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Music Room




My Maestro
My Maestro




私のマエストロたち


クリスティアン・ラルデ
Mon professeur Mr.Christian Lardé flûtist
(1930-2012)

クリスティアン・ラルデ先生のレッスン
(la maison de Lardé Paris 5éme Nikon F)
1968年8月にフランス政府給費留学生としてパリへ行った私は既にN響へ入団していたから休団して行ったわけである。9月に入ってコンサートが催されるようになり、私が住んでいたパリ五区の下宿からほど近いSt-Etienne du Montという教会でバッハのロ短調ミサ曲が演奏されるというので聴きに行った。あの有名なフルートのオブリガートを誰が吹くのかな、と興味があったから。そうしたら図らずもこの日、Christian Lardéの演奏を初めて聴くことになったのである。1930年生まれのラルデ先生がまだ38才の時であった。演奏の前に私の目の前を通って行く時の横顔は優しさに溢れていた。演奏は実に素晴らしかった。感激した私は早速終演後に会いに行き、翌日は先生のお宅を訪ねて弟子入りしてしまった。偶然にもラルデ先生の家は私の下宿から近いメトロJussieu駅のそばのブーランジェ通りにあったのである。 徒歩で5,6分しかかからなかった。有名なハーピストである美しいジャメ夫人もにこやかに出迎えてくださった。初めの頃は先生が私を呼ぶ時に「ムッシュコイデ」だったが、やがて「コイデ」になり、「シンヤ」になり、最後には親しみを込めて「シンチャン」と呼んでくださった。私が留学時代に師事したのはラルデの他にJ.P.ランパル、当時評価が高かったパリオペラ座首席奏者のJ.P.Eustache(ウスタッシュ)等である。余談だが、ウスタッシュのレッスン代はランパルよりも高かった。パリではJ.カスタニエとも親しくお付き合いをした。カスタニエが教えていたパリ郊外のモントリオール駅から近い学校へは彼のレッスンの時に良く遊びに行った。ここでの卒業試験(コンクールという)を受けろ、と言われて受けたらプルミエプリを戴いてしまった。ランパルは旅行が多く留守の間はマリオンのところへ行け、と紹介してくれたが相性が悪く一度行ったきりでやめてしまった。留学時代には非常に多くの経験をしたが、それらは克明に日記に書いてあるのでそれをもとにして一冊の本が書けそうである。写真は留学中1968年の秋に先生の自宅でラルデ38才、私はまだ29才の時。当時私が吹いていたフルートはヘルムート・ハンミッヒNo.274だであった。帰国後先生とは日本やフランスで沢山共演した。私の教え子の森岡広志や野勢善樹や野崎和宏、現在龍角散社長の藤井隆太なども私の後を継いでラルデ先生の教えを請いにパリへ行った。そのラルデ先生は2012年の11月19日に82歳で亡くなられた。謹んでご冥福をお祈りします。



ヴォルフガング・サヴァリシュ
Maestro Wolfgang Sawallisch Conductor
(1923-2013)

