わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降った来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネ福音書6:48-51)

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宗教教育研究

カトリック学校における宗教科の授業研究のため、指導案の公開や授業報告をします。
 また、他の宗教家を担当されている方の投稿文も掲載し、交流の場ともしたいと思いますので、ご希望の方は、下記メールアドレスまでご連絡ください。
カトリック学校の最大の使命である福音宣教を最も実現できるのは、宗教科による教科指導ではないでしょうか。宗教科の授業が生徒たちにとってキリストとの出会いの場となるようにしたいものです。
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 6     「愛」について 2017/03/05(日) 
青森市内Facebookによる教会学校 第8回 「愛」について より
 
 愛とは何でしょうか?キリスト教は、愛の宗教といわれますが、その所以は神の本質が愛であり、神は私たち人間をこよなくそして永久に愛し続けておられるからです。また、既に第3回「私たちは何を信じているのか−Credo−」で解説したとおり、私たちの神は父なる神、神の子であるイエス・キリスト、そして聖霊の三位一体の神です。これらの三つのペルソナが互いに愛を通して深く交わっておられることも、神が愛であることを示しています。
 
 聖書の中で神の愛が示されているカ所は数多くありますが、まずは旧約聖書の創世記天地創造物語において、この宇宙万物の創造を通してその愛をお示しになりました。特に人間の創造においては、神の被造物を治めさせるために、その姿を神の似姿・かたどりとして創造されましたし、神との応答の中でその使命を果たし、神との交わりの中で幸福に生きていくことができるよう、私たち人間にもペルソナを与え人間を真に生きる者として創造されたのです。
 
 神の愛とは、無条件で無償の自己無化(ケノーシス)するAgape(アガペー)といわれるものです。神は、人間がどのような状態であっても人間を愛するが故に、私たち人間の罪を赦し受け入れ、ご自分に招き入れようとする方です。そのような無限の神の愛に私たち人間も神から与えられた自由意志により、愛をもって応答(テオーシス)するように招かれています。その模範(ミノーシス)を、教えと行いによって示されたのが、イエス・キリストが示された隣人愛の実践です。イエスは、人間が神の愛の実践(互いに愛し合うこと)するところに神の国(バシレイア)が実現するとの福音を説いたのです。
 
 では、新約聖書で最も愛の本質を説いている「愛の賛歌」と呼ばれるパウロの書簡コリントの信徒への手紙一のカ所を紹介しましょう。
 
  そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
 
  たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、愛がなければ、わたしは騒がし いどら、やかましいシンバル。たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる知識に通じてい ようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛がなければ、 無に等しい。全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、誇ろうとしてわが身を死 に引き渡そうとも、愛がなければ、わたしに何の益もない。
 
  愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、 自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべ てを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、私たちの知識は一 部分、預言も一部分だから。完全なものが来た時には、部分的なものは廃れよう。幼子 だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。 成人した今、幼子のことを棄てた。
 
  わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と 顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときは、 はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、 この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。(コリント一13:1-13)
人間は皆どこか欠けている存在です。それは、創造の段階から神の霊によって満たされて生きるものとなった(創世記2:7 ネフェシュでバーサールな存在=喉の渇きを満たそうとする者)からで、神とのつながりを維持することでしか満たされないのが人間です。ですから、人間は、特に愛において欠けている存在です。それは、どんな人や物によっても満たされることのできないものです。なぜなら、それらはみな永遠のものではないからです。ですから人間の欠けている愛の充足は、神の愛によってのみ満たされうるものなのです。
 
 イエスは弟子たちに新しい掟を与えました。それは、「互いに愛し合うこと」です。そしてこの掟は、使徒を通して現在も教会共同体の核として受け継がれているものですし、信徒の親しい交わりの努力のうちに、さらなる発展と完成を目指していくべきものです。
 
