イエスはお答えになった。「第一のおきてはこれである。『イスラエルよ、聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。第二のおきては、『隣人をあなた自身のように愛せよ』これである。この二つのおきてよりも大事なおきてはない。」
(マルコ12:29〜31)
 
 

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皆で語り合おう。イエス=キリストによって集められた私たちの共同体の輪を広げるために。
 
主のもとに集められ、集うた兄弟姉妹の皆さんとともに、主の平和がいつもありますように。
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 11     『現代教会考』 はじめに 2007年1月31日(水) 
 
 「現代教会考」の執筆の動機は、最近の教会の現状にある種の危惧感を覚えるからです。どのような危惧感かと申しますと、単純です。子どもが少ないです。中高生がほとんどいません。若者もそうです。30代、40代の年齢層も少ないですね…。高齢者の方がほとんどなのです。みなさんが属している小教区はいかがですか?
 
 このような環境にあって、教会を維持していくためにはどうしたらいいのだろう?と心配してしまうのです。そして、信徒名簿には結構の信者数が登録されていて、子どもも中高生も若者も30代、40代の年齢層の信徒も載っているのに、にも関わらずどうしてなのだろう?と疑問を投げかけずにはいられないのです。
 
 勿論、少子高齢社会ですから、教会だけが例外な訳もないのですが、それにしても危機的状況とは言えないでしょうか?と問題提起をさせていただきたいのです。現代の少子高齢社会にあって、私たちの教会共同体が抱えている諸問題をなるべく明確化して、今何が足りないのか、何が必要なのか、何をしたらよいのか、何ができるのかを模索していきたいと考えます。
 
 12     『現代教会考』 4.「教会共同体の再編」 2007年1月31日(水) 
「教会共同体の再編」
  −現代教会共同体がつくりあげなければならないもの−
 
 教会に来なくなり、教会を離れていくのは、なぜなのだろう…?
 
 その答えは、実は単純明快である。それは教会内における人間関係が、形成されなかったか、あるいは持続できなかったからである。
 
 教会に来なくなり、教会を離れていくのは、信仰を基盤にした人間関係の未形成もしくは希薄、そして断絶にある。つまり、教会に属する人たちの間における個々の関わりが、持続的にできているかどうかということで、具体的には求道者を含め信徒間同士の関わり、信徒と司祭または修道者との人間関係が形成されているかどうかということである。教会共同体内の関わりにおいては、これらのどの関係も重要であることは言うまでもない。
 
 例えば、信徒間同士の関わりは、共同体としてのまとまりや協調性を築く上で重要であるし、何よりも信仰の成熟と継続、ひいては教会共同体の使命である福音宣教に関しては、なくてはならない要素であるといえる。入信段階における求道者にとっては、司祭との密接な関係をもとに信仰が育てられていく場合が多いように思えるが、求道者の時期に共同体との関わりが司祭のみに偏重すると、その司祭が転勤等で移動することにより、共同体を離れていってしまう信徒を、私は数多く見てきた。この現象は、信仰の継続においては、教会共同体の中の信徒間の関係を築き発展させていくことが重要であることを示していると考える。無論、司祭との関係を持つことを否定するものでもないし、むしろ司祭との健全な関係を育んでいくことは、信仰の持続にとっても重要な要件であるし、信徒間同士の関わりのみでは、信仰生活の維持・発展はあり得ない。教会共同体の中心は司祭のみではないにしろ、信徒にとって司祭との人格的・信仰的交わりや導きによってはじめて信仰生活の持続・発展がなされることは明白である。
 
 では、現代の「教会共同体の再編」において、つくりあげていかなければならないものとは、まさに教会共同体内における人間関係である。この人間関係の構築こそが、現代教会共同体のつくりあげていかなければならないものであり、「教会共同体の再編」につながるそのものであると言えよう。
 具体的には、今まで述べてきたことがらであるが、以下の項目にまとめられよう。
 
 1.教会共同体内における世代間格差の相互理解と世代間交流および世代間伝達の促進
 2.家庭内における信仰教育と信仰の伝達
 3.家庭と教会のとの関係の構築
 4.教会内における活動と生涯発達の促進
 5.教会の共同体としての機能の育成と強化
 6.教会共同体内における持続的人間関係の形成
 7.教会共同体内における信仰の伝達
 
 以上、私たちは、主イエス・キリストが言われた福音を述べ伝えていくために、人間として、キリスト者として、教会共同体の一員として最も基本的な人間関係の再構築に取りかからなければならないと言えるのではないだろうか。
 
