「裁いてはならない。そうすればあなた方も裁かれるであろう。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなたがたも罪に定められないであろう。ゆるしなさい。そうすればあなたがたもゆるされるであろう。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺さぶり、こぼれるほどますの量りをよくして、あなた方のふところに入れてくださるであろう。あなたがたが計るそのますで、あなたがたも量りかえされるからである。
(ルカ6:37〜38)

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カトリック教育 Catholic Education

『時のしるし』を見きわめ、主の道を歩もう。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
 
わたしたちもキリストにおいて一つの体であり、一人びとり互いにキリストの一部分なのです。わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜を持っているので、それが預言の賜であれば信仰に応じて預言をし、奉仕の賜であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです。
(ローマ12:5〜8)
 
カトリック教育とカトリック学校
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 1     北海道カトリック学校宗教科教育研修会基調講演 2014年10月22日(水) 
テーマ「福音共同体をめざすカトリック学校の実現のために」
 
1.福音共同体とは、どのような共同体をいうのか?
 
(1)本質的エクレシア(共同体)としての教会
 イエス・キリストに救いを求めて集まって来た人々の共同
本来的には、「教え・教義」的要素の意味合いはない。18〜19世紀、中国に渡った宣教師が「教会」と訳してしまった。日本においては江戸時代末期福音書の日本語訳を試みたギュラッフ牧師が、エクレシアを「寄り合い宿」と訳しており、明治になってからはヘボン先生が「集会」と訳している。明治半ば、プロテスタントの学者が中心となった翻訳委員会で「教会」と訳され、それが定着してしまった。
 
 (2)エクレシアの原語による本来的意味
   誰かの呼びかけに応じたり、惹かれたりして集まった人々のグループ、団体、党派。しがって、「エクレシア」の定義は、キリストに出会い、キリストに魅了され、キリストを 自分たちの人生を支え照らす存在として核心を抱いた人々の集まり、共同体である。
 (3)福音共同体
  イエス・キリストに救いを求め、もしくは共感し、その福音を実践しながら、すべての人々に広めるために集った、現代を生きる共同体。
 
    ※よって、カトリック学校が福音共同体となるためには、福音理解および本質的エクレシアとしての共同体理解とその実践が行われているか、その努力がな
     されていることが重要である。
 
2.カトリック学校が福音共同体となるための具体的方法論
 
 (1)福音理解(知識(人間学・哲学)として)
  @聖書における人間理解(聖書の人間観)
   1.人間の根源的存在(ネフェシュデでバーサールな存在)=不完全で欠けたところを持ち、その充足なしには生きていけない者。よって神の無条件のケノーシス(神の愛)によってのみ満たされ生きる者となる人間。神は人間にその自由意志によってご自身に招き、人間の神への応答を忍耐強く待ち続けている。ご自分との出会いに招く神とそれに応答しようとする人間の関係理解。(神の無条件の愛への気づきと、それに応えようとすること=神との出会いと応答=人間が真に生き、人生を幸福にするメッセージである「福音」を生きること。→福音の学びと実践。
 
 Aイエス・キリストの福音理解
  1.神の国の到来
  2.イエス・キリストをとおしての神の救いと永遠のいのちへの復活
 B聖書の人間観とイエス・キリストの福音の教職員個々の理解と教職員間の共有
 C聖書の人間観とイエス・キリストの福音の生徒個々の理解と生徒間の共有
 D聖書の人間観とイエス・キリストの福音の生徒および教職員間の共有
 
  ※職員研修や修養会および宗教の時間をとおしての福音理解の実践。教室・職員室等、学校全体が回心の場になっていることが重要。
 
 (2)共通の目的の共有
  @一般的教育活動としての教育目的
   1.知育、体育をとおしての人格の陶冶(生徒指導および進路指導とその達成など)
 
  ※学校共同体として一致するための最低限の条件(段階的なものではなく他の要件と同時進行的な要素として)
 
  ※学習者の成長は、学校教育に関わる全ての者の共通の目的であり願いであり、信仰の有無や違いを超え、学校共同体として完全に一致できるもの。→しかし、これだけではカトリック学校の独自性や差別的優位性にはなり得ない。
 
 Aカトリック(キリスト教主義)学校としての使命(Mission)
  1.福音に根ざした人間観(キリスト教的人間観)と教育活動(アシステンツァと協働等)
   a.人間の構成要素=肉体・精神・霊
   b.人間の成長=知的成長・肉体的成長・精神的成長・霊的成長(カトリック学校の教育は四輪駆動か?→そのエンジンは?共同体の中に入り込んだイエス・キリスト)
   c.常に学習者とともにある教職員の教育活動の実践
 
  2.福音宣教(信仰教育ではない宗教教育として)
   a.教会の本質的使命(教会の権利と義務 宣教教令2)
   b.福音宣教の場としてのカトリック学校
  3.福音をとおして学習者に回心と限りない希望を与えること
 
 B設立母体修道会・宣教会等(教区)の霊性と使命の共有と保持
 
 Cカトリック学校が目指す学習者像(自己実現と自己奉献する人間)
  1.イエスキリストの教えと行いに従って、他者、特に小さな人々(貧しい人・苦しんでいる人・悲しんでいる人・虐げられている人・病人など)に自ら仕える(奉仕する)人間→各学校のプロファイル
  2.私たちが生きる現実社会の中で、他者に生きる希望を与え、自ら実現しようとする人間(神の平和と正義の実現に努める人)
 
 C生活共同体としての目的
  1.教職員の自己実現と自己奉献(生徒および教職員に対して)
  2.生活の糧(収入)を得る手段として
 
 ※カトリック学校に奉職する教職員の姿勢には、共通の目的を達成するために、生徒への自己奉献と教職員間の一致(福音共同体への完成)が求められる。また、カトリック学校     におけるすべての教育活動の根底には、イエス・キリストの福音の精神が反映されていることが求められることは言うまでもない。
 
 (3)学校教育活動全般にわたる福音の実践(知識の実践とその具現化)
 @一教師、個としての福音の実践(孤立化・個人主義的に陥らないように、共同体として)
 
 A教師団、集団としての実践
  ※アイステンツァと協働の精神
 
 B生徒個々および集団としての実践
 
(4)学校共同体としての福音の実践
 @福音実践と福音共同体への導き手(リーダー(理事長・校長))の必要性と不可欠性
 
  1.学校経営体は一般企業体同様に、基本的に校長裁量や理事長裁量の独裁(独裁が必ずしも悪いという訳ではない)か、もしくは理事会の決定によるものであるから、これらの人々や機関によって福音共同体の完成を目指すとの意識や目的があるかどうかが問題で ある。特に、カトリック教会や学校のように保守的な環境においては、改革・刷新は敬 遠されがちである。(一般的に人は、変化を嫌う)
  2.経営者の意識改革と福音共同体の完成への挑戦。学校経営のための公立学校退官者登用傾向がカトリック学校の精神や特徴を希薄化。(修道会が学校経営から撤退し、一旦は公立学校退官者を登用(断定的に相応しくないというわけではない)したが、その後カ トリック信徒の校長が就任したことでカトリック色を取り戻そうとの試みが為されている学校もある。→パウロ学園 東京八王子)
 
 A協働者・共感者とその育成と必要性
  1.共同体の核となる信徒教職員および共感者
  2.教員研修会
   a.養成塾(関東圏(月2回、年2回の合宿)・大阪・東北)
   b.校内研修会
   c.私設研修会(仙台市宗教教師の集い=カトリック学校に勤務する教員の集い(月2回))
 
  ※あくまでも開かれた集いとして、排他的・独善的・原理主義的であってはならない。
 
 B導き手(リーダー(理事長・校長))の一般教職員に対するアイステンツァと協働
 
 C教職員の生徒に対するアイステンツァと協働
 
 D教会組織との連携
  1.教区・小教区との関わり(司教・司祭・奉献生活者との協力と連携)
  2.全国カトリック学校連合会やカトリック学校教育委員会との関わり
 
  ※福音の実践は、個人主義的な方法論で実現するものではなく、あくまでも共同体をとおし て実現するものである。
 
3.カトリック学校が福音共同体となるための難しさ
 
(1)カトリック学校に奉職する教職員の一致の困難さ
 @教職員が皆、キリスト者ではないこと。
  1.キリストに共感する者たちの集いとしての一致
  2.共通の教育目的の実行者としての一致
 
 A信徒教職員間における共通理解と協力の有無
  1.信仰とエウカリスティアによる一致が可能→共同体として集うことが求められる。
 
  ※信徒間であっても、ミステリウム・サクラメンティウムをとおしたエウカリスティアの      集い(ミサ)による完全な一致(イエス・キリストに対する信仰をとおした信じる者としての一致)が無ければ困難。
  2.信徒としての教会共同体の一致の難しさ→生活互助的役割と福音を宣べ伝えるための生きた(内にも外にも開かれた=受容と能動)共同体としての機能の有無
 
  ※秘跡をとおして、教会共同体が一致を目指していながらも、その困難さはある。信仰理解の不一致と個人主義的信仰理解の蔓延および神学的知識の不足。(現代教会共同体が本来的エクレシアとしての共同体性を失いつつあるのではないか?教皇フランシスが指摘の通り、現代のキリスト者の信仰理解は神と個人との関係のみの個人主義的救いとしての信仰に陥っており、教会共同体としての信仰理解が欠如しているのか?→日本の小教区・司祭・奉献生活者召命の減少につながっているのか?)
 
 B聖書をとおして福音を共有するための集いの有無
  1.日々の教育活動の忙しさの中での物理的(時間や場所および資金)制約
  2.聖書やカトリック教育を学ぶことの個人的・共同体的重要性の位置づけ
 
 C聖書はカトリック学校における教育理念の源ではあるが、聖書そのものはあくまでも信じる者を対象として書かれた書物であること
 1.教職員における福音の学びと共有の自発的意志の有無
 
  ※信仰ではなく、宗教学・哲学・人間学としての学び(信仰として捉えることでの抵抗感と束縛感・拘束感)
 
 2.教職員に指導する講師の存在の有無
 
  ※司祭や奉献生活者の高齢化と減少およびそれによる多忙化
 
 D教師団や教員そのものがもつ個々人の教育観による不一致
  1.一般企業に比較して、学校組織の経営目的が不明瞭かつ周知徹底が弱いこと。
 
(2)各学校の設立母体である修道会の霊性を受け継ぐことの困難さ
 @修道会の霊性とは、会員の生き方そのものであるから、私たちカトリック学校の教職員が信徒・非信徒にかかわらず、その霊性を完全に生き、受け継いでいくことは難しいであろう。
 
※ カトリック学校は教会から派遣された学校であるが、信仰共同体として一致することは難しい。しかし、イエス・キリストの福音を非信徒教職員が人間学・哲学として学び、学校共同体全体として共有することで、学校共同体が福音共同体として一致することは可能ではないだろうか?(多様性の一致)
 聖書における人間観を基本とするならば、人間は「神との良好な関係」神の人間に対する無条件の愛(ケノーシス=神の自己無化)に対する応答によって築かれるものであるから、カトリック学校に奉職する教職員にもその応答が求められていることになる。また、神は私たち人間の人格を尊重し、人間の自由意志によって神の愛に応答することを絶えず待っておられる
 よって、私たちカトリック学校に奉職する教職員は、教育活動をとおして神の愛およびイエス・キリストをとおして宣べ伝えられた福音にたいしてどのように応答するかが問われている。
 以上の観点において、私たちカトリック学校に奉職する教職員および学校共同体が、どのような応答をするかによって、福音共同体としての一致の是非とその可能性が見出される。
 
4.これからのカトリック学校の課題と提言
 
カトリック学校の再編成・再構築 −カトリック学校の第三創設期をめざして−
現代におけるカトリック学校が、第三期創設期として社会に何を提供できるか?したいのか?
 
(1)日本のカトリック学校のあゆみを踏まえて
 @日本の再福音化時代(幕末・明治〜戦前)
  1.日本人の救霊 パリ外国宣教会の要請に応えて各修道会による独自の活動
   a.児童養護施設、病院、学校の建設(学制の要請と欧化主義政策に応える)
   b.教育の一般化は、平均化を嫌う支配者階級が子女を私立学校へ入学させる現象を生む。(キリスト教主義学校の特化)
  2.国家主義の反動による試練
 
  ※この時代においてはカトリック学校の使命が福音宣教であることがほぼ明確されていたが、国家・国粋主義によって、その形を変更せざるを得なかった。
 
 A大正から昭和初期の興隆期 カトリック学校の春の訪れ
 
 B戦時下の国家・軍国主義による統制強化と迫害
 
 C戦後の教育制度と混乱期における教育機関の提供
  1.戦後の荒廃した社会の教育機関の要請に応えて
  2.新たな教育制度による各修道会の自由な教育活動と発展
 
  ※この時代以降、カトリック学校の使命は必ずしも福音宣教を第一の目的としなくなったか、国家主義時代の圧力をかわすための手段(福音宣教の目的を希薄化させる こと)が継承されていったのか。しかし、設立母体である修道会会員の存在によっ て福音宣教の使命が果たされ、会員も増えていく。
 
 D高度経済成長による価値観の多様化
  1.経済的繁栄による国民の高所得化がカトリック学校の需要を増させ、表面的にはカトリック学校の興隆を見ることとなる。(上流思考の激化)
  2.カトリック学校の興隆の反面、カトリック学校としての本来的使命である福音宣教の目的が希薄化する。
 
 E第二バチカン公会議以降→本来的教会共同体への原点回帰
  1.教会のアジョルナメント(現代化)→カトリック学校への批判
  2.第三期創設期→現代社会のどのような要請に福音の必要性を見いだすか?→各修道会理事会の新たな選択が求められている。=各学校におけるこれまでの教育目的の再確認と新たな歩み
 
  ※現代の児童・生徒の貧困化にどう応えるか?日本社会のグローバル化に伴い、増加する外国人労働者の子女に対する教育の必要性にどう応えるか?(NPO等の民間団体との連携やカトリック学校としての独自の展開)
 
(4)新たなカトリック学校の枠組みの構築
 @カトリック学校教育委員会やカトリック学校連合会および教区との連携
 
 A理事会・学校の統廃合(理事会の「時のしるし」の読解力と決断力および人材確保)
 
  ※経営体力の維持(資金提供)・人事交流の必要性
 
 B資金提供機関の設
  1..設立母体の修道会からの援助を基本としてきたカトリック学校→修道会の経営体力の弱化によるカトリック学校の独立採算制の強化と常識化
  2.カトリック学校の教育目的の不明瞭化に伴う福音宣教力の衰退化→修道会本部・教区から援助を期待できない(日本の福音化にはつながらない)。
 
 Cこれまでの設立母体である修道会の霊性を基本に継続していける学校とそうではない学校との選択の相違
 
 D教区長と理事会との共通理解と連携および新たなカトリック学校の構築に向けての具体的実践
  1.修道会の撤退以前の準備としての構想(修道会が学校経営から撤退しなければならない場合
  2.修道会独自の事業であるとの発想からの脱却(修道会が学校経営から撤退しなければならない場合)
  3.信徒子女のためのカトリック学校の必要性
 
  ※いずれにせよ、各カトリック学校間の連携、教区やカトリック学校教育委員会およびカ トリック学校連合会との新たな連携なしには、カトリック学校の存続が難しい時代となっている。→教会共同体・福音共同体としての本来的信仰が問われているのではないの か?私たちの信仰は、原始キリスト教時代から個々人による信仰ではなく、教会共同体としての信仰が求められてきている。
 
(5)教職員のカトリック教育力の向上(カトリック学校としての差別的優位性=学校の特色)
 @カトリック学校に奉職する教職員一人ひとりの福音理解とその実践
  1.校内外の研修会制度の構築と確立
  2.司祭・奉献生活者および信徒間の連携(非信徒を排除するものではないが、信じる者と 信じない者との違いはあるのではないのか。しかし、洗礼の有無によって決定づけられるもので はなく、信仰を生きているか生きていないかの差異である。)
 
 Aカトリック学校教員免許制度の必要性(差別化のためではなく、多様性の一致のため)
  1.福音理解のための知識の必要性
  2.教育理念・教育目的の統一性
  3.福音共同体への協力の一致(学習者のための多様性の一致)
 
(6)本来的協会共同体(エクレシア)としてのカトリック学校
 @カトリック学校が福音共同体として生徒・教職員の回心(メタノイア=キリストとの出会い)の場となること。
  1.福音宣教とは信徒を養成することではなく、福音への回心に気付き、他者に奉仕(隣人愛)する生き方に導くこと。(教員も同様)
 
(7)宗教教育と信仰教育の違いを明確化
 @宗教科の授業内容の見直し
  1.教会の教えや信心業(信仰教育)を教えるのではなく、キリスト教の人間観・世界観、そして福音を伝えることで、イエス・キリストとの出会いの場となることが重要。
 
 A宗教行事の見直し
  1.ミサの実施の見直し(全否定するのではない)と学校独自の集会祭儀の構築
  2.ロザリオの祈りは信心業。現代教会でもその習慣は廃れてきている。
 
  ※聖書そのものも、本来的には信じる者を対象として書かれた書物である。現代のカトリック学校の学習者は、そのほとんどが未信者であるから、信仰教育の場としてではなく、キリストとの出会いの場となる宗教教育であることが大切である。
 
(8)理事会の構成メンバーおよび学校経営責任者(理事長・校長等)選任の重要性。
 @これからのカトリック学校に相応しく、将来的展望を示しながら、責任と意欲を持って運営に当たることができる理事および校長等管理職の選任。
 
(9)行動に移すことの重要性
 @事項の自己点検と新たな方性に向けての行動
 
「日本カトリック学校としての自己点検評価基準」
(1997年2月24日 日本カトリック司教協議会承認)
 
1 教区長から、カトリック学校として認められている。
2 教区長との連絡が適宜行われ、小教区との相互協力も行われている。
3 学校法人の理事会(理事長・理事・幹事)および評議委員の構成が、カトリック学校として適切であり、その運営が、カトリックの教育理念に基づいて行われている。
4 寄附行為、学則、就業規則、学校要覧等に、学校がキリスト教精神に基づいて運営されることが明記されている。
5 学長・校長・園長が、カトリック学校の理念と精神を保ち、それを実現するためのリーダーシップを発揮できる人である。
6 教職員が、キリスト教の人間観に基づいて一人ひとりを尊重し、人間の全領域にわたる教育を行う。
7 すべての教育活動が、キリスト教精神に基づいて行われている。
 
※注 審査基準ではなく、自己点検の基準である。
生徒・教職員の人格と人権が大切にされているかどうか?
 
