「裁いてはならない。そうすればあなた方も裁かれるであろう。人を罪に定めてはならない。そうすれば、あなたがたも罪に定められないであろう。ゆるしなさい。そうすればあなたがたもゆるされるであろう。与えなさい。そうすれば、あなたがたも与えられる。押し入れ、揺さぶり、こぼれるほどますの量りをよくして、あなた方のふところに入れてくださるであろう。あなたがたが計るそのますで、あなたがたも量りかえされるからである。
(ルカ6:37〜38)

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カトリック教育 Catholic Education

『時のしるし』を見きわめ、主の道を歩もう。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
 
わたしたちもキリストにおいて一つの体であり、一人びとり互いにキリストの一部分なのです。わたしたちは与えられた恵みに従って、異なった賜を持っているので、それが預言の賜であれば信仰に応じて預言をし、奉仕の賜であれば奉仕をし、また教える人は教え、励ます人は励まし、施しをする人は惜しみなく施し、つかさどる人は心を尽くしてつかさどり、慈善を行う人は快く行うべきです。
(ローマ12:5〜8)
 
カトリック教育とカトリック学校
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 49     『宗教講話の実践』 2007年7月21日(土) 
 カトリックやプロテスタント等の宗派を問わず、毎朝の礼拝や朝礼は、ミッションスクールにとっては、一日の始まりを祈りから始めるということ以上の意味があることは、言うまでもないことでしょう。それは、ミッションスクールとはすなわち、『使命』を与えられた学校であり、それがことさら、最も重要で成し遂げていかなければならない『福音宣教』に由来するからだと思います。
 
 イエス・キリストをとおして宣べ伝えられた神の『福音』を、どのように日々の教育活動の中で実践していくかは、勿論カトリック学校にとっては最重要事項ですし、昨今の少子化現象に伴う学校存続に係る競争原理に則った、学校マネージメントの中でも最も重要視されるカトリック学校としての差別的優位性やスキルにもつながることなのです。
 
 『福音宣教』をどんな形で、どんな場所で行おうとも、その源となるのは、イエス・キリストのみ言葉が記されている『聖書』であることは疑う余地のないところですが、『福音』そのものが、「神による救い」と「御国の到来」であるということを直接的に生徒に語ったとしても、なかなか伝わるはずがありませんし、たとえ「神による救い」や「御国の到来」がどのようなことなのかを神学的に説明したとしても、伝わるわけでもないでしょう。しかし、カトリック学校としての『使命』を果たさないのでは、その存在価値を自ら捨ててしまうようなものですから、なんとかして生徒の皆さんに伝えていかなければなりません。そこで、現校長によって発案されたのが宗教指導部という分掌とその業務の一環として実践している『宗教講話』なのです。
 
 『宗教講話』とは、毎日の朝礼時に「聖書朗読」と「主の祈り」の後に、朝礼講話があるのですが、本校ではこの朝礼講話を学校長、教頭および一般教員が担当し、その他に毎月、火曜日と木曜日に三回程度を目処に計画され、宗教指導部のメンバーが交代で担当するというものです。
 
 『宗教講話』の内容は、原則として、その日、その週、その月の聖書の朗読カ所や教会の典礼や学校の宗教行事に関することを基本としながら、担当者が決めることになっているのですが、このテーマ設定にも結構、思案を要しますし、話の素材集めにも聖書を紐解くことから始め、さまざまな文献を集めたり、インターネットで検索したりと、難儀することも少なくないのです。そして、『宗教講話』で大事にしていることは、その対象が生徒達であることから、なるべく安易な言葉や表現で分かりやすく話すか、あるいはその逆に、イエス様のたとえ話に倣って、聞く者に何を伝えんとしているのだろうかと疑問を持たせながらも、その意図するところを探求しようとする求道心を掻き立てさせられるような手法をとることです。
 
 結論を申し上げれば、本校における『宗教講話』とは、宗教行事の実践の一環ですから、『福音宣教』につながることが望ましく、話し手としても『福音』を十分に理解しておくことが求められます。イエス・キリストをとおして宣べ伝えられた神の『福音』とは、「私たち人間の一人ひとりが神によって望まれて生まれてきた、尊く愛されている存在で、だから神は、私たち人間といつも共にいて下さっているのだ。」ということと、「私たち人間が、主キリストに聞き従い、いつも神さまとつながっているのならば、永遠に生きる。」ということなのですから、私たちは、主イエス・キリストの言われたとおり、『福音宣教』は、分け隔てなく全て者のために行い、一人でも多くの生徒に『聖書のみ言葉』をとおして、神の『福音』に気付いてもらうことが大切ではないかと思っております。この『宗教講話』の実践によって、生徒一人ひとりがイエス・キリストをとおして述べられた『福音』の恵みに与る一助となればとの願いを祈りに込めながら、今日も『宗教講話』の作成に悪戦苦闘しています。
 
カトリック学校宗教教育交流誌「そよかぜ」2007年6月号掲載
 50     『宗教心の必要性』 2006年3月28日(火) 
宗教心の必要性
 
 「色即是空 空即是色」4〜5世紀にかけて、活躍した中国南北朝時代の訳経僧、鳩摩羅什(クマーラージーヴァ)が、中国の人々に釈迦の思想を広めるため、梵語の韻を大切にしながらいかに漢字で釈迦の教えの真髄を伝えるかに尽力した高僧である。彼が漢訳した三十五部を越える教典のほとんどが日本に伝えられている。そんな偉業を成し遂げた鳩摩羅什の原動力は、破戒僧としての罪の意識ではなかったかと思う。「色即是空空即是色」に、そんな彼の人生のすべてが感じ取れる。「この世のすべてのものは移ろい、固定的な実態はない。そして、その移ろう現実=色にこそ、空という真実を見いだすことができる」との解釈である。
 
