みことばのうちにいのちがあった。このいのちは人間の光であった。
光は闇の中で輝いている。闇は光にうち勝たなかった。
(ヨハネ1:4〜5)

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信仰告白  Confession of my faith

「わたしについて来なさい。あなたたちを、人をすなどる者にしよう。」(マタイ4:19、マルコ:1:17)
 
「何故わたしはここにいて、こうしているのか。」
 
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 1     T 『聖書との出会い』 1 「失恋」 2005年12月9日(金) 
 
T 『聖書との出会い』
 
1 「失恋」
 
 16歳の誕生日を迎えて間もない、高校一年生の夏。燃え盛る火中からほとばしる火の粉が乱舞するかのような、北のまほろば青森のねぶた祭りにも幕が閉じ、北国の短い盛夏がその終わりを告げようとする8月のある日の頃であっただろうか…。新学期を目の当たりにし、未だに宿題に追われていた夏休みの終わりの頃だったであろうか…。中二の春に恋をし、互いに思いを寄せていたと知らされたことだけで、何かが一つになれたと、嬉しくも切なく甘い思いで一杯になれた初恋のこれからのなりゆきに胸をわくわくさせていたころであっただろうか…。中学の卒業と同時に、彼女は父の転勤によって東京の高校に入学、離ればなれとなり、互いのかぐわしい恋心を交わすすべを、文通という心もとない手だてに預け、二人がかろうじて再会を果たした夏であったであろうか…。
 
 二人は、市街地からほど遠くない岬の途中にある水族館へと向かうために列車に乗った。車窓から見えるどこまでも底抜けに青くまぶしい夏の空の色とは裏腹に、二人の会話はあまりにもぎこちなく、数ヶ月間の空白の時間を埋め合わせるものには到底なり得なかった。むしろそれは、二人の恋がこれからの行き先を見失って、新たな何かが始まろうとしている予感さえ感じさせるものであった。
 
 そして、もうひとつ、その思いとは別に私には、自我の目覚めという我(エゴ)の芽生えを迎え、「人は何故に、何のために、どうして生きるのであろうか?」ということと、「愛するとは何か」という途方もない人生の公案を自問自答するとともに、私の精神と思考を越えた深淵なる部分から生まれ出ずる得体の知れない問いかけに苦悩するようになっていた。第二の誕生か心理的離乳か、はたまたマージナルマンやモラトリアム、そして疾風怒濤の時代といわれる青年期とはいえ、第二反抗期とも言われるがごとく、私はどうしようもなく手の付けようのない難しい青年へと成長しつつあった。
 
 聖書を読んでみようなんて何気ない思いつきでしかなかったろうに、ましてや宗教などというものには信頼を置いたこともなかったし、ろくに宗教のことに関する知識もないくせに、そんなものは弱い人間がすがるもので、まやかし物に過ぎない位にしか考えていなかったに違いない。
 
 しかし、その時まで生まれてこの方祈ったことがないというわけではなかった。正月の初詣は欠かしたことがなかったし、お盆の墓参りも仏壇の前に座り手を合わすことも、神棚に向かって柏手を打つことも幼い時分から親しんできたことだった。しかも幼稚園は藤幼稚園という家の近くのカトリックの幼稚園、朝の祈り、昼の食前食後の祈り、帰るときの祈りとキリスト教の神に向かって祈りを捧げる屈託のない幼児であった。
 
 それがどうして聖書を買って読んでみようなどという、衝動にも似た行動に走らせたのだろうか、何故なのだろうと思ってしまう。きっと青年期という人生における危機とも言うべき自我の目覚めの時のせいなのかも知れない。それとも、夏休みの彼女との小旅行後、帰京した彼女からの手紙が途絶えたせいからなのかも知れない。
 
