はじめに
ここに、私の家族のことを書こう。妻のこと、子どもたちのこと、そして私自身のことを書こう。私たちが、どんな家族を築いてきているのかを書こう。きっと、家族とは何かが見えてくるに違いない。私たちの家族の生い立ちを綴ることで、神様が私たち家族に何をお望みなのか、そしてそのためにどのようなお恵みをお与え下さったのかがわかるに違いない。
私たち家族に、神なる主イエス・キリストの一致がもたらされますように、神様の望みを現すしるしを読み取り、御旨にそった日々の生活を過ごせますように。そのために、私や妻の生い立ちにも触れながら、私たち家族のこれまでの足跡を辿り、私たち家族のこれからの行く末を見据えていこうと思う。
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
主なる神は野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへもってきて、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると、人は言った。
「ついに、これこそ 私の骨の骨 私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)からとられたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2.18〜25)
イエスは答えて、「創造主が初めから人間を男と女とに造り、そして、『それゆえ、人は父母を離れて自分の妻に結ばれ、二人は一体となる。』と言われたことを、あなた方はまだ読んだことがないのか。従って、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それで、神が合わせたものを人間が離してはならない」と仰せになった。(マタイ19:6)
このように、人は皆、男と女に関わらず、それぞれ単独においては不完全な存在であるものの、二人が一体となることで、新たな命を誕生させるという神の創造の計画の一端を担う存在となり得るのである。命は、父母の生命体の合致により芽生え、母の胎の中で育まれ、生まれ出でて、父母のもとで育てられ、成長していくのである。この誕生と成長の過程に「家族」という基礎的集団に大きな働きと使命が帯びてくることになるのだ。
生命倫理上の問題が大きい、クローン技術による誕生を例外とすれば、この世に生を受ける者にとって、父母の存在しない者は誰一人としていない。しかも、人間はかなり未成熟の状態で生まれてくることを考えれば、そこにおける意味合いや根拠も重要な位置を占めることを意味しているに違いない。未熟な状態で生まれてくるが故に、育てられなければならない必然性を含みながら誕生していると言うことなのである。しかも、人間は、他の動物に比して肉体的・精神的成熟に要する期間が極めて長期間にわたると言えるが、このことについても、人間の成長が家族や社会による教育や自己鍛錬を必要とすることの表れであると言えよう。特に精神的成長過程においては、愛情に根ざした両親・兄弟・友人等の関わり無しには、達成されない。人間の成長とは、極めて繊細かつ微妙なバランスの上に成り立っていると言わざるを得ない。このような人間の成長を健全に進行させ、豊かな精神性と能力を身に付けさせるには、両親を核とした「家族」の深い愛情なくしては、達成させることは不可能なことである。
では、これから私たち「家族」のことをここに記していこう。大いなる恵みの源である神様と主なる御独り子イエス・キリストとの絆を見失わないように、私たち家族のことをゆっくりと確実に書いてこう。
2007年2月9日(金)
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