イエスはお答えになった。「第一のおきてはこれである。『イスラエルよ、聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。第二のおきては、『隣人をあなた自身のように愛せよ』これである。この二つのおきてよりも大事なおきてはない。」
(マルコ12:29〜31)
 
 

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皆で語り合おう。イエス=キリストによって集められた私たちの共同体の輪を広げるために。
 
主のもとに集められ、集うた兄弟姉妹の皆さんとともに、主の平和がいつもありますように。
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 1     日本の信徒発見150年 キリシタンの地長崎・五島を訪ねて1.「日本の信徒発見」の地 大浦天主堂 2016年3月21日(月) 
1.「日本の信徒発見」の地 大浦天主堂
 
 今年8月、日本カトリック学校教育委員会主催の第2回長崎・五島研修旅行に参加し、来年世界遺産に登録される長崎・五島教会群を巡礼してきた。奇しくも今年は、「日本の信徒発見150年」の節目の年にあたる。
 
 長崎の教会を語るには、「日本の信徒発見」の出来事に触れずには語れない。1853(嘉永6)年、ペリー来航を契機に下田・箱館(函館)・横浜・新潟・長崎・神戸が開港されることで、未だキリスト教は禁制下のもとにあったものの、それぞれの居留地の外国人のためには、教会建築や宣教師の滞在が認められた。長崎の大浦天主堂は、日仏修好通商条約に基づき、パリ外国宣教師会日本教区長のジラール神父の命により、同会フューレ神父らによって日本二十六聖人のために献堂(1864年竣工)されたもので、二十六聖人の殉教地である西坂(二六聖人記念公園および資料館、二十六聖人祈念聖堂がある)の方向に向けられて建てられている。
 
 幕末の1865(元治2)年3月17日、天主堂建設の噂を聞きつけた浦上に潜伏していた隠れキリシタン数人が大浦天主堂を訪れ、パリ外国宣教師会宣教師のベルナール・プチジャン神父に、「われらの旨、あなたの旨と同じ」と自らの信仰を告白し、「サンタ・マリアのご像はどこに」と聞いたという。これが世に言う「日本の信徒発見」の出来事で、250年近くの長きに渡り、厳しく過酷な弾圧に耐えながら信仰を守り抜いてきた日本の信者たちが、再び名乗り出た瞬間であった。彼らを信仰告白させるに導いたマリア像は、「信徒発見のマリア」として、天主堂内右側の小祭壇に飾られている。また、当時の信徒発見の様子が、天主堂に続く急勾配な階段途中の左側に、大きなレリーフとして刻まれている。プチジャン神父は、この出来事をヨーロッパの教会関係者に書き送り、日本の信徒発見の知らせは、大きな驚きと感動、そして日本での宣教意欲をもたらした。
 
 しかし、このとき日本は未だキリスト教は禁教下にあり、キリシタンの存在が明らかになったことで、幕府は再び厳しい弾圧を加え、棄教する者も多く現れた。いわゆる「浦上四番崩れ」が起こったのである。キリスト教禁教令は、明治新政府の岩倉使節団が、欧米との不平等条約解消のために訪欧する中、キリスト教を弾圧する国とは交渉できないとの各国の強硬な姿勢を受けて、やむを得ず1873(明治6)年にキリスト教禁制の高札を撤去するまで続くこととなる。この時まで日本のキリスト教信者たちは、辛く厳しい試練になおも耐えなければならなかった。
 
 イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルによる日本のキリスト教伝来(1549(天文18)年)から豊臣秀吉による二十六聖人の処刑(1597(慶長元年))にはじまるキリシタン迫害時代を経て、約250年あまり司祭は疎かミサや秘跡を受けることもなく、当時のイエズス会宣教師たちによって作成された「ドチリナ・キリシタン」という教理本や「こんちりさんのりやく」というゆるしの秘跡の指南書、そして「オラショ」の祈り等とともに、殉教者バスチャンの「七世代後にコンヘソーロ(贖罪司祭)がやってきて、毎週のように告白することができるようになり、どこでも自由にキリシタンの教えを広めることができるようになる」との預言を頼りに希望を持ち続け、長崎・五島に潜伏したキリシタンたちは、イエス・キリストへの信仰の灯りをともしつづけたのである。
 