 イエスは、新しい掟をこのように言っています。
  あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛した ように、あなた方も互いに愛し合いなさい。互いに愛し合うならば、それによってあな た方がわたしの弟子で亜るっことを、皆が知るようになる。(ヨハネ13:34-35)また、その実現のために、聖霊を与える約束もなさいました。
 
 あなたがたは、わたしを愛しているならば、わたしの掟を守る。わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなた方と一緒にいるようにいてくださる。この方は、真理の霊である。この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからもあなたがたの内にいるからである。(ヨハネ14:15-17)
 
 7     「beingとdoingの価値」 2017/03/05(日) 
青森市内Facebookによる教会学校 第10回 「beingとdoingの価値」より
 
 青年(中学生・高校生・大学生)の皆さん、自分自身の存在価値について考えたことはありますか?「自分は何のために生まれたのか?自分は何のために生きているのか?どうしたら、よりよく生きていけるのか?自分は何を求めて生きているのか?そして、自分自身に求められている生き方とは何か?」などといった根源的な問いかけに関わることです。しかも、私たちはキリスト者ですから、私たちにはキリスト者としての存在価値や生き方があるように思います。
 
 今回は、「beingとdoingの価値」というテーマで、これらのことについて考えていきたいと思います。
 私たち人間はだれも自分自身の意思でこの世に生まれているわけではありません。両親に頼んで生まれてきた人は、一人としていないでしょう…。では、私たちは両親の意思によって生まれてきたのでしょうか?それも少し違うような気がします。なぜなら、両親が子供をいくら望んだからといって、子供が授かるわけではありませんし、授かったからといって両親の思い通りに子供が生まれるというわけではないからです。
 
 つまり、そこには人間の意思以外のほかの意思が関わっているように思います。旧約聖書の創世記1章「天地の創造」では、この世の創造における神の意志が記されています。神は創造の終わりに命あるものすべてを支配させるために神にかたどり、神に似せて(似るように)人間を必要とし造られました(創世記1-26)。そして、神はお造りになったすべてのものをご覧になって、「見よ、それらは極めて良かった。(創世記1-31)」と仰せになるのです。私たち人間は、神の意志によって神に必要とされ、良いものとして創造された存在であるということがいえます。ここに私たち人間の根源的な存在価値や意義を見いだすことができるはずです。
 
 しかし、神によって良いものとして造られた人間は、旧約聖書の創世記「アダムとエバ物語における蛇の誘惑」や「カインとアベル物語」、「洪水(ノアの箱舟)物語」や「バベルの塔物語」に表されているように、神は人間に常に神と共に生きつながっていることを望みますが、人間は原罪故に度々罪を犯し神の望む姿から逸脱してしまいます。旧約時代はこの繰り返しの歴史と言っても過言ではないでしょう。
 
 神はそのような人間に新たな導きとして、父なる神の永久に憐れみ深い愛と神の国の到来を指し示すために、御一人子であるイエス・キリストを人間として生ける神としてこの世に送ってくださったのです。この主イエス・キリストによって私たち人間は、慈しみ深い神の愛によって、永遠の命へと導かれ神の国へと至るという新たな契約に結ばれました。ここに、私たち人間の根源的存在価値が付加されたのです。私たち人間は、イエス・キリストの行いと教えに倣って、多くの聖人達がその生き方で示したように、他者のために自分を与えるという生き方により、神が望む人間として真に生き、幸せになれるのです。そして、これこそが「being」の価値の根拠となるものです。
「being」の価値とは、何かができる能力や才能、技術、実績など、誰かより秀でているもの=「doing」としての価値があるからではなく、神によってかたどられ神に似せて造られ、そして必要とされた存在であるばかりか、神の憐れみ深い愛によって私たちは神に寄り添われながら、いつも神に愛されているからなのです。しかも、イエス・キリストの新たな掟である「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなた方を愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13-34)」を実践するならば、そこには神の愛が支配するバシレイア=「神の国」が現存することになるのです。このようなイエス・キリストの福音は、「doing」の価値ではなく、「being」の価値でなければ決して実現できるものではないでしょう。
 
