イエスは仰せになった。「神を信じなさい。あなたたちによく言っておく。誰でもこの山に向かい、『立ち上がって海に飛び込め』と言い、しかも心に疑わず、自分の言ったようになると信じるのなら、それは聞き入れられる。それゆえ、あなたたちに言っておく。あなたたちが祈り求めるものはすべて、かなえられるものと信じなさい。そうすればそのとおりになるであろう。
(マルコ11:22〜24)

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信仰 Religion

『キリスト者としての信仰とカトリック教会のあり方』
−イエス・キリストを信じ、受け入れた者として−
 
キリスト者の使命(信徒使徒職)のために
 
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イエスはかさねて仰せになった。
 「あなたたちに平安があるように。父がわたしをお遣わしになったようにわたしもあなた方を遣わす。」
(ヨハネ20:21)
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 1     『キリスト者の一致』 2007年12月19日(水) 
 キリストキリストを通して福音と出会い、キリストを求め、キリストを信じ、キリストの道を歩むための決意をして洗礼を受け、日々信仰生活を送ることに努力し、キリストによって集められた教会共同体における交わりに与ることで、キリストの内に一致し、福音を広めるためキリストの証し人ととなる者をキリスト者といいいます。
 
 よって、キリスト者であるということとは、洗礼を授かったという既成事実によるのではなく、むしろその後の信仰生活のあり方如何によるものなのです。洗礼は、あくまでもキリスト者となる決意と精霊によって信仰生活に導かれるための始まりです。キリスト者たる要件は、ただ個々の信仰と教会共同体の信仰のあり方にあるのであって、個人と共同体の信仰によってのみ、キリスト者はキリスト者として神の救いに与り、永遠の命へと導かれるのです。
 
 キリストの教えとの出会いや洗礼を受けた理由は、千差万別ひとそれぞれでしょうし、教会共同体に求めることやそこでの役割もまた、十人十色まちまちでしょう。だから途もすると、教会共同体における『キリスト者の一致』とは、現実問題としては実現にはほど遠い出来事であるかのよに思えてしまうことなのです。しかし、神はもともと一人ひとりに異なる能力と使命をお与えになっているのですから、キリスト者が教会共同体の中や社会においてそれぞれの役割をそれぞれの場において果たしていくことは当然のことと言えるでしょう。
 
 では、『キリスト者の一致』とは、どのようなことでしょうか。個々の信仰形態が同じことでしょうか。それとも教会共同体において、皆が同じ方向を見て同じ考えや同じ活動をすることでしょうか。もしそれがキリスト者としての一致なのならば、それこそそのような『キリスト者の一致』とは、どこにもあり得ない、どんなことをしても実現不可能な雲をつかむような事となってしまうでしょう。ですから、そもそも『キリスト者の一致』とは、一般的に言われる何かの目的のために、一致団結とか結束するとかという意味合いとは少し違うのだと思います。なぜなら、わたしたち『キリスト者の一致』とは、何か実体のあるものや出来事において一致するのではなく、ただ信仰においてのみ一致できるものだからではないでしょうか。
 
 信仰においてのみ一致するとはどのようなことでしょうか。そこで、福音書の中で「一致」と同意に考えられる「一つになる」ということについて記されているところを当たってみると、ヨハネによる福音書に「一つになる」というカ所をいくつか見つけることができます。
 
 「彼らのためにお願いします。世のためではなく、わたしに与えてくださった人々のためにお願いします。彼らはあなたのものだからです。わたしのものはすべてあなたのもの、あなたのものはわたしのものです。わたしは彼らによって栄光を受けました。わたしは、もはや世にはいません。彼らは世に残りますが、わたしはみもとに参ります。聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。わたしは彼らと一緒にいる間、あなたが与えてくださった御名によって彼らを守りました。わたしが保護したので、滅びの子のほかは、だれも滅びませんでした。聖書が実現するためです。しかし、今、わたしはみもとに参ります。世にいる間に、これらのことを語るのは、わたしの喜びが彼らの内に満ちあふれるようになるためです。わたしは彼らに御言葉を伝えましたが、世は彼らを憎みました。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないからです。わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです。わたしが世に属していないように、彼らも世に属していないのです。真理によって、彼らを聖なる者としてください。あなたの御言葉は真理です。わたしを世にお遣わしになったように、わたしも彼らを世に遣わしました。彼らのために、わたしは自分自身をささげます。彼らも、真理によってささげられた者となるためです。
 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こ  うして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。
(ヨハネによる福音書17:9−26)
 
とあるように、信仰の内に一致するとは、イエス・キリストが神と一つであるように、わたしたちキリスト者もイエス・キリストとともに神と一つになるということを指しているのだと思います。また、神と一つになるとは、イエス・キリストがわたしたちの内におられ、神もまたわたしたちの内におられるということを表しています。それはまさに、信仰によってのみ可能なことといます。神とその御子イエス・キリストを自分の内に在るようにすることこそが、完全に一つになることなのです。『キリスト者の一致』とは、この信仰によって自分の内に神とイエス・キリストを宿すことのみにおいて実現可能なことだと言えるでしょう。
 
