3 「信者の教職員の皆様方へ」
カトリック学校にお勤めになる信者の教職員の皆さん、私たちキリスト者は、日本社会においてはもとより、カトリック学校においてすらマイノリティなであるという現実をお認めいただけると思います。しかし、このことを残念に思ったり、落胆や諦めなどの負の思考に換えてはいけません。むしろ、福音宣教の場が、あちらこちら至る所にあるということを忘れず、喜びとしなければならないのです。何と言っても私たちの最大の信徒使徒職は福音宣教にあるのですから、その場が、目の前に提供されているということは幸いなことなのです。
そこで、皆様方にお一つご質問があります。日曜日のごミサとは限らず、教会へは行かれていますか。そして、それぞれの小教区でどのような役割を担われていらっしゃいますか。既婚者でお子さんをお持ちの方は、自分たちの信仰を次世代に伝えるべく信仰教育をしっかりとなさっていらっしゃいますか。独身者の皆さんは、教会のこどもたちや中高生等の後輩の育成等に関わっていらっしゃいますか。つまり、それぞれの所属する小教区でまずは共同体内での福音宣教や信徒の交わりが実践されているかどうかという問いかけをいたします。
カトリック学校に勤める私たち信徒教職員が、どれほど小教区とのつながりを持っているのかということが、そのカトリック学校が、本来のキリストの共同体たる教会の一枝として機能しているかどうかにつながってくるのだと思います。昨今の教会は、信徒の高齢化が益々進み、聖職者や修道者、そしてこどもたちや若者が極端に少なくなってきています。教会という建物の維持・管理や毎日曜日のミサの運営さえもままならないほどです。教会にも少子高齢化の波が確かに押し寄せ、その渦中のただ中にいるのです。
しかし、このことにさえも、決して負の思考で対処するのではなく、そのことについて私たちは、何をどうしていくのかということを問われているのですから、その答えを出すべく聖職者や修道者の方々、そして私たち信徒が共に考え、共に行動するよう努めなければなりません。そして、そのことは、教会の衰退というよりはむしろ、教会の一致という機会をいただいているということではないでしょうか。共に集い、共に力を合わせなければ立ち行かないということを皆で乗り越えていく、というところに新たな教会の姿があるのだと思います。
さて、カトリック学校は、取りも直さずキリストの体たる教会の一枝です。教会とは、キリストの名によって集められたキリスト者の共同体そのものです。
マタイ福音書にこうあります。
『あなたたちによく言っておく。もしあなたたちのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つ にして願うならば、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださるであろう。二、三人がわた しの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。』
(マタイ18:19)
教会は、キリストの福音を述べ伝えるという使命(マルコによる福音書16:15、マタイ28:16〜20)担っているのですから、カトリック学校の使命もまた、「教育を通してキリストを証する。教育を通して神の愛をあらわす。」ことに他ならず、カトリック学校の教育ミッションの真髄もそこにあるということになるわけです。
(新約聖書およびカトリック要理「一、聖、公、使徒継承である教会(宣教の任務)」より)
そうです。私たちカトリック信徒が、信徒としての本来的つながりである教会との関わりを忘れたり、希薄であったりしたのでは、私たちの福音宣教の場であるカトリック学校でどんな実践ができるというのでしょうか。ですから、私たちキリスト者である聖職者や修道者そして信徒間同士の関わりやつながりがどのようであるかが問われるのです。良好な関係、交わりがなされているでしょうか。聖職者や修道者の方々とは一線を画して、棲み分けをしていませんか。聖職者や修道者が持つ召命に対する敬意や尊敬の念は、隔たりや境界をもたらすものではなく、親密な関係をつくる源であるべきです。何はともあれ、私たち信徒はキリストによって集められた者たち同士、一丸となっていることが大切なのです。そんなことは、学園の理事長や校長などの一部の聖職者や修道者に任せていればよいとお考えではありませんか。残念ながらそのような時代は終わったと言わざるを得ません。
確かに日本の教会やカトリック学校そして社会福祉施設をはじめとするカトリック関連の事業体は、多くの宣教者や聖職者そして修道者の方々の気概と、並々ならぬご尽力によって創立され、今日まで発展してまいりました。しかし、そういった時代は一区切りを迎えたのだと思います。それぞれの事業体の管理職から、聖職者や修道者の方々の名前が消え、信徒の方に引き継がれ、そしてカトリック信徒ではない方へと委ねられつつあります。もっとも、そのこと自体は、事業体の維持・管理および今後の発展のためには必要でやむを得ないことでしょう。しかし、あえていうならば、カトリック学校やその他の事業体が持つ本来的使命が果たせるのかということなのです。
