わたしは命のパンである。あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。しかし、これは、天から降った来たパンであり、これを食べる者は死なない。わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。(ヨハネ福音書6:48-51)

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宗教教育研究

カトリック学校における宗教科の授業研究のため、指導案の公開や授業報告をします。
 また、他の宗教家を担当されている方の投稿文も掲載し、交流の場ともしたいと思いますので、ご希望の方は、下記メールアドレスまでご連絡ください。
カトリック学校の最大の使命である福音宣教を最も実現できるのは、宗教科による教科指導ではないでしょうか。宗教科の授業が生徒たちにとってキリストとの出会いの場となるようにしたいものです。
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 1     「洗礼」 2017/06/12(月) 
 洗礼は、入信の秘跡である洗礼・堅信・聖体のひとつです。人はまず、洗礼によって父である神の子となります。
 
洗礼のときには、水がしるしとして用いられます。
水は人間の日常生活と生命維持のために不可欠なものです。水はまた、体の汚れを清めるためにも用いられますが、
洗礼は単なる「いのち」や「清め」ということばではとうてい言い尽くすことのできない豊かな神の恵みをもたらす秘跡です。
 
 旧約時代に起こったノアの洪水は、洗礼による救いを示すしるしでしたし、また、特にイスラエルの人々がモーセをとおして、神によって紅海を渡ってエジプトから解放されたことは、洗礼による救いの前表となりました。
 
 さらに新約時代においては、時が満ちてイエス・キリストは宣教活動を開始するに当たって、まず洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そのとき聖霊がキリストの上に降り、新しい創造の時が到来したことをあかしました。
 
 キリストはまた受難を自分の受けるべき洗礼とも言っておられました。十字架に上げられたこのキリストのわきから流れ出た血と水は、新しいいのちの秘跡である洗礼と聖体を象徴しているといわれます。キリストはその死と復活により、洗礼を通して、わたしたちに復活の新しいいのちをもたらしました。
 
 洗礼はキリストの死と復活という過ぎ越の神秘にあずかることであり、死からいのちへ移されることです。このことをよく表しているのは、復活徹夜際のミサのときに読まれる以下のパウロのローマの信徒への手紙です。
 
 「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちもまた新しいいのちに生きるためです。」
 
 「洗礼を授ける」というギリシア語の原語baptizeinは「沈める」「浸す」を意味しています。洗礼を受けると言うことは、キリストの十字架にあずかるということ、キリストの死に結ばれて葬られることを意味します。洗礼は、古い人が水の中に沈められ、新しい人になるっことを意味しているのです。洗礼を受けるものは新しい人として生まれ変わり、復活のいのちにあずかるものとなるからです。
 
 洗礼は、人を新しい人間に生まれ変わらせ、義とし、神のいのちにあずかる者とする恵みを与えます。洗礼を受けた者はキリストの体の肢体、また教会の一員となり、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」とされ、キリストの祭司職にあずかる者とされます。
 
 また、洗礼の恵みはすべての罪と罰のゆるし、すなわち原罪と自罪およびその罰のゆるしをもたらします。しかし罪がゆるされても罪への傾きや誘惑への弱さは残ります。
 
 ですから、教会の七つの秘跡の恵みを自らの意思で積極的に受けながら、教会共同体のメンバーと共に助け合い強め合いながら、信仰生活を日々の生活の柱として生きていくことが大切だと思います。
 
 ここで幼児洗礼についても触れておきます。教会学校を通して成長してきた方々の多くは幼児洗礼だったのではないでしょうか?教会では俗にこれらの人をBone Christian(ボンクリ)と呼ぶことがありますね!
 