 では、更に信仰とは何でしょうか。これもまた、福音書にその答えを見つけてみましょう。
マタイによる福音書9:18−26に次のようにあります。
 
 「イエスがこのようなことを話しておられると、ある指導者がそばに来て、ひれ伏して言った。『わたしの娘がたった今死にました。でも、おいでになって手を置いてやってください。そうすれ ば生き返るでしょう。』そこで、イエスは立ち上がり、彼について行かれた。弟子たちも一緒だっ た。すると、そこへ十二年間も患って出血が続いている女が近寄ってきて、後ろからイエスの服の 房に触れた。『この方の服に触れさえすれば治してもらえる。』と思ったからである。イエスは振 り向いて、彼女を見ながら言われた。『娘よ元気になりなさい。あなたの信仰があなたを救った。』そのとき、彼女は治った。イエスは指導者の家に行き、笛を吹く者たちや騒いでいる群衆を 御覧になって、言われた。『あちらに行きなさい。少女は死んだのではない。眠っているのだ。』 はイエスをあざ笑った。群衆を外に出すとイエスは家の中に入り、少女の手をお取りになった。すると少女は起き上がった。」このうわさはその地方一帯に広まった。
(マコ5:21−43、ルカ8:40−56)
 
とあります。この中に出てくる病気を患っていた女の『この方の服に触れさえすれば治してもらえる。』というイエスに対する盲目的とも言える依頼心は、自己を全面的に投棄し委ねてお任せるという信仰心以外の何ものでもないのです。
 
 つまり、信仰とは自己の無力さを自覚することによって真に謙虚な姿勢で、自己のすべてをイエス・キリストを通して神に委ねてお任せするという信頼の態度にあるのではないでしょうか。そしてこの信仰心こそが、千差万別な人間であるわたしたちキリスト者が一致できる唯一の絆といえるでしょう。
 
 では、そのわたしたちキリスト者としての信仰を一致させるものは何かといえば、イエス・キリストが自ら定めた「ミサ」意外にはないのではないでしょうか。「ミサ」は、完全です。「ミサ」において、わたしたちキリスト者と奉仕者の集いである教会共同体の中にキリストがおられ、「ミサ」の中で語られる御ことばの中やパンとぶどう酒の形態のもとにもキリストがおられるのです。そして、「ミサ」において十字架上の奉献(いけにえ)を再現し、そのキリストの体(聖体)を分かち合うことで、わたしたちキリスト者は、キリストにおいて一つに結ばれるのです。
 
 ですから、『キリスト者の一致』は、「ミサ」において完全に現実のものとなり完成されるのです。とかく教会共同体の中では、何か同じ目的を共にする集団や組織に属することや、何かの行事を進めていくことなどで一致できるかのような思いにさせられるものですが、それではそこに属する人たちの共感や連帯感は確かに築かれるでしょうが、教会共同体全体の一致にはつながらないのです。わたしたち『キリスト者の一致』は、あくまでもイエス・キリストが主の晩餐でお定めになった記念祭儀(聖餐式)である、感謝の祭儀=「ミサ」によってしか実現できないことと言えるのです。
 
 2     『福音宣教』 1 「神の救い」 2006年1月3日(火) 
1 「神の救い」
 
 「福音宣教」ということは、主イエス・キリストが宣べ伝えた「福音」を、わたしたちキリスト者がイエス・キリストの名によって、イエス・キリストが教えてくださったとおりに、わたしたちもすべての人々に宣べ伝えるということに他なりません。そして「福音宣教」は、私たちキリスト者にとっての最大の信徒使徒職でなのです。
 
 では、「福音」とは何でしょうか。それは、イエス・キリストによる救いが完成される神の国の到来を告げる〈よい知らせ=Good News〉の意味です。「福音」は、ギリシア語〈ユアンゲリオン〉の訳語で、元来は人々に戦いの勝利を知らせたり、こどもの誕生を知らせたりする場合に用いられていたそうです。
 
 旧約聖書では、「良い知らせ」(イザ40:9、41:27、61:1)と記され、これはイスラエルの民のバビロン捕囚からの解放、ならびにヤーウェの終末的支配への預言に用いられています。
 
 新約聖書の福音書にはこの言葉が多く用いられていて、イエス・キリストが宣べ伝えた「神の救い」や「神の国の到来」(マコ1:14)を指しています。従って、福音書もイエス・キリストの「福音」(マコ1:1)としての神の救いの実現と神の勝利の支配の到来を告げたものとなっています。使徒言行録以下の文書では、イエスが宣べ伝えた「福音」というよりは、イエス・キリストの業における贖罪の出来事が「福音」として語られています(ロマ1:2-)。ですから「イエスによる罪の赦しの福音」(使13:38)、「和解の福音」(Uコリ5:19)などと、「福音」の特色をあらわす言葉が結びついて用いられていて、「福音」が神にもとづき、キリストによっていることより、「神の福音」(ロマ1:1、Iペト4:17)、「キリストの福音」(ロマ15:19、Uコリ2:12、フィリ1:27)ともしばしば語られているのです。なお、律法に対比して「福音」が用いられるが、律法に従うのではなく、「福音」の真理に従って歩み(ガラ2:14)、ただ信仰によってのみ義とされるというキリストの贖罪への応答がそこにつよく表わされているのです。(ロマ3:21-31、ガラ2:16)。
(出典 新共同訳聖書 聖書辞典(新教出版社) 福音 参照)
 