 とかく私たち人間社会の日常では、「doing」の価値が評価されがちです。学習能力が高かったり、仕事が効率よくできたり、何かを成し遂げることに価値を置きます。しかし、本当にそれでいいのでしょうか?私たち一人ひとりは、この世界にたった一人しかいない存在で、誰にも代え難いかけがえのないものです。神によって祝福され愛されているこの自分という価値や現実を忘れてしまえば、人間の価値とは「doing」という比較によるものでしかなくなってしまいます。そこにはNo.1でいることでしか認められないという排他的で狭い人間の見方しかありません。人間にはOnly oneという神に由来する絶対的唯一性としての価値があるはずです。 私たちの主イエス・キリストは、なぜ虐げられた人々、貧しい人々、病んでいる人々、に全身全霊で同調(スプランクニゾマイ=腸がちぎれる思い)し、救いの業を行ったのでしょうか?それは、紛れもなく私たち人間の命や存在が、かけがえのない神から愛されているものだからに他ならないからではないでしょうか。
 
 私たち教会共同体においても「beingとdoingの価値」について、気をつけなければならないことがあります。私たちの教会共同体は、イエス・キリストにおいて一致する、あるいは一致しようと努め、イエス・キリストの行いと教えに従っていきる共同体です。しかし、教会共同体内部の信徒間においても「doing」の価値で人を判断することで、人を排除しようとしたり、批判したり、陰口を言ったりすることがあります。しかし、私たちの共同体は、学校でもなければ企業でもありません。自分の個人的な価値観や自分が所属する集団の価値観を教会共同体に持ち込んでしまえば、必ず人間関係の衝突が起きてしまいます。そして、そのような人間の見方は、イエス・キリストの眼差しではありません。 私たちの共同体は、常に主イエス・キリストにおいて一致することに努め、誰もが神が必要とされているもの同士であることを忘れてはならないと思います。そうです、互いに互いを「being」の価値で認め合うことが大事なのです。聖パウロが言うように、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったようにあなたがたも同じようにしなさい。(コロサイの信徒への手紙3-13)」を常に念頭に置きながら、教会共同体でお互いに奉仕し合う者でありたいですね。
 
 8     「カトリック学校の宗教教育で内を教えるのか」 2015/11/23(月) 
1.聖書における神観・世界観と福音的人間観(聖書が語る神と人間の関係と存在のあり  方)
 (1)創造の神(すべての根源である神の存在とその摂理)
 (2)神の人間の創造の目的
 (3)神の似姿である人間の意味(良いものとして造られた人間)
@自己肯定感と使命感(自己の受容)
   ABeingとDoing・Havingの価値観
B自己及び他者における固有の価値と使命への気付き(自己認識と他者認識)
C共通善の探求と他者の受容
 (4)神と人間の関係
  @スピリチュアリティ(霊性)と人格を持つ存在としての人間
   (persona=互いに響き合う存在→神の人間への語りかけに応答する存在)
  A人間は欠けた存在=ネフェシュでバーサールな存在。人間は喉が渇き、その渇きを   求める者として創造された。そして、その渇きは、神の恵みによってのみ潤
    わされる存在である。
  B人間は、神とつながり続けることで、人間らしく生きることができる存在。  Re-ligare(再び結ぶ Religionの語源)
(5)人間の善と悪
  @人間の悪への性向と誘惑に対する脆弱性
  A人間の善と悪の二面性
  B罪を認め、悔い改め、ゆるしを必要とする人間
  Cre-ligare=再び結ぶ→神との和解を必要とする人間
  D人間関係においても同様のことが求められる人間
  E人はその罪ゆえに、この世では苦しんで生きる者
現世的価値を求めれば求めるほど、あるいはこの世の人間的価値による支配の中では、人は苦しみに陥る。(この世の理不尽・不条理)
 
