耽美的女侠客の末路 =「お柳情炎」をめぐって 


「お柳情炎」上、下 長田要 団鬼六原作 竹書房

こんな物語である。匕首を持たせたら滅法腕の立つ美人の侠客つばめ返しのお柳がヒロインである。彼女も一宿一飯の世話になった沢村の親分を、つまらぬ恨みからあやめてしまった耕平、三郎という半下どもを追っていたお柳は、その仇を晴らすために昔足跡を残した地で彼らを見つけ、立ち会うが、逆に彼の遠縁で、庇護をする立場であり、彼女に怨恨を持ってもいた当地の元締め矢島一家の卑怯な手で逆に捉えられ、したたか屈辱をあじわわされたあげくに虐殺されるという。

殺伐とした筋も、団鬼六の美女陵辱羞恥責めの耽美世界のコミック版としては極力抑え気味の表現に終始して好感がもてる。鬼六作品そのものへはなかなか入っていけない筆者なんかにとっても、長田要のこの仕事は貴重なものになった。その点は評価できると思う。

「お柳情炎」上 「お柳情炎」下



この1文は、だから独立した長田お柳に徹した考察である。筆者は小説お柳は読んではいない(鬼六作品のいくつかは、読んでいるが)。

創作世界にひたり、これを楽しむためには、やはり一応の水準が必要だろう。アダルトチックな小説やらコミック、映像のたぐいもこの例に漏れない。物語の場合はリアリズムというか、嘘くさくはあっても、なんとなくありそうな、いや、これは本当にあってもおかしくはないという気分に引き込む技術が求められるのだろう。

文章のレベルも当然表現されるものが直接そこに顕れてくるような、確実で透明なものが求められる。書かれていることの意味が不明であるとか、どうも不適切だとかいうのでは、悪文拙文ばかりが目前に意識されて、肝心の内容へ入っていけないもどかしさがあって困るのである。内容や筋そのものを言うまでに、そこが突破されなければ世界そのものが機能してこないのは見えたことだ。
その点、映像のたぐいは幸せといえる。カメラなど技術の向上は、びろうな例だけれど、女性の性器の中へまで入っていけるセンサーが開発されたりして、映像の質と世界はいちじるしく広がったし向上した。もちろん女性そのものの質も進化した。われわれは世界最高水準の美女の精緻な映像、姿を居ながらにして堪能できる。
しかしアダルトの、性の世界はなお広く多岐に亘っている。単にヌードやからみの姿態を眺めるだけでは満足しない人種もいるのである。たとえば団鬼六が開発した性の耽美世界を楽しめる人種は少なくないはずだけれど、それが彼の小説だけにとどまっているのはまことに惜しいと考える創造的人種もいるし、それを一般へ広げたいとする彼らの努力もまた貴重だと考えるのである。でも、それが報いられているか、と問われればどうもおおむねそうではないらしい。それに関する生の美女を用いた映像の物語はみな失敗しているし、これからさき、成功する望みも薄い。
しかし、これは彼らの技術だけの問題ではないだろう。やはり映画とかの芸術、多数の雑多な人間たちが協力して創作するには、これはてごわい思想なのだ。多くは理解していない(というより生理的についていけない)のだろう。一般大衆に問う(そして広く大きく儲ける)といった種類のものではないということもあるだろうし、そんな半信半疑のひとたちが、そんな半端な思想でこのねじくれまがった世界を表現しようとしたって成功はおぼつかないのである。

しかし、コミックの世界はどうだろうか。鬼六の狭小な世界を映像表現するのに、コミックはまことに適切な媒体だと思われる。手塚治虫も言っていたとおり、コミックは一人で出来る映画的創造芸術なのだ。隅からすみまで個人的な特殊思想を行き渡らせ、徹底させて完璧を期する独裁的耽美世界とすることは十分可能なのだ。もちろんそれには一級の技術的手腕と潔癖な強い精神力が必要なのだけれど。

長田要が鬼六世界を忠実にコミックに再現したとは筆者は思わないけれど、しかし、現時点でこの「お柳情炎」は鬼六小説のポピュライズに成功した稀有な例だと思うし、それが重要だと思う。彼のエキスを十全に取り込んで、そのおぞましさ、くだらなさを可能な限り排除した。もちろん生粋の鬼六ファンの多くはこの長田作品に不満を持っているかも知れないけれど、それは前記の同じ理由からだろうと思う。筆者がくだらないと思う部分を高く評価するオーソリティ諸氏もいらっしゃるわけであり、それは見解の相違、趣味の違い以上のものではないと思うからだ。