ですから、「福音」とは、イエス・キリストが宣べ伝えた「神の救い」や「神の国の到来」そのものを意味するのです。
 
 では、「神の救い」や「神の国の到来」とは何でしょうか。まずは「神の救い」について考えてみましょう。
 
 「神の救い」というわけですから、救う主体は言うまでもなく「神」ですし、救われる対象となるのは、「人間」ということになります。また、「救う」・「救われる」というわけですから、何かしらの状態、それも苦しみとか悲しみなどの困難や試練という負の状況・状態・事態、あるいは罪を犯すことで生まれる自責の念や罪に定められそこから逃げられない存在としての宿命、そして死ぬというあらゆる生物が行き着く「終末」に対する恐怖からの「解放」ということに他なりません。
 
 わたしたち人間が生きていく上での様々な困難は、避けてとおることのできない登龍門のようなもの、あるいは解き明かし答えていかなければならない公案、または乗り越えていかなければならない障害、そしてみ摂理によって選択の余地なく受け入れる他ない必然としての試練ですから、そこには神ご自身による「救い」、もしくはわたしたち人間の生きる上での「目的」や「意味」を見いだすことができるものが必要となってきます。そうでなければ、その困難の状況から這い上がれずに、困難を乗り切るための原動力を喪失するか、あるいは遭遇したか、自ら招いたか、与えられたかした困難の意味を理解できずに、その只中で無闇にもがき苦しみ、同じ穴を掘り、堂々巡りを繰り返し、脱却することができずに結局は力尽きて、そこから「解放」されることがないまま苦悩の連鎖の中に囲まれてしまうということになってしまうのです。
 
このうように、わたしたちが生きていく上で、是が非でも求めて止まない「神の救い」が、そこには必要となるわけですから、その人間の求めに応える「救い」こそが、「福音」そのものとなるわけです。
 
 では次に、その「神の救い」の「救い」とはどのような「救い」なのでしょうか。わたしは、「神の救い」である「福音」を見たり聞いたりするためには何の条件も必要としないのですが、その「救い」・「恵み」に与るためには、ある一定の要件が求められているように思います。しかも、それは神の側ではなく、わたしたちの側に因るところのものなのです。
 
 ではそれは何でありましょう。「神の福音」は、すべての人に宣べ伝えられているのですが、その「福音」に全く耳を貸さない者、聞くだけで終わる者、一旦は聞くが実践につながらない者、そして聞いて実践し救いに与る者とに分かれるように思います。そのことが、次のみ言葉に表されています。
 
  「イエスは再び湖の畔で教え始めた。帯びただしい群衆が集まってきたので、イエスは湖上の船に乗り、座っておられた。群衆は皆湖に沿って陸地にいた。イエスはたとえ話をもって多くのことを教えられたが、その中でこう仰せになった。『聞きなさい。種をまく人が種をまきに出て行った。するとまいているうちに、あるものは道ばたに落ち、鳥が来てそれを食べてしまった。あるものは土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上ると焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれを覆いふさいだので、実を結ばなかった。他のものは良い土地に落ち、伸びて大きくなり、実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった』。そして、『聞く耳のあるも のは聞きなさい』と言われた。
(マルコ4:1〜9)
 
  「また、弟子たちに仰せになった。『あなたたちはこのたとえ話が分からないのか。そんなことで、どうしてすべてのたとえ話が分かるだろうか。種をまく人はみことばをまくのである。みことばが蒔かれた道ばたのものとは、こういう人たちのことである。すなわち、みことばを聞くと、すぐにサタンが来て、彼らのうちにまかれたみことばを取り去ってします。岩地にまかれたものとは、みことばを聞くと、すぐに喜んで受けるが、彼らには根がなく、一時的なもので、後になってみことばのために患難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう人たちのことである。また、いばらの中にまかれたものとは、みことばを聞くが、この世の思い煩いや富の誘惑、またその他のいろいろな欲望が、彼らのうちに入ってきて、みことばを覆いふさぎ、実を結ばない人たちのことである。 また、良い土地にまかれたものとは、みことばを聞いて受け入れ、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶ人たちのことである』。
(マルコ4:13〜20)
 