きっと今という「時」は、前述の2「未信者の教職員の皆様方へ」でお話ししたとおり、『神は、未信者・信者の枠を越え、未信者の教職員の皆様方を遣っても、カトリック学校に聖霊の働きをもたらし、また神の御旨の成就のためにイエス・キリストの福音が皆様方をとおして宣べ伝えられるのです。』という「時」なのかも知れません。しかし、このままではやがては福音宣教という本来的目的を果たせなくなり、その目的を違うことにすり替えていってしまうことになるでしょう。
しかし、そんなことを嘆き悲しんではいられないのです。この現実を踏まえて何をしなくてはならないのかが問われているわけですから、私たち信者同士、聖職者も修道者も信徒も分け隔てなく、まずは集い、一致してキリスト者としての使命を果たさなくてはならないのです。「私たち信徒が集い」というところと「一致」するというところが重要なのです。そうすれば、そこにはキリストの共同体たる教会ができるからなのです。私たちが日々働く現場である学校に教会があるとは何と心強いことでしょうか。そこには私たちと一緒にいつもキリストが共にいるということなのですから、きっとそこでは、信者も未信者も、生徒も教師も何の分け隔てなく集える共同体ができあがることでしょう。
そのためにも、まずは共に集うということが必要とされます。一人ではだめです。主イエス・キリストがおっしゃったように「二、三人がわたしの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。」のですから、一人ではだめなのです。二、三人が共に集い分かち合うことが必要なのです。私たちは生身の人間ですから、他者との良好な人間関係を築くことが求められます。そのために、未信者の方々ともうまくやっていくことも必要となります。いえ、むしろ私たち日本の社会では、そのことの方が圧倒的に多く求められます。そのあまり、信仰のない方々と迎合してしまい、キリスト者としての生き方を捨ててしまったり、隠してしまうことになってはいけません。
これは私たちキリスト者にとって厳しいことなのですが、マタイ福音書にこうあります。
「私よりも父や母を愛する人は私にふさわしくない。また、私よりも息子や娘を愛する人は私にふさわしくない。また、自分の十字架をになってわたしの後に従ってこない人は、私にふさわしくない。自分の命を保とうとする人はそれを失い、私のために命を失う人は、それを得るであろう。」
(マタイ10:37〜39)
このように、私たちには、キリストに付き従うことを求められています。しかも、自分の十字架をになってとあるわけですから、私たちのそれぞれが、それぞれの分に応じて使徒職を果たすことが求められているのです。そして、特に私たちキリスト者に求められていることは次の福音書が宣べ伝えていることだと思います。
「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
私たちキリスト者には、「時のしるし」を見分け、神が望まれていることを察知して、キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行うことが求められているのだと思います。
イエス・キリストによって招かれ集うたキリスト者の教職員の皆さん、次のことを述べて結びに致したいと思います。
私たちキリスト者には、キリスト者としての生き方、在り方、生活の仕方があると思います。一言で言うならば「信仰」ということなのだと思いますが、主イエス・キリストがそうであったように彼は、あえて弟子を必要とし福音を宣べ伝えたのです。おそらく、あえてだったのではないでしょうか。神は全知全能なのですから、ただ単に福音を宣べ伝えさすればよかったのであれば、漁師や徴税人などの平凡な人々より、教養豊かで弁舌に長けた人々を選ぶばかりか、弟子などという者は必要としなかったことでしょう。しかし、そこに平凡で決して賢いとは言えない人々を弟子と選び、福音を述べ伝える者とした、というところに神の御業があるのだと思います。
このような点で私たちカトリック学校に奉職する信者の教職員もキリストの福音を述べ伝える者として遣わされた者たちなのではないでしょうか。
どうぞ、それぞれの職場で聖職者や修道者および信徒の教職員がいらっしゃるのであれば、共に集い、共に考え、共に行おうではありませんか。きっとそこには、だれかれも分け隔てなく集うことができる教会が築かれ、私たちといつも共にいて下さるキリストと一緒に働く場となっていることでしょう。
アーメン。
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