 大浦天主堂とは、当時の隠れキリシタンたちにとって、信仰の大いなる希望と証しとなったばかりか、現代の私たち日本のキリスト者の新たな原点ともなった場所といえるのではなかろうか。そのような意味においても、「日本の信徒発見150年」の節目の年に、キリシタンの歴史を振り返りながら、私たち共同体の信仰を見つめ直すことは意味深い。
 
 2     日本の信徒発見150年 キリシタンの地長崎・五島を訪ねて2.四度のくずれと被爆の苦難を乗り越え現存する浦上信仰共同体 2016年3月21日(月) 
2.四度のくずれと被爆の苦難を乗り越え現存する浦上信仰共同体
 
 日本で初めてキリシタン26名が処刑された西坂の地からほど遠くない所に、威厳と誇りを現すかのようにそびえ立つ教会が、長崎大司教区カテドラルの浦上天主堂である。しかし、その赤煉瓦の外壁にはめ込まれた美しいステンドグラスとは裏腹に、浦上教会共同体は幾度の受難を受け、今の世に現存している。
 
 戦国の世の浦上は、有馬領の農村で長崎の町にキリスト教が伝来した1567年頃から浦上でも宣教活動が行われ、1584年有馬晴信がイエズス会の知行地として寄進したことによって、浦上は名実共にキリシタンの村になった。しかし、1596年のサンフェリペ号事件以後、秀吉はポルトガルやスペインからの侵略を恐れ、1587年のバテレン追放令発布によって、1588年長崎の町と共に直轄領とし、江戸幕府成立(1603年)後も引きつづき幕府の天領となり、浦上の一部は大村領となった。浦上キリシタンは幕末まで庄屋高谷氏の支配を受けたが、浦上山里村5郷(馬込郷、里郷、中野郷、本原郷、家野郷)は、馬込郷を除いて4郷の全農民がキリシタンであり、その強い信仰が現在まで伝承された。
 
 さて、浦上崩れとは、鎖国体制下、浦上の隠れキリシタンは秘密裏に組織を作って信仰を守り続けてきたが、江戸幕府および明治政府は合計4度にわたる検挙・弾圧をいう。
 
 浦上一番崩れは、寛政2年(1790年)に浦上村の庄屋・高谷永左衛門が円福寺に石仏を寄付することに村人が拒絶し、これに激怒した庄屋が反対派の村人19名をキリシタンとして告発された事件であった。また、浦上二番崩れは、天保13年(1842年)に浦上村の住民がキリシタンであるとの密告により、帳方(隠れキリシタン組織の指導者)利五郎ら主だった幹部が摘発された事件である。しかし誰一人として自分たちがキリシタンであることを認めなかったことから、捕縛者は釈放された。そして浦上三番崩れは、安政3年(1856年)、浦上村のキリシタンに関する密告があり、密告者の中に棄教した「転び」が含まれていたことから、帳方の吉蔵らキリシタン15人が捕縛された。一番崩れは訴えた庄屋の不正問題、続く浦上二番崩れでは内部の慎重論もあって、「証拠不十分」により釈放の形で終わったのに対し、三番崩れは実際に「転び」による告発があったことから、取調べは徹底的に行われ、吉蔵以下役職にあった幹部のほとんどが獄死もしくは拷問によって殺害され、浦上のキリシタン組織は壊滅状態に陥った。
 
 極めつけは、慶応3年(1867)大浦天主堂において日本の信徒発見を機に始まった浦上四番崩れである。これは浦上のキリシタンの根絶を目指した迫害で、一村総流罪となり、その数はなんと3,394人に達したという。なかでも、津和野に流された流刑キリシタンたちへの拷問のあり方は、悲惨を極めたことで知られている。この四番崩れでは事件の最中に明治維新が発生し、慶応4年(明治元年1868年)の御前会議にて全住民の配流を決定したことが、欧米のキリスト教国の反感を買い、明治政府はその対応と欧米との間に結ばれていた不平等条約の解消に苦慮し、明治4年(1871年)にはキリシタン禁制の高札の撤去と浦上のキリシタンの釈放と帰還を行い、250年近くにわたった日本のキリスト教禁止政策に終止符を打った。
 
 そして、さらに浦上の受難はさらに続く。それが太平洋戦争終結間際、アメリカによる日本単独占領と戦争終結の早期化のために実施された広島・長崎への原爆投下である。この時、大正3年(1914年)に完成した浦上天主堂は爆心地に近く全壊したが、奇跡的に幾つかの石像等が倒壊した教会から見つけられた。中でも象徴的なのが「被爆のマリア」である。この「被爆のマリア」は、当時の原爆の凄惨さを物語る共に、平和の尊さを今も語りかけ続けている。浦上天主堂は、昭和33年に再建が始まり、翌年の10月に完成した。
 