 そういえば、私は、彼女が帰京するとき小さな郵便ポストをプレゼントに、駅まで見送りに行った。彼女が乗る車両が止まっていた駅のホームには人だかりができていて、私は、その中に入っていくのに躊躇した。そんな私を見つけそれを気遣ってか、彼女のお姉さんが彼女を私の前まで引き連れてきてくれて、私は何とか彼女にそのプレゼントのポストを渡すことができた。だが、それは不覚にも気の利かないプレゼントであった。彼女の心の中にはもう私はいなかったと思う。たぶんその時にはもう心が決まっていたに違いない。彼女はもう私に手紙を書くことはないと、これ以上の関わりを持たないのだと、ふるさと青森での生活はよき想い出であり、東京での生活がこれからの私なのだと…。とにもかくにも小旅行での会話がそのことを決定づけたのではないかと思う。何せ初めてのデートに哲学の話をほぼ一方的に語り過ぎた。16歳の乙女には退屈すぎただろうし、第一、場に相応しくなかった。そんな小難しい男との時間は重苦しかったろうに…。多恵子さんごめんなさい…。そして、彼女が帰京後、私が書いた何通かの手紙に彼女からの返事が来ることは一度もなかった。
 
 青年期における失恋の影響は強烈である。心ばかりかその肉体にさえ大きな穴を開けられたようで、失望と空虚と倦怠感が全身を支配した。日々の暮らしを空虚で意味のない時間の反復の繰り返しにした。しかし、そんな時にでさえ、私の生きるということへの問いかけに対する探求心だけはかき消されなかった。むしろ増幅させたのだから不思議である。そんな失恋からくるやるせなさが、生きることへの問いかけのこたえを見つけるための道しるべに、聖書という書物に関心を寄せさせることになったのかも知れない。いや、そのこととは無関係かも知れないが、とにかく私の人生における聖書との出会いは、初恋が成就しなかった頃とちょうど重なるということだけは事実なのである。
 
 2     T 『聖書との出会い』 2 「聖書の購入」 2005年12月9日(金) 
 
2 「聖書の購入」
 
 失恋の痛手は癒されることのないまま、私の内にある人を愛し求めるという欲望の矛先は、燃えるような熱さを保ちながら、違う目的へと向けられていった。それは、「愛するとは」・「生きるとは」という途方もない人生における公案に対する回答を見いだすことと、新たな友人との友情を温めること、そして彼から教えてもらったテニスというスポーツに打ち込むことに向けられたのだ。
 
 探求は人を別人に変える。現に、生きるということへの問いかけに対する探求心は、それまでの読書嫌いのこの私を変えた。本をよく読むようになったのも16歳の高校一年生の初夏の頃であったと記憶している。そして、生まれて初めての聖書との出会いが、初めての恋が破れて、自我の目覚めを自覚した、その年の初秋であったに違いないと思う。
 
 聖書を書店で購入した記憶は、購入した日時以外、書店の名前、その場所、店の中の書棚の配置、エスカレーターの位置、聖書が売られていた階上と書棚、そして購入した聖書の価格等…と鮮明に覚えている。私が購入した聖書は、日本聖書協会から出版されていたものの中で一番小さな判のもので、当時は消費税はなくちょうど千円であった。その時の私の一カ月の小遣いが三千円であったから、千円の出費はちょっとした痛手であったと思うが、なんの迷いもなく買ったことだけは覚えているので、本当に欲しかったに違いない。しかし、途方もなく遠大で深遠な問いかけに対する回答を、聖書に求めて買ったかどうかは定かではない。
 
 さて、聖書の購入までは良かったのだが、当時の私は聖書についてあまりにも無教養で、全ての漢字に読み仮名が振られていたにも関わらず、その内容を理解するに至らないまでか、通読することさえも不可能にしてしまった。
 
 旧約聖書の創世記はなんとか読めた。特に最初の天地創造については、話の内容はどこかで聞いたことがあったし、出エジプト記は、少々難しかったものの、後で鑑賞することになった十戒の映画が、その理解を助けてくれた。その次のレビ記以降は読んでも容易には理解に至らず、読み進んでいくことが困難になってしまったのだ。
 
