O嬢の物語」雑感


こんな連想はちょっと的外れだとは思うけれど、このフランス文学界で一大センセーションを巻き起こし、権威ある文学賞も攫っていったというこの著名な作品を読んで、私は「深夜特急」(沢木耕太郎の世界一周貧乏旅行記1986より刊)で、彼がインドだったかで出会った若いフランス人男女のグループの性的退廃に辟易した(すわイケメン沢木はちょっと崩れたフランス美女に誘惑されかかったか?!)というくだりをちょっと思い出した。この小説が書かれたのは1951年(出版は54年)、沢木が旅に出たのは‘73年だからフランスがこの小説によって貴腐葡萄のように腐っていく時間はたっぷりあったわけだとか想像してみたのだけれど。

ともあれ、性的退廃という言葉がぴったりする小説(ポーリーヌ・レアージュ 澁澤龍彦訳 角川文庫)だ。生身の若者たちが性的退廃にひたるのはちょっと困ったものだけれど、文学作品の性的退廃は稀にかぐわしい香りを放つことがある。もちろん、かぐわしい香りとはいっても、私がそう思うだけで、癖のある、かなり饐えた匂いだと感じる分もあるかもしれない。しかし、これは多くの内外のポルノ作品が放つ腐臭とははっきり異なったにおいであることは間違いない。O嬢の物語はそういった稀なもののひとつなのだ。

何回も読んでいる。いや、2回目だったかもしれない。今持っている文庫本は‘75年に映画化(フランス・ドイツ共作)された時のスチールが表紙になっているから、その前後に出版されたものだろう(S48年初版 51年11版とある)。もちろん映画は観た。冒頭女主人公がタクシーの中で下穿きを脱がされ、冷たいシートの革張り(安っぽい贋革ビニール張り?)に剥き出しの腿を置いた時の冷ややかな触感に思わず声を出す官能的なシーンが印象に残るが、本の表紙から主役を演じたコリンヌ・クレーリーの記憶はおぼろげながら思い出される程度で、彼女余り好みではなかった。後日ネットでそのカットを発見したので挿入した↓。ご参考まで。


もちろん映画と小説は別物だ。文章で表現できることでも、映像では不可能なことは多い。その逆もありうるけれど、性表現は大抵文章のほうが先走っている。コードの問題が大きいのだろう。言葉で表わしてもそれを受け取る側で知的なフィルターを通したあとでイメージ化するわけで、官能に直接訴えるエナジーは弱まるということだ。だから同じ内容を視覚的に表現すると刺激が強すぎる、コードに引っかかるという現実があって、どうしても有名ポルノ小説の映画化でも肝心の場面はソフトになり、おおかたの期待に反するということになるのだろう。上記の場合もそんな事情だったのだろうと思う。もっとも私はここで映画について話す積りはない。いずれうろ覚えなのだし。

小説O嬢の物語は、こんな筋である。Oと称される若い女性が好きになったボーイフレンドと彼の遊び仲間の手でパリ郊外の怪しい秘密のセックスクラブに幽閉され、3P4Pあるいは鞭打ち縛り、なんでもあれの虐待を受けたあと、とりあえずまた社会復帰を果たすが、そのマゾの味が身内に染み付いて忘れられない。そのボーイフレンドとはずるずる切れないまま、Oは更に彼の手引きで同じ趣味を持つ十歳年上の男(ステファン卿)と肉体を共有されることになる。彼らの魔手はOの仕事仲間の女友達(写真モデルで女優のロシア美女、Oの実社会での職業は写真師である)へも伸びる。レズ相手であるOを手先にして彼女をそのクラブへ引き込もうとするが、O自身の(彼女をクラブへ誘うことへの)ためらいもあり、なかなか果たせない(このあたりのOのあいまいな心理情況は実によく描けている)。そのうちにその女の年少の姉妹のひとりがOに興味を持ちはじめ、Mの世界への強い憧れを持つようになる。そのあいだにもOは更にステファン卿の濃密な趣味の対象となり、愛玩物になり完全な個人的所有へ進んでいくことになる。つまり性器の鉄環による封印と持ち主の名札付け、尻に焼き印を押される等である。最後のシーン、ステファン卿にエスコートされたOは夜の屋外パーティに怪しい仮面をつけて引き出され、剥きだしの股間の鎖の光景なども衆目に晒される。そこで興味を持った男に卿の意のままその場で封印を外され、身体を弄ばれることになる。









後記として、Oは結局卿にも飽きられ、捨てられて自殺してしまうことが簡単な記述で付け加えられる。











全く救いのない、悲惨で卑猥な物語であるが、いささかなり救われるのは、主人公Oが徹頭徹尾それらの受身の運命を納得づくで、最初のころは恋人への愛情から、途中からはステファン卿という絶対の主人への服従として、むしろ悦びをもって、使命の様にして受け入れていくという設定であろう。全体を通じて隈なく統一された知的な文体、緻密な描写とそれに一貫して悲惨な目に遭い続けるヒロインOを通して眺められる物語の明快さ、つまり異様な世界を描いているにもかかわらず、それに対置される一般常識が通用する世界とその住民たちとの係わりも併せて描写し、全体として理知的な物語としての体裁も失われていない。もちろんあやしい世界での住民のふるまいも、その巧みな描写によって、それなりに納得させられてしまう。小説としての完成度の高さというのはそんなことからもうかがわれる。

もちろん、不可解なこと、割り切れないことはこの奇形の小説には沢山存在する。Oという、一篇のヒロインの不思議な名前はその中でももっと議論されていいものだろう。若い女性が思わず“Oh”と可愛い口を丸くつぼめて開き、驚きの吐息をつく、そんな連想がこのビジュアルなネーミングになったのだという説も可能なのだろうけれど、私はやはりこの愛と性感の奴隷になって勝手気ままな男たちの玩具になりきって生きる異端の女の、人格を失った状態が単に具体的な名前をもったひとりの女性とはみなされず、ただアルファベット1文字の記号としてあらわされたのだろうと思う。終章での仮面をつけてパーティへ引き出されるOの非人格性もそれを補強しているといえる。


いずれにせよ、被虐性向は自身の人格と存在の否定へと向かう嗜好である。Oがボーイフレンドへの愛情を出発点として望まれるままに自分の体への性的虐待を許し、それに耐える自分を誇らしく思い、またその虐待そのものに性的な快感を持つようになっていく過程は、なるほど、そんな心の動きもあるのかと思えるけれど、おおかたは深みに嵌っていく過程で何らかの反動があっていいとも思う。もっとも、カルトの集団重篤犯罪などを既に見ている私たちは、やはりO自身の心の動きを単なるファンタジーとは思えない、それらを現実味のあるものとして受け取ることになってしまう。それは、いずれやはり作品の持つ力なのだろうけれど。
ともあれ、裸の身におびただしくついた鞭のあとを誇らしいと感じるOに真の意味での自由意志があるのかどうか疑問であるし、ステファン卿に捨てられ、自殺に追い込まれる事情は分からないけれど、そんな最終破滅局面を想定せずとも、やはり小説のOは男たちの不条理な意思のもとになされるままに生そのものを放擲する哀れな女奴隷のモデルだとしか思えないのである。それとも、最後にほのめかされるその自殺は、Oの真の覚醒を、マゾヒスチックな自分の生き方の全否定を示すのだろうか。

 

この項 一応終わり ‘05、10,02

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