テーマ「福音共同体をめざすカトリック学校の実現のために」
1.福音共同体とは、どのような共同体をいうのか?
(1)本質的エクレシア(共同体)としての教会
イエス・キリストに救いを求めて集まって来た人々の共同
本来的には、「教え・教義」的要素の意味合いはない。18〜19世紀、中国に渡った宣教師が「教会」と訳してしまった。日本においては江戸時代末期福音書の日本語訳を試みたギュラッフ牧師が、エクレシアを「寄り合い宿」と訳しており、明治になってからはヘボン先生が「集会」と訳している。明治半ば、プロテスタントの学者が中心となった翻訳委員会で「教会」と訳され、それが定着してしまった。
(2)エクレシアの原語による本来的意味
誰かの呼びかけに応じたり、惹かれたりして集まった人々のグループ、団体、党派。しがって、「エクレシア」の定義は、キリストに出会い、キリストに魅了され、キリストを 自分たちの人生を支え照らす存在として核心を抱いた人々の集まり、共同体である。
(3)福音共同体
イエス・キリストに救いを求め、もしくは共感し、その福音を実践しながら、すべての人々に広めるために集った、現代を生きる共同体。
※よって、カトリック学校が福音共同体となるためには、福音理解および本質的エクレシアとしての共同体理解とその実践が行われているか、その努力がな
されていることが重要である。
2.カトリック学校が福音共同体となるための具体的方法論
(1)福音理解(知識(人間学・哲学)として)
@聖書における人間理解(聖書の人間観)
1.人間の根源的存在(ネフェシュデでバーサールな存在)=不完全で欠けたところを持ち、その充足なしには生きていけない者。よって神の無条件のケノーシス(神の愛)によってのみ満たされ生きる者となる人間。神は人間にその自由意志によってご自身に招き、人間の神への応答を忍耐強く待ち続けている。ご自分との出会いに招く神とそれに応答しようとする人間の関係理解。(神の無条件の愛への気づきと、それに応えようとすること=神との出会いと応答=人間が真に生き、人生を幸福にするメッセージである「福音」を生きること。→福音の学びと実践。
Aイエス・キリストの福音理解
1.神の国の到来
2.イエス・キリストをとおしての神の救いと永遠のいのちへの復活
B聖書の人間観とイエス・キリストの福音の教職員個々の理解と教職員間の共有
C聖書の人間観とイエス・キリストの福音の生徒個々の理解と生徒間の共有
D聖書の人間観とイエス・キリストの福音の生徒および教職員間の共有
※職員研修や修養会および宗教の時間をとおしての福音理解の実践。教室・職員室等、学校全体が回心の場になっていることが重要。
(2)共通の目的の共有
@一般的教育活動としての教育目的
1.知育、体育をとおしての人格の陶冶(生徒指導および進路指導とその達成など)
※学校共同体として一致するための最低限の条件(段階的なものではなく他の要件と同時進行的な要素として)
※学習者の成長は、学校教育に関わる全ての者の共通の目的であり願いであり、信仰の有無や違いを超え、学校共同体として完全に一致できるもの。→しかし、これだけではカトリック学校の独自性や差別的優位性にはなり得ない。
Aカトリック(キリスト教主義)学校としての使命(Mission)
1.福音に根ざした人間観(キリスト教的人間観)と教育活動(アシステンツァと協働等)
a.人間の構成要素=肉体・精神・霊
b.人間の成長=知的成長・肉体的成長・精神的成長・霊的成長(カトリック学校の教育は四輪駆動か?→そのエンジンは?共同体の中に入り込んだイエス・キリスト)
c.常に学習者とともにある教職員の教育活動の実践
2.福音宣教(信仰教育ではない宗教教育として)
a.教会の本質的使命(教会の権利と義務 宣教教令2)
b.福音宣教の場としてのカトリック学校
3.福音をとおして学習者に回心と限りない希望を与えること
B設立母体修道会・宣教会等(教区)の霊性と使命の共有と保持
Cカトリック学校が目指す学習者像(自己実現と自己奉献する人間)
1.イエスキリストの教えと行いに従って、他者、特に小さな人々(貧しい人・苦しんでいる人・悲しんでいる人・虐げられている人・病人など)に自ら仕える(奉仕する)人間→各学校のプロファイル
