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神の計画における教会 教会の名と像 「教会」というギリシア語のエクレシア(ἐκκλησία は ἐκ-καλείν〈呼び出す〉に由来)は「招集」を意味します。人々の集いの意味ですが、宗教的な集いを意味することが多かったのです。この後はギリシア語訳旧約聖書の中で、選ばれた民の神前集会、とくに、イスラエル民族が律法を授かり、神の聖なる民とされたシナイでの集会を表すため、頻繁に用いられています。キリストを信じる人々の最初の共同体は、自らを「教会」と呼ぶことにより、この集会の継承者であると自認していました。教会の中で、神は全地の果てからご自分の民を「招集されます」。その派生語としての英語のChurchやドイツ語のKircheが生まれたΚυριακη(キュリアケー)は、「主に属するもの」という意味です。 キリスト教用語の「教会」は典礼集会を指すと同時に、キリスト者の地域共同体、あるいはすべてのキリスト者の普遍的集いを示します。この三つの意味は実際には切り離すことができません。「教会」とは、神が全世界からお集めになる神の民のことです。この教会は地域共同体に存在し、典礼集会、とくにエウカリスチア(聖体祭儀)の集会として現れます。教会は神のことばとキリストの聖体とによって生かされて、キリストのからだとなっていくのです。
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注)教会は、新約聖書のコイネー・ギリシア語の名詞「エクレシア(εκκλησία)」に由来する。後期ラテン語訳聖書のヴルガータでは、ecclesia と訳されている。古典ギリシア語において、「エクレシア(エックレーシア)」とは、規則に基づいて召集された市民会議または立法府などの「政治集会」を指していた。しかし、新約聖書などに使われるコイネー・ギリシア語では、ヘブライ語の「宗教会議」を意味する名詞「カーハール」の意味として使用されるようになった。実際に、コイネー・ギリシア語の七十人訳聖書では、カーハールを「エックレーシア」で訳する例が存在する(詩篇 22章22節(マソラ本文)、21章23節(七十人訳))。 このヘブライ語「カーハール」は、七十人訳聖書において名詞「シュナゴーゲー(συναγωγή)」で訳される箇所がある(民数記 16章3節、20章4節)。シュナゴーゲーは、通常にユダヤ教の会堂を意味する(マタイ 4章23節など)。しかし、シュナゴーゲーは、信者の集いとしての意味で使用される例がわずかに残されている(ヤコブの手紙 2章2節)。このことにより、教会という語彙は、シュナゴーゲーとして使用する場合、「信者の集い」と「典礼に使用する建物」と両方の意味を指すことがある。 「教会」の字にある宗教の意味の「教え」は入っていおらず、これはエクレシア(εκκλησία)の中国語訳である「教会」が日本に伝播され、現代までそのまま使われてきているものです。 |
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第五章 教会 「聖霊を信じ、聖なる普遍の教会を信じます」。 使徒信条は、父なる神、御子キリストヘの信仰に続いて、教会への信仰を表明しています。教会はキリストを信じ、それに従っていく信仰者の集いです。しかし同時に、だれも教会を通してでなければキリストに近づくことはできません。こうして信条は、聖霊の力によって生まれ、保たれている教会を信仰の対象ともしているのです。教会の教義が確立していった教父時代のころからすでに、教会は「母なる教会」と呼ばれてきました。その懐から神の子らを生み、はぐくんできたからです。この教会についてその発生、本質、歴史、そして現代における在り方の順に考えてみましよう。 |
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第一節 教会の成立 1 教会の起源 キリストの復活と使徒たちの派遣 復活の主と出会った弟子たちは、イエスの福音が神からのみことばであること、また、このかたが父なる神から遣わされたメシアであり神の子であることを確信しました。こうして復活を通して弟子たちは、キリストとその福音の奥深く重大な意義を悟るようになりました。また同時に、自分たちがイエス亡きあと、後代にこの福音を広め伝える使命を与えられたと確信しました。彼らは「遣わされた者(=使徒ととして再び結束しました。こうして彼らは、イエスの福音の中心である「神の国」をのべ伝え始めました。その際、復活のキリストがつねにともにおられることをも併せて告げました。こうしてすでに生前のイエスを知る人たちと新たに宣教に出合った人たちから、キリストとその福音に帰依する人々の集団が生まれました。これが教会の出発点です。ですから、使徒たちが教会の基礎をしいたともいわれています。とはいえ、復活のキリストの現存が教会発生の原点であり、生前のイエスご自身、すでに教会の準備をされたため、教会はキリストによって創設されたと正当に教えられています。 なお、教会とイエスの関係、使徒的教会の意味については、すでに述べたことなので、I第二章第二節の1から3を参照してください。 聖霊の力による教会の誕生 使徒言行録二章では、聖霊降臨の出来事を通して、使徒たちを上台とするキリストの教会が生まれたことが語られています。つまり福音とキリストヘの信仰を可能にしたのは、聖霊の注ぎによるとされているのです。使徒言行録では、聖霊が与えられることを通して、使徒たちは確信をもってイエス・キリストをのべ伝え始めます。ペトロは、「イエスは神の右に上げられ、約束された聖霊を御父から受けて注いでくださいました」(2・33)と語ります。心打たれた人々に対してペトロは言います。「悔い改めなさい。めいめい、イエス・キリストの名によって洗礼を受け、罪をゆるしていただきなさい。そうすれば、たまものとして聖霊を受けます」(2・38)と。事実、キリストとその福音への信仰は聖霊の力によって始まっています。使徒たちは復活のキリストとの出会いによって聖霊を受けています(ヨハネ20・22参照)。復活の主との出会いは、限られた人々のものでしたが(使徒言行録(1・3参照)、聖霊はその後も広く信仰の恵みとして人々に与え続けられました(同2・39参照)。つまり、教会はキリストの復活により、使徒たちの働きを通して発生しましたが、それを内から可能にしたのは聖霊のたまものによるということです。 教会は聖霊によって発生しただけでなく、聖霊によってだけ保たれ発展してきました。キリストの現存を意識し、彼を信仰し、信仰の生き方に導かれ、神の恵みを深く感じ取ることもまた、聖霊によるものです。このような点については、すでに三位一体と恩恵について語った箇所(前章第二節、とくに1)、さらには次章第二節3で詳しく述べているので、そこを参照してください。 |