ヴォルフガング・サヴァリシュとの写真
(常に聡明なサヴァリシュ Leica R-8))
サヴァリッシュの初来日は1964年の11月であった。最初の印象は「なんて綺麗な棒だろう!」で、見とれてしまうくらいに鮮やかできれいだった。 管楽器が吹く前にはたっぷり息を吸わせてくれた。この時に演奏したのはブラームスの第一交響曲、ベートーベンの第七交響曲などであったが、いずれのコンサートでも最初はレオノーレ序曲第3番だった。これがフルート奏者としては神経が磨り減る曲なのである(最初の遅い部分)。音程、音量などに神経を使うことおびただしく、コンサートが終わってからもしばらく胃が引きつっていたものである。定年退職するまでの39年間サヴァリシュの音楽を山ほど戴いたわけであるが、それらは音楽の宝物で得難い貴重な経験だった。1991年のモーツァル ト・イヤーには魔笛(全幕)も演奏した。公演は何回かあったが、同じ部分でも日によって別の要求をされることもあった。彼の要求通りに吹いた私に対してサヴァリシュは演奏を終えて引っ込む時に私の方へ来て「良かったよ!」と言わんばかりに肩をギューッと力を込めて押さえてくれた事は忘れられない思い出となっている。数々のコンサートで最後の曲が終わったときにも私に向かって右手の親指を上に向けて見せ「良くできたね!」とサインをくれる時にも無上の歓びを感じた。まだまだある。ヨーロッパ公演の時に我々は日本から、サヴァリシュはドイツから最初の公演の地であるリヒテンシュタインで集合したことがあった。この旅行は大変で、公演地はリヒテンシュタイン、インスブルック、リンツ、ウィーン、シュトットガルト、フランクフルト、デュッセルドルフ、ハノーファー、西ベルリン(当時)、東ベルリン(当時)、ドレスデン、ライプツィッヒ、プラハ、ブラティスラバと14箇所にも及んだ。この時に事務所の人がリヒテンシュタイン空港へお迎えに行った際、サヴァリシュが「コイデサンは飛行機でよく寝たか」と聞いてくれたそうである。この事を聞いて私は感激した。体調を気遣ってくれているのだ!N響以外の予期しない時に出会った時にも笑顔で「コイデサン!」と呼んでくださるのがとても嬉しかった。サヴァリシュはピアノも非常に上手だった。何とも言えぬ心地よい音がした。また歌っても素晴らしいバリトンだった。 最後に忘れられないのが彼の言った言葉だ。何の曲だったか覚えて居ないが、誰かがスラーを変えたいと申し出たところ、サヴァリシュはこう言ったのだ。「我々凡人が大作曲家の書いたことを勝手に変えてはならない」と。偉大な指揮者ヴァリシュでさえこんなに謙虚だったのだ。考えさせられた。この偉大な音楽家は2013年2月22日にバイエルン州グラッサウにある自宅で帰らぬ人となった。謹んでご冥福をお祈りします。この写真は1997年11月3日にサントリーホールの指揮者室で。



ホルスト・シュタイン
Maestro Horst Stein Conductor
(1928-2008)

ホルスト・シュタインとウィーンでの写真
(仕事以外でも楽しい思い出が一杯! Minolta TC-1)
ドイツ人でありながら初来日の際のプログラムのメインがラヴェルのダフニスとクロエ第二組曲があったことが印象に残っている。面白い冗談を交えながらの練習は厳しくも楽しいものであった。音楽を離れた場でも多く付き合った。夫人は美術の分野での博士号を持っている為か日本の焼き物などにも興味をもたれ、N響が休みの日にはご夫婦を益子の陶芸家、島岡達三さんや、多摩の辻清明さんのところへお連れした思い出がある。音楽を離れた時のシュタインは実に優しく、楽しく、愉快な人である。98年11月に妻とウィーンへ行った時にシュタイン指揮のコンサートのポスターを見つけ、ムジークフエラインザールへ聴きに行った。ウィーン交響楽団の演奏会であったのだがその時に楽屋に訪ねたら「オ〜!コイデサン!」と大きな声でとても喜んでくださった。この写真はその時のもの。こう言ったら失礼だが、本当に可愛らしいホルスト・シュタイン! もうシュタインの指揮にはお目にかかれないのだろうか、健康が心配だ。(1998年11月ウィーンのムジークフェラインザール指揮者室にて■シュタインさんは2008年7月27日にスイスの自宅でお亡くなりになられました。謹んでご冥福をお祈りします。



シャルル・デユトワ
Maestro Charles Dutoit Conductor
(1936- )

シャルル・デユトワと定期公演後の写真
(親しみがあったデユトワ Leica minilux)
デュトワとの最初の出会いもシュタインの時と同様ラヴェルのダフニスとクロエ第二組曲であった。思えばこの名曲を在団中に一体何回演奏したことだろう。なかでもホルスト・シュタイン、ピエール・ブーレーズ、デュトワなどの時が印象深い。N響の音はドイツ的で重い、と言われることも多々あったが、そのN響の音を変えてしまった人である。モントリオール響で挙げた成果をN響にももたらしてくれたわけだ。演奏旅行中でも毎朝ホテルのプールで延々と自由形で泳ぐスポーツマンでもある。(1996年NHKホール楽屋にて)







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