 私たちの信仰は、神と個々人の関係に留まらない。むしろキリストのうちに共同体が一致しながら、互いに信仰を育み次世代に継承するとともに、広く世の中に福音を宣べ伝え続けることにある。現代の教会が、信仰の個人主義化や価値観の氾濫および多様化によって、共同体としての結びつきが弱まりつつある今、浦上教会共同体が辿ってきた信仰の歴史を振り返りながら、教会共同体として原点回帰することが求められているのではないだろうか。
 
 3     日本の信徒発見150年 キリシタンの地長崎・五島を訪ねて3.潜伏キリシタンの地 五島列島を訪ねて 2016年3月21日(月) 
3.潜伏キリシタンの地 五島列島を訪ねて
 
 浦上一番崩れあった数年後の1797年、五島藩主五島?(????)守?(??)運が大村藩主大村??(????)純尹に農民の移住を依頼する。余分な農民を五島に移住させるこの話しは、経済安定策のため領民の人口を抑制していた大浦藩にとって好都合であった。また、長男だけを生かして他は強制的に殺すか、他は無宿人として生きなければならなかった大村の人々にとっても、願ってもない話であった。そして、大村藩に潜伏していたキリシタンたちにとっては、絵踏みによってキリシタンをあぶり出し、強制的に棄教させて仏教徒にする寺請制度や五人組によるキリシタンの詮索と密告など、1614年に徳川家康による禁教令に始まった徹底した幕府の迫害から逃れるための絶好の機会となり、また子殺しという大罪を犯さなくても済むという救いともなったのである。
 
 こうして、数年間に約三千人の大村藩に住む潜伏キリシタンたちが、平戸や外海から五島に渡ることとなった。しかし、「五島へ五島へと皆行きたがる 五島はやさしや土地までも」との期待を持って島に渡ったものの、現実は「五島は極楽 行って見て地獄」と、地元民のいない痩せた土地を開墾しなければならなかったのである。特に潜伏キリシタンたちは、小さな沢があり飲み水が確保できる山の斜面を切り拓き、ひっそりと暮らさなければならなかった。五島列島の住居区分は、海岸沿い近くの平地には仏教の檀家や神道の氏子の家々、そして島の段丘面を走る道路を挟んで山の斜面の標高の高いところには、カトリック信徒の家々と現在にまでその名残が見られ、禁教令が解かれた明治6年以降建てられた教会群の多くも同様に、山側に建てられている。
 
 五島列島に渡った潜伏キリシタンたちは、大浦の潜伏キリシタンたちと同様、「七代経てばコンヘソーロ(聴罪司祭)が大きな黒船でやって来て、毎週でも告白することができるようになる。そしてどこでも自由に賛美を歌って歩けるようになる」と西坂で首を切られ殉教したアウグスチノ会ジョアン・デ・アモリスといわれるジワンの弟子として働いていた日本人バスチャンの預言を希望に、信仰を密かに守り続けていくことになるのである。五島に渡った潜伏キリシタンたちは、海を眺めながら「沖に見えるパーパ(ローマ教皇で宣教師を送ってくれる人と理解されていた)の船よ 丸にやの字(聖母マリア)の帆が見える」と歌いながらバスチャンの預言が成就するまで信仰を守り続けなければならないと決意したと伝えられている。
 
 現在、五島列島の島々には54ものカトリック教会が点在し、「長崎・五島の教会群とキリスト教関連遺産」の世界遺産登録を目指す取組みが進められ、五島観光のひとつとして注目されているが、本来世界遺産とすべきは教会という建築物ではなく、250年もの迫害と四度の浦上崩れ、そして五島崩れといわれる受難を乗り越え、現代にまで守り続けた信仰そのものであることは言うまでもない。しかし、幾多の受難を乗り越えながら守り続けられてきた五島の信仰共同体も人口減少と移住、そして高齢化による過疎化によってその存続が危ぶまれ、中には信者数が二人のみという教会もあると聞いた。だが、信仰を守り続け日本の再福音化の原点ともなった共同体ですら、その存続を危ぶまれる現代にあって、私たち共同体の信仰の真価も問われていることを忘れてはならない。信仰の継承とは、真に難しい問題である。信仰とは、独りで育み守ることなど不可能なことであり、次世代に継承することは更に困難なことであるまいか。私たちの主イエス・キリストが何故、弟子たちを必要としたのかが自ずと理解できる。私たちの信仰は、共同体として培われなければ、その現在も将来もないからだ。
 
