神は、何故カイン献げ物に目を留めなかったのかは、大きな謎とされているが、よくありがちな一般的解釈は、カインの神への献げ物が神に対して相応しい物でなかったからであるというものある。相応しくないというのは、カインは多くの収穫がありながら、勿体を付け、僅かの献げ物しか供えなかったと解釈するものもある。
しかし、ヘブライ語原典によれば、「神は、カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時には、カインの献げ物に目を留めなかった。」(図解雑学 旧約聖書 上智大学神学部教授 雨宮慧著)」とある。
これは何を意味するのであろうか?確かに「彼の労働に応じた実りをもたらさない」ということは、カインの意図的な意思によって、多くの収穫を得たのに、少しの物しか献げなかったとも解釈できなくもない。しかし、もしそうであるのならば、アベルの献げ物だけに目を留めたことに対して、実弟であるアベルに殺意を抱くまでに嫉妬心に駆られるだろうかという疑問が、どうしても払拭できない。何故なら、そこにはカイン自身のやましさが、自分の献げ物が神に受け入れられないことにに対して、自身を納得させるに十分であったはずであるからだ。ならば、人を殺したいと思わせるほどの恨みを抱かせるには、それなりの動機(犯行動機)がどうしても必要となる。
そこで、まずカインとアベルの生業から考えてみよう。カインは、土を耕す者であったから農耕を営んでいたことになる。よって、その献げ物は「土の実り」となるわけである。農業は、現代のようにバイオテクノロジーや農業施設等、科学技術が著しく発達した今日でさえ、その収穫は天候に大きく左右される。大層な科学技術や農業機械がない当時であれば、尚更のことである。つまり、農耕とは人間の働きの如何に関わらず、収穫物の豊凶作は人間の力の及ばないところがある訳だ。とするならば、「カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時」とは、まさに凶作を意味するのではなかろうか?というごく自然な結論が導き出される。どんなに人間が一生懸命労苦して働こうが、期待した収穫物を必ずしも得ることができないのは、人間サイドからすれば、まさにこの世の不条理に思うのはごく当たり前のことであろう。
それに対してアベルの生業は、遊牧である。乾燥地帯のこの地方にあって、羊や山羊を連れ、水と草のあるところを移動する遊牧生活は、地理的条件等の理に叶った生業である。しかし、遊牧といえども地理的条件や天候に左右されないというわけではない。どちらかといえば、定住生活をしながら農耕を営む生業の方が遊牧よりも安定的に生活の糧を得ることができるはずである。事実、人間の文明は農耕を営むことによって定住生活をするようになり、都市を形成し文明を発展させてきた。勿論そこには他文化の流入、特に遊牧民の文化との交流が、農耕文化を変容させ、発展につながってきたとされている。
では、遊牧民と農耕民のどちらがより安定的な生活の糧を得ることができるかを考えると、自然条件の良いときには、圧倒的に農耕の方が豊かな収穫を得ることができたであろう。それに対して遊牧は乾燥地帯に叶った生業とは言え、過酷な生業である。つまり、二人の関係は農耕を営むカインは富める者・強者であり、それに対して遊牧を営むアベルは貧しい物・弱者という構造が成り立つ。(「旧約聖書を学ぶ人のために V旧約聖書は人間をどう見ているか 2カイン」 国債基督教大学名誉教授 並木浩一・荒井章三 編)
しかし、このような農耕民の生活は、既に神の恵みを十分に享受したおかげで富める者の姿でもあるが、そこに人間の心のあり方としての落とし穴はないだろうか?また、乾燥気候帯のこの地域にあって、農耕が常時豊作をもたらすとは考えにくい。干魃等の自然災害によって大被害を被ることも珍しくなかったに違いない。しかし、この地方の主な生産物である小麦は長期保存が利く。食料の備蓄はできたはずである。確かに年々の豊凶はあっただろうが、農耕民の生活は遊牧民の生活に比較すれば裕福であったことは想像に難くない。