2.イエスと出会う(福音とは何か?)
 (1)新約聖書やさまざまな教材をとおして、イエスのメッセージを知る
  @福音はすべての人々に宣べ伝えられる
  A信じることからすべては始まる
  Bイエスは神の子である
  Cキリストと神の関係
  D常に共にいてくださる神(希望と喜び)
 
3.イエス・キリストのまなざしと行い
 (1)価値観の転換=この世(人間)の価値ではなく、神が人間に求める(福音)価値
 (2)たとえ話と互いに愛し合うこと・隣人愛の掟
 (3)人は何のため誰のために生きるのか
 
4.聖母マリアの生涯と信仰
 
5.イエス・キリストを生きた人
(1)聖人・偉人の生き方
  @12使徒(特にペテロとパウロ)
  A聖フランチェスコ
  B聖マザーテレサ
  C聖ドン・ボスコ
  D聖マキシリアノ・マリア・コルベ
  E北原怜子
  F永井隆
  Gビクトル・フランクル、キング牧師、ガンディー その他
 
6.日本のキリスト教史
 (1)キリシタン時代(聖フランシスコ・ザビエル〜)
 (2)幕末から明治時代
 (3)大正時代から太平洋戦争後
 
7.他宗教との対話
 (1)他宗教理解
  @日本の伝統的神道と国家神道
  A仏教の基礎知識と日本の宗派仏教
  B儒教の基礎知識
  Cイスラム教の基礎知識
  Dヒンドゥー教の基礎知識
  Eユダヤ教の基礎知識
  Fカトリックとプロテスタントについて
  G新興宗教とカルト
 (2)宗教文化の理解と受容
  @伝統的日本文化
  Aキリスト教文化
  Bイスラム教文化
  C仏教文化
  Dヒンドゥー教文化
  Eユダヤ教文化
F儒教文化
 
8.宗教と芸術
 (1)聖歌を歌う(カトリック聖歌と典礼聖歌およびその他の聖歌)
 (2)ミサ曲
 (3)聖画
 (4)キリスト教における美とは何か(真・善・美=正義)
 
9.平和といのちの問題を考える
 (1)戦争と平和
 (2)時事(社会)問題とその解釈およびその解決
  @偏見と差別について
  A多様性のなかの共生社会の実現
(3)いのちの問題の解釈と解決
  @生命倫理
  A人工授精と人工中絶
  B再生医療と遺伝子工学
  C命の自己決定権(尊厳死と安楽死およびQuality of life)
  D生と死について
  E自死(自殺)
  F死刑制度
 
10.宗教行事とその理解
 (1)ミサについて
 (2)マリア祭について
 (3)修養会について
 (4)クリスマスについて
 (5)復活祭について
 
11.哲学と宗教
 (1)哲学の基礎知識 西洋哲学と東洋哲学から
 (2)哲学と宗教の違い(人間の価値と神の価値)
 
12.現実を生きる
 (1)現代の多様な価値観の間で
 (2)自己実現と自己奉献
 (3)現実の不条理と虚しさ(へベル)
 (4)苦難と希望 人生の中の試練の意味 どんなに辛く苦しいことがあっても生き抜く   力
 (5)宗教の必然性 信じることから生まれる希望
 
