「そればかりでなく、苦難さえ誇りにしています。苦難は忍耐を生み、忍耐は試練にみがかれた徳を生み、その徳は希望を生み出すことを知っています。この希望は、わたしたちを裏切ることはありません。わたしたちの賜った聖霊によって、神の愛がわたしたちの心の中であふれ出ているからです。」
(ローマ5:3〜5)

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「よい種をまく者は人の子、畑は世界、良い種はみ国の子ら、毒麦は悪者の子らである。毒麦をまいた敵は悪魔、刈り入れは世の終わり、刈り入れる者は天使たちである。だから、毒麦が抜き集められて火で焼かれるように、この世の終わりにもそうされるであろう。人の子は天使たちを遣わして、つまづきとなるすべてのものと、悪を行う者を、み国から抜き集め、燃えさかるかまどの投げ入れるであろう。そこには、嘆きと歯ぎしりがある。その時、正しい人は父の国において太陽のように輝くであろう。聞く耳のある者は聞きなさい。
(マタイ13:37〜43)
Message for my sister and brother.
 
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 2006年11月11日(土)     『「いじめ問題」に思うこと』
 「いじめ問題」が社会問題になってから久しくなるが、「いじめ」という現象自体は現代に特有なことというわけではあるまい。しかし、「いじめ」を苦に自殺するという現象は、昨今に特徴的なことではないだろうか。
「いじめ問題」に含まれる問題点をいくつか挙げてみよう。
 
 第一に、伝統的問題点としての精神的・肉体的苦痛を与えるという暴力性。
 第二に、「いじめ」行為が学校等の閉鎖社会の中で行われることによる隠ぺい性。
 第三に、周囲による無関心と傍観性。
 第四に、学校の教師の指導力と道徳観念の低下。
 第五に、地域社会における教育力と共同性の欠如。
 第六に、家庭の教育力と家庭内の相互理解・相互協力の低下。
 第七に、「命」そのものに対する軽視や「宗教心」・「死生観」の欠如。
 第八に、報道機関による無責任かつ無秩序な報道のあり方。
 
 とかく「いじめ問題」が被害者の自殺という結末に終わった場合、学校側の管理体制や問題の予防および対処法に非難が殺到するが、本当にそれが「いじめ問題」の原因究明や解決につながるのであろうか疑問である。
 
 確かに子どもを亡くした親にしてみれば、やりどころのない怒りや無念さをぶつけたい気持ちは分からないでもないが、自殺にまで追い込まれていたわが子の心の叫びに気付いてやれなかった親の力不足や自殺行為の不当性、さらには「命」そのものや「自己」に対する尊厳を教えてやれなかった親の責任も大きい。
 
この世の人間は誰一人として自己の意志によっては生まれない。自己の意志のはたらかない何ものかの決定によって生まれ出るのが「命」というものなのである。それも両親の願いではあろうが、意志によるものとも言い難い。であるから「命」は、自己の所有物等とは違い、個人の意志による自己決定権がないという結論が当為として導かれるのである。
 
 わたしたち「命」あるものは、ただ与えられた「命」を全力で生き抜くということだけが求められているのである。「生きる」とは戦いそのものである。わたしたち大人は、子どもたちがどんなことにも立ち向かい、誰かと共に生きていく力を身に付けることができるように育てていかなければならない。
 
 「いじめ問題」には、現代社会に生きるわれわれ人間に失われた「生きるもの」としての根本的生きる在り方が問われているのではあるまいか。
 2006年11月7日(火)     「高等学校における未履修問題に思う」
 ここ数週間、全国レベルで高等学校における『未履修問題』が発覚し、社会問題となっている。この『未履修問題』にはらんでいるいくつかの問題点を挙げることにしよう。その理由はあまりにも報道のあり方に平等さを欠くことと表面的なとらえ方、そして政治家の権力闘争と無責任、文科省の問題のすり替え、県教委による情報操作、現場の教師による事実の隠ぺいがあるからだ。問題発覚後、既に二人の校長が自殺に追い込まれたこともあるが、自殺者は今後も続き、しかも教頭や教務部長といった人たちに広がりを見せるに違いない。
 