 最後に、五島列島の教会群で最も強烈な印象を与えられた「牢屋の窄殉教記念教会」について触れて「日本の信徒発見150年 キリシタンの地長崎・五島を訪ねて」の連載の最後としたい。
 
 1868年(明治元年)、久賀島の信徒たちが捕らえられ、残酷な責め苦を受けた「五島崩れ」と後に呼ばれるキリシタン弾圧があった場所に牢屋の窄殉教記念教会がある。彼らは、大浦での信徒発見後、自らもキリスト教信仰を表明したために捕らえられ、12畳ほどの狭い牢に200名余りが押し込まれた。(1畳あたり17名の換算)横になることもできず、排泄もその場にしなければならないという想像を絶するほどの惨状であったという。信徒たちは、その状況で8ヶ月にわたり耐え忍んだが、飢えや病、拷問のために出牢後の死者を加えると42名の信徒が殉教したのである。この場所は久賀島の入り組んだ湾の高台にあり、そこから見下ろせる対岸には禅海寺の山門が見られる。彼らは、その鳥居に向かって棄教を迫られる拷問を受けながらも、自分たち共同体の信仰を命をかけ死守し続けたのである。殉教することの良し悪しはともかく、自らの信仰と共同体の信仰を自分の命をかけて守り抜こうとする気概が、現代の教会共同体の私たち信徒にあるのだろうかと自
 
問自答せずにはいられない思いであった。
 
 4     「信仰年、一信徒としての問いかけD」 2013年7月19日(金) 
 ─信仰の原点回帰、委ねて生きる─
 
 信仰年の目的は、すべての信徒が信仰の原点に立ち戻り、自らの信仰生活を見直すという趣旨です。つまり信仰の原点回帰です。
 
 信仰年における信仰の原点回帰の具体的事項は、第二バチカン公会議の精神(それぞれの憲章・教令・宣言)を思い起こし、自らの内面(精神性や霊性)、また家庭や教会、職場(学校)や地域社会(社会問題)、国家(政治)や国際社会と自分との関わり方を、それぞれの信仰生活に具現化することにあるのだと思います。
 
 特に、現代社会の只中に生きる私たちにとっては、現代世界憲章の内容は無関心ではいられないはずです。取り分け福島の原発問題や医療の発達による生命倫理上の問題は、私たち現代人に科学技術の向上や経済発展と人間の真の幸福(福音)とは何かの判断を、一寸の猶予なく迫っているように思います。
 
 取りも直さず信仰とは、神の御摂理と神の御計画の中で、私たちの主イエス・キリストの教えに学び、その生き方に倣うことであると思います。つまり、神の価値観に方向転換する生き方を選び取ることではないでしょうか?正に回心とは、主イエス・キリストに信頼して神に委ねて生きることなのだと思います。そして委ねるとは、決して何もせずただ成り行きに任せるというような受動的態度ではなく、むしろ人間的な身勝手な欲望や判断で生きることを止め、神が望まれる人間像に向かって、より主体的で積極的に生きる態度であるのだと思います。そして、そのためには主イエス・キリストへの信仰と信徒の交わりが絶対不可欠ではないでしょうか。
 
2013年仙台教区報7月No.213号投稿文
 
 5     「信仰年一信徒としての問いかけ−C」 2013年5月30日(木) 
 − 小さな人々に寄り添う大切さ− 
 
 5月の連休に、岩手・宮城両県の被災地を巡り、気付かされたことがあります。私は、正直に申しますと、既に震災から二年という月日が経つにもかかわらず、一度も足を運ぶことなく、様々な報道による情報のみから被災地を悲観的な面からしか捉えていませんでした。そして、どこか被災地から逃げていた様に思います。
 
 しかしこの度、実際に被災地に自分の身を置き、その惨状の痕跡をこの目で見て、現地の人とふれ合い、お話を伺うことで、そこに生きる方々の力強く逞しい生き方を知り、今まで知らなかった被災地の積極的で明るい姿勢から逆に励まされ希望をもらいました。
 