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2 ユダヤ人教会と異邦人教会 エルサレムの教会 成立したばかりの教会は、エルサレムを出発点としていました。エルサレム教会には、イエスの直弟子であった使徒たちがおり、とくにペトロ、ヨハネ、そして「主の兄弟ヤコブ」(ガラテヤ1・19)は、「柱と目されるおもだった人たち」(同2・9)とされていました。使徒言行録は初期の教会を次のように描いています。 「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。すべての人に恐れが生じた。使徒たちによって多くの不思議なわざとしるしが行われていたのである。信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った。そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(1・42‐47) 「毎日神殿に参り」とのことばが目立ちます。エルサレム教会では指導者たちも信者たちもユダヤ人でした。彼らはユダヤ教徒であることをやめたとは思いませんでした。神殿の祭儀にあずかり、子供の割礼・清めのおきて・安息日など律法を後々まで守り続けたと思われます(使徒言行録2‐20参照)。しかし同時に、独自の教え、祭儀(洗礼・聖餐)、祈り(主の祈り・マラナタなど)、指導体制を持っていたこともわかります。キリストにおける相互の「交わり(コイノニアとが最初の教会の特徴をよく表しています。 かなり早い時期に、使徒たちの故郷であるガリラヤ地方にもキリストを信じる共同体があったものと思われます。 使徒会議 「その日、 エルサレムの教会に対して大迫害が起こり、使徒たちのほかは皆、ユダヤとサマリアの地方に散って行つた」(使徒言行録8・1)。三七年頃、ステファノの殉教をきっかけに追害が起こり、教会が広がっていくきっかけとなったようです。この前後に、サマリア、トランス・ヨルダン、カイサリア、ヤッファなどの異邦人都市、さらにはシリアのダマスコやアンチオキアなどに、教会ができたと思われます。とくにアンチオキア教会は、ユダヤ人以外の信者をも受け入れ、より広い世界への宣教の拠点となりました。回心したパウロもアンチオキアを出発点として、小アジア(デルベ、イコニオン、リストラ、ベルゲ、アタリア、ピシディアのアンチオキア、ガラテヤ、エフエソ)、マケドニア(フィリピ、テサロニケ、ベロヤ)、アカイア(アテネ、 コリント、ケンクンアイ)などで宣教し、多くの教会を建てていきました。 パウロが主として異邦人に宣教したため、異邦人信徒の教会とェルサンム教会との間に、律法理解、とくに割礼を受けるべきかどぅかについて見解のずれが生じてきました。そこで、当時中心的指導者であった人たちがエルサレムに全員集まりこの件について話し合いました。これを使徒会議と呼びます(四九年頃)。その結果、異邦人教会は承認され、彼らからは原則として割礼と律法の遵守を要求しないといぅことが確認されました(使徒言行録15章、ガラテヤ2・1-10参照)。 ユダヤ教からの離脱 異邦人教会はパウロによるものだけではありません。多分アレキサンドリアから派遣されたと思われるアポロはコリントやエフェソで宣教したと思われますし、ローマにも教会がすでにありました。このようにして、教会は事実上、ユダヤ教の枠を超える独自の宗教として育っていきましたが、 エルサレム教会を中心とするユダヤ人キリスト者との間で使徒会議以降も問題が絶えませんでした。アンチオキア教会におけるパウロとペトロのもめごと(ガラテヤ2・11-14参照)やパウロが最後にエルサンムの暴動に巻き込まれた(使徒言行録21章以降参照)のも律法問題でした。 やがてエルサレム教会のユダヤ人キリスト者にも迫害が及ぶようになります。四四年頃にはヨハネの兄弟ヤコブが殉教し、ペトロも捕縛されています(使徒言行録12章参照)。62年頃にはエルサレム教会の頭であった主の兄弟ヤコブも殉教しています。ユダヤ戦争(66―70年)で、ローマ軍によってエルサレムが破壊され神殿祭儀が廃絶されたのが、最終的な決着となりました。エルサレム教会の信徒はエルサレムから逃げのび、それ以降キリスト教は、 ユダヤ教から区別された独自の歩みを取るようになりました。70年以降に書かれたと思われる、マタイおよびルカによる福音書と使徒言行録にはそのことが反映しています。「だから、言っておくが、神の国はあなたたちから取り上げられ、それにふさわしい実を結ぶ民族に与えられる」(マタイ2・43)「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(同28・19)。 キリストはユダヤ人であり、最初の教会はユダヤ教の完成として自分たちの信仰を理解していました。しかし、キリストの福音は一つの宗教の枠を超えてすべての人に及ぶべき性質のものであることを、歴史の過程そのものが示しています。
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3 初期教会の構造 福音を保つ努力 生まれたばかりの教会は、キリストと教会を仲介する使徒たちの指導にゆだねられていましたが、使徒後の教会においては、キリストと使徒たちの伝えた福音を制度的に整え、後代への規範として保っていこうとする傾向が見られます。たとえば使徒後の世代にまとめられたと思われるテモテヘの手紙一、二やテトスヘの手紙では、パウロの教えを土台として、使徒の教えやキリスト者の道徳、さらに教会指導者それぞれの資格などをしっかり碇めて確認していこうという意識が現れています。 一般に牧会書簡や公同書簡にはこうした傾向があります。 教会における制度的安定化の傾向は主として「信仰の遺産」「信仰の秘義」「信仰の奉仕職」の三つの次元で見られます。すでに述べた使徒的伝承や聖書正典の成立、教義宣言などは、使徒的信仰内容を保持しようとする「信仰の遺産」の次元でのおもな努力の現れです(I第二章第二節2から第二節2からI第二章第二節参照)。単に教えの次元だけではなく、信仰のたまものを生き生きと保っていこうとする努力は、洗礼と主の晩餐の記念を中心とする、さまざまな形での信徒の交わりとして、初めから大切にされてきました。