2.私たちが生きる現実社会の中で、他者に生きる希望を与え、自ら実現しようとする人間(神の平和と正義の実現に努める人)
C生活共同体としての目的
1.教職員の自己実現と自己奉献(生徒および教職員に対して)
2.生活の糧(収入)を得る手段として
※カトリック学校に奉職する教職員の姿勢には、共通の目的を達成するために、生徒への自己奉献と教職員間の一致(福音共同体への完成)が求められる。また、カトリック学校 におけるすべての教育活動の根底には、イエス・キリストの福音の精神が反映されていることが求められることは言うまでもない。
(3)学校教育活動全般にわたる福音の実践(知識の実践とその具現化)
@一教師、個としての福音の実践(孤立化・個人主義的に陥らないように、共同体として)
A教師団、集団としての実践
※アイステンツァと協働の精神
B生徒個々および集団としての実践
(4)学校共同体としての福音の実践
@福音実践と福音共同体への導き手(リーダー(理事長・校長))の必要性と不可欠性
1.学校経営体は一般企業体同様に、基本的に校長裁量や理事長裁量の独裁(独裁が必ずしも悪いという訳ではない)か、もしくは理事会の決定によるものであるから、これらの人々や機関によって福音共同体の完成を目指すとの意識や目的があるかどうかが問題で ある。特に、カトリック教会や学校のように保守的な環境においては、改革・刷新は敬 遠されがちである。(一般的に人は、変化を嫌う)
2.経営者の意識改革と福音共同体の完成への挑戦。学校経営のための公立学校退官者登用傾向がカトリック学校の精神や特徴を希薄化。(修道会が学校経営から撤退し、一旦は公立学校退官者を登用(断定的に相応しくないというわけではない)したが、その後カ トリック信徒の校長が就任したことでカトリック色を取り戻そうとの試みが為されている学校もある。→パウロ学園 東京八王子)
A協働者・共感者とその育成と必要性
1.共同体の核となる信徒教職員および共感者
2.教員研修会
a.養成塾(関東圏(月2回、年2回の合宿)・大阪・東北)
b.校内研修会
c.私設研修会(仙台市宗教教師の集い=カトリック学校に勤務する教員の集い(月2回))
※あくまでも開かれた集いとして、排他的・独善的・原理主義的であってはならない。
B導き手(リーダー(理事長・校長))の一般教職員に対するアイステンツァと協働
C教職員の生徒に対するアイステンツァと協働
D教会組織との連携
1.教区・小教区との関わり(司教・司祭・奉献生活者との協力と連携)
2.全国カトリック学校連合会やカトリック学校教育委員会との関わり
※福音の実践は、個人主義的な方法論で実現するものではなく、あくまでも共同体をとおし て実現するものである。
3.カトリック学校が福音共同体となるための難しさ
(1)カトリック学校に奉職する教職員の一致の困難さ
@教職員が皆、キリスト者ではないこと。
1.キリストに共感する者たちの集いとしての一致
2.共通の教育目的の実行者としての一致
A信徒教職員間における共通理解と協力の有無
1.信仰とエウカリスティアによる一致が可能→共同体として集うことが求められる。
※信徒間であっても、ミステリウム・サクラメンティウムをとおしたエウカリスティアの 集い(ミサ)による完全な一致(イエス・キリストに対する信仰をとおした信じる者としての一致)が無ければ困難。
2.信徒としての教会共同体の一致の難しさ→生活互助的役割と福音を宣べ伝えるための生きた(内にも外にも開かれた=受容と能動)共同体としての機能の有無
※秘跡をとおして、教会共同体が一致を目指していながらも、その困難さはある。信仰理解の不一致と個人主義的信仰理解の蔓延および神学的知識の不足。(現代教会共同体が本来的エクレシアとしての共同体性を失いつつあるのではないか?教皇フランシスが指摘の通り、現代のキリスト者の信仰理解は神と個人との関係のみの個人主義的救いとしての信仰に陥っており、教会共同体としての信仰理解が欠如しているのか?→日本の小教区・司祭・奉献生活者召命の減少につながっているのか?)