 私たち人間は、人生を生きていく中で不条理で理不尽な出来事に間々出くわします。それは自分の力だけではどうしようも出来ないこともあるのですが、いずれにせよ、私たち人間は、神さまの御摂理の中で生かされているということでもあると思うのです。
 
 特に、苦境に立たされた時に、私たちが出来ること言えば、神さまの愛に信頼し希望を失わずに、互いに寄り添い合いながら生きるということです。それは、正に私たちの主イエス・キリストがお示しになったインヌマエルの神の生き方を実践することです。私たちは、互いに寄り添い合うことで、生きる希望をお互いに与え合うことが出来ます。困難を抱えた小さな人々の中に、私たちの主はおられるのです。
 
2013年仙台教区報6月No.212号投稿文
 
 6     「信仰年、一信徒としての問いかけB」 2013年2月28日(木) 
−信徒一人ひとりの使命である信徒使徒職 −
 
 第二バチカン公会議以降、聖職者以外の信徒の使徒職が明確に宣言されました。このことにより私たち信徒は重荷を負ったのかも知れませんが、私たちの主キリストが言われたとおり、「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、私に従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。(マルコ8 34〜35)とあるように、私たち信徒は真に福音のために、主キリストに従う者として派遣された者となったのではないでしょうか。
 
 この度、教皇様が退位されましたが、このようなメッセージを私たち信徒に発しています。「キリスト者は自分の信仰を生きるために『時流』に逆らうことを恐れてはなりません。『人に合わせること』への誘惑に抵抗しなければなりません。(後略)」と。神を信じ福音を宣べ伝えるとは、時には苦しい選択を強いられるものではないでしょうか。人、一人の力は微弱なものです。だからこそ、私たち信徒は互いに霊的交わりを深め、主イエス・キリストのもとに一致して強固な信仰共同体を作り上げる努力をしていかなければならないと思います。信仰年にあたり、そして東日本大震災が問いかける回心の時のしるしを、仙台教区一人ひとりの信徒の心に刻み、共に主の道を歩んで参りましょう。
 
2013年仙台教区報3月号投稿文
 
 7     「信仰年、一信徒としての問いかけ−A」 2013年1月10日(木) 
−信徒の交わりである教会共同体の使命−
 
「信仰の深刻な危機」と、教皇様が現在の「時のしるし」を読み解き、信仰年を定められた今、シノドズや「信仰の門」をとおして、すべての信徒に「新しい福音宣教」を呼びかけていることを、私達は真摯に受け止めなければなりません。そして、祈りと行動でそれを実現していかなければならないのです。
 
 信徒の交わりには、司祭や奉献生活者の方々を含め、信徒間の諍いや誤解、しがらみや軋轢など多くの困難が伴うのも事実ですが、その困難や苦しみを通らなければ、本当の教会共同体の実現はないように思います。教会共同体とは、私たち信徒の意思で集まっているというよりも、主の名によって御国の到来のために、集められているということを、常に思い起こすことが大切だと思います。
 
 社会に開かれた教会(教会の現代化と刷新)とは、教会自体が世俗化し、そのアイデンティティを見失うこととではなく、社会と断絶することなく、福音が世に息づくことです。ですから、この世俗に福音を宣べ伝えるとともに、次世代に信仰を引き継いでこその教会であり、信徒なはずです。私たち教会共同体と信徒の使命とは、イエス・キリストの名において集められた信徒同士が、互いに独善に陥ることなく、謙虚な姿勢で支え合い、教会の秘蹟をとおして聖霊の力をいただきながら、すべての人々に福音を宣べ伝えることです。そこに、私たち教会共同体の真の姿である神の国である福音共同体の完成があると思います。
 
2013年仙台教区報2月号投稿文
 
 8     「信仰年、一信徒としての問いかけ」 2012年12月3日(月) 
信仰年にあたり、私たち信徒一人ひとりは、第二バチカン公会議公文書各宣言(以下、公会議宣言)の再確認とその評価が、それぞれの立場において求められていると思います。
 
 第二バチカン公会議は、「教会のアジョルナメント(現代化や刷新)」を標語に進められてきましたが、50年目の今、当時の現代と現在の現代との乖離や新たに解決すべき問題も出てきました。ですから、この50年の教会の歩みと公会議宣言を照らし合わせ、私たち信徒は何を為し得て何を為し得なかったのかを批判的に評価した上で、これから先の50年を見越しながら次世代を担う若者たちに、私たちが受け継いできた信仰を精査した形で、引き継いでいかなければなりません。それがこの50年を生を生きてきた者達の次世代の信徒に対する責任と義務だと思うのです。
 