 9     2.「カインとアベル物語」の核心 2014/09/10(水) 
 神が、カインの献げ物に目を留めなかったのは、神の眼差しというものが、常に神を求め謙虚である貧しい者に注がれるからであって、カインの生業による豊かさからくる他者に優越し支配しようとする傲慢さに対して、アベルの神に対する貧しい者としての謙遜に生きる姿勢が、神に叶ったものであったからである。
 とするならば、この物語の言わんとする核心部分は、どこにあるのだろうか?それは、二つあるのではないかと思われる。
 一つには、聖書における人類最初の殺人が、人の嫉妬心によるものであるということだ。神が兄カインの献げ物に目を留ず、弟アベルのそれに目を留めたことによって、兄カインの怒りは弟アベルに対する妬みとなって現わる。しかも、弟アベルには何の咎もないのにである。「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」との神の諭しと警告は、人間が感情のままに行動することへの戒めであると単純にとらえることができよう。しかし、そこには、人間の常に他者を支配し優位にでようとする傲慢さへの警告も含まれている。むしろ、強い者は弱い者を慈しみ守り、その者が神から祝福されることを喜んで受け入れるようにしなければならないのである。そして、そのような正しい生き方をしているのであれば、それは神の御心であると同時に、既に十分な神の恵みを受けて豊かでいるのだから、そのことに自信と充足をもって顔を上げ、弱い者と共に喜び生きていられるだろう。
 また、神への献げ物はこの世での労働の成果であるから、それが必ずしも神に受け入れられるとは限らないという人間的立場から見た理不尽さでもある。そういった個人的な労苦が神を喜ばせることになるとは限らないのである。それは、この世に生きる人間に対する神からの問いかけである。自身がこの現実での行いが、本当に神に叶っているのか?それは、取りも直さず、神と人間との良好な関係が築けているかとの問いかけである。自身の行いが正しいのなら、自信を持って自分の時を待てというのであろう。それが、「もし、お前が正しいのなら、顔を上げよ。」ということではないのか。そして、正しくないのなら、その行いは神によって拒絶され、そのことに怒りを覚え他者に対する嫉妬心を抱けば、破滅をもたらすというのである。だから、人間は怒りや嫉妬心を制御しなければならないのだ。これが、「罪は、戸口でお前を待ち受け、それをお前は支配せねばならない。」の意味であろう。
 もう一点は、聖書が一貫して語る、神が望む人間の姿にあると言える。それは、神と人間の良好な関係を維持し続けることを意味し、神が謙り人間に近づいて生きる姿であるケノーシス(kenosis=自己無化・空化)に対して、人間が自らの意思で神に近づこうとするテオーシス(theosis=神化)しようとする姿である。
 神は、ご自分が創造した世界を任せる存在として、必要とし望んでご自らに型どり人間をお造りになった。また、その役割を全うするために、智恵と自由意思をお与えになり、神の望む人間の姿である神を求め善く美しく生きる神のミメーシス(mimesis)としての姿(新訳においてはイエス・キリストの生き方)を求めたのである。
 つまり、神が望む人間の姿とは、神が人間を創造し、人間に近づき、無条件に人間を愛する神の愛への応答にあるのだ。聖書は、人間とは神によって創造された被造物であるから、人間存在そのものは神の助けを必要とし、それ故に神の愛を渇望するネフェシュとしての存在であることを説くのである。さらに、確かな神の力との対比においては、人間は弱さともろさという限界を持ち、神と無縁な状態ではバーサール(欠けている)な存在であると示している。
