U 『教会との出会い』
1 「隣の住人」
そう、ちょうど私が中学校3年生の時、季節は覚えていないが春3月か秋の9月だっただろうか…。その家族は主の転勤のため八戸市から青森市に転住し、私の家の隣に引っ越してきたのである。我が家の隣りの居は、古くから電力会社の重役の社宅になっていて、数年毎に転居と入居が繰り返されることが、普通になっていたのだ。
まぁ、そのようなことで、新しい住人が引っ越してくる度に、新たな近所付き合いが始まるのも慣れたものとなっていたわけで、I家の住人の人々についても、当初は特にこれといって特別な思いで受け止めていたわけではなかった。しかし、引っ越し当時の記憶として残っていることの一つには、子どもの転校手続きのため、住人の主であるT氏とその息子のMが放課後の中学校を訪問して、学校の一室で面接をしている光景がある。そしてそれは、私が下校時に校舎玄関を出たところで、振り向き様に偶然、窓越しにその光景を見つけて、それが隣に引っ越してきた住人であることに気付いて、Mがいったい何年生に転入するのかということに、関心を寄せていたこともはっきりと覚えている。そして、もう一つ印象深いことは、引っ越した少し後に、それまでに私が見たこともない数の薔薇の花が、庭一面に植え込まれたということであった。
私自身は、その後しばらくの間は隣の住人の誰とも個人的付き合いはなかったが、ただ私の母はI家の婦人でMの母とのご近所付き合いが、早くも始まっていたように記憶している。そして、そのことを通じて、Mが中学校一年生で、I家の家族が、カトリックの信者であることを知らされたのだと思うが、当時の私は高校受験を目の当たりに控え、特に関心を寄せてはいなかったのではないかと思う。しかし、そんな受験期の気ぜわしく慌ただしい中にあっても、未だに記憶に残ることは、Mがサッカー部に入部していたこと、I家の主であるT氏は、その頑健な体つきには似合わず、ひょうきんで愛嬌深く、独特のいたずらっぽい満面の笑みを人に投げかけ、いつも歌を歌いながら薔薇の花の手入れに余念がなかったことなど、忘れてはいない記憶も数多く残っていることは確かである。
また、この後に隣の住人は、どんなに頑張ってもひとりでは抱え込めずに、止めどなく溢れ出る苦しみに苦悩していた青年期の私を、救いと信仰の道に導き、それまでの私の人生では知り得なかった、他者からの深い優しさと愛情を教えてくれた家族であったのだ。特に、主のT氏は、私を信仰の道に導き、洗礼時の代父(ゴット=ファーザー)となって霊的な父親として婦人と共に様々な面で支えてくださった方となったのだ。
このI家の人々、特にMとの交流が密接になるのは、私がMの高校受験のための家庭教師をするようになった一年後のことであったが、それ以前に教会のクリスマスに誘われ、生まれて初めてのクリスマスミサを体験したことは、一度は諦めて本棚の隅に置き去りになっていた聖書を、また読んでみたいという衝動に駆り立たせ、聖書の謎に関する好奇心にも目覚めさせ、その謎解きがなされる期待に胸をふくらませていたのだ。
I家の婦人よりMの家庭教師の依頼を引き受けたのは、私が高校2年生の時であった。それまでMのことは名前さえもろくに知らずにいたと思うが、家庭教師をやるようになってからは、互いに互いのことをよく知るようになっていった。最も私が二歳年上であったので、中高生の年代では先輩と後輩の関係の域を脱することはなかったと思うが、Mという人物は、明朗快活で根明で社交的で、中学生という年齢に比しては、人付き合いに特別な能力を感じさせるほど、他者の気持ちを捉え、人に何をすれば喜んでもらえるかなど、相手を察知する洞察力と気遣いばかりか、処世術や世渡り術にさえも長けていたように思える。特にMは、人を笑わせることや喜ばせることについては、いつもその策を頭の中に巡らせ、計算ずくの笑いや冗談、そしてだじゃれを連打連発して人を笑わせることに快感を覚えるような、小賢しい中学生でもあった。だから、この私には持ち合わせのないMの能力や性格や気質、そしてタレントは、自分にないものに対する嫉妬というよりは、むしろMのセンスに着いていけずに、自分が馬鹿にされているようで、おもしろさ以上に腹立たしい感情を覚えて、最初の頃は私を不快にさせたこともあったのを覚えている。
しかし、二人の関係は家庭教師と生徒または、先輩・後輩の隔たりがある程度はあったにしろ、私の部屋で一緒の学習時間を過ごし、その中でMが分からなかったところを教えていたというもので、どちらかというと師弟関係や先輩・後輩等の主従関係ではなかく、むしろ兄弟感覚で付き合える気楽なものであったと思う。多分それは、Mの気遣いのおかげだったに違いないが、とにかく二人は良好な関係をその後も築いていったと思っている。
その二人の関係において、意思疎通がやや自然にできるようになった頃ではないだろうか。私は、教会で、聖書の勉強をさせてもらえないかということを、MをとおしてMの父さんのT氏にお願いしてもらえないかということを恐る恐る切り出したのだ。しかし、私の心配をよそに、Mは快く引き受けてくれて、教会での聖書の勉強は、Mの持ち前の気さくさと行動力も手伝ってか何ということはなくスムーズにことが進み、実現の運びとなったのである。その教会というのが当時、I家の人々が通っていて、現在私が所属しているカトリック本町教会であり、私の信仰の原点となったところである。
このような次第で、私の教会での聖書勉強が始まり、同時に毎日曜日のミサにMと一緒に与るということも日常になっていったのである。聖書の勉強の日は、毎週金曜日の17:00からだったと記憶している。そして、その日だけは部活のテニスを早く切り上げ、教会に行ってカテキスタのS氏から聖書を学んだのである。このカテキスタのS氏も、その後の私の人生に大きな影響を与えた人物となった。
こうして、聖書の勉強をとおして、生まれて初めの私と教会とのつながりが始まったが、それは私が高校二年生時の初秋の頃で、ちょうど母の健康状態に不穏な兆候が見られるようになった時期と、同じ時であったことを今でも忘れてはいない。
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