 A生徒・教職員ともに、学校全体がキリストとの出会いの場となる福音に向けての回心に導くことができるように具体的行動をすること。
  1.教員職・理事会修会
   a.自校独自のものや地区・教区として(函館・札幌・旭川、北海道教区等。できれば地区・教区が望ましい)
   b.北海道養成塾等の定期的教員研修
  2.修道会もしくは修道会の枠を超えた学校法人や理事会の設立
   a.教区長との連携と教区全体の取り組みとして(働きかけが必要)
 
5.参考図書紹介
(1)日本カトリック学校のあゆみ (コルベ新書) 佐々木 慶照 (著)
(2)キリスト教理解のために ―カトリック教育にかかわるすべての人に−
                           日本カトリック学校教育委員会 (編集)
(3)若者を育てるドン・ボスコのことば ガエタノ・コンプリ (著)
(4)共にいる教育 ?アシステンツァ? サレジオ会教育文書(2) 岡 道信(著)ドン・ボスコ社
(5)夢をかたちに 未来のエンジニア・デザイナーになる君たちへ
ドン・ボスコ社 著者:サレジオ高専
(6)イエズス会教育の特徴  イエズス会中等教育推進委員会
編集 梶山 義夫 (翻訳) イエズス会教育
(7)教会と学校での宗教教育再考―<新しい教え>を求めて 森 一弘 (編さん) 宗教教育再考
(8)宗教なしで教育はできるのか [春秋社] 編者:聖心女子大学キリスト教文化研究所
(9)キリガイ: ICU高校生のキリスト教概論名(迷)言集 有馬平吉 (著, 編集)
(10)男の子が前向きになる子育て PHP研究所 河合恒男(著)
(11)カトリック学校宣言 イーピックス出版(著)佐井総夫
(12)第2バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言および教育省公文書
 
参考資料
 
カトリック教育省の総会参加者への教皇フランシスによるメッセージ
(教育機関へ)
コレメンタインホール
2014年2月13日(木)
 
(以下の文章は、幾つかのカトリック学校の要望に応えて、急ぎ和訳を試みたものです。正式な公表を目的とするものではないことをご承知起き下さい。日本カトリック連合会)
 
親愛なる枢機卿
強大なる司教と司祭
親愛なる兄弟姉妹
 
 この省に新しく任命された枢機卿と司教へ、特別な歓迎の言葉を贈ります。そして枢機卿長官による開会の挨拶に感謝します。
 
 今日の議題のどれをとっても、大変なものばかりです。例えば、使徒的憲章Sapientia Christianaの改訂、カトリック大学のアイデンティティーの強化、そして、2015年に記念する公会議宣言ravissimum Educationis 50周年ならびに使徒憲章EX Corde Ecclesia 25周年の準備など。歴史的文化的な絶えざる変動の中で、今日、新しい福音宣教を目指している教会にとって、カトリック教育は最重要課題のひとつです。このような観点から、三つの側面について注目していただければと思います。
 
 第一の側面は教育における対話の重要性です。皆さんは、カトリック学校における多文化間の対話について、最近発表された文書をもって、そのテーマを掘り下げました。実際、カトリック学校や大学で学ぶ学生・生徒の中にキリスト教ではない方や信仰をもたない方が多いという現状があります。カトリックの教育機関は、理解と知識を得ることはあらゆる人間の権利であるという見地に立って、すべての人に全人教育を提供しています。しかし、キリストのメッセージをすべての人に伝えることも同じように重要です。それぞれの教育機関の独自性やひとりひとりの自由を尊重しながらも、とりわけ、イエス・キリストは命、宇宙、歴史の根源であるというメッセージをもたらす使命があります。
 
 福音を述べ伝えるイエスの出発点は、「異邦人のガリラヤ」です。ガリラヤは、人種、文化、宗教が交差する場所でした。すなわちこの状況は、現代世界と相通じるものです。広く多文化社会をもたらした目まぐるしい変化は、大胆で刷新的な忠誠心をもちながら、学校や大学において交流と対話の教育プログラムを大切にする働き手を求めています。彼らは、多文化社会にあって、どこか違う「魂」と出会うカトリックのアイデンティティーをもたらすことができるのです。多文化や多宗教に特徴づけられる社会の中で、多くの修道会や教会組織が、カトリック学校の設立や経営を担い貢献されていることに私は深く感謝しています。
 
 第二の側面は教育者の本質的な育成です。これについて、いい加減にごまかすことは許されません。真摯に取り組むべきです。修道会総長との会合で強調しましたが、今日の教育は、変化しつつある世代に向けられています。従って、すべての教育者−母なる教育者である全教会も含めて−は、「変化すること」、あるいは、目の前にいる若者とコミュニケーションができる方法を見つけるように促されています。
 今日は教育者の持つべき特質とその責務に限って述べさせていただきます。教育は愛の好意です。それは命を与えることです。そして、愛することは簡単なことではありません。優れた資質と合わせて、若者と共に忍耐強くこの道を歩み始めるという情熱を、繰り返し呼び醒ますことを必要とします。カトリック学校における教育者は、何よりも有能でかつ適格者であることは言うまでもないことですが、それと同時に人間性豊かで、若者と共にあって、彼らの人間性と霊性を育む教育者でなければなりません。若者は、言葉だけでなく、証しを伴う価値観をもった質の高い教育を必要としています。若者を教育するにあたって不可欠な要素は一貫性です!一貫性!一貫性なしに教育も成長も不可能です、―貫性と証し!
 
 そのために教育者自身にも絶えざる養成が必要です。教師も指導者もプロ意識を高く持ち続け、また、信仰と霊的活力を持続させるためには、投資することが必要です。教育者にとっての養成においても、黙想会や霊操は必要でしょう。テーマに沿った講座を開くことはとても良いことですが、祈りを中心とした黙想会や霊操も必要です!というのは、一貫性は努力を要するものですが、それは何よりも賜物であり恵みです。私たちはそれを願い求めなければなりません!
 
 後の側面は教育機関についてです。つまり、学校とカトリック大学です。公会議宣言Gravissimum Educationis50周年、使徒憲章EX Corde Ecclesia 25周年と使徒的憲章Sapientia Christianaの改訂にあたって、世界に広がる多くの養成機関とその職務が、教育・科学・文化の分野において、福音の生きた証しとなっているかを深くふり返る時です。カトリックの教育機関は、この世界から離れては存在できません。それらは、すべての人に提供できる賜物を意識しつつ、現代文化と開かれた対話の*アレオパゴスに、勇気をもって入る方法を探さなければなりません。(*アレオパゴス…パウロが異文化の中にあって対話を試みた丘 使徒行録17章)
 
 親愛なる皆さん、教育は無限に大きな建設現場です。その現場に、施設や事業を通して教会は絶えず関わってきました。今、あらゆる場におけるその貢献(コミットメント)を奨励し、新しい福音宣教に従事するすべての方々の貢献(コミットメント)を新たにしなければなりません。皆さまに深い感謝を申し上げると共に、聖母マリアの取り次ぎを通して、皆さまとその使徒職の上に、絶え間ない聖霊の助けを祈ります。私自身のためと、私の司牧のためにもお祈りをお願い致します。皆さまに心からの祝福を贈ります。ありがとうございました。
(明治学園学回長Sr.メリー・ギリス訳)
 
 2     「カトリック学校宣言」の完結に寄せて 2012年11月15日(木) 
+在主平安
 
 本HPの「カトリック教育」と「学校マネジメント」の記事を再構成・再編集し、「カトリック学校宣言」としてまとめました。その内容を、以下の通りお知らせいたします。
 「カトリック学校宣言」は、日本のカトリック学校に奉職するすべての教職員の皆様に向けて、5年前より執筆して参りました。願わくば、「カトリック学校宣言」が日本のカトリック学校に奉職する教職員の皆様の一人でも多くの方々に読んでもらい、次代に向けたこれからのカトリック学校の持続的・発展的存続のための道標や問題提起となること、そしてカトリック学校の使命である教育活動をとおした「福音宣教」を果たし続けていくことに繋がることを切に願うものであります。
 今後、この「カトリック学校宣言」をなんとか刊行・出版するための働きかけをして参る所存ですので、よろしければどうかお力添え、お祈り下さいますよう、よろしくお願い申し上げます。
 
 主の平和がいつも皆様と共にありますよう、お祈り申し上げております。
ベネディクト・ラブル 佐井 総夫
 
 
「カトリック学校宣言」
 
−カトリック学校がカトリック学校であり続けるための学校マネジメント−
 
「福音共同体をめざすカトリック学校のために」
 
 
はじめに
 1 本書の目的
 2 『カトリック学校の存在意義とその使命』
 3 「あいさつ」
   『カトリック学校に勤める教職員の皆様方へ』
   − 愛と信仰と希望のうちに親愛と友好を込めて −
  (1) 「未信者の教職員の皆様方へ」
  (2) 「信者の教職員の皆様方へ」
 
 
T 「教会とカトリック学校のアイデンティティ」
 1 カトリック学校のアイデンティティ
  (1)カトリック学校の独自性とその条件
  (2)カトリック学校の独自性とカトリック学校のアイデンティティ
  (3)カトリック学校のアイデンティティの確立
 
 
U カトリック学校の基本概念
 1 カトリック学校のコンセプト
 2 福音的人間観と福音的教育観(「福音的自己実現とは何か」)
  (1)福音的人間観
  (2)福音的教育観
  (3)福音的自己実現とカトリック学校の教育目標
 
 
V カトリック学校における教員のあり方
 1 カトリック学校教師の資質
 2 カトリック学校における教員採用
 3 カトリック学校における教員養成と教員研修
 4 教区におけるカトリック学校教員研修養成所設立の提言
 
 
W カトリック学校における学校運営
 1 教育活動における能動的教育活動と受動的教育活動
  (1)福音的宗教指導
  (2)生徒および保護者のニーズの反映
 
 2 福音的教務
  (1)学習活動 教科における福音的学習指導
  (2)特別活動と部活動における福音的指導
  (3)学校行事による福音宣教の実践
  (4)福音的カリキュラムとシラバス
  (5)総合的な学習と福音宣教
 
 3 福音的生徒指導
  (1)生徒指導における福音的人間観
  (2)人間の二面性
  (3)懲罰とゆるし
 
 4 福音的進路指導
  (1)福音的人間観に基づいた進路指導
  (2)福音宣教と進路指導
  (3)福音的進路指導と進路実績
  (4)福音的キャリア教育
 
 5 福音的ホームルーム経営
  (1)教室における宗教的環境整備
  (2)福音的価値観に基づいた生徒とクラス担任との信頼関係
  (3)福音的価値観に基づいた保護者とクラス担任との関係
  (4)ホームルームにおける祈りの慣行
  (5)福音的ホームルーム経営実践のための基本
   @福音的人間観に基づいた自己並びに他者に対する理解と受容
   Aホームールームを福音的共同体に成長させるために
 
 6 不登校生に対する福音的対処
  (1)学校教育現場における新たな福音的使命
  (2)不登校生に対する具体的な福音的対処
   @不登校現象の発生原因と現状
    A不登校生に対する福音的対処
 
 7 「いじめ問題」に対する福音的対処
  (1)「いじめ問題」対策(防止策と解決策)の原理・原則
  (2)「いじめ問題」の具体的対策(防止策と解決策)
   @「いじめ問題」の福音的および一般的防止策について
   A「いじめ問題」の福音的および一般的解決策について
 
 
X カトリック学校における責任者のあり方
 1 カトリック学校の責任者の資格と適性
  (1)カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の資格
  (2)カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)の適性
 
 2 カトリック学校の教頭および部長・主任等の資格と適性
  (1)カトリック学校の教頭職
  (2)カトリック学校の中間管理職(部長・主任等)の責任
   @学年主任の適正と責任
   A部長(分掌(特に指導三部門の部長・主任))の適正と責任
 
 3 カトリック学校の責任者(園長・校長・学長等)としての勤務評定と人事考課
 
 
Y 教科・学級担任教員以外の教職員(養護教諭・事務・用務等の教職員)の福音的役割
 1 学校教育における教科・学級担任教員と養護教諭・事務・用務等の教職員との差異
 2 養護教諭・保健指導主事の福音的役割
 3 スクールカウンセラーの福音的役割
 4 学校図書館司書教諭の福音的役割
 5 事務職員の福音的役割
 6 学校用務員の福音的使命
 
 
Z カトリック学校と地域社会
 1 開かれた学校としてのカトリック学校
  (1)第二バチカン公会議による教会から派遣されたカトリック学校と現代世界憲章の 具現化
  (2)学校の閉鎖性と学校評価およびディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任)
  (3)カトリック学校におけるコンプライアンス(法令遵守)
 
 2 カトリック学校とパブリックリレーション(PR 戦略広報ならぬ戦略的福音宣教)
  (1)カトリック学校のフィランソロピー(ボランティア活動)とメセナ活動
  (2)カトリック学校における社会的責任投資(SRI Socially Responsible Invesment )と適格検査(スクリーニング Screening)
 
 3 カトリック学校におけるバリアフリーとノーマライゼーション
  (1)カトリック学校におけるノーマライゼーション
  (2)カトリック学校におけるバリアフリー
 
 4 福音的な生徒募集と入試制度および合否判定のあり方
 
 
[ カトリック学校と理事会および外郭団体
 1 カトリック学校と理事会
 2 PTA・同窓会・後援会等のあり方
 
 
\ 広報活動と福音宣教
 1 カトリック学校の広報活動とは
 2 カトリック学校の戦略的学校マネジメント
 3 学校マネジメントにおけるポジショニング
 4 カトリック学校のポジショニング
 
 
] カトリック学校における福音的学校会計
 1 福音的健全経営のための財務・会計管理
 2 カトリック学校における教育資金の調達と発展的健全経営
 
]T カトリック学校を統轄・指揮する監督機関の設立
 1 カトリック学校を統轄・指揮・監督する機関および資金的助成機関設立の必要性
 2 カトリック学校におけるスクールガバナンス(学校統治)
 
 
]U カトリック学校の存続のための最低条件 〜カトリック学校の崩壊とその回避〜
 1 カトリック学校が崩壊するとき
  (1)崩壊の第一段階
  (2)崩壊の第2段階
  (3)崩壊の第3段階
 
 2 「カトリック学校崩壊」の要因とその対策のまとめ
  (1)崩壊の第一段階の要因とその対策
  (2)崩壊の第二段階の要因とその対策
  (3)崩壊の第三段階の要因とその対策
 
 3 カトリック学校の再福音化と新たな教育的使命の構築
  (1)カトリック学校のあゆみから、カトリック学校の再福音化をめざして
  (2)現代カトリック学校における福音宣教の希薄化・閉塞化の原因とその対策
  (3)高学歴志向や女子教育の普及という社会的欲求の充足に過度に傾倒し、福音宣教という観点から の教育活動が不足していたという点。
  (4)カトリック学校に奉職する教職員への福音宣教や司牧が不足、もしくはうまくい っていないという点。
  (5)第二バチカン公会議による「開かれた教会と信徒使徒職」という本旨が、カトリック学校においては十分に反映されなかったという点。
 
 4.カトリック学校宣言
 
 むすび
 
 3     ] カトリック学校における福音的学校会計 1 福音的健全経営のための財務・会計管理 2012年10月3日(水) 
1 福音的健全経営のための財務・会計管理
 
 カトリック学校の本来的使命である教育活動をとおした「福音宣教」を、持続的かつ発展的に推進していくためには、それを具現化するための健全な財務基盤の確立が是が非でも必要である。
 
 教育活動をとおした「福音宣教」をとおし、学習者を福音的な自己実現(神から与えられた存在価値と使命の全う=福音的人間観)に導くという崇高で尊厳な教育目的を持ったカトリック学校は、教会から派遣された学校であるとともに、経営的には原則として独立した一個の学校法人として、自らの経営判断により学校経営(運営)をしていくことが求められる。その際の経営判断に資する的確な財務・会計情報を提供するのが、学校会計の最も重要な役割であるといえるだろう。
 
 また、一般企業における最大の目的は利潤の追求であるから、企業会計では営業活動の成績を損益計算で表し、収益力を高めていくことに役立てるのがその目的であるのに対して、学校法人は教育活動が最大の目的であって決して営利活動ではないから、学校会計はあくまでも教育研究活動が円滑かつ発展的に行われているかどうかを、財務面から検証することが本来的目的となる。
 
 そして、カトリック学校も学校法人である以上、公共的な使命と役割をも帯びているから、大きな社会的責任を果たしていかなければならない。また、私学助成や税制等優遇措置を受けているということは、社会に対しての説明責任や情報公開の責任も生じることになるから、この点においては「Z カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校 (2)学校の閉鎖性と学校評価およびディスクロージャー(情報開示)とアカウンタビリティ(説明責任) (3)カトリック学校におけるコンプライアンス(Compliance 法令遵守) 2.カトリック学校とパブリック・リレーション(Public Relation) (2)カトリック学校における社会的責任投資(SRI Socially Responsible Invesment )と適格検査(スクリーニング Screening)」を参照して欲しい。
 
 では、福音的な学校会計とは何かというと、帰属収入に占める経費の支出がいかに学習者の教育活動に還元されているかどうかということであって、特にカトリック学校の場合は福音宣教につながる教育活動にどの程度の経費が配分されているかということになろう。具体的には帰属収入における教育研究経費比率や人件費比率が高いことが望ましいということであろうが、これは単純に比率が高ければいいということではなく、その使途内容や配分も重要なところである。
 