 この未履修問題が抱える問題点は次の通りである。
 
1.高等学校指導要領は、一部の学者と政治家の権力闘争の場と化して、
  教育現場を度外視して操られているということ。
 
2.文部科学省は、政治家の圧力のままに教育現場を顧みず、その場しの
  ぎの一貫性のない矛盾に満ちた教育行政(特に、ゆとり教育による週五
  日制と大学入試制度)を継続し、日本の教育現場を著しく歪めてきたこと。
 
3.各都道府県教育委員会は、教育行政と教育現場の双方向性の立場にあ
  りながら、その慣例的体質と事なかれ主義から、本来的業務である教育
  現場の向上のための指導的・管理的役割の機能を失ってしまったこと。
 
4.教育現場の教師の教科指導および生徒指導が大学入試等の進路達成
  に著しく傾倒するがあまり、本来的指導から懸け離れたばかりか、指導
  力自体までもが低下している現状があること。
 
5.教師の教育観・倫理観・道徳観が著しく多様化かつ低俗化していること。
 
 以上の五つに集約できるのではないかと思う。そして、これは本題ではないが、そのような教育界における諸問題が引き起こした結果としての『未履修問題』を、報道各メディアは表面的にしか情報を把握しないままに報道しているので、問題の本質を突けずに表面的でかつ平等な報道ができずにいることも問題点としてあげておくことにしよう。
 2006年8月29日(火)     地に墜ちた愛のない教師たち
 2006年8月17日、弘前市、県立弘前南高等学校、高教研地歴公民科部会、歴史・公民基調講演会でのことだった。
 
 講演会が始まり一時間足らずの時間が過ぎた頃であっただろうか…?どこからか紛れもなくいびき声が聞こえてきて、貴重な講演会の最中に気まずい雰囲気が漂い始めた。司会者と記録者の先生にも困惑した表情がうかがえた。
 
 私自身もその耳障りな愚音にいらだちを覚えるほどになって、どこから聞こえてくるのか、振り向きざまに首を長くして周囲に目をやって探した。どうやら窓側の自分の所からはかなり遠い席にいる先生らしい。ほとんどの先生が気づいていたに違いないのに、誰も策を講じるすべもなくそのままの状況が続いた。しびれを切らし、私は講演中というその場にはふさわしくない行動とは思いながらも、席を立っていびきを発しているその先生の席にまで歩み寄っていった。
 
 「先生、いびきをかいています。皆さんがご迷惑してますよ。」
 
と小声で起こすと、その先生はすぐに気づいたかのように、そして激しく恐縮して、謝るようにうなずいた。とても恥ずかしかったに違いない、その先生は目を開けることも顔を上げることもなかった。
 
 私が問題にしたいのは、研修会の基調講演という重要な時間に、少なからずも多くの人たちに不快感を与えたこの非常識な先生の行為よりも、その先生のすぐ側にいた周囲の多くの先生たちの無関心さである。確かに講演中という判断に苦慮する状況にはあったものの、その先生の隣そしてそのすぐ後ろにもたくさんの先生方がいたのである。ちょっと肩をたたき起こしてあげるぐらいの心遣いができなかったのだろうか。
 
 私はこの出来事に、現在の高校教師の実態が凝縮されていたのではないかと思えてならないのである。「無関心」、それはまさに「愛」の反対の態度である。そんな教師たちに今のこどもたちに必要なものの何を与えてやれるというのであろうか?いったいどんなところへと導いてやれるというのであろうか?こどもたちが持っている何を引き出してやれるというのであろうか?
 