やがてこれらは教会における七つの秘跡として、キリストの恵みを伝える教会の中心的な営みとなっていきました。これを「信仰の秘義」と呼びます。信仰の遺産と信仰の秘義が教会に正しく保ち伝えられていくために、「信仰の奉仕職」、つまり教会指導者の職制も徐々に生成発展してきました。この点について以下述べてみましょう。 カリスマの奉仕職 教会は聖霊の力によって生まれ、保たれ、導かれてきました。自分の個性と能力を発揮し、教会共同体のために貢献しました。それぞれの信者は聖霊のたまものに生かされて、パウロはこのような霊の現れをカリスマと呼びました。コリントの信徒への手紙一の十二章八節から十節ではカリスマとして、知恵のことば、知識のことば、いやしのたまもの、力あるわざ、預言、霊の識別、異言、異言を解く力などが挙げられています。初期の教会はこうしたさまざまなカリスマによって生かされ信仰を保っていたようです。同じ手紙でさらにパウロは、「神は、教会の中にいろいろな人をお立てになりました。第一に使徒、第二に預言者、第三に教師」(12・28。ローマ12・6-7、エフェソ2・20、4・11参照)と述べ、教会の中心的指導者もまたカリスマによるものであるとしています。使徒(十二使徒以外にもこのようなカリスマを受けた人々がいた)・預言者・教師は、100年過ぎまで、教会で尊ばれてきたものと思われます(『十二使徒の教訓(ディダケー)』11・3、13・1‐2参照)。 カリスマの奉仕職は制度・職制化してない自発的な色あいが強く、徐々に制度的職制に取って代わられるようになっていったようです。カリスマは、修道生活など非制度的な面で教会を生かし続け、またカリスマティックな運動は、教会史上のさまざまな異端としても何度も展開されました。現代も、聖霊の力をより敏感に意識することからさまざまな新しい刷新運動が起こっています。 制度的役務職の成立 教会共同体がさまざまなカリスマによって生かされていたとはいえ、どの教会にも責任者がいなかったことはないということも明確です。エルサレム教会は、「主の兄弟ヤコブ」と長老団による指導体制が確立していましたし、パウロは、自分がかかわった教会には責任者を立てて次に移ったと思われます。こうした責任者が按手によって任じられた場合もあると思われます(一テモテ4・14、5・22、ニテモテ1・6参照)。 初期の各共同体の指導者がどのように呼ばれたかはそれほどはっきりと確認できません。ユダヤ教では、伝統的に「長老たち」による団体指導制がありました。エルサレム教会をはじめ、アレキサンドリア、ローマなどではこの指導体制がしかれていったようです。パウロが宣教した地域では、ヘレニズム型の「監督と執事」(フィリピ 1・1参照)の制度があったょうですが、パウロ以後は小アジアなどでも長老制度が強かったと想定されます。100年頃に七つの手紙を書いたアンチオキアのイグナチオによれば、教会共同体の唯一絶対の指導者は一人の監督であり、これを長老団、執事団が補佐するとされています。ここで二つの指導体制が融合し、新たな体制が打ち出されているのを認めることができます。イグナチオによって提唱された指導体制は、二世紀中頃までに、ほぼ全教会において定着することになりました。監督・長老・執事は、後に司教・司祭・助祭と呼ばれるようになり、今日に至るまで聖職三段階を構成しています。 これ以降、司教は教会の最高指導者として、教えにおいても祭儀においても、部分教会においても普遍教会においても、使徒的教会の代表者かつ責任者となりました。そのため、司教は「使徒たちの後継者」と呼ばれています。
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第二節 教会の本質 前節では、教会の発生と、ユダヤ教からの離脱、初期の制度化の過程をたどってきました。教会はこの世に存在する社会集団であり、キリストの福音を伝える特別の使命を持つものとして、当然制度化していく必要があります。しかし、教会の本質はその制度そのものにはありません。教会とは何か。このことを三つの観点から、聖書を中心に考えてみたいと思います。 1 神の民 教会(エクレジア)ということば 生まれた教会は、自分たちのことを何だと理解していたのでしょうか。それは、福音書以外で多用されている、「教会」(ギリシア語でエクレジア)ということば自体に現れています。エクレジアは集会という意味ですが、旧約聖書ではおもに神が集められた民、つまり神の民としてのイスラエル民族を指しています。キリスト以降、彼を信じる人々は、自分たちこそ神から選ばれ特別の目的のために召された民、旧約の神の民の完成の姿であると考え、エクレジアということばを最初から躊躇することなく自分たちの集団の呼称としたのです。旧約の神の民はシナイの契約で生まれましたが(出エジプト19・5-6、24・3-8参照)、新しい神の民は「わたし(キリスト)の血による新しい契約」(ルカ22・20)によって生まれました。 新約聖書は、旧約において神の民について言及している箇所は教会においてこそ実現したのであるという確信を随所で示しています(ローマ9・24-26、ニコリント6・16、 ヘブライ8・10-12、使徒言行録15・14-18参照)。 「あなたがたは、選ばれた民、王の系統を引く祭司、聖なる国民、神のものとなった民です。……あなたがたは、『かつては神の民ではなかったが、今は神の民であり、あわれみを受けなかったが、今はあわれみを受けている』のです」一ペトロ2・9-10)。 ほかにも、羊の群れ、ぶどうの木、建物、神殿など、旧約において神の民を示すイメージは、新約においてはキリストに従う人々を指しています。 旧い神の民と新しい神の民 聖書においてこれほど中心的な教会の自己理解は、ユダヤ教との対立のためか、長い教会の歴史の中ではそれほど注目されませんでした。第ニバチカン公会議は、神の民を教会の本質であるとしました。『教会憲章』は、イスラエル民族がキリストにおける啓示の準備として神の民とされ、このキリストにおいてユダヤ人と異邦人から成る霊における新しい神の民が召集されたとしています。この民は、父と子と聖霊のいのちの交わりによる新しい原理によって生かされており、キリストの愛のおきてを律法とし、その目的は「神の国」であるとしています。『教会憲章』はさらに続けて、全人類に神の国が広がるよう、信徒は皆神の民の祭司職と預言職を受けていると述べています(『教会憲章』1~2章参照)。 このように教会の本質を神の民とする見方は、多くのことをわたしたちに教えてくれます。