+主の平安
カトリック学校の福音的課題
『学校マネージメント』というテーマは、このページを開設したいと考えていた当初から想像していたとおり、壮大な建設事業のようになってきている。
カトリック学校の福音的課題は、カトリック学校の定義付け自体が明確にもかかわらず、非常に多くの要素を網羅しているという点である。それは、キリストが宣べ伝えた福音が何であるのかということを明らかにすることよりも、それを現実の社会の中で実践し展開していくことの難しさからなのか、あるいは人ひとりの力があまりにも微小だからなのか、あるいはそれなのに二人三人とつながり合い力を合わせるための共同体をつくることの難しさからなのか、とにかく口にしたり文字に表したりすることとは比較にならない程の困難さを覚えざるを得ないのである。
しかし、そんな中でも私にとって、確実な一筋の明かりを見いだせることが一つある。それはイエス・キリストが虐げられた者・貧しい者・病んでいる者といわれた小さき者たちを救うために福音をもたらされたとおり、わたしたちカトリック学校も主イエス・キリストが行われたように社会的弱者に対して救いの手を差しのべているのかという基準である。
福音は、まず宣べ伝えることが第一とすれば、その福音を実践することが第二であると言えよう。そして第三は、その福音の実現つまりは神の国の到来が第三であり最終目的なのである。この最終目的であるイエス・キリストが宣べ伝えた福音の実現である神の国の到来と人間が織りなす現実社会との乖離が上げられる。その格差がもたらす困難さがもう一つの理由であると言えよう。しかし、その格差が大きければ大きいほど福音の必要性が求められるわけであるから、福音の実践または解放や救いの必要性がそこに見いだすことができるのである。
では、学校社会における弱者とはどのような人々をいうのだろうか。それは第一には、何らかの理由からの精神疾患を原因とする不登校生が上げられるのではないかと思う。不登校の理由や症状は様々であることは、日々の教育活動に携わる教員であれば言わずとも知れていることであると思う。引きこもり・対人恐怖症・神経症・心身症・鬱病・神経衰弱・人間不信・情緒不安定・リストカット・自殺未遂など様々な症状を呈するが、その多くは家庭における親子関係や友人関係および自己認識に根本的な原因を探すことができるのではないかと思う。つまりは、優劣の区別ではないのであるが、健全で良好な人間関係を築くことができるかどうかが事の雌雄を決するようである。それだけ現代のこどもたちは、人間関係を学ぶ場を踏んできていないか、耐性を身に付けてきていないということなのであろう。
第二には、経済的困難に瀕している家庭の生徒に対する援助である。私立学校はどうしても公立学校に比較して学納金がかさんでしまう。経済的弱者がそれを理由に、経済力がないのであれば公立学校を選択するのが相当であるとして、カトリック学校の教育を受けることができないとするのであれば、それは教育の機会均等の平等に反すると言えよう。この問題を解決するのは修学金制度を充実させたり、特待制度を設けるなどして、児童・生徒・学生が学業に専念できる環境を整えることが重要である。
第三には、身体に障害を持つこどもたちに対する対処である。カトリック学校ですら障害者に対しては理解に薄いと言えないだろうか。本校は普通高校であるから、障害を持つこどもは養護学校へというのが日本社会の常識になっている。障害者を受け入れるにはそれなりの施設や担当教員を必要とし、学校経営を圧迫することは十分に理解できるが、やはりこのこともカトリック教育の機会均等という観点やバリアフリーあるいはノーマライゼーションという観点、そして何よりもキリストの福音という観点からすれば、推して知るべしであり今後カトリック学校として開拓すべき分野であるといえよう。
第四には、家庭環境に対する配慮である。母子家庭や父子家庭の増加により家庭における躾や教育力の低下が著しく、更には少子化による兄弟姉妹の不在や親子間のコミュニケーションの希薄化など、家庭が家庭としての機能を果たすことができなくなっていることによって、こどもたちが人間として健全に成長できないでいるのである。この外見上は何不自由なくというよりは、満たされ過ぎるほどに満たされている子どもたちが、実は救いを求め必要としている小さき者たちなのである。よって、校内に教育カウンセラーを常駐させたり、学校の家庭への働きかけを積極化させるなどして、こどもたちの健全で良好な心身の成長ができるよう、家庭をも含めたケアが求められるのではないかと考えている。そして、おそらくこのことが、日本の教育における最大で最重要な課題ではないかと感じているのである。
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