映画 北京原人の逆襲 の奇跡


1977年公開のこの香港映画についてはあちこちでその存在を聞かされていた。見ようと努力した時期もあったけれど、近所のレンタルにはなぜか見あたらなかった。最近、このDVDが日本でも入手可能になって、私も見たのだけれど、これは後悔しないでよかった。

大抵この種の「きわもの」は期待はずれなのだけれど、これはそうではなかったということだ。こういった「B級映画」は、正直言っておおかたが失望の歴史だったということだ。だから「奇跡」ということにしたのだけれど、とりあえずは人生何があるか分からないという生きがい観に一票入れておこうと思う。

別途に私は「女ターザン」のコンテンツを出しているので、いずれにせよこの映画もそれらの中に入れておくべきものだろう。これについても私は好奇心と失望の予感とを天秤にかけて、別に見なくてもおおかたはたいした損失ではないだろうという立場をとっていた。いずれにせよ、可能性があればいずれ見てしまうのだけれど、DVDを借りた段階で、この映画が例のクエンティン・タランチーノによって再発見され、われわれが見れるようになったというエピソードを知り、さもありなんと思ったことでもあった。タランチーノは私の趣味に近いものを持っている。

それで、映画の内容についてざっとおさらいをしておく。「北京原人…」というのはまことに面白い命名であり、まずこれでわれわれを驚かすのだけれど、この映画での北京原人というのは戦前北京近くの洞窟で発見された人類の祖先である化石的存在を指す(おそらく現人類よりも小型の猿人だろう)のではなく、直接には戦後ヒマラヤの山奥(中国領らしい)で目撃されたいわゆる「雪男(イエティ:毛だらけの人間の意か、スノウマンとは雪だるまのこと)」を想像で膨らませた(実際にも巨大化させている)ものだろう。
もちろん「雪男」が北京原人の末裔であるという想定も常識としてまったく不可能ではないだろうけれど、映画のそれがなぜやたらと巨大なのかという説明はない。いずれにせよ「北京原人」という命名は何事か荒々しい古代の怪人をイメージして秀逸だと思う。

ともかくサマリーを述べる。
そのヒマラヤの巨大雪男が最近の地震で地中から現れ、暴れだして近隣のむらに被害を与えているという想定から、その怪物を捕らえて世界の平和に貢献し、更には都会へ連れて来て見世物にし、大いに儲けようという香港の「大学教諭」の発案から物語が始まる。
そういった巨大な危険物を捕らえにいくにはあまりにしょぼい探検隊が組織され、インド奥地へ突き進むのだが、まったくの無計画から探検隊は崩壊して、たったひとり奥地に取り残される主人公がその巨大怪物を自在に扱う野生の美女と恋仲になり、ペアーで香港へ連れ帰る。あとのどたばたと悲劇は大体米映画「キングコング」のコピーである。
この「北京原人の逆襲」は実際にはジェシカ・ラング版のキングコングと競争することになってあえなく惨敗するのだが、その資本力、技術力、販売力の格差からその結果は当然だったとは思う。しかし、その作品としての完成度は別にして、その発想力を含めて幾つもの視点からその徹底したサーヴィス精神は評価できるし、理屈抜きで愉しいという意味では後世に残るものではないか。むしろ「キングコング2」はそのあとのナオミ・ワッツ版(2005)で完全に忘れ去られたともいえるのだし。

この映画の優れた独創性は、なんといっても巨大怪人(猿人)と野生美女との交情、その納得できる設定だろうと思う。基本的にこれは常識として受け入れがたいものなのだけれど、彼女の幼児の時からの命の恩人ということならそれはありうるということになる。この感情が最後の最後までストーリーを引っ張るものになるのだから、これは重要な点だ。


更に特筆すべきこととして、この「女ターザン映画」としての面からいって、ヒロインである野生の美女アウエー(日本名サマンサ、スエーデン女優イヴリン・クラフト)のロリ的すご魅力もさりながら、その登場当初の露出が最後まで徹底して持続したということがあげられる。


途中現代社会への帰属に伴うおさだまりの衣裳直しも、その当時としては珍しいタンクトップにへそ出し、そしてほっとパンツと、

それはそれでも私にとってはまったく構わなかったのである(笑;)が、それすらも彼女自身が脱ぎ捨て、またもとの野生的な衣裳へ戻る。更には現代社会でのモッブシーンでも、そのまましかも裸足で走り回るという根性というかサーヴィスぶり(もちろん演出の力量発揮)であったことを挙げておく。よくやった!イヴリンちゃn。

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