B聖書をとおして福音を共有するための集いの有無
1.日々の教育活動の忙しさの中での物理的(時間や場所および資金)制約
2.聖書やカトリック教育を学ぶことの個人的・共同体的重要性の位置づけ
C聖書はカトリック学校における教育理念の源ではあるが、聖書そのものはあくまでも信じる者を対象として書かれた書物であること
1.教職員における福音の学びと共有の自発的意志の有無
※信仰ではなく、宗教学・哲学・人間学としての学び(信仰として捉えることでの抵抗感と束縛感・拘束感)
2.教職員に指導する講師の存在の有無
※司祭や奉献生活者の高齢化と減少およびそれによる多忙化
D教師団や教員そのものがもつ個々人の教育観による不一致
1.一般企業に比較して、学校組織の経営目的が不明瞭かつ周知徹底が弱いこと。
(2)各学校の設立母体である修道会の霊性を受け継ぐことの困難さ
@修道会の霊性とは、会員の生き方そのものであるから、私たちカトリック学校の教職員が信徒・非信徒にかかわらず、その霊性を完全に生き、受け継いでいくことは難しいであろう。
※ カトリック学校は教会から派遣された学校であるが、信仰共同体として一致することは難しい。しかし、イエス・キリストの福音を非信徒教職員が人間学・哲学として学び、学校共同体全体として共有することで、学校共同体が福音共同体として一致することは可能ではないだろうか?(多様性の一致)
聖書における人間観を基本とするならば、人間は「神との良好な関係」神の人間に対する無条件の愛(ケノーシス=神の自己無化)に対する応答によって築かれるものであるから、カトリック学校に奉職する教職員にもその応答が求められていることになる。また、神は私たち人間の人格を尊重し、人間の自由意志によって神の愛に応答することを絶えず待っておられる
よって、私たちカトリック学校に奉職する教職員は、教育活動をとおして神の愛およびイエス・キリストをとおして宣べ伝えられた福音にたいしてどのように応答するかが問われている。
以上の観点において、私たちカトリック学校に奉職する教職員および学校共同体が、どのような応答をするかによって、福音共同体としての一致の是非とその可能性が見出される。
4.これからのカトリック学校の課題と提言
カトリック学校の再編成・再構築 −カトリック学校の第三創設期をめざして−
現代におけるカトリック学校が、第三期創設期として社会に何を提供できるか?したいのか?
(1)日本のカトリック学校のあゆみを踏まえて
@日本の再福音化時代(幕末・明治〜戦前)
1.日本人の救霊 パリ外国宣教会の要請に応えて各修道会による独自の活動
a.児童養護施設、病院、学校の建設(学制の要請と欧化主義政策に応える)
b.教育の一般化は、平均化を嫌う支配者階級が子女を私立学校へ入学させる現象を生む。(キリスト教主義学校の特化)
2.国家主義の反動による試練
※この時代においてはカトリック学校の使命が福音宣教であることがほぼ明確されていたが、国家・国粋主義によって、その形を変更せざるを得なかった。
A大正から昭和初期の興隆期 カトリック学校の春の訪れ
B戦時下の国家・軍国主義による統制強化と迫害
C戦後の教育制度と混乱期における教育機関の提供
1.戦後の荒廃した社会の教育機関の要請に応えて
2.新たな教育制度による各修道会の自由な教育活動と発展
※この時代以降、カトリック学校の使命は必ずしも福音宣教を第一の目的としなくなったか、国家主義時代の圧力をかわすための手段(福音宣教の目的を希薄化させる こと)が継承されていったのか。しかし、設立母体である修道会会員の存在によっ て福音宣教の使命が果たされ、会員も増えていく。
D高度経済成長による価値観の多様化
1.経済的繁栄による国民の高所得化がカトリック学校の需要を増させ、表面的にはカトリック学校の興隆を見ることとなる。(上流思考の激化)
2.カトリック学校の興隆の反面、カトリック学校としての本来的使命である福音宣教の目的が希薄化する。
E第二バチカン公会議以降→本来的教会共同体への原点回帰
1.教会のアジョルナメント(現代化)→カトリック学校への批判
2.第三期創設期→現代社会のどのような要請に福音の必要性を見いだすか?→各修道会理事会の新たな選択が求められている。=各学校におけるこれまでの教育目的の再確認と新たな歩み
※現代の児童・生徒の貧困化にどう応えるか?日本社会のグローバル化に伴い、増加する外国人労働者の子女に対する教育の必要性にどう応えるか?(NPO等の民間団体との連携やカトリック学校としての独自の展開)
(4)新たなカトリック学校の枠組みの構築