 例えば、帰属収入に占める人件費の割合である人件費比率は、一般的には低いことが望ましいとされるが、学校法人の場合、教育活動の質の向上には指導者たる教員の総合的な力である教師力が非常に重要な鍵を握っているから、人格的・能力的に信頼できる教員採用や育成そして教職員の人件費のために、傾斜配分が求められるのであって、学校会計においては消費収支の均衡を失わない限りにおいて、ある程度高い比率は覚悟しなければならない側面であると言えよう。しかし、かといって、教員採用のあり方が一部の学習者のために偏重するならば、帰属収入の使途のあり方における平等性という観点では問題が生じてくるだろうし、闇雲に教員を採用しすぎて人件費比率が高くなることが、教職員一人ひとりの給与配分が減少したり、偏ってしまうことも教育活動全般に大きな影響を与えるので慎重に行われなければならない。
 
 また、教育研究経費比率においては、教育研究活動の維持・発展のためには不可欠なものであり、消費収支の均衡を失わないという条件において高い数値が望ましいと言えよう。無論、それが直接的に学習者に関わるものでないにしろ、最終的には学習者一人ひとりに対する使途配分の平等性や均等性および均衡性に十分な配慮が必要である。特に私立学校にありがちな特待制度は、ともすれば学習者一人ひとりに対する使途配分の平等性や均等性および均衡性を崩しかねないので、十分な注意と配慮が必要である。また、ここにおいてもカトリック学校の本来的使命である教育活動をとおした「福音宣教」を、持続的かつ発展的に行っていくための経費配分が十分になされているかどうかということも重要なことである。
 
 更に教育活動が主たる目的の学校法人において、教育研究経費をいかに充実させるかが学校会計上の一番の課題であることは言うまでもない。よって、人件費比率や管理経費比率を出来るだけ軽減させるとともに、原則的には基本金を自助努力によって高めることで、十分な教育研究経費を創出することが、充実した教育活動を支える重要な鍵を握っている。とは言っても、少子化による授業料等による帰属収入が減っている今日、自己資金だけでは経費を十分賄えきれず、帰属収支差額比率をプラスにすることが難しく、自己資金を取り崩さなければならない事態も出てくることがある。そのような場合は、やむを得ず「? カトリック学校を統轄・指揮する監督機関の設立 1.カトリック学校を統轄・指揮・監督する機関および資金的助成機関設立の必要性」で提言した資金的助成機関からの借入金を用いて、経営を立て直しカトリック学校としての機能と使命を全うできるようにしていかなければならない。
 
 また、これからのカトリック学校は自校の教育理念や教育活動に理解と賛同を得て、卒業生や起業家・投資家などからも寄付金等を募り、帰属収入を増やし基本金に十分な余裕を持たせるための努力が不可欠であろう。勿論その場合は、利害関係者から請求があった場合、財産目録・貸借対照表・収支計算書・事業報告書・監査報告書の閲覧が義務づけられているが、これからは学校関係者のみならず、教会組織や一般社会からの支援を積極的に受け入れていくべきではないだろうか。そして、総資産に対する自己資金の割合である自己資金構成比率を高めたり、借入金をを最小限に抑えることで基本金要組入額に対する基本金割合である基本金比率を下げていくことが、持続可能で発展的な学校経営を可能し、ひいてはそれがカトリック学校の次代に向けた存続のための絶対不可欠な条件であり、私たちの最大の使命である教育活動をとおした「福音宣教」を全うしていくための隅の親石となるものなのである。
 
 4     ] カトリック学校における福音的学校会計 2 カトリック学校における教育資金の調達と発展的健全経営 2012年10月4日(木) 
2 カトリック学校における教育資金の調達と発展的健全経営
 
 前項で述べたとおり、カトリック学校において教育資金をいかに安定的に確保するかが、私たちの使命である教育活動をとおした「福音宣教」や福音的人間観に基づいた教育活動を持続的かつ発展的に可能とする土台である。
 教育資金の基本となるのは、学習者の納付金・手数料、寄付金、補助金、資産運用収入、資産売却差額事業収入、雑収入の帰属収入であるが、特に学習者からの授業料等の納付金や受験料など、自助努力によって確保できる収入をいかに増やしていくかが健全経営のための鍵を握ることになる。
 では、カトリック学校において帰属収入を増やしていくために出来る自助努力とは何であろうか。それはまず、究極的には私たちが行っている教育活動が何であるのか、あるいは何のためにやっているのかということを、社会の人々に理解してもらうというにつながろう。そこで、我が国の現行教育基本法を見ると、「我々日本国民は、たゆまぬ努力によって築いてきた民主的で文化的な国家を更に発展させるとともに、世界の平和と人類の福祉の向上に貢献することを願うものである。我々は、この理想を実現するため、個人の尊厳を重んじ、真理と正義を希求し、公共の精神を尊び、豊かな人間性と創造性を備えた人間の育成を期するとともに、伝統を継承し、新しい文化の創造を目指す教育を推進する。ここに、我々は、日本国憲法の精神にのっとり、我が国の未来を切り拓く教育の基本を確立し、その振興を図るため、この法律を制定する。」また、第一条には、「教育は、人格の完成を目指し、平和で民主的な国家及び社会の形成者として必要な資質を備えた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない」とある。
 しかし、改正教育基本法について日本カトリック司教協議会 社会司教委員会は、「これからの児童・生徒・学生の人格的な発展と、彼らが担う日本と国際社会の将来に重大な障害をもたらすものであるので、カトリック教会としては、受け入れることができないことを、1.『人格の完成』をめざす教育から『国策に従う人間』をつくる教育への逆戻り、2.格差の再生産・社会の差別的な構造・社会階層の固定化の助長」という二つの観点から重大な懸念をあらわし、賛成できないとの姿勢を示している。そして最後に、教育基本法改定の動きの中に透けて見える愛と正義に反する圧力、すなわち競争の強制による分断と差別が人々の間の人間らしい協力や連帯を断ち切っていく働きに対して、わたしたちは同調することができません。(中略)むしろ真の教育再生に向けて国民全体にいきわたった議論を喚起し、日本の将来を担う大切な子どもたちの一人ひとりを見つめて、彼らの健やかな成長を暖かく見守り支援する、愛と正義に即した教育改革が実行されるよう、ご尽力をお願いいたします。」と締めくくっている。
 つまり、私たちカトリック学校の教育理念とは、一国の国益やそれを実現するための国際協調と国際平和などという次元のためのものではなく、あくまでもイエス・キリストの愛の精神に根ざした神の御計画による御国の実現に参与するという福音的人間観に基づいた崇高で畏敬なものなのである。
 この私たちのカトリック学校の教育理念をどのように広報し理解と賛同および支援をもらえるようにしたら良いのだろうか。それは、ひとえに教育効果の結果であるキリスト教的価値観を持った人材育成と輩出以外にないであろう。とかく私たちは、進学実績やら就職率などの実益をあげることに目が行きがちだが、それが必ずしも学習者の募集につながっているとは言えない。それは、現代のように不確実で混沌とした世相になると、画一的で平均的な生き方や、競争原理に基づいた経済的な充足だけが、豊かな人生や自分自身の生き甲斐にはつながらないということに気づいてくるからなのである。そういった価値観の多様化や浮游する世の中であるからこそ、「福音の光」をもたらす私たちカトリック学校の出番なのである。
 私たちカトリック学校は、本来人間が人間らしくそしてその人が最もその人らしく生きるための「福音」というキリスト教の命を、人々にあまりにも婉曲にあるいはオブラートをまとわせて伝え過ぎてきたのではないだろうか。いずれにせよ、カトリック学校の存続が危ぶまれる今だからこそ、本来的なカトリック学校のキリスト教的教育を世に示しながら、地の塩・世の光となる人材育成に励み、一人でも多くの人々にカトリック学校の教育に賛同を得てもらえば、帰属収入を増やすための教育活動をせずとも、結果として帰属収入の増収につながるはずであるし、そうでなければならない。
さて前項で、これからのカトリック学校は自校の教育理念や教育活動に理解と賛同を得て、卒業生や起業家・投資家などからも寄付金等を募り、帰属収入を増やし基本金に十分な余裕を持たせるための努力が不可欠であることを提言したが、基本金のことについて少し触れてみたい。
 学校法人における基本金とは、法人設立時に教育に高い理想を持った篤志家の寄付によってもたらされた学校教育活動に書くことの出来ない資産である校地・校舎・教育研究費用の危機備品・図書などの基本財産をいう。カトリック学校のその多くは、設立母体である外国宣教師会や修道会が基本金の多くの部分を担ってきたに違いない。しかし、その経営母体である外国宣教師会や修道会が高齢化や召命養成の困難から後継者の減少と会そのものの存続が危ぶまれている今日、経営母体である外国宣教師会や修道会の召命養成のための支援やそれに代わる教区もしくは全国的な組織を立ち上げていく必要背に迫られている。(? 「カトリック学校を統轄・指揮する監督機関の設立 1.カトリック学校を統轄・指揮・監督する機関および資金的助成機関設立の必要性」で提言)また、法人設立以降の学校経営の中で新たに教育活動の継続および向上のために追加取得した教育活動に欠かすことの出来ない資産も基本金となる。以下、学校法人における基本金は、次のように分類されている
 1.1号基本金=校地・校舎・教育機器備品・図書などの固定資産の取得額
2.2号基本金=将来固定資産を取得する目的で積み立てた預金などの価格
3.3号基本金=奨学資金・研究基金などの資産の額
 4.4号機本金=運営に必要な運転資金の額
 
 これを見ると基本金とは、基本金の活用のあり方によって次なる教育活動の元手となる基本金を生んでいくという、ちょうど国民所得と国富との関係であるフロートとストックの概念に当てはまる。
よって、現在所有する基本金をいかに自校の教育活動に用いて反映させるかが次の基本金のあり方を決めるといってもよい学校における国富(ストック)とも言うべき社会資本である。また、これらの基本金の礎となるのは、帰属収入であっていわば企業会計における収益と同等のものである。すなわち、帰属収入とは、学校が一年間に得た学校の提供するサービスの対価という国民所得(フロー)に相当すると考えられるものである。これらの教育活動を実践していくための返済義務のない財源を学習者以外の人々から寄付金という形で支援を受けるためにも、学校施設を教会や地域社会に積極的に解放し、自校の教育活動に理解と協力を求めていかなければならない。(「[ カトリック学校と地域社会 1.社会に開かれた学校としてのカトリック学校 2.カトリック学校とパブリック・リレーション(Public Relation) (1)カトリック学校のフィランソロピー(Philanthropy)とメセナ活動」を参照)
 「金のあるところに人は群がる」というが、決して人間は欲望や利益だけに駆られてお金を求めたり、投資したりするわけではない。街頭募金活動を一度でも経験した人は気づいていることであろうが、協力してくれる募金者はむしろ金持ち風の人々ではなく、一般的ないやむしろ決してお金には余裕のあるようには見えない方々と子どもたちである。人間が自己の損得を度外視して誰かにお金を提供してくれるものには、困っている人や苦しんでいる人たちを救おうという慈善的行為があるが、それ以外にも聖なるもの、崇高なもの、価値あるもの、美しいもの、そして人々の一般意志に基づいた公共の福祉の実現という社会全体の利益に繋がるものにも人は見返りを期待することなくお金を投じくれるものである。また、自分の理想や信念に合致するのであれば、その志ある者にもお金を出してくれる人も少なくはない。
 若い世代の晩婚化・非婚化が進み、更に子育て環境がますます厳しさを増す中、一人の女性が一生の間に産む子どもの数を示す合計特殊出生率はなかなか改善されていない。このような社会条件下の元で少子化が進行していく今日、教育市場においての学習者の確保は、厳しさを更に増していくことであろう。しかし、この混沌とした世相を乗り越えて生きていくことの出来る人間を育てていかなければならない時であるからこそ、カトリック学校のキリスト教的教育の重要性と必要性を明確に提示できるはずである。今、私たちが暮らすこの現代社会には、どれだけキリストの「福音」による希望の光を必要としている人々が多いことだろうか。
 2011年3月11日東日本大震災、18,000人を超える犠牲者の命を無駄にしないために、私たちは何を学ぶべきであろうか。わたしは「価値観の転換」であると考える。それはつまり「回心」そのものではないのか。それが、今の「時のしるし」であると私は考えているのである。社会は人間がつくるものである。そして、その人間は教育によって養い育てられる。人間の成長段階における幼児期・児童期、そして何よりも青年期に「福音」に出会ったものは、神から与えられた自分の本当の命の意味と使命を自覚するだろう。私たちカトリック学校は、時代や社会がどんなに変化し、また困難な時期にあったとしても、私たちは主イエス・キリストがいわれた「全世界に行って福音を宣べ伝えなさい」という使徒職を果たし続けていかなければならない。
 5     ]T カトリック学校を統轄・指揮する監督機関の設立 1.カトリック学校を統轄・指揮・監督する機関および資金的助成機関設立の必要性 2012年9月18日(火) 
1.カトリック学校を統轄・指揮・監督する機関および資金的助成機関設立の必要性
 
 現在のようなカトリック学校の経営的危機を招いた理由は、「少子化」だけによるものではない。実に、カトリック学校の「福音宣教」という本来的使命が希薄化したことに起因すると言える。そのことは、日本のカトリック教会における聖職者や奉献生活者そして信徒の減少という事象となって現れ、更にカトリック学校においては、教育活動をとおして「福音宣教」を行い学校組織を福音共同体に完成させていくことのできる導き手である司祭や奉献生活者の校長・教頭を失いつつあるという現状にも表れているのである。
 
 またもう一つの理由には、教会はこのような事態に備えた教育行政機関を整備していなかったという点である。確かに現存する中央協議会のもとにある「教育委員会」や「全国カトリック学校連合会」等の組織はあるが、その設立目的と機能および役割は、カトリック学校の経営的危機を回避するための経済的な資金援助や人材派遣にはないので、特にここ数年教職員の生活の保護のために、やむを得ず身売りをし、中にはカトリック学校とは全く違う教育理念の学校に姿を変えてしまう例(ミッションスクールではなくなる)が増えてきているように、残念ながら既存の組織はそのような状況を防止する有効な手段にはなっていないし、カトリック学校の経営的危機を回避するための経済的な資金援助や人材派遣をするような組織は現存しないのである。
 
 では、少子化による学習者の確保や管理職が学校経営ができるカトリック信徒(聖職者・奉献生活者・一般信徒)を配属できないがために、カトリック学校としての使命を果たしていけないという経営的な危機を招いたり、カトリック学校としての存在意義の喪失を招く学校を出さないためには、どのような機構組織や制度が必要であるかについて提言したい。
 
 まず、学校経営的な危機に瀕するか、もしくはカトリック学校の看板を下ろした学校には、カトリック学校としての特徴を出せないがために競合校との差別化に失敗し、その使命を果たしていくことができなくなったか、その使命遂行が非常に困難な状況に曝されているという共通項を持っている。その一方で、必ずしも否定的な評価をするわけではないが、もう一つの選択肢としてカトリック教育理念をいち早く捨て去るか二次的・三次的あるいは時宜的な要素として考え、現代的マーケティング・マネジメント理論に基づいた戦略的顧客満足度の充足(特に出口保証)に徹し、進学校としての地位を確固たるものにすることによって、安定経営を図っているカトリック学校があることも事実である。
 
 そもそも、カトリック学校の経営母体である宣教師会や修道会は、来日の早い会で幕末の開国後から明治初期にかけてであるが、その多くは1930年代〜太平洋戦争後の1945年以降にかけて来日し、それぞれの外国宣教司会や修道会が「教育活動を通しての福音宣教」という絶対的使命を共有しながらも、それぞれの会が独自の教育理念や教育的使命を唱え、各教区長の認可を得て学校を設立したのだが、以後日本のカトリック学校はすべてが学校法人化されて今日に至っているという経緯がある。そして、このカトリック学校の学校法人化は、ある意味においてはカトリック学校はもともと教会組織の一部もしくは教会から派遣された学校であったにもかかわらず、そのことによって教会から独立した組織として独自の学校経営をすることにいたって今日に至っているということを意味し、教区立の学校を除けば教会組織(特に教区)からすれば、「カトリック学校として承認し、霊的な指導はすれども、管理・監督および経済的な資金援助はせず」という相互間の独立かつ固有的な関係を前提とすることが出来上がっていったのではないかと考えられる。
 
 然るに、今日のように聖職者および奉献生活者の減少によって、カトリック学校に十分なそれらの人々や信徒を管理職や教職員として派遣できなる事態や、少子化による財政的経営難に陥る事態に瀕していても、カトリック学校の経営は基本的にはそれぞれの会もしくは理事会の自己責任の下で果たしていかなければならないのであって、結果として学校の存続のために「福音宣教」というカトリック学校としての使命を捨て、他の教育理念による学校に姿を変えようが、あるいは長年にわたるカトリック学校としての歴史を閉じ廃校となってしまおうが、それらの選択はあくまでもそれぞれの学校法人としての理事会の決定に委ねられているのである。
 
 勿論、このような教会組織(教区)とカトリック学校との関係(教区立の学校を除く)は、カトリック学校の経営母体である宣教師会や修道会等の召命や使命の継承が、堅持され持続している場合には何ら問題がないと同時に、「福音宣教」という大原則のもと、それぞれの会則に従った独自の教育理念と教育的使命を果たしていていくという観点においては、むしろ均衡的で健全な関係を保てるのかも知れないし、教区としても人材派遣や財政的支援という面においても負担が軽減されるのは事実であろう。しかし、このような独立性と均衡の関係は、一度カトリック学校の設立母体である宣教師会や修道会の召命養成がうまくいかず後継者が途絶えた場合や、少子化等によって学習者の確保ができずに財政的経営難に陥った場合には、それらの学校を継続していくための実質的な支援組織や助成機関は、もはや存在しないも同然なのが現状なのである。
 
 確かに、外国宣教師会や修道会の召命養成が途絶え、学校が教会組織から離れることになったり、廃校になったりすることで、「その会の果たす使命や召命は終わったのだ」とか「それぞれの会の召命養成や後継者育成の自己責任を果たせなかったのだ」という解釈もなくはないだろう。しかし、そのような事情で「福音宣教」が途絶え福音を宣べ伝える機会を減らしてしまうことは、誠に残念至極、痛恨の極みではないだろうか。「福音宣教」の使命とは、永遠に継承されていかなければならない教会の最大の使命であって、それらを見て見ない振りをすることは「ヨハネ福音書4章『イエスとサマリアの女』」での「水を飲ませてください」とおっしゃる私たちの主イエス・キリストを見捨てることと同じではないだろうか。
 