 古代中国紀元前6〜5世紀に「仁」の思想を展開した孔子の弟子である孟子や荀子は、人間の本性をそれぞれ「性善説」と「性悪説」をもって著したが、これらの説は往々にして誤って解釈されがちである。その真意は、いずれも人間の本性は生まれながらにして善であるとか悪であるといっているのではなく、「性善説」は、人間は善となりうる萌芽をもっているからそれを養い育てなければならないというもの、そして、「性悪説」は人間は悪に走る性向があるのでそれを戒めなければならないというものなのであり、人間の二面性を説くものなのである。
 
 「共命鳥(グミョウチョウ)」という仏教の教えを伝えるための、一つの体に頭が二つあるという想像上の鳥の話がある。一つの体に、二つの頭があり、一方は昼(光)を支配し、もう一方は夜(闇)を支配する。闇の頭は光を嫌い、昼の頭に毒を飲ませるが、やがて一つの体であるこの鳥は、闇の方にも毒が回って両者とも死んでしまうというお話である。このたとえにも、人間の本質を突く仏教の教えが貫いている。
 
 キリスト教の人間観は「原罪」の思想に集約できる。つまり、人間は罪を犯してしまう弱さをもつ存在であり、それ故にその罪からの解放無くしては生きてはいけないというのである。罪からの解放は神によってのみ実現するが、それは取りも直さず、イエス・キリストの十字架上の罪の贖いと復活に与ることによって成就するというものなのである。そこにキリスト教の愛と赦しの宗教という所以がある。
 
 わたしたちは、人生を生きていく上で、現象としては不幸なことに、度々ままならないことに出くわす。それを仏教では「苦」といい、キリスト教では「苦しみ」と捉える。
 
 仏教では「苦」から解き放たれた世界、涅槃寂静=極楽浄土(鳩摩羅什の訳)を説き、キリスト教においてはイエス・キリストによる神の福音である赦しと復活、そして神の御国の到来を説いている。
 
 いろいろな意味で世知辛い昨今、わたしたちが生きる社会に欠如した宗教心が、様々な社会病理を蔓延させてはいないだろうか。それらの一つ一つがわたしたちに何かを問いかけている。そんな意味においても、わたしたちミッションスクールの果たす役割は大きい…。
 
2006年3月28日(火)マーテルアルマ10号より
 51     『カトリック学校の福音的課題』 (2006年3月20日のblogより) 2006年3月20日(月) 
 カトリック学校の福音的課題は、カトリック学校の定義付け自体が明確にもかかわらず、非常に多くの要素を網羅しているという点である。それは、キリストが宣べ伝えた福音が何であるのかということを明らかにすることよりも、それを現実の社会の中で実践し展開していくことの難しさからなのか、あるいは人ひとりの力があまりにも微小だからなのか、あるいはそれなのに二人三人とつながり合い力を合わせるための共同体をつくることの難しさからなのか、とにかく口にしたり文字に表したりすることとは比較にならない程の困難さを覚えざるを得ないのである。
 
 しかし、そんな中でも私にとって、確実な一筋の明かりを見いだせることが一つある。それはイエス・キリストが虐げられた者・貧しい者・病んでいる者といわれた小さき者たちを救うために福音をもたらされたとおり、わたしたちカトリック学校も主イエス・キリストが行われたように社会的弱者に対して救いの手を差しのべているのかという基準である。
 
福音は、まず宣べ伝えることが第一とすれば、その福音を実践することが第二であると言えよう。そして第三は、その福音の実現つまりは神の国の到来が第三であり最終目的なのである。この最終目的であるイエス・キリストが宣べ伝えた福音の実現である神の国の到来と人間が織りなす現実社会との乖離が上げられる。その格差がもたらす困難さがもう一つの理由であると言えよう。しかし、その格差が大きければ大きいほど福音の必要性が求められるわけであるから、福音の実践または解放や救いの必要性がそこに見いだすことができるのである。
 
 では、学校社会における弱者とはどのような人々をいうのだろうか。それは第一には、何らかの理由からの精神疾患を原因とする不登校生が上げられるのではないかと思う。不登校の理由や症状は様々であることは、日々の教育活動に携わる教員であれば言わずとも知れていることであると思う。引きこもり・対人恐怖症・神経症・心身症・鬱病・神経衰弱・人間不信・情緒不安定・リストカット・自殺未遂など様々な症状を呈するが、その多くは家庭における親子関係や友人関係および自己認識に根本的な原因を探すことができるのではないかと思う。つまりは、優劣の区別ではないのであるが、健全で良好な人間関係を築くことができるかどうかが事の雌雄を決するようである。それだけ現代のこどもたちは、人間関係を学ぶ場を踏んできていないか、耐性を身に付けてきていないということなのであろう。
 
第二には、経済的困難に瀕している家庭の生徒に対する援助である。私立学校はどうしても公立学校に比較して学納金がかさんでしまう。経済的弱者がそれを理由に、経済力がないのであれば公立学校を選択するのが相当であるとして、カトリック学校の教育を受けることができないとするのであれば、それは教育の機会均等の平等に反すると言えよう。この問題を解決するのは修学金制度を充実させたり、特待制度を設けるなどして、児童・生徒・学生が学業に専念できる環境を整えることが重要である。
 
第三には、身体に障害を持つこどもたちに対する対処である。カトリック学校ですら障害者に対しては理解に薄いと言えないだろうか。本校は普通高校であるから、障害を持つこどもは養護学校へというのが日本社会の常識になっている。障害者を受け入れるにはそれなりの施設や担当教員を必要とし、学校経営を圧迫することは十分に理解できるが、やはりこのこともカトリック教育の機会均等という観点やバリアフリーあるいはノーマライゼーションという観点、そして何よりもキリストの福音という観点からすれば、推して知るべしであり今後カトリック学校として開拓すべき分野であるといえよう。
 
第四には、家庭環境に対する配慮である。母子家庭や父子家庭の増加により家庭における躾や教育力の低下が著しく、更には少子化による兄弟姉妹の不在や親子間のコミュニケーションの希薄化など、家庭が家庭としての機能を果たすことができなくなっていることによって、こどもたちが人間として健全に成長できないでいるのである。この外見上は何不自由なくというよりは、満たされ過ぎるほどに満たされている子どもたちが、実は救いを求め必要としている小さき者たちなのである。よって、校内に教育カウンセラーを常駐させたり、学校の家庭への働きかけを積極化させるなどして、こどもたちの健全で良好な心身の成長ができるよう、家庭をも含めたケアが求められるのではないかと考えている。そして、おそらくこのことが、日本の教育における最大で最重要な課題ではないかと感じているのである。
 
