教会がはじめての方へのメッセージ  

 教会に興味・関心がありますか?それとも、聖書やキリスト教信仰、そして教会に何かを求めていますか? 「救い」でしょうか。「癒し」でしょうか。「学び」でしょうか。おそらく、それは人それぞれでしょうね。
 たとえ教会に求めるものが、人それぞれ違っていたとしても教会の門戸は、すべての人にいつも開かれており、信仰は求める人のものであり個人の自由意思に基づくものです。そして、神さまはすべての人を愛し、ご自分に招かれている方です。ですから、あなた自身が求めるのならば、あなたに必要なものはすべて与えられることでしょう。
 主イエス・キリストは、つぎのように言っています。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。求める者は受け、探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」(マタイ福音書7章7-8節、ルカ福音書11章9-10節)と。

 現代は、価値観が氾濫するほどに多様化し、どんな道標を頼りに生きて行けば良いのかや何のために自己の人生を生きていったら良いのかを見失ってしまったり、生きづらさを感じがちな時代です。時には自己肯定感が持てずに、自分の存在価値を見出せないときもあることでしょう。
 しかし、そんな時に一筋の希望を与えてくれるのが、主イエス・キリストが証して下さった行いと教えです。希望は、生きる原動力です。キリスト教信仰の三元徳は、「信仰・希望・愛」です。使徒パウロは次のように言っています。

 「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
 愛は決して滅びない。預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、わたしたちの知識は一部分、預言も一部分だから。完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、幼子のように思い、幼子のように考えていた。成人した今、幼子のことを棄てた。わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、はっきり知られているようにはっきり知ることになる。それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である。」(コリントの信徒への手紙一13章4-12節)と。また、

 「このように、わたしたちは信仰によって義とされたのだから、わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており、このキリストのお陰で、今の恵みに信仰によって導き入れられ、神の栄光にあずかる希望を誇りにしています。そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを。希望はわたしたちを欺くことがありません。わたしたちに与えられた聖霊によって、神の愛がわたしたちの心に注がれているからです。」(ローマの信徒への手紙5章1-5節)と。

 キリスト教信仰とは、生きる希望と喜び、そして他者を愛する力を与えてくれるものです。なぜなら、キリスト教における信仰とは、主イエス・キリストをとおして神さまとつながっていることだからです。主イエス・キリストは、つぎのように言っています。

 「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。わたしにつながっていない人がいれば、枝のように外に投げ捨てられて枯れる。そして、集められ、火に投げ入れられて焼かれてしまう。あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。あなたがたが豊かに実を結び、わたしの弟子となるなら、それによって、わたしの父は栄光をお受けになる。父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい。わたしが父の掟を守り、その愛にとどまっているように、あなたがたも、わたしの掟を守るなら、わたしの愛にとどまっていることになる。」(ヨハネ福音書15章1-10)と。

 聖書によれば、わたしたち人間は神にかたどられ、神の似姿として、神によって創造されました。

 「神は御自分にかたどって人を創造された。 神にかたどって創造された。 男と女に創造された。」(旧約聖書 創世記1章27節)

 わたしたちは、知性・理性・霊性において神の似姿なのです。ですから、神さまとつながっていることで真に生きる者となるのです。わたしたちは、神さまの愛、慈しみ、憐れみを知ったときにはじめて救われ、希望を持って生きていく者となります。
 わたしたちの神さまは、「共にいてくださる神」・「抱きしめてくださる神」です。その神さまの愛に気付くとき、わたしたちは心の平安と幸福を感じながら生きて行く者となります。
 世間では、カトリック教会は敷居が高いとの評価があるようですが、決してそんなことはありません。教会とは善人や聖人君子の集まりではありませんし、人はみな罪人です。そして、「教会=エクレシア=共同体」とは、主イエス・キリストによって集められた共同体に他ならない人々の集いのことをいうのです。主イエス・キリストは次のように言っています。

 「イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」(マルコ福音書2章17節)と。

 どうぞ、キリスト教信仰に、教会に何かを求めている方は、いつでもいつまでもお待ちしておりますので、聖書の学びやミサに与りながら、共に祈り、共に聖歌を歌い、主イエス・キリストをとおして神さまと、そして互いにつながり合い互いに愛し合っていきましょう。
 こころより、お待ちしております。そして、あなたのご健康とお幸せをお祈り申し上げております。
 主の平和が、あなたと共にありますように…。アーメン。