 「愛」に根ざしていない教えは、いかなるものもであろうと何も生み出すことはないだろう。
 
 私たち教師は、どんな小さなことにも忠実で公明正大でなければならないのです。決してうやむやにすることがあってはなりません。
 
 追伸
 県立弘前南高等学校、生徒会館食堂、日光東照宮大権現のお札が祀られていましたねぇ…。
 こんな小さくてどうでもいいこと?も、うやむやにはできないことの一つではないだろうか?
 
 2006年3月20日(月)     『カトリック学校の福音的課題』
+主の平安
 
カトリック学校の福音的課題
 
 『学校マネージメント』というテーマは、このページを開設したいと考えていた当初から想像していたとおり、壮大な建設事業のようになってきている。
 
 カトリック学校の福音的課題は、カトリック学校の定義付け自体が明確にもかかわらず、非常に多くの要素を網羅しているという点である。それは、キリストが宣べ伝えた福音が何であるのかということを明らかにすることよりも、それを現実の社会の中で実践し展開していくことの難しさからなのか、あるいは人ひとりの力があまりにも微小だからなのか、あるいはそれなのに二人三人とつながり合い力を合わせるための共同体をつくることの難しさからなのか、とにかく口にしたり文字に表したりすることとは比較にならない程の困難さを覚えざるを得ないのである。
 
 しかし、そんな中でも私にとって、確実な一筋の明かりを見いだせることが一つある。それはイエス・キリストが虐げられた者・貧しい者・病んでいる者といわれた小さき者たちを救うために福音をもたらされたとおり、わたしたちカトリック学校も主イエス・キリストが行われたように社会的弱者に対して救いの手を差しのべているのかという基準である。
 
福音は、まず宣べ伝えることが第一とすれば、その福音を実践することが第二であると言えよう。そして第三は、その福音の実現つまりは神の国の到来が第三であり最終目的なのである。この最終目的であるイエス・キリストが宣べ伝えた福音の実現である神の国の到来と人間が織りなす現実社会との乖離が上げられる。その格差がもたらす困難さがもう一つの理由であると言えよう。しかし、その格差が大きければ大きいほど福音の必要性が求められるわけであるから、福音の実践または解放や救いの必要性がそこに見いだすことができるのである。
 
 では、学校社会における弱者とはどのような人々をいうのだろうか。それは第一には、何らかの理由からの精神疾患を原因とする不登校生が上げられるのではないかと思う。不登校の理由や症状は様々であることは、日々の教育活動に携わる教員であれば言わずとも知れていることであると思う。引きこもり・対人恐怖症・神経症・心身症・鬱病・神経衰弱・人間不信・情緒不安定・リストカット・自殺未遂など様々な症状を呈するが、その多くは家庭における親子関係や友人関係および自己認識に根本的な原因を探すことができるのではないかと思う。つまりは、優劣の区別ではないのであるが、健全で良好な人間関係を築くことができるかどうかが事の雌雄を決するようである。それだけ現代のこどもたちは、人間関係を学ぶ場を踏んできていないか、耐性を身に付けてきていないということなのであろう。
 
第二には、経済的困難に瀕している家庭の生徒に対する援助である。私立学校はどうしても公立学校に比較して学納金がかさんでしまう。経済的弱者がそれを理由に、経済力がないのであれば公立学校を選択するのが相当であるとして、カトリック学校の教育を受けることができないとするのであれば、それは教育の機会均等の平等に反すると言えよう。この問題を解決するのは修学金制度を充実させたり、特待制度を設けるなどして、児童・生徒・学生が学業に専念できる環境を整えることが重要である。
 
第三には、身体に障害を持つこどもたちに対する対処である。カトリック学校ですら障害者に対しては理解に薄いと言えないだろうか。本校は普通高校であるから、障害を持つこどもは養護学校へというのが日本社会の常識になっている。障害者を受け入れるにはそれなりの施設や担当教員を必要とし、学校経営を圧迫することは十分に理解できるが、やはりこのこともカトリック教育の機会均等という観点やバリアフリーあるいはノーマライゼーションという観点、そして何よりもキリストの福音という観点からすれば、推して知るべしであり今後カトリック学校として開拓すべき分野であるといえよう。
 