 そして、新約聖書はといえば、それは最初からつまずきを招いてしまった。何しろ旧約聖書もそうだったが、目次の順番通りに読み進んでしまったのだから、新約聖書は、何とイエス・キリストの系図から始まるあのマタイによる福音書を読むハメになってしまったのである。よって、予備知識の全くない16歳の高校生には大きなつまずきであるとともに、一体何の話をしているのか、とんと見当も付かぬというお気の毒な結果を招いてしまった必然も無理のないことであった。もし今の私が、当時のこの16歳の青年から聖書を読んでみたいとの申し出があれば、間違いなくルカによる福音書か、マルコによる福音書から読むことを勧めていたに違いないであろう。
 
 こうして、何かしらの意気込みと多大な出費を費やして購入した聖書は、あえなくそのまま、自分の本棚の隅に追いやられてしまうことになったのだ。その後、その聖書が再び私の机上に置かれるまでには、およそ一年間という長い月日と時間を必要としたのである。
 
 3     U 『教会との出会い』 1 「隣の住人」 2006年1月30日(月) 
 
U 『教会との出会い』
 
1 「隣の住人」
 
 そう、ちょうど私が中学校3年生の時、季節は覚えていないが春3月か秋の9月だっただろうか…。その家族は主の転勤のため八戸市から青森市に転住し、私の家の隣に引っ越してきたのである。我が家の隣りの居は、古くから電力会社の重役の社宅になっていて、数年毎に転居と入居が繰り返されることが、普通になっていたのだ。
 
 まぁ、そのようなことで、新しい住人が引っ越してくる度に、新たな近所付き合いが始まるのも慣れたものとなっていたわけで、I家の住人の人々についても、当初は特にこれといって特別な思いで受け止めていたわけではなかった。しかし、引っ越し当時の記憶として残っていることの一つには、子どもの転校手続きのため、住人の主であるT氏とその息子のMが放課後の中学校を訪問して、学校の一室で面接をしている光景がある。そしてそれは、私が下校時に校舎玄関を出たところで、振り向き様に偶然、窓越しにその光景を見つけて、それが隣に引っ越してきた住人であることに気付いて、Mがいったい何年生に転入するのかということに、関心を寄せていたこともはっきりと覚えている。そして、もう一つ印象深いことは、引っ越した少し後に、それまでに私が見たこともない数の薔薇の花が、庭一面に植え込まれたということであった。
 
 私自身は、その後しばらくの間は隣の住人の誰とも個人的付き合いはなかったが、ただ私の母はI家の婦人でMの母とのご近所付き合いが、早くも始まっていたように記憶している。そして、そのことを通じて、Mが中学校一年生で、I家の家族が、カトリックの信者であることを知らされたのだと思うが、当時の私は高校受験を目の当たりに控え、特に関心を寄せてはいなかったのではないかと思う。しかし、そんな受験期の気ぜわしく慌ただしい中にあっても、未だに記憶に残ることは、Mがサッカー部に入部していたこと、I家の主であるT氏は、その頑健な体つきには似合わず、ひょうきんで愛嬌深く、独特のいたずらっぽい満面の笑みを人に投げかけ、いつも歌を歌いながら薔薇の花の手入れに余念がなかったことなど、忘れてはいない記憶も数多く残っていることは確かである。
 
 また、この後に隣の住人は、どんなに頑張ってもひとりでは抱え込めずに、止めどなく溢れ出る苦しみに苦悩していた青年期の私を、救いと信仰の道に導き、それまでの私の人生では知り得なかった、他者からの深い優しさと愛情を教えてくれた家族であったのだ。特に、主のT氏は、私を信仰の道に導き、洗礼時の代父(ゴット=ファーザー)となって霊的な父親として婦人と共に様々な面で支えてくださった方となったのだ。
 
 このI家の人々、特にMとの交流が密接になるのは、私がMの高校受験のための家庭教師をするようになった一年後のことであったが、それ以前に教会のクリスマスに誘われ、生まれて初めてのクリスマスミサを体験したことは、一度は諦めて本棚の隅に置き去りになっていた聖書を、また読んでみたいという衝動に駆り立たせ、聖書の謎に関する好奇心にも目覚めさせ、その謎解きがなされる期待に胸をふくらませていたのだ。
 