 すべての人は原罪のために神との親しさを失った状態で生まれてきます。ですから幼児も、洗礼によって新しいいのちへと生まれるよう招かれています。幼児に洗礼を授ける週間は、初代教会にさかのぼります。教会は今日まで、幼児に洗礼を授ける習慣は正しい信仰に基づくことを主張してきました。「救いに必要な洗礼は、神の先行的な愛のしるしであり、また、それを与える手段である。洗礼によって、我々は原罪から解放され、神の生命にあずかる者とされる。このように洗礼自体を考えても、これらの祝福のたまものを幼児に与えるのを遅らせてはならない」(教皇庁教理省『幼児洗礼に関する訓令』28)と教会は教えています。
 
 また、マタイ福音書7:9〜11に「あなた方のだれか、パンをほしがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」とあるように、幼児洗礼を授けられた皆さんの親御さんは、あなたがたにとって良いものであると確信したからこそ、生まれて間もないあなたがたに洗礼を授けたにちがいないのです。
 
 きっと幼児洗礼の方々には、成長過程の中で自分の意思で洗礼を受けたわけじゃないし、なんで毎日曜日にミサにあずからなくっちゃいけないんだ。と疑問を呈したり不平不満を言ったりした経験があることでしょう。しかし、洗礼は親の信仰を通して神様からの恵みを授けられたのだ。ということを忘れないでほしいと思います。
 
 洗礼は信仰を前提としますが、幼児洗礼の場合は、教会共同体の信仰、とくに、両親と代父母が幼児の信仰教育に力を注ぐことを前提としています。幼児洗礼は、教会共同体の通して幼児に向けられる神の愛の招きです。幼児はやがてこの招きにこたえて、主体的に自分の信仰を生きるようになることが期待されています。ただし、牧者と両親あるいは関係者が諸般の事情を考慮し、洗礼の時期を遅らせることが賢明であるという司牧的判断をする可能性もあります。
 
 幼児洗礼を受けた子供の信仰教育は、教会共同体の重大な責務です。教会は次代を担う子供たちの信仰を育成するために力を尽くさなければなりません。
 
 一度有効に授けられた洗礼は、二度と繰り返すことはできません。洗礼によって霊魂に、見えない霊印(カラクテル)が刻みつけられます。神はこの霊印を通して、キリスト者が生涯その使命を果たすよう促し働きかけるのです。
 
 若者の皆さん、自分が洗礼を授けられた意味を深く考え、神があなたがたに望まれていることである使命を探し求めていってください。現代の教会も超少子高齢化によって信仰の継承が危ぶまれています。このFacebookによる教会学校が、皆さんの信仰教育の一助となることを、イエス・キリストをとおして父なる神に祈り願います。
 
 2     「教会の七つの秘蹟」 2017/06/12(月) 
 皆さん、2,017年度最初のフェイスブックによる教会学校です。今年度は、「教会の秘跡」から始めたいと思います。
 
 まず、秘跡とは何でしょうか?ギリシア語の「秘跡」ミステリオン(mysterion)ということばは、しばらくするとラテン語においてはミステリウム(mysterium)とサクラメントゥム(sacramentium)という二つのことばに訳されるようになりました。このことばは最初は同義語として使われていましたが、やがてミステリウムということばは、「理性だけでは理解できないけれども啓示によって信じるべきことがら」(神秘)を意味するようになり、一方サクラメントゥムということばは、「目に見えない神の救いが実在することを示す目に見えるしるし」を強調する後として使われるようになりました。
 
 アイグステヌス(アウレリウス・アウグスティヌス(ラテン語: Aurelius Augustinus、354年11月13日 - 430年8月28日)あるいはアウグウティノは、古代キリスト教の神学者、哲学者、説教者。ラテン教父とよばれる一群の神学者たちの一人。キリスト教がローマ帝国によって公認され国教とされた時期を中心に活躍し、正統信仰の確立に貢献した教父であり、古代キリスト教世界のラテン語圏において多大な影響力をもつ理論家。)は、目に見える素材を「しるし」(signum)と呼び、それによって神の救いの恵みそのもの(res)が表され、これを成立させているのがキリストの秘跡制定の「ことば」(verbum)であると説明しています。このようにしてアウグスチヌス以来、秘跡は「目に見えない恵みの見えるしるし」と定義されるようになりました。
 
 実にイエス・キリストこそ秘跡そのものです。そしてキリストの人性は、人を聖とする働きを行う救いのサクラメントゥムです。このキリストの救いの働きは、教会の諸秘跡を通して現実のものとなります。そのため、イエス・キリストは神の救いの「原秘跡」とも呼ばれ、キリストの教会は、キリストの働きを伝え実現する「根源的秘跡」とも呼ばれます。
 
