従って、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それで、神が合わせたものを人間が離してはならない」と仰せになった。
(マタイ19:6)

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妻と夫と家庭 Wife , Husband and Family

「主なる神は言われた。人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。中略 ついに、これこそ私の骨私の肉。これこそ女(イシャー)と呼ぼうまさに、男(イシュ)からとられた者だから。」
(旧約聖書 創世記2:18)
 
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 1     「家族」 はじめに 2007年2月9日(金) 
はじめに
 
 ここに、私の家族のことを書こう。妻のこと、子どもたちのこと、そして私自身のことを書こう。私たちが、どんな家族を築いてきているのかを書こう。きっと、家族とは何かが見えてくるに違いない。私たちの家族の生い立ちを綴ることで、神様が私たち家族に何をお望みなのか、そしてそのためにどのようなお恵みをお与え下さったのかがわかるに違いない。
 
 私たち家族に、神なる主イエス・キリストの一致がもたらされますように、神様の望みを現すしるしを読み取り、御旨にそった日々の生活を過ごせますように。そのために、私や妻の生い立ちにも触れながら、私たち家族のこれまでの足跡を辿り、私たち家族のこれからの行く末を見据えていこうと思う。
 
主なる神は言われた。
 「人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう。」
 主なる神は野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへもってきて、人がそれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて生き物の名となった。人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名を付けたが、自分に合う助ける者は見つけることができなかった。
 主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、その跡を肉でふさがれた。そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。主なる神が彼女を人のところへ連れてこられると、人は言った。
 
 「ついに、これこそ 私の骨の骨 私の肉の肉。これをこそ、女(イシャー)と呼ぼう
  まさに、男(イシュ)からとられたものだから。」
 こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
 人と妻は二人とも裸であったが、恥ずかしがりはしなかった。(創世記2.18〜25)
 
 イエスは答えて、「創造主が初めから人間を男と女とに造り、そして、『それゆえ、人は父母を離れて自分の妻に結ばれ、二人は一体となる。』と言われたことを、あなた方はまだ読んだことがないのか。従って、彼らはもはや二人ではなく、一体である。それで、神が合わせたものを人間が離してはならない」と仰せになった。(マタイ19:6)
 
 このように、人は皆、男と女に関わらず、それぞれ単独においては不完全な存在であるものの、二人が一体となることで、新たな命を誕生させるという神の創造の計画の一端を担う存在となり得るのである。命は、父母の生命体の合致により芽生え、母の胎の中で育まれ、生まれ出でて、父母のもとで育てられ、成長していくのである。この誕生と成長の過程に「家族」という基礎的集団に大きな働きと使命が帯びてくることになるのだ。
 
 生命倫理上の問題が大きい、クローン技術による誕生を例外とすれば、この世に生を受ける者にとって、父母の存在しない者は誰一人としていない。しかも、人間はかなり未成熟の状態で生まれてくることを考えれば、そこにおける意味合いや根拠も重要な位置を占めることを意味しているに違いない。未熟な状態で生まれてくるが故に、育てられなければならない必然性を含みながら誕生していると言うことなのである。しかも、人間は、他の動物に比して肉体的・精神的成熟に要する期間が極めて長期間にわたると言えるが、このことについても、人間の成長が家族や社会による教育や自己鍛錬を必要とすることの表れであると言えよう。特に精神的成長過程においては、愛情に根ざした両親・兄弟・友人等の関わり無しには、達成されない。人間の成長とは、極めて繊細かつ微妙なバランスの上に成り立っていると言わざるを得ない。このような人間の成長を健全に進行させ、豊かな精神性と能力を身に付けさせるには、両親を核とした「家族」の深い愛情なくしては、達成させることは不可能なことである。
 
 では、これから私たち「家族」のことをここに記していこう。大いなる恵みの源である神様と主なる御独り子イエス・キリストとの絆を見失わないように、私たち家族のことをゆっくりと確実に書いてこう。
 