 今、私が大変危惧していることは、教会にも襲いかかっている少子高齢化現象です。聖職者や奉献生活者の方々そして若い世代の信徒の減少と教会離れが顕著化しています。日本ではキリシタン時代や太平洋戦争中、極僅かな司祭と信徒同士で信仰や教会を守り続けた時がありました。しかし、主イエス・キリストを信じる信徒がいなくなってしまえば、その共同体である教会も無くなってしまいます。少子高齢化現象は、益々加速化しその対策が急務とされています。
 
 「アジョルナメント」を標語に進められた教会の現代化と社会に開かれた教会の実現とは、信徒の交わりと共に様々な教会活動をとおした「福音宣教」の実践であったはずです。私たち信徒は、今一度「信徒使徒職」の実践をそれぞれの立場において自問自答し、実りある信仰年を過ごすことが大事でだと思います。私は、カトリック学校の一教員として、また教会学校に関わってきた者として、そして家庭人としてどれだけ自分自身の使徒職を果たしてきたかを問い直したいと思います。
 
2013年仙台教区報1月号投稿文
 
 9     「次代に継ぐ教会共同体づくりのための祈りと実践」の提言 2010年2月12日(金) 
 2010年年頭司教書簡で平賀司教様が呼びかけられた『「祈りに心を注ぐ一年」で信仰共同体作りを』を受けて、私は教区の皆様に『「次代に継ぐ教会共同体づくりのための祈りと実践」の提言』をしたいと思います。
 
 まず、皆様の小教区ではいかがでしょうか。毎日曜日のミサに与り、教会にも少子高齢化現象が急激に進行していることをお感じになっていることでしょう。私は、このことに深い危惧感を覚え憂慮している一信徒です。私は学生の時分から教会の青年会の活動の傍ら、小中高生のこどもたちとも関わる仕事をしてきました。現在も教育部に所属し教会学校の運営に携わっていますが、その環境はここ数年の間に大きく変化したと思っています。
 
 現在、青森市内には3つの教会がありますが、司祭の減少に伴いいずれの教会も日曜のミサは単独で行えず、2つの教会で各週で実施しています。また、同様に教会学校も毎月第3日曜日が「こどもと共に捧げるミサ」となっていて、それに合わせて月1回のみの教会学校を実施しているのですが、それに与るこどもたちは幼稚園から高校生まで合わせても2人〜4人というのが現状です。5年程前までは、私が所属する教会だけで毎週教会学校が開かれ、幼児から小中高生までのこどもたちで賑わっていたことを考えれば、その変り様には驚かされるばかりです。
 
 さて、教会共同体という集団が、基礎的集団であるのか機能的集団であるのかはともかくとして、健全な集団が形成されるためには、その内部において年少者から年長者までが相互に関わり合う中で、共に成長していける「生涯発達」が実現していることが不可欠です。そのような観点から現在の教会を考えると、その構成員の多くが高齢者で年少者や青年が占める割合は、極めて少ないのが現状です。
 
 集団において、その構成員個々の「生涯発達」の実現ができないということは、世代間の交流が希薄化しているか欠如しているということです。言うまでもなくそれは私たち信仰共同体である教会にとっては、信仰が受け継がれていかないという危機的状況を招くことになるのです。この現象は既に、司祭や修道者の高齢化と減少、あるいは若年層の教会離れという形で既に現れています。このように「生涯発達」の崩壊は、教会共同体内における信仰継承の断絶をもたらし、その結果私たち教会共同体を信仰共同体として持続していくことを不可能にしてしまうのです。
 
 確かに少子高齢化現象は教会に限ったことではなく、日本社会一般に共通する社会問題です。しかし、現在の私たちの共同体にこどもたちや青年がいなくなってしまったわけではなく、さまざまな理由により若年層の教会離れが進行しているということです。この点に関して私たちは、教会共同体の一員として次世代の信徒やこどもたちに私たちの信仰を伝えてきているのかどうかということを、それぞれの範疇において自問自答する必要があると思います。
 