まず教会は、宗教改革者たちが指摘したょうに、聖職者階級の管理する制度である以前に、第一に信仰者の集いであるということです。また、神が集められた民であるなら、教会は単に自分たちが救われるためではなく、神から特別の使命、神の国の実現という使命を受けているということになります。『現代世界憲章』は「人類の歴史の中に神の子らの家族をつくる」「人類社会の魂または酵母として存在し、それをキリストにおいて刷新して神の家族に変質させる使命を持っている」(40)とも表現しています。このような使命は歴史の過程全体において果たされていくべき性格のものです。そのため、『教会憲章』は教会を終末に向けて旅する神の民であるとしています(『教会憲章』7章参照)。 「神はご自分の民を退けられたのであろうか。決してそうではない」(ローマ11・1)。パウロは旧い神の民と新しい神の民との関係について悩みつつ考えています(ローマ9~11.章参照)。神の民の使命である神の国の完成は、最終的には終末における神のわざです。そのとき、ユダヤ教の信仰もキリスト教の信仰も矛盾することなく同一の完成へと導かれるのではないでしょうか。 |
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2 キリストのからだ (1)キリストと結ばれた教会 教会は神が選ばれた民ですが、キリストによってだけ一つに集められた民なので、「キリストの教会」(ローマ16・6)、「キリスト・イエスに結ばれている神の諸教会」(一テサロニケ2・14)とも呼ばれます。教会はキリストと一体となって、この地上でキリストと同じ救いのわざを継承していきます。 パウロはこのキリストと教会の一体性をキリストのからだという考え方で示しています。「あなたがたは、自分のからだがキリストのからだの一部だとは知らないのか」(一コリント6・15)。「からだは一つでも、多くの部分から成り、からだのすべての部分の数は多くても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である」(同12・12)。これらのことばから、パウロが単なる比喩を語っているのでなく、復活したキリストが教会、そして信者であるわたしたち一人ひとりにおいて生き、働いておられると主張していることがわかります。 アウグスチヌスはこれをよく理解して次のように述べています。「キリストは単に頭でもなく、単に身体であるのでもない。キリスト全体が頭であり、身体なのである。それゆえ、キリストの肢体であるものはキリストそのものである」(『ヨハネ福音書註解』28・1)。エフェソの信徒への手紙やコロサイの信徒への手紙は、キリストは教会だけでなく全世界に満ち満ちておられ、そのかたが教会の頭であり、教会はキリストのからだであるとしています(エフェソ1・20-23、コロサイ1・15-20参照)。アウグスチヌスは、イエス・キリストだけではキリストの意義は完成しないのであり、そのからだである教会があって、はじめて「キリスト全体」となりうる、そしてそれゆえ、教会はキリストご自身なのだといっているのです。エフエソの信徒への手紙は、教会全体がキリストにおける「一人の新しい人」(2・15)であるとも表現しています。 もしキリストの救いのわざがすべての人のためであるなら、キリストはその短い生涯の間だけではなく、世の終わりまでこの地上で救いのわざを続けられるはずです。教会において、教会を通して。そのため、ある神学者は、教会はキリストの受肉の働きの歴史的延長であるとも述べているのです。 (2)愛と信仰における一致 「わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまリキリストにささげた」(二コリント11・2)。旧約聖書で神と神の民の関係を花婿と花嫁にたとえているのを受け継いで、新約では教会が「キリストの花嫁」であるとされています。エフェソの信徒への手紙は、キリストのからだとしての教会を前提としながら、これを花嫁というイメージでとらえ、考察を深めています(5・21-33)。パウロは妻と夫が愛と奉仕において心身ともに一致すべきことを、教会とキリストの一致を模範として説いています。そして最後に「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、二人は一体となる」という創世記二章二十四節のことばを引用し、このみことばの秘義が示すのはキリストと教会のことであるとしています。つまり夫婦関係に模してキリストと教会との関係があるのではなく、キリストと教会はいわば究極の夫婦関係であるとしているのです。ここでは教会とキリストの一致が、相互の独立と自由を前提とした上での、愛と信仰による人格的な一致であることが、より明瞭に現れてきます。 キリストのからだにせよ、キリストの花嫁にせよ、教会がキリストと文字どおり一体となってこそ、教会は教会であるのです。パウロは、このようなキリストとの一致が具体的に現れてくる場として、洗礼と聖体の秘跡を挙げています。洗礼において教会の一員となることはキリストと一つになることの始まりであり(ローマ6・3-11参照)、聖体は「キリストのからだの交わり」です(一コリント10・16-17参照)。わたしたちは「皆一つのからだとなるために洗礼を受け、皆一つの霊をのませてもらったのです」(同12・13)。洗礼によって人はキリストのからだに組み入れられ、ミサにおいてキリストのからだとしての教会はもっとも完全な形で実現します。 (3)キリストの「神秘体」 「神の民」と違って、「キリストのからだ」という教会理解は、歴史を通していつも大切にされてきました。ただ、ある時期から「キリストの神秘体」と呼ばれることが一般的になりました。「神秘の」ということばは、かつては「秘跡の」という意味をもっており、神秘体というと聖体を指していました。中世になって、聖体におけるキリストの現存を強調して「真のからだ」という表現ができて以来、教会のほうを神秘体と呼ぶようになりました。 トマス・アクィナスも教会をキリストの神秘体であると述べ、キリスト自身が教会を道具として用いて恩恵の働きをするとしています。とくに20世紀前半にはこの考えは中心的教会理解と見なされ、信者の信仰意識にも強い影響を与えました。教会についてのピオ十二世の包括的回勅『ミステチ・コルポリス』「神秘体の」の意、 1943年)はキリストの神秘体としての教会観を代表しています。第ニバチカン公会議もこの表現を継承しています『教会憲章』7参照)。 いずれにせよ、パウロはキリストのからだを本来あるべき教会の姿として動的に、つまり努力して達成すべき課題としてとらえています。信徒はますますキリストと一致するよう励むべきでしょうし、ことがらによっては意見を異にする世界に散在しているカトリック教会も、キリストにあって「同じ思い」(フィリピ2・2)を保つよう心がけていくべきでしょう。さらに、事実上分かれている教会は、キリストのからだの一致に近づける教会一致の努力を続けていくべきでしょう。
