「教会を離れている信徒の方へのメッセージ」
 今は、教会を離れているキリスト者の方へのメッセージ

 教会を離れているあなたは、幼児洗礼を受けたいわゆる「ボーンク・リスチャン」ですか?それとも、物心がついた児童期やプレ青年期の中学時代に親のすすめや親と共に受洗した方ですか?あるいは、成人してから自らの選択によってキリスト者となった方ですか?いずれにしても、さまざまな事情により、今は教会を離れているのでしょうね。

 幼児洗礼もしくは児童期やプレ青年期の中学時代に親のすすめや親と共に受洗した方へ。

 もしかしたら、あなたは自分の意志によらずに親の意思によって信者となった。あるいは信者にさせられたと思っていますか?確かに、自分の意志によらずに受洗しキリスト者となったということは事実ですね。でも、次のことについて思いを巡らせてみてはいかがでしょうか?
 それは、「あなたは、あなた自身の意思で生まれましたか?」ということです。ルンビニーでお生まれになったガウタマ・シッダールタ(釈迦)は、人生において自分の思いどおりにならないことを苦と言いました。そして、その最大の四つの苦を四苦と称し、「生(生まれること)・老(老いること)・病(病にかかること)・死(死ぬこと)」と教えました。そうです。この世のすべての人は、自らの意思によって生まれることなく生きているというのが、紛れもない事実なのです。本来的にこの世に生まれる命とは皆、自分の意思によらずに生まれ、そこには自己の選択の余地など無いということです。
 では、生まれて間もないあなたが、なぜ洗礼を授けられキリスト者となったのでしょうか?それには、明確な親の意思による神さまの招きがあるからです。
 イエスは、次のように言います。

 「あなたがたの中に、魚を欲しがる子供に、魚の代わりに蛇を与える父親がいるだろうか。また、卵を欲しがるのに、さそりを与える父親がいるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良い物を与えることを知っている。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださる。」(ルカによる福音書 11:11-13)

 きっと、聞いたことのある聖句ですよね。そうです。どんな親も自分の子どもには最善なもの、必要不可欠なものを与えようとするのです。子どもがニンジンが嫌いだからといって与えない親はいません。何とか工夫して食べさせ、必要な栄養を摂らせようとします。親が子を愛するのは、我が子故です。この上なく愛しく可愛いからなのです。ですから、あなたの親はあなたに信仰を持って生きて欲しいと願い、洗礼を授けることを決めたのです。
 天の父である神さまもおなじ心です。あなたは、あなたの親に、そして天の父である神さまにも必要とされ、愛されているのです。あなたが未だ何も知らなかったあの時から今までずっとです。
 
 成人してから自らの選択によってキリスト者となった方へ。

 自分の意思によって受洗しキリスト者となり、今は教会を離れている方にはきっと色々な理由があることでしょう。人には人それぞれ、その人でなければ分からないことが一杯あります。筆者は、教会を離れていった成人洗礼の信者を数多く知っています。その多くの人々は、教会内の人間関係の軋轢が原因です。司祭や信徒間の人間関係の問題です。わたしは、18歳の時に受洗し45年になりますが、未だに多くの教会内の人間関係には煩わせられますし、ときには人間不信や自己嫌悪に陥り教会を離れたくなることもあります。
 確かに、わたしたちのキリスト教信仰は、主イエス・キリストをとおしての父なる神との関係性にありますが、それとともに教会共同体との関係性と共にあることも確かなことです。では、なぜ主イエス・キリストは12人の弟子を必要とし教会共同体の礎をつくったのでしょうか?それは、人間の弱さにあります。イエスは、人間を良く理解し人間の弱さを知っていましたから、人が独りで信仰を貫くことはできないことを見抜いていたのです。ですから、弟子の中から12人を特に選び、教会共同体の礎とし、「わたしが、あなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい」という掟を定めました。
  主イエス・キリストは、次のように言います。

「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。わたしがあなたがたを愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。」(ヨハネ福音書15章1-12)

