ショーガール


雪の残る山並みを遠くに見ながら続く広い自動車道のそば「ラスヴェガスへ340マイル」と書かれた看板の横で、ジーン姿の一人の若い女が右手を上げている。傍らには小さなスーツケース。都会からはるか隔たった、家並みの見えないこんな場所で自分を拾ってくれる行きずりの運転手を求めている。そんなファーストシーンから始まるハリウッド映画「ショーガール (1995 1)」。
主演 エリザベス・バークレー
私はこれを京都の封切り舘で見た。なんとも安直な出だしはB級映画の特権なのだ。彼女が金髪の美女で、そのスレンダーで肉感もあるレギーな肢体、蓮っ葉な男物の革ジャンパーなどを無造作に羽織っていることもあわせて、そこに様々な色っぽい事件の存在と展開が想起されるのは当然のことだった。彼女は何者?なぜこんな場所に一人居るのか。彼女の目的は何なのか。どんな運命がこのさき彼女にふりかかるのか。彼女は幸せになるのだろうか。もちろん、私も、この映画に何の予備知識も持ち合わせては居なかったのだけれど、様々な妄想と期待で胸を一杯にして眺めたことはまちがいない。そして、それらの妄想は大抵がそれなりに実現し、私は、一応満足した、と言っておこう。いや、おおいに満足した。
これはひとつの典型的な大衆芸能、ハリウッド製の、ラスヴェガスをベースにした電気芝居というところだろう。残念ながら日本などではとても作れない作品だ。ラスヴェガスはアメリカにしかないし、あんな見事なショウ・ビジネスも存在しない。更にはヒロインであるエリザベス・バークレーのような魅力的な容貌と肢体を持ち、ダンスもうまいコーラス女優はひとりもいないだろうと思う。こういうことを思うとき、私はつくづく日本人に生まれたことを呪う。

題名が示すように、この映画はショウガールのざっぱなおさらいというべきもので、ラスヴェガスの、という但し書きがついて、おさだまりのヌードサービス満点、一見一流のショウビジネスではあっても,その中身は結構どろどろした、暗い個人の欲情とエゴが露骨にまかり通る世界であり、犯罪のにおいもぷんぷんするという、一面では単純な金と色気の世界なのだ。「ヴェガス」そのものが個人のナマの欲望をねたにして栄えている町なのだから、こんな設定も当然ありなのだろう。つまりはリアリテイがあるということだ。これを見て勇躍ヴェガスへヒッチハイクする踊り子志望の若い美女たちが増えたのか、またはいなくなったのか、どうか。
 ヒロインであるイタリア人の両親を持つノエミ、ダンスの好きな、そして大いにその面で自信もある若い女。ラスヴェガスで成功しようとハイ・ウエーを乗り継いでやってくる。ひっかかったフォードのピックアップの若い運転手はノエミの少々崩れた感じに自分と同類のたやすさを嗅ぎ取り、少なくも乗せてやったことに対する返礼位は期待しつつ、ちょっかいをかけようとするが、女はその可愛い顔にも似合わない非常識さ、荒々しさを垣間見させてくれる。取り出したナイフで逆に男を脅し、しらけさせ、ともかくたやすく遊ばせようとはしない。彼女が過去どんな苦い目にあったことから学習したやりくちなのかも、とか思ってしまう。確かにそんな気概でもなければ女ひとりでアメリカ大陸を無銭旅行することは難しいのかもしれないけれど、これは少々やりすぎかもしれない。結局それがこの若者を反発させて、すぐ彼女自身を窮地に陥れる原因になるのだ。
つまり、ヴェガスについて早々、彼女はその男に体よく騙され、その全財産が入っていたというスーツケースを持ち逃げされてしまう。途方に暮れてそばの車にあたりちらすノエミに近づいた、その車の持ち主で一流劇場つきの衣装担当モリーが彼女の面倒を見なかったら、どうなっていたことか。彼女のトレーラハウスに寄食して落ち着いたノエミは数週間後、何とか最初の希望だった踊り子として生計をたてられるようになっている。彼女の職場「チータートップレスラウンジ」は、つまりはストリップ小屋で、踊り子は四方から身近かに眺められる簡単な縦ポール付きの舞台上で、最初からビキニの下着にシースルーのキャミソールで挑発的な踊りを踊る。トップレスはもとより、ボトムも最後には取ってしまう。ポールは彼女たちが取り付いてぐるりと回ったり、剥き出しのセックスをすりつけてオナニーショウめくダンスを見せたりと、様々な演出に利用される。そんな小屋へ来るのは酔客か勤め帰りの肉体労働者たちといったところ。つかのまの気ばらしにそんなところへやってくる彼らがまともな踊り子のダンスを期待しているはずもなく、結局若い女の裸体を眺めにくるわけだろう。踊り子たちも多くは自分の技能を伸ばしていい仕事をしようという気はなく、ただ日々を金のために惰性で過ごしている。そんな仲間の間でノエミの踊りは目立っていた。荒削りではあるけれど、迫力があり、真剣味がある。もちろん彼女だって最後にはすべてを取って全裸で踊るのだけれど。そんなノエミの踊りに注目する観客が出始めていた。遊び半分にやってきた「スターダスト」のトップダンサー、クリスタルとその愛人で劇場の若い支配人ザックである。クリスタルはノエミを知っていた。友人で劇場に働くモリーが彼女を紹介したのだけれど、「チーター」の踊り子だと自己紹介した彼女をからかって傷つけ、本気で怒らせてしまったのだ。