 各家庭において、子どもには信仰教育を施し、教会では教会学校に通わせ、幼児期から教会共同体の一員としての意識と人間関係をまなばせ体験させていくのである。小学校児童には児童期なりの、中学生には中学生なりの、高校生には高校生なりの、青年には青年なりの、人間の各成長段階に必要なものを、教会共同体内における人間関係と信仰体験の中で与えていかなければならないのである。
 
 成人に関しても同じようなことが言える。主イエス・キリストの福音宣教の主体としての教会共同体を運営し維持・管理していくために、乳児から高齢者に渡る幅広い世代間における持続的な人間関係を、どう築き上げていくかなのである。出生率が低迷し、高齢化の留まることのない現代の少子高齢社会の中で、私たちの主イエス・キリストの体である教会共同体が、今問われているのは、主の教えそのものである、「隣人愛」を原点とした人間関係の再生そのものではあるまいだろうか。
 13     『現代教会考』 3.現代教会における生涯発達とその現状−(5)共同体内における信仰の伝達 2007年1月30日(火) 
(5)共同体内における信仰の伝達
 
 家庭内において親から子へと信仰を伝えることが難しいのと同様に、教会共同体内において信仰を伝えていくことは、さらに困難を極めることである。家庭内における信仰の伝達の重要性や難しさについては、「3.現代教会(共同体)における生涯発達とその現状−(1)家庭内における信仰の伝達のあり方について」で述べたとおりである。
 
 家庭内において、親から子へと信仰を伝えることすらままならない現状で、教会共同体内において信仰が受け継がれるかどうかは、共同体としていかに成熟しているかが、問われているのであって、そこには更なる高いハードルを越えなければならないという現実的な問題が潜んでいるのである。
 
 では、共同体としての成熟や高いハードルとは何であろうか。
 
 まず、先に高いハードルについて述べよう。高いハードルとは、共同体内における信徒間の共通理解の有無であるに違いない。信徒間の共通理解とは、教会共同体の本来的目的を共有しているかどうかということである。教会共同体の本来的目的は、洗礼によってイエス・キリストにつながれた者同士が、互いに愛し合う中で、キリストの福音を述べ伝えるということなのであるが、これは極めて当然のこでありながら、意外にもこのことが曖昧に扱われているということが、教会共同体内の一致協力の弱体化や衰退を招いているのである。その現状における具体例を挙げてみよう。
 
 第一に、信徒でありながら、教会共同体との関わりを持たない信徒が増加していることである。基本的には、教会に足を運ばない限り、相互に関わりを持つことは不可能である。教会に行かない、行けない理由はさまざまあるのであろう。しかし、それらの人々に無関心でいることは、避けなければならないものの、まずは、現状において教会に在る人々と共に、これからの教会共同体を、どのように運営し、発展させていくのかを共に考えて行かざるを得ないのであろう。無論、何らかの理由で、教会に来たくてもこられない人々が、教会に来ることができるような配慮は必要であろう。しかし、家庭内におけるさまざまな諸事情、特に家族の中で自分のみが信徒であったり、家族から教会に通うことに理解を得られないことによって教会に来られないか、個人的な意志によって教会を離れていった信徒への関わりは、難しいのである。
 
 第二に、教会のミサには与っても、それ以上の関わりを持とうとはしない信徒もいるということ。
教会共同体を運営・維持・管理していくために、さまざまな仕事がある。信徒会をはじめ、典礼・広報・教会学校・婦人部や青年部・教会事務・会計等々である。まずは、これら教会共同体の運営・維持・管理をしていくための根幹を、司祭とともに信徒が一致し築いていなければならない。それを司祭や一部の信徒に預けてしまい無関心でいることは、共同体を築いていく上で最も障害となることである。また、教会学校を開いていても、子どもを参加させない親もいる。一体全体、信仰教育をどのように考えているのだろうか、疑問を呈することを禁じ得ない。
 
 第三に、クリスマス信徒、復活祭信徒などと俗に言われる、クリスチャン家庭二世・三世の信徒あるいはその家庭によく見られるケースである。クリスチャン家庭に生まれ、幼児洗礼を授かった人たちではあるが、結局のところ自分自身で信仰を選び取り、信仰を決意してはいないので、幼少の頃の想い出に惹かれてか、習慣的にか、この二大行事のミサにだけには与るのであろう。しかし、このことについて、安易に批判しているつもりはないのである。このような信徒の方々にも、クリスマスや復活祭にしか教会に行けないという、それぞれの事情というものがあるに違いないからだ。しかしながら、本心を素直に言わせていただけるのならば、そのような信徒の皆様の力をも結集して教会共同体を築き上げていきたい、というのが本音なのである。
 