 私たち信徒が目指すところとその役割は、イエス・キリストの福音を信じ、イエス・キリストの生き方に倣い、イエス・キリストのうちに一致することでしょう。そのために私たちは、イエス・キリストをとおして述べ伝えられた神の福音を広めるという「福音宣教」と、キリスト者として互いに成長し福音に与ることができるように導き合うという「司牧」の2つの使命をいただいています。これらの使命を果たすことは、教会共同体のアイデンティティを確立することにもつながりますが、本来私たちの教会共同体は、この「福音宣教と」と「司牧」つまり「宣教司牧」という使命を果たすためにあるはずです。
 
 「宣教司牧」には、外へ向けられたものと内に向けられたものの両面があると思いますが、いずれにせよ私たちの「宣教司牧」という使命を果たすための集会として「ミサ」があります。「ミサ」は、私たち信徒の完全なる一致の時と場であると思います。私たちの主イエス・キリストのご聖体と聖霊そして祈りによって、私たち信徒は「ミサ」の中で完全に一致します。ですから、私たち信徒にとって「ミサ」は、私たち信徒を信仰共同体に束ねてくれる最も重要な集会であって、「ミサ」に与ること無しには、私たちの教会共同体は成り立つことは無いと言っていいでしょう。今、私たちの教会共同体を次代に継ぐ信仰共同体としての完成に導いていくためには、私たちカトリック信徒として目指すところと果たすべき使命の原点である「ミサ」の重要性を再認識し、「ミサ」をとおしていただくご聖体と聖霊そして祈りの働きによる力を求めることが不可欠です。
 
 祈りにはいろいろな祈りがあると思いますが、例えば「感謝の祈り」、「奉献・献身の祈り」、「救済を求める祈り」、「成就を求める祈り」、「服従の祈り」、「尋聞(神の御心を尋ね聞く)の祈り」、「沈黙の祈り」等です。これらの祈りの中でも、次代に継ぐ教会共同体づくりのためには、「奉献・献身の祈り」が必要なのではないでしょうか。現在、毎日曜日のミサに集っている人々の一人ひとりが、自分の所属する教会を真の信仰共同体へと導くために、どのような実践をするのかということを具体的な行動として、祈りと共に考え実行していかなくてはなりません。そして、世代間の相互関係が成熟していく中で、共同体内部における「宣教司牧」が果たされ、現在の世代から次の世代へと信仰が受け継がれて、私たちの共同体が信仰共同体としての完成に導かれていくのだと思います。
 
 ですから、私たちの共同体を世代間の相互関係の関わりによって、次代に継ぐ信仰共同体としての完成に導くためには、私たちの最も重要な「ミサ」という集会に全ての世代の人々が集い、このキリストの「ミサ」に招かれた司祭・修道者・信徒・求道者の全ての世代の人々が共に関わり合ことで、私たち一人ひとりが生涯に渡って成長していく生涯発達の実現がなされます。そしてそのような関わりの中で、「宣教司牧」というキリストを証する者としての使命を共に果たしていくことで初めて私たちの教会共同体は、信仰を継承していける霊的なつながりに基づいた信仰共同体への完成へと導かれていくのです。そのために私は、「次代に継ぐ教会共同体づくりのための祈りと実践」を提言したいのです。
 以上。
 
2010年2月12日
カトリック青森本町教会
ベネディクト ラブル 佐井総夫
 10     『現代教会考』 おわりに 2007年1月31日(水) 
 
 冒頭のはじめにでお話しいたしましたとおり、私たちの教会共同体が抱えている諸問題をなるべく明確化して、今何が足りないのか、何が必要なのか、何をしたらよいのか、何ができるのかを模索してきたつもりであります。
 
 勿論のことですが、私が所属している青森市カトリック本町教会は、地方の小さな教会ですから、その現状を踏まえて述べているところが多いので、読者のすべてのみなさんには当てはまらない点も少なからずあると思います。しかし、私自身、青年の頃は、カトリック札幌11条教会や仙台教区カテドラルのカトリック元寺小路教会に属しておりましたので、大きな教会が抱える問題にも精通しているとは言えないまでも、理解はしているつもりでおります。ですから、ここに述べたことがらが、現代の日本の各教会共同体が抱える様々な問題に共通する観点があるはずですし、共感していただける論点や意見もあると信じているのです。
 
 いずれにせよ、これを呼んでいただいた方々に、何かしらの問題提起と提言になってくれることを願うとともに、私たちの父である神、主イエス・キリストによって、私たちの教会共同体に聖霊が豊かに注がれますことをお祈りして、終わりの挨拶とさせていただきます。
 
2007年1月31日

Last updated: 2016/3/21