母親から生まれ、両親をはじめ家族の愛情によって育まれていくが、その我が子でさえも決して親の思い描いたとおりには育たないものである。何故ならば、人間の成長とは予め持って生まれてきた性格や能力、気質などは、先天的に持って生まれてきた要因と後天的に備わった要因とが織りなされ、両親からは独立した個としての人格が形成されていくからであり、それは取りも直さずそれぞれの人間が神から与えられた使命を果たさんがための必然的な成り行きというものである。
 
 また、個々の人間の一生においても同じことが言えよう。自分自身のことでありながら、自分の力ではままならないことがあまりにも多いのが、人の人生というものである。人は自己の人生を自分自身のものであると受け取りながらも、その全てが自分の意思決定のままに果たされないことを知っている。では何故、自分自身の人生でありながら、自分自身の意思決定が及ばないことや誰もが望まない予期せぬ不幸なこと、喜ばしいことなどが起きるのであろうか。実はそこには、自分自身以外の何者か(神もしくは他者)の意思決定や自然の摂理(自然現象)が働いているからなのである。そして、人の幸不幸ということに関していえば、それは人間の独善や偏見によって判断しているに過ぎないもので、同じ現象に対する評価や判断が、個人によって分かれるのと同様に、人の幸不幸もまた絶対的な価値なのではなく、あくまでも相対的な価値に過ぎないものなのである。
 
 とは言っても、その相対的な価値である幸不幸に左右されるのも人間の性というものであろう。だからこそ、私たち人間は幸福な人生を送るためにも、自己の命や人生が何のためにあるのかということを、実存的に探し求めその目的を見出していかなければならない。そこで福音的な実存を見出すということは、神と自己との関わり(信仰)においての自己実現とは何かを模索していくという福音的自己実現の探求ということに帰着するであろう。そして、それを探求することで、この世にたった一人しかない一度だけの自身の命や人生の目的や使命を悟り、福音的自己実現へと向けて生きる者となるのである。
 
 よって福音的自己実現とは、自分自身や他者の意志によって決められた個人的な人生における目標を達成させる個人的自己実現とは全く違うものである。時には福音的自己実現と本当に自分が望んだ個人的自己実現とが乖離することさえある。それは、神が御国の完成のために、その人に望み求めたあるべき本来的自分と自分自身が描いたなりたい自分との差異であって、また必ずしも福音的自己実現のみが尊い価値のあることとは限らないものの、両者の自己実現はいずれも神から与え給わった自由意志によって達成されるということと、福音的自己実現と個人的自己実現とは、根本的に神との関わりである信仰の中から見出した自己実現と個人的な欲求や欲望から見出した自己実現とは異なるということだけは明らかなことである。そして、神は私たち人間に自由意志をお与えになったので、人間一人ひとりの自己実現のあり方がどのような形であろうが、神はそれを私たち人間の自由意志に任せられるのである。
 
 しかし、人間の自己実現が誰のあるいは何の援助もなしに成し遂げられるかというと決してそうではない。特に福音的自己実現は、神と自己との関係である信仰の中から初めてそれを見出すことができるものであるから、まずは神または福音との出会いや邂逅、そして神や福音に対する覚醒や気づきさらには回心に至るという信仰体験がなければならない。そして、そのような信仰体験があって初めて、神から授けられた命と使命を全うしようとする福音的自己実現へ向けての働きと努力が始まるのである。その達成のためには並々ならぬ労苦がともなうであろうし、さまざまな誘惑や試練そして挫折をも味わうことになろう。だからこそ人には信仰を生き続けるため、福音的自己実現を果たすために相応しい導き手・助け手がどうしても必要なのである。
 
 以上のような観点でカトリック学校は学習者にとっては、神や福音との絶好の出会いの場、福音的自己実現へ向けて生きようとする気づきの場そして鍛錬の場となる。だから、そこで働くわたしたち教職員はそのための良き導き手・助け手でなければならないし、それに相応しい者であるよう日夜研鑽を積むとともに、自己の信仰を新たにし深めていかなければならない。カトリック学校に奉職する私たち教職員は、学習者一人ひとりの福音的自己実現を果たすための教育活動に対する正しい理解と熱意のもと、常に良き牧者であるイエス・キリストに倣い学習者の良き導き手・助け手を目指していかなければならない。
 
 よってカトリック学校における教育目標は、たとえ設立母体がどこの修道会や宣教師会あるいは教区であろうとも、また各学校で校訓が違っていたとしても、そして教育目標をどのような文言で表現しようとも、目的とすることは同じでなければならないはずである。それは、福音的人間観に基づいた福音的教育観による学習者一人ひとりの福音的自己実現の達成を果たすために、学習者それぞれの人間の発達段階に応じた発達課題を実現させる教育目標でなければならない。そして、そのような教育目標を達成させていくことで学習者は本来的自己に出会い、気づき、発見して、さらなる自己を見出し成長しながら、福音的自己実現へ向けて神から与えられたその命と使命を果たすために、神と他者との関わり(信仰と社会)の中で、地の塩、世の光となって、自己の人生を真に力強く生き抜いていく者となるのである。
 

Last updated: 2014/10/22

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