 52     『カトリック学校に勤める教職員の皆様方へ』−「3 信者の教職員の皆様へ」 2006年1月3日(火) 
 
3 「信者の教職員の皆様方へ」
 
 カトリック学校にお勤めになる信者の教職員の皆さん、私たちキリスト者は、日本社会においてはもとより、カトリック学校においてすらマイノリティなであるという現実をお認めいただけると思います。しかし、このことを残念に思ったり、落胆や諦めなどの負の思考に換えてはいけません。むしろ、福音宣教の場が、あちらこちら至る所にあるということを忘れず、喜びとしなければならないのです。何と言っても私たちの最大の信徒使徒職は福音宣教にあるのですから、その場が、目の前に提供されているということは幸いなことなのです。
 
 そこで、皆様方にお一つご質問があります。日曜日のごミサとは限らず、教会へは行かれていますか。そして、それぞれの小教区でどのような役割を担われていらっしゃいますか。既婚者でお子さんをお持ちの方は、自分たちの信仰を次世代に伝えるべく信仰教育をしっかりとなさっていらっしゃいますか。独身者の皆さんは、教会のこどもたちや中高生等の後輩の育成等に関わっていらっしゃいますか。つまり、それぞれの所属する小教区でまずは共同体内での福音宣教や信徒の交わりが実践されているかどうかという問いかけをいたします。
 
 カトリック学校に勤める私たち信徒教職員が、どれほど小教区とのつながりを持っているのかということが、そのカトリック学校が、本来のキリストの共同体たる教会の一枝として機能しているかどうかにつながってくるのだと思います。昨今の教会は、信徒の高齢化が益々進み、聖職者や修道者、そしてこどもたちや若者が極端に少なくなってきています。教会という建物の維持・管理や毎日曜日のミサの運営さえもままならないほどです。教会にも少子高齢化の波が確かに押し寄せ、その渦中のただ中にいるのです。
 
 しかし、このことにさえも、決して負の思考で対処するのではなく、そのことについて私たちは、何をどうしていくのかということを問われているのですから、その答えを出すべく聖職者や修道者の方々、そして私たち信徒が共に考え、共に行動するよう努めなければなりません。そして、そのことは、教会の衰退というよりはむしろ、教会の一致という機会をいただいているということではないでしょうか。共に集い、共に力を合わせなければ立ち行かないということを皆で乗り越えていく、というところに新たな教会の姿があるのだと思います。
さて、カトリック学校は、取りも直さずキリストの体たる教会の一枝です。教会とは、キリストの名によって集められたキリスト者の共同体そのものです。
 
 マタイ福音書にこうあります。
 
  『あなたたちによく言っておく。もしあなたたちのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つ にして願うならば、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださるであろう。二、三人がわた しの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。』
(マタイ18:19)
 
 教会は、キリストの福音を述べ伝えるという使命(マルコによる福音書16:15、マタイ28:16〜20)担っているのですから、カトリック学校の使命もまた、「教育を通してキリストを証する。教育を通して神の愛をあらわす。」ことに他ならず、カトリック学校の教育ミッションの真髄もそこにあるということになるわけです。
(新約聖書およびカトリック要理「一、聖、公、使徒継承である教会(宣教の任務)」より)
 
 そうです。私たちカトリック信徒が、信徒としての本来的つながりである教会との関わりを忘れたり、希薄であったりしたのでは、私たちの福音宣教の場であるカトリック学校でどんな実践ができるというのでしょうか。ですから、私たちキリスト者である聖職者や修道者そして信徒間同士の関わりやつながりがどのようであるかが問われるのです。良好な関係、交わりがなされているでしょうか。聖職者や修道者の方々とは一線を画して、棲み分けをしていませんか。聖職者や修道者が持つ召命に対する敬意や尊敬の念は、隔たりや境界をもたらすものではなく、親密な関係をつくる源であるべきです。何はともあれ、私たち信徒はキリストによって集められた者たち同士、一丸となっていることが大切なのです。そんなことは、学園の理事長や校長などの一部の聖職者や修道者に任せていればよいとお考えではありませんか。残念ながらそのような時代は終わったと言わざるを得ません。
 
 確かに日本の教会やカトリック学校そして社会福祉施設をはじめとするカトリック関連の事業体は、多くの宣教者や聖職者そして修道者の方々の気概と、並々ならぬご尽力によって創立され、今日まで発展してまいりました。しかし、そういった時代は一区切りを迎えたのだと思います。それぞれの事業体の管理職から、聖職者や修道者の方々の名前が消え、信徒の方に引き継がれ、そしてカトリック信徒ではない方へと委ねられつつあります。もっとも、そのこと自体は、事業体の維持・管理および今後の発展のためには必要でやむを得ないことでしょう。しかし、あえていうならば、カトリック学校やその他の事業体が持つ本来的使命が果たせるのかということなのです。
 
 きっと今という「時」は、前述の2「未信者の教職員の皆様方へ」でお話ししたとおり、『神は、未信者・信者の枠を越え、未信者の教職員の皆様方を遣っても、カトリック学校に聖霊の働きをもたらし、また神の御旨の成就のためにイエス・キリストの福音が皆様方をとおして宣べ伝えられるのです。』という「時」なのかも知れません。しかし、このままではやがては福音宣教という本来的目的を果たせなくなり、その目的を違うことにすり替えていってしまうことになるでしょう。
 
 しかし、そんなことを嘆き悲しんではいられないのです。この現実を踏まえて何をしなくてはならないのかが問われているわけですから、私たち信者同士、聖職者も修道者も信徒も分け隔てなく、まずは集い、一致してキリスト者としての使命を果たさなくてはならないのです。「私たち信徒が集い」というところと「一致」するというところが重要なのです。そうすれば、そこにはキリストの共同体たる教会ができるからなのです。私たちが日々働く現場である学校に教会があるとは何と心強いことでしょうか。そこには私たちと一緒にいつもキリストが共にいるということなのですから、きっとそこでは、信者も未信者も、生徒も教師も何の分け隔てなく集える共同体ができあがることでしょう。
 