第四には、家庭環境に対する配慮である。母子家庭や父子家庭の増加により家庭における躾や教育力の低下が著しく、更には少子化による兄弟姉妹の不在や親子間のコミュニケーションの希薄化など、家庭が家庭としての機能を果たすことができなくなっていることによって、こどもたちが人間として健全に成長できないでいるのである。この外見上は何不自由なくというよりは、満たされ過ぎるほどに満たされている子どもたちが、実は救いを求め必要としている小さき者たちなのである。よって、校内に教育カウンセラーを常駐させたり、学校の家庭への働きかけを積極化させるなどして、こどもたちの健全で良好な心身の成長ができるよう、家庭をも含めたケアが求められるのではないかと考えている。そして、おそらくこのことが、日本の教育における最大で最重要な課題ではないかと感じているのである。
 
 2006年2月22日(水)     教育省文書のページ追加とカトリック学校のコンセプト掲載について
+主の平和
 
 教育聖省からのカトリック学校に関する文書を掲載しました。既にご存じの方々ばかりかと存じますが、再確認の意味と未信者の先生方のご参考になればと思い掲載いたした次第です。
 しかし、あらためて読んでみると、現実のカトリック学校とは少なからず乖離していると言わなければならないのではないだろうか。勿論、教育省からの文書を非難するつもりはないが、日本のカトリック学校はここ数年で危機的状況を迎える学校が続出するのではないかと思う。いや、既に地方におけるカトリック学校はそれに直面していると言わざるを得ない。首都圏においてもやがては訪れる現実になるに違いない。たとえ経営の危機に陥らなかったとしても、カトリック学校という隠れ蓑を被った学校に姿を変えて存続を図っている、キリスト教とは無縁の進学率を売り物とする普通高校となっているに違いないかも知れない。
 今や学校は知識の教授に終始し、生徒指導をかなぐり捨て進学率や難関大学の合格あるいは資格の取得者数を誇るだけの予備校や専門学校と化してしまっている。決してそれそのものは悪いことではないが、本来知識の教授を通して伝えるべき精神を日本の教育機関はもはや教えることができなくなってきているのだ。
 人間関係における尊敬や謙遜、礼儀に信頼、清貧や貞潔、自尊心や献身等々。また、絶対者や自然の摂理に対する感謝や畏敬の念、服従と従順そして宗教心などである。
 今は、混迷と再編の時である。神の御旨にそって主イエス・キリストの福音を宣べ伝えることに立ち返った学校のみが、今後もカトリック学校として生き残ることになるのではないかと考えている。
 
 2006年2月10日(金)     「学校マネージメント」創稿に寄せて
+主の平安
 
 ようやく、『学校マネージメント』にとりかかることができました。このテーマも様々な観点からの考察や研究が求められ膨大な作業になりそうですが、挑戦してみることにしましょう。
 
 カトリック信者としてカトリック学校に奉職していることは、ある観点においては大きな喜びであると同時に、違う観点においては大きな苦難であるとも考えています。大きな喜びとなる観点とは、キリストの教えの価値観に従いながら、自分の信仰を養い使徒職を果たすことができる格好の場を与えられているということです。また、大きな苦難となる観点とは、カトリック学校といえどもその使命が完成されているわけではなく、常にその使命の実現を果たすために様々な困難を日々乗り越えていかなければならず、そのために常に自らの信仰を試されるということです。つまり、環境と目指すべきところは明らかにされてはいるが、それを成就させるには多くの困難と試練があるということです。確かに、ゴールが見えていればそこに行くための方法論を考えたり計画を立てることはできるでしょうが、だからといってその通りにうまくいくとは限らないのが現実というものです。そして、そのゴールといいましょうか目標点が高ければ高いほど困難を極めるものです。
 