もちろんまったく身分違いのスターの前で礼儀を弁えない世間知らずの女をクリスタルはそのプライドから赦せなかったし、ここであらためて思い知らせてやろうという気になっている。その暗いたくらみとは、小屋の特別室で、ダンサーひとりに別料金で演じさせる「プライべートダンス」にノエミを指名することだった。表向きは彼女にちょっと惹かれているらしいザックへのサーヴィスとしてだけれど、クリスタルもそこに同席するという。卑猥で露骨なパフォーマンスを見せることで客を「いかせる」ことを目的としたきたならしい行為を、金のために知人の眺める前で演じなければならない。そんな屈辱にうちしおれて踊るノエミを見たかったクリスタルだったし、もちろんそんな底意地の悪い相手のたくらみを十分承知し、懸命に断ろうとしたノエミだったけれど、小屋主のアルに「やれ」と命令されると、使用人という奴隷の悲しさ、仕方なく従わねばならない。開き直った彼女のダンス、全裸になってザックに迫り、殆どなまの性交に近い激しい演技にザックは本当に「いって」しまい、クリスタルは堂々とやることをやってのけたノエミを見ても、自分のたくらみがさほど成功したとも思えないままだった。事実、それがもとでザックはノエミへ心が移っていくのだ。もっとも、それで相場の十倍の料金をふんだくったノエミ自身もひどく傷ついたことではあったが。
憂さを晴らそうとディスコでひとり踊り狂うノエミに惹かれた振り付け師崩れの男ジェームスが彼女を自分のレッスン場に誘い、踊りの指導をはじめる。そんなこともあって彼女のダンスは更にうまくなり、偶然クリスタルが踊る劇場のスカウトが臨時のオーデションに誘ってくれる。

厳しいオーデションに合格したノエミはザックの心を篭絡し、彼の後押しもあって急速に栄光の階段(怪談?)を駆け上る。彼女の奔放さ、嫌なものは嫌と割り切る姿勢もさりながら、感情の赴くままに突き進み、とどのつまりクリスタルとの確執と暴力沙汰、彼女を階段から追い落として大怪我を負わせ、トップスターになってしまう。
もちろん彼女自身の実力もあるのだけれど、それだけではこんな世界を征服できるほど甘くはないよという教訓のようなものを感じるのは私だけだろうか。

確かに、日本人を嫌い(日本バッシングはこの映画の底流になっている。アメリカ人の本音が見える。B級映画の典型だ)、その接待をすっぽかす。プライドは人一倍、粗野で単純、恩人モーリーの友情も理解しているのかどうか、そんなこどもっぽいままのノエミに心から感情移入できないというひとは少なくないだろう。結局、なお不明のままだった彼女の身元に不審を抱いたザックがひそかに調査し、発見した彼女の経歴は両親が起こした殺人事件、彼女自身の売春の履歴など、不幸な生い立ちの彼女が隠し続けたことも当然のことではあった。

ノエミにはなお現状をザックに知られたまま、その奴隷としていいなりになりながら表向きのスターを張ることも十分可能だったのだけれど、彼女はそんなせこい選択はしなかった。彼女の昇進以来友情が壊れかかっていたモリーを騙し、ひどい陵辱を加えたロックスターがその特権で警察に逮捕されることもまぬがれていることに憤慨したノエミは、高級娼婦をよそおってそのVIPルームへ入り、手ひどい復讐を友人にかわって実行する。そのあと入院している二人の友人、モリーとクリスタルを見舞ったノエミは、誰にも告げないまま栄光を捨ててひとりラスヴェガスを去る。
彼女のヴェガス滞在中におけるすべての破天荒な行為と選択を支離滅裂だったとはいえないだろう。誰にも出来ないことではあるけれど、彼女としては筋が通っていたし、それなりの「かたをつけた」ことではあったのだ。女として、踊り子として一級の能力を示した魅力的なショーガールノエミを愛することが出来るか、どうかはひとそれぞれだろう。

の項 終わり ’05.7.09

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