 そのためにも、まずは共に集うということが必要とされます。一人ではだめです。主イエス・キリストがおっしゃったように「二、三人がわたしの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。」のですから、一人ではだめなのです。二、三人が共に集い分かち合うことが必要なのです。私たちは生身の人間ですから、他者との良好な人間関係を築くことが求められます。そのために、未信者の方々ともうまくやっていくことも必要となります。いえ、むしろ私たち日本の社会では、そのことの方が圧倒的に多く求められます。そのあまり、信仰のない方々と迎合してしまい、キリスト者としての生き方を捨ててしまったり、隠してしまうことになってはいけません。
 
 これは私たちキリスト者にとって厳しいことなのですが、マタイ福音書にこうあります。
 
「私よりも父や母を愛する人は私にふさわしくない。また、私よりも息子や娘を愛する人は私にふさわしくない。また、自分の十字架をになってわたしの後に従ってこない人は、私にふさわしくない。自分の命を保とうとする人はそれを失い、私のために命を失う人は、それを得るであろう。」
(マタイ10:37〜39)
 
このように、私たちには、キリストに付き従うことを求められています。しかも、自分の十字架をになってとあるわけですから、私たちのそれぞれが、それぞれの分に応じて使徒職を果たすことが求められているのです。そして、特に私たちキリスト者に求められていることは次の福音書が宣べ伝えていることだと思います。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
 
私たちキリスト者には、「時のしるし」を見分け、神が望まれていることを察知して、キリストのように考え、キリストのように話し、キリストのように行うことが求められているのだと思います。
 
 イエス・キリストによって招かれ集うたキリスト者の教職員の皆さん、次のことを述べて結びに致したいと思います。
 
 私たちキリスト者には、キリスト者としての生き方、在り方、生活の仕方があると思います。一言で言うならば「信仰」ということなのだと思いますが、主イエス・キリストがそうであったように彼は、あえて弟子を必要とし福音を宣べ伝えたのです。おそらく、あえてだったのではないでしょうか。神は全知全能なのですから、ただ単に福音を宣べ伝えさすればよかったのであれば、漁師や徴税人などの平凡な人々より、教養豊かで弁舌に長けた人々を選ぶばかりか、弟子などという者は必要としなかったことでしょう。しかし、そこに平凡で決して賢いとは言えない人々を弟子と選び、福音を述べ伝える者とした、というところに神の御業があるのだと思います。
 
このような点で私たちカトリック学校に奉職する信者の教職員もキリストの福音を述べ伝える者として遣わされた者たちなのではないでしょうか。
 
 どうぞ、それぞれの職場で聖職者や修道者および信徒の教職員がいらっしゃるのであれば、共に集い、共に考え、共に行おうではありませんか。きっとそこには、だれかれも分け隔てなく集うことができる教会が築かれ、私たちといつも共にいて下さるキリストと一緒に働く場となっていることでしょう。
アーメン
 53     『カトリック学校に勤める教職員の皆様方へ』−「2 未信者の教職員の皆様へ」 2006年1月3日(火) 
 
2 「未信者の教職員の皆様方へ」
 
 日本のカトリック学校は、その創立以来、皆様方のような未信者の方々に支えられてまいりましたが、おかげ様をもちまして日本におけるカトリック学校は、それぞれの地域社会に受け入れられ、多くの方々から一定の評価をいただくまでに成長してまいりました。そして、これからもカトリック学校が存続しつづけ発展していくためには、皆様方がお築きになった礎をもとに更なるお力添えをいただかなければならないでしょう。特に教育活動における教科指導や特別活動、学校経営に関する財務・施設の維持管理等々、すべての分野におきまして皆様方のご尽力をいただかなければならないのです。カトリック学校の将来は、今後とも未信者の教職員の皆様方のお力無くしては、あり得ないということをまずは申し上げ、その上で次のことがらを皆様方に宣べ伝えたいと思うのです。
 
 カトリック学校にとって最も重要なことは、それぞれの教育現場において、イエス・キリストの福音を宣べ伝えるという使命にもとづいて運営されているかどうかということです。それは、教育活動のみならず、学校経営に関わるすべての業務の中で、キリストの福音を宣べ伝えるということが求められます。ですから、カトリック学校で働くすべての教職員には、未信者・信者に関わらず、イエス・キリストの福音を実践するという使命が帯びてきます。ですから、私は未信者の方々に対しても次のことを憚らずにお伝えしなければならないのです。
 
 それは、まず一般常識ではありますが、職業人として職業選択の自由のもと、そしてなおかつ信教の自由が保障されているもとお勤めになった職場な訳ですから、その事業主の経営目的や方針に従う義務は当然のこと、経営の精神的支柱にしている宗教や建学の精神を理解するという二つの義務が発生します。前者の義務は、未信者・信者に関わらず果たすべき義務なのですが、後者の義務は未信者の教職員の方によっては抵抗を覚える方もいらっしゃるのかも知れません。しかし、そのようなことでは、カトリック学校の教職員としては相応しくないとはっきりと言わざるを得ません。
 
 おそらく、それぞれのカトリック学校では、未信者や新任の教職員の方々を対象に公教要理とまではいかないまでも、聖書を学ぶ研修会や建学の精神を理解するための研修会が実施されていることでしょう。どうぞそれらの研修会を大事にされてカトリック学校の教職員に求められる姿勢を養われ、カトリック学校の教職員として何を生徒たちに伝えなければならないのかということを学ばれていただきたいのです。そして、それらの姿勢を養い実践していくことで、カトリック学校がキリストの体である教会の一枝であることもご理解していっていただきたいのです。
 