一方、遊牧は農耕をしのぐほど豊かな収穫を得ることができないかも知れないが、貧しいながらも家畜の命が保証されている限り、農耕のようにその年によっては全くの収穫が得られないという最悪な事態は避けられよう。そして、窮地に追い込まれた場合は、家畜を屠れば、何とか食いつなぐことができるのである。それに対して農耕の場合、収穫のない年には即座に死活問題へと発展してしまう危険性をはらんでいる。もっとも、農耕も干魃などの災害に遭ったとしても、食料の備蓄や土地は残るので、次の収穫への希望はあるだろう。いずれにせよ、カインが営む農耕に比較すれば、アベルの営む遊牧は農耕のように大量な収穫物は得られもしない。しかし、裕福にはなれないにしても、ある程度安定的に日々の生活の糧を得て、貧しいながら質素で素朴な生活を保つことができたはずである。そして、このような遊牧民の生活は、神を求めながら、神に信頼する貧しい者の生きる姿であり、それは神が望む人間の姿に叶った生き方でもある。
このように、生業の違いから生活形態のみならず、神に対する生き方・姿勢、信仰そのものが違っていたと考えられるのではないだろうか。当然のことながら献げ物における量質、そしてその心のあり方の差異も、当然の結果として現れたはずである。
おそらく、カインとアベルの献げ物が神に供えられたのは、一度や二度ではなかったである。少なくとも収穫の度に、あるいは、最低一年に一度は、労働の実りに対する神への感謝として、それぞれの収穫物の一部が献げられたはずである。この時に、日照りや害虫の食害によって、農作物が思うように収穫できなかった場合、当然のことながら、カインの神への献げ物は、量は少なく質も悪かったに違いない。まさに「カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時」となってしまう。それに対してアベルはそんな悪条件の年の際も「初子の中から肥えた子羊」を献げ、その献げ物は神に叶い目に留まる。その神の計らいは、カインにしてみれば、どうしても承服できない。なぜならば、カインの献げ物は普段であれは圧倒的にアベルの献げ物よりも多く豊かであり、カインにしてみれば、常に富める者・強者として常にアベルに優越していなければならないのだ。この物語におけるカインとアベルの神への献げ物とは、それぞれの労働の実りの結果としての収穫物そのものであるとも受け取ることができると同時に、カインにとってはアベルに対する力関係をも意味しているのである。
このようにカインとアベルの神への献げ物の差異を、生業による収穫物が及ぼす両者の生活と心のあり方(神への信仰のあり方)の差異と理解するならば、神がカインの献げ物に目を留めなかったことに合点がいくのである。
次に、カインが弟アベルに殺意を抱き殺した動機であるが、これは紛れもなくカインの弟アベルに対する嫉妬心である。そこで、何故カインは実弟であるアベルを妬み、殺意を抱くに至ったのであろうかということであるが、言うまでもなく自分の神への献げ物ではなく、弟アベルの献げ物に目を留めたことにある。
ということは、前述の生業という観点から考えるならば、遊牧を営むアベルは貧しいながらも神の望む人間の姿として神に対し謙遜で忠実に暮らしていたのに対して、農耕を営むカインは、神のみ摂理である自然の恩恵によって豊かな生活をしながらも、その豊かさ故に神に対する謙遜を忘れ、慢心していたと考えることができよう。神は、豊かさ故に傲慢なカインと貧しさ故に謙遜なアベルの二人の心のあり方を、見抜いていたに違いない。神の眼差しは、常に貧しく弱い者に向けられるのは、旧・新約に一貫して流れている神の普遍的態度であり、主イエス・キリストの山上の垂訓にもあるように「貧しい者は幸いでである。」の教えにも表れている。また、カインは、自身の労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時に、自分の献げ物には目を留めず、弟アベルの献げ物に目を留めた神の計らいに、不条理を感じずにはいられなかったのである。新約聖書に記されている「放蕩息子のたとえ」に登場する放蕩を尽くして帰ってきた弟に対する、父の弟に対する応対に不満を抱く兄の心境にも通ずるものである。
兄カインの献げ物が、「カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった」にもかかわらず、神の目に留まらなかったのは、生活の豊かさから来る富める強者の傲慢な姿勢によるものこそが、その最大の理由と言えるのではないかと考えられる。
以上。
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