UW(under water)について(個人的に)

UW」ってご存じですか?私は最近まで知りませんでした。
アンダー・ウオーター」で引けるフェチ(性的偏執症)の一種らしい。

いやはや、インターネットとは便利な情報システムだ。
世界中の人間たちが個性的で、かつ勝手な妄想をどんどんキー操作で
このシステムの中へ流し込んで来る。その有様は壮観としかいいようがない。
ちょっとした偶然から迷い込んだサイトから、
あっと驚くような新鮮な知識、発想と出会うことも珍しくない。
私は日本語しか出来ないので、英語サイトには入れないのだが、
まだ発展途上のごく狭い区域である日本語のネット世界ですら、
こんなに楽しいのだから、これで英語が自由に読めたら、
更にさらに世界が拡大するだろうことは疑いないだろう。

残念である。

ところで「UW」である。既に日本でも相当数のサイトが確認できる。
彼等の趣味は、つまり、女性を水中に置いて鑑賞しようということだ。


あるサイトはスキューバダイビングを愉しむ
女性の映像が多量に陳列されてあった。
素潜りで泳ぐ若い女性の水中写真は彼等の
最も好むところである。
(右の映像1,2,3は幕張2002カメラショウ
オリンパスカメラブース。珍しいキャンペーンである)
アスキーマガジンより)

顔がない、水中の(膚の露出の少ない)女体映像の
コレクションがあった。

メッシイ(衣服を汚す、という快楽の一種としての
フェチ)に属する面も混在しているようだ。

あるサイトは、不本意に水中に入って(窒息して)
苦しむヒロインの描写がある作品(コミック、映画、
小説等)のコレクションがあったし、
深い水中で、ギヤーをつけた二人の男に溺れる寸前まで拘束され、
激しくファックされ続ける全裸美女のヴィデオを紹介している記事もあった。
(これらは明らかに嗜虐趣味の一種か)

要は、水中にある美しい女性を見る、或いは想像することが快感なのだ。

なぜ水中なのか。

彼等自身の説明やふるまいは、例によって充分我々を納得させるものではない。

私はこれまで全く意識しなかったのだけれど、
これは、自身の中の何かを解くかぎになるかもしれない、とか漠然と思ったわけだ。

以下、その中間報告。

古い思い出が甦る。
少年ケニヤ」という山川惣治の絵物語には嵌った。[少年ケニヤ」15巻(角川文庫)口絵
物語の内容を説明するまでもないだろうが、
その中でひどく気に入った(というより興奮した)場面が思い出された。
不思議な「とかげ」の仮面を被った蛮族にヒロインケートをさらわれ、
彼等の後を追うヒーローワタルと同伴者でマサイ族の英雄ゼガ
不審な深い地底の井戸に敵の姿が消えるのを発見し、
ワタルはその井戸へ飛び込んで追う。
さほど広くない、水の充満した縦穴へ逃げ込んだ敵のあとを追うということは
その井戸の深みへ深く、深く潜っていくしかないことである。
井戸の水面そのものが地下の深い縦穴の底にあることもあって、
わずか潜る(沈む)だけで水中は明るさを急速に失う。
水は冷たく、水圧も急速に高まることで、
よほどの潜り上手でも、急速に沈んでいくのは危険であり、更に
敵が水中にある状況では、暗い水中での待ち伏せも考えられる。
敵の正体がなお(人間でない可能性が高く)分からないこともあり、
スリルと興趣は激しく高まる。
ワタルの勇気と、泳ぎの達者なことを強調する場面でもある。
ケートを救いたい余りに懸命に深追いしすぎたワタルは、
結局敵を水中に見失い、息苦しさも募って、
むなしく浮きあがっていくのだが、
途中で息が切れ、苦しみ、気を失ったままともかく水面に浮き、
ゼガに引き揚げられる。

山川惣治の簡潔にして要を得た描写力と見事な絵。

後日、「ケニヤ」はアニメになった。
この場面の代りに、ケートの水中バレエが挿入された。
もちろんこの方が一般の受けがよいとされたのだろう。

山川惣治でひとつの頂点を築いた絵物語、
この魅力的なジャンルを省みる作家は、既になく、
後継者を失ったのが残念だけれど。
今でも「少年ケニヤ」は文庫本で愉しむことが出来る。

山川惣治の作品で私のお気に入りは「少年王者」である。
ここでもヒーロー真吾は無類の泳ぎ達者で、鰐と競泳したり、
前世紀の恐竜ブロントザウルスと水中で闘ったりするのである。「少年王者」第2巻より

しかし、水中シーンの多さとなると、やはり
海のサブー」にとどめを刺すのではないか。
この作品は今どこに残っているのだろうか。
と思っていたが、幸運にも当時の単行本1巻と4巻を入手できた(’04.’6)。
S27年6月の初版本(第一巻)だから47年前である。
よくも保存されていたものだと思う。
懐かしくそれをめくりながらこれを書いている。
(激白111にもこの感激をメモしたが。)

