人は、多かれ少なかれ日々の生活の中で、「ああすれば良かった、こうすれば良かった。」などと後悔をするものではないだろうか。私自身はどうかといえば、何と日常的に後悔や反省が多いことだろうかと、少々自責の念に襲われるほど、自分のいたらなさを目の当たりにするのである。と言うのも、私の中にはいつも臆病虫や怠け虫、面倒くさい虫や逃げ腰虫、怒りん坊虫や泣き虫など、いろんな虫がいて、飼っているというわけではないのだが、数え切れないほど自分を誘惑する虫がいて、困ったことにこれらの虫を一撃してしまう殺虫剤がない上に、たとえ効いたとしても一時的なもので、またどこからともなく湧いてきて自然繁殖を繰り返していく厄介な虫たちだ。私の中にいる害虫ども。
でも、幸いなことに同じ私の中に、忍耐虫や頑張る虫、夢を見る虫や希望を見いだす虫、笑い虫に優しさ虫、そしてみんなと仲良くやろう虫などもいてくれる。私が多くの悪い虫たちの誘惑に負けたり負けそうになったりしたときに、正しさや希望に向けて助けてくれる心強い味方。私の中にいる益虫たち。
しかし、ちょっと面倒なことに彼らにはちょっとしたトレーニングをしてやったりエサを与えたりとお世話が必要なのだ。それはどういうものかというと、心の奥深くに入っていって、自分自身をよく見つめ直したり、心の深淵から聞こえて来る声に耳を傾けたりしながら、日々の自分の生活の在り方を軌道修正しながら行動すること…つまり『黙想』と実践の慣行である。では、『黙想』とは何かと言えば、キリスト教信者にとって、『黙想』や『祈り』は、神との語らい、神の語りかけを聴き求め、神の望まれることを明らかにする作業ともいえるもの。沈黙・静寂の中で、自己を見つめ神の声を聴く…。信仰体験としては実際にないことではないのであるが、神の声が直接聞こえないにしても、自己の内面の深淵から生まれ出る語りかけを発見・見いだすことである。それはまさに神の恩寵、無償の賜物として与えられたお恵みに他ならない。
一般的に無から有が存在することは、科学の世界では非常であるが、信仰の世界ではむしろ尋常
なことである。私たち人間の精神世界においてもいくらでも無から有を創造することは日常的なように、神もまた私たち人間の一人ひとりにそれぞれに求めるメッセージやお恵みを下さることは日常と言っても過言ではないことなのである。
一見、不条理でありながらも条理であり、非常でありながらも尋常である。そんな人間の価値観を超越したところのものが神の価値観であり、我々人間には推し量ることもできないどころか、そこに関わる余地さえ許されない領域としての『御摂理』なのである。
神の『御摂理』に私たち人間は「なぜ」・「どうして」などの疑問や探りを入れることは許されるものではなく、ただそのまま受け入れるだけのものなのであって、神の御手の内の中で精一杯与えられた命を生き抜くことだけが求められているのではないだろうか。
実は、人生を生きていく中で、自分の力だけではなく、神の力や人の力など他の力を頂かなければ事を成すことができない、立ち行かない、あるいは全く自分の手を離して全てをお任せせざるを得ないということが、人にとっては重要なのではないだろうかと思う。
それは、私にとっては妻の支えや子ども達の存在そのもの、そして自分自身の親や兄弟・家族への思い。また、友人や同僚・生徒達との語らいや励ましなど身近な人たちとの関わりの中から頂く愛情。また、内面的には、祈りや御言葉や秘跡を通していただく信仰上の命=神様からのお恵みがなければ、私は何一つとしてことを成し得ることができないという態度は、謙遜にもつながっていく。
最近、人の不完全さの重要性というものに気付き始めた。不完全だからこそ補い合わなければいられない、愛し赦し合わなければいられない。そして、互いに愛し合いともに支え合いながら生きるすばらしさは、人が完全ではなく不完全であるからであって、この不完全さこそのみが、人を人として生きる喜びへと導く唯一の根元的な要因として存在し得るものではないだろうかと考えている。
このように『黙想』は、私たちにいろいろな語りかけ・問いかけがあることに気付かせ、精神と行動をより高次な次元へと止揚させ発展させてくれる良い機会を与えてくれる。そして、神を信じる者にとっても信じない者にとっても、『黙想』は、人間の精神活動を無限に広げさせながら、やがては、人間の心を解放と救いへと向かわせていってくれることを確信させてくれる。
人は、生きていく上でそれぞれの十字架(苦しみ)を背負いながら生きていくものである。しかし、キリスト教ではその苦しみを取り除くことよりもその苦しみをとおして神の救いを頂き、究極的には十字架上のキリストの苦しみをとおして復活の恵みに与るという信仰こそが、神の人間に対する完全なる救いと解放の計画の成就へとつながっているのだ。
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