映画「美しき諍い女」(モデルと画家との関係




たとえば、貴方に絵心があって、また、並みの中年男の常として若く、
美しい女を一夜なりわがものにできれば、とか夢見ているとして…。

絵心というものについて、すんなりと理解されない面もおられるかもしれない。

美しい風景や女性などを見た時、いい気持ちになるのは一般として、
その印象を長く、出来れば永遠に留めて置きたい、例えば、それを絵にして
おきたい。そんな心の働きをとりあえず、私はそう言ってみた。
そのいい気持ちに「執着する」といえば、余りいい感じではないのだけれど、
つまりは所有欲に通じるものだろうけれど、それを少しかわして、つまりは
「芸術する心」だといえば格好がいいし、多少はずしていても、かなり近いんじゃあ
ないかと思う。
絵心、もちろん、油絵か、彫刻なら文句なしだ。そこまで本格的でなくとも、
スケッチの類いか、マンガ落書きでも可としよう。

このような想像は可能だろうか。美しい女性が身辺に出現して、
モデルになってくれる期待が実現しそうだとい
う……。

もちろん、こんな特殊なエロっぽい想像を、ごく平凡な中年男がまじめに夢想する
はずもないのだろうけれど。たとえ、そんな誘いというか、据え膳が実現しそうに
なったところで、また圧倒的多数の中年男が脱落するだろうことは想像出来る。
油絵、彫刻、スケッチにせよマンガ、ポンチ絵の類いであれ、美しいモデルを
前にして、こちらが一定の自己満足が得られるほどの「作品」を作り出すには、
やはりある程度以上の技能が必要なので、個人差はあってもそれなりに長く、
面倒くさい、辛い特殊訓練の時間が必要なのであり、絵心はあっても、ついに
それを満足させるまでには至らない場合が殆どなのだろう。
「心余りて言葉足りず」
とかの希代の色男にして名歌人の業平氏が評されたのと同義だけれど、
その切実でありふれた障害がこのような夢想を夢想以前のものに留める
最大要因なのだろう。現実はかくも厳しいということか。あ、しかし、待てよ。
カメラというものもある。

カメラというものが貴重な、ごく一部の技術者や特権階級の独占物だった時代から、
国民ひとりひとりが(何台も!)所有出来るようになった現在、身近かな風物やら
家族のショットを日常で撮り、作品にして眺めて楽しむのは、市井の人間のごく普
通の行為になったわけで、上記とは逆のコンセプトではあるが、それから絵心へは、
もう、あと一歩に過ぎないのだろうと思う(「大きな一歩」かもしれないけれど、まず
一ステップの差であることは間違いない)。
カメラは絵心を満足させる非常に有効な手段なのだ。この、コンピュータすら巻き
込んで、21世紀になった今もたゆみなく進歩し続ける現代の驚異的なハイテクツ
ールは、我々人間の有史以前からの願いをいとも簡単に実現してしまった。
天才画家の手になる、希少で高価なタブローのみがなし得た写実
(ほんものそっくり)の技法を、いとも簡単に皆が手にいれることを可能にしてしまった。
まさに、色かたち含めてほんものそっくりの絵が即座に出来上がるのだ、
絵心が介在する余裕もなく。


もっとも、そんな彼等が皆、フィルムメーカーやら近所のカメラショップ主催の一
般参加ヌード撮影会に押し寄せるわけでもないだろう。彼等は言うかもしれない。
なに、そんな面倒なことをしなくても、プロフェッショナルの撮った美しいヌード
写真は、それこそ、あたりにごまんと満ちているじゃないか、と。
なるほど、謙虚にして聡明な彼等は、カメラとモデルさえあれば傑作の
ヌード作品が即座に出来るなどとは毛頭考えていないのだ。当然ながら、
カメラ撮影にはそれなりの技術が必要なので、ずぶの素人に最初から
見事なヌード作品が撮れるはずはないのだ、と。
その通りだろう。その健全な精神に脱帽。いやはや……。