 では、このような危機的な状況を回避・防止していくために何が必要であろうか。それは、組織である。このようなときにこそ、それぞれの組織の力が問われるのである。勿論、組織には功罪がある。特に気をつけなければならないのは、組織を維持するための組織にならないことである。例えば、政党における党利・党則に拘束され個人が抹殺されてしまったり、個人が組織の中に埋没し人間疎外に陥ったり、権力闘争に明け暮れたりするのであれば、組織はむしろ負のものとなってしう。しかし、本来組織とは基本的には人と人とのつながりである共同体なのであって、しかも教会はイエス・キリストによって集められた信仰共同体であるから、そのような状況に陥っている仲間を支えることができないで、何のための教会だというのだろうか。本HPの「カトリック教育」「22 カトリック学校が崩壊するとき カトリック学校の存続のための最低条件」の項目でもカトリック学校がどのように崩壊していくのかという過程とその防止策について述べているが、ここでは特に日本社会の福音化のために、カトリック学校の教育活動をとおした「福音宣教」や「召命養成」というカトリック学校としての使命を持続可能な発展を遂げていくために、どのような具体的かつ実質的な支援組織や助成機関を構築していけば良いのか明示したい。
 
1.現行の中央協議会の下にある教育委員会に、カトリック学校に関する管理・監督権を与える。
  教育委員会の管理・監督の主な内容は以下のとおりとする。
@カトリックミッションスクールとしての認定条件の規定とその管理・監督
A理事長・理事・校長等、管理職の教職員研修と資格の認定
Bカトリック学校の教職員研修および資格の認定
Cカトリックミッションスクールとしての基本的カリキュラムの規定とその指導要領(カトリック学校として独自のもの)の作成と指導・監督
Dカトリックミッションスクールとしての宗教行事に関する規定および管理・監督
 
2.教育委員会は、カトリック学校としての認定条件に基づいて、全国のカトリック学校に対する教職員養成および研修と人材派遣を必要に応じて行う。
3.各教区長は、教育委員会の規定に基づいて教区内のカトリック学校の霊的指導および管理・監督をする。
4.各教区長は、教育委員会の規定に基づいて教区教育委員会を設置し、霊的指導および管理・監督の実務(教職員養成および研修と人材派遣)を履行する。各教区における教育委員会の管理・監督の内容は以下のとおりとする。
@カトリックミッションスクールとしての認定条件に基づく調査・勧告
A理事長・理事・校長等、管理職の教職員研修と資格の認定のための指導・監督
Bカトリック学校の教職員研修および資格の認定のための実務と調査・勧告
Cカトリックミッションスクールとしての基本的カリキュラムや指導要領(カトリック学校として独自のもの)の規定に基づいた調査・勧告
Dカトリックミッションスクールとしての宗教行事に関する規定に基づいた調査および管理・監督
 
5.教職員研修は、現行の日本カトリック学校連盟下の「カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾」を基本とし、各教区もしくは地方・地域に広めていく。
6.中央協議会の下にカトリック学校に対する資金援助団体を置き、原則として日本カトリック学校連合会が中心となって、カトリック学校助成のための基金を創設をする。(基金は、各カトリック学校加盟校が出資、それ以外にも小教区や教区および企業などの資金提供団体・個人を募る)
7.教育委員会および資金援助団体に、専門職としての司教・司祭・助祭(永久助祭を含む)・カトリック学校教職員経験者を置き、必要に応じて弁護士・公認会計士・経営コンサルタントを登用する。
 
 以上、カトリック学校がその使命である「福音宣教」および教会から派遣された「ミッションスクール」であるための具体的かつ実質的な支援組織や助成機関を提示したが、おそらく召命養成が順調に行われ、後継者の持続的な確保もできている外国宣教司会や修道会にとっては、受け入れがたい提案であるかも知れないが、現代のように生きる上での価値観や経済状況が非常にめまぐるしく変化し、国際状況の影響をも如実に反映される今日の社会状況においては、不測の事態に常に想定外を念頭に対処していなければならない。そのような観点においては、現在経営的に順調で会そのものの召命養成や後継者の育成に何ら問題のないカトリック学校においても、一考の余地のある問題であると考えている。
 
 6     ]T カトリック学校を統轄・指揮する監督機関の設立 2 カトリック学校におけるスクールガバナンス(学校統治) 2012年9月27日(木) 
2 カトリック学校におけるスクールガバナンス(学校統治)
 
「組織の時代」ともいわれる現代社会において、企業が持続的発展および社会的信頼を継続的に得ていくためには、「コーポレートガバナンス(企業統治 Corporate Governance)」は絶対必要不可欠で確立しておかなければならない重要事項に他ならない。その第一の理由は、組織内に監視・抑制の機能が備わっていないことが自浄作用を喪失させ、組織内、特に経営者や管理職など一定の裁量権を有する者による不正が慢性化・潜在化することで、結果として組織の社会的信頼を大きく失墜させ、それがともすれば組織の経営破綻や崩壊にもつながり兼ねない事態を招くことになるからである。(実際に国民的信頼を得ていた企業が破綻した事例がいく例もある。)つまり、「コーポレートガバナンス(企業統治 Corporate Governance)」とは、組織におけるリスク・マネジメントに他ならないのである。この観点においてはカトリック学校も最早例外とは言えず、むしろ全国的にカトリック学校の経営力や組織力が脆弱化している今日だからこそ、早急に「学校統治(School Governance)」の整備が求められるところである。また、カトリック学校における「学校統治(School Governance)」とは、教会とカトリック学校の連携そのものであるり、カトリック学校におけるリスク・マネジメントの確立である。この項においてはカトリック学校における「学校統治(School Governance)」の仕組みが、既存の教会組織も考慮に入れながらカトリック学校の発展的存続に相応しい機構となるように、全体として各組織および職務間における権力の均衡と抑制の関係を、より明確で具体的に提示したい。
 
(1)カトリック学校の教会組織における位置づけと学校統治のための具体的仕組み
 まず、カトリック学校は教会から派遣された教育活動を通して福音を宣べ伝えるという使命を担っている学校であるとの基本原則にたって考えると、カトリック学校も日本のカトリック教会組織というブドウの木の部であるから、その頂点には日本司教団そして中央協議会を頭とすることが相当であると考えられる。中央協議会の中には、教育委員会が既存の組織として存在するので、教育委員会にカトリック学校の教育行政の統括機能を持たせ、具体的な教育行政の運用(指揮・監督・指導)に当たっては各教区の教育委員会が教区長の責任のもとで、教区内にあるカトリック学校の理事会および各学校の校長等の管理職に対して教育指導官が理事会から独立して行うものとする。さらに、中央協議会は各カトリック学校の理事会および学校運営が適正に行われているかどうかを査察する機関として、教育オンブズマンを組織する。カトリック教育研究機関およびカトリック学校教育に関する諮問機関を、日本カトリック教育学会の協賛を得て設置する。
 
 理事会は各教区教育委員会の管轄下に置かれ、理事長および各理事は教育委員会の定める一定条件を満たしていることを必要とする。理事会には、理事長の他、小教区選出理事・教区選出理事・資金的助成機関(前項で提言した)選出理事・修道会選出理事・教区教育委員会選出理事を必須の構成員とする。
 
 各学校の校長・副校長・教頭は、カトリック信徒(聖職者・奉献生活者・信徒)であることと同時にカトリック学校教員免許取得を必要とし、これに事務長を加えカトリック学校管理職資格免許取得を必要とする。また、一般教員もカトリック学校教員免許取得を条件とし、その他の職員に関しても一定のカトリック学校職員研修の受講修了認定を条件とする。
 
(2)各機関の役割と構成について
@日本司教団と中央協議会および中央教育委員会
 日本司教団を頂点とし中央協議会の下に中央教育委員会をカトリック学校の教育行政機関として位置づけ、専任の担当司教および職員(カトリック学校教員勤務経験(最低15年以上)のある聖職者(司祭・助祭・永久助祭)・奉献生活者・信徒)によって構成し、それぞれの教育委員はカトリック学校教員免許資格取得を条件とするする。中央教育委員会(@)は、指導課(@−1)・教員研修課(@−2)・総務人事課(@−3)・カトリック学校連合会(@−4)によって構成され、その職務は前項でも提言したが、内容は以下の通りである。
1.カトリックミッションスクールとしての認定条件の規定とその管理・監督
2.理事長・理事・校長等、管理職の教職員研修と資格の認定
3.カトリック学校の教職員研修および資格の認定(カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾を教職員研修課に組み入れる。)
4.カトリックミッションスクールとしての基本的カリキュラムの規定とその指導要領(カトリック教育指導要領)の作成と指導・監督
5.カトリックミッションスクールとしての宗教行事に関する規定および管理・監督
6.全国カトリック学校への教職員(特にカトリック学校教員免許資格および管理職資格を取得した理事長および校長)派遣
7.教育指導官と教育指導官補の養成と派遣(教育指導官および指導官補は理事会に独立して各カトリック学校を監督・指導・助言する。)教育指導官の資格条件は、カトリック信徒(聖職者・奉献生活者・信徒)でカトリック学校教員勤務25年以上、校長もしくは教頭職の経験者およびカトリック学校教員・管理職資格取得を条件とする。指導官補は、カトリック信徒(聖職者(永久助祭を含む)・奉献生活者・信徒)でカトリック学校教員勤務15年以上の経験者およびカトリック学校教員・管理職資格取得を条件とする。)
8.カトリック学校連合会は、主にカトリック学校間の連携と交流(人事交流を含む)およびカトリック学校教育研修会の企画・運営・事務局を担い、さらには資金的助成機関と連携しカトリック学校経営基金およびカトリック学校教育委員会の運営資金を提供する。
 
A中央協議会の下の並列機関
 中央教育委員会の並列機関として、カトリック教育研究所(A−1)・カトリック教育諮問機関3(A−2))・監査法人(A−3)を設置する。また、独立してカトリック教育学術研究機関の日本カトリック教育学会(A−4)を協賛・助言機関とする
 
 カトリック学校の使命である教育活動をとおした「福音宣教」の遂行およびカトリック教育の充実と発展のため、カトリック教育研究機関(カトリック教育研究所(仮称))およびカトリック学校教育に関する中央教育委員会の諮問機関を、日本カトリック教育学会の協賛を得て設置する。
 
 構成員は日本カトリック教育学会会員を中心に適任者を選出し、カトリック教育研究機関(カトリック教育研究所(仮称))は常設として、カトリック教育研究と中央教育委員会の諮問に応じて答申する諮問機関を設置する。具体的構成員は以下の通り。
1.日本カトリック教育学会に所属する大学教授、准教授等の有識者(神学・哲学・倫理学・教育学・社会学・経営学・医学・理学・工学・環境学等各学問分野)の学会員を中心構成員とする。
2.カトリック学校各教育機関(幼・小・中・高・短大・大学・大学院)の現役教員(10年以上経験)の学会員
3.カトリック学校各教育機関(幼・小・中・高・短大・大学・大学院)の経験者(30年以上経験)
4.弁護士資格を持った教育基本法および学校教育法の専門家
5.マーケティング・マネジメント(MBA資格)等経営学の専門家
6.聖職者(司教・司祭・助祭(永久助祭を含む))
7.奉献生活者現役教職員(男・女)
8.監査法人は、それぞれの機関・法人および学校における会計・財務管理が適正に行われているかを監査する。
 
B資金的助成機関と教育オンブズマン
 資金的助成機関(B−1)と教育オンブズマン(B−2)は、中央協議会の下の中央教育委員会の併設機関であるが、「学校統治(School Governance)」の確立のために特別な意味を持つ。なぜならば言わずとも察するがごとく、「学校統治(School Governance)」のために全国および各教区にこれだけの組織を配置するとなると、これらの運営費やそこで働く職員の人件費をどこから捻出するのかという問題が当然出てこよう。そこでその資金を支えるのが資金的助成機関の役割である。また、資金的助成機関においては、前項で提言したとおり資金的経営難に陥っているカトリック学校の救済団体としての機能をも持たせているので、その資金力には相当のものが求められることになる。この機関は、日本カトリック学校連合会と連携してカトリック学校助成のための基金を創設(基金は、各カトリック学校加盟校が出資、それ以外にも小教区や教区および企業などの資金提供団体・個人を募る)するとともに教育委員会を中心とした「学校統治(School Governance)」の確立のため資金提供の役割をも持たせる。よって、資金的援助機関には、専門職としての司教・司祭・助祭(永久助祭を含む)・カトリック学校教職員経験者を置き、必要に応じて弁護士・公認会計士・経営コンサルタントを登用する。
 
 また、教育オンブズマンは、「学校統治(School Governance)」の確立のため中央教育委員会および教区教育委員会指導課の教育指導官と指導官補とともに極めて重要な役割をなす。中央教育委員会および教区教育委員会指導課の教育指導官と指導官補は、管轄の司教および教区長の指導と許可を得て、各学校法人の理事会から独立して各学校の教育活動および学校運営の監督・指導・助言をすることができるのに対して、教育オンブズマンは中央協議会の決定を受けて他のどの機関からも干渉されることなく独立して中央教育委員会・カトリック教育研究所・カトリック教育諮問機関・資金的助成機関と各教区教育委員会そして各学校法人理事会よび学校を査察することができるものとする。教育オンブズマンの構成員は厳正を期するため以下のとおりとする。
1.中央教育委員会担当司教以外の司教、カトリック学校勤務経験のある聖職者および奉献生活者とカトリック学校勤務未経験の聖職者および奉献生活者、さらにカトリック学校教員および職員の経験者とカトリック学校教員および職員の未経験者のカトリック信徒と当該学校法人および教育機関に属さない日本カトリック教育学会会員等の有識者によって構成する。必要に応じて監査法人から顧問弁護士および公認会計士等を加えることができるものとする。
 
C各教区教育委員会
 各教区の教育委員会は各教区長の指揮・監督下のもとに、中央協議会教育委員会の規定・制度に従って教区内の各カトリック学校の理事会および校長の学校運営を管理・監督、指導・助言する。教区教育委員会の構成は、指導課(C−1)・教員研修課(C−2)・総務人事課(C−3)とし、主な職務内容は以下の通り。
1.各教区長は、教育委員会の規定に基づいて教区内のカトリック学校の霊的指導および管理・監督、指導・助言する。
2.カトリックミッションスクールとしての認定条件に基づく調査・勧告
3.理事長・理事・校長等、管理職の教職員研修と資格の認定のための指導・監督
4.カトリック学校の教職員研修および資格の認定のための実務と調査・勧告(カトリック学校に奉職する教職員のための養成塾を教職員研修課に組み入れる。)
5.カトリック指導要領に基づいたカリキュラムと教育活動の指導・助言、管理・監督
6.カトリックミッションスクールとしての宗教行事に関する規定に基づいた指導・助言、管理・監督
7.中央協議会教育委員会の教育指導官を補佐する教育指導官補の養成と派遣(教育指導官補は教区長の指導・助言に従い、教育指導官とともに教区内の各カトリック学校を指導・助言および調査・監督する)教育指導官補の資格条件は、カトリック信徒(聖職者(永久助祭を含む)・奉献生活者・信徒)でカトリック学校教員勤務15年以上の経験者およびカトリック学校教員・管理職資格取得を条件とする。)
 
D理事会
 理事会は各教区長および教区教育委員会の管轄下に置かれ、理事長および各理事は中央教育委員会の定める一定認定条件を満たしていることを必要とし、必須の構成員は以下のとおりとする。
1.顧問として所属教区の教区長
2.理事長(D−1)
3.所属小教区選出理事(D−2)
4.所属教区選出理事(D−3)
5.資金的助成機関から助成金を受けている場合は、資金助成機関選出理事(D−4)
6.経営母体である外国宣教師会または修道会選出理事(D−5)
7.教区教育委員会選出理事(D−6)
8.必要に応じて各理事会がその他の理事(D−7)の選出を中央教育委員会の認定条件に従って行う。
9.法人事務局(D−8)
なお、理事の構成員の中には所属教区の教区長を顧問とすることと、カトリック学校教員の実務経験をもつ司祭を選出することを義務化する。
 
E校長・参事・副校長(園長・学長・副学長)・教頭・事務長等管理職の資格と認定条件
1.カトリック学校の長をはじめとする管理職者は原則としてカトリック信徒でなければならない。(E−1)
2.校長・参事・副校長・教頭等の管理職は文部科学省が認定する教員免許(大学・短大は除く)以外にカトリック学校中央教育委員会が認定する教員免許(大学・短大も含む)を取得していなければならない。
3.カトリック学校の長(園長・校長・参事)は、カトリック学校において教員実務経験が最低20年以上を必要とし、中央教育委員会が認定する管理職認定資格(大学・短大も含む)を得て、5年ごとに更新しなければならない。なお、参事は長の権力抑制のための助言を呈する役割をなすものとする。
4.カトリック学校の(副園長・副校長・教頭)は、カトリック学校において教員実務経験が最低15年以上を必要とし、中央教育委員会が認定する管理職認定資格を得て5年ごとに更新しなければならない。
5.学校法人事務局長およびカトリック学校の事務長は中央教育委員会が定める研修を終了しカトリック学校職員認定資格を得た上で、管理職認定資格を取得し5年ごとに更新しなければならない。
 
F一般教職員の資格と認定条件
1.カトリック学校の選任教員(養護教諭・司書教諭・図書館司書・スクールカウンセラーを含む)は、原則として文部科学省が認定する教員免許(大学・短大は除く)以外にカトリック学校中央教育委員会が認定する教員免許(大学・短大も含む)を取得していなければならない。
2.カトリック学校の教員免許は、中央教育委員会の規定に従って5年ごとに更新しなければならない。
3.カトリック学校の非常勤教員(講師を含む)は、原則として中央教育委員会が定める研修を終了しカトリック学校教員認定資格を取得し、10年ごとに更新しなければならない。
4.カトリック学校の法人事務局職員および学校事務・用務等の職員は、選任・非常勤にかかわらず、中央教育委員会が定める研修を終了し、カトリック学校職員認定資格を取得し10年ごとに更新しなければならない。
 