 I家の婦人よりMの家庭教師の依頼を引き受けたのは、私が高校2年生の時であった。それまでMのことは名前さえもろくに知らずにいたと思うが、家庭教師をやるようになってからは、互いに互いのことをよく知るようになっていった。最も私が二歳年上であったので、中高生の年代では先輩と後輩の関係の域を脱することはなかったと思うが、Mという人物は、明朗快活で根明で社交的で、中学生という年齢に比しては、人付き合いに特別な能力を感じさせるほど、他者の気持ちを捉え、人に何をすれば喜んでもらえるかなど、相手を察知する洞察力と気遣いばかりか、処世術や世渡り術にさえも長けていたように思える。特にMは、人を笑わせることや喜ばせることについては、いつもその策を頭の中に巡らせ、計算ずくの笑いや冗談、そしてだじゃれを連打連発して人を笑わせることに快感を覚えるような、小賢しい中学生でもあった。だから、この私には持ち合わせのないMの能力や性格や気質、そしてタレントは、自分にないものに対する嫉妬というよりは、むしろMのセンスに着いていけずに、自分が馬鹿にされているようで、おもしろさ以上に腹立たしい感情を覚えて、最初の頃は私を不快にさせたこともあったのを覚えている。
 
 しかし、二人の関係は家庭教師と生徒または、先輩・後輩の隔たりがある程度はあったにしろ、私の部屋で一緒の学習時間を過ごし、その中でMが分からなかったところを教えていたというもので、どちらかというと師弟関係や先輩・後輩等の主従関係ではなかく、むしろ兄弟感覚で付き合える気楽なものであったと思う。多分それは、Mの気遣いのおかげだったに違いないが、とにかく二人は良好な関係をその後も築いていったと思っている。
 
 その二人の関係において、意思疎通がやや自然にできるようになった頃ではないだろうか。私は、教会で、聖書の勉強をさせてもらえないかということを、MをとおしてMの父さんのT氏にお願いしてもらえないかということを恐る恐る切り出したのだ。しかし、私の心配をよそに、Mは快く引き受けてくれて、教会での聖書の勉強は、Mの持ち前の気さくさと行動力も手伝ってか何ということはなくスムーズにことが進み、実現の運びとなったのである。その教会というのが当時、I家の人々が通っていて、現在私が所属しているカトリック本町教会であり、私の信仰の原点となったところである。
 
 このような次第で、私の教会での聖書勉強が始まり、同時に毎日曜日のミサにMと一緒に与るということも日常になっていったのである。聖書の勉強の日は、毎週金曜日の17:00からだったと記憶している。そして、その日だけは部活のテニスを早く切り上げ、教会に行ってカテキスタのS氏から聖書を学んだのである。このカテキスタのS氏も、その後の私の人生に大きな影響を与えた人物となった。
 
 こうして、聖書の勉強をとおして、生まれて初めの私と教会とのつながりが始まったが、それは私が高校二年生時の初秋の頃で、ちょうど母の健康状態に不穏な兆候が見られるようになった時期と、同じ時であったことを今でも忘れてはいない。
 
 4     U 『教会との出会い』 2 「信仰への導き」 2006年2月2日(木) 
 
U 『教会との出会い』
2 「信仰への導き」
 
 母の病が、私を信仰の道に導いた。教会との出会いがあった高校2年生の秋、母の不可解な病が始まった頃のことである。親や教師からの自立を求め、いつも反抗的で挑戦的でかつ好戦的だった。世の中の全てを敵に回して闘っているつもりでいながら、常に自分を受け入れ愛してくれる誰かを求めて止まない、もろくも壊れやすく不安定で矛盾に満ちていた不統一な存在であった。
 
 母の病気は、私を窮地に追いつめた。私は、幼児の頃はわんぱくにもかかわらず、体が弱く小学校の低学年の頃までは、病院通いが絶えなかったのを覚えている。だから母は、私を未熟児で出産したせいもあってか、いつも私の体を気遣い心配して育ててくれた。私も母親への依存が人一倍強く、小学校の頃は学校から帰るとまずは母がいるかどうかを確かめたものだ。そして、お帰りなさいの母の声を聞いてからでないと安心して遊びに出かけることができないという甘えん坊の少年であった。
 