 「救いの普遍的秘跡」であるキリストの教会の働きは、ことばとしるしによってによって行われ、その中心が洗礼・堅信・聖体・ゆるし・病者の塗油・叙階・結婚という七つの秘跡です。これらの七つの秘跡は、知覚できることばとしるしを通して行われ、目に見えない恵みを人々に与えます。秘跡はキリストによって制定され、復活のキリストとの出会いをもたらし、聖霊の働きによって、それぞれ固有の恵みを信じる者に与えます。(略…) 秘跡とは、神の恵みの働きを現存させる、特定の「ことば」と「しるし」からなるキリストの教会のわざです。
 
 七つの教会の秘跡は三つのグループに分類されます。第一のグループは洗礼、堅信、聖体で、「入信の秘跡」とも呼ばれ、これらの秘跡は信仰生活に入っていくために受けなければならない秘跡です。すなわち人は洗礼によって神の子とされる聖霊を受けて教会の一員となり、堅信によってキリストの使徒として強められ、聖体によってキリストのいのちにあずかり、三位一体の神と深い交わりへと導かれます。
 
 第二のグループは、「いやしをもたらす秘跡」で、ゆるしの秘跡、と病者の塗油がこれに当たります。ゆるしの秘跡は受洗のとき以来犯した罪をゆるします。そして病者の塗油
は、病気によって危険な状態にある人を助け、励ます恵みをもたらします。
 
 第三のグループは「共同体への奉仕を目的とする秘跡」であり、叙階の秘跡と結婚の秘跡がこれに含まれます。叙階は役務としてキリストの祭司の務めを行う司教、司祭、および教会共同体の奉仕を行う助祭に任ずる秘跡です。また、結婚も男女が夫婦として互いに仕え合い、社会や教会の土台となる家庭を築いていく恵みを与える秘跡です。
 
 また、これらの七つの秘跡は、聖体の秘跡を中心として互いに有機的なつながりを持ち、聖体は「秘跡の中の神秘」とも呼ばれています。それは「他のすべての秘跡は聖体の秘跡を目的として、秩序づけられている」(トマス・アクィナス『神学大全』)からです。
(以上、カトリック教会の教え 第二部 典礼と秘跡 第二節 教会の典礼と秘跡 中央協議会 P174〜176 七つの秘跡 参照)
 
 では、次回からこれら「教会の七つの秘跡」を一つずつ詳しく見ていきたいと思います。
 
 3     「信仰の継承」 2017/06/12(月) 
 皆さん、今年度最後のFacebookによる教会学校です。今回は、「信仰の継承」について考えたいと思います。
 
 まず、「信仰」とは何でしょうか?辞書を引きますと、「他人が言っていることを理解できると思い、相手が真実を忠実に伝えていると信頼して、他人の言葉を受け入れること。すべての信仰の基本的動機は話しての権威(または信じるに値する権威)である。この権威とは、話し手が話す内容について正しい知識を持っていること、話し手が、他人を欺くことを欲していないという誠実さである。信じる相手が神である場合には神への信仰であり、相手が人である場合には信用である。(語源はラテン語fides『信仰、信仰の修正、信仰の対象』)」とあります。
 
 聖書の中に「信仰」とは何かをあらわす箇所を探してみることにしましょう。まず、初期ユダヤ教、旧約聖書における信仰についてみると、信仰の概念は神に対する人間の態度つまり神への応答であって、神に対する従順と信頼がテーマとされています。(創世記 15:6、イザヤ書 7:9)。初期ユダヤ教において、信仰の典型あるいは最も古典的な例として扱われているのは信仰の模範としてのアブラハムと神との関係であるといえるでしょう(創世記 12:1-25:18)。
 
 特に、神の招きに従いカルディアのウルから約束の地に向かい、民族の繁栄の象徴である神が約束されたサラとの子イサクが、なかなか授からなかったにもかかわらず、神を信頼しながら待ち続け、ようやくイサクが誕生します。しかし、今度はそのイサクを神に捧げよとの神の求めに、アブラハムは苦闘しながらも神への従順を示します。このアブラハムの信仰は壮絶ともいえるほどのもので、わたしたち信仰者の模範でもあります。このようなアブラハムの信仰から、アブラハムは「信仰の人」と呼ばれています。
 