 以上、カトリック学校における「学校統治(School Governance)」について提言したが、心情的に正直なところを言えば、本来主イエス・キリストによって集められた福音共同体であるカトリック学校には、このような組織内におけるリスクを回避するための機構や仕組みを必要としないことが望ましいのかも知れないしかし、人間は権力や一定の裁量権を持つと、その権力や裁量権の本来的使用目的を忘れ、他者を屈服させたり自己顕示欲を満たすためにそれを振るいかざす者もでてくる。権力はそれを持った者を豹変させ、持たざる者を脅迫・強制し支配し従わせようとする。往々にして権力とはそういうものであることは、歴史が証明しているではないか。勿論、そこにはその権限を持った者にしか分からない責任の重圧や目的を果たすための苦渋の決断もあろうが、決して人を貶めたり愚弄したり、ましてや神から与えられし何人にも侵すことのできない人間の尊厳を、根底から否定するための道具ではあるまい。
 
 しかし、ともすればカトリック学校に限らず学校組織の中における理事長や校長の権限というものは、あまりにも絶大で独裁的かつ独断的あるいは一部の支持者(取り巻き)の意見に偏重した決定や人間評価に陥りやすく、その結果その下で働く教職員の人間性を疎外し、個人および家族の生活基盤や人権、そして信仰心すらも奪いかねないという事態を招くのである。これは、決して裁量権のない一般教職員の管理職に対する穿った見方(詮索)でも感情論でもなく、組織が一部の権力者によって独占もしくは寡占されてしまった場合、一般職員は自らの雇用上の保身のため、善悪の判断を公言または管理職に信言できなくなることで、組織内における非常識や不正事実の隠蔽が、恒常化・潜在化してしまうというリスクを、どのように回避するのかという極めて重要な問題なのである。
 
 確かに、組織における決定の仕組みが民主的であることが理想とは必ずしも限らないが、独裁的であっていいはずもあるまい。カトリック学校における指導者が、真なるカリスマと自分が果たすべき使徒職を聖霊の導きによって成し遂げることのできるソロモンのような賢者である場合を除けば、「学校統治(School Governance)」機構を整備して、権力の分立による均衡と抑制の仕組みや制度によって、不正のない健全で発展的な決定がなされるようにしていくことが、が是が非でも必要なのである。少なくとも福音共同体を理想とする私たちカトリック学校においては、権力や権限が組織の中にいる生身の人間を生かすために用いられるものでなければならない。そして、もしカトリック学校組織内部に独裁的な暴君が理事長や校長等の管理職に採用され、彼らの独断と偏見による誤った認識から取り返しの付かない決断や不正がおこなわれることによって、カトリック学校の本来的使命である教育活動をとおした「福音宣教」が阻まれるようなことが起きてしまったらどうであろうか。「皆、私の言うことを聞いて悟りなさい。外から人の体に入るもので人を汚すことのできるものは何もなく、人の中から出てくるものが、人を汚すのである。(マルコ7:14〜16)」とあるように、組織も内部から汚れて腐敗し崩壊していくのである。カトリック学校における理事長や校長をはじめとする管理職者は、その学校の精神そのものであるのだ。私たちカトリック学校は、この福音書のみ言葉を肝に銘じ「学校統治(School Governance)」の機能や仕組みを構築することで、内部崩壊と社会的信頼の喪失を回避できるようリスク・マネジメントの確立に努めながら、カトリック学校として持続可能な存続と「福音宣教」という本来的使命を果たし続けていくことに専念していかなければならない。
 
 7     [.カトリック学校の再福音化と新たな教育的使命の構築 1.カトリック学校の再福音化 2012年3月6日(火) 
1.カトリック学校のあゆみから、カトリック学校の再福音化をめざして
 
 福音宣教をしないか、もしくは福音宣教のできないカトリック学校は、カトリック学校とは言えない。何故ならば、そもそもキリスト教を教育理念の根幹とする学校が、ミッションスクールと言われる所以は、教育活動をとおして福音宣教という使命を果たすからであり、その使命を果たそうとしないか、もしくは果たせなくなった学校は、ミッションスクールと呼ぶには相応しくないのは言うまでもないことである。
 
 では、今日のカトリック学校の学校経営から、もともとの設立母体である宣教師会や修道会が撤退しているか、もしくは理事会や教職員、特に理事長・学長・校長等の経営責任者が聖職者や奉献生活者またカトリック信徒でもく、さらにカトリック信徒の一般教職員も激減しているカトリック学校が増加している中で、福音宣教や固有の教育的使命を、一体どのようにしたら果たしていけるのであろうか。これらの問題解決のためのガイドラインは、『?「カトリック学校が崩壊する時」2.「カトリック学校崩壊」の要因とその対策のまとめ』で示したが、これらの事柄を一言で言い表すならば「カトリック学校の再福音化」の推進に他ならない。
 
 では、「カトリック学校の再福音化」は誰によってどのようになされるのかといえば、それはカトリック学校に関わるすべての教職員よってなされるものなのであるが、現実的にはそれぞれのカトリック学校の設立母体となった宣教師会の司祭や修道会の奉献生活者にそれぞれの学校が所属する教区の司教、そしてそれぞれのカトリック学校に奉職する信徒の教職員が中心となって実施していかなければ、その実現は不可能に近いと断言していいであろう。なぜならば、福音宣教の実践とは、イエス・キリストとともに聖霊によって突き動かされた者だけにでき得る活動であるから、求道者として入信の秘蹟を受けているか、洗礼志願者であれば決して未信徒の教職員を排除するものではない。ただし、各教育機関の長たる責任者は、それぞれの学校を福音共同体に導くという使命があるから、聖職者や奉献生活者もしくは福音宣教に強い使命を持った信徒でなければ相応しとは言えない。
 
 また、「カトリック学校の再福音化」を実現していくために相応しい者が、ただ単に洗礼の秘蹟を受けた信徒であれば良いのかというわけでもなく、あくまでもキリストに付き従い福音宣教という使徒職を担おうとの気概と決意が必要なのであって、そのような意味においては信徒であるということが、必要条件や資格を十分満たしているということにはならない。そして、カトリック学校において福音宣教を使命と自覚し、信徒になることを切望する求道者の教職員が大勢出てくることが、「カトリック学校の再福音化」の実践の結果のあらわれであると同時に、カトリック学校が目指す福音共同体の実現につながることであると言えよう。このような観点において、カトリック学校という職場環境のもとで日常的にイエス・キリストの福音に触れているカトリック学校の未信者の教職員は、福音共同体の構築に参与できる最も身近な存在であると言える。
 
 さて、カトリック学校に奉職するカトリック信徒はもとより、教会においても高齢化と若年層の信徒の教会離れが進み、信徒数が減少していっているという厳しい条件下で、今更何ができるというのだろうという危惧感や悲観的な見方が大勢を占めているかも知れない。しかし第二バチカン公会議以降「開かれた教会」を目指し、福音宣教が一般の信徒にとっても使徒職として位置づけられたにもかかわらず、「果たして福音宣教という信徒使徒職を私たち信徒はカトリック学校という福音宣教を行う格好の場で果たしてきたと言えるのだろうか。」という自問自答を反省の念を込めて改めて問い直さなければならない。
 
 明治以降キリスト教の禁教令が解かれ、再び多くのカトリック教会の外国宣教師会や修道会およびプロテスタント教会の伝道師が来日し、キリストの福音を宣べ伝えたことによって、日本のキリスト教は復活した。そして、カトリック学校についていえば、その多くのカトリック学校の経営母体である宣教師会や教育修道会は、戦前(太平洋戦争)から戦後にかけて来日し、戦後の混乱期の教育の普及に努め、当時の社会的必要性に十二分に応えたのである。そして、来日した多くの宣教師や奉献生活者の方々の献身的で熱烈な信仰と気概に突き動かされた日本人が、洗礼を受け信徒となり、更に聖職者や奉献生活者としての道を歩むことを決意し、共に日本のカトリック教会の共同体(教会・学校・社会福祉施設等)を築いてきたのである。また、戦後の混乱期以降にカトリック学校に学んだ児童・生徒・学生(学習者)の中からも多くの信徒が誕生し、さらにそれらの人々の中からは聖職者や奉献生活者が多数輩出されたのも事実である。つまり、当時のカトリック学校は、教養の教授などの教育の普及のみに終始することなく、聖職者や奉献生活者の方々は、自らの信仰生活をとおして確実に福音宣教というキリスト者としての最大の使命を果たしたのである。そして、戦後の混乱期の不自由な生活環境の中にあっても、物質的な価値以上に精神的価値、特に神がお望みになるままに神に奉仕する生き方こそが、人間の本来的欲求を満たし自己実現を果たすことになるのだということ、そして利己的な生き方よりも他者のために自己を捧げ、互いに助け合う共生という生き方とこそが、神に対する真に正しく幸福な人間の生き方であるとのキリスト教的価値観が、確実に宣べ伝えられ受け継がれていったのである。
 
 しかし、日本における福音宣教の潮流は、1950年代後半頃からの高度経済成長と共に徐々に脆弱化していったのではないかと考えられる。それは皮肉にも第二バチカン公会議(Concilium Vaticanum Secundum 1962年〜1965年)によって、教会の現代化(アジョルナメント)をテーマに多くの議論がなされ、以後の教会の刷新の原動力となるべく、広く社会に開かれた教会と信徒使徒職が宣言され、福音宣教の活動を活発化させようとの公会議の趣旨とは、残念ながら逆行していくことになってしまったのである。これらの原因としては、戦後の経済復興と経済成長を最優先させた国策と、それらを是としてきた国民の考え方や選択にあろう。それは、ちょうど環境よりも経済の発展を最優先させたがために起きた四大公害病に象徴されるように、経済成長一辺倒のものの考え方は、日本人の精神性を大きく荒廃させるに至り、さまざまな社会問題を生じさせる原因となったのである。そして、教会そのものも信徒数や小教区および教育機関や社会福祉施設が質的にも量的にも一時的に充実・拡大したことに満足し、共同体内外に対する福音宣教・宣教司牧という教会の使命が徐々に疎かにされていった面があったのではないだろうか。
 
 日本における高度経済成長は、産業構造の高度化と共に日本人の家族形態や生活形態、そして人生における価値観をも大きく転換させ、かつ多様化させた。そして、経済的な発展を最優先させる人々のものの考え方や国策は、現在に至るまで未だに基本的には変わってはいないと言えるし、むしろ市場経済の限界や市場そのものが飽和状態にある今日においては、私たち資本主義経済の国家に生きる企業人は、常に新たなイノベーションによる需要の創出を強いられ、利潤を追求することに振り回され、肉体的にも精神的にも疲弊し喘いでいるのではないのか。そのような現代の資本主義経済には、私たち人間に発展的で未来的な希望よりも、むしろ破滅的で閉塞的な絶望を感じさせられている。確かに、人間の欲望は飽くなき追求を続け留まるところを知らない。また、それがさまざまな分野においての発展をもたらしてきたことも確かな事実なのかも知れないが、人間の欲望とは経済的・物質的な所有によっては絶対に満たされるものではなく、むしろそれらを求めれば求めるほど、人間に渇望と不満を覚えさせ、決して心の充足や潤い、そして魂に平安をもたらすことにはならない。
 
 そして、それらを実証するかのように、私たちが暮らす現代社会には、科学技術や経済的発展とは裏腹に、それらの負の事象としてのさまざまな社会問題が山積している。人間の疎外や人間関係の崩壊による無縁社会の中での孤独死・孤立死・自死・家庭崩壊、経済の行き詰まりによる失業・貧困・就職難、若年層のニートやパラサイトシングル。教育問題としては児童生徒の自死・いじめ・不登校・引きこもり・学力低下・学習障害・高校中退者の増加・非行・家庭内暴力・校内暴力などなどあげればきりがない。このような社会問題や教育問題を、私たちカトリック学校はどのように受け止め対処し、福音を宣べ伝えてきたであろうか。いずれにせよ、私たちカトリック学校に奉職する全教職員が問われ、これからも問われ続ける。教会から派遣されたカトリック学校がその使命を本当に果たしてきたのか、そして今後果たしていけるのかを…。
 
 日本の開花期を迎えた明治時代、キリスト教の禁教令が解かれた1873年(明治6年)以降、日本に再びキリストの福音を宣べ伝えるために来日した外国宣教師会の聖職者や修道会の奉献生活者の方々は、日本における福音宣教の第一世代としてこの日本の地に息づいた。そして、それらの人々の信仰への熱意と福音宣教に対する気概に突き動かされ、邦人の聖職者や奉献生活者および信徒が誕生したわけであるが、これらの人々が福音宣教第二世代となり太平洋戦争の最中、政府の軍国主義による弾圧や粛清にも屈することなく忍耐強く耐え抜き、日本に根付いた信仰の灯火を絶やすことなく守り続けた。そして福音第三世代・第四世代の人々は、戦後の混乱期から復興期に至る間、福音宣教第二世代の人々に強い感化を受けるとともに、彼らの信仰と働きに希望と召命を見出して日本の福音化に尽力し、教会やカトリック学校および社会福祉施設等の教会共同体の最盛期を福音第二世代の人々と共に築きあげてきた。しかし現在、福音宣教第三世代・第四世代の多くの方々は、高齢化により次々と現役・現場を退いていっており、そのことが現在の教会共同体における聖職者や奉献生活者の激減という現象を招き、各教区における教会や宣教師会及び修道会の運営、またはカトリック学校や社会福祉施設等の教会共同体に司祭や修道者を十分に派遣できなくなり、これらの機関の今後の運営のあり方にも大きな変化や危惧感をもたらすことになっているのである。
 
 つまり、この福音宣教第三世代・第四世代から福音第五世代への生涯発達に何らかの問題があったために、教会共同体の存続にまで関わる事態を招いたと考えることができるのではないであろうか。そして、正にこの時期は、前述した日本の高度経済成長期と重なるということと、教会共同体においても最盛期であったというところに、その原因を見出すことができると考えられる。なお、福音宣教第五世代とは、1955年(昭和30年)以降の高度経済成長とともに歩み、教会共同体内においても最盛期の中で育まれ育ってきた世代であり、現在はその第五世代からその次世代である第六世代・第七世代への福音宣教の継承と司牧の途上にあるといえる。
 
 では、福音宣教第三・第四世代から第五世代への福音宣教や司牧がどのような理由によって希薄化・閉塞化していったのであろうか。次項においてその理由を「現代の時のしるしと社会的必要性を見極めてそれに応えていく」という観点で考察し、福音宣教及び司牧の次世代への継承についての具体策を提示してみることにする。
 
 8     [.カトリック学校の再福音化と新たな教育的使命の構築2.現代カトリック学校における福音宣教の希薄化・閉塞化の原因とその対策 2012年3月27日(火) 
 現代のカトリック学校における福音宣教意識の希薄化・閉塞化の原因は以下の5つに大別できるであろう。
 
(1)高度経済成長による経済的充足や社会的地位獲得志向および価値観の多様化と混乱に翻弄されたという点。
(2)カトリック学校の設立母体である宣教師会や修道会の召命の継承がうまくいかなかったという点。
(3)高学歴志向や女子教育の普及という社会的欲求の達成に過度に傾倒し、福音宣教という観点から の教育活動が不足していたという点。
(4)カトリック学校に奉職する教職員への福音宣教や司牧が不足、もしくはうまくいかなかったという点。
(5)第二バチカン公会議による「開かれた教会と信徒使徒職」という本旨が、カトリック学校においては十分に反映されなかったという点。
 
 では、これらの5つの要因が現代のカトリック学校における福音宣教の希薄化や閉鎖化にどのように繋がっていったのかを検証してみよう。
 
(1) 高度経済成長による経済的充足や社会的地位獲得志向および価値観の多様化と混乱に翻弄されたという点について
 
 高度経済成長は確かに戦後の日本経済を復興させ、産業構造の高度化をもたらすとともに、社会構造全体を大きく変化させた。特に戦後復興と経済発展優先の国策が、四大公害病に代表される環境問題を発生させたという弊害からもうかがえるように、日本国民は高度経済成長から経済的な豊かさという恩恵だけを享受してきたわけではない。
 
 例えば、経済的豊かさを求めたり物質的所有欲を満たそうとするが余り、精神的豊かさや発展を求めることに鈍感になり、特に宗教や信仰心に基づく価値追求については、なおざりにされていったのではないだろうか。そして、経済発展の結果、物質的繁栄に身を浸し、満足感も感じられないほどに麻痺してくると、人々の価値観は多様化・氾濫していき、ジョン・ケネス・ガルブレイスが言う「不確実性の時代」を迎えるに至った。いずれにせよ、戦後多くの日本人の価値観は、経済的・物資的欲望をいかに充足させるか、ということに傾倒し過ぎてしまったのではないだろうか。そして、それらを手に入れるための過当競争が高学歴社会を形成し、教育現場においても受験産業の煽りを多分に受けて、偏差値至上主義の知識偏重型教育が横行していく。しかし、その反面そのような学校教育に適応できないいわゆる不登校の児童・生徒が1970年代末頃から徐々に増加していき、やがては校内暴力や引きこもりなどの学校教育への不適応行動が多く見られるようになっていくのである。そして、これらの教育問題の対策として現行および新学習指導要領に見られるように「生きる力を育む総合的な学習」を初等・中等教育に導入し、受験対応の知識習得のみに偏ることなく、人間として生きるに相応しい均衡のとれた人格を形成しようという教育の実践が試みられているのである。
 
 こうしてみると高度経済成長期以降の日本の教育は、初等・中等教育機関において「生きる力を育む」ということを謳い実践していかなければならないほどに、現代のこども(児童・生徒)たちから「生きる力」という最も大事な人間力を剥ぎ取ってしまったのではないかと考えざるを得ない。このような現代の教育の実態に、私たちカトリック学校はどのような具体的な教育活動を実践してきたのであろうか、そしてまた現在あるいは今後どう対処しようとしているだろうか。自問自答しなければならない。
 