 とかく、そして、特に教師にありがちな姿勢なのですが、自己の教育観に捕らわれ、自己主張をするに終始しがちな教職員が見受けられるようですが、個人の教育観はその個人の自由とするとしても、カトリック学校としての教育活動を実施していく上ではそのような態度は、障害以外の何ものでも無いことをご理解下さい。そして、そのような姿勢は教育機関に限られた特殊なあり方で、企業経営マネージメントの観点からは常識外のことなのです。勿論、個人の教育観とカトリック学校の教育観が合致するのであれば、幸いなことですし、それは問題外のことですが、むしろ未信者の教職員の皆様方は、カトリック学校の教育観に賛同されたからこそ、現在の職場を選ばれたことを私は疑いませんし、だからこそ、キリストの福音を学び共感していただき、それを日々の教育活動に生かし実践していただきたいのです。
 
 未信者の教職員の皆様、キリストの福音の宣べ伝え方には一つの原則があります。それは、決して強制することがないばかりか、決して直接的に宣べ伝えることもなかったということです。それは、十二人と一部の弟子たちには、福音のすべての意味を直接的にお話になったにも関わらず、人々には悟らせるように「たとえ話」でお話になったということです。
 
 そこで、みなさんもご存じの非常に有名な「種まきのたとえ話」の意味を考えてみましょう。
 
 「イエスは再び湖の畔で教え始めた。帯びただしい群衆が集まってきたので、イエスは湖上の船に乗り、座っておられた。群衆は皆湖に沿って陸地にいた。イエスはたとえ話をもって多くのことを教えられたが、その中でこう仰せになった。『聞きなさい。種をまく人が種をまきに出て行った。するとまいているうちに、あるものは道ばたに落ち、鳥が来てそれを食べてしまった。あるものは土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれを覆いふさいだので、実を結ばなかった。他のものは良い土地に落ち、伸びて大きくなり、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった』。そして、『聞く耳のあるものは聞きなさい』と言われた。
(マルコ4:1〜9)
 
 そして、マルコ福音書は、この記述の後に続いて「たとえ話」の目的を記します。
 
 「イエズスが一人になられると、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、これらのたとえ話について訪ねた。そこでイエスは彼らに仰せになった。『あなたたちには神の国の秘義が授けられるが、あなたたち以外の人々にはすべてがたとえ話で語られる。』それは、
 
   『彼らは見るには見るが認めないように、
    聞くには聞くが悟らないように、
    こうして改心してゆるされることのないように』
    とあるためである」。
(マルコ4:10〜12)
 
 さらに、同福音書は、この「種まきのたとえ話」の説明を記します。
 
 「また、弟子たちに仰せになった。『あなたたちはこのたとえ話が分からないのか。そんなことで、どうしてすべてのたとえ話が分かるだろうか。種をまく人はみことばをまくのである。みことばが蒔かれた道ばたのものとは、こうい」う人たちのことである。すなわち、みことばを聞くと、すぐにサタンが来て、彼らのうちにまかれたみことばを取り去ってします。岩地にまかれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、彼らには根がなく、一時的なもので、後になってみことばのために患難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また、いばらの中にまかれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、またその他のいろいろな欲望が、彼らのうちに入ってきて、みことばを覆いふさぎ、実を結ばない人たちのことである。また、良い土地にまかれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである』。
(マルコ4:13〜20)
 
 そして、「灯とますのたとえ話」・「種の生長のたとえ話」・「からし種のたとえ話」と続きます。
 
 「また弟子たちに仰せになった。『灯を持って来るのは、升の下や寝台の下に置くためであろうか。燭台の上に置くためではないか。まことに、隠されているものであらわにされないものはなく、また、秘密にされたもので、公にならないものはない。聞く耳があれば、聞きなさい』。
 また仰せになった。『注意して話を聞きなさい。あなたがたが量るそのますで、あなたがたにも量り与えられ、しかも、さらに増し加えられる。持っている人はさらに与えられ、持たない人は、持っているものまでも取り上げられる。』
 
 また、仰せになった。『神の国は人が土に種をまくようなものである。種をまく人が夜昼寝起きしているうちに、種は芽を出し成長する。しかし、種をまいた人はどうしてそうなるかを知らない。土は自ら働き、はじめに苗、次に穂、次ぎに穂の中に豊かな実を熟すと、種をまいた人はただちに鎌を入れる。借り入れの時が来たからである』
 
 また、仰せになった。『神の国を何になぞそらえようか。また、どんなたとえで言い表そうか。それは一粒のからし種のようなものである。からし種は土にまかれるときは、地上のどんな種よりも小さいが、まかれると、伸びてどんな野菜よりも大きくなり、そのかげに空の鳥が宿るほど大きな枝を張る』。
(マルコ4:21〜32)
 
 そして、福音書は「たとえ話」の結びにこう記すのです。
 
 「イエスは人々の聞く能力に応じて、このような多くのたとえ話をもって、みことばを語られ、たとえ話なしには語られなかった。しかし自分の弟子たちだけのときには、すべてのことを解き明かされた。」
(マルコ4:33〜34)
 
 勿論、このたとえ話は決して未信者の皆さんだけに当てはまることではありませんが、冒頭にもお話ししましたように、私は憚らずにお話しするのです。
 
 イエス・キリストの「たとえ話」に語られているように、私たちにはイエス・キリストの福音を受け入れ、実践することが常に求められています。カトリック学校に勤める教職員においては、なおさらのことなのです。イエス・キリストは私たちの日常の中で、日々私たちに問いかけているのです。未信者・信者に関わらずこの点については同じです。私たちは、「聞く耳」を持たなければならないのです。イエス・キリストの福音を受け入れ、実践することは、毎日の教育活動の範疇を越え、それぞれの皆様方に豊かな人生をもたらすこととなるでしょう。
 
 神は、未信者・信者の枠を越え、未信者の教職員の皆様方をも遣って、カトリック学校に聖霊の働きをもたらし、また神の御旨の成就のためにイエス・キリストの福音が皆様方をとおして宣べ伝えられるのです。このことだけは信じて疑うことのないようお願い申し上げます。
 