そんな少年も中学校を経て高校に入学すると、青年期特有の自我の目覚めからくる反抗や心理的離乳の時期を迎え、母の愛情や気配りからくる親心が過干渉といううざったさを感じさせるものに変わっていってしまった。心や頭のどこかでは、子に対する当然の心配だと分かりつつ、必要以上に無闇に拒否しながらも、一方では依存の域を脱せずにいた時期であった。その証拠に、母が入院したことで私の生活は不規則になり、母に対する心配や憤りそして、そこからくる寂しさや不安など、自分ひとりでは抱えきれないさまざまな思いに包まれて、自己制御ができなくなる寸前にいたのであった。そんな複雑な思いのために、学習にも集中できずに、ただただテニスに夢中になることでやりきれない得体の知れない何かを紛らし、なんとか自分を保つための救いとなっていた。そして、もう一つの救いは、かすかな希望を信仰の道を志すことに見出していたということであった。
 
私は、当時毎週金曜日には、夢中になっていたテニスの部活も早々に切り上げ、5時から教会に行ってカテキスタのS氏から聖書を学んでいた。S氏は、合理的なものの考え方をする方でありながらも情に厚く包容力に富んでいて、私の抱えきれずにこぼれる思いを少しずつ受け止めながら、やがては私の境遇のすべてを飲み込んで私を信仰の道へと導いてくれた信仰者に相応しい人物である。S氏は、聖書のいろはを紐解きながらも人生とは何かを解き明かしてくれた。勿論十七、八の駆け出しの若き青年にはそのすべてが分かろうはずがなかったものの、自分もいずれそのような世界に足を踏み入れて生きていくのだろうと心構えをするぐらいのことはできたようには思っている。そして、何よりもS氏からは、祈りの力を教えられた。それまで私は本当の祈りを知らなかった。あるいは、カトリックの幼稚園に通っていた幼児期の頃のあの祈りが本当の祈りであったとするならば、それ以来本当の祈りをずっと長い間忘れていた。何事も疑わずに、心から素直に大いなるものに帰依する祈りなどというものはそれまで知らなかった。そう、そのころ母が病に倒れ危篤状態になったその時まで…。
 
 当時は、まだ教会に通い始めたばかりで、主の祈りや天使祝詞もおぼつかず、祈祷書を見ながらロザリオの祈りを捧げ、母を救って欲しいとの一心でただ祈ることのみが自分のできる残された唯一のすべであった。そして、それは自分を保つことにおいても同様のことであった。人生を生きることにおいて、祈ることのみにしか希望を見いだすことのできない時というものが幾度かあるものではないだろうか。私にとってのそんな時の初めての体験がこの時であった。自分の部屋の中で一人、椅子を祈祷台にして跪き、恐れに震える体を縮み込ませながら、ひたすらロザリオの祈りを祈り続けた。意味もよく分からず、使徒信経から主祷文、天使祝詞そして栄唱に始まり喜びの玄義、苦しみの玄義、栄えの玄義と一環五十回の天使祝詞の祈りを三環、それを何度か続けた。洗礼を受ける以前のことであったが、ロザリオの祈りは窮地に追い込まれた自分の心を落ち着かせ不思議と救われた思いにさせてくれた。
 
 信仰とは、自分自身ではどうしようも立ち行かない只中で、苦しみもがくありのままの姿を、祈りのうちにその全てを神にお委ね申し上げるということではないのだろうかと思う。悲しみや苦しみのどん底に落ちるとそれに気づかされるのではないだろうか。自分における全てについての無力感や限界を知り寂寥感に佇み孤独の一語に陥ったとき、人は神に出会うことができるような気がする。きっと、この時の私はまだこのことには気付いてはいず、かといって未だ惑わず主の道を歩いているとは言い難いのだが、少なくともそのようなことに気付くための道に足を踏み入れたことは確かである。このような意味において、母は私を信仰の道へと導いてくれたと言えるのであるが、むしろその真相は、神が母の病に苦しみ途方に暮れていたこの私を、信仰の道へと招いて下さったということに違いないのである。
 

Last updated: 2007/1/5

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