 現実を生きる中で、人間関係ほど厄介で難しいものもありません。たとえそれが司祭との関係であれ、信仰を同じくする信徒との関係であれ、みな不完全な人間ですから対立や不和、不理解や誤解が生じることもありますし、それが原因で人間関係が断絶されたり、すれ違いをもたらすこともあることでしょう。
 しかし、人間である以上、読んで字のごとく人は人との関わりの中ではじめて人間となります。そこには対立等の負の事象もありますが、協調や協働そして共観と同情等の正の関係性もあります。「互いに赦し合う」という主イエスの行いと教えに倣うのであれば、決して負の関係性やできごとだけではなくなるはずです。
 主イエス・キリストは、次のように言います。

「人を裁くな。そうすれば、あなたがたも裁かれることがない。人を罪人だと決めるな。そうすれば、あなたがたも罪人だと決められることがない。赦しなさい。そうすれば、あなたがたも赦される。 与えなさい。そうすれば、あなたがたにも与えられる。押し入れ、揺すり入れ、あふれるほどに量りをよくして、ふところに入れてもらえる。あなたがたは自分の量る秤で量り返されるからである。」(ルカによる福音書6章37-38節)

 聖書は、決してきれい事を記しません。現実のリアルな人間の醜さや弱さ、そして罪深さをも赤裸々に包み隠さず描きます。
 主イエス・キリストは、次のように言います。

 「イエスは、別のたとえを持ち出して言われた。「天の国は次のようにたとえられる。ある人が良い種を畑に蒔いた。人々が眠っている間に、敵が来て、麦の中に毒麦を蒔いて行った。芽が出て、実ってみると、毒麦も現れた。僕たちが主人のところに来て言った。『だんなさま、畑には良い種をお蒔きになったではありませんか。どこから毒麦が入ったのでしょう。』主人は、『敵の仕業だ』と言った。そこで、僕たちが、『では、行って抜き集めておきましょうか』と言うと、主人は言った。『いや、毒麦を集めるとき、麦まで一緒に抜くかもしれない。刈り入れまで、両方とも育つままにしておきなさい。刈り入れの時、「まず毒麦を集め、焼くために束にし、麦の方は集めて倉に入れなさい」と、刈り取る者に言いつけよう。』」(マタイによる福音書13章24-30節)

 そうです。教会共同体とは善人の集まりではなく、むしろ罪人の集まりでもあります。自分自身の人間としての原罪を自覚している人は良いのですが、善人の仮面をかぶった悪人である毒麦の人もいるのが、教会共同体のみならず現実社会の実態です。しかし、そのような人であっても悔い改め回心するチャンスは与えられていますから、裁きの時である最後の審判の時まで裁きは父なる神と主イエス・キリストに委ねるべきなのです。
 教会共同体内における人間関係の軋轢は、使徒言行録に描かれているように初代教会からありました。最も有名なのは、使徒ペテロをはじめとする12使徒と聖パウロとのパウロが自らを使徒と称することと、救いに割礼が必要かどうか、つまり神の救いはユダヤ人だけのものか、それとも異邦人にも救いがあるのか。といった激しい論争に端を発する人間関係の対立でした。
教会内の人間関係の軋轢で、教会共同体を離れている信徒であるあなたに問いたいと思います。「あなたは誰かを裁いていませんか?」と…。
 人は互いに自分の正義で人を裁きます。正義と正義がぶつかり合えば自ずと対立を生み出すのは当然の結果です。独善こそが他者ばかりか自分をも傷つけてしまいます。裁きは、神のみの業であることを忘れてはなりませんね。
 主イエス・キリストは言います。

 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」(マタイによる福音書7章11-6)