 結びに、私は未信者の教職員の皆様方へできる限り失礼のないように気を配り、言葉を選びお話ししたつもりですが、もしお気にさわる点がありましたら、くれぐれもお怒りにならぬようお許し下さい。これからも、カトリック学校を存続・発展させ、世の光、地の塩としていくためには、皆様方のお力が是が非でも必要なのです。どうぞこれからもともに手を取り合い、同じ目的に向かって主の道を歩んでいこうではありませんか。
 
 54     『カトリック学校に勤める教職員の皆様方へ』−「1 あいさつ」 2006年1月3日(火) 
 
『カトリック学校に勤める教職員の皆様方へ』
− 愛と信仰と希望のうちに親愛と友好の意を込めて −
 
1 「あいさつ」
 
+主の平安
 
 カトリック学校にお勤めになる教員・事務職員・技能技師・警備員、そして理事の方々の学校経営に関わるすべての皆様方へ。
 
 同じカトリック学校に奉職する同胞の者として、日頃から皆様方の教育活動に対する熱意と誠実な職務遂行に対して、深く感謝いたしますとともに敬意を表し、これからもカトリック教育に惜しみなく尽力することを声高らかに歓呼し、それぞれの教育現場においてイエス・キリストの教えと愛の実践に全力を上げて、創立者の建学の精神を気概を持って受け継ぎ、教育活動における自己に与えられた職務を全うしていくことを、互いに手を携えて目指していこうではありませんか。
 
 さて、皆様方はそれぞれの学校で多少の違いはあれど、現在のカトリック学校が学校経営をすすめていく中で、危機的状況にあるとお感じになりますか。それとも順風満帆、宣候ですか。もし何かしらの危惧をお感じになるとすれば、それは少子化という社会的要因を起源とする生徒数の減少が、財務上の学校経営の急迫と困難を招いているということでしょうか。あるいは、教育現場における聖職者や修道者およびカトリック信徒の極端な減少とキリスト者による管理職や教員の不在がもたらす、カトリック精神や創立者の建学の精神の継承の困難または、希薄ということでしょうか。または、その両者でしょうか。
 
 私は、このことについて次のことがらを、カトリック学校に勤める全ての教職員の皆様方へお願いしますとともに、問題提起を呼びかけたいと思うのです。問題提起にあたって、未信者の教職員の方々へと、信者の教職員の方々へとに分けてメッセージをお送りいたしますが、どうぞお気を悪くなさらないで下さい。特に未信者の教職員の皆様方は、「差別だ、偏見だ。」とおっしゃらないでください。どうぞお耳を閉ざさないでください。そして、信者の教職員の皆様方と理事の皆様方も「あなたは、どんな権威で、何の権利があってそのようなことを申すのか。」とおっしゃらないで下さい。皆様方がお考えのように、この私には特別な権威や権利があるというのではなく、皆様方と同じ信仰を持ち、イエス・キリストに従う者としお話し申し上げるのです。どうぞ耳を傾けていただき、まずはお聞いただきたいのです。そして、ともに考えともに働きたいのです。
 
 55     『女子教育の意義と必要性』 2005年12月9日(金) 
 
 時代を問わず女性に求められ、女性が果たす役割というものがあるものです。それは、神から与えられた女性という性的な特性やその時々の時代や文化等によってもたらされる性差異(ジェンダー)によるもので、女性のみが果たすこができ、女性が女性として生きていくための領域なのです。
 
 そこで、カトリック学校は古くから、この女性の特性を生かし育むことの意義と必要性を見いだして社会に貢献し、皆様方のご期待に応えることで信頼を頂いてまいりました。
 
 さて、女性は結婚することで男性とともに家庭を築き、子を宿し産み育てます。(新約聖書 マルコ10:7〜8 「それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる。だから二人はもはや別々でなく、一体である。」)そして、その乳飲み子は、母の柔らかな安らぎに抱かれ愛されることで愛を知り、他者に愛を与えていける人間となっていきます。女性は、母となることで、子に愛情を注ぎ、子をしつけ、事の善し悪しを教え、子に多くを学ばせ育てていきます。
 
 また、女性は社会の中にあって共に働く者として、良き助けてとなって人々に喜びと知恵と力を与え、きめ細やかな目で不足を補い、物事を完成に導いていきます。(旧約聖書 創世記2:18「主なる神は言われた。人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。中略 ついに、これこそ私の骨私の肉。これこそ女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)からとられた者だから。」)
 
 このような女性の特性は、全ての女性に備わっている萌芽であります。しかし、それはあくまでも芽(可能性)ですから、大切に養い育てる必要性があるのです。これは、女子教育のもっとも重要で必要不可欠なところなのです。
 
 良き社会は、良き女性によって造られると申します。現代社会における女性の役割は、家庭内のみならず、学校や地域社会、企業や政府そして世界へと広範囲にわたってきております。
 
 私たち青森明の星高等学校は、将来を担う女性の育成にこのような女子教育の持つ意義と必要性という教育ビジョンををはっきりと自覚しながら、責任を持ってあたっております。どうぞ今後とも、青森明の星高等学校の女子教育に対するご支援と共にご理解、ご協力のほどをお願い申し上げます。
 
青森明の星高等学校ホームページ
「女子教育の意義と必要性」より。
 56     『平和をもたらす人』 2005年12月9日(金) 
 
 聖書は、「平和」という言葉をキーワードに紐解くと、六十数カ所以上の記述を探せるほど、「平和」について数多くの教えを我々に伝えている。では、聖書における平和の概念とは何か。
 
 旧約・新約時代と、人々に一貫して共通していた生活環境とは何か。それは、流浪・混迷・戦争・繁栄・衰退・崩壊・被支配・迫害などによる人間の人間による「虐げ」にあるのではないか。「虐げ」とは、人の存在価値を認めず、「物(物質)」として、またはそれ以下の固有ではなく、不特定多数で無意味なただの「もの」として扱うことではあるまいか。本来、人間が共通して所有するはずの「人権」や、その「者」をその「者」たらしめる「人格」、また何よりも我々一人ひとりに与えられた個別の使命である「召命」、これらの否定は、その根拠の由来となる「神」そのものを否定することに他ならない。つまり、聖書が教える「平和」とは、神と人間の連続性の断続の歴史の中で、人間の人間による抑圧や支配による人間性の否定からの解放を意味する。特に、人間の神に対する姿勢が常に問われおり、その方向性が「平和」の如何を決定してきたのではないか。そのために、多くの預言者たちは、我々人間たちの神に対する方向性の軌道修正を主な使命とした。
 