 しかし、神と無縁な状態ではバーサールな存在であるとしながらも、神から与えられるルーアッハ(息)により生きる者となり(旧約聖書 創世記2:27)、人間の弱さと限界を克服できる存在となる。これは、神との関連性の中にこそ、本来的人間像があることを説いているものである。人間とは、ネフェシュでバーサールな存在として、神との相互的な連続性の関係において、欠如している部分を神によって満たされることで、はじめて真に生きる者となる。
 よって、神は人間の主体的神を求めるテオーシスによって、バーサールな欠けた存在としての人間の渇望が神によって満たされ、神と人間との良好な関係が形作られ、神が望むミメーシスな人間の姿が完成するというわけである。
 以上のような聖書が説く人間観を前提に考えると、「カインとアベル物語」は、神のカインに対する計らいや、この世の不条理に対する心のあり方と行動を通して、神の人間への愛に対する応答のあり方を問うているのである。カイン自身の献げ物が神の目に留まらなかった時のカインの態度に対する神の言葉、「どうして怒るのか。どうして顔を伏せるのか。もしお前が正しいのなら、顔を上げられるはずではないか。正しくないなら、罪は戸口で待ち伏せており、お前を求める。お前はそれを支配せねばならない。」の諭し、警告、そして、その後アベルを殺したカインに対する「お前の弟アベルは、どこにいるのか。」という問いかけにも、そのあり方が表されているとおり、神はカインの応答や自分が犯した罪の告白と悔い改めを自ら口にするよう促しているのだ。にもかかわらず、カインの応答は「無言」と「知りません。私は弟の番人でしょうか。」という神を失望させるものでしかなかったのである。
 神の応答に応えることがなかったカインは、結果的に弟アベルを殺し、神の問いかけにも白を切ることとなり、呪われさすらうものとしての神の裁きを受けることとなる。そこでカインはようやく自分が犯した罪を認め、その重さに気付き神への応答をする。「私の罪は重すぎて負いきれません。今日あなたがわたしをこの土地から追放なさり、わたしが御顔から隠されて、地上をさまよい、さすらうものとなってしまえば、わたしに出会うものはだれであれ、わたしを殺すでしょう。」と。このカインの神に対する応答こそが、神が人間に切に望んでいる渇望に喘ぎ救いを求める姿である。
 このカインの悔い改めこそが、神のゆるしの条件であり、それは神の態度を翻すこととなる。「『いや、それゆえカインを殺すものは、だれであれ七倍の復習を受けるであろう。』そして、主はカインに出会うものは、だれも彼を撃つことがことのないように、カインにしるしを付けられた。」とあるように、その後も殺人という大罪を犯したカインを守護し、エデンの東にて妻を娶らせ家庭を築いて暮らさせるのである。ここに、神の招きに応え、悔い改める者に対しては、ゆるしと希望が与えられ、人間社会の常識を遙かに超える、超越的で深淵な神の愛の啓示がある。
 神は、私たち人間に常に自ら近づき、私たち人間が自らの意志で、良好な関係を持ち続けるよう招いている。事実、良きにつけ悪しきにつけ、カインの神に対する言葉と行いによる応答によって、神はカインに応える。それは、カインをさすらう者とする罪の裁きだけでは終わらない。さすらいの地は、まさにこの世の現実社会である。神はカインをそこに置き、罪人としてカインに相応しい良き助け手を与え、家庭を与えるのである。カインの神に対する応答、特に悔い改めは、神のカインへの祝福と恵みとして、その関係を修復させたのである。
 このように私たち人間は、神の無条件で見かえりのない愛に気付き、たとえこの世に於いて不条理で理不尽な出来事があろうが、すべての出来事は自分自身の行いと心のあり方を振り返りながら、神の愛への招きに対する人間への問いかけである。その問いかけに、私たち人間がどう応答すべきかを、この「カインとアベル物語」は教えるものであり、この物語の核心であると言えよう。