とあるように、「神の救い」すなわち「福音」は、分け隔てなく皆に宣べ伝えられるのですが、その恵みに与る者は少ないというのです。そこには、一つの方程式の解を求めるというような作業が求められているからではないでしょうか。しかし、それを実践すること、つまりはみ言葉を受け入れて行いを判にすることで、命への門とつながるというものなのです。それが、次のみ言葉で分かります。
 
 「狭い門から入りなさい。滅びへの門は広く、そこに通じる道は広々としていて、そこから入る者は多い。しかし、命への門は狭く、そこに通じる道は細くて、それを見つける者は少ない。
(マタイ7:13〜14)
 
 そして、さらには「神の救い」に与った者に対して、一つの掟が定められます。それは、イエス様の次のみ言葉に表されます。
 
 「イエスはお答えになった。第一のおきてはこれである。『イスラエルよ、聞け。われらの神で ある主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛 せよ』。第二のおきては、『隣人をあなた自身のように愛せよ』これである。この二つのおきてよりも大事なおきてはない。」
(マルコ12:29〜31)
 
 「私よりも父や母を愛する人は私にふさわしくない。また、私よりも息子や娘を愛する人は私にふさわしくない。また、自分の十字架をになってわたしの後に従ってこない人は、私にふさわしくない。自分の命を保とうとする人はそれを失い、私のために命を失う人は、それを得るであろう。」
(マタイ10:37〜39)
 
 結論としては、こうです。「神の救い」は、この世のすべての者に分け隔てなく宣べ伝えられるのですが、それは受け手側である人間が、み言葉をどのように受け入れるかという姿勢如何によっては、「救い」につながりもすれば、何の意味もない無味乾燥なものに終わってしまうという、いずれかの結果をもたらすこととなるのです。
 
 また、「神の救い」の意味はこうです。神ご自身が、全世界の人々にお与えになった一人子主イエス・キリストが、全ての人間の罪を贖い、十字架上で亡くなられ、三日の後に復活されたという神の業をとおして、わたしたち人間がキリストの死と復活に与ることで、罪と死に定められているという宿命からの「ゆるし」と「解放」そして「永遠の命」が与えられるという希望への道が開かれているというものなのです。そして、十字架上で流された主キリストの血が、「神の救い」によってわたしたち人間の罪を贖い、死から復活させて永遠の命へと導くという、主イエス・キリストをとおしての、神と人間との間に交わされたの契約の証なのです。
 
 さらに、その「救い」の恵みに与った者は、「神の証人」としての「新たな掟」と命によって、今度は自らが「神の救い」・「福音」を宣べ伝え実践していくという使命に定めらるのです。そしてこの「新たな掟」と「神の救い」の実践が、後述する「神の国の到来」につながっていくことになるのです。
 
2 「神の国の到来」につづく
 3     『福音宣教』 2 「神の国の到来」 2006年1月3日(火) 
2 「神の国の到来」
 
 次ぎに「福音」の二つめの要件である「神の国の到来」について考えてみましょう。まずは、「神の国の到来」の「神の国」とはなんでしょうか。
 「神の国」は領域よりも、むしろ〈支配、統治〉の意味が強いようです。旧約には、「神の国」という言葉は用いられてはいませんが、神はイスラエルの王、であるばかりでなく、自ら創造した全世界の支配者として仰がれています。しかし人間が神に背いたために、神はその支配を恵みとして示されました。神はまずアブラハムを召してイスラエルを選び、その真の王となられたのです。ダビデもこの神に立てられた王として、神の僕であるのです。後にイスラエル王国が滅亡の悲運を経験した時代にも、神の支配の思想はかえって高められ、神がやがて主権を全世界に顕現する時が切に待望されるようになりました。そしてダビテも、この来るべき時代に現れる救い主として理想化されたのです。
 
 新約においては、「神の国」は主に共観福音書に見られます。マタイでは、ユダヤ人に向けて書かれたため、十戒の第三戒を避けて「天の国」と言われています。イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15、マタ4:17)という宣言をもって活動を始め、以後神の国を教えの中心内容とされました。イエスの「神の国」は、歴史の「終末」において、人間の力によらず、神の力によって(マコ4:26-29、30-32、マタ13:33)、この世に突如として入ってくる「神の支配」のことです。それはいつ来るか分からないが、すでに切迫しているから、人は目をさましてこれを待たなければならないと言っているのです(マコユ31:28-37)。しかしまた、この「終末」の「神の国」は、他方ではイエスによってすでに歴史の中に入ってきているのです。イエスの悪霊追放は、「神の国」の到来のしるしであり(ルカ11:20)、数々の奇跡はイエスこそ待望された救い主であることを示しているいるのです(マタ11:2-6)。こうしてイエスの教えと業においてすでに「神の国」は、始まっていると言えます。
 