 これらの観点において、イエス・キリストは、我々人間を神からの「者」として、本来的に生きるよう立ち返らせるために、自らの命をもって我々人間の罪を贖い、神の救いと平和のうちに永遠の命へと導いた方なのである。然るに「平和をもたらす人」の模範は、イエス・キリストをおいて外にはいない。
 
 では、我々カトリック学校は、キリストの福音を教育の中で宣べ伝えるという、他の教育機関にはない差別的使命を持つものであるから、「平和をもたらす人」の実践とその人材育成を日々の教育活動の中で実現していくことが求められる。そして、本校について言えば、県内でも希少な女子校であるから、女性としてのジェンダーを生かし、その教育を通してキリストの福音と「平和」を伝え、またそれを実践する人材の育成が、最大の福音的使命ということになるであろう。
 
 そこで本校の「平和」教育の実践例を紹介する。まず第一に、教科教育としての、総合的な学習における主題にみられる。それは、一つ目には、「女性学」、二つ目には、「環境」、三つ目には、「ボランティア」、そして、四つ目には「国際理解」であり、これらは、本校独自の教育プロファイルに基礎づけられ、一学年の「私(自己理解)」、二学年の「私の周り(他者理解)」、そして三学年の「私の生き方(生き方探求)」という弁証法的段階に従って展開されている。特に二学年における「国際理解」という主題の展開では、ユニセフと提携し、「発展途上国のこどもたちとその母親たちの現状」ということをテーマに、インターネットを利用したT・T授業を行っている。また、沖縄への修学旅行では、戦争体験講話や各戦場跡地での平和の祈りなどの実践がある。
 
 また、第二には、生徒会活動を中心とした災害や難民発生時の緊急援助の必要性に応えた街頭募金活動。また、各学年、HR単位に行われる学校周辺の清掃活動や老人ホーム等への慰問活動などの地域社会への貢献もあり、ボランティア活動は日常的に行われている。
 
 三つ目には、毎日の朝礼時に行われる「主の祈り」の実践。特に週末には、一定の意向を持って「聖母マリアへの祈り」が加えられる。さらに、この数年、国連平和デーに合わせて、アッシジの聖フランシスコの「平和を求める祈り」を唱え、世界平和を祈ることが加えられた。
 
 このように、本校の教育には、「平和」の重要性を伝え、その実践を目指すという教育目的が、一貫して息づいている。(これらの実践には、国連「国際平和デー」教育プログラム学校賞や国際ソロプチミスト社会ボランティア賞の受賞がある。)
 
 さて、「平和」という観点において、我々が暮らす現代社会が抱える問題はあまりにも多過ぎる。地球各地で繰り広げられる戦争・内戦・テロ・貧困・差別・人身売買、国内においても、殺人・幼児虐待・いじめ・自殺など、数多くの人間による人間の「虐げ」が横行し、蔓延っているではないか。旧約時代から数千年を経た現代においても未だ「平和」の実現の完成は見られていない。
 
 常に真実で唯一の教師であるイエス・キリストに倣って、我々カトリック学校の教育に携わる者が、「平和をもたらす人」の実践とその人材育成を、福音的使命とし気概を持って行うことが、神の「平和」の計画の成就に寄与することになる。
 
カトリック校宗教教育交流誌「そよかぜ」2004年掲載
 57     『カトリック学校の存在意義とその使命』 No.1 2005年12月9日(金) 
 
カトリック学校の存在意義は福音宣教に他ならない。
 
 キリスト者の共同体たる教会の使命が、キリストの教えを広めるという福音宣教にあるのであるから、カトリック学校も福音宣教を根本とする教会の一部であるから、カトリック学校の使命は、『教育活動を通してキリストの教えを述べ伝える。』という最も重要な使徒職である福音宣教にあると断言できる。
 
 教会とは、キリストの名によって集められたキリスト者の共同体そのものである。
 
『あなたたちによく言っておく。もしあなたたちのうち二人が、どんなことでも地上で心を一つにして願うならば、天におられるわたしの父はそれをかなえてくださるであろう。二、三人がわたしの名によって集まるところには、その中にわたしがいる。』(マタイ18:19))
 
教会は、キリストの福音を述べ伝えるという使徒職(マルコによる福音書16:15、マタイ28:16〜20)担っているのである。よってカトリック学校の使命とは、「教育を通してキリストを証する。=教育を通して神の愛をあらわす。」ことに他ならず、カトリック学校の教育ミッションがそこにある。 (新約聖書およびカトリック要理「一、聖、公、使徒継承である教会(宣教の任務)」より)
 
 では、キリストの教えとは何か。以下の通りである。
 
『「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を信じよ」。「隣人をあなた自身のように愛せよ」この二つのおきてよりも大事なおきてはない。』((マルコ12:30〜31、ルカ10:25〜28、マタイ22:37〜40)「最も重要なおきて」)
 
『わたしがあなたたちを愛したように、互いに愛し合うこと、これがわたしのおきてである。』(ヨハネ15:12)
 
『だから、何事でも、人から自分にしてもらいたいと望むことを、人にもしてあげなさい。これが律法と予言者の教えである。』((マタイ7:12、ルカ6:31)「黄金律」)
 
よって、これを教育活動の中で実践するということがカトリック学校の教育目標であり、カトリック教育の本質および使命となる。カトリック教育とは、キリストの教えのごとく、他者のために自己を犠牲にしてまでも愛するという神の愛の実践に他ならず、愛と苦しみのうちに自己を他者に与えることでキリストを通して永遠の命に与り復活するというダイナミズムに通じるものでなければならない。ここにこそ、カトリック教育の真髄が息づいているのであり、カトリック学校をカトリック学校たるに値させる本質的基準なのである。
 