 そして、現実問題としてそのような信徒がますます増えていっているし、こうした中で、教会共同体に深く関わっている現在の信徒への負担が増していっているのも事実である。しかも、少子高齢化が進む中で教会共同体も例外ではないのであるから、これらの問題はより深刻で、しかも悪いことに楽観できるいい要素というものは見あたらないに等しいのである。
 
 ではそんな中で、今それぞれの小教区教会共同体に求められているものは何かというと、「教会共同体の再編」であろう。教会の原点に戻っての「教会共同体の再編」を考え、実践する時なのである。原点に返るとは、教会共同体の運営に関わっていくこと、最低限教会の信徒の氏名の相互認識がなされ、人格的交流をつくっていくこと。教会共同体の中で、信仰を継承していこうという共通認識と活動をしていくこと。教会共同体が、わたしたちの主イエス・キリストの福音を述べ伝えるためのものであるということを再認識していくこと。これらのことを、現状のまま、つまりそれぞれの小教区に、今在る人々を出発点として、そこから共に築いていくしかないということなのである。
 
 一言にまとめるのならば、「教会共同体の再編」は、教会共同体内における信仰の伝達・継承そして、信徒間の人格的人間関係の構築の如何にかかっていると言えるのである。
 
 14     『現代教会考』 3.現代教会における生涯発達とその現状−(4)教会の共同体としての機能 2006年12月11日(月) 
(4)教会の共同体としての機能
 
 先に述べたように教会の共同体としての本来的目的は福音宣教にある。しかるにこの福音宣教を遂行させるための機能をどう構築していくのかということが最大の課題となるわけである。
 
 とは言っても、教会が福音宣教を行う共同体として機能するにはいくつか備え付けなければならない要素があるように思える。
 
 一つには共同体内における人的交流で、しかもそこにはキリストの愛の教えに根ざした信仰によるつながりが存在しているものでなければならない。具体的には、共同体に集い合う信徒間相互のコミュニケーションと人格的な交わりがあるかどうか。互いに互いのことをどれだけ認知し、関心を寄せ助け合っているのかである。このことは、教会共同体が内的な環境のもとで福音宣教が為されているかどうかということである。
 
 例えば、毎週の日曜のミサに与るだけで他の信徒や司祭との関係を持ず、教会への奉仕もしないというのであれば、共同体の一員としての役割を担い共同体に属しているとは言えないであろうし、自分が困難にあったとき、相談できる相手や助けてくれる人もいないというのであれば、自己の共同体に対する関わり方を問い直してみなければならないし、一定の個人をそのように疎外状態にさせるような共同体の集団としての在り方についても見直されなければならないであろう。
 
 二つ目には教会共同体に対する信徒の帰属意識や協調性および信徒個々人のアイデンティティの有無についてである。それは、自分が属する教会に一信徒としての責任をどのように果たしているのか、あるいは自己の能力や発想をどのように具現化しているのかということである。具体的には、ミサ・典礼への協力、教会行事運営や参加、教会学校等次世代の育成、広報誌(紙)や機関誌等の編集やHPの作成、信徒会費の支払い、教会施設の管理・維持、その他の集会等への参加・協力、そしてその共同体もしくは個人独自の活動がどのようなかたちで、どの程度為されているのかという事である。
つまり、教会共同体に属する個々人が、それぞれの共同体にどのような関わりと働きかけを行っているのかということである。
 
 三つ目には、外に対する働きかけが為されているか、そして為されているのならば、それがどのようなかたちで為されているのかということである。
 
 どんなに教会共同体内部において充実した活動があったにせよ、その内容が内方向に向かうかだけか反復か循環するだけの働きで終始するならば、それらの活動は不十分であると言わねばならない。わたしたち信徒の最大の使命は、主イエス・キリストの教えを言葉と行いをもって広く述べ伝えることであるから、わたしたちの教会共同体における活動は、外に開かれたものでなければならず、先にも記したとおり、福音というものが、まずは教会共同体の中心から光が放射状に発せられ、内円にある教会共同体内部を照らしながらも、その領域を貫き外円にある地域社会・国家・世界へとあまねく広がり満たされていくものでなければならないのである。
 