 また、家族形態についても同じことが言えよう。高度経済成長は、日本の産業の
中心を第一次産業(農業・漁業・林業)から、第二次・三次産業(鉱業・製造業・商業・サービス業)へと移行させたという、いわゆる産業構造の高度化は、日本の伝統的な拡大家族や傍系家族から核家族という新たな家族形態をもたらしたが、それが家族や地域社会という基礎的集団内における人間関係のあり方に大きな変化をもたらすこととなった。特に家族間や地域社会における人間関係の希薄化は、現代における孤立死や孤独死、あるいは年間3万人を超える自死の問題など「無縁社会」(NHKが提唱した言語)と称される現代人が抱える社会問題の要因と決して無関係とは言えないだろう。
 
 このように、戦後の高度経済成長による日本人の生活形態や価値観の変化は、教育のあり方にも大きな変化を与えているといわざるを得ない。しかもグローバル社会の進展により、さらなる国際競争力が求められる昨今、個人のスキルアップや他者との競争力がより強く求められ、人間の教育の本来的あり方がより歪められる傾向も見受けられている。だからこそ、私たちカトリック学校は、このような時代の変化を的確に受け止め、どのような教育目標を掲げて教育活動を実践するのかが問われているのではないだろうか。もしかすると、私たちは20世紀の激動の時代の変化に翻弄され、現世の価値観を追随する結果を招き、神が求める普遍的な価値観の継承に専念できず、経済的繁栄と時の流れの中で、カトリック学校としての使命を果たしていこうとの情熱が希薄化してしまったのかも知れない。
 
 よって私たちは、現代の時のしるしと社会的必要性を見極めながら、応えるべきものと応えざるべきものとを見間違えることなく、どのような時代背景のもとにおいても、教会から派遣された学校としての大きな使命である福音宣教ということを、教育活動を通して果たしていくことを忘れてはならない。
 
 9     [ 2−(2)カトリック学校の設立母体である宣教師会や修道会の召命の継承がうまくいかなかったという点。 2012年4月11日(水) 
(2)カトリック学校の設立母体である宣教師会や修道会の召命の継承がうまくいかなかったという点。
 
 現代におけるカトリック学校の存続の危機を招いた要因として、元々の設立母体となっていた宣教師会や修道会から司祭や奉献生活者を学校教育現場に教職員として十分派遣できなくなっているということが上げられよう。もっとも、一部の修道会では学校教育を通しての福音宣教の使命は終わったとして、教区や信徒の方々に学校経営を引き継いだところもあることは事実である。勿論、宣教師会や修道会が直接働きかけることなく、教会から派遣された学校としてのカトリック学校の使命である教育活動を通して福音宣教を果たしていける場合は、それでも何ら不都合は生じないであろう。
 
 しかし、現実問題としてはそのような学校ばかりではない。特に地方におけるカトリック学校は、少子化により学校経営そのものが非常に厳しい状況に追い込まれ、経営そのものの立て直しのために経営コンサルタントや企業人、または公立学校の校長を退職した人材を登用することによって、カトリック学校の本来的使命やカトリック学校特有の教育理念が希薄化し消滅の危機に瀕し、中には閉校を余儀なくされる場合さえ生じているのである。これらのような場合が、カトリック学校の経営母体である宣教師会や修道会から、それまでのカトリック学校の使命や教育の理念および建学の精神等の引き継ぎに失敗した例である。また、そのような現象が現在ますます進行化する傾向にあることは否定できない現実であろう。
 
 カトリック学校の教育現場に聖職者や奉献生活者が存在しなくなることで、福音宣教が困難になってしまった場合について考えてみると、当然ながらカトリック学校の設立母体である宣教師会や修道会の召命の継承や養成がうまくいかなかったということによって、学校教育現場に派遣する司祭や奉献生活者がいなくなってきたということであるから、その原因について二つの観点で考えてみよう。まず、その一つは聖職者や奉献生活者の召命もしくは養成に問題点があったのではないかという点である。もう一つの観点は、「福音宣教を実践できない教会共同体が消滅していくことは、時のしるしを見失ったことによる結果であって、それは神のご計画としてのご意志である。」という観点である。
 
 では、第一の観点である聖職者や奉献生活者の召命もしくは養成に問題点があったのではないかという点であるが、これは前項で述べた「(1)高度経済成長による経済的充足や社会的地位獲得志向および価値観の多様化と混乱に翻弄されたという点について」と深く関わると考えられるが、その前に聖職者や奉献生活者の召命もしくは養成とは、継承されるものなのかという神学的な議論が問われるいでかも知れない。それは文字通り受け止めるならば「召命」とは、神が呼び求め招かれるものなのであるから、人間の業の及ぶところではないと考えるべきであろう。しかし、極端に考えるならば、全くキリスト教的な環境や聖書の御言葉に触れることなく、聖職者や奉献生活者の生き方を知り得たり、目指したりするものであろうか。それは、はなはだ疑問である。勿論、神がその人をどんなことをしてでも必要とするならば、神を全く知らない者にでも語りかけ招かないとは言い切れないであろうが、一般的には多くの場合、人は一定の環境の中で影響を受けながら育てられ成長していくわけであるから、神との出会いなしには「召命」はないのではないかという一般的解釈が成り立つ。それは、キリストの弟子たちのことを考えても自明のことではないだろうか。キリストと共に宣教活動をした弟子たちですら、復活したイエスとの出会いという信仰体験無しには使徒とは成り得なかったのであるから、私たち信徒においても復活したイエスとの出会いがあってこそ、「召命」は息づいてくるのではないだろうか。そのような意味において「召命」とは、まずは教会共同体内における信仰の継承がその根幹になければならないし、特に家庭や教会学校でのこどもへの信仰教育は欠かせないものである。また、召命養成の錬成会を実施する場合には、その講師に聖職者や奉献生活者の他に、信徒の家庭人(一家皆信徒の夫妻またはいずれか、もしくは祖父母=信仰の継承を実践もしくは経験した者)を必ず選定することが必要不可欠である。
 
 さて、第一の観点である聖職者や奉献生活者の召命もしくは養成に問題点があったのではないかという点であるが、日本にある宣教師会や修道会は、その多くが太平洋戦争を挟んだ混乱期に来日し活動を始めている。よって、どこの宣教師会も修道会も、また教区においてもこの時代のカトリック教会関連の事業体は、時代の必要性や要求に見事に応え日本社会を充足させてきたと言って間違いはないであろう。そして、「?.カトリック学校の再福音化と新たな教育的使命の構築 1.カトリック学校のあゆみから、カトリック学校の再福音化をめざして」で述べたとおり、キリスト教の禁教令が解かれた1873年(明治6年)以降、日本に再びキリストの福音を宣べ伝えるために来日した外国宣教師会の聖職者や修道会の奉献生活者の方々は、日本における福音宣教の第一世代としてこの日本の地に息づき、邦人の聖職者や奉献生活者および信徒が誕生していった。これらの人々が福音宣教第二世代となり太平洋戦争の最中のさまざまな困難にも屈することなく、忍耐強く耐えながら日本に灯された信仰の灯火を守り続けた。そして福音第三世代・第四世代の人々は、戦後の混乱期から復興期に至る間、福音宣教第二世代の人々に強い感化を受けながら、彼らの信仰と働きに希望と召命を見出して日本の福音化に尽力していったのである。その結果、教会やカトリック学校および社会福祉施設等の教会共同体の最盛期を築いたことは明白な事実である。
 
 しかし、時代の必要性や要求に応えれば応えるほど、「召命」や「養成」というもう一つの働きが疎かにされてしまったのではないか、という予測が立てられはしないだろうか。特に高度経済成長期以降の精神性よりも物質的豊かさを求めるという日本人の価値観の転換後、団塊の世代と言われる人々が、戦後の復興を成し遂げた世代から日本を引き継ぎ、その年齢別人口構成の多さと相まって高度経済成長期半ばからの競争社会が形成されていくことになる。そして、この過当な競争社会の形成こそが、学歴偏重社会や経済的格差社会の根源的理由であって、学校教育においては脱個性的で全体主義的な人格形成に繋がる画一的教育の在り方が常識化することとなり、残念ながらその教育形態は旧態依然として大きな改善がなされることなく現在にまで継続されてる。このような観点においてカトリック学校の福音的教育観に基づいた教育の実践の必要性と責務は依然として価値あるものとしてメッセージを発信し続けるであろう。
 
 このような時代の変化に伴う価値観の転換に、日本のカトリック教会は教区をはじめとし、その構成員である小教区や学校教育機関また医療や社会福祉機関等、多くの教会共同体は翻弄されることになり、その結果教会の本来的アイデンティティである宣教司牧(福音宣教と司牧)という最も重要な目的を見失うと共に、その活動を疎かにしてしまう結果を招いてしまったのではないか。これが日本の教会共同体における次世代への信仰の継承(家庭や教会学校を通したこどもたちへの信仰の引き継ぎ)と共に、聖職者や奉献生活者の召命もしくは養成に問題をもたらした原因と理由ではないかと考える。もっと単純にいうならば、時代の流れと変化による価値観の転換に翻弄され、信仰の継承や後継者づくりという最も重要な教会共同体の責務が疎かになり、果たせなくなっていったという見方である。
 
 もう一つの観点である「福音宣教を実践できない教会共同体が消滅していくことは、時のしるしを見失ったことによる結果であって、それは神のご計画としてのご意志である。」という観点である。マタイ(12・38〜42)・マルコ(8・11〜12)・ルカ(11・29〜32)福音書による「時のしるし」という観点でこれらのことを解釈するならば、それは「イエス・キリストにより宣べ伝えるられた神の福音」あるいは「イエス・キリスト」その方自身が「時のしるし」であって、そのことを旧約時代のヨナの徴によってニネベの人々が悔い改めたことに比して、それにも勝るイエスによって既に「時のしるし」が宣べ伝えられているにも関わらず、悔い改めようとしない人々に対する警告もしくは諭しとしての「時のしるし」ということである。つまり、現代の教会共同体がイエス・キリストによる福音という「時のしるし」が明示されているにも関わらず、私たち信徒である教会人が悔い改めようとせず、共同体における兄弟的愛の交わりと福音宣教を疎かにしたことによって、共同体内外における信仰の継承ができなくなっているという解釈である。
 
 これらのことは、当然のことながら教会共同体の一員であり、教会から派遣された学校としてのカトリック学校についてもあてはまることである。「時のしるし」であるイエス・キリストの福音を常に見定めることができなくなったカトリック学校は、自ずと自然淘汰され崩壊していく運命にある。そして、本来的カトリック学校の使命である教育活動を通してイエス・キリストの愛と教えを広めていくという福音宣教を実践できるカトリック学校のみが、本物のカトリック学校として存続し続けることが許されていく、という全くもって至極当然の結果に帰着するのである。
 
 10     [ 2−(3)高学歴志向や女子教育の普及という社会的欲求の充足に過度に傾倒し、福音宣教という観点から の教育活動が不足していたという点。 2012年4月16日(月) 
(3)高学歴志向や女子教育の普及という社会的欲求の充足に過度に傾倒し、福音宣教という観点から の教育活動が不足していたという点。
 
 カトリック学校であれば例外なく(最近は例外も見られるが…。)、キリスト教的価値観やカトリック主義に基づいた教育理念を掲げ教育活動を実践しているし、教会から派遣された学校として教育活動を通してイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくという使命を持った福音共同体を目指していることも共通の目的としているところである。このような言うまでもないカトリック学校としての根幹をなす経営理念を今更問い質し、再確認しなければならない事態を招いた理由の一つに、私たちカトリック学校が「高学歴志向や女子教育の普及という社会的欲求の充足に過度に傾倒し、福音宣教という観点からの教育活動が不足していたという点」について考察を加えてみたい。
 
 確かに経営マネジメントの観点から考えれば、顧客の欲求をマーケティングし、その実現のために必要な戦略をマネジメントしていくというのは、経営上の常道であろう。また、教育そのものが持つ性格や要素としての不変性と一過性(教育の不易と流行)という観点から考えると、その時々の社会状況や学習者の将来に応じた必要性に応えること(流行)に流されるという傾向があることは否めない。また、教育基本法が唱える教育における不易の部分とは、知育・徳育・体育ということであるが、それらにしても全く時代の影響を受けることのない永遠普遍のものというわけではないし、教育の流行という部分に関してはなおさらのことである。それは、明治以降の日本の歴史的背景や教育基本法や教育行政の変遷からも明白なことであり、根本的に教育における不易の部分とは、法律の文言上の主たる部分のものであって、不易そのものの内容は、時代によって大きく変化してきているというのが事実なのである。
 
 このような観点から、戦後日本のカトリック学校における教育自体も大きく変化してきたと言えるのではないだろうか。特に高度経済成長期からのカトリック学校の教育の在り方について、その特徴は顕著に見られるようになったと考えて良いだろう。カトリック学校の設立母体である多くの外国宣教師会や修道会は、教育活動を通しての福音宣教を本旨としながら、昭和初期から戦後の混乱期の日本社会に教育を普及させることを目的に来日し活動を開始した。しかも当時、私立学校に通うことができたのは、経済的に余裕のある家庭の子女たちであったから、男子であれば将来的にリーダーとなり得るようなエリートの育成や、女子であれば教養豊かで賢明な母となる女性の育成を通して、日本の社会を福音化しようとの試みがなされたのではないかと推測できる。
 
 しかし、高度経済成長期に入り、多くの国民に経済的余裕が出てくると、更なる生活の豊かさと安定を求めて、その経済的余剰は教育に向けられるようになっていった。これが高学歴=高収入=幸福の条件、あるいは高い教養=良妻賢母としての条件=幸せな結婚というような考え方が生み出され、男性においても女性においても高学歴こそが幸福をもたらす条件なのだという、正に神話染みた価値観が固定観念として信じられるようになり、知識偏重の偏差値教育による学歴社会や競争社会が誕生することになったのである。そして、カトリック学校もこの時代の流れにうまく乗った?のか自らつくりだしたのか?あるいは時代の波に呑み込まれてしまったのか?その判断や事の善し悪しについては難しいところではあるが、いずれにせよ結果的には多くのカトリック学校も世の中が求める欲求に応えるという方向に向かい、世俗的にもカトリック学校(幼稚園から大学に至るまで)に入学し、上質の教育を受けて行政各官庁や一流企業に就職したり、高い教養を身に付けた才女や良妻賢母としての資質を身に付けることが、一つのステータスシンボルになるという社会的評価も形成され、日本社会におけるカトリック学校としての社会的地位は確立されていったと言えるであろう。
 
 だが、そのような時代の風潮や社会的背景、特に学習者とその保護者の欲求の充足に応えてきた反面、カトリック学校としての最も重要な使命である福音宣教の実践という働きかけが希薄化していき、現在においても「カトリック学校とは信者を養成する学校ではない。」と、福音宣教と信者を養成することが同義語であるかのような誤った認識を豪語する奉献生活者の学校経営責任者さえいるほどである。そもそも福音宣教と信者を養成することは全く違うことであるばかりか、わたしたちの主イエス・キリストの御言葉や宣教活動のあり方を正しく理解するならば、「福音宣教自体が信者を養成することが目的ではない。」というこぐらいは、自明の真理のはずである。
 
 このような観点においては、カトリック学校よりもプロテスタント系のミッションスクールの方が日常的な礼拝と賛美歌の歌唱、キリスト教学・宗教の必修科目化、日曜礼拝のすすめ、あるいは校則における賞罰、中でも懲戒処分のあり方、牧師の常勤、そして生徒や教職員に対する伝道活動などと、より精力的に福音宣教(伝道)という使命を教育活動の中に反映させてきたと言えるのではないだろうか。その点カトリック学校は、設立母体の宣教師会や修道会の聖職者および奉献生活者個人に、福音宣教活動を余りにも依存し過ぎたために、今日のように聖職者や奉献生活者が激減すると、カトリック学校が高学歴志向や女子教育の普及という社会的欲求の充足に過度に傾倒してしまったことと相まって、福音宣教という本来的使命が果たせなくなってきているという事態を招いてしまうのである。そして、これらの傾向は残念ながら信徒使徒職が宣言された第二バチカン公会議以降も大きな変化は見られることなく、教会や学校を含めた教会共同体全体における信徒の宣教意識の低さにも表れているように思われる。
 
 日本のカトリック学校は、外国宣教師会や修道会を設立母体としながら、戦後日本の教育の普及と向上に多大な貢献してきたことは誰もが認める確かな功績である。しかし、戦後の時代の激変に共う価値観の転換に翻弄されながら、経済的安定や社会的地位獲得のための学歴社会が求める「学習能力の向上と知識の獲得や高い教養を身に付けた品格の形成など」に応えるが剰り、カトリック主義に基づいた全人教育を掲げながらも、日本社会におけるカトリック学校としての社会的地位の確立と引き替えに、カトリック学校の本来的アイデンティティである教育活動を通した福音宣教という使命を、自ら希薄化させていってしまったのではなかろうか。そしてまた、そのことが正に現代のカトリック学校が真の意味においてカトリック学校として存続していくことの危機を招いている根源的な原因ではないかと考えるのである。
 
 11     [ 2−(4)カトリック学校に奉職する教職員への福音宣教や司牧が不足、もしくはうまくいっていないという点。 2012年5月24日(木) 
(4)カトリック学校に奉職する教職員への福音宣教や司牧が不足、もしくはうまくいっていないという点。
 
 カトリック学校は、それぞれの設立母体である宣教師会や修道会等が掲げた独自の建学の精神や教育理念を持っているが、いずれもキリストの福音と教えに基づいたカトリック主義の崇高なものであって、キリスト教的な人間観(福音的人間観)を基に福音的教育観に根ざした教育の実践を通してイエス・キリストの福音を宣べ伝えていくことで、学校(学園)全体を福音共同体に成長させ、神の国の実現をめざすという点においては共通している。
 
