洗礼は、入信の秘跡である洗礼・堅信・聖体のひとつです。人はまず、洗礼によって父である神の子となります。
洗礼のときには、水がしるしとして用いられます。
水は人間の日常生活と生命維持のために不可欠なものです。水はまた、体の汚れを清めるためにも用いられますが、
洗礼は単なる「いのち」や「清め」ということばではとうてい言い尽くすことのできない豊かな神の恵みをもたらす秘跡です。
旧約時代に起こったノアの洪水は、洗礼による救いを示すしるしでしたし、また、特にイスラエルの人々がモーセをとおして、神によって紅海を渡ってエジプトから解放されたことは、洗礼による救いの前表となりました。
さらに新約時代においては、時が満ちてイエス・キリストは宣教活動を開始するに当たって、まず洗礼者ヨハネから洗礼を受けました。そのとき聖霊がキリストの上に降り、新しい創造の時が到来したことをあかしました。
キリストはまた受難を自分の受けるべき洗礼とも言っておられました。十字架に上げられたこのキリストのわきから流れ出た血と水は、新しいいのちの秘跡である洗礼と聖体を象徴しているといわれます。キリストはその死と復活により、洗礼を通して、わたしたちに復活の新しいいのちをもたらしました。
洗礼はキリストの死と復活という過ぎ越の神秘にあずかることであり、死からいのちへ移されることです。このことをよく表しているのは、復活徹夜際のミサのときに読まれる以下のパウロのローマの信徒への手紙です。
「あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストとともに葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活されたように、わたしたちもまた新しいいのちに生きるためです。」
「洗礼を授ける」というギリシア語の原語baptizeinは「沈める」「浸す」を意味しています。洗礼を受けると言うことは、キリストの十字架にあずかるということ、キリストの死に結ばれて葬られることを意味します。洗礼は、古い人が水の中に沈められ、新しい人になるっことを意味しているのです。洗礼を受けるものは新しい人として生まれ変わり、復活のいのちにあずかるものとなるからです。
洗礼は、人を新しい人間に生まれ変わらせ、義とし、神のいのちにあずかる者とする恵みを与えます。洗礼を受けた者はキリストの体の肢体、また教会の一員となり、「選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民」とされ、キリストの祭司職にあずかる者とされます。
また、洗礼の恵みはすべての罪と罰のゆるし、すなわち原罪と自罪およびその罰のゆるしをもたらします。しかし罪がゆるされても罪への傾きや誘惑への弱さは残ります。
ですから、教会の七つの秘跡の恵みを自らの意思で積極的に受けながら、教会共同体のメンバーと共に助け合い強め合いながら、信仰生活を日々の生活の柱として生きていくことが大切だと思います。
ここで幼児洗礼についても触れておきます。教会学校を通して成長してきた方々の多くは幼児洗礼だったのではないでしょうか?教会では俗にこれらの人をBone Christian(ボンクリ)と呼ぶことがありますね!
すべての人は原罪のために神との親しさを失った状態で生まれてきます。ですから幼児も、洗礼によって新しいいのちへと生まれるよう招かれています。幼児に洗礼を授ける週間は、初代教会にさかのぼります。教会は今日まで、幼児に洗礼を授ける習慣は正しい信仰に基づくことを主張してきました。「救いに必要な洗礼は、神の先行的な愛のしるしであり、また、それを与える手段である。洗礼によって、我々は原罪から解放され、神の生命にあずかる者とされる。このように洗礼自体を考えても、これらの祝福のたまものを幼児に与えるのを遅らせてはならない」(教皇庁教理省『幼児洗礼に関する訓令』28)と教会は教えています。
また、マタイ福音書7:9〜11に「あなた方のだれか、パンをほしがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。まして、あなた方の天の父は、求める者に良いものをくださるにちがいない。」とあるように、幼児洗礼を授けられた皆さんの親御さんは、あなたがたにとって良いものであると確信したからこそ、生まれて間もないあなたがたに洗礼を授けたにちがいないのです。
きっと幼児洗礼の方々には、成長過程の中で自分の意思で洗礼を受けたわけじゃないし、なんで毎日曜日にミサにあずからなくっちゃいけないんだ。と疑問を呈したり不平不満を言ったりした経験があることでしょう。しかし、洗礼は親の信仰を通して神様からの恵みを授けられたのだ。ということを忘れないでほしいと思います。
洗礼は信仰を前提としますが、幼児洗礼の場合は、教会共同体の信仰、とくに、両親と代父母が幼児の信仰教育に力を注ぐことを前提としています。幼児洗礼は、教会共同体の通して幼児に向けられる神の愛の招きです。幼児はやがてこの招きにこたえて、主体的に自分の信仰を生きるようになることが期待されています。ただし、牧者と両親あるいは関係者が諸般の事情を考慮し、洗礼の時期を遅らせることが賢明であるという司牧的判断をする可能性もあります。
幼児洗礼を受けた子供の信仰教育は、教会共同体の重大な責務です。教会は次代を担う子供たちの信仰を育成するために力を尽くさなければなりません。
一度有効に授けられた洗礼は、二度と繰り返すことはできません。洗礼によって霊魂に、見えない霊印(カラクテル)が刻みつけられます。神はこの霊印を通して、キリスト者が生涯その使命を果たすよう促し働きかけるのです。
若者の皆さん、自分が洗礼を授けられた意味を深く考え、神があなたがたに望まれていることである使命を探し求めていってください。現代の教会も超少子高齢化によって信仰の継承が危ぶまれています。このFacebookによる教会学校が、皆さんの信仰教育の一助となることを、イエス・キリストをとおして父なる神に祈り願います。
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