 結論を述べれば、教会共同体の機能とは、主イエス・キリストによって集められた信徒や求道者、修道者や司祭らが、互いに福音を分かち合い内的なつながりを充足しながら、そこにおいて育み養われた信仰を原動力として、地域社会や国家そして世界へと向けて福音を述べ伝えるということなのである。
 15     『現代教会考』 3.現代教会における生涯発達とその現状−(3)教会内における活動と生涯発達 2006年12月7日(木) 
(3)教会内における活動と生涯発達
 
 先にあげたように、教会内における活動にはどのようなものがあるであろうか?それは、ミサ典礼に関することがら、福祉・ボランティア・婦人・成年・青年・中高生間の活動、教会学校の運営、教会音楽、信徒会の運営および会計、教区や中央協議会との連絡・協議、社会活動等々あげればきりがないのであるが、教会における活動は共同体を維持・発展させ、本来的活動である福音宣教を行うためならば、あらゆる事が必要、可能となるものである。
 
 教会内における活動は、それぞれの小教区の実状や地域性によってかなり異なってくるが、その活動規模の大小や活動範囲の広い狭いに関わらず、重要なのは活動内容とそれぞれの活動がどのように結びついているかということである。それぞれの活動が、単独にしかも一部の人々による独占的か孤立的または排他的な活動であるのなら、それはむしろその教会共同体にとっては、マイナスの方向に働くものでしかないものとなるであろう。
 
 このような現象は、カテドラルなどの大きな教会にありがちで、信者数や信徒の移動も多く活気があるようで共同体としての一体感がなく、信徒の活動にも盛衰の格差が大きく安定的・継続的な活動が難しい。逆に地方における小教区においては、信徒数や信徒の移動が少なく活気には欠けるが、共同体としての一体感は強く地味ではあるが地道で安定的な活動ができる。しかし、その反面活動内容がマンネンリ化し無批判に常態化してしまう欠点がある。
 
 さて、本題にはいるが、教会内における活動の最大の問題点はこのようなことではない。その最大の問題点とは、教会内における様々な諸活動において、生涯発達という行為がなされているかどうかということである。そして、それは、教会共同体内における世代間交流と世代間伝達が存在しているのかということと同義であり、教会共同体内における生涯発達は、教会共同体内のどんな活動においても世代間交流と世代間伝達の存在の有無にかかっていると言えるのである。また、ひいてはそれ自体が信仰を引き継ぐ者と受け継ぐ者との関係を産みだし、そこで初めて教会共同体内での福音宣教の成就がもたらされるのである。
 
 このように、福音宣教というものは、まずは教会共同体の中心から光が放射状に発せられ、内円である教会共同体を照らしながら、その範囲を貫き外円である地域社会・国家・世界へとあまねく広がり満たされていくものでなければならない。
 
 よって教会共同体の活動において重要なことは、どんな活動においてもその目的が福音宣教(「神の愛による救い」と「神の国の到来」)につながるもので、それらの活動内部において、生涯発達(世代間交流と世代間伝達)が脈々と息づき、内・外両方向性をもった活動になっているかどうかということである。教会共同体内における活動に生涯発達が存在するか否かが、その共同体の信仰の伝達力の程度や有無およびキリストの共同体としての存在価値を決定することになる。
 
 わたしたちの教会が、これらのことを踏まえ活動するならば、そこには真にイエス・キリストを中心に、命と光ある福音宣教の為せる教会共同体として生きることがきるようになるであろう。
 16     『現代教会考』 3.現代教会における生涯発達とその現状−(2)家庭と教会のとの関係 2006年12月7日(木) 
(2)家庭と教会のとの関係
 
 家庭と教会との関係はより密接につながっていなくてはならない。
 では、家庭と教会が密接につながっているとはどのような状態であろうか。それは、教会共同体との関わりがあるかないかであろう。「教会共同体」とは、それぞれの小教区に属する信徒および求道者そして修道者や司祭を構成員し、キリストによって集められ集った集団である。その「教会共同体」たる集団との個別的あるいは集団的関わりがあるかどうかが、家庭と教会がつながっているか否かということになるのである。「家庭が」ということであるから、当然その大前提として家族内における信仰もしくは「教会共同体」への意向と行動の一致がなければならない。
 