 「神の国」がこのようにイエスによってもたらされた贈物であるから、人は悔い改めてこれを受け入れることが求められるのです。「神の国」は審判の時として来るものです。この世の富にひかれ思い煩い、人を愛さない者は、「神の国」にふさわしくありません(マタ6:19-34、25:41-46)。心の貧しい人、義に飢えかわく人、平和をつくりだす人、また神に忠信なる人、愛のわざを行なう人は神の国を受け継ぐものである(マタ5:3-9、25:14-30、31-40)。そしてこれらの在り方はすべて、イエスに聞き従うか否かにかかっているのです。そこでイエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます(マタ11:6)。徴税人や娼婦は、ファリサイ派の人や律法学者に先立って「神の国」に入るのです(マタ21:28-32)。なぜなら前者は悔い改めてイエスの救いを受け入れ、後者は自分を義人としてイエスを拒むからです(ルカ7:36-50、18:9-14)。このように「神の国」は、歴史の「終末」における「神の支配」の確立であると同時に、その実現は、イエスヘの信仰に基づく神への服従と、奉仕と愛の生活としてすでに始まっているものなのです。
 
 共観福音書以外では、「神の国」はキリストによる神の全宇宙の完全な支配として、終末時に待望されているものとなっています(エフェ1:10-14)。信仰者はこの究極の支配を目指していると言えます(Iコリ6:9、1O、Uテサ1:5)。現在すでに御子の支配下にあるとは言え(コロ1:13)、同時になお御国への希望によって生きる者こそが信仰者であるのです(ロマ8:25)。
(出典 新共同訳聖書 聖書辞典(新教出版社) 神の国 参照)
 
 このように、「神の国」が、イエス・キリストの教えの実践および完成と「終末」における「神による支配」であるならば、この二つのことに関する考察・了見には連続性の必然があります。なぜならば、イエスキリストは、神の御ひとり子として神によって遣わされた方であるからです。よって、「神による支配」は、イエス・キリストによってもたらされて、完成されるものというところに帰着するからです。ですから、結論的には「神の国の到来」とは、「神によるこの世の支配」が、イエス・キリストの教えの実践によってもたらされるものであって、そのイエス・キリストの教えが、この世の津々浦々に広がりおよびぶことによって完成される世界そのものということになるのです。
 
 もう一つ重要なことは、「終末」という考え方です。「終末」には、世の終わりという時間的な概念も含まれますが、それだけではないようです。
 
 「万物の終わりが迫っています」(Tペト4:7)、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」(マコ13:13)などといわれる場合、キリストの到来によって、この世界にメシアの時代が来たことを示しています。パウロは、「時の終わりに直面しているわたしたち…」(Tコリ10:11)と言って、現実の時と来たる時とについて述べており、キリスト者はこの両方の時の間に住むことを明らかにしています。つまりメイシアの時代は、すでにキリストにおいて始まっており、わたしたちは今それが完成する終末の時を待ち望んでいるとしているのです。
 
 「終末」については、マタ13:39-40、49に詳しく述べられています。イエスが弟子たちに最後に出会われ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタ28:20)と言われました。「終末」とは、世の終わりという時間的な意味を持つとともに、「成就」・「完成」の意味をも内包する概念でもあるのです。
 
 では、これで「福音」の意味がはっきりといたしました。
 
 「福音」は、「神の救い」と「神の国の到来」です。
 
 「神の救い」とは、神ご自身が、全世界の人々にお与えになった一人子主イエス・キリストが、全ての人間の罪を贖い、十字架上で亡くならた後に復活されたという神の業をとおして、わたしたち人間がキリストの死と復活に与ることで、罪と死に定められているという宿命からの「ゆるし」と「解放」そして「永遠の命」が与えられるという希望への道が開かれているというものなのです。
 
 さらに、「神の国の到来」とは、神によるこの世の支配の完成が、イエスヘの信仰に基づく神への服従と、奉仕と愛の生活の実践をとおして「成就」する世界ということです。
 
 さて、「福音」の意味もこれで明確になりましたが、つぎは「宣教」ということです。「宣教」はどうあるべきなのでしょうか。「福音」の宣べ伝え方について考えてみましょう。
 
 キリストの「福音」の宣べ伝え方には一つの原則があります。それは、決して強制することがないばかりか、決して直接的に宣べ伝えることもなかったということです。それは、十二人と一部の弟子たちには、「福音」のすべての意味を直接的にお話になったにも関わらず、人々には悟らせるように「たとえ話」でお話になったということです。
 
 そこで上述した、みなさんもよくご存じの「種まきのたとえ話」をもう一度引用します。
 
  「イエスは再び湖の畔で教え始めた。帯びただしい群衆が集まってきたので、イエスは湖上の船 に乗り、座っておられた。群衆は皆湖に沿って陸地にいた。イエスはたとえ話をもって多くのこと を教えられたが、その中でこう仰せになった。『聞きなさい。種をまく人が種をまきに出て行った。 するとまいているうちに、あるものは道ばたに落ち、鳥が来てそれを食べてしまった。あるものは 土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上ると 焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれを覆 いふさいだので、実を結ばなかった。他のものは良い土地に落ち、伸びて大きくなり、実を結び、 あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった』。そして、『聞く耳のあるも のは聞きなさい』と言われた。
(マルコ4:1〜9)
 