@カトリック学校教育委員会やカトリック学校連合会および教区との連携
A理事会・学校の統廃合(理事会の「時のしるし」の読解力と決断力および人材確保)
※経営体力の維持(資金提供)・人事交流の必要性
B資金提供機関の設
1..設立母体の修道会からの援助を基本としてきたカトリック学校→修道会の経営体力の弱化によるカトリック学校の独立採算制の強化と常識化
2.カトリック学校の教育目的の不明瞭化に伴う福音宣教力の衰退化→修道会本部・教区から援助を期待できない(日本の福音化にはつながらない)。
Cこれまでの設立母体である修道会の霊性を基本に継続していける学校とそうではない学校との選択の相違
D教区長と理事会との共通理解と連携および新たなカトリック学校の構築に向けての具体的実践
1.修道会の撤退以前の準備としての構想(修道会が学校経営から撤退しなければならない場合
2.修道会独自の事業であるとの発想からの脱却(修道会が学校経営から撤退しなければならない場合)
3.信徒子女のためのカトリック学校の必要性
※いずれにせよ、各カトリック学校間の連携、教区やカトリック学校教育委員会およびカ トリック学校連合会との新たな連携なしには、カトリック学校の存続が難しい時代となっている。→教会共同体・福音共同体としての本来的信仰が問われているのではないの か?私たちの信仰は、原始キリスト教時代から個々人による信仰ではなく、教会共同体としての信仰が求められてきている。
(5)教職員のカトリック教育力の向上(カトリック学校としての差別的優位性=学校の特色)
@カトリック学校に奉職する教職員一人ひとりの福音理解とその実践
1.校内外の研修会制度の構築と確立
2.司祭・奉献生活者および信徒間の連携(非信徒を排除するものではないが、信じる者と 信じない者との違いはあるのではないのか。しかし、洗礼の有無によって決定づけられるもので はなく、信仰を生きているか生きていないかの差異である。)
Aカトリック学校教員免許制度の必要性(差別化のためではなく、多様性の一致のため)
1.福音理解のための知識の必要性
2.教育理念・教育目的の統一性
3.福音共同体への協力の一致(学習者のための多様性の一致)
(6)本来的協会共同体(エクレシア)としてのカトリック学校
@カトリック学校が福音共同体として生徒・教職員の回心(メタノイア=キリストとの出会い)の場となること。
1.福音宣教とは信徒を養成することではなく、福音への回心に気付き、他者に奉仕(隣人愛)する生き方に導くこと。(教員も同様)
(7)宗教教育と信仰教育の違いを明確化
@宗教科の授業内容の見直し
1.教会の教えや信心業(信仰教育)を教えるのではなく、キリスト教の人間観・世界観、そして福音を伝えることで、イエス・キリストとの出会いの場となることが重要。
A宗教行事の見直し
1.ミサの実施の見直し(全否定するのではない)と学校独自の集会祭儀の構築
2.ロザリオの祈りは信心業。現代教会でもその習慣は廃れてきている。
※聖書そのものも、本来的には信じる者を対象として書かれた書物である。現代のカトリック学校の学習者は、そのほとんどが未信者であるから、信仰教育の場としてではなく、キリストとの出会いの場となる宗教教育であることが大切である。
(8)理事会の構成メンバーおよび学校経営責任者(理事長・校長等)選任の重要性。
@これからのカトリック学校に相応しく、将来的展望を示しながら、責任と意欲を持って運営に当たることができる理事および校長等管理職の選任。
(9)行動に移すことの重要性
@事項の自己点検と新たな方性に向けての行動
「日本カトリック学校としての自己点検評価基準」
(1997年2月24日 日本カトリック司教協議会承認)
1 教区長から、カトリック学校として認められている。
2 教区長との連絡が適宜行われ、小教区との相互協力も行われている。
3 学校法人の理事会(理事長・理事・幹事)および評議委員の構成が、カトリック学校として適切であり、その運営が、カトリックの教育理念に基づいて行われている。
4 寄附行為、学則、就業規則、学校要覧等に、学校がキリスト教精神に基づいて運営されることが明記されている。
5 学長・校長・園長が、カトリック学校の理念と精神を保ち、それを実現するためのリーダーシップを発揮できる人である。
6 教職員が、キリスト教の人間観に基づいて一人ひとりを尊重し、人間の全領域にわたる教育を行う。
7 すべての教育活動が、キリスト教精神に基づいて行われている。
※注 審査基準ではなく、自己点検の基準である。
生徒・教職員の人格と人権が大切にされているかどうか?
