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≪大阪時代≫(この頃から山が好きだった) 
 僕(さだお)が、初めて登った山…?、定かではないが父に連れられ行った(登ったとは言えないかも)比叡山か高野山と思う。(父方と母方のご先祖様が眠っているため)
 中学校になると友人と一緒に、六甲山、生駒山、信貴山、葛城山、金剛山と大阪平野から見える山に行くようになった。
 大阪の繁華街難波で産まれ育った僕はこれらの山しか知らなかった。
 特に真冬の金剛山は大好きだった。真っ白に凍りついた樹木は太陽の光にきらきらと輝きとても美しくかった。
 冬の登山靴なんてものはなかったので、ゴム長に滑り止めの荒縄を巻き登った。そして高校生になると国鉄(今のJR)の周遊券を購入し九州、四国、中国と行動範囲を広げていった。
≪東京時代≫(少しだけ山から離れる)
 その後上京し初めて登った関東の山は高尾山、次に筑波山そして富士山。
 その頃は大阪時代から仲間と発行していた同人誌に注力することが多く、取材で東京の下町や関東の山里歩きが主となり登山から暫く遠ざかる期間もあった。
≪茨城時代≫(安達太良で山がよみがえる
 次の移り住んだのが茨城県日立市。この街には親戚や友人もなく生活環境も大きく変わり徐々に同人誌投稿も少なくなり、休日の時間つぶしにと再び山に足が向くようになった。 
 主として東北南部の山が中心で中でも安達太良山がお気に入りだった。
 初めての安達太良山は岳温泉街から歩き、くろがね小屋(泊)、安達太良山、鉄山、箕輪山、新野地温泉(泊)の縦走だった。 残雪期で下山はほとんど尻シェードだった。
 この山は山仲間を増やす第一歩のコースとして数え切れない位歩き回ることになった。
≪新潟時代@≫(少し登山件数は少なくなる)
 その後、新潟に転勤となり多忙な日々を過ごす。子供の成長期でもあり登山回数は少なくなる。それでも白馬岳を中心に北南中アルプス方面、丹沢山系等にも足を伸ばし様々な経験を積み重ね、時には穂高の釣り尾根付近の凍った残雪に足を滑らせ滑落し、大けがをしたこともあったが山を嫌いになることは無かった。
≪東京単身赴任時代≫(山にはまっていく)
 平成3年からの単身赴任(17年間)中は東京で“山歩の会”と自称する山の会を作り、山仲間を増やしていった。この17年間に数え切れない位の山を歩き、子供達が一人立ちする頃からは帰省する時間があれば新潟に帰らず山ばかり歩いた。家内とも現地で待ち合わせをして歩くようになった。
≪新潟時代A定年後≫(新たな山遊びの楽しみ方を探して)
 僕が60歳で定年を迎え、新潟に戻ってからは家内(みちよさん)と頻繁に山へ出かけるようになったが、新潟の山には疎く、新しい仲間も欲しくなったことから“新潟楽山会”に一緒に入会し現在に至っている。
 残念ながらアルプス系ばかり登っていて“日本100名山”に気付くのが遅く未だ達成には至っていない。
 2013年には100名山を済ませ、“お気に入りの山”を中心に歩くようにしたい……!。

 しかし、あまく無かった。2013年1月21日スキーツアーでメンバーを引き連れコース案内をしている時、ちょっとした不注意でアイスバーンに叩きつけられ左肩が砕けてしまった。
 結果大幅に登山計画が狂い、2013年度の100名山登頂達成は成らなかった。
 因みに2013年は99座迄登頂できた。ラスト100座目は地元“越後駒岳”となった。
 
 家内が97座なので2014年はそちらを優先し秋には一緒に100座達成を狙っていたが…。
 2015年に持ち越した。
≪ついに100名山達成≫(今後はお気に入りの山に登りたい)
 2015年8月21日朝5時、ついに100名山100座目の“越後駒ヶ岳”に登ることが出来た。
 今後は好きな山と、100名山で天気が悪かった山に登りたいと思っている。


普段、遊び心でこんな
名刺を持ち歩いています。

何処かでお会いしたら、
名刺交換をしましょう。

金剛山

高尾山頂からの富士

薬師山頂からの槍

 五竜の夜明け

 白山の夕焼け

厳冬の蔵王

竜ヶ岳より

越後駒山頂