 家庭と教会がつながっているか否かということは、具体的にはどのようなことであろうか。
 
 その第一には、ミサに与ることである。ミサに与ることは、「福音宣教」と共にキリスト者としての最も重要な活動ではないだろうか。それは、「ミサ聖祭」に与ることで、自己の信仰を常に強め、福音を生きる決意を新たにするとともに、その宣教に努めることができるからであって、御聖体をいただくことによってまさにキリストと一致するからである。
 
 ミサに与ることで個々の信徒には何らかの意向や役割が生じてくる。たとえば、聖書朗読、先読み、時者、奉献、共同祈願、オルガン伴奏、聖歌隊等々である。ミサの執り行いに関する打ち合わせだけでも様々な役割があるし、信徒間における話し合いや打ち合わせを通して共通理解やわかちあいがなされていく。そして、何よりもイエス・キリストとともに集った者たちが「共食」をするということである。このイエス・キリストが記念した「ミサ聖祭」をとおしてわたしたち信徒は、キリスト者とならし賜るのである。
 
 その第二には、教会共同体における活動である。「教会共同体」は、一集団であるのだから、そこに属するものにとっては、それぞれの分に応じた能動的、または受動的な何らかの働きや役割が、生まれてくる。そして、それらは一人ひとりに対する信仰をとおしての、神からの問いかけとも言えるものである。これらの問いかけに家族が一団となって積極的な関わりを持つとき、初めて家庭と教会との関係は始まるといえるのではないだろうか。
 
 教会内または教会をとおした活動は多岐にわたっている。たとえば、典礼関連、福祉・ボランティア・婦人・成年・青年・中高生間の活動、教会学校の運営、教会音楽、信徒会の運営および会計、教区との連絡・協議等々あげればきりがないほどである。こういった様々な教会に関連する活動にどう関わり働きかけるのか、あるいは新たな活動を起こすのかなど、各教区・小教区、またはそれぞれの地域・地区によって様々であろう。
 
 いずれにせよ、このような活動の中でそれぞれの家庭が、あるいは個人が「教会共同体」とどのような関わりや働きかけをするのかを、神ご自身は一人ひとりに問いかけておられるのである。とりわけ、家庭に発する問いかけは重要なものがあると考える。それはどのような人間も家庭の中で育てられるからである。どんな人間にも両親は存在し、たとえその一方がまたはそのいずれをも人生半ばで失ったとしても、人は何らかの家庭という集団の中で生き、育てられ、成長していくものである。そのような家庭に神の働きかけがなかろうはずがないのである。現代の教会(信徒・聖職者すべて)はそれを忘れてしまっている。今後の教会を語る上で、特に次世代に信仰をつなげ「教会共同体」としての存続を成すためには、家庭と教会とのあり方の再考なくしてはあり得ないということを責任ある信徒および司祭・修道者の方々に訴えたいと考えている。
 17     『現代教会考』 3.現代教会における生涯発達とその現状−(1)家庭内における信仰の伝達のあり方について 2006年11月27日(月) 
3.現代教会(共同体)における生涯発達とその現状
 
 私たちが営む現代の共同体たる教会における世代間交流ないしは世代間伝達を含む生涯発達の現状はどうであろうか。具体的に次の観点から考察を加えてみよう。
 
 (1)家庭内における信仰の伝達のあり方について
 (2)家庭と教会のとの関係
 (3)教会内における活動と生涯発達
 (4)教会の共同体としての機能
 (5)共同体内における信仰の伝達
 
 (1)家庭内における信仰の伝達のあり方につい
 
 私たち人間が営む社会において、最も基本的なものが基礎的集団である家庭である。家庭とは、特に特別な目的のために集められた機能的集団とは違い、人間として生まれ成長していく場としての家庭と、両親や兄弟姉妹に囲まれながら愛情によって人間性が育まれる人間関係としての家族という最も重要で根本的な基礎的集団である。
 
 しかし、家庭とは学校や企業などのように特定の目的を達成させるために集められた集団ではないにせよ、人間として最も根源的な資質を養い育てる役割を担っていると言える。では、人間にとっての最も根源的な資質とは何であろうか。人間にはそれぞれの発達段階で身に付けなければならない発達課題というものがあるが、そのいくつかは、またはその全部は家庭の中でのみ養われるものやそれらを基盤としなければ達成させることのできない発達課題がある。
 
