2 「神の国の到来」
次ぎに「福音」の二つめの要件である「神の国の到来」について考えてみましょう。まずは、「神の国の到来」の「神の国」とはなんでしょうか。
「神の国」は領域よりも、むしろ〈支配、統治〉の意味が強いようです。旧約には、「神の国」という言葉は用いられてはいませんが、神はイスラエルの王、であるばかりでなく、自ら創造した全世界の支配者として仰がれています。しかし人間が神に背いたために、神はその支配を恵みとして示されました。神はまずアブラハムを召してイスラエルを選び、その真の王となられたのです。ダビデもこの神に立てられた王として、神の僕であるのです。後にイスラエル王国が滅亡の悲運を経験した時代にも、神の支配の思想はかえって高められ、神がやがて主権を全世界に顕現する時が切に待望されるようになりました。そしてダビテも、この来るべき時代に現れる救い主として理想化されたのです。
新約においては、「神の国」は主に共観福音書に見られます。マタイでは、ユダヤ人に向けて書かれたため、十戒の第三戒を避けて「天の国」と言われています。イエスは「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マコ1:15、マタ4:17)という宣言をもって活動を始め、以後神の国を教えの中心内容とされました。イエスの「神の国」は、歴史の「終末」において、人間の力によらず、神の力によって(マコ4:26-29、30-32、マタ13:33)、この世に突如として入ってくる「神の支配」のことです。それはいつ来るか分からないが、すでに切迫しているから、人は目をさましてこれを待たなければならないと言っているのです(マコユ31:28-37)。しかしまた、この「終末」の「神の国」は、他方ではイエスによってすでに歴史の中に入ってきているのです。イエスの悪霊追放は、「神の国」の到来のしるしであり(ルカ11:20)、数々の奇跡はイエスこそ待望された救い主であることを示しているいるのです(マタ11:2-6)。こうしてイエスの教えと業においてすでに「神の国」は、始まっていると言えます。
「神の国」がこのようにイエスによってもたらされた贈物であるから、人は悔い改めてこれを受け入れることが求められるのです。「神の国」は審判の時として来るものです。この世の富にひかれ思い煩い、人を愛さない者は、「神の国」にふさわしくありません(マタ6:19-34、25:41-46)。心の貧しい人、義に飢えかわく人、平和をつくりだす人、また神に忠信なる人、愛のわざを行なう人は神の国を受け継ぐものである(マタ5:3-9、25:14-30、31-40)。そしてこれらの在り方はすべて、イエスに聞き従うか否かにかかっているのです。そこでイエスは「わたしにつまずかない人は幸いである」と言われます(マタ11:6)。徴税人や娼婦は、ファリサイ派の人や律法学者に先立って「神の国」に入るのです(マタ21:28-32)。なぜなら前者は悔い改めてイエスの救いを受け入れ、後者は自分を義人としてイエスを拒むからです(ルカ7:36-50、18:9-14)。このように「神の国」は、歴史の「終末」における「神の支配」の確立であると同時に、その実現は、イエスヘの信仰に基づく神への服従と、奉仕と愛の生活としてすでに始まっているものなのです。
共観福音書以外では、「神の国」はキリストによる神の全宇宙の完全な支配として、終末時に待望されているものとなっています(エフェ1:10-14)。信仰者はこの究極の支配を目指していると言えます(Iコリ6:9、1O、Uテサ1:5)。現在すでに御子の支配下にあるとは言え(コロ1:13)、同時になお御国への希望によって生きる者こそが信仰者であるのです(ロマ8:25)。
(出典 新共同訳聖書 聖書辞典(新教出版社) 神の国 参照)
このように、「神の国」が、イエス・キリストの教えの実践および完成と「終末」における「神による支配」であるならば、この二つのことに関する考察・了見には連続性の必然があります。なぜならば、イエスキリストは、神の御ひとり子として神によって遣わされた方であるからです。よって、「神による支配」は、イエス・キリストによってもたらされて、完成されるものというところに帰着するからです。ですから、結論的には「神の国の到来」とは、「神によるこの世の支配」が、イエス・キリストの教えの実践によってもたらされるものであって、そのイエス・キリストの教えが、この世の津々浦々に広がりおよびぶことによって完成される世界そのものということになるのです。
もう一つ重要なことは、「終末」という考え方です。「終末」には、世の終わりという時間的な概念も含まれますが、それだけではないようです。