国際航路の船が難破し、絶海の孤島にひとり打ち上げられた男の幼児、三郎は、
その島の住民に育てられ、強くたくましい少年「サブー」になる。
島の災いとして恐れられた3つの不思議をその勇気と強い身体能力で解決していく。
最初のそれは巨大なシャコガイによる神隠しだった。
得意な潜水でそれを発見し、苦しむ仲間を救うサブー。 その最大の災いで、強敵だった人食い大蛸と水中で死闘を繰り広げ、
全身を巻き絞められて苦しみつつ水面を渇望する場面は圧巻だ。

島の災いを全部解決したサブーは、
ある日メリナ(ヒロイン)と沖へ漁に出、嵐にあって大洋の只中へ流され、
奇怪な景観を見せる人食い島に漂着する。
島の猛悪な住民はメリナを捕らえ、島に太古から生き残っていた巨大な剣歯虎の餌食にする。
サブーの渾身の救出努力もあえなく、彼自身も捕らえられて筏に磔にされ、海の巨大えいに襲われる。
ヒーローの無力と絶対の危機を救うのは力強い味方、海亀のバンガ(ケニヤでの大蛇ダーナにあたる)だ。
サブーは再び気力をふりしぼってメリナ救出に向かう。
結局島の火山の爆発で敵と呪われた島は水没し、ヒーローたちは生き残る。
米映画「キングコング’1933」のパクリはあるけれど、
これだけの波乱万丈を第1巻(1年間の連載)でドラマチックに描ききる。
2,3巻はまだお目にかかる機会はないけれど、4巻では「あばれ船」に乗って航海に出たサブーが
見知らぬ島で虎やら鰐と闘うことになって海洋活劇の味は薄れている。
「アセチレン・ランプ」氏によれば、「海のサブー」単行本はこの4巻で途切れたという。
山川惣治の構想力が途切れることはなかったに違いないし、
なんらかの事情があったのだろう。
残念なことである。

山川惣治の物語で活躍するヒーローは、
当然ながら当時の掲載雑誌の対象読者だった小中学生の代表で、
「少年」というイメージは今も新鮮である。
宝塚歌劇の男役に似てモノセクシュアルな、
清冽な、しかし何となくセクシーな魅力に溢れている。

半面、ヒーローの相役として現れるヒロインは、ヒロインとも言えない詰まらない存在だ。

ケートも、「少年王者」の「すい子」も、メリナも、
美女だけれど何の積極的な行動も出来ない
単なる脇役というより、ヒーローの足手まといになるだけに過ぎない。

美少年のヒーローだけがひとり勝ちしている。
私は、そんな彼等に恋情を持ったのかもしれない。
いや、殆ど自分と同年代のヒーローと同化して、
自己愛のひとつとして感じていたのかもしれない。

セックスも、愛も知らなかった稚ない時代。

それはよい。

「UW」に話しを戻そう。
山川惣治の描くヒーローは「UW」と関係があるのか、
それは充分あると思う。
著者が「UW」的シチュエーションで性的な愉しみを感じていなかったとしても、
読者の全てがそれを感じていなかったとは絶対言えないだろう。

熱烈な山川ファンだった私が上記のシーンで感じた感興は、
まさしくセクシュアルなそれだったということはいえる。

もっとも、今それを再現することは出来ないけれど。

現在、山川亜流のような物語をこつこつ書きつづけているのも、
その強烈な原体験が尾を引いていることは間違いないところだ。


学生の頃、何かの雑誌で「水中バレエ」というユニークなショウがあるのを知った。
一度拝見したいものだ、と思っていたが、とうとう見る機会がないまま
つい数年前に閉館したらしい。

残念なことだった。

折角の特殊なスキルが廃れるのはもったいない。
ファミリー向けと平行して、アダルトな傾向のショウも企画すれば、
もっと隆盛したのではないか。

各地の海女実演も廃れる一方らしい。
単なるスペクタクルとしては、資本力のある少数のテーマパークだけが
華やかにもてはやされる世の趨勢に取り残されて、
さほどのインパクトがなくなっているのだろう。

別のページで、私は「人魚と海女」への偏愛を書いた(人魚幻想海女随想)。
これも「UW」の一種の現れといっていいのかもしれない。
ひも水着の舳倉島の海女のことを書いた。
さほどの興味はなかったけれど、
写真のような光景はもう見られなくなっている。
貴重な写真だ(S35撮影)。彼女たちは素裸に近い身体に4キロもの錘をくくりつけ、
水深30メートル近い海底へ文字通りの命綱を引いて
沈んでいく(自力では浮きあがれない)。
往復1分あまりをかけて作業する、
世界最強の海女だ(だった?)という。

世の「UW」サイトでしばしば現れる各地(大分、新札幌、他にもある?)の
水族館の「マリンガール」は私も好みである。
鴨川パークのシャチショウ、あの、巨大な海獣の鼻先に押されて
水中を凄い速度で泳ぎ進むショウガールは、
最高の景観だった。
望み得るとしたら、彼女にはもっと膚の露出を多くして欲しかった
(2年前の10月に見た時は黒いウエットスーツだった。ゴーグルなし、
キャップなしがせめてのサービスか?)