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3 聖霊の神殿 (1)聖霊と教会 「聖霊は教会の中と信者の心の中に、あたかも神殿の中にいるように住み、信者たちの中で祈り、彼らが神の子となったことを証明する。この霊は教会をあらゆる真理に導き、交わりと奉仕において一致させ、聖職位階のたまものと霊の種々のたまものとによって教会を導き、霊の実りによって教会を飾る。聖霊は福音の力をもって教会を若返らせ、たえず新たにし、その花婿との完全な一致へ導く。霊と花嫁とは主イエスに向かって、『来りませ』といっている」『教会憲章』4)。 教会は聖霊が与えられて初めて成立しました。そこにおいて信者が神ご自身の生命に参与したからです。それだけでなく、聖霊によってのみ、教会は長い歴史を通して純正な教会として導かれ、維持されています。父なる神の愛、キリストの教えは、聖霊においてだけ、人々の心に現存するからです。パウロが教会を「聖霊の神殿」とし(一コリント3・16、6・19参照)、古代教父たちが「聖霊の被造物」と呼ぶのは、聖霊が教会の本質的存立根拠であるからです。聖霊は世の終わりまで、教会と教会が伝える神の福音を保ってくださることでしょう。 そこで、「神の民」「キリストのからだ」とぃぅことと併せて考えるなら、次のようにいうことができるでしょう。「こうして全教会は『父と子と聖霊の一致に基づいて一つに集められた民』として現れる」『教会憲章』4)。 (2)カリスマの教会 教会は聖霊の導きに大きな信頼を置かなければなりません。なぜなら、これなしにでは教会は単なる社会集団の一つにすぎなくなってしまうからです。初期の教会では聖霊のたまものであるカリスマの働きが豊かであったことが察せられます。また教会の歴史においても、節目節日で、霊の覚醒の運動がさまざまな形で現れています。アシジのフランシスコの運動などは、霊の力における教会刷新の好例です。現代のカトリック教会の大きな転機となった第ニバチカン公会議を開催したヨハネ二十三世も次のようにいっておられます。「わたしの心に浮かんだこの考えを超自然的霊感であると判断し、今こそカトリック教会と全人類家族にとって世界教会会議を開催する時であると考えた」(『招集勅書』)。教会はつねに人類の歴史とともにあって、新しい時代に向かって自己のカリスマを見直し、それを発揮していかなければならないのではないでしょうか。 「自分の懐に罪びとを抱いている教会は、聖であると同時につねに清められるべきものであり、悔い改めと刷新との努力をたえず続けるのである」。「誘惑と苦難を通って進む教会は、主が教会に約束した神の恩恵の力に強められる。それは肉の弱さの中にあっても、完全な忠実さを欠くことなく、主にふさわしい花嫁としてとどまり、聖霊の働きのもとにたえず自らを刷新し、ついに十字架を経て没することのない光に達するためである」『教会憲章』8、9)。 |
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第三節 教会の歩み 1 教会の歴史性 教会の発展について 教会は、キリストによって創設されました。しかし、生まれた教会はそのままの姿でとどまっていたのではなく、各時代を通じて成長発展しながら、つねに同じ福音を新しい時代へと伝えていきました。人間が赤ん坊からさまざまな時期を通して成長し、 一回限りの生涯を紡いでいくように、教会も終末の完成に向けて、さまざまな試行錯誤を伴いながらも、しかし確実にその本質を実現していくのです。 (1)一、聖、公、使徒継承の教会 「わたしは、 一、聖、公、使徒継承の教会を信じます」。信条にあらわれるこの四つの特徴は、古代以来伝統的に、教会の中心的属性とされてきました。神のキリストにおける唯一の救いの計画のしるしであり道具である教会は、当然一つであるはずです。救いの実りである聖霊の力によってのみ存立している教会は、聖なるものです。キリストにおける神の国の使信が全人類のためのものであるかぎり、教会ほど公的なものはないでしょう(「公」とは、「カトリック」の訳で、普遍的という意味を示しています)。福音が歴史的人物イエスに発し、それを継承する教会が使徒たちにその起点を持つとしたら、それは抽象的真理を奉じるのではなく、使徒以来継承されたものを規範とすることも当然でしょう(この点についてはI第二章第二節2を参照)。教会は歴史を通して成長し、それぞれの時代に特有の形態を示してきました。しかし、教会はつねに自分の同一性を保ってきました。その基準となるのがこの四つの特徴であるといえるでしょう。 これらの特徴は、古代以来、異端との対決においてしばしば強調されてきました。また宗教改革以降、真の教会はどちらにあるかを識別する基準として議論されてきました。右に述べたように、「一、聖、公、使徒継承」でない教会は、真の教会とはいえません。しかし、同時に、それらの特徴は、 一種の努力目標でもあります。たとえば、「一」といわれていますが、教会はカトリック教会だけでなく、プロテスタント教会や聖公会、正教会などが併存しています。「聖」といわれていますが、『教会憲章』は、「自分の懐に罪びとを抱いている教会は、聖であると同時につねに清められるべきもの」(8)であるとも述べ、教会が聖であると同時に聖となるように召されているとも語っています(同5章参照)。キリストの福音である「神の国」が歴史を通して実現していき、その終末において初めて完成を見るのだとすれば、教会からも自己の四つの特徴を、つねに新たに体現していく努力が求められます。
