2001岡谷オープニングイベント(その3)


小一時間くらい寝ただろうか、ぐっすり寝れた。あっくんは芝で寝るのは競馬場で慣れている(笑)。そろそろ櫻井氏の講演が始まる時刻、館内アナウンスに促されて再びスカイライン博物館へ。ちなみにミュージアムへは、半券さえ無くさなければ何回でも再入場可能です。

行ってみると、既にたくさんのお客さんが待ってらっしゃる。立ち見のお客さんも多い。あっくんも片隅に立って、筆記用具を取り出す。しばらくすると、櫻井氏とミュージアム顧問伊藤氏がいらっしゃった。いよいよ開演、今回のテーマは、

「ケンメリ/ジャパン誕生秘話」

以下は、あっくんメモを基に再現した講演の模様です。司会進行役(SRCのK氏)の質問に対して、櫻井氏、伊藤氏が答える対話形式で行われました。もちろんダイジェストでのご紹介のため、櫻井氏がこのままを話したわけではありません。聞きもれ、聞き間違いなどあるとは思いますが、主な内容は全て抑えてあるはずです。
 

Q.まずケンメリですが、この車はどのようなコンセプトで作られたのでしょう?

櫻井:
初代スカイラインは、いわゆるスカイラインシリーズのルーツではありません。あれはグロリアのルーツです。メンテフリーを主眼において製作した2代目こそスカイラインのルーツです。3代目は玄人好みの車を目指しました。つまり女性が乗る車ではなく、運転に熟練を必要とした車、それが箱スカです。このため、誰にでも乗れる車を作ってくれ、そして数を売ってくれと、当時のプリンス社長に言われました。それで作ったのが4代目ケンメリです。はっきり申しまして、あれはスカイラインではない。ケンメリは一番商品寄りに作った車、拡販路線を狙った車、正直申しまして一番残念な車でした。
 

Q.シャーシ設計者である伊藤さんはどのようにお考えですか?

伊藤:
私も以前ブルメタのケンメリに乗ってましたが、Cピラーがジャマして後方視界の悪い車でしたね。ケンメリではないですけど、フロントを無理やり200mm延長してグロリアの6気筒エンジンを詰め込んだ、これがスカイラインの始まりでした。
 

Q.ケンメリGT-Rなんですが、これでレースに出場する予定はあったんでしょうか?

櫻井:
3代目の2ドアハードトップで、ホイールベースを詰めました。これはもちろん、レースで勝つためです。このため、後部座席は4ドアセダンのそれと比較すると、かなり狭くなっています。ところがケンメリは2ドア、4ドア共にホイールベースは同じなんです。これはプリンスが日産に吸収合併され、(話し合いの結果)製造原価を下げるためにハードトップ、セダンともに同一のプラットフォームを採用したことに起因します。当時は、売っては原価を下げ、また売っては原価を下げの繰り返しで収益を上げたわけです。このような状況だったため、ケンメリでレースを行うつもりはありませんでした。元々スカイラインはGT-Rありきではありません。4気筒の1600ccを主体として底を広げていった、これがスカイラインです。
 

Q.GT-Rを197台で打ち切った理由と、その血統を受け継ぐGTSを作られた理由をお聞かせ下さい。

櫻井:
GTSは4輪ディスクを装備し足回りを固めましたが、3代目より(車重は)重かった。空力的にもケンメリより(3代目の方が)上でした。当時はレースより排ガス対策の方にコストを投入しなければなりませんでした。ですから、排ガス対策(NAPS)のためにGTSを作ったという意味合いが強い。GT-Rを197台で打ち切った理由も、排ガス対策に工数をかけるためです。
 

Q.続いては5代目ジャパンですが、この車の開発コンセプトをお聞かせ下さい。

櫻井:
ジャパンでも販売重視のコンセプトに変わりはありませんでした。開発サイドとしても、(レース目的ではなく)一つの作品として売っていこうと。
デザインに関しては自然の摂理に逆らわない、これがスカイラインの哲学です。例えばサーフィンラインに関して説明しますと、まず3代目、箱スカのサーフィンラインは刺繍用の輪に布をピンと張って、そこに竹ひごをあてて押し出したもの、これが3代目のラインです。4代目ケンメリは、上下のラインの接合面をノミで削ぎ落としたラインです。5代目のジャパンは、上下のラインの接合面を破ったラインを出しています。このように、自然の摂理を大事に表現したのがサーフィンラインです。特にジャパンは「作品」というコンセプトを押し出すため、マニアックな方向に持っていきました。

パンフレットを利用して、サーフィンラインを説明する櫻井氏。

 

Q.伊藤さんはジャパンにはどのような印象がありますか?