2007年2月9日(金)
 2     我が家の聖夜 2005年11月2日(水) 
 12月24日、クリスマス=イヴの午後6時。我が家はミサに行くための準備に大わらわである。何せ聞き分けのない3匹の悪魔、じゃない天使のようなミカエル(優友)、ヨハネ(優心)、ペテロ(優仁)の三人の息子たちが飽きもせず、親の言うことをよそ目にひしめき合い、お戯れに限度がないからだ。更にお出かけ前には入念な変身?を試みる、じゃなくて身支度をする妻のオデリア(美紀)。えっ、この私?ベネデイクト=ラブル(総夫)と言えぱ、妻に「一番下の面倒ぐらい見てよぉ」とのおしかりを受け「ハイハイハイ」と調子のいい返事! あっ、ミサまであと30分!急がなきゃ、章駄天、またまた、じゃなかつた、マリア様の前に忽然と姿を現した大天使ガブリエルのように、教会へと一瞬にして一家丸ごとワープするのだ。こんな慌ただしいイヴが我が家の年中行事の一つ、聖夜にはほど遠い現実の一コマである。
 
 クリスマス=イヴのミサはキャンドルサービスから始まる。侍者を通して皆に配られるともしびは、神のひとり子イエスの誕生の喜び、救いの恵みの分かち合いのセレモニーである。クリスマス、すなわち、イエス・キリストの馬小屋での誕生は、キリストを信じる者に「清貧・謙遜・忍耐」の三つの徳を教え諭すものだという。神ご自身が幼子の姿で、しかも厩で弱き者として、貧しき姿でお生まれになり、羊飼いという身分の低い者達にまず祝福された。この救いのプロローグは、十字架による人間の罪のあがないというエピローグまで、一貫して神の救いの計画が苦しみを通して私達の信仰によって成就されることを教えているのである。馬屋はキリストの誕生である救いの始まりを、十字架は苦しみを通して神の救いが成就することをあらわす象徴であり、コマーシャリズムやファッションに使われるお飾りじゃない。
 
 ミサが終われぱ、皆でパーティーを催すのが我が教会の慣例。自家製の生そばとおでんは定番メニューとして人気が高い。一時間ほどの間賑わい、後片付け、一段落すると時計はすでに10時を回っている。二次会の準備も整っているが、我が家は小さな子供もいるということで、家路につくことになる。家について一息つくと子供はもう寝る時間だ。子供達はサンタクロースからのクリスマスプレゼントヘの期待に胸を膨らませながら、床につく。もうそろそろ、上の二人の息子はサンタクロースのたねと仕掛けに気づき始めているようだが、その真相を知るにはまだ彼らの理解を超えているだろう。
 
 子ども達が寝静まった頃を見計らい、子ども部屋へ妻と二人で静かに入る。もちろんサンタクロースの代わりに…。本当のサンタクロースは、子ども達の夢の中にもう既にやって来ている。セント・ニコラウスの意志は、現代に今も息づいて受け継がれているのだ。クリスマスツリーの点滅する明かりに照らされて、見え隠れする子ども達の寝顔を見るにつけ、この子達によって自分たちが、親にさせてもらったことを神に深く感謝して止まない。そして、親として子ども達への愛情の注ぎ方を教えてくれた両親にも、感謝の気持ちで一杯になる。その母は、この秋に二十六年間の闘病生活の末、七十七歳の生涯を閉じたが、今は父親としてのこんな私の姿を天国から心配げにも、静かに眺めてくれているに違いない。母の人生とその死は、親として子に愛情を注ぐことのすぱらしさを教えてくれた。そして、何よりも「僕はお母さんの子どもで、お母さんのことがずっと好きだった。」ということに気づかせてくれるものであった。このことは、私の今までの人生の中で、母からもらった高価で一番大切な贈り物である。
「亡き母へ捧ぐ」
2001年12月青森明の星高等学校「マーテルアルマ」より
妻と息子

Last updated: 2007/2/9

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