 また、信仰は「神の民の命の基礎」(イザヤ書 7:9)、とされ、神に対する従順と信頼が真のアブラハムの子孫としての証しであった(シラ 44:19-23)。信仰によって、民は救いと霊魂の不滅が約束されている(知 15:3)、とされました。
 
 新約聖書においては、イエス・キリストが信仰の対象として示されました。イエス・キリストは、人間の神に対する背信行為による罪を贖うために十字架にかけられ(受難)、復活されることにより神の意志を完全に示されたのです。この十字架の福音に示される神の真実、神の愛にまったき信頼をなすことが宣言され、それを受け入れることが信仰とされています。(使徒2:36、4:4、8:12)
 
 また、パウロは「信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まる」(ロマ10:17)、そして罪人は「信仰によって義とされる」(ロマ5:1、ガラ2:16)と言い、パウロの手紙はこのキリスト信仰を中心に、信仰のあり方について展開されています。また、信仰と告白については、ロマ10:8-13に記されており、ヘブ11章は「信仰音は、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認すること」であるとし(11:1)、終末の時を待ち望む信仰の証人として、旧約の群像を描いています。
 
 共観福音書においては、「信仰」や「信仰する」という語はギリシャ語でそれぞれ「pistis」「pisteuein」という語で表現されており、これら信仰を表す語は旧約聖書においてよりも頻繁に用いられています。 信仰は奇跡を起こす(マタイ 17:20、21:21、ルカ 17:6)、とされ、信仰は、神の子、あるいはメシアとして、イエスが神との特別な関係にあると信じること(マルコ 1:24、3:11、15:32、マタイ 8:29、14:33、ルカ 4:41)とされています。 イエスの十字架上の死と復活の後、「救世主イエス」「神の子イエス」に対する信仰は、イエスの弟子たちにより展開・確定し、原始キリスト教共同体の信仰の核となっていったのです。
信仰そのものは、言うまでもなく目には見えないものですが、行動として表していくことができるものです。人の行いは多くの人に影響を与え、時にはそれらの人々の生き方を変えるばかりか、その人自身の生き方をも変えるものです。そのような真実な生き方は、後世の人々に受け継がれ引き継がれていくものです。また、信仰とは神と人との個人的な関係や神の慈しみ深い愛に信頼して、自らの人生を委ねることでしょう。しかし、わたしたち人間の個の力だけでは、それにも限りがありますし、信仰の継承となればなおさらではないでしょうか。この有限性を乗り越える力が、共同体と共に生きる信仰ではないかと思います。
 
 原始キリスト教以来から、イエス・キリストの行いと教え、そして教会共同体の信仰は、使徒たちとその弟子たちの宣教と殉教によって広められ、その後は教父たちの神学によって支えられ発展、確立されて現代に至っています。わたしたちキリスト者とその集いである教会共同体には、これまでの信仰をさらに豊かにすると共に、次世代に引き継いでいく使命があります。その使命を果たしていくためには、一人ひとりが自らの信仰を、それぞれの共同体の信徒と共に支え合い寄り添いながら育てていくことが求められています。
 
 若い信徒の皆さん、自分に与えられたいのちと人生を生き抜くことは、容易なことではありません。しかも生きる上での価値観が反乱し多様化した現代、特にキリスト者がマイノリティーである日本社会においては、なおさらのことです。しかし、日本の歴史を振り返ってみると、キリシタン時代の迫害を乗り越えてキリスト教信仰が継承されてきたという厳然たる事実があります。それはまさに、使徒たちの時代に厳しい迫害を乗り越えて宣べ伝えられていった信仰に重なるものです。
 
 現代の日本社会は、超少子高齢化によって教会共同体の信仰の継承が危ぶまれる声が多いように思います。しかし、そのようなときであるからこそ自己の信仰や教会共同体の信仰を、原点に返って見直すことができるときでもあると思うのです。わたしたち主イエス・キリストの福音は、人が真に幸せに生きる者となるための道へと導くものです。
 