 アメリカの心理学者エリクソンによれば人間の発達段階にそれぞれ発達課題があると言っているが、幼児期から青年期にかけては「基本的信頼」・「自律性」・「主体性」・「勤勉性」などが、青年期から老年期にかけては「アイデンティティ」・「親密性」・「ジェネラティビティ」・「自我統合」などをあげている。そしてそれらの発達課題の未達成は、「基本的信頼」に対しては「不信」、「自律性」に対しては「恥疑感」、「主体性」に対しては「罪悪感」、「勤 勉性」に対しては「劣等感」、さらに「アイデンティティ」に対しては「拡散」、「親密性」に対しては「孤立」、「ジェネラティビティ」に対しては「停滞」、「自我統合」に対しては「絶望」というように、各発達段階におけるなすべき発達課題とそれを達成できなかったときの発達危機を対比させ体系づけている。
 
 さて、では信仰の伝達における家庭での為すべき事とは何であろうか。それはちょうどエリクソンによる発達課題と発達危機のように、信仰の伝達においては欠かすことのできない契機と習慣と信仰教育を与えられるか否かを決定づける場となるところのものである。
 
 まず、信仰の伝達における契機とは、教会が定める七つの秘蹟のうち「結婚」・「叙階」・「病者の秘蹟」は別としても「洗礼」・「聖体」・「罪の告白」・「賢信」に与らせることである。特に「幼児洗礼」の場合は、親の希望により授けたのであるから、親の責任を持ってその後の秘蹟も授けなければならないのは言うまでもない。「洗礼」とは、キリスト者として歩む第一歩であるが、特に「幼児洗礼」は、こどもに霊的な命を吹き込み、神とともに生きる者となり、 共同体(教会)の一員となることを両親(親)が望んで授けるものであるが、それは、両親にとってもこどもとともに信仰生活を歩むことへの新たな決意となるものである。なぜならば、こどもの信仰は親の信仰教育なしには育ないものであるからだ。そして、親は「洗礼」を授けたのならば、その責任をとらなければならない。
 
 このような観点から「洗礼」・「聖体」・「罪の告白」・「賢信」のそれぞれの秘蹟は、キリスト者のこどもにとっての通過儀礼にあたるものであるが、それと同時にその時点その時に獲得しなければ、絶対とは言えないまでもなかなか身に付くことのない発達課題なのである。よって、家庭内における信仰の伝達は、こどもの信仰における通過儀礼の挙行と発達課題の修得のなかで行われていくのであり、家庭内における信仰の伝達は、特別な事情や環境にない限りはこの課程によってのみ実現されると言って過言ではない。
 
 家庭内における信仰の伝達は、もう一つの要因である習慣の役割も少なくはない。こどもに「洗礼」や「聖体」などの教会の秘蹟を授けたとしても、信仰を育むには習慣化が必要不可欠であるからである。特に「祈り」においては重要なものがある。勿論、習慣化による形骸化という危険性はあるものの、人間の暮らしに基本的生活習慣が重要であるように、「祈り」においても朝・夕・食前食後・日曜のミサなど、習慣化することによって体現されてその真意が見えてくるものがあるのである。
 
 よって、日々の生活における「祈り」の慣行、ミサへの参与、教会(日曜)学校への参加は、特に重要であり、これらの機会をとおして子どもたちは共同体の一員であることを学び、世代間交流や世代間伝達を体現し生涯発達を実現していくのである。そして、それは前述した親子間の信仰の成長と同様、教会という共同体全体における信仰の成熟に寄与することとなるものである。 以上、この二つの観点における理由により、家庭では極力こどもに対して「祈り」の慣行、ミサへの参与、教会(日曜)学校への参加を促していかなければならない。家庭内における信仰の伝達についての最重要課題であるとともにやり遂げていかなければならない発達課題でもある。
 
 「キリスト者はキリスト者としての生活を、キリスト者のこどもには秘蹟と信仰教育を」である。
 18     『現代教会考』 2.世代間格差と世代間交流および世代間伝達 2006年9月9日(土) 
2.世代間格差と世代間交流および世代間伝達
 
 私たちが暮らす社会は、幾世代かのライフサイクルが織りなす集合体によって構成されていると言える。そして、家族という基礎的集団を構成単位としながら社会が形成されているように、すべての世代におけるライフサイクルの和集合として形成されているのである。よって、そこ社会全体には世代間の連続性(部分集合)や世代間の積集合・まじわり(共通性)が存在するわけで、同じように世代間格差(差集合)が存在している。このように、ある一定の時点における社会の構成要素は、一世代の人々によるのではなく、幾世代かのライフサイクルの和集合であり、当然のことながら全体としての一定の特徴や差異や格差そして連続性や共通性が見られる。そして、保健衛生・医療が発達し食糧事情の安定した社会においては、四世代以上のライフサイクルの連続性の中で社会が構成されていると言える。
 