A生徒・教職員ともに、学校全体がキリストとの出会いの場となる福音に向けての回心に導くことができるように具体的行動をすること。
1.教員職・理事会修会
a.自校独自のものや地区・教区として(函館・札幌・旭川、北海道教区等。できれば地区・教区が望ましい)
b.北海道養成塾等の定期的教員研修
2.修道会もしくは修道会の枠を超えた学校法人や理事会の設立
a.教区長との連携と教区全体の取り組みとして(働きかけが必要)
5.参考図書紹介
(1)日本カトリック学校のあゆみ (コルベ新書) 佐々木 慶照 (著)
(2)キリスト教理解のために ―カトリック教育にかかわるすべての人に−
日本カトリック学校教育委員会 (編集)
(3)若者を育てるドン・ボスコのことば ガエタノ・コンプリ (著)
(4)共にいる教育 ?アシステンツァ? サレジオ会教育文書(2) 岡 道信(著)ドン・ボスコ社
(5)夢をかたちに 未来のエンジニア・デザイナーになる君たちへ
ドン・ボスコ社 著者:サレジオ高専
(6)イエズス会教育の特徴 イエズス会中等教育推進委員会
編集 梶山 義夫 (翻訳) イエズス会教育
(7)教会と学校での宗教教育再考―<新しい教え>を求めて 森 一弘 (編さん) 宗教教育再考
(8)宗教なしで教育はできるのか [春秋社] 編者:聖心女子大学キリスト教文化研究所
(9)キリガイ: ICU高校生のキリスト教概論名(迷)言集 有馬平吉 (著, 編集)
(10)男の子が前向きになる子育て PHP研究所 河合恒男(著)
(11)カトリック学校宣言 イーピックス出版(著)佐井総夫
(12)第2バチカン公会議 キリスト教的教育に関する宣言および教育省公文書
参考資料
カトリック教育省の総会参加者への教皇フランシスによるメッセージ
(教育機関へ)
コレメンタインホール
2014年2月13日(木)
(以下の文章は、幾つかのカトリック学校の要望に応えて、急ぎ和訳を試みたものです。正式な公表を目的とするものではないことをご承知起き下さい。日本カトリック連合会)
親愛なる枢機卿
強大なる司教と司祭
親愛なる兄弟姉妹
この省に新しく任命された枢機卿と司教へ、特別な歓迎の言葉を贈ります。そして枢機卿長官による開会の挨拶に感謝します。
今日の議題のどれをとっても、大変なものばかりです。例えば、使徒的憲章Sapientia Christianaの改訂、カトリック大学のアイデンティティーの強化、そして、2015年に記念する公会議宣言ravissimum Educationis 50周年ならびに使徒憲章EX Corde Ecclesia 25周年の準備など。歴史的文化的な絶えざる変動の中で、今日、新しい福音宣教を目指している教会にとって、カトリック教育は最重要課題のひとつです。このような観点から、三つの側面について注目していただければと思います。
第一の側面は教育における対話の重要性です。皆さんは、カトリック学校における多文化間の対話について、最近発表された文書をもって、そのテーマを掘り下げました。実際、カトリック学校や大学で学ぶ学生・生徒の中にキリスト教ではない方や信仰をもたない方が多いという現状があります。カトリックの教育機関は、理解と知識を得ることはあらゆる人間の権利であるという見地に立って、すべての人に全人教育を提供しています。しかし、キリストのメッセージをすべての人に伝えることも同じように重要です。それぞれの教育機関の独自性やひとりひとりの自由を尊重しながらも、とりわけ、イエス・キリストは命、宇宙、歴史の根源であるというメッセージをもたらす使命があります。