もちろんその認識はまるごと正しいのだろう。けれど、絵心というもの、例え拙劣
であっても、これをやるかやらぬかの問題であり、いずれ、自分が作ったものとい
うことに力点が置かれるわけで、だからこそ小サイトのように、ネットの迷路中へ
十メガ前後の情報枠を占拠して、恥じらいもなく小作を紛れ込ませる創作HP群の
隆盛もあるわけだ。素人は素人なりのレベルであれ、作ることに、公開することに
意味があるのだ、と歳月の劫で図々しくもなった私などは思っているのだけれど。

ま、確かに、現代は様々な分野で専門化され、細分され、先端レベルの向上が著しい。
芸術の分野においても、プロフェショナルの供給する高品質な商品は市場にあふれ
かえっている。あらゆるものが商品化され、需要と供給側とに乖離して、より高度
で過激な貨幣経済化を促してきたのが現代という時代なのだろう。

しかし、また逆の考えとして、それらの必然的な派生効果が、文化、技術力等の徹
底した情報化一般化商品化によって、大衆レベルの意識の向上を促し、彼等の絵心
を育て、優れた芸術作品とまではいかないまでも、一定の自己満足が得られるほど
のものを生み出す土壌が育っているとは言えないだろうか。実際、余暇の増大に伴
い、これも膚の露出を競う姿のキャンギャルが立つ自動車ショウなどへ群がるアマ
チュアカメラマンは増大しているし、各種撮影会は盛況であると聞いた。芸術系大
学、主に画学生の人気の昂まりもあって、日曜画家の増大は、その方面でのレベル
の向上傾向にも貢献しているにちがいない。


もっとも、普通の日曜画家がアルバイトのようなヌードモデルを雇って絵を書いて
いるといった話はついぞ聞かない。随分モデル代が高くなるだろうことは想像出来
るし、満足度の割りにはコストのかかる余暇活動になるのだろう。

カメラの即興性と確実性に比べて、絵画や彫刻(彫塑−粘土造形)などのような面
倒臭い作業は、アマチュアとしては昨今あまりはやらないのかもしれない。いや、
モデルを使うこのような芸術では、プロフェッショナルといえども、最近は写真を使
う(予めモデルのポーズ写真を撮っておいて、それを見ながら作業を進める)とも
聞いた。立体写真というものも実用化されつつあるのだから、辛抱強く立ち続ける
絵画モデルなどというものは、もう時代遅れの存在なのかもしれないが。


長々しく前置きのようなことを書いた。フランス映画「美しき諍い女」を見て、思

ったことを書こうとして脱線してしまった。全裸になって老画家(ミシェル・ピコ
リ)の厳しい要求に応え続ける美しいモデル(エマニェル・ベアール)のヘアーを

消す、消さないで騒いだ映画(1991、東京映画祭)だったけれど、昨今のネッ
トのアダルトサイトを見るまでもなく、一般週刊誌にまで堂々とヘアヌードは顕れ
るようになって、この映画の話題性のひとつはもう陳腐化している。
当然のことだろう。
しかし、映画シーンでのヌードの扱いがこのようにも出来るのだという斬新

さは今でも有効だろう。ヌードはいつでも映画の呼び物アイテムの、その最大のひ
とつだったし、セックスか、暴力による辱めか、それとも入浴シーンかに限られて
いたそれの新しいアイデアが示されたことでも出色ではあった。やや日本人的な、
大きな尻のベアールのヌードはさほど老画家の審美心を打たなかった可能性はある
(彼自身が積極的に彼女にアタックしてモデルを頼んだわけではなかった)けれど、
その露出時間の長さで十分映画のスペクタクルに貢献したことは確かだろう。

書かない巨匠として有名になった老画家が、筆を折ったきっかけになった未完成の
前作「美しき諍い女」を、偶然のようにしてアトリエに現れた美しい女(彼女は老
画家を尊崇する若い画家の恋人として訪れた)をモデルにして完成しては?と画商
から水を向けられ、ようやくその気になる。アトリエは彼の住居である古い邸宅の
階下にあり、前作のモデルになった夫人(ジェーン・バーキン)も同居していて、
その製作に心ならずも係わることになる。唐突に出現したライバルの、しかも驚く
ほどの傲慢さ(諍い女がのりうつったのか?)に加え、十年間放置されてあった未
完成の前作のカンパス(自分の顔があった)を書き潰された屈辱的な絵を垣間見た
こともあって、もちろん彼女は心おだやかではない。これを勧めた画商も、かつて
夫と自分を争った宿縁の男であった。白羽の矢が立った若い女の恋人である新進の
画家は、巨匠を尊崇する立場から気後れする彼女を励まし、モデルを引き受けるよ
うに説得するのだが、ともかく彼女がそれに応じてモデルを引き受け、やがて自身
乗り気になってアトリエに泊まり込み、その製作に協力するほどになると却ってそ
のことを後悔するようになる。