 10     旧約聖書 創世記 「カインとアベル物語」−神は、何故兄カインの献げ物に目を留めなかったのかを考える。− 2014/07/11(金) 
 神は、何故カイン献げ物に目を留めなかったのかは、大きな謎とされているが、よくありがちな一般的解釈は、カインの神への献げ物が神に対して相応しい物でなかったからであるというものある。相応しくないというのは、カインは多くの収穫がありながら、勿体を付け、僅かの献げ物しか供えなかったと解釈するものもある。
 
 しかし、ヘブライ語原典によれば、「神は、カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時には、カインの献げ物に目を留めなかった。」(図解雑学 旧約聖書 上智大学神学部教授 雨宮慧著)」とある。
 
 これは何を意味するのであろうか?確かに「彼の労働に応じた実りをもたらさない」ということは、カインの意図的な意思によって、多くの収穫を得たのに、少しの物しか献げなかったとも解釈できなくもない。しかし、もしそうであるのならば、アベルの献げ物だけに目を留めたことに対して、実弟であるアベルに殺意を抱くまでに嫉妬心に駆られるだろうかという疑問が、どうしても払拭できない。何故なら、そこにはカイン自身のやましさが、自分の献げ物が神に受け入れられないことにに対して、自身を納得させるに十分であったはずであるからだ。ならば、人を殺したいと思わせるほどの恨みを抱かせるには、それなりの動機(犯行動機)がどうしても必要となる。
 
 そこで、まずカインとアベルの生業から考えてみよう。カインは、土を耕す者であったから農耕を営んでいたことになる。よって、その献げ物は「土の実り」となるわけである。農業は、現代のようにバイオテクノロジーや農業施設等、科学技術が著しく発達した今日でさえ、その収穫は天候に大きく左右される。大層な科学技術や農業機械がない当時であれば、尚更のことである。つまり、農耕とは人間の働きの如何に関わらず、収穫物の豊凶作は人間の力の及ばないところがある訳だ。とするならば、「カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時」とは、まさに凶作を意味するのではなかろうか?というごく自然な結論が導き出される。どんなに人間が一生懸命労苦して働こうが、期待した収穫物を必ずしも得ることができないのは、人間サイドからすれば、まさにこの世の不条理に思うのはごく当たり前のことであろう。
 
 それに対してアベルの生業は、遊牧である。乾燥地帯のこの地方にあって、羊や山羊を連れ、水と草のあるところを移動する遊牧生活は、地理的条件等の理に叶った生業である。しかし、遊牧といえども地理的条件や天候に左右されないというわけではない。どちらかといえば、定住生活をしながら農耕を営む生業の方が遊牧よりも安定的に生活の糧を得ることができるはずである。事実、人間の文明は農耕を営むことによって定住生活をするようになり、都市を形成し文明を発展させてきた。勿論そこには他文化の流入、特に遊牧民の文化との交流が、農耕文化を変容させ、発展につながってきたとされている。
 
 では、遊牧民と農耕民のどちらがより安定的な生活の糧を得ることができるかを考えると、自然条件の良いときには、圧倒的に農耕の方が豊かな収穫を得ることができたであろう。それに対して遊牧は乾燥地帯に叶った生業とは言え、過酷な生業である。つまり、二人の関係は農耕を営むカインは富める者・強者であり、それに対して遊牧を営むアベルは貧しい物・弱者という構造が成り立つ。(「旧約聖書を学ぶ人のために V旧約聖書は人間をどう見ているか 2カイン」 国債基督教大学名誉教授 並木浩一・荒井章三 編)
 
 しかし、このような農耕民の生活は、既に神の恵みを十分に享受したおかげで富める者の姿でもあるが、そこに人間の心のあり方としての落とし穴はないだろうか?また、乾燥気候帯のこの地域にあって、農耕が常時豊作をもたらすとは考えにくい。干魃等の自然災害によって大被害を被ることも珍しくなかったに違いない。しかし、この地方の主な生産物である小麦は長期保存が利く。食料の備蓄はできたはずである。確かに年々の豊凶はあっただろうが、農耕民の生活は遊牧民の生活に比較すれば裕福であったことは想像に難くない。
 
 一方、遊牧は農耕をしのぐほど豊かな収穫を得ることができないかも知れないが、貧しいながらも家畜の命が保証されている限り、農耕のようにその年によっては全くの収穫が得られないという最悪な事態は避けられよう。そして、窮地に追い込まれた場合は、家畜を屠れば、何とか食いつなぐことができるのである。それに対して農耕の場合、収穫のない年には即座に死活問題へと発展してしまう危険性をはらんでいる。もっとも、農耕も干魃などの災害に遭ったとしても、食料の備蓄や土地は残るので、次の収穫への希望はあるだろう。いずれにせよ、カインが営む農耕に比較すれば、アベルの営む遊牧は農耕のように大量な収穫物は得られもしない。しかし、裕福にはなれないにしても、ある程度安定的に日々の生活の糧を得て、貧しいながら質素で素朴な生活を保つことができたはずである。そして、このような遊牧民の生活は、神を求めながら、神に信頼する貧しい者の生きる姿であり、それは神が望む人間の姿に叶った生き方でもある。
 