 さて、ではカトリック学校の教育活動はどうあるべきなのか。神の計画は、過去、現在及び将来という時間の連続性と変化のうちに実現していく。しかし、わたしたち人間は、その時間の連続性と変化という渦に巻き込まれ、時には神を見失い、生きる意味さえも喪失するほどに翻弄されてしまう。
 
『「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。』(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)
 
 そこで、わたしたち人間には、現在(今)という「時代もしくは時」を、神の計画のうちのなかのどのような「時」なのかということを読み取ることが求められる。
そして、その「時のしるし」を読み取り、神の求めに応えることがカトリック学校には最も必要とされるのではないか。その「時のしるし」を受けて、カトリック学校がその時々の中で、それらをどのように具体的に教育活動に反映させ展開するかが問われているのである。
 
 58     『カトリック学校の広報活動とは』 2005年12月9日(金) 
 
−三年間の広報活動をとおして−
 
 カトリック学校における生徒募集活動・広報活動の基本は、福音宣教の一環という位置づけが必要である。
 
 カトリック学校の本来的目的が福音宣教にあるのだから、学校教育の対象である生徒は、即、福音宣教の対象者となるわけである。(ただし、福音宣教とは、キリスト者(キリスト教信者)にすることとイコールではなく、あくまでもキリストの教えを宣べ伝えることである。)よって、カトリック学校の生徒募集・広報活動は、キリストの福音を教育活動をとおして宣べ伝える対象者となる生徒を募ることであるから、福音宣教そのものであるか、あるいはその出会いを提供することにつながるものである。
 
 しかし、現実は残念ながら、カトリック学校の生徒募集も経営上のそろばん勘定や経営マネージメントまたはマーケティングの論理から展開されていることが多いということである。もちろん経営上のマーケティングやマネージメントの必要性や重要性を否定するものではない、むしろ大いに必要である。生徒やその父母を顧客と受け止め、顧客のニーズは?それをどう充足するのか?その満足度は?などと実益重視の顧客主義やそのための戦略的マネージメント等々も悪くはないであろう。しかし、それらの根拠がどこにあるのか、それらのコンセプトが何であるのか、立脚点はどこなのか?ということなのである。
 
 経営上の戦略はこのような用件で目指すところの目標や目的が違ってくる。教育に関して言えば、何のために学校経営をするのか、誰のために教育をするのか、どのような人間づくりを目指しているのか、どのような社会をつくろうとしているのかなど、教育の根幹を決定づける用件へとつながるものである。よって、私たちカトリック学校の最も重要な教育における根幹は、キリストの福音であるのだから、そこに息づく人間観、人生観そして教育観が常に日々の教育活動に生かされていなければならず、私たちカトリック学校の戦略はそのために策定されなければならず、その戦略には神の息吹が吹き込まれいなければならないのである。
 
 少子化問題は、教育界のみならず国家の根幹である政治・経済にも及ぶ国家的危機にもつながりかねない社会的大問題として、私たちが暮らす現代社会に大きな波紋を広げている。何と言っても、初等・中等教育における対象は、こどもなのであるからその肝心のこどもがいないのでは、教育そのものが成り立たないというわけであるから、目的を失った活動が意味を見いだせなくなるのは必然であるとしか言えない。
 
 少子化進行が取り巻く教育現場の事態は一変した。私立学校のみならず公立学校までもが、少子化の逆巻く怒濤の波にのまれ、その事態の収拾や対策に翻弄されているのだ。私立学校といえども、こんなにも生徒募集や学校経営に嘖まれることが今までかつてあったであろうか。まさに少子化に喘ぐ学校が、混沌とした教育という世界の中を彷徨い歩き、うめき声を上げているかのようである。
 
 さて、教育は時代によって変化・変容する。残念ながら現代日本の教育は、決して時代の先端を行き、イニシアティブをとりながら道標となるべく時代を切り拓く先駆者とはなり得ていない。むしろ時代を辛うじて追いかけ追随しながらも、時が必要とすることに応えられずに、ごく僅かなエリートと少しの常識人と不本意ではあるものの溢れんばかりに多くの社会に適応できない人間を育成してきたといわざるを得ない。
 
 それもこれも、教育に携わる者たちが、その時々が問いかけていることがらに耳を傾けずに変化を嫌い、時が問いかけ求めていることに応えてこなかった結果ではあるまいか。私たちカトリック教育に携わる者に最も求められるものは、その時々の「時のしるし」を読むという作業とそれに応えるために必要な知識と判断力と行動力を与えるという活動なのである。しかるに、この観点においてカトリック学校は最も敏感にあらねばならず、それは取りも直さず主イエス=キリストの教えに他ならないからである。
 
 以上、現代におけるカトリック学校の召命もしくは使命は、その時々の「時のしるし」を読みとり、現在および先々の将来に求められる知識と判断力と行動力を提供することにある。よって、カトリック学校における広報活動の原点・根拠・コンセプト・立脚点は、これらのことがらを提供できる学校であるとの基本概念に根ざしたものでなければならない。
 
 広報活動の弱点は、ないものは広報できるはずもなく、あるもののみしか広報できないということであり、ないものをあるもののようかに広報することは、即誇大広告か虚偽の広報であり、それは偽善以外のものにはなり得ないということである。
 
 よって、カトリック学校における生徒募集・広報活動の在り方には、以下の二つの条件が整っていることが求められる。
 
 一つには、カトリック学校での教育現場そのものが、福音を宣べ伝える実践の場となっていること。
 二つめには、広報活動そのもの自体も福音を宣べ伝える活動につながっていること。
 
 これらの二つの要件が、カトリック学校としての広報活動に求められる要件であると共に、カトリック学校としての広報活動になっているのかどうかの判断基準となるものである。
 
 「あなたがたは、夕方には『夕焼けだから、あすは天気だ』と言い、朝には『朝焼けでどんよりしているから、きょうはあらしだ』と言う。あなたがたはこのように空模様を見分けることを知っていながら、どうして時のしるしを見分けることができないのか。」
 
(マタイ16:2〜4、ルカ11:16、マルコ8:11〜13)

Last updated: 2014/10/22

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