 確かにカトリック学校のそれぞれの設立母体である宣教師会や修道会等が掲げた独自の建学の精神や教育理念は、それぞれの学校において聖職者や奉献生活者の教職員により受け継がれているであろうが、カトリック学校に関わることのできる聖職者や奉献生活者が激減している今日では、それさえも困難になりつつあるのが現状である。更に、カトリック学校に共通する人間観や教育観および教育活動を通して福音を宣べ伝えるというカトリック学校共通の目的が、カトリック学校で働いている教職員にどれほど浸透し共有されているかは、はなはだ疑問であると言わざるを得ない。では今日、何故カトリック学校がカトリック学校としての存続を危ぶまれてるのかというと、その理由は次の一つに尽きると言ってよいのではないだろうか。
 
 それは、第二バチカン公会議における「キリスト教的な教育に関する宣言」やバチカン教育省から出されている公文書を例外として除けば、「日本のカトリック学校全体を統括するための教会の法制度や教育行政機関が整備されていないということである。」ただし、これは単に教令等の規則や有名無実の組織を設ければよいということではなく、あくまでもカトリック学校もイエス・キリストを中心とした「神の民の教会」であるということを証しすることを実現するという観点においての法制度や教育行政機関を設立するということである。そのような観点において、「カトリック学校全体を統括するための教会の法制度や教育行政機関が整備されていない」という唯一の理由が、現代の日本のカトリック学校存続の危機を招いている根本的原因だと断言してよいだろう。そして、この要因が現在のカトリック学校に聖職者や奉献生活者の高齢化や激減により、聖職者や奉献生活者を十分に派遣できなくなっている現象により鮮明化し、現代の日本のカトリック学校の存続の危機や将来的閉塞感を煽っていることに繋がっているのである。
 
 では、「日本のカトリック学校全体を統括するための教会の法制度や教育行政機関が整備されていない」ということが、具体的に現代の日本のカトリック学校にどのような現実的な問題を提起しているのか列挙してみよう。
 
 @カトリック学校の教員資格取得制度や教員養成制度がないため、カトリック学校の教員としての  使命かつ明確な教育理念が共有できない。
 Aカトリック学校の教職員としての継続的かつ持続的な研修が実施できない。
 Bカトリック学校の財政的かつ人材的経営危機を回避できない。
 
 以上これらの諸問題を発生させた根本的な原因は、カトリック学校の設置自体の認可は教区長である司教から受けてはいるものの、学校運営そのものはそれぞれの宣教師会や修道会が中心となった学校法人の理事会に任せられているということにあるだろう。よって、それぞれの設立母体となっている宣教師会や修道会の会員が十分にいる場合は、経営責任者(理事長)や理事会および学校経営管理職(校長・教頭)等の人材を必要に応じて派遣できたであろうが、現在のようにひとたび聖職者や奉献生活者が激減し、学校教育現場に司祭や修道者がいなくなると、カトリック学校としての最も重要な使命である福音宣教は疎か、建学の精神や教育理念すらも消滅しかねない事態を招き、公的教育機関と何ら変わりのない学校(公的教育機関を否定するものではない。)となってしまう危険性を孕んでいるのだ。
 
 では、現代のようにカトリック学校の経営を聖職者や奉献生活者が担当することがますます困難になっていく時代に、将来的なビジョンを含めどのような対策が必要なのかを考えてみよう。そこで先にも述べたように、「日本のカトリック学校全体を統括するための教会の法制度や教育行政機関が整備されていない。」ということが、現在のカトリック学校の存続の危機を招いたのであるが、その具体的な3つの要因について、それぞれ述べてみるとする。
 
 第一に、「@カトリック学校の教員資格取得制度や教員養成制度がないため、カトリック学校の教員としての使命かつ明確な教育理念が共有できない。」という点についてである。そもそもカトリック学校の教職員として採用されている私たちは、教員であればそれぞれが所属する教育委員会が認定する種々の教員免許を取得していれば何ら問題がないのであって、あとは各カトリック学校の人事裁量権を持った経営責任者が、自校の教員として相応しいと判断されれば良いというのが現状であろう。
 
 よって、私たちカトリック学校の教員は、特別にカトリック学校専用の教員免除を取得しているわけではないばかりか、カトリック学校とは何か、カトリック学校と他の学校は何が違うのか、カトリック学校の教員としてどのようなことが求められるかなど、資格どころか全くの予備知識もなしにカトリック学校の教員として務めることになるわけでである。勿論、採用後、校内外の初任者研修や実務経験を通して、カトリック学校の教員としての資質を養っていくわけではあるが、カトリック学校の教員としての資質が身に付くまでには、それぞれの学校における研修制度の在り方や個人のカトリック教育に対する研究姿勢にもよっても異なるが、それ相応の年数がかかることは言うまでもない。採用された教員の中には、カトリック教育や校風そしてカトリック学校がめざすものとその使命など、カトリック学校の教員としての資質を養うための研修や聖職者や奉献生活者の行う指導に反駁したり、カトリック教育そのもに馴染めずに退職する者も少なくないのではないだろうか。
 
このような弊害を避けるためにも、少なくともカトリックの高等教育機関における教員養成課程の科目の中に「カトリック教育」に関連する科目(第二バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言・バチカン教育省公文書・カトリック学校の歴史・カトリック学校の使命等)を数科目設定して、カトリック学校の教員を希望する者には履修させることが望ましい。そして、できることならカトリック学校教員資格制度を整備し、全国のカトリック高等機関でカトリック学校教員免除を取得できる環境を整備して欲しいものである。また、カトリックの高等教育機関に在学していない学生もしくはカトリック学校に勤めるすべての教員を対象に、夏季・冬季休業期間等に上記のような「カトリック教育」に関連する分野の講座を設け、一定以上の単位取得もしくは履修(受講時間数)によってカトリック学校教員免許を与えるなどの制度も考えられるであろう。
 
 第二に、「Aカトリック学校の教職員としての継続的かつ持続的な研修が実施できない。」という点についてであるが、教育という社会的活動における分野は、その時代や時々その場における社会現象等によって大きく左右されるものであるから、教育の在り方や方法論そして時には教育の根底に流れる思想や人間観さえもが変わるという性質のものである。特に現代社会のように価値観が多様化し、何が重要でどんな道徳的価値が普遍的で善なるものは何か等の判断基準が非常な困難を要する現代においては、人間生活の広範囲で多岐に渡る部面で不確実性が深まり疑心暗鬼となって、将来や未来に対する展望が持てないという閉塞感が、老若男女を問わず多くの人々を希望が見出せない困惑と苦悩のどん底に落とし入れるのである。
 
 つまり、教育という活動はその時々の社会的な背景をよく理解し、常にその時代に即した活動でなければならない。それはまた、教育活動の対象である学習者はその時代を生きる者であるから、教育とは、その時々の社会に適する必要不可欠な、ただし、その時代に適応するだけではなく、より良い社会へと改善していける人間に成長できるように、更には次代を担うことができる人間を育てることための活動でなければならない。そのような観点で、私たち教育者は常にその時々の「時のしるし」を読み取ることに敏感でなければならないし、そのためには継続的かつ持続的な研修をして研鑽を積み重ね続けていくことが必要なことは言うまでもない。特に、カトリック学校の教員としては、教育におけるその時々の時代に即した流行だけに囚われることなく、カトリックという単語が普遍を意味するとおり、時代を超えて変わることのないイエス・キリストをとおして語られたすべての人間に対する福音を宣べ伝えるということが、カトリック学校における教育活動の不易の部分として持続的に継承していかなければならない。
 
 以上の観点で、カトリック学校の教職員としての継続的かつ持続的な研修が、是が非でも必要不可欠であり、その研修を企画・運営する機関が、全国のカトリック学校を統轄する教育行政機関を基に、少なくとも教区単位に設置されることが望ましいであろう。
 
 第三に、「Bカトリック学校の財政的かつ人材的経営危機を回避できない。」という点についてであるが、今日のように少子高齢社会に歯止めがかからず、それぞれのカトリック学校の設立母体である外国宣教師会や修道会並びに教区に属する聖職者や奉献生活者の後継者も激減し、カトリック学校に司祭や修道者を派遣できなくなり信徒の教職員も減少してくると、それぞれの宣教師会や修道会そのものの存続はもとより、それぞれの会の使命に基づいて設立された学校の建学の精神の継承すらも危うくなってしまう。カトリック学校において司祭や修道者の存在がいなくなると、結局のところはカトリック学校としての最大の使命である福音宣教やそれぞれの教育的使命を果たせなくなり、結果的には学校そのものの組織体としての存続や教職員の給与保証を最優先した経営の維持が第一義的に考えられ、それぞれの経営母体である宣教師会や修道会からひとたび手を離れたカトリック学校は、第三者機関に身売りをせざるを得ない羽目に陥ってしまうのである。そうなると当然理事会は、カトリック教会には関わらない第三者の人々に牛耳られ、理事長や学長・校長・教頭等の管理職はカトリック学校の使命やカトリック教育を全く理解しないか疎い人材が就くこととなり、そのようなカトリック学校はもはやカトリック学校とは有名無実な虚像と化して、単なる教育機関として存続か、もしくは閉校へと向かう末路をたどるだけである。(このような現象のバロメーターとして「学報や学年通信そしてクラス通信」等の刊行物の記事から聖書のみ言葉が消えていく。)
 
 更に、少子化による児童・生徒・学生等の減少が、学校会計を圧迫し経営破綻へと導くことはいうまでもないが、カトリック学校の使命や教育的使命を先導する司祭や修道者の管理職や信徒の一般教職員を失ったカトリック学校は、カトリック学校としての特徴を打ち出すことができず、カトリック学校の特徴や魅力を一層希薄化させ、その結果競争著しい教育市場においても差別的優位性を喪失して、社会からも受け入れられず、児童・生徒・学生募集がより困難を極め、経営難に陥るという悪循環のどうどう巡りを繰り返しながら、ますます経営体力を消耗していくのである。以上が、「日本のカトリック学校全体を統括するための教会の法制度や教育行政機関が整備されていない」ことによる第三の問題点ということである。
 
 カトリック学校をカトリック学校として存続させていくための第一条件は、カトリック学校の使命や教育的使命を十分理解し、それを先導できるリーダーの存在とそれらを実践できる一般教職員の人材育成と確保に尽きる。「組織の時代」と言われる今日の社会にあって、カトリック学校の組織は財政的かつ人材的な危機管理という観点においては、あまりにも脆弱であるといわざるを得ない。そもそも現代経営マネジメントにおける組織マネジメントの基礎は、カトリック教会組織がお手本になっているにも関わらず、日本におけるカトリック学校の組織は、現代の少子高齢社会によるカトリック学校の健全経営という観点においては、弱みとはなり得ても決して強みにはなり得ていない。何故ならば、カトリック学校に司祭や修道者または信徒の管理職や教職員を派遣できなくなっても、それに代わる人材を派遣できる機関や制度はないし、財政難に落ちいてもそれを救済する融資機関や互助制度もないからである。要するにカトリック学校の設立の経緯が、設立母体である各宣教師会や修道会による独自の使命に基づいた活動であったことから、カトリック学校が学校法人化した今日においては、経営そのものもそれぞれの学校の自助努力や自己責任に委ねられているのであって、カトリック教会もしくはカトリック学校の全国的組織力をもって、相互扶助による学校経営という発想が欠如あるいは希薄であったため、カトリック学校の教員資格制度や研修制度、人材派遣や人事交流そして財政的な相互援助活動を推進していくための実質的な機関や制度もつくられることなく現在に至っているのである。
 
 今日のように人材的にも財政的にも経営難に陥っているカトリック学校が全国的に多数存在する現状は、もしもカトリック学校全体を統括する教会の法制度や教育行政機関が整備されていれば、管理職に相応しい司祭や修道者および信徒の人材派遣や信徒の教職員の採用、またはカトリック学校に相応しい教職員育成のための免許制度や研修など、カトリック学校としての学校経営をより健全かつ円滑に運営することが可能な環境を提供できるに違いない。その実現は、自ずとカトリック学校としての使命やそれぞれの経営母体が掲げる建学の精神の継承を途絶えさせることなく引き継がせ、少子化現象による厳しい学校経営難や激しい競争環境にある教育市場においても、カトリック学校の究極の使命である福音宣教を存分に果たしながら、地の塩・世の光としてイエス・キリストを証しする学校として存在し続けていくことを可能にするであろう。
 
 12     [ 2−(5)第二バチカン公会議による「開かれた教会と信徒使徒職」という本旨が、カトリック学校においては十分に反映されなかったという点。 2012年6月23日(土) 
(5)第二バチカン公会議による「開かれた教会と信徒使徒職」という本旨が、カトリック学校においては十分に反映されなかったという点。
 
 第二バチカン公会議の象徴的宣言の内容は、教皇ヨハネ二十三世がよく使用しキャッチフレーズのようになった言葉「アジョルナメント(伊)」が示すように「現代化」であった。バチカン公会議はそれまでの閉鎖的で保守的であった教会を、外へ向けて開かれた存在へと方向づけるものであったが、それは別な表現をすれば「外へ向けて宣教する教会」であろう。「外へ向けて宣教する教会」になるためには、自ずと現実社会に身を投じ様々な問題がうごめく只中で苦しみ藻掻く生身の
 
 人間と積極的に関わり、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるということに他ならない。当然のことながら第二バチカン公会議公文書における「キリスト教的な教育に関する宣言」においても、その趣旨は反映されているわけであるから、それらの宣言の文言と現実のカトリック学校の現状を照らし合わせて、第二バチカン公会議による「開かれた教会と信徒使徒職」という本旨が、カトリック学校においては十分に反映されなかったという点を検証してみよう。
 
 まず序文の内容において第二バチカン公会議は、「聖にして母である教会は,神である創造主から受けた使命,すなわち,すべての人に救いの秘義を告げ,すべての物をキリストにおいて一新するという使命を達成するために,明確にキリスト教的教育、特に学校におけるキリスト教的教育に関して基本的原則を宣言をする。」としている。この点において、現代のカトリック学校は「キリスト教的教育に関する宣言」の目的である「聖にして母である教会は,神である創造主から受けた使命,すなわち,すべての人に救いの秘義を告げ,すべての物をキリストにおいて一新するという使命を達成すること。」が実践されているのかという問いかけにどう答えることができるのだろうか。特に、「すべての人に救いの秘義を告げる」という部分が、十分に実践されているのかどうかという自問自答に対しては、その可否に関わらず、それぞれのカトリック学校において迷うことなく直ちに返答することができるものである。
 
 よって、第二バチカン公会議における「キリスト教的な教育に関する宣言」の12のそれぞれの内容について、私たちカトリック学校の教育の実践がそれらについて十分な働きをもって応えているかどうかの検証が必要であるから、それらの観点を明らかにしてみる。
 
1 「教育を受ける普遍的権利」については、『真の教育の目的は,人間の究極目的のため,また,成人した時に自分が一員となリ,その使命達成に協力しなければならない共同体
 の福祉のために,人格を形成することである。』とあるように、カトリック学校において真の教育の目的が実践かつ達成されているのかどうかという問いかけである。したがって、
 
 @青少年の肉体的・道徳的・知的天分を調和的に発展させるように,また強固な精神をもって障害を克服しつつ,絶え間ない努力をもって自分の生活を発展させ、
   その生活を自由に実行するために,完全な責任感をしだいに身につけるように青少年を肋けること。
 A青少年の成長段階に合わせて,積極的で賢明な性教育をすること。
 B社会生活に参加するために,必要で適切な技術を身につけ,人間社会の種々の領域に行動的に参加することができ,他人との対話に心を開き,公共の福祉を
   推進するために努力を惜しまないように育てること。
 C青少年が正しい良心をもって道徳的価値を評価し,それを個人の決断によって肯定し,より深く神を知り,愛するような励ましを受けることができること。
 
2 「キリスト数的教育」については、『神の子であるすべてのキリスト信者は,キリスト教的教育を受ける権利を特っている。』ので、カトリック信徒の学習者に対して、以下の教育が
  実践されているかどうかという問いかけである。したがって、
 
 @受洗した学習者が、徐々に救いの秘義を認識するように導かれながら,受けた信仰のたまものを日増しに,よりよく意識するよう,特に典礼祭儀において霊と真
   理とをもって父である神を礼拝するよう学んでいること。
 A自分の生活を正義とまことの聖徳においてつくられた新しい人に従って(エフェソ 4・22〜24)形成されていること。
 B受洗した学習者が、キリストの全き背丈にまで(エフェソ 4・13参照),全き人間となり,神秘体の発展に力を尽くし,さらに自分の召命を自覚し,かれらの中にある
   希望(1 ペトロ 3・15参照)のあかしをたてるとともに,世のキリスト教化を援助する習慣を身に付けさせること。
 Cこの世のキリスト教化によって,自然的な価値も,キリストによってあがなわれた人間の全体的な考察にとり入れられて,社会全体の福祉に貢献するのであって,
   霊魂の司牧者に,このような真のキリスト教的教育をすべての信者,特に教会の希望である青少年が受けられるよう万事を整えいること。
 
3 「教育責任者」については、『両親は,子供に生命を授けたのであるから,子供の教育というきわめて重大な義務を特っている。それゆえ,子供の第一の,主要な教育者と認めら
   れなければならない。』と教育の責任者を両親と置きながらも社会全体の助け、特に国家の教育に関する義務と権利、および責任を宣言している。したがって、
 
 @両親の権利と,両親から教育の任務の一部をゆだねられた他の人々の権利のほかに,国家は教育に関する一種の義務と権利を特っており、両親や,教育に携
   わる他の人々の義務と権利を擁護し,かれらに助けを与えること,さらに両親や他の共同体の発意が欠ける場合,教育の仕事を,相互補足の原理に従って,両
   親の望みを考慮したうえで行なうこと,さらにまた,共通善のために必要であれば,学校や教育施設を建てることである。とあるように、学習者の両親(保護者)や
   国家(政府)への働きかけが行われていること。
 A教育の任務は特別な理由によって教会に属している。これは,教会が教育能力のある人間的共同体と認められなければならないからだけではなく,特に教会が
   すべての人に救いの道を告げ,信者にキリストの生命を授け,かれらがこの生命の充満に達することができるよう,絶え間ない配慮によってかれらを助ける任務を
   果たしていること。
 B教会はこれらの子供に,母として,かれらの全生活をギリストの精神で貫く教育を授けなければならない。同時に,教会は,円満な人間の完成を促すため,また地
   上の社会の福祉のため,さらにいっそう人間にふさわしい世界を形成するために,すべての国民に助力を惜しまないのである。これらのことがカトリック学校で実践
   されていること。
 