もちろん筆者としては不満も多い。コミックとして、絵柄は最も重要なものだけれど、作者は女性の魅力を充分に、自在に描き尽くせるまでには至っていないように思える。最も重要な表紙絵にしても、思わず買い気をそそられる魅力はない。本文を見れば拙いとは必ずしも思えないのだから、もっともっと描きこんで最高の魅力ある女性美を現出してほしかった。筆者がもっとも気に入った絵は上巻の裏表紙の苦悩するお柳(下左)だったけれど、もっと扇情的な絵でも(裏表紙なら)許されたのではないか。それとも、成人版というマークをつけることがなくなった最近の中間的コミックは、やはり自主コードを守らねばならないのか。しかし、本文内容は、この作品でも一般人が愕くような裸と責めの満艦飾なのだから、表紙絵にそれをほのめかすことはむしろ親切なのではないか。

「お柳情炎」上
裏表紙(部分)
スキャン失敗
「死んでもらう…」



さて本内容に入ろう。お柳、女侠客とはどんな存在か。そしてこの舞台は?警察は明治以後のものだろうが、仇を討つと女主人公が本気で言っているので、あだ討ち禁止令が出る直前の物語かもしれない。
もちろんそんな詮索は無用なことである。魅力的でこわもて、腕っ節の強い、喧嘩に強い華やかな和服美女というのはかなり想像が難しい(リアリティに欠ける)けれど、それもよしとしよう。
しかし、もともと女侠客は男くさいやくざ世界での貴重なあだ花である。仲間はちやほやして大事にするだろうし、男にさきがけて喧嘩へ走ったりはしないものだ。男はそれが商売なので、女に先走られるとむしろ面目が立たず迷惑なのである。
しかも客分のお柳は沢村一家にさきがけて耕平を探し出し、喧嘩を売ろうとした。喧嘩といっても匕首としこみ簪の対決で、負ければ死ぬかもしれない真剣勝負である。男がしりごみする中でお柳だけが一方的に仕掛ける。なかなかの度胸である。自信満々という感じだけれど、勝負の世界はよほどの実力の差があっても先は闇、お柳も無鉄砲を地でいくやくざものなのだろう。こんな生き方を続けていればいずれは怪我をして、のたれ死には避けられない。
もちろんいつでも死ねる、どんな死もいとわない。本物の侠客はそんな覚悟は出来ているわけで、そんないさぎよさがお柳をヒロインらしく、強く美しくも見せるのだろう。
そして、そんな態度だけでなく、お柳は実際強いのだ。耕平に助太刀した仲間5人がたばになってかかってもひらりひらりと身をかわし、相手を次々に傷つけ、倒していく。つばめ返しとは佐々木小次郎の剣の型だったけれど、お柳の場合抜群にスピードのある匕首の使い方、喧嘩の流儀をいうのだろう。
ともかくその場は仇の相手を含む皆に手傷を負わせただけで逃げられ、お柳は目的を達成することが出来ないままだ。
そんなわるに警戒感を抱かないままに、お柳はその地で以前世話になった川村の家を訪ねる。傷ついたやつらが牙を剥いて逆襲してくることは当然予想されたはずだったが、耕平に言わせれば、「病的なほどに義理堅い」お柳はやはりそのおちぶれた一家に有難迷惑と言われ、諭されて追い返される途中を襲われ、恐れたとおり、そのひとり娘を人質に取られ、脅迫されていいところもなく矢島一家にくだって縄縛たれるのだ。自業自得というべきか、それとも時代錯誤のルール墨守旧人類の末路なのか。

従来、戦いは一定のルールにもとづいて行われた。これは人間以前の獣の世界からの伝統である。現代の人間世界ほどめちゃくちゃな戦いをする生き物はかつてなかったはずだ。肉食獣同士は殺し合いはしないというルールを持っているらしいが、人間はひと殺し禁止を宗教の名で決めなければならなかった。
けれど、ルールをなくしたことで逆に人間は知能を異常に発達させてそれに対処してきたともいえる。人間死んじゃあおしめえだ、と皆いうけれど、そこはアリのように集団防御の思想、国家の思想を考え出して健康人、未来ある若者たちを無残に殺しまくってきた。ま、それはいい(よくはないが)。