 18世紀後半の産業革命以来、人類は物質的豊かさを求め功利主義による個人主義的な自己中心の価値観が支配するようになり、現代の日本社会も例外ではないと思います。そのようななか、先頃国連から幸福度についての国別の統計が報告されましたが、日本は150数カ国中51位でした。日本人の多くが日本は先進国であり、物質的に豊かな国であると考えつつも、幸福はあまり感じていないようです。また、日本の子供の6人に1人は貧困に喘いでいるという現実もあります。
 
 このような観点からも、物質的豊かさを求めることは富める者と貧しい者の二極化構造である格差社会を生み出しています。わたしたちは今、イエス・キリストへの信仰を再認識し、現代の厳しく難しい時代を、神が望む本来的人間の姿として、真に幸せに生きる者となるために信仰の継承を考えていく必要があるのではないかと思います。
 
 4     「聖書という本」 2017/06/12(月) 
 
 皆さん、私たちの信仰は主イエス・キリストが原点であることは言うまでもありません。では、わたしたちがそのイエス・キリストをどのように知ったのか、あるいは出会ったのかというと、「聖書という本」に他なりません。勿論、教会の伝承や教えもその一つでしょう。しかし、わたしたち現代のキリスト者は約2000年前に生きていたわけではありませんから、イエスの弟子達のように実際のイエスの行いや教えを「見て、聞いて、体験し、信じて、行った」わけではありません。わたしたちは「聞いて(読んで)、信じて、行う」ことが求められますし、イエスがトマスに語りかけたように、「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は幸いである。」を実践していかなければならないのです。
 
 とはいっても、パウロの書簡や福音書が書かれた原始キリスト教時代の多くのキリスト者も、生きた主イエスとの体験があったわけではなく、「聞いて(読んで)、信じて、行う」ことで信仰を培っていったわけですから、現代のキリスト者であるわたしたちと共通するところがあると言っていいでしょう。ですから、わたしたち現代のキリスト者の信仰の頼りも、「聖書という本」ということになり、この聖書をもとにキリスト教信仰は現代のわたしたちキリスト者に受け継がれてきたわけです。
 
 「聖書」は、大きく分けると旧約聖書と新約聖書に分かれますが、旧約聖書とはキリスト教からの理解による名称で、本来はユダヤ教の聖典です。ユダヤ教においては、トーラー、ネビイーム、ケトゥビームの頭文字、TNKに母音を付した「タナハ」と呼ばれ、ヘブライ語で「教え」という意味を持つ「モーセ五書」の律法(トーラー)、預言者を意味するネビイーム、そして諸書であるケトゥビームをその内容としています。
 
 新約聖書は27の書からなり、おもにイエス・キリストの行いと教えを記した四つの「福音書(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ、このうち前者の三つは共通資料を用いて書かれたので共感福音書と呼ばれています。)」と、弟子たちの宣教を記した「使徒言行録」、パウロなどの使徒や弟子たちによって教会共同体に当てられた「書簡(ローマの信徒への手紙、
コリントの信徒への手紙一、コリントの信徒への手紙二、ガラテヤの信徒への手紙、エフェソの信徒への手紙、フィリピの信徒への手紙、コロサイの信徒への手紙、テサロニケの信徒への手紙一、テサロニケの信徒への手紙二、牧会書簡(基本的に牧会、すなわち教会の組織化や信徒の導き方に関心が寄せられていることからその名がある。)といわれるテモテへの手紙一、テモテへの手紙二 、テトスへの手紙とフィレモンへの手紙、ヘブライ人への手紙、公同書簡(特定の共同体や個人にあてられたものではなく、より広い対象にあてて書かれた書簡という意味である。)と呼ばれるヤコブの手紙 、ペトロの手紙一 、ペトロの手紙二、ヨハネの手紙一、ヨハネの手紙二、ヨハネの手紙三、ユダの手紙)」、そして「ヨハネの黙示録」から成っています。
 
 こうしてみますと、旧約聖書はユダヤ民族の救済とイスラエル統一国家の独立と繁栄が唯一絶対神であるヤーウェ(YHWH)信仰によって、いかにもたらされるのかをTNKに「タナハ」によって教え導くものであるといえるでしょう。そして、新約聖書は旧約聖書を背景として、イエスの福音がその受難と死および復活によって完成され、そのイエスへの信仰(父と子と聖霊の交わり)によって、人間は真に生きる者となるというメッセージだと思います。
 