十七世紀に実在したという娼婦「諍い女」をテーマに、どちらかといえば具象画に
属する裸婦像を描くという(バルザックの小説が原作らしい)。十年前は二人でアト
リエに一週間も寝泊まりして作業に励んだ、とかつての美しいモデルだった夫人は
言う。今は獣やら鳥の剥製作りに生き甲斐を見いだしている、なにやらなまなまし
い獣の死臭が感じられる存在である。もっとも、夫妻の仲は外見上なお悪くない。
十年前に何があって、その作品が未完成に終わったのか。どんな制作風景が同じこ
の部屋で繰り広げられたのか。それらは映画中では殆ど何も語られていないし、現
在進んでいる情景から推察するしかないのだろうけれど、こんな通俗的な推測は不
可能ではないだろう。娼婦を描くという。モデルは若い自分の妻である。何時間も
全裸のままで様々にポーズを強いられ、見られ、眺められる女は疲れ、作業に没頭
する自己本位の男の絶えざる強い関心と無関心の波に揺さぶられる中で疲れ果て、
つい眠り込むこともなかったとは言えないだろう(昔の、武者小路実篤の稚拙な小
説を思い出す)。
もちろん人一倍強い自制心の持ち主だった画家の気分も、美しい娼婦へモデル自身
が変身するような錯覚に陥る瞬間がなかったとは言えないし、むしろ、モデル自身
が無意識の内に娼婦になって画家を見返す瞬間すらあったはずだ。ヌードモデルと
画家とのまことに辛い関係(全裸であるだけに、一瞬にして美の象徴から猥褻物に
変化することなど自在だろう。驚くに値しない)がここにある。

ドラマは若い彼の妹も含めた男3、女3の複雑な葛藤を描きつつ、最後の奇怪な終
結場面へ、完成した作品は秘密裏に壁の中へ塗り込められ、別の平凡な絵が画商に
渡されることになる。これはどういうことなのか。
老画家が十年余をかけたライフワークとして完成させた絵は、モデルには嫌われた
けれど、確実にその実体を捉えることに成功した。いわば手応えを感じたのだ。画
家がこのことによって一人の美女を所有したという満足感に酔ったのは確かだろう。
これを誰にも渡したくない(せっかく、一度は彼女の身と心をわがものにしたの
だ)と思ったのも無理はないだろう。更に、完成した絵が新たな「諍い」のネタに
なることを老画家は察知し、永久にこれを葬り去ったということかもしれない。上
記の通り、余りに出来が良過ぎたために(その正反対である場合もあるだろうが)、
画商に渡すのが惜しくなった(渡せなくなった)のかもしれない。
いずれにせよ、
モデルを勤めた若い女は完成した絵を見て傷付き(自分の醜い心を知らされた!と
いう)、恋人と別れてしまう。老画家と妻との三角関係に(思惑に反し)敗れたとい
うことか。いずれにせよ、彼女はまさしく「諍い女」になってしまったのだ。
画家の妻として、座のホステス役として、一応はその完成のために気難しい若いモ
デルを盛り立て、気分をひきたてようとする元モデルの夫人、しかし二人の関係は
終始ぎくしゃくしたまま最後まで修復しない。彼女は、内心ではこの試みの失敗を
願っていただろうことは想像できる。しかし彼女のこれからの生活の安定のために
は、この作の成功は重要だったろう。彼女の心の葛藤も辛いものだったかもしれな
い。しかし、長かった夫婦の平穏の日々すらも、どうやらこの嵐を契機として終わ
りを告げようとしている。
様々な周囲の人間や人間関係を犠牲にして成立する芸術
活動とは、どんな所業なのか。


終わり


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