 では、それぞれの世代間においてどのような現象が見られるのであろうか。
 
 まず、同世代間においては、共通のあるいはその世代独自の生活環境や教育環境および社会的な事象と共通の情報などの共通項や要素により、ある一定の共感や同調現象を生じさせていく。そして、この共通性が同年代の人々を構成員とした「世代」を生み出していくのである。よって、それぞれの「世代」における時間は、その連続性や不可逆性そして非超越性と相まって、その時々の社会的要因が、人間に独自のものの考え方や行動様式を提供し、ある一定の特徴や独自性を固定化するのである。
 
 であるから、異世代間における格差は必然であり回避不可能なものとなる。それだけに、世代間交流の重要性が不可欠であり、各世代間における差異や格差が存在するのが自然状態であるのだから、互いの相違を明確化し異質なものを相互受容するという作業が必要となるのである。
 
 しかし、異世代間に存在するものは、差異や格差だけではない。そこには共通性もしくは共用するものの存在がある。それが前述した社会全体における世代間の連続性(部分集合)や世代間の積集合・まじわり(共通性)の部分である。いかに生まれた時期が違うからといえども、現在という時間を共用しているではないか。政治や経済などの社会制度、芸術や学問などの精神文化そして特に「信仰」は世代間における連続性(部分集合)として弁証法的により高次の次元へとある程度の変更が加えられながらも、世代間伝達されて止揚されていくものなのである。よって、そこには異世代間における対立が生じることとなるが、それこそが原動力となって弁証法的に発展・伝達されていくのである。また、他の芸能やスポーツなど様々な文化も、異世代間の交流を進展させて世代間の積集合・まじわり(共通性)を形成していく格好の要素となり得るであろう。
 
 社会にとって世代間伝達と世代間交流は、言うまでもなく重要かつ不可欠なものであって、現存する社会を発展させ形成していくためのエネルギーとも言えるものである。そして加えて世代間交流なしには、世代間伝達はないと結論づけておくことにしよう。
 
 確かに、世代を超越して伝達可能なもの、不可能なもの、伝達すべきもの、むしろ伝達を断ち切るべきものなど様々あることだろう…。しかし、同世代間だけでの営みでは発展の限界が生じるはずである。発展にはどうしても異質なもの受容が不可欠なのである。一時期は対立というかたちを生み出すかも知れないが、必ずや発展に向けての接点が見いだされ、同じ目的へと向けた行動が生まれてくるに違いない。確かに、同世代間による発展の限界があるように、異世代間の交流の限界もしくは異世代間における相互理解の限界もあるに違いない。しかし、それは異世代間に限らず、同世代間においても、そして人間個人の相互理解ということにおいても限界はあるものである。
 
 では、それらの限界は超えられないものなのであろうか?その解決の糸口は「受容」ではないだろうか。相互理解とは、それぞれの相違を明確にし、それらを「受容」し合う作業に他ならない。社会を構成する私たち一人ひとりが、互いの相違を認め合い「受容」し合うところに、人間個人の相互理解や家庭や地域社会における公共性が生まれ、一定の目的のための行動が生まれてくるに違いない。
 
 一定の目的のために相互理解が必要となるのか、相互理解をすることが一定の目的を生み出すのかという問題はさほど重要ではない。なぜなら、そのどちらかはその時々によって異なり、人間の知恵を遙かに超えているからである。私たち人間個人は、同じ時間と社会を共有したいくつかの世代の人々と共に生涯発達をしながら、人間的社会的な交わりのうちに「神の愛」と「神による救い」ということを伝達するという使命を帯びながら、時空と人知を超越した神の計画を生きるという営みを行っているのである。
 19     『現代教会考』 1.現代世代分析 2006年9月3日(日) 
1.現代世代分析
 
 私たちが集う教会を考えるに当たって、まずは現状把握が不可欠である。実態を的確に分析してこそ、次へのステップが踏み出せるというもの、実態の掌握ないところには発展への道も閉ざされるだけである。そして、そのためには痛烈な批判を加えることと愚弄されるまでの非難を浴びることに違いないが、それもキリストの共同体である教会の存続と発展のためには避けて通ることを許されまい。
 