「万物の終わりが迫っています」(Tペト4:7)、「最後まで耐え忍ぶものは救われる」(マコ13:13)などといわれる場合、キリストの到来によって、この世界にメシアの時代が来たことを示しています。パウロは、「時の終わりに直面しているわたしたち…」(Tコリ10:11)と言って、現実の時と来たる時とについて述べており、キリスト者はこの両方の時の間に住むことを明らかにしています。つまりメイシアの時代は、すでにキリストにおいて始まっており、わたしたちは今それが完成する終末の時を待ち望んでいるとしているのです。
「終末」については、マタ13:39-40、49に詳しく述べられています。イエスが弟子たちに最後に出会われ、「わたしは世の終わりまで、いつもあなた方と共にいる」(マタ28:20)と言われました。「終末」とは、世の終わりという時間的な意味を持つとともに、「成就」・「完成」の意味をも内包する概念でもあるのです。
では、これで「福音」の意味がはっきりといたしました。
「福音」は、「神の救い」と「神の国の到来」です。
「神の救い」とは、神ご自身が、全世界の人々にお与えになった一人子主イエス・キリストが、全ての人間の罪を贖い、十字架上で亡くならた後に復活されたという神の業をとおして、わたしたち人間がキリストの死と復活に与ることで、罪と死に定められているという宿命からの「ゆるし」と「解放」そして「永遠の命」が与えられるという希望への道が開かれているというものなのです。
さらに、「神の国の到来」とは、神によるこの世の支配の完成が、イエスヘの信仰に基づく神への服従と、奉仕と愛の生活の実践をとおして「成就」する世界ということです。
さて、「福音」の意味もこれで明確になりましたが、つぎは「宣教」ということです。「宣教」はどうあるべきなのでしょうか。「福音」の宣べ伝え方について考えてみましょう。
キリストの「福音」の宣べ伝え方には一つの原則があります。それは、決して強制することがないばかりか、決して直接的に宣べ伝えることもなかったということです。それは、十二人と一部の弟子たちには、「福音」のすべての意味を直接的にお話になったにも関わらず、人々には悟らせるように「たとえ話」でお話になったということです。
そこで上述した、みなさんもよくご存じの「種まきのたとえ話」をもう一度引用します。
「イエスは再び湖の畔で教え始めた。帯びただしい群衆が集まってきたので、イエスは湖上の船 に乗り、座っておられた。群衆は皆湖に沿って陸地にいた。イエスはたとえ話をもって多くのこと を教えられたが、その中でこう仰せになった。『聞きなさい。種をまく人が種をまきに出て行った。 するとまいているうちに、あるものは道ばたに落ち、鳥が来てそれを食べてしまった。あるものは 土の薄い岩地に落ちた。そこは土が深くなかったので、すぐに芽は出したけれども、太陽が上ると 焼けて、根がないために枯れてしまった。あるものはいばらの中に落ち、いばらが伸びてそれを覆 いふさいだので、実を結ばなかった。他のものは良い土地に落ち、伸びて大きくなり、実を結び、 あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった』。そして、『聞く耳のあるも のは聞きなさい』と言われた。
(マルコ4:1〜9)
そして、マルコ福音書は、この記述の後に続いて「たとえ話」の目的を記します。
「イエズスが一人になられると、十二人と、イエスの周りにいた人たちとが、これらのたとえ話に ついて訪ねた。そこでイエスは彼らに仰せになった。『あなたたちには神の国の秘義が授けられる が、あなたたち以外の人々にはすべてがたとえ話で語られる。』それは、
『彼らは見るには見るが認めないように、
聞くには聞くが悟らないように、
こうして改心してゆるされることのないように』
とあるためである」。
(マルコ4:10〜12)
このよう「福音」の「宣教」は、すべての人に分け隔てなく、しかし「聞いて受け入れる者だけのために」という原則がみられるのです。
さぁ、これで「福音宣教」とは、「神の救い」と「神の国の到来」というこの二つのことを、イエス・キリストの名によって、わたしたちキリスト者がイエス・キリストに倣って、すべての人々に分け隔てなく、日々の生活の中で宣べ伝えていくことに他ならないという結論に辿り着きました。
最後に、イエス様自身が使徒の使命として、次のように弟子たちにお話になった言葉で結びたいと思います。
「イエスは、弟子たちに近づき、次のように仰せになった。『わたしは天においても地において も、すべての権能が与えられている。だから、あなたたちは行って、すべての国の人々を弟子にし なさい。父と子と聖霊のみ名に入れる洗礼を彼らに授け、わたしがあなたたちに命じたことを、す べて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたたちとともにいるのである。』
(マタイ28:18〜29)
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