 このように、生業の違いから生活形態のみならず、神に対する生き方・姿勢、信仰そのものが違っていたと考えられるのではないだろうか。当然のことながら献げ物における量質、そしてその心のあり方の差異も、当然の結果として現れたはずである。
 
 おそらく、カインとアベルの献げ物が神に供えられたのは、一度や二度ではなかったである。少なくとも収穫の度に、あるいは、最低一年に一度は、労働の実りに対する神への感謝として、それぞれの収穫物の一部が献げられたはずである。この時に、日照りや害虫の食害によって、農作物が思うように収穫できなかった場合、当然のことながら、カインの神への献げ物は、量は少なく質も悪かったに違いない。まさに「カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時」となってしまう。それに対してアベルはそんな悪条件の年の際も「初子の中から肥えた子羊」を献げ、その献げ物は神に叶い目に留まる。その神の計らいは、カインにしてみれば、どうしても承服できない。なぜならば、カインの献げ物は普段であれは圧倒的にアベルの献げ物よりも多く豊かであり、カインにしてみれば、常に富める者・強者として常にアベルに優越していなければならないのだ。この物語におけるカインとアベルの神への献げ物とは、それぞれの労働の実りの結果としての収穫物そのものであるとも受け取ることができると同時に、カインにとってはアベルに対する力関係をも意味しているのである。
 
 このようにカインとアベルの神への献げ物の差異を、生業による収穫物が及ぼす両者の生活と心のあり方(神への信仰のあり方)の差異と理解するならば、神がカインの献げ物に目を留めなかったことに合点がいくのである。
 
 次に、カインが弟アベルに殺意を抱き殺した動機であるが、これは紛れもなくカインの弟アベルに対する嫉妬心である。そこで、何故カインは実弟であるアベルを妬み、殺意を抱くに至ったのであろうかということであるが、言うまでもなく自分の神への献げ物ではなく、弟アベルの献げ物に目を留めたことにある。
 
 ということは、前述の生業という観点から考えるならば、遊牧を営むアベルは貧しいながらも神の望む人間の姿として神に対し謙遜で忠実に暮らしていたのに対して、農耕を営むカインは、神のみ摂理である自然の恩恵によって豊かな生活をしながらも、その豊かさ故に神に対する謙遜を忘れ、慢心していたと考えることができよう。神は、豊かさ故に傲慢なカインと貧しさ故に謙遜なアベルの二人の心のあり方を、見抜いていたに違いない。神の眼差しは、常に貧しく弱い者に向けられるのは、旧・新約に一貫して流れている神の普遍的態度であり、主イエス・キリストの山上の垂訓にもあるように「貧しい者は幸いでである。」の教えにも表れている。また、カインは、自身の労働がそれに応じた実りをもたらさなかった時に、自分の献げ物には目を留めず、弟アベルの献げ物に目を留めた神の計らいに、不条理を感じずにはいられなかったのである。新約聖書に記されている「放蕩息子のたとえ」に登場する放蕩を尽くして帰ってきた弟に対する、父の弟に対する応対に不満を抱く兄の心境にも通ずるものである。
 
 兄カインの献げ物が、「カインの労働がそれに応じた実りをもたらさなかった」にもかかわらず、神の目に留まらなかったのは、生活の豊かさから来る富める強者の傲慢な姿勢によるものこそが、その最大の理由と言えるのではないかと考えられる。
 
以上。
 

Last updated: 2017/6/12
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