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2 古代の教会 (1)広がる教会 ユダヤ教から独立したキリスト教は、地中海周辺、つまり当時のローマ帝国の領域で、各地の主要都市を中心に広がっていきました。都市からその周辺へと宣教がなされ、さらに幾つもの教会が生まれていきました。2世紀中頃から、各教会の指導者かつ責任者は司教であるという形が全体に整ってきます(本章第一節3参照)。司教たちは自分の教会に対してだけでなく、教会全体に対して指導の責任があると自覚していました。そのあらわれが教会会議です。小アジア、イタリア、北アフリカといったそれぞれの地域の全司教が定期的に集まり、教会の教えや規律について確認していきました。それら議決事項は教会全体の信仰と見なされました。やがて教会会議はすべての司教が集まる全体教会会議、すなわち公会議へと発展していきました。公会議はこうして今日に至るまで、教会の教えの最高規範となるものです。 やがて重要な都市の司教は首都座司教(メトロポリタン)、さらには総大司教(パトリアルカ)として慣習によって立てられるようになりました。とくにローマ司教は十二使徒の頭ペトロの後継者と見なされ、教会全体の指導者としての役割を果たしていくようになりました。彼は敬意と親愛の情をもって「パパ」(教皇)と呼ばれ歴史が進むにつれ、ますますその指導力を発揮していきました。 (2)殉教者の教会 ローマ帝国でキリスト教は、すでに使徒の時代から長期にわたって禁じられていました。禁教の中で断続的かつ慢性的に追害が起こり、その規模はあとになるほど大きくなりました。信者には、皇帝礼拝や神々への犠牲などが求められ、これを拒んで拷間などをも耐えて信仰のあかしをした人を「告白者」、殺された人を「殉教者」と呼び、彼らには特別の敬意が払われました。このような時代にキリスト者となることは特別のことであり、教理を伝授する人は教えを受ける人を慎重に選び、長い準備期間を経て洗礼が授けられました。信者は聖体祭儀(ミサ)を中心とする相互の交わりを大切にし、世間一般からはどちらかというと離れた生き方をしていたといえるでしょう。 この時代、司教を中心とする教父と呼ばれる人たちは、あるいはキリスト教の生活と信仰に関する護教論を書き、あるいは異端に対して反駁し、さらには信者の信仰を指導していきました。ユスチノ、イレネオ、テルトゥリアヌス、オリゲネス、アタナシオなどの主要な人物を挙げることができます。さらに、迫害期以後にも、アンブロジオやアウグスチヌスなどの教父がいます。教父たちは、教会をしばしば「ノアの箱舟」にたとえました。旧約聖書によれば、大洪水で罪の世界が滅び、箱舟にいた信仰深いノアの家族だけが救われたといわれています。迫害の中で内に向けての結束を固め、しっかりとした信仰の意識を保っていたこの時代の教会を象徴的によく表しています。 (3)キリスト教社会の成立 313年、皇帝コンスタンチヌスの寛容令によって迫害の時代が終わっただけでなく、ローマ帝国は速やかにキリスト教化していきました。幾分の紆余曲折はあったものの、392年にテオドシウス帝はキリスト教を国教と定め、逆にそれまでの他のさまざまな宗教は禁止され、それらの儀式や神殿は排斥されるに至りました。洗礼を受ける時期などに違いはあったものの、市民は大勢キリスト教信仰に帰依するようになり、聖職者たちは帝国内にあって高級官吏に準ずる地位を獲得することになりました。国家および社会が完全にキリスト教体制になったわけです。 歴代皇帝は、司教たちとの連絡を密にしながら、キリスト教信仰の擁護と教会の繁栄のために意を用いました。しかしここに問題がなかったわけではありません。教会の教えと実践に関して司教たちは一応の自律を保っていましたが、教会にかかわることは同時に政治的ことがらでもあり、この時期、皇帝の影響・関与が強くなりすぎたきらいがあります。 (4)修道生活の始まり 修道生活という生き方が始められ、修道院制度が定着していったのもこの時期です。アントニオは「修道者の父」と呼ばれますが、彼は迫害とキリスト教公認の時期にまたがって生きた人です。修道生活最古の型は隠修者集団です。エジプトの人里離れたところに退き、それぞれが庵を結んで祈りと苦行に励みました。このような隠修者の一人パコミオスは、やがて共同生活の大切さを知り、より人里に近い所に修道院を作り、規則を定め、修道院内での自給自足の生活形態を造り上げていきました。後にモンテカッシーノのベネディクトはすぐれた修道規則をヨーロッパ中に広め、中世に至るまで修道院の時代が展開されていきます。 修道生活の発生はキリスト教公認と関係があると思われます。迫害下の教会は、 一般社会と一線を画し、質の高い信仰生活を保っていたといえるでしょう。キリスト教社会が生まれると同時に、ある意味で教会は俗化し、その信仰の質は低下したといわざるをえません。修道生活の発生には、教会の中で、教会のそれまでの姿を保とうという意向が感じられます。事実、修道院は多くの教皇や司教を輩出し、教会の霊性・学問・文化の中心となっていきました。
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3 中世の教会 教会と国家 キリスト教は民族移動でヨーロッパに定着し封建制度の社会秩序を築いていった人々と結びつき、より広範なキリスト教文化圏を形成していきました。中世初期においては、コンスタンチヌス体制と同じく、教会には俗権主導の傾向が少なからずありました。11世紀後半、教皇グレゴリオ七世は叙任権(主として司教を指名する権限、当時俗権が有していた)を中心にドイツ皇帝ハインリッヒ四世と対立しましたが(グレゴリオ改革)、それ以来教会は教皇を中心とする自律を回復しただけでなく、十字軍召集などを通して、教皇はヨーロッパ・キリスト教国家の盟主の位置を獲得していきました。 教会の権威は教会法の整備という形で定着していきました。教会法のおもな関心は、教皇権と王権との関係、そして秘跡にかかわることがらでした。基本的に深くキリスト教信仰が浸透した世界にあって、教会の権限と俗権との関係が関心の中心であり、その教会とは七つの秘跡を受ける場との理解が定着していったといえるでしょう。 信仰の発露 12世紀、とくにインノチェンチオ三世の頃、教皇権はその絶頂を極め、教会の組織も教えも堅固なものとなり、キリスト教文化も大きく開花していきました。とはいえ、この世の制度として繁栄した教会は、果たしてキリストの福音の精神を十分に反映していたでしょうか。当時、権威や形式を排して純粋に福音の精神において生きようとする民衆の福音覚醒運動が幅広く認められますが、そのような動きの中から、貧しい生き方の中で福音を伝えようとしたアシジのフランシスコのグループが現れ、インノチェンチオ三世によって修道会として認可されました。それまでベネディクト系統の修道院がヨーロッパ中で栄え、教会の精神的支柱として大きな貢献をしていたわけですが、ここに、定住せず貧しさに生きるというまったく別の修道制度が生まれたことになります。同じ頃生まれたドミニコ会も清貧と説教を軸とした新しい修道形態でした。