 皆様のカトリック学校はいかがですか?信者未信者を問わず、主のみ旨を共に実現するための協力者はいらっしゃいますか。創立者の建学の精神は受け継がれて脈々と息づいていらっしゃいますか。宗教教育は充実していらっしゃいますか。校長先生を中心に教職員が一同まとまっていらっしゃいますか。教職員がカトリック精神を学ぶと共に、一致団結していらっしゃいますか。教師団がイエス・キリストの教えに従い共通理解を持ちながら、生徒一人一人を大切にし成長を促す関わりをもっていらっしゃいますか。教科指導や生徒指導および特別活動を充実させ、生徒一人一人のニーズに応えて進路保証の実現をはかっていらっしゃいますか。
 
このように、カトリック学校としてやり遂げなければならないことは多々あります。前述したようにこれらのことを全うすることは、試練であり困難をともなうことです。しかし、わたしたちの主が教えてくださったとおり、試練や困難などの受難の故に、神はわたしたちに手を差しのべ、祝福し恵みを与えてくださるのです。わたしたちが主の教えに従う限り、父である神は、わたしたちを使ってみ旨を果たされ、わたしたちは神のご計画の完成に与ることになるはずです。
 
 では、皆さん!信仰と一致のうちに主の御心にかなうものとなれますことを共にお祈りいたしましょう。
 
 2006年2月3日(金)     「信仰告白」の完結に寄せて
+主の平安
 
「信仰告白」の一応の完結を見ることがせきました。勿論これからも私の信仰生活が続く限り、書き加えていくことになるでしょうが、この私自身がなぜ信仰の道に導かれたのかということに関しては書き終えることができたと考えています。
 
 しかし、正直言って「信仰告白」を書き始めるまでは、こんなにも難しく惑うものとは考えていませんでした。実のところ、書きたいと思っていたことや書かなければならないと考えていたことが、もっとたくさんあったのですが、うまく書けなくなったのです。多分その理由は、何かしらのためらいや気後れ、あるいは混乱が私の中にあるからなのだと思います。その結果、不完全で不十分な内容になってしまいました。しかし、それにもかかわらず、今のところ自分が納得できるかたちとして書き終えることができたと考えていますし、現在の心境としては満足と落ち着きを感じています。
 
 人はいつまでも過去に囚われ、自可逆的になっていては前進することができません。勿論過去の辛い体験や過ちや失敗から多くのことを学ぶことも事実ですが、事の次第によってはそれらの体験を記憶の奥底にしまっておくことも必要なときがあるのではないかと考えるのです。決してその事実を否定するという意味ではなく、受け入れがたい事実から学び得た真実だけを留め置き、その時の悲しみや苦しみの感情はそこから分離させ、それを静かに記憶の奥底に閉じこめて置きたいこともあるのだと、そしてそれはそれでゆるされることなのだと考えるのです。ひょっとしたら、それが真理とは乖離していることなのかも知れないとしてもです。
 
 どんな苦しみのうちにあっても、人が信仰に依るのならば、神はその苦しみを共にしてくださるのです。きっと過ちは過ちとして、ゆるされるものはゆるされるものとして、いずれのものも全てが神様に受け入れられることでしょう。
 
今日は節分です。北国の春はまだまだ遠いのですが、日に日に長くなる日中に確実に春は訪れるという確かな希望を確信します。日々一日一日を大切にし、小さなことにも喜びを見いだしながら邁進してまいりたいものです。
 
 2006年1月10日(火)     「書斎 My Room」 の創項によせて
 「書斎 My Room 」のページにようやく稿を投じることができました。 このページは、わたしの人となりを表すものになることでしょう。
 