  そして、マルコ福音書は、この記述の後に続いて「たとえ話」の目的を記します。
 
 「イエズスが一人になられると、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、これらのたとえ話に ついて訪ねた。そこでイエスは彼らに仰せになった。『あなたたちには神の国の秘義が授けられる が、あなたたち以外の人々にはすべてがたとえ話で語られる。』それは、
 
   『彼らは見るには見るが認めないように、
    聞くには聞くが悟らないように、
    こうして改心してゆるされることのないように』
    とあるためである」。
(マルコ4:10〜12)
 
 このよう「福音」の「宣教」は、すべての人に分け隔てなく、しかし「聞いて受け入れる者だけのために」という原則がみられるのです。
 さぁ、これで「福音宣教」とは、「神の救い」と「神の国の到来」というこの二つのことを、イエス・キリストの名によって、わたしたちキリスト者がイエス・キリストに倣って、すべての人々に分け隔てなく、日々の生活の中で宣べ伝えていくことに他ならないという結論に辿り着きました。
 
 最後に、イエス様自身が使徒の使命として、次のように弟子たちにお話になった言葉で結びたいと思います。
 
  「イエスは、弟子たちに近づき、次のように仰せになった。『わたしは天においても地において も、すべての権能が与えられている。だから、あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にし なさい。父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らに授け、わたしがあなたたちに命じたことを、す べて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである。』
 
(マタイ28:18〜29)
 4     『聖書再考』 2005年11月15日(火) 
 聖書は奥深く、難解な書物ではないだろうかと思う。聖書は、大きく旧約と新約とに分類される。旧約聖書はユダヤ教とキリスト教そしてイスラム教の聖典である。
 
 同書は、神が選び、導き給うた流浪の民イスラエルの苦難の歴史と彼らが神から授かった教えや預言、戒律の数々、そして神への賛美が記されている。
 
 それは、メソポタミヤからパレスチナそしてエジプトを彷徨う民の救いの叫び、依りすがり求めても与えられぬことへの絶望と嘆きの数々、安らぎの時も歓喜の時にも、悲しみの時も苦しみの時にも、戦いの時も宴の時にも、労働の時も休息の時にも、眠りの時も目覚めの時にも、充足の時も飢えの時にも、生の時も死の時にも、常に彼ら民の内に、神は在ったのである。
 
 旧約とは、神とイスラエルの民の租アブラハムとの契約に始まり、イサクそしてヤコブへと引き継がれる(イスラエル十二部族)。その契約とは、神への絶対的信仰により、民族の繁栄と土地(国土)を与えられるとのものである。
 
 後にそれは、エジプトの奴隷となったイスラエルの民を、神の御力により救い出したモーゼを通して更新され、神より与えられた「十戒」を守ることで、神への絶対的信仰を表し、その見返りとしてカナンの地(パレスチナ)を与えられるというものであった。ここにユダヤ教の成立を見ることになるのである。(B.C.1230頃)
 
 その後、イスラエルの国は、ダビデ王により統一され、その子ソロモン王の時代には最盛の時を迎えたが、繁栄も長続きはせず、一転してアッシリアやエジプトやバビロニアそしてローマなど、相次ぐ大国による支配を受け、王国は分裂・衰退の一途を辿っていくのである。
 
 度重なる大国の支配によって虐げられたイスラエルの民にとって、数々の預言者たちが示す救い主(メシア=キリスト)の到来は、彼らにとっては生きる希望を持ち続ける残された唯一の原動力であった。このメシア思想の高揚の直中に誕生・登場したのがイエス=キリストであったのだ。(B.C.7〜4)
 
 さて、新約聖書に話を移すと、同書は、大きく四つに分類できる。一つには、イエス=キリストを通して表された神の福音(良い知らせ=good news)と生涯を中心に表した四つの『福音書』(マタイ・マルコ・ルカ・ヨハネ)。二つめには、弟子達の宣教活動を記した『使徒言行録』。三つ目には、パウロをはじめとする弟子達により、各地に広がるキリスト者への励しや信仰的導きのために書かれた数々の『手紙』(書簡)。さらに四つ目には、象徴的な言葉を持って迫害されるキリスト者の信仰強化を目的とした預言書である『黙示録』である。これらをさらに細かく分類すると、二十七の文書から構成されているのが新約聖書である。
 
 このように、聖書は、「Bible」の語源ギリシア語の「ビブロス=本」という語の複数形「ビブリア」であるように、「本の集まり」を意味しており、多くの「書物」や「資料」が集められ編纂されてできあがったものなのである。
 