 ですから、「聖書という本」は、あくまでも聖書記者たちが聖霊の働きと霊感によって、信じる者に向けて記された書物であるということです。確かに、聖書はいろいろな読み方(文学として、あるいは歴史書としてなど)があると思いますが、記されたその本来の目的をしっかり捉えなければ、真意を読み誤ってしまう恐れがあります。これは、とても重要なことです。聖書を読むことは、わたしたちの信仰を育てるために、とても大切ですし不可欠なことですが、ただ読むだけでは不十分です。旧約聖書のほとんどはヘブライ語でかかれ、新約聖書はギリシア語で書かれましたから、それを日本語で翻訳されることでの言葉の障害もあります。ミサの際の司祭の説教をよく聞いたり、教会の聖書研究(朗読)会に参加し、司祭のカテキズムを受けることや聖書の解説書を傍らに読み解いていく必要がどうしてもあります。
 
 本棚に置かれたままの聖書は意味がありません。そこに記された「いのちの言葉(福音)」を読み解いて引き出し起こしてこそ、復活し現存するイエスとの出会いを体験(復活体験)
して、はじめて信じる者となり得るのではないでしょうか。
 
 なお余談ですが、英語の「聖書=BIBLE」の語源は「ビブル」は、たくさんの本「ビブリア」の複数形です。もともとはパピルスを意味する「ビブロス」からきていますが、この「ビブロス」とは、もともと古代フェニキアの町の名前で(現レバノン)、長い間エジプトの支配下にあり、当地の港からエジプトへレバノン杉材が輸出され、その代価としてパピルスなどが輸入されていました。さらに、そのパピルスがこの都市を経由してギリシャなどに運ばれていたので、古代ギリシャではパピルスは原産地のエジプトではなく、積出港のビブロスとして知られ、やがてパピルスを意味する「ビブロス」から「ビブリオン」・「ビブリア」(本)という言葉ができ、さらに「ビブル」(聖書)が生まれたとのことです。
 
 5     「聖書における奇跡物語をどう読むか」 2017/03/05(日) 
青森市内Facebookによる教会学校 第9回 「聖書における奇跡物語をどう読むか」より
 
 さて、現代のキリスト者にとっての信仰は「聖書」に記されている出来事が原点であることは言うまでもありません。そこでキリスト者であろうがなかろうが、聖書を読むものにとって不可解な記述が「奇跡物語」です。今回は、この「奇跡物語」をどう読めば良いのかについてお話ししたいと思います。
 
 一般に「奇跡」とは普段は起こりえない人間の常識、あるいは現代人にとっては科学的にはあり得ない出来事です。ですから、わたしたち、あるいは当時の人々にとっても信じがたい奇跡の出来事は、驚きと共につまずきともなり得る出来事でしょう。
 
 しかし、ここでまず受け止めなければならないことがあります。それは、「聖書」という書物がどのような本であるのか?ということです。以前にも触れましたが、「聖書」とは、歴史的事実を書き記した歴史書でもなければ文学的な書物ではなく、あくまでも信じる者のために、一定の目的や共同体のために記された「信仰の書」であるということです。ですから、「聖書」を読む場合にはどうしても信仰(信じること)を前提に、聖書に記された出来事(事実)に込められた信仰的な意味を読み解く必要性があります。そうでなければ、聖書に記された出来事、特に「奇跡物語」は単に非科学的で非常識な出来事で終わってしまいます。
 
 では、「奇跡物語」が架空のもので何かを指し示すものだけの作り話かというとそうでもなさそうです。もし「奇跡物語」を新約聖書から削除してしまえば三分の一は消滅してしまうそうです。つまり、聖書における「奇跡物語」は実際に起きた出来事であると受け止める必要性も出てきます。ですが、上述したとおり「奇跡物語」は実際に起きた現象以上に、「信仰的な意味を指し示すしるし」であるということです。ですから、奇跡自体はしるしに過ぎませんが、そこに込められた信仰的意味を理解して初めて、聖書の記者たちが「奇跡物語」を記したのかの目的や意義を見出せるのです。聖書記者たちは、現象としての奇跡以上にそこに込められた信仰的意味を強調したかったのです。
 