 教会共同体も人間が織り成す組織である以上、他者との対立は避けられませんし、もしかしたらその対立の中にこそ、教会の真の発展と進むべき道標が示されるのかも知れません。そして、幸いにも教会共同体とは、企業や学校のように機能的集団ではなく、人間を人材という道具として扱うこともなければ、利益最優先の組織ではなく、すべての人々に開かれた信仰共同体であることです。
 成人洗礼を受けキリスト者となったあなたには、きっと仕事や経済的な事情や子どもの教育、自分自身の病気療養、親の介護などの家庭内や職場における止むに止まれないさまざまな事情があることでしょう。
 しかし、父なる神さまは、あなたをこよなく愛し必要とされていることを忘れないでください。わたしたちの信仰は、主イエス・キリストをとおして、いつも父なる神と共につながりながら主の道を歩むことです。たとえ、罪を犯したとしても悔い改め回心し、神と和解して、再び父なる神と結ばれることです。それが、主イエス・キリストの福音のメッセージでもあります。
 日本社会では、宗教はちょっとした偏見と奇異な目で見られがちですが、それは「宗教」の理解が稚拙であることに原因があるのではないでしょうか。なぜならば、日本の教育には宗教教育が欠如しているからです。「宗教」とは中国から伝播した言葉で、人生における中心となる教えの意味の単語です。しかし、「キリスト教信仰の宗教」の意味は大きく異なります。英語のReligionの語源であるラテン語のreligareは、「結ぶ」という意味でre-religareは「再び結ぶ」の意味です。また、religioは「強く結ばれる」のいみで、何れも「宗教」もしくは「信仰」を表す語句です。わたしたちの信仰は、神さまから与えられた自由意思の誤用による神に背を向けるという原罪の本性による神からの離反から立ち返り、悔い改めと回心によって再び神さまと結ばれ和解することにあります。
 
 教会から離れていなくても離れていても、わたしたちは神さまといつもつながっているために、主イエス・キリストの行いと教えを正しく理解するために、常に学びと祈りを必要とします。
 いかがでしょうか。これを機会に再び学びを始めて見ませんか?このHome Pageのコンセプトは、「宣教するHome Page」と「宗派教育の学びのHome Page」です。よろしければ、「カトリック教会について」・「聖書について」・「ミサについて」・「教会典礼暦について」・「聖歌隊とミサ曲について」・「日本キリシタン史」のページもご覧下さり、あなたの信仰教育の一助としていただければ幸いに思います。
 今は、教会を離れている幼児洗礼を受けたいわゆる「ボーンク・リスチャン」であれ、物心がついた児童期やプレ青年期の中学時代に親のすすめや親と共に受洗した方であれ、あるいは、成人してから自らの選択によってキリスト者となった方であれ、父なる神さまは、わたしたちすべての人々をご自分に招かれています。どうか、さまざまな事情を乗り越えて、いつの日か教会に戻ってきてくださることを、お祈り申し上げております。
 あなたとあなたのご家族そして大切な方々の上に、父なる神さまのお恵みと、聖霊の働きが豊かに注がれますことを、お祈り申し上げております。
 最後に、「放蕩息子のたとえ」で有名な「いつくしみ深い父なる神の愛」を証しする聖句をもって締めくくりたいと思います。

 「また、イエスは言われた。「ある人に息子が二人いた。弟の方が父親に、『お父さん、わたしが頂くことになっている財産の分け前をください』と言った。それで、父親は財産を二人に分けてやった。何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。そこで、彼は我に返って言った。『父のところでは、あんなに大勢の雇い人に、有り余るほどパンがあるのに、わたしはここで飢え死にしそうだ。ここをたち、父のところに行って言おう。「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。雇い人の一人にしてください」と。』そして、彼はそこをたち、父親のもとに行った。ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を抱き、接吻した。息子は言った。『お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました。もう息子と呼ばれる資格はありません。』しかし、父親は僕たちに言った。『急いでいちばん良い服を持って来て、この子に着せ、手に指輪をはめてやり、足に履物を履かせなさい。それから、肥えた子牛を連れて来て屠りなさい。食べて祝おう。この息子は、死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったからだ。』そして、祝宴を始めた。」
ところで、兄の方は畑にいたが、家の近くに来ると、音楽や踊りのざわめきが聞こえてきた。そこで、僕の一人を呼んで、これはいったい何事かと尋ねた。僕は言った。『弟さんが帰って来られました。無事な姿で迎えたというので、お父上が肥えた子牛を屠られたのです。』兄は怒って家に入ろうとはせず、父親が出て来てなだめた。しかし兄は父親に言った。『このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹すらくれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる。』すると、父親は言った。『子よ、おまえはいつもわたしと一緒にいる。わたしのものは、全部おまえのものだ。だが、おまえのあの弟は死んでいたのに生き返った。いなくなっていたのに見つかったのだ。祝宴を開いて楽しみ喜ぶのは当たり前ではないか。』」(ルカによる福音書15章11-31) 

 † 主の平和が、あなたと共にありますように。アーメン。