 さて、聖書と言っても広範囲にわたるので、ここから新約聖書に焦点を絞り込んで、考察を加えてみたい。
 
 聖書の難解さにはいくつかの理由がある。その一つには、新約聖書は、イエス=キリストの教えやその生涯をただ単に忠実に再現することよりも、特定の人々を対象として、キリストの福音をどううまく伝えるかという宣教に重きを置かれて書かれたため、それぞれの目的に従って表現方法の違いや加筆がみられるということ。二つめには、様々な資料や口伝伝承を元に、幾人もの人々によって書かれたり編纂され、しかもその年代ももまちまちなため、それぞれの記者・編纂者の持つイエス=キリスト像が反映されていたり、変化していったと言うこと。三つ目には、新約聖書が書かれた時代は、キリスト教は迫害の時にあり、当時の権力者や社会からは異教として見なされ、その迫害から逃れるためには、何かしらのカムフラージュ(偽装・迷彩)を必要としていたことなどが挙げられる。
 
 では、一定の人々・目的を対象に書かれたとはどのようなことであろうか。まず、マルコによる福音書(A.D.65〜70)は四福音書中最も早く書かれたもので、イエスの宣教から受難までの約三年間の公生活のみを記し、最も短く素朴で簡潔に書かれている。更に、ローマにおける使徒ペテロの説教を反映しているといわれている。また、マタイによる福音書(A.D.85〜90頃)は、マルコによる福音書を資料にユダヤ人向けに書かれたもので、よって旧約聖書とイエスの関係を強調している。次にルカによる福音書(A.D80年代)は、ルカ自身が異邦人からの改宗者であったため、主にギリシア・ローマの世界に生きる異邦人改宗者のために書かれたものである。そして、イエスの福音が世の人々に広がっていく歴史を描こうとしており、続編として「使徒言行録」も書いている。さてヨハネによる福音書(A.D.90〜125)は、独自の資料のもと、イエスの存在と教えの意味を「言」・「光」・「命」と言う独自な言葉を用いて伝えようとしており、「黙示録」の記者でもあるといわれている。
 
 これら新約聖書の教えは、口伝伝承により後世の人々に伝えられたのだが、地上でのイエスの姿を目で見、またその話を直接耳にした人たち(弟子たち)から、もはや福音を聞くことのできなくなったキリスト者たたちを、特に対象として記された書である。そして、同書は、地上でのキリストの生活を既に栄光に輝くもののように記しており、今やキリストが全てのキリスト者に対して直接関わりを持ち、聖霊によって彼らの交わりの中に生きているように描写している。
 
 このように、聖書とは単なるイエス=キリストの教え、ないしは伝記としてではなく、ある一定の対象者や目的のために、意図的かつ戦略的に書かれたものであるということが理解できる。更に、イエスキリストは、その教えを直接的・具体的にではなく、たとえ話というある種の寓話という形式をもって、間接的・抽象的な手法やパラドックスという逆説的な表現で教えたのである。これも、イエス=キリストのある目的を達成させるための戦略の一つとつとも受け取れる。マルコ四章10〜12にこうある。イエスが一人になられると、十二人とイエスの周りにいた人たちが、これらのたとえ話について尋ねた。そこでイエスは言われた。「あなた達には神の国の秘儀が授けられるが、あなた達以外の人々には全てがたとえ話で語られる。それは、『彼らは見るには見るが認めないように、聞くには聞くが悟らないように、こうして改心して赦されることのないように』とあるためである。」とたとえ話で語られる目的を預言的な要素を込めて示されている。(ここも随分難解なカ所で文字通りの理解は困難である。)
 
 聖書とは、神からの福音が、その御一人子イエス=キリストと聖霊の働きを通して示された伝道の書である。しかし、聖書は読む者にとって、当時の制度や思想などの文化的差異からくる理解の困難さはもとより、それ以上にイエスによって語られた教えそのものや信仰の奥義と預言、そして、聖霊の働きに気付きいかにそれに応えて実践するかという私たちへの問いかけなのである。そこにイエス=キリストの本来的目的があったのではないか。そして、キリストの十字架の受難・苦しみに与ることによってのみ、罪が贖われて、救われ復活し、神の恩寵のうちに永遠の命が与えられるという信仰が、息づいてくるのである。
 
 よってこの書を正しく読み取るには一定のカテケジス(信仰の手引き)が、是が非でも必要となってくる。また、聖書の奥深さ、難解さはイエスの教えそのものから来るというよりは、イエスの教えそのものを、受け取る私たち人間の生きる姿勢を、根本から問い正すよう迫られる結果になるからである。それはまさにキリストが教えた「私があなたがたを愛したようにあなたがたも互いに愛し合いなさい。」という『隣人愛』の実践への導きそのものに他ならないのである…。
 
 5     『嘆いて泣いて微笑む』 2005年11月15日(火) 
 釈迦牟尼ことゴータマ=シッダールタ は、人生の真理を「一切皆苦」 として、「諸行無常」、「諸法無我」そして、「涅槃寂静」と いういわゆる「四法印」を柱 に、人生の「苦しみ(自分の思い どおりにはならない)」の解決を 解いたのである。
 仏教における「苦」とは、「生」 ・「老」・「病」・「死」といわれる「四苦」そして、愛するものと 分 かれる苦しみである「愛別離苦」、 愛さぬ 者と出会う苦しみである「怨憎会苦」、欲し求めるものが 得られない「求不得苦」、人間の 本能的欲求から来る「五陰盛苦」、 これらをあわせて「四苦八苦」と いうのであるが、この「苦」に満 ちた現世をどう生き抜くかのこた えを解くのが仏教である。
 