これらの修道会は、制度では表すことのできない教会の魂をあかししたといえるでしょう。 カンタベリーのアンセルモに始まリトマス・アクィナスにおいて頂点に達した、スコラ神学も、別の意味で教会の深い信仰をあかしするものとなりました。すべてのことを教会法的観点から制度的に理解する傾向からすれば、信仰にかかわるすべてのことを、純粋に理性的に理解していこうとするスコラ神学は、当時の教会において、新鮮かつ純粋なものとして受け入れられたと思われます。 教会制度の危機 14世紀以降、教皇のアヴィニョン捕囚、最後には二人の教皇が現れた大スキスマと、教皇権が不安定な時期が100年以上続きます。この事態を収拾したコンスタンツ公会議も、代理制に基づいた公会議を教会の最高意志決定機関とする公会議至上主義の色彩を強く示していました。つまり、教皇を中心とする教会制度が、中世の後期にあたって大きく揺り動かされていたわけです。このころから、教会の刷新、そして「天使的教皇」の出現を待望する機運が高まっていました。また異端と見なされたウィクリフやフスの教会論は、教会を基本的に信徒の集いとして、その本質を制度と別のところに見ようとし始めています。後の宗教改革は、突発的に起こったことなのではありません。
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4 近代の教会 (1)宗教改革 教会の分裂。近世初頭にもたらされた教会史上の新しい現実であり、この問題は、今日にまでおよんでいます。1517年、マルチン・ルターが教会の改革についての提案を公にしたことは、教会を分裂にまで導きました。カルヴァンがこれに続き、それ以降もさまざまな教派が生じ、プロテスタント諸派を構成することになりました。ルターが主張したことは、キリスト、恩恵、聖書など福音にとって本質的に大切なことを第一としなければならないということです。教会分裂という新事態に対して、カトリック教会は長期にわたってトリエント公会議を開き(1745~1563年)、批判された諸点を検討し、数多くの教令を作成しました。それらは主として、秘跡を中心とする教会の諸制度や信仰形態が、提起された問題とどう関係するかを扱っています。こうして、カトリック教会は制度的側面を強調する教会観を展開していくようになりました。とくに教会の頭としての教皇、晩餐の記念としてのミサが教会にとって重要なことであるという立場を取り続けています。 それぞれの国の自律を主張した英国教会(アングリカン、聖公会)が分かれたのもこの時期です。ちなみに、ラテン教会と別の文化圏を構成していったギリシア語圏の教会は、正教会(オーソドックス)と呼ばれ、さらにロシア等にも広がり、独自の教会の在り方を保ってきました。 (2)近代の精神と教会 中世は神の置かれた世界秩序への信頼の上に成り立っていましたが、近代は人間の自律の精神から出発しています。この精神は社会・政治面においても、学問の面においても現れています。前者についていえば、人間社会のことは神や宗教的権威とは切り離して考えるという姿勢として現れ、封建制度の崩壊、絶対主義体制、市民革命、国民国家の成立というプロセスをたどり、大きな社会の変革を遂げるに至ったのです。後者についていえば、それはキリスト教の伝統、聖書や教理の権威といったものに左右されずに、人間理性によって確実に獲得できる真理のみを追究するという合理主義、さらには啓蒙主義の風潮となって現れました。この流れは、哲学をはじめ、自然と人文にわたる近代的学問の長足の発展を促しました。これは産業革命を経て科学技術社会の発生へとつながり、今日の世界の現状へと結びついています。つまり、近代の自律の精神は、現代に流れ込む独自の時代展開を生み出したのであり、原則的に人間社会は、いわば脱宗教的なものとなっていったといえるでしょう。 このような流れの中で、教会の教えは合理主義的批判にさらされ、その実践はヨーロッパ諸国家からさまざまな摯肘(せいちゅう)を受けることになりました。教会は世間一般の流れに対抗し、内への結束を固める努力をして、制度面の充実(教理、道徳、典礼、秘跡、教会法、教会組織など)に努めました。それは、信仰の世界の自律を目指したことであるといえるでしょう。第一バチカン公会議(1869~1870年)において、啓示と理性の関係や教皇が単独で教義を制定する権限を持つこと(いわゆる教皇の不可謬性)などについて論じられたことは、このような流れの中で理解されるべきでしょう。この時期、教会は深い信仰の世界を涵養し、多くの人々にとって救いと恵みの源となってきましたが、 一般社会(しばしば世俗と呼ばれた)の諸現実との接点が見失われていく結果となったことも否めません。
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5 現代の教会 (1)第二バチカン公会議 1962年から1965年、四会期にわたって約2500名の全世界の司教が集まって開かれた第ニバチカン公会議は、教会の歴史に決定的な転機を与えるものとなりました。召集したヨハネ二十三世は教会の現代化・刷新を公会議の課題としました。「一方においては精神的貧困に苦しむ世界、他方には生命力に満ちあふれるキリストの教会がある」「教会は現代世界の血管に、福音の永遠の力、世界を生かす神の力を送り込まなければならない」(『召集勅書』)。この公会議まで、世俗の社会と霊的世界としての教会が並行して存在するという近代的特徴が続いていたといえるでしょう。教皇は、このギャップをもはやこれ以上放置しておくことはできないとしたのです。公会議は、16の文書を生みましたが、どれも何らかの形で、教会にかかわるものであり、カトリック教会が他の諸現実とオープンな精神でかかわっていくべきであるとの姿勢を示しています。 『教会憲章』は、教会の本質を新しい神の民とするなど、聖書に基づく教会の根本理解に戻り(本章第二節参照)、制度的教会のみでは一方的であることを示しました。さらに、教会を「世界の救いの秘跡」として提示し、単に救われるために必要な教会といった内向きの理解よりも、神の国が歴史を通して全人類に実現するためのしるしであり道具であるという開かれた教会理解を示しました。 公会議以降、教会は大きく変わっていきました。典礼の母国語化、修道生活の刷新、教会生活における信徒の能動的参加、政治・社会的現実とかかわる信仰実践など、枚挙にいとまがありません。制度的にも、教皇庁諸機関の刷新、シノドス(世界代表司教会議)や各地での司教協議会や司教協議会連盟の正式な設置、新教会法の施行(1983年)など新たな展開が見られます。