 実は、わたしには「書斎」はありません。正確には、かつてはあったが今はなくなった、というべきでしょう。わたしには、三人の息子がいるのですが、その三人の息子たちに部屋を与えるために自分の部屋を明け渡したという訳なのです。
 
 昨年の春、二男の中学校入学と末の三男坊の小学校に入学に備えて、子ども部屋を二分割しました。この時とばかりに、わたしの日曜大工の腕前が、役に立ちました。まずは角材で部屋を仕切るための骨組みをくみ、それに石膏ボードで壁を造り、その上に壁紙を貼り、大工さんやクロス屋さんも顔負けのできばえ、その上かなりの経済効果があったと自画自賛する次第。そこに、次男と三男が入ったというわけですが、それ以前に長男が中学校入学の際にわたしが使っていた部屋を与えていましたから、わたしの書斎がなくなってからもうしばらくたつのです。
 
 というわけで、HPの中にぐらい自分の書斎が欲しいと思い設けたページでした。ですから、このページをわたしの書斎と見立てて、一つの空間を創っていきたいと思っています。とりあえず、自分の趣味に関する道具などの紹介をしていくことにしたいと思いますので、お付き合いください。
 
 2006年1月3日(火)     信仰Religion「福音宣教」の完結によせて
+主の平安
 
「あけましておめでとうございます。
本年もどうぞよろしくお願いいたします。」
このHPの大きなテーマである「福音宣教」について、2006年の新年を迎えて完結することができて、嬉しく思っています。
 
 「福音宣教」というものが、何であるかということはキリスト者にとって大きな課題であります。それは、わたしたちの主イエス・キリストがお定めになったキリスト者としての最大の使命であるからです。
 
 まず、「福音」が何であるのか?それは、「神の救い」と「神の国の到来」ということ。そして「神の救い」が何であり、「神の国の到来」がどのようなものであるのか。さらには、「終末」が何を意味しているのか、「宣教」とはどうあるべきものであるのか。これらのことについて、明らかにすることができたことは、何よりの喜びです。
 
2006年は、どのような年になるのでしょうか。これからもこのHPを通して、大切なメッセージを書き綴ってまいりたいと思います。
 
2006年が、皆様にとってよき年でありますことを、そして神様のお恵みが溢れんばかりに注がれますことを、お祈り申し上げております。
 
 2005年12月16日(金)     随想Esseay「信仰」の完結によせて
+主の平和
 
 ようやく、随想Esseay「信仰」の完結を見ることができました。そして、このブログのページにもようやく息を吹き込むことができました。
 
 随想Esseay「信仰」のそれぞれの項に出てくる奇蹟や神との対話文は、聖書の中の一節や教会の信徒の間でよく語られている話をもとにしたものと、私の独創によるものとを混ぜ合わせて書きました。
 
 私は、文章を書くこと自体には、なんの厭いも感じないのですが、何せ文学を勉強したこともありませんし、ましてや小説家でもありませんから、語彙力や文章の構成力の貧弱なところはお許しいただいて、「信仰」とは、このようなものではないかという、私の考えを読み取っていただければ幸いです。
 
 随想Esseay「信仰」の中に出てくる男は、もちろん私自身のことです。現在の私自身の「信仰」がどのようであるかという告白も含めて、「信仰」というものがどうあったらよいのかといことについて書いたつもりです。情けない話なのですが、実に主人公の男は私なのです。洗礼を授かり、既に29年。知識はいろいろとしたためてまいりましたが、「信仰」はなかなか深まらないというのが本当のところです。
 
 神様に、なかなか全てをお任せするという、手放しができずにいる者なのです。神様に絶対的信頼をおくことができるようになって、本当の信仰者となれますよう、これからの日々の生活を過ごしてまいりたいと思います。
 
どうぞ、互いに祈り合い、励まし合って私たちの主であるイエス・キリストの福音を生き、宣べ伝えてまいりましょう。
 

Last updated: 2013/11/28

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