 であるから、「苦」の根源であ る「煩悩」を取り除くことが重要 課題となるわけで、それには、「諸 行無常」・「諸法無我」・「四諦」の教えを会得するために、修行や 戒律である「八正道」の実践と「五 戒」の遵守、が求められる。これ らの修行の積み重ねによって、我 執から解き放たれ 煩悩を克服し て解脱し、悟りへと近づくが、こ の修行法にも「中道」という徳が 求められる上に、さらには、個 人のみの悟りを求め ることでは なく、生きとし生けるすべてのも のに対する慈愛の念、他者の苦し みを取り除き、喜びを 与えると いう「慈悲」の徳を身に付けては じめて、この上もない安らぎの境地である「涅槃寂静」に到達するというのだ。インドから、中国や朝鮮半島を経て外来宗教として伝わったこの宗教は、日本においては、本来の人生における「苦」からの脱却のための知識とと修行法の実践という教えから、その難解さ故に、法然や親鸞そして日蓮によって念仏仏教としてかたちを変え、鎌倉時代に広く庶民へと受け入れられることとなった。
 
 では、同じ外来宗教であるキリスト教は「苦しみ」に対してどのようなとらえ方をしているのだろうか。ルカ福音書第6章20節〜26節(平地の説教)にこうある。
 
 「貧しい人々は、幸いである、
 神の国はあなたがたのものである。
 今飢えている人々は、幸いである。
 あなたがたは満たされる。
 今泣いている人々は、幸いである.
 あなたがたは、笑うようになる。
 人々に憎まれるとき、
 また、人の子のために追い出され、
 ののしられ、汚名を着せられるとき、
 あなたがたは幸いである。
 その日には、喜び踊りなさい。
 天には大きな報いがある。
 この人々の先祖も、預言者たちに同じことをしたのである。
 しかし、富んでいるあなたがたは、不幸である、
 あなたがたはもう慰めを受けている。
 今満腹している人々、あなたがたは不幸である。
 あなたがたは飢えるようになる。
 今笑っている人々は、不幸である。
 あなたがたは悲しみ泣くようになる。
 すべての人にほめられるとき、あなたがたは不幸である。
 この人々の祖先も、預言者たちに同じこ とをしたのである。」
 
 このように、キリストは、現世における価値観の転換を図り、「苦しみ」の意味を神の恩寵をいただく根拠とした。また、マタイ福音書11章28節〜30節にはこうある。 
 
 疲れたもの、重荷を負うものは、だれもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔 和で謙遜なものだから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安ら ぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わた しの荷は軽いからである。
 
と、あくまでも「苦しみ」を取り除くのではなく、休ませて、この世の苦しみではない、神の国の軛に代えるというのである。さらに、パウロのローマの信徒への手紙5章3節〜5節には、私たちは知っているのです。苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望は私たちを欺くことがありません。私達に与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注 がれているからです。
このようにキリスト教における「苦しみ」は、神の救いや恩寵をいただく条件といっても過言ではないことが分かる。「苦」を取り除くことよりも、生きる上での必然である「苦」を積極的に、ありのまま受け入れ、その「苦しみ」を生きるが故に神の御恵みによって救われ、解放されるという信仰のダイナミズムと信仰の奥義ががそこにある。だから、キリストはヨハネによる福音書11章25節〜26節でこのように教える。
 
 イエスは言われた。「わたしは復活であり、命で ある。わたしを信じる者は、死んでも生きる。 生きていてわたしを信じる者はだれも、決して死 ぬことはない。」
では、イエスを信じるということは、どのようなことか、マタイによる福音書10章38節〜39節にある。
「自分の十字架を担ってわたしに従わないものは、 わたしにふさわしくない。自分の命を得ようとす るものは、それを失い、わたしのために命を失う ものは、かえってそれを得るのである。」
 
 とあるように、神より与えられた命を、自分が望むようにではなく、神が一人ひとりに与えた使命を望まれるままに生きること、そして、それは、主イエスが弟子たちをはじめ、多くの人々を行いと祈りと共に愛したように、互いに愛し合うことの実践に他ならないということである。
 
 「仏教」には神は存在しないが、「キリスト教」とともに、生きる上での「苦しみ」からの解放という点では共通点が多い。しかも究極的に受けとめれば、「仏教」も「キリスト教」も私利私欲、我執を捨て、他者を慈しみ、絶対者である神もしくは、宇宙万物の御摂理に帰依するという点でもつながる。
 
 イエス=キリストは、わずか3年という公生活の中で私たち人間を愛するが故にその罪を贖い、受難(苦しみ)をとおして永遠の命に与り、復活することをおあらわしになったのである。
 

Last updated: 2007/12/19

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