 教会の実態も例外に漏れず、少子高齢化が確実に進んでいる。高齢化は80歳代、70歳代、60歳代による構成だが、総人口に占める65歳以上の人口比が14パーセント以上になれば高齢社会であるのだから教会はとうに高齢社会になっているのである。
 
 教会共同体に関わらず、私たちが暮らす現代社会におけるそれぞれの世代的特徴を分析すると次のように考える。
 
 高齢層である80歳代は戦争体験世代。70歳代から50歳代後半は、安保世代。50歳代前半から40歳代は高度経済成長世代。30歳代以下は安定成長世代である。
 
 80歳代以上から70歳代後半の高齢者層は、戦争体験と戦後の混乱期を乗り越えてきた生え抜きの世代である。この世代の人々は、古き良き日本の伝統や地域社会における住民活動、地域の教育力の源となった世代である。この世代の人々は70年安保世代や50歳代前半から40歳代の高度経済成長世代の子ども達を育てた世代でもある。
 
 70歳代前半から50歳代後半の安保世代は、少年少女時代または幼少の頃に戦後の混乱期を体験し、その後、日米安全保障条約を巡り正義を主張しながらも国家権力との妥協を模索しながら、高度経済成長の渦の中、経済的豊かさの享受を人生の目的とし、時代の流れに飲み込まれていった世代である。そして、日本の伝統的社会や価値観に変化をもたらしながら、40前半から30歳代の人々を育ててきた世代でもある。
 
 50歳代前半から40歳代の高度経済成長世代の人々は、日本の伝統的地域社会のなかで幼少時代を過ごし、高度経済成長とともにその豊かさを満身に受け、受験戦争を経ながらさまざまな異文化や先進技術、学問などを無批判に受け入れて大衆文化の担い手となった世代でもある。そして、価値観の混乱と道徳の相対性を招き、世代間の格差を大きくしてきた世代である。この世代の人々は、現在の20歳代前半から10歳代の子どもたちを育てている世代である。
 
 30歳代以下から20歳代半ばまでの安定成長世代の人々は、大衆文化を謳歌するとともに学習塾全盛時代に翻弄され、自己中心的な独自の価値観と個性の時代を築こうとしながらも、結果的には脱個性と平均化・画一化を一層進行させて自己喪失を招いている世代である。そして、生活の基盤や学びの場を海外に向けて新たな世界の開拓や価値観の導入を図ってはみるものの、思考の根幹そのものやその一部が欠如しているので自己を充足させるものには出会うことのできないでいる世代である。日本の伝統的な規範や人間関係の希薄化が一層進行し、ニート・フリーター・パラサイトシングルなどと分類される人々が渦巻く世代でもあり、非婚化・晩婚化や合計特殊出生率が1.25(2005年統計)というような極端な少子化現象を招いている世代である。
 
 20歳代半ばから10歳代までの子どもたちはインターネットとゲーム&携帯のバーチャルリアリティ世代である。現実と非現実の狭間を行き交い、テレビゲームやコンピュータに自己を反映させながらディスプレイの中から現実をのぞき込み、親しい人間関係を求めながら顔の見えない不特定または特定の個人と携帯電話やパソコンのメールで無味乾燥なコミュニケーションを交わすも疑心暗鬼に囚われの身となって、群衆の中で彷徨う孤独な人々の集合体である。これらの若い世代の人々に希薄なものは、道徳規範や礼儀、思いやりなど、人間としての根幹をなす人間性や常識的判断力である。そして、それらの欠如はこの世代で一層かつ確実に進んでいると言わざるを得ず、他者や自己および自然界に対する命への尊厳の概念など、世代間伝達に最も失敗している世代でもある。これらの世代の若者や子どもたちは、50歳代から30歳代の親に育てられている。
 
 10歳未満の子どもたちの世代は、人権の危機に直面している世代である。幼児虐待・虐殺、犯罪の被害者の世代と言っても過言ではあるまい。父母や教師に見守られての集団登・下校を強いられる現実。両親の離婚、不仲、共働き、経済的困難などの恵まれないあるいは不十分な家庭環境からの愛情不足によって、健全な精神的肉体的成長が妨げられている子どもたちがいかに多いことか。子どもたちの健全な成長どころか生命そのものの安全が脅かされているのである。

Last updated: 2016/3/21