伊藤:
ジャパンは4気筒のサスにコイルを採用したのが特長でしたね。6気筒はケンメリと変わりません。2代目のS54は月産3.000台でしたが、高性能化を図った3代目箱スカは月産6.000〜7.000台ペースで生産されました。さらに大衆化を目指した4代目ケンメリは、月産10.000台の大台に乗り、5代目ジャパンではピーク時25.000台以上生産されました。売り上げとは裏腹に、当時はマスキー法による51年規制、すなわち排ガス対策が大変でした。HC、CO排出量を1/10以下にしなければならなかった。これらはうまく燃焼させれば解決できるんですが、厄介なのがNOx、特にジャパンはNOx対策で大変でした。つまり排ガス対策に工数をかけるだけで精一杯の時代でした。ですからバリエーションを増やしたり、限定車を出したりして売り上げ増を計った、非常に厳しい時代でしたね。
 

Q.特にジャパンに関して、マイナーチェンジを行い、後期型を作られた理由をお聞かせ下さい。

櫻井:
当時、丸目は古いという風潮がありました。そこで独自のライトにしたのですが、レンズカットに非常に苦労しました。インパネも(前期型が)売れたから、マイナーチェンジできたわけです。
 

Q.その後期型なんですが、なぜターボ搭載車(の発売)が遅れたのですか?

櫻井:
この理由は言えないなあ、勘弁して下さい(苦笑)。
元々ターボは、スカイラインが元祖です。すごくいいものができました。が、ある理由があって発売が9ヶ月遅れたんです。まあ、合併ってのは大変なんですよ(爆)。
 

Q.そのターボに弱点があったと聞きますが...

櫻井:
私は自分が作った車には、必ず最初に自分が乗ります、ジャパンターボに私が乗って、富士スピードウエイの1コーナーバンク(あっくん注:当時の馬の背バンクのこと)をフルスロットルで駆け抜けたところ、ターボの出力が落ちてしまった。バンクによる強烈なGのため抵抗が出て、タービンが回らなくなった記憶があります。吸収加速で押し付けられたのが原因でしょう。HR30ではこの不具合を直しました。
 

Q.さらにジャパンには、ディーゼルGTが存在しますが、これを作られた理由は?

櫻井:
ディーゼルの方が炭酸ガス排出量が少なく、燃焼効率がいい。もっとも、エンジン音が高いのが難点ですが。もっと作ろうと思ったのですが、お客さんの理解を得られませんでした。このディーゼルにターボを搭載したら、いい車になったと思いますよ。

伊藤:
長距離走行に適していますが、個人的には好みではなかったです(笑)。
 

Q.最後に本日集まったケンメリ/ジャパンオーナーに一言メッセージをお願いします。

伊藤:
ケンメリ/ジャパンともに、一月で万単位も売れた車です。これは当時のベスト3に入った記録です。これだけ売れたんだから、歴代スカイライン中でも花形モデルと言えるでしょう。錆には弱いけど、どうか末長く可愛がって下さい。

櫻井:
私は、いつまでも飽きの来ない車を作ってきたつもりです。常に会社や世の中の状態に合ったもの、常に時代にマッチさせた車を作ってきました。特にケンメリ/ジャパンは、非常に厳しい時代に生まれましたが。ケンメリ/ジャパンに限らず、全てのスカイラインオーナーのみなさん、どうか末長くスカイラインを大事にして下さい。
 

貴重なお話ありがとうございました。みなさん盛大な拍手を!

1、2、3、ダアアァーーッ!(←うそ)