礼拝説教要旨

2016年5月29日
「風は思いのままに吹く」
ヨハネによる福音書3章1-15節

先日、アメリカの大統領であるオバマさんが、広島を訪れました。 現職の大統領でははじめての、訪問だ、ということもあり、大きく報道されましたが、原爆投下から、71年が過ぎている、ということを考えますと、遅きに失した、という印象は免れません。 もちろん、核兵器の廃絶を語って、ノーベル平和賞を受けたオバマさんからすれば、もっと早く、被爆地を訪問したかったのだと思いますが、アメリカの世論が、それを許さなかった、という事情がありました。 いわゆる、「原爆投下の正当性」が、アメリカにはあった、原爆投下によって、戦争が終結したのだ、と考える、アメリカ市民の声が、今も根強いために、現職の大統領の、被爆地訪問が、被爆国日本に対する謝罪になってはならない、という思いが、オバマさんの被爆地訪問に、待ったをかけていた、ということです。 ただ、今回、日本の被爆者からも、アメリカに対して、謝罪を求めない、それよりも、現職のアメリカ大統領が被爆地を訪れ、被爆の実情を知ってほしい、という願いが、打ち出されたことで、オバマさんの訪問が実現に、グッと近づけたのではないか、とも思います。 本心では、謝罪してほしい、原爆投下の誤りを、認めてほしい、と思いながら、それよりも、この訪問が、核廃絶に向けた、大きな一歩になるはずだから、こちらの感情は、内に収めておく。 これもまた、苦渋の選択であったと思うのですが、わたしは、非常に賢明な判断であった、と思います。 先の戦争における、アジア諸国に対する日本の加害性、というものを考えるとき、日本だけが被害者である、と訴えることは、してはいけないと思いますし、どちらか一方が、謝って済む話でも、ないように感じるからです。

ですが、広島での演説が終わった後、オバマさんが被爆者代表の森重昭さんと抱き合う姿を見て、これが、彼なりの、精一杯の、謝罪だったのかな、と感じました。 どんなに、アメリカの世論が、謝罪するな、と言っても、オバマさん自身には、しっかりとした、謝罪の気持ちと、核兵器廃絶に対する、大きな決意がある、ということを、わたしたちに、そして、世界中に、示してくれたのではないか、そんな風に感じたんですね。 ただ、その決意を、どう実現していくかは、これからの彼のはたらきに、かかってくるのでしょう。 そして、当然のことながら、それは、彼一人に責任がある話ではなく、わたしたち、一人ひとりが関わっていかなければならない問題であろうと思います。 核兵器を持つことで、他の国を脅すことができる、自分たちの要求を、通すことができる、といまだに考えている人たちが、いるかもしれません。 いやむしろ、そういう考え方が、世界中を見渡せば、大多数かもしれません。

しかし、そんなことでは、本当に平和な世界など、作っていくことなどできない、ということは、ちょっと考えれば、誰にでも、分かりそうなものです。 核兵器は作ってみたものの、それを使ってしまったら、その時点で、自分たちの国も終わってしまう、そんな矛盾を抱えながら、安心して過ごすことなどできないだろう、と思うのですが、それでも、作ってしまうのが、人間の、愚かさなのかもしれません。 これは、何となく、お金の話と、似ているように、感じます。

うなるほど、お金を持っていても、株価が暴落すれば、一瞬で蓄えがなくなってしまう、そんな不安を抱えながら、日々生きる、ということが、どれほどしんどいことか、ということを考えるとき、あまり欲張っても、いいことはないな、と気づかされます。 「世界でもっとも貧しい大統領」と呼ばれた、ウルグアイのムヒカ元大統領は、「貧乏とは、欲が多すぎて、満足できない人のことです。」と言い、一方で、「わたしは、持っているもので、贅沢に暮らすことができます。」と語っています。 つまり、自分が必要とするだけの、物やお金があれば、それだけで、人は、満足した、安心な生活が送れるのだ、ということなんですが、核兵器、というのは、そのことからすれば、まさに「人間の手に余る」代物であるのだ、ということは明白です。

そして、そんな人の手に余るものを、莫大な税金で維持している状況であるにもかかわらず、それだけでは満足できず、次から次に、作っていったのが、冷戦の時代だったのではないでしょうか。 さらに、現在は、アメリカ、ロシア以外の国も、核兵器を保有するようになり、一対一で戦争する状況ではなくなりました。 その中で、核兵器もより高度に、より高額になっていき、ミサイルの数は減っても、その威力は増大しています。 いいかげん、そんな不毛な争いから抜け出したい、そんな思いも、オバマさんの中には、あるのかもしれません。 とは言え、彼の被爆地訪問が、核兵器のない世界を作っていくための、第一歩になる、ということに、変わりはありません。 わたしたちもまた、平和な世界を願う者として、今後のことを、しっかりと見ていかなければなりませんし、関わっていかなければならない、と思います。