4 「教育のさまざまな手段」については、『教会はその教育上の任務を果たすにあたり,すべての適切な手段について細心の注意を払い,特に教会に固有の手段について心を配っ
   ている。』のであるから、したがって、
 
 @その固有の手段の第一である教理教育が行われていることである。これは,信仰を照らし,固め,キリストの精神による生命を養い,典礼の秘義への意識的で行
   動的な参加へ導き,使徒的活動へと励ますこと。
 A教会は,人類の共通の遺産に属し,精神の修養と人間形成に大いに役だつ他の手段,たとえば,マス・コミの機関,精神と肉体を育成するために設けられた種々
   の団体,青少年の会,特に学校を高く評価し,それらに教会の精神がしみわたり,それらが高まるように努めているのであ るから、カトリック学校においてもそれら
  が実践されていること。
 
5 「学校の重要性」については、『すべての教育機関の中で,学校は特別な重要性を持っている。』とあるので、したがって、
 
 @学校は,その使命によって,知的能力を高めるよう絶えず配慮し,正しい判断力をつちかい,過去の時代から受けついだ文化上の遺産を次の世代に伝え,価値観
   を発展させ,職業への準備をし,種々の素質と身分の生徒間に交友関係を作り出し,相互理解の精神を育成することができていること。
 A学校が中心となリ,その活動と進歩に家庭,教師,さらに文化・社会・宗教上の生活を促進する種々の団体,市民社会と全人類社会がともにあずからるようになっていること。
 B学校における職務が、人間社会を代表して教育の任務に携わる崇高なものであるという自覚のもと、その遂行にあたっては,精神と心の特別な素質,入念な準備,
   改善と適応を行なうための不断の用意を必要とするものであることを自覚して実践されていること。
 
6 「両親の義務と権利」について、『両親は子供を教育する第一の義務と権利を持ち,これは他人に譲ることのできないものである。したがって両親は,学校を選択する際に真の自
   由を持たなければならない。』したがって,
 
 @国民の自由を保護し,守るべき任務を特つ公権は,両親が自分の子供のために,自分の良心に従って真に自由に学校を選ぶことができるように,「分配的正義」に
   よって公の補助金が与えられるよう配慮されるような活動が実施されていること。
 A国家は,すベての国民がふさわしく文化の恵みに浴し,市民としての義務と権利を果たすために十分準備されるよう配慮しなければならない。そのため国家は,国
   家によるあらゆる種類の学校の独占を排除することを前提に、それぞれの学習者にふさわしい学校教育に関する子供の権利を守り,教師の能力と研究水準につい
   て配慮し,生徒の健康に心を配り,学校活動全般を推進していくことに参与していること。
 B聖なる教会会議は,適当な教育方法と学習課程を見いだすために,また青少年を正しく教育できる教師を養成するために,大いに協力するようキリスト信者に勧告
   しており、さらにまた,特に父兄会(保護者会)により,学校の任務のすべて,ならびに特に学校で授けるべき道徳教育を,援助するようキリスト信者に勧告しており、
   それらを実現できる信徒の教員養成や採用が行われていること。
 
7 「学校における道徳・宗教教育」について、『教会は,そのすべての子供の道徳的,宗数的教育を熱心に配慮すべき重大な義務を確認している。』したがって、
 
 @非カトリック系の学校で教育を受ける多くの者に対して,特別な愛情を示し,助けを与えつつ,かれらに接しなければならない。すなわち,かれらを教え指導する人々
   の生きた模範によって,また学友間の使徒的活動によって,また特に,かれらに教いの教えを得させ,年齢と環境に合った手段をもって,時と場合に応じた適当な処
   置により霊的助けを与える司祭や信徒の役務によって行なわれていること。
 A学習者が教会の援助を受け,キリスト教的教育と一般の教育とを並行して調和的に受けられるように,すべてを整え,現代社会の多元性を考慮し,信教の正当な自
   由を守り,家庭を助けてすべての学校での子弟の教育を,各家庭の道徳的・宗教的信念に従って行なわれていること。
 
8 「カトリック学院」について、『学校教育の分野における教会の存在は,特にカトリック系の学校を通じて示される。カトリック系の学校は,他の学校に劣らず,青少年の教養と人間
   形成を追求している。しかし,カトリック系学院の固有の使命は、学校内に自由と愛の福音的情神に満たされた学校共同体のふんい気をつくること,青少年が自分の人格を発展
   させると同時に,洗礼によって新しい被造物となった青少年が新しい被造物として成長ナるように助けること,また生徒が世界,生活,人間について徐々に習得する知識が信仰
   に照らされるように,人類の全文化を究極的に救いの知らせに秩序づけることである。』したがって、
 
 @カトリック系の学校は,進歩する時代の状況に対して開放的態度をとりながら,地上の社会の福祉を効果的に促進させるよう生徒を教育し,かれらが神の国の拡張の
   ために奉仕するよう準備させ、生徒が模範的および使徒的生活の実践により,人間社会にとって救いのパン種となるよう教育していること。
 Aカトリック系の学校は,神の民の使命を果たすうえに大いに貢献し,教会と人間社会相互間の利益のため両者の対話に役だっていること。
 Bカトリック系の学校が、その目的と計画を実現できるかどうかが,まず第一に教師自身にかかっていることを自覚し,一般的な知識と宗教上の知識を証するために必要
   な学位を身につけ,進歩する時代の発見にかなった教育技術を体得するよう,特に心がけて準備していること。
 C教師は,愛によって,かれら相互間および生徒と密接に結ばれ,使徒的精神に満たされ,生活と教えとをもって唯一の師キリストにあかしをたてていること。
 D教師は,特に両親とともに,教育活動全般において,性の差異と,神の摂理が定めた家庭と社会における両性の固有の役割を考慮し、生徒の自主的活動を活発に
   するように努め,かれらが学校を卒業した後も,助言し,親交を保ち,さらに真の教会的精神に満たされた特別な会を設けて,かれらと関係を保つようにしていること。
 E教師の活動が使徒職の名に価するものであり,現代にきわめてかなった不可欠なものであり,同時に社会に対する真の奉仕であると認識していること。
 Fカトリック信者の両親に,時と場合の許すかぎり,子供をカトリック系の学校に託し,学校をできる限り援助し,子供の福祉のために学校と協力する義務のあることを促していること。
 
9 「カトリック学校の多様性」について、『なんらかの意味で教会に依存している学校はすべて,カトリック系の学校のこの理想像にできるだけ合致しなければならないが,一方また
   カトリック系の学校は地域的な事情に従って種々の形態を取り入れることができる。実際,教会は,特に新しい教会の地区において,カトリック信者でない生徒をも在学させてい
   るカトリック系の学校を高く評価している。』したがって、
 
 @カトリック系の学校を創立し経営するにあたっては,進歩する時代の要請を特に考慮しなけにばならない。それゆえ,基礎教育の場である初等・中等学校を盛んにす
   るとともに,現代の社会情勢が特に要求する職業学校や工業学校,また成人教育および社会福祉のための学校,心身障害のために特別の保護を必要とする人々
   のための学校,さらには宗教科その他の教科の教師を養成する諸学校をも重要視しなければならない。
 A聖なる教会会議は,教会の司牧者およびすべてのキリスト信者に対し,カトリック系の学校がその使命を日々いっそう完全に果たし,特に,この世の財に恵まれない
   貧しい者,あるいは家庭の保護と愛情をもたない者,あるいは信仰の恵みを受けていない者の必要を満たすために,犠牲を惜しまず,カトリッタ系の学校を助けるよう
   強く勧告する。
 
10  「カトリック大学」について、『教会はまた,上級の学校,特に大学や学部のことも注意深く配慮している。教会に従属しているそれらの学校においてもその性質に従って,各学
   科が固有の原則,固有の方法,学問研究に必要な自由をもって,研究されるように組織的に配慮されることを望む。』したがって、
 
 @進歩する時代の新しい問題と研究成果を慎重に考慮し,教会博士,特に聖トマス・アクイナスの例にならって,信仰と理性がどのようにして唯一の真理に合致するか
   をより深く理解するため、それらの学問を日々より深く理解すること。
 Aより高い文化を推進するあらゆる研究分野においてキリスト教の精神の,いわば公で堅固な,普遍的存在が実現し,これらの学校の学生が,実際に知識に精通し,
   社会において重大な任務を果たすにふさわしい者,また世において信仰の証人になるよう教育されなければならない。
 B神学部のないカトリック系大学には,一般学生にも適した神学の講義が行なわれるよう,神学研究所または神学講座が設けられていること。
 C学問は高次の学問的意義を特つ特殊な研究によって特に進歩するものであるから,カトリック系の大学や学部において,学問研究の推進を第一の目的とする研究所
   は特に助成されなければならない。
 Dカトリック系大学や学部が世界各地に適宜に配置され促進されるように,また,それらの大学が,数よりも学問研究によって輝かしいものとなるように,努めること。
 E経済的に恵まれなくて将来大いに有望な学生,ことに新興国出身の学生には容易に門が開かれること。
 F社会と教会自体の将来は,高等教育を受ける青少年の進歩と密接に結ばれている。 そのため,教会の司牧者はカトリック系大学に通う学生の霊的指導を熱心に行
   なうだけでなく,教会に属するすべての子弟の霊的育成にも留意すること。
 G司教の適切な協議を経たうえで,カトリックでない大学にもカトリック学生寮とカトリック学生センターを設け,慎重に選ばれ準備された司祭,修道者ならびに信徒によっ
   て,学生が永続的な霊的・知的援助を与えられるよう配慮すること。
 H教職および研究活動に適切と思われるカトリック大学ならびに他の大学の優秀な学生は,特別の配慮をもって養成され,かれらが教職に携わるものとなるよう促すこと。
 
11 「神学部」について、『教会は神学部の活動に大きな期待を寄せている。教会は神学部に,学生を司祭職のためだけでなく,特に神学の研究講座を指導するため,または自主
   的に学問研究を発展させるために,さらにきわめて困難な知的な面での使徒的活動のために準備させるという重大な任務をゆだねている。』したがって、
 
 @聖なる啓示が日々よリ深く理解され,先祖から伝わったキリスト教的英知の遺産がよりよく解明され,分かれた兄弟や非キリスト者との対話が促され,さらに,教義の
   発展によって生じた問題に解答が与えられるように,神学の種々の分野の研究を深めること。
 Aしたがって,神学部は,その規則を適性に改め,神学と神学に関連する学問の研究を力強く推進し,更に最近の方法や手段を用いて,学生をより高い研究へと導か
   なければならない。
 
 12 「教育における協力」について、『教区内,国家内,国際間での協力は,日ごとにいっそう切実なものとなりつつあるが,学校に関してもきわめて必要とみられる。』したがって、
 @カトリック系の諸学校の間にも連切な連携が促進され,それらのカトリック系学校と他の学校との間に,全人類の福祉が必要とする協力が促されるよう努めること。
 Aいっそう緊密な連携と協力から,いっそう豊かな成果が得られるのは,特に大学の領域においてであるから,すベての大学においてそれぞれの学部は,研究対象が
   許すかぎり,相互に協力しなければならない。
 B諸大学が相互に協力して国際間の会合を催し,学問研究の分野を互いに分担し,研究成果を交換し合い,教師の定期交流を行ない,いっそう大きな協力に役だつ
   あらゆる事がらを促進すること。
 
 第二バチカン公会議における「キリスト教的な教育に関する宣言」は次のように結ばれている。
 
 『聖なる教会会議は若い人々に,かれらが教育の任務の重大さを知り,特に教師の不足のために青少年教育が危険にさらされている地方において,その任務を高潔な心をもって進んで引き受けるように強く要望する。
 
 終りに,聖なる教会会議は,福音の精神によって,教育と,各種類,各等級の学校のとうとい事業に献身する司祭,修道士,修道女および信徒諸氏に対して深い感謝を表わすとともに,かれらが受け
た任務を寛大な心で果たし,子弟にキリストの精神を吹き込むにあたって,また教育方法論や学問研究においても、すぐれた成果をうるよう努力すべきことを勧告する。これは,教会の内的一新を促すばかりでなく,現代世界,特に知的な分野に,教会の存在がよい影響を及ぼすためである。
 
 この教令の中で布告されたこれらナベてのことと,その個々のことは,諸教父の賛同したことである。わたくしも,キリストからわたくしに授けられた使徒的権能をもって,尊敬に値する諸教父とともに,これらのことを聖霊において承認し,決定し,制定し,このように教会会議によって制定されたことが神の栄光のために公布されるよう命ずる。』
 
ローマ聖ペトロのかたわらにて 1965年10月28日 カトリック教会の司教 パウルス自署(諸教父の署名が続く)
 
 
 以上のように、第二バチカン公会議における「キリスト教的な教育に関する宣言」はカトリック学校においても「宣教する共同体」として教育活動や学問探究をとおしてキリストを証しすることを宣言している。これら12条約44項目からなる「キリスト教的な教育に関する宣言」は、そのままカトリック学校としての使命を詳細に顕している。よって、これらの項目をそれぞれのカトリック学校の実態と照らし合わせていくことで、カトリック学校としての現代的使命を実践しかつ果たしているかの検証が容易に可能となる。
 
 「宣教する共同体」そのものである私たちキリスト者は、洗礼によって、キリストと結ばれ、世界を聖化し、御父に導くためにご自身を捧げられたキリストの使命を受け継いだのであるから、教会から派遣されたカトリック学校も、キリスト者一人ひとりが言葉と行動(労働)で神の国を証するのと同様に、その実現のために神と人々(社会)に奉仕し、奉献と祈りによって世界の聖化(神の御計画の実現)のために働く共同体とならなければならない。と同時にこれらがカトリック学校という福音共同体として、またそこに奉職する教職員の「信徒使徒職」そのものであると言えよう。そして、その「信徒使徒職」を果たすことこそが「開かれた教会」の実現の達成に繋がる。
 
 このような観点から、現代のカトリック学校がどの程度その使命を果たしているかを自問自答するのならば、それぞれの学校によって差異はあるものの、未だ十分に第二バチカン公会議における「キリスト教的な教育に関する宣言」の趣旨が反映されているとは言えないのではないだろうか。何故ならば、日本社会における福音化が進んでいるとは実感できないからである。勿論、これは感覚的な判断であることは否定できない。しかし、現代とキリシタン時代の社会状況が異なるものの、日本にイエズス会の宣教師フランシスコ・ザビエルによって、はじめてキリスト教が伝来し、その後フランシスコ会やドミニコ会そしてアウグスチノ会等の宣教師たちによって、キリストの福音が広められた16世紀半ばから禁教令が出されキリシタンが迫害された17世紀の初頭の頃までのようなキリスト教の広がりは現代社会においては見られていないことは確かである。
 
 明治以降禁教令が解かれ、キリスト教の布教が認められるようになって以降、キリシタン時代同様に多くの国々から宣教師が来日し、神の御計画である世界の聖化の実現のために福音が宣べ伝えられてきた。しかし、日本社会におけるキリスト者の人口は、同じ福音が宣べ伝えられたアジアの国々に比較すると、停滞かもしくは減少傾向である。キリシタン時代には、司祭や伝道師を養成するイエズス会のセミナリオやコレジオが設立されたが、カトリック学校などという一般人がキリスト教的教育を享受できる教育機関などは存在しなかった。にもかかわらず、キリシタン時代には60万人ほどの信徒がおり、メディアや交通網が著しく発達した現代のカトリック信徒数を遙かに凌ぐ。一体この違いは何によるものなのであろうか。それは、キリシタン時代の信徒と現代の信徒の「信徒使徒職」の意識の差異によるものではなかろうか。マタイによる福音書9章35節〜38節(イエスは町や村を残らず回って、街道で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。そこで、弟子たちにいわれた「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主にお願いしなさい。」)にこのようにあるように、福音による収穫は多いことは明白であるにも関わらず、その福音を宣べ伝えるための働き手が少ないということである。私たちカトリック学校は、そしてそこに奉職する教職員は、その働き手としてイエス・キリストとつながり福音の証し人となっているのだろうか。そのために、カトリック学校に関わるすべての人々が福音共同体の完成をめざしているのだろうか。それは、正に「信徒使徒職」の意識の如何と行動の違いによるものであろう。その結果、キリストの福音がどれほど未だ福音を知らない人々や社会に宣べ伝えられたかどかが、「開かれた教会」であるかどうかの目安となるだろう。
 
 私たちカトリック学校の教職員は、第二バチカン公会議における「キリスト教的な教育に関する宣言」を受け取り、そして学び、その実現のために何をして、何をしてこなかったであろうか。マタイによる福音書11章16節に「今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、他のものにこう呼びかけている子どもたちに似ている。『笛を吹いたのに、踊ってくれなかった。葬式の歌を歌ったのに、悲しんでくれなかった。』」とあるように、既に「福音」は示されているのにも関わらず、それを土の中に埋めて隠してしまい、無くしてしまったことにしてはいないだろうか。私たち人間は、常に回心することが求められる。知り得たつもりでいながら誤解し、記憶に刻んだつもりでいながらも忘れ去る。正しい行いをしているといいながらも罪を犯し、一方を愛しているといいながらも一方を憎む。それが人間というものであろう。「信徒使徒職」という使命を果たすことは、そのような人間の根源的な罪である「原罪」からの解放でもあるはずである。
 
 だから、私たちは常に自分自身を省み、時代の変化や社会状況を的確に分析した上で、神が何を求めておられるのかというその時々の「時のしるし」を読み取り、カトリック学校としての使命を果たしていくことに邁進して、福音的教育の実践を貫徹しながら、イエス・キリストの福音を宣べ伝え続けることで、カトリック学校としての「信徒使徒職と開かれた教会」の現実化に努めていかなければならない。
 
出典および参考文献
1「第二バチカン公会議公文書『キリスト教的な教育に関する宣言』南山大学監修」
2 「神の国をめざして 松本三郎 著 折り園巣宗教研究所 出版」
 
 

Last updated: 2014/10/22

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