公会議後の教会の変化について詳細に語る余裕はありませんが、総じて、近代の教会と比して、世界の諸現実に向かって開かれた教会となる方向性を示しています。それまでの教会の在り方からの大きな方向転換は、当然混乱も生み出し、それまでの教会に戻ろうとする保守的動きも見られますが、歴史において新しい段階に入っている教会の歩みを逆行させるのは、原則的には意味がありません。教会はいまだ適応と刷新の途上にあります。 (2)対話と宣教 世界の諸現実とかかわるという公会議の姿勢は、対話の促進という形で示されました。世界各地域の生活や文化とキリスト教信仰との出会いを大切にするところから、「インカルチュレーション(文化内開花)」ということが強調されました。また諸宗教の持つ独自の意義、それらの示す恵みと真理が注目され、教会と世界の諸宗教との交わりの気風がますます強まっています。宗教改革以来、キリスト教同士でむしろ反目し合っていたカトリック教会とプロテスタント諸教派、聖公会、正教会との話し合いが真剣に持たれ、相互理解と共通点の確認への努力が積み重ねられています。これは「エキュメニズム(教会一致運動とと呼ばれます。 他方、イエス・キリストによってもたらされた福音の独自性と普遍的価値が繰り返し強調され、パウロやフランシスコ・ザビエルの精神をもって福音宣教を続けることの重要性が説かれています。ただ、この福音宣教とは単なる教えの伝達ということではなく、神の愛のあかしという側面が大切であるとの認識がますます深まっています。元来福音を伝えるということは、人間相互の敬意に基づいた出会いなしにはありえません。その意味で対話と宣教は、二者択一ではなく、ともにあって意義あるものとなります。 (3)教会の未来 三千年期を迎えた世界は、歴史が新たな段階に入りつつあることを意識しています。単に合理主義や科学技術が支配する社会、生産と消費だけの社会ではなく、新しい世界観と価値観がなければ先に進めないことを人類は感じています。多くの人々はこのような状況をポストモダン(近代以降)ということばで表現しています。このような歴史の変わり目にあって、教会もその本質を保ちながら大きく変わろうとしています。 歴史の未来がそうであるように、教会が今後どのような姿を取っていくかは必ずしも明確ではありません。とにかく、古代・中世・近代の教会とは別の時期にさしかかっています。確かなことは、グローバルという特徴を持つということです。地球上のすべての民族、文化、宗教などが、相互の交わりの中で自分自身の関心事となっていきます。政治も経済も、文化も宗教も、地球規模のかかわりの中で動いていきます。こうした広い視野の中で、教会も「世界の救いの秘跡」としての姿を取っていくであろうことは確かです。 6 宣教する教会 (1)中心的使命である宣教 「旅する教会は、その本性上、宣教的である。なぜなら教会は、父なる神の計画による子の派遣と聖霊の派遣とにその起源があるからである」(第ニバチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』2)。 「福音を伝えることは、実に教会自身の本性に深く根ざしたもっとも特有な恵みであり、召命です。教会はまさに福音を伝えるために存在しています」(教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』14)。 現代に至る教会の歴史を概観すると、教会がイエス・キリストから受けた救いの福音をそれぞれの時代に、忠実に保ち、せいいっぱい伝えていこうとする姿が確認されます。今日、教会はおそらく初めて、世界全体における自己の使命を明確に意識する時期に到達しています。キリストの福音は全人類を神の生命への参与へと導くことを通して完成します。教会はこの福音を世の終わりまで全世界に宣教し続けます。こうして歴史の終わりに、キリストが開始された「神の国」は完成するのです。 「福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです」(一コリント9・16)。教会が宣教をしなくなればもはや教会ではありません。そしてその福音はイエス・キリストと解きがたく結びついています。福音をのべ伝えることは、キリストをのべ伝えることにほかなりません。対話や諸宗教間の出合いが強調される今も、教会は終末に向けて旅する神の民として(次章第一節1参照)、また「キリストのからだ」として、イエス・キリストを宣教し続けるのです。こうして教会は、「一、聖、公、使徒継承」の教会であり続けます。 「わたしは天と地の一切の権能を授かっている。だから、あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子としなさい。彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいる」(マタイ28・18-20)。 (7)現代の宣教 教会はその始めから新たな地域へと福音をのべ伝えることを続けてきました。近代、新大陸が意識され始めてから、世界規模での「宣教」(ミッション)が教会によって展開されました。宣教師が新たな文化圏に送られ、世界中にキリスト教信仰が根づいていきました。この時代の宣教観は、キリスト教文化圏から非キリスト教文化圏への働きかけを特徴としていました。第ニバチカン公会議以降、「宣教」(ミッション)ということばとともに、「福音化」(エヴァンジェリゼーション)ということばが強調され始めました(教皇パウロ六世使徒的勧告『福音宣教』、教皇ヨハネ・パウロニ世回勅『救い主の使命』など)。「福音化」の考えによれば、単に教えだけでなく福音的価値観がより広くより深く多くの人々の中に根を下ろし実践されることが目指されています。ここでは伝統的なキリスト教国・宣教地の区別は必ずしも本質的ではありません。 グローバルな時代での、このような宣教観の広がりと呼応して、教会の宣教の使命は単に一部の聖職者・修道者に課せられているのではなく、全信徒のものであるという意識が高まっています(第ニバチカン公会議『教会の宣教活動に関する教令』10)。教えの伝達に限らず、生活のあかし、社会活動への参与、インカルチュレーション、諸宗教との対話なども宣教の視野に入ってきます(同10-12参照)。こうして教会は、現代世界の中で、神の国の完成に向かって旅する神の民としての姿をより鮮明に明らかにしていくことができます。
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