さて、今日の聖書の箇所は、ユダヤ教の律法学者である、ニコデモという人物が、夜中にイエス様と対話する、という話です。 これは、ユダヤ教の中にも、イエス様のことを認め、イエス様と議論したい、と考えている人がいたのだ、ということを示していますが、しかしながら、このニコデモ、イエス様から与えられた答えに、満足できず、次から次に、新たな質問をぶつけていきます。 これもまた、「欲が多すぎて、満足できない人」の典型のようですが、確かに、イエス様の答えも、一度聞いただけでは、理解できないような内容であることも事実です。 「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない。」と、イエス様が言ったことに対して、ニコデモは、「もう一度、母の胎内に入って、生まれることなんて、できるわけがないじゃないですか」と、応じます。 それに対し、イエス様は、「新たに生まれる、というのは、聖霊によって生まれ変わる、ということなんですよ」と答えます。

つまり、人間というものは、日々、神様から、新しい命をもらっていて、それは聖霊を受ける、という仕方で、日々、生まれ変わっているんですよ、と、イエス様はおっしゃっているんですね。 少し、ややこしいのが、ここに、「水と霊」という言葉が、使われていることです。 この「水と霊」というのは、明らかに、洗礼の儀式を、指しているのですけれども、これは、「水」という言葉が、後から付け加えられたことで、出てきた解釈であって、本来は「霊」だけであった、と言われています。 また、その後に、「風は思いのままに吹く。」と、突然、風の話になってしまうのですけれども、これも「風」と「霊」が、ギリシャ語では同じ「プネウマ」という言葉であることから、日本語に訳すときに、使い分けられたからだといわれています。 おそらく、日本人の感覚として、「霊が思いのままに吹く」と言われても、ピンとこないから、「風」に変えたのだろうと思うのですが、聖書の書かれた時代においては、「風」と「霊」は、まったく同じものとして、捉えられていました。 それは、どういうことか、と言うと、古代の人たちにとって、風が吹く、という現象は、神様が人間に息を吹きかけている、と考えられていた、ということです。 そして、その風や空気を吸ったりはいたりすることで、人間は生きることができている、ということを、神様から与えられた、霊によって、生かされている、と捉えたんですね。 ちなみに、このことは、旧約聖書の創世記にも、ハッキリと書かれていて、神様が、土で作った人形に、息を吹き入れると、人間アダムが誕生した、と言う話に示されるように、人を生かす神様の息が、そのまま、霊、と受け取られたんですね。

ですから、ここで「風」と訳されているのも「霊」のことである、ということなんですが、このことは、古代の人たちの、自然に対する見方をも、わたしたちに示してくれています。 それは自分たちに制御できないものに対する、畏怖や畏敬の念であり、それが神様から与えられるものだと捉えることで、超越的な存在を、いつも身近に感じていた、ということであろうと思います。

そして、このことは、科学の発達した時代に生きる、今のわたしたちにも、大切なことを、教えてくれているのではないでしょうか。 わたしたちは、科学によって、この世のすべてを、解明することができる、と思い込んでいるかもしれませんが、それは所詮、思い込みであって、科学によって、解明できることなど、実はそんなに多くはないのだ、ということです。 核兵器や、原子力発電所にしてもそうですが、人間は、その原理を発見し、その原理に基づいて、実際に作ってはみたものの、うまくコントロールすることが、できていない。 原発を、100パーセント、安全に制御することなど、不可能なのだ、ということを、わたしたちは、チェルノブイリや福島の原発事故で、思い知らされましたし、熊本・大分の地震についても、それが、どのようなメカニズムで、起こったか、というのは、何となく分かっていても、それがいつ起こるか、ということについては、まったく予知できない状況です。 もちろん、もっと、科学が進歩すれば、もう少し、詳しいことが、分かってくるのかもしれませんが、なかなか、自然の力、手に余る力を、制御したり、解明したりすることは、できません。 そのようなわたしたちだからこそ、分からないことは分からない、と素直に認め、超越的な存在を信じる姿勢を持つ、ということは、とても大切なのではないか、と思うんです。

今、この時も、わたしたちは、息を吸って、はいて、を繰り返しています。 それは、科学的に言えば、酸素を吸って、二酸化炭素を吐き出す、ということなんですが、宗教的(という言い方が正しいかどうかは分かりませんが、)に言えば、神様からの聖霊を受けて、今、この瞬間も、新しくされているのだ、という言い方になります。 わたしたちは、そうやって、神様に生かされているんだ、ということに、感謝して、生きていきたいと思います。 「風は思いのままに吹く」、つまり、神様の霊が、恵みが、常にわたしたちの周りに満ち溢れている、そのことを感じながら、今、この時を、神様とともに、歩んでいきたいと思います。

お祈りをいたします。