ショウとしてのUWでは、奇術の一種として、
水が満たされた透明な水槽に、拘束された助手の美女が細身を折って入り、
蓋を施錠した後、そこから抜け出す、
いわゆる縄抜けのUW版を見たことがある。

絶対成功するためのしかけがあることは間違いないが、
決定的な場面は隠すとしても、可能な限り露出させることが
スリルと興趣を高めることになるだろう。
その拡大版として、巨大な檻に手錠で繋がれた水着美女を閉じ込め、
海中深く沈めてそこから生還するショウをTVで見た。

もちろん水中カメラで檻の中と彼女のふるまいは監視できるのだが、
途中から水泡で隠されてしまった。

TENKOH」の巨大なしかけはそれなりの効果をねらっているのだろうが、
余りに水増しが過ぎれば、興趣はそがれる。
まだ、簡単な道具だけを使ったストリートパフォーマーの
真剣な演技のほうが生々しく、興奮できる。

外国では実際に樽の中へ人間が入り、
ナイヤガラの滝などから落とし、生還するといった、
何のたねもしかけもない命がけの冒険が実施されたと聞く。
死ぬこともあったらしい。

水中の女というイメージは、やはり膚の過激な露出、
水着、ゆきつくところはヌードと結びつく。
泳ぐという非日常性の状況、引力から自由になれるポーズが魅力でもあるのだろう。

舘石昭の水中ヌード写真集「海のオリビア」は私も一時所持した。
しかし、顔のないヌードほど奇妙なものはない。
芸術性は感じられたし、気に入った数シーンはなくもなかったが、
すぐ売ってしまった。
何にせよ、折角の伸びやかなヌードモデルも、
ショーツの日焼け跡だけは我慢ならなかった。

類書が非常に少ないのは、
その撮影の困難さにくらべて、
さほどの市場性がないせいだろうか。

最近の写真集で印象に残ったUWシーンは、
小松千春のヘヤヌード集「TEN」の冒頭の水中ヌードだ。
5シーンほどあった。
私にはさほどではなかった。
どうしても、映像としては鮮明度に欠けるのだ。

ハンディがきつすぎる。

そんなハンディを課してまで、作者は
水中撮影で何を強調したかったのか。
ただ、千春が全裸で水中にいたという、
存在証明の映像だとしかいえない。

中では最も気に入ったもの。
懸命に潜水し、泳いでいる千春の全存在がいとしい。


洋画で印象に残ったもの。
ザ・ディープ」のジャクリーン・ビセット
「UW」の定番的映画は’77公開と既に大過去の作品になりしまっているが、
その海底撮影のスリルある場面(うつぼに襲われるJB、などなど)
の数々は今でも印象深い。
もちろん個人的には、敵に捕らえられ、裸になれと迫られるJBの美しさも
なかなかのものでした。これは「UW」とは関係ないが。

島田荘司のハードボイルド「サテンのマーメイド」(集英社文庫)も
「UW」ではよく話題になるミステリーであるが、
最後近く、セメントの靴を履かされて海へ沈められる美女のイメージは、
いつだったかF・シナトラ、デーン・マーチンのギャング映画の冒頭、
全裸金髪美女の溺死体がゆらめきつつ微笑する海底シーンの記憶にダブる。

あの映画の題名は何だったか。
どうせB級映画だろうが、
さほどの猟奇趣味ではなかった。
喜劇だったかもしれない。

西洋伝統絵画の世界にもUWのテーマは存在する。
シェイクスピアの芝居「ハムレット」に題材をとった
オフェーリア」
ご存知のように、彼女は失恋し、気が狂って川に落ち、
溺死する。

絵画では幾つかのパターンが存在する。これは
前記の、マフィアが考案したセメント靴を連想させられるポーズだ
ポール・ステック(英)

しかし、なぜ水中なのか?という疑問はつきまとう。

水中にある美女は常に息苦しさと強い水圧の状況下で
絶えず緊張を強いられる。
おおげさでなく死につながる危険にさらされている。

そんな中で微笑えみすらする彼女たちの身体能力、心身の強さが
たまらない魅力であるのだろう。

「UW」の好みがギヤーなし、ゴーグルなしの素潜りに
傾向があるのはその線を示している。

この行おわり
(一部更新’04.07.11)
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