お柳の生きる任侠世界は本来義理と人情を徳に、ルールにしている人間たちだけれど、ここで義理を貫いたために無残な目に遭わねば成らないお柳はまったく少数派(というより孤高のひと)なのである。明治のはじめには、もう仁侠道も地に堕ちていたということだろうか。それを知らず、ただ侠気一点張りで生きていたお柳(1話)はやはり知恵が足りなかったのだろう。いや、最初から負けることを予感し、玉砕覚悟で信念を貫いたのか。腕は立っても、警戒心を怠った美人侠客は彼女が奉じた任侠とはまったく異なった無法ものの一家に上巻のはじめで簡単に拘束(2話)されたあと、すぐ全裸にされ(3話)あとは延々と羞恥責めと陵辱の連続で22話まで生き地獄を生き、引き延ばされる。耽美というのはこのような執拗さ、耽溺という意味もあるのだろうけれど、見所はそのあくどい彼らの工夫とそれに狂わず、生きて美しい生身を持ちこたえるお柳の姿と精神力である。
といえばけなげに聞こえるけれど、実際には一緒に捕らえられた川村甚造の娘美津をたてに様々な難儀を要求されて、よんどころもなく手足を拘束され、汚し尽くされる。一家の矢島親分の額を割られた恨みに耕平と仲間三郎の逆恨みが加わり、更にお柳の制裁から旅の白黒芸人に落ちぶれた夫婦ものがくわわり、「お柳、からだがいくつあっても足りねえな、おい」と彼らに言わせるまでに無残にいたぶられる。更に一家の副業でもある女郎屋の娼婦として、お座敷女郎としていやしい芸を仕込まれるというのが実際なのだ。

もちろん華やかな鉄火姐御に深窓のお嬢さんのような羞恥心は無用なはずだ。賭場ではもろ肌脱ぎになって居並ぶむつけき男どもをねめ廻したこともよくあったに違いない。女の生の魅力はむしろ彼女にとっては武器にもなったはずだ。卑怯な手を様々使って清廉潔白なお柳をいたぶり続ける一家を裸の身であれ逆に余裕を持ってねめ返すことも出来たはずだ。終始人質となってお柳の足手まといになるお美津もお柳の精神的な優位性は理解できたはずだし、自分が犠牲に成ってでも、お柳にひと暴れさせてやろうというけなげさがあってもよかったし、お柳の教唆も添えればそれは可能だとおもう。羞恥責めはあくまで精神的な苦痛、実力と実利を伴わない形式罰なのであり、それらを乗り越えた果てにお柳の真のヒロイン的な勝利もあるのだろう。

それを示唆するのは、22話近く、お柳を救おうと沢村一家が動き出し、矢島一家が黒川一家に助太刀を頼む際に持ち出したお柳抹殺のストーリーだろう。ずっと括られたまま、生まれたままで夜は暗闇の座敷牢に閉じ込められ、昼間は陵辱とセックス芸を仕込まれる日々を過ごすお柳もなお黒川の目には怖い剣の使い手だった。沢村が殴り込みをかけて来、混乱に乗じて彼女が剣を得て暴れ出すのを恐れて、その前にお柳を血祭りにあげろと彼らは矢島に要求したのだ。お柳になお未練があった矢島もそれを飲まざるを得ない。
その宣告はお柳自身を一瞬愕かせたけれど、また、お柳にしてみれば自分を並以上の侠客と認めてくれたことでもあった。それは自分の誇りの復権ではあっても、無駄死にというものではないはずだった。その宣告を境にお柳は顔つきも変わり、矢島がもてなす黒川の暴れものへのはだか接待にも臆することなく堂々と心身を供する。そのけなげな姿にずっと彼女をいたぶり続けてきた矢島の子分衆も感銘すら受けるのだった。
お柳の最後の日の朝、黒川親分の采配で矢島がせっかく用意した白装束を取り上げられ、やはり素裸のまま、出入り前の殺気立った子分半下どもの間を手足も広げて身動きならない姿に括りあげられて引き回され、彼らの圧倒的な数の手指で激しくも過激な玩弄を全身に受け続ける。それが済めば、最後の血祭りの儀式、そのまま3尺高い磔柱に引き上げられ、手足を張り広げられて最期を遂げるのである。彼女がどんな状態でこときれたのかをコミックはあまり描写していない。

筆者によれば、このヒロインの最期はまったく無残で酷だと思う。お柳がどれほどしっかりした強い精神力を保持していたにせよ、これほどの屈辱に耐えられたとは思えない。ひたひたと近づく沢村の友軍の気配を感じながら、無力なまま汚し尽くされ愉しまれて死んでいく自分の運命をどれほど悲痛にも恨んだことだろう。もちろんそのやりきれなさ、読了後の殺伐たる気分が長田鬼六連合のたくらみであり計算だと言われるのなら何をかいわんやであるが。

           この項  終わり

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