福音を述べ伝えるイエスの出発点は、「異邦人のガリラヤ」です。ガリラヤは、人種、文化、宗教が交差する場所でした。すなわちこの状況は、現代世界と相通じるものです。広く多文化社会をもたらした目まぐるしい変化は、大胆で刷新的な忠誠心をもちながら、学校や大学において交流と対話の教育プログラムを大切にする働き手を求めています。彼らは、多文化社会にあって、どこか違う「魂」と出会うカトリックのアイデンティティーをもたらすことができるのです。多文化や多宗教に特徴づけられる社会の中で、多くの修道会や教会組織が、カトリック学校の設立や経営を担い貢献されていることに私は深く感謝しています。
第二の側面は教育者の本質的な育成です。これについて、いい加減にごまかすことは許されません。真摯に取り組むべきです。修道会総長との会合で強調しましたが、今日の教育は、変化しつつある世代に向けられています。従って、すべての教育者−母なる教育者である全教会も含めて−は、「変化すること」、あるいは、目の前にいる若者とコミュニケーションができる方法を見つけるように促されています。
今日は教育者の持つべき特質とその責務に限って述べさせていただきます。教育は愛の好意です。それは命を与えることです。そして、愛することは簡単なことではありません。優れた資質と合わせて、若者と共に忍耐強くこの道を歩み始めるという情熱を、繰り返し呼び醒ますことを必要とします。カトリック学校における教育者は、何よりも有能でかつ適格者であることは言うまでもないことですが、それと同時に人間性豊かで、若者と共にあって、彼らの人間性と霊性を育む教育者でなければなりません。若者は、言葉だけでなく、証しを伴う価値観をもった質の高い教育を必要としています。若者を教育するにあたって不可欠な要素は一貫性です!一貫性!一貫性なしに教育も成長も不可能です、―貫性と証し!
そのために教育者自身にも絶えざる養成が必要です。教師も指導者もプロ意識を高く持ち続け、また、信仰と霊的活力を持続させるためには、投資することが必要です。教育者にとっての養成においても、黙想会や霊操は必要でしょう。テーマに沿った講座を開くことはとても良いことですが、祈りを中心とした黙想会や霊操も必要です!というのは、一貫性は努力を要するものですが、それは何よりも賜物であり恵みです。私たちはそれを願い求めなければなりません!
後の側面は教育機関についてです。つまり、学校とカトリック大学です。公会議宣言Gravissimum Educationis50周年、使徒憲章EX Corde Ecclesia 25周年と使徒的憲章Sapientia Christianaの改訂にあたって、世界に広がる多くの養成機関とその職務が、教育・科学・文化の分野において、福音の生きた証しとなっているかを深くふり返る時です。カトリックの教育機関は、この世界から離れては存在できません。それらは、すべての人に提供できる賜物を意識しつつ、現代文化と開かれた対話の*アレオパゴスに、勇気をもって入る方法を探さなければなりません。(*アレオパゴス…パウロが異文化の中にあって対話を試みた丘 使徒行録17章)
親愛なる皆さん、教育は無限に大きな建設現場です。その現場に、施設や事業を通して教会は絶えず関わってきました。今、あらゆる場におけるその貢献(コミットメント)を奨励し、新しい福音宣教に従事するすべての方々の貢献(コミットメント)を新たにしなければなりません。皆さまに深い感謝を申し上げると共に、聖母マリアの取り次ぎを通して、皆さまとその使徒職の上に、絶え間ない聖霊の助けを祈ります。私自身のためと、私の司牧のためにもお祈りをお願い致します。皆さまに心からの祝福を贈ります。ありがとうございました。
(明治学園学回長Sr.メリー・ギリス訳)
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