 ということは、科学的根拠や証明を根拠としなければ信じない傾向にあるわたしたち現代人は、「奇跡物語」が実際にあったのかどうかというところにばかり目を奪われ、その現象(しるし)に込められた宗教的意味を受け取れないのならば、「聖書」が指し示す目的を捉えることができないという結果になってしますのです。
 
 また、奇跡そのものを見た者が、イエスの福音を信じて受け入れ、イエスのように行い教えることができるようになるのでしょうか?その答えは、「いいえ」だと思います。なぜならば、イエスの弟子たちはイエスと共に生活し、イエスの数々の奇跡を目の当たりにしながら、イエスの復活体験をするまでは本当の意味でイエスを悟ることができなかったということにあります。もし、数々のイエスが行った奇跡が弟子たちにイエスは神の子救い主であり、イエスの宣べ伝える福音を信じさせるものであったとしたならば、イエスの受難と死が、彼らを恐れさせ逃亡させるに至らなかったのではないでしょうか。つまり、奇跡そのものは弟子たちにとってイエスを信じて悟り、福音を宣べ伝える者とすることはできず、イエスにつまずいたのです。イエスといつも共にいた弟子たちですら、奇跡というしるしが指し示す真意を捉えることはできなかったということです。
 
 いずれにしても、わたしたちも弟子たちのように復活したイエスとの体験をしない限り、真のキリスト者にはなれないのかも知れませんね!
 なお、以下に東京教区司祭の雨宮慧神父さまの「なぜ聖書は奇跡物語を語るのか(教友社)」の一節を紹介しますので、参考にして下さい。
 
 科学的な常識的からいえば奇跡物語は確かにお笑いごとだといえます。しかし、福音書は意図があって奇跡物語を報告しているのです。それは何度も繰り返したように、イエスの神性を証明することではありません、新約の時代、奇跡を行う超能力者は多数いたはずですから、奇跡は珍しいことではなかったでしょうし、奇跡を行ったからといって即座に神として認められるわけでもないのです。マルコ福音書では奇跡はイエスの教えと結びつけられて理解されます。旧約聖書で民を導き養うと約束していたあの神がイエスとなってわたしたちの間に住んだ−それを主張したくて「共食の奇跡」や「湖の上を歩くイエス」の話が語られました。癒やしの奇跡にしても、悪例追放の奇跡にしても、「神の国は近づいた、悔い改めて福音を信じなさい」というイエスの教えと結びつけられて語られていきます。
 
 多くの人が「奇跡を信じられない」と言うのを耳にします。しかし、奇跡を信じられないと言うとき、何が意味されているのでしょうか。人間がパンを増やしたり、湖の上を歩いたり、病人を治したり、悪例を追い出したり、そんな出来事が起こりえようはずがない。科学的常識を逸脱していて、とても信じる気にもなれない。そんな意味で「奇跡は信じられない」と言われているように思います。しかし、今までに述べたことから分かっていただけると思いますが、奇跡を信じるということは、科学的な常識を逸脱した出来事が実際に起こったのだ、と無理をしてでも信じ込むというのではありません。そうではなく、科学的常識を逸脱した−そう見るのは私たち現代人であって、古代の人は必ずしもそう考えてはいません。そのずれが奇跡の問題を複雑にしているのですが−出来事によって指し示されたしるしを信じるのです。
 
 最後に、ルカ福音書7章21−23節の言葉で締めくくりたいと思います。
 
 そのとき、イエスは病気や煩いや悪例に悩んでいる多くの人をいやし、また大勢の目の見えない人を見えるようにしておられたが、二人に答えて、「行って、あなた方が見たり聞いたりしたことを、ヨハネに告げなさい。目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、らい病の人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げられている。わたしにつまずかない者は幸いである。」と仰せになった。
 
 「奇跡物語」を読み解くには、信仰の眼差しで信じることが求められますね。
 

Last updated: 2017/6/12
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