映画「ICHI」考

 

いわゆるチャンバラ映画は日本の映画界が作り上げた時代活劇の傑作だ。様々な様式があるけれど、やはり中でも黒澤映画が得意とした本格リアリズムエンターティンメントというほどのやつが最も世界的には受けた。その流れを汲む佳作だと評判の「ICHI」を観た。監督 曾利文彦 脚本 浅野妙子

       

原作が子母沢寛の「座頭市物語」、おなじみむさい盲目の乞食僧で剣の達人とくればイメージは決まってくるけれど、これは乞食僧ではなく更にエンタメ色の強い「はぐれ瞽女剣士」という設定だ。こういった設定にリアリズムがあるのかどうかという突っ込みはここではやめておくけれど、私見としてはそういった特殊な設定のために単なる女剣士よりもむしろずっと納得のいく仕上がりになったということは言えるとおもう。

 

父母も知らず、幼少のころから盲目のために瞽女として三味線や歌の修行に励み、更には彼女を瞽女屋敷へ頼み込んだ父らしき男から剣術の訓練も受けた綾瀬はるか)はその美形から宴の夜に陵辱され、男と通じたという禁忌を犯したことで仲間から追放されて一人で生きる身になる。生きているのか死んでいるか自分でも分からないとつぶやく無明の日々で、自身は生きる意味をただ父らしき男を捜すことで保っているが、ある日万鬼党の三人組に襲われた時に自分を救おうと現れた浪人藤平十馬大沢たかお)と出会ってから、次第にその意味が変化してくる。ニヒルそのものの市と、さほど強いとも思えない腕で修羅場に撃って出る能天気で明るい十馬との組み合わせが面白い。普通はこういった設定は男女が入れ替わるものなのだ。

   

 

 

誤解を恐れずに言えば、盲目のひとには何か神秘的な、未知の能力がある、という先入観を持ちがちで、座頭市の話もそういったものを存分に利用しているわけだ。となれば、男であろうが女であろうが変わらないだろうというのがこの映画の優れた発想のひとつであることは間違いない。更に、女であれば色気が利用できる。はぐれ瞽女は水上勉も用いたエンタメ系のアイ

テムなのだ。

しかし、VFX(デジタル視覚効果技術)の一人者であるにもかかわらずその手法を封印したことから見られるように、ヒロインをそういった安易な色気まみれにして観客に迎合するような曾利監督ではなかった。ともあれ、通常の営業で女としての売りをしない女芸人の市にはまことに厳しい世間の目と仕打ちが降りかかってくる。彼女の落ちるだけ落ちたというような乞食姿はその表現だろう。この設定は素晴らしい。

もちろんヒロインが尋ね人の鍵を得ようと万鬼党の巣窟に乗り込み、頭目(中村獅童)との闘いに敗れ、陵辱と輪姦に遭った末に死体捨て場へ放り込まれるという筋など、最低限のつぼは押さえているけれど、もう少しは性的にどぎつい描写もあってよかったのではないか(もっともこれらは一部私の妄想かもしれないが、そのくらいは当然な状況だろう)。

 

 

そういうわけで、一般向けの娯楽映画を目指したことで深みのある上品な作品になったということは理解できるけれど、私見としては、いささか中途半端なものになったと言わざるを得ない。

市の逆手居合い抜きの殺陣場面などはまことに見事なものだけれど、肝心の万鬼党と寅次窪塚洋介)率いる白川組との決闘場面のスペクタクルほどむちゃくちゃな筋立てはない。単に凄惨なちゃんばらだけを見せ場にするのではドラマを見に来た観客は全く納得は出来ないのだ。

なぜ、どうしてそんな大喧嘩がはじまったのかという説得力がない。万鬼党だってただ喧嘩ずきな馬鹿ばかりの集団ではないだろうし、ましてやくざとはいえ一応のまっとうな市民らしい白川組の面面はなおのこと勝てない戦争はやらないだろうし、知恵を絞って犠牲を最小限にしようと戦略を考えるはずだからだ。

そういったところ、もう少し決めこまかな筋の流れを工夫すれば(それ自身さほど金はかかるまい)、その折角のスペクタクルがもっと盛り上がって修羅場での出費を更に実りあるものにする事が出来たのに、惜しかった。

 

こうしてみれば、やっぱり黒澤映画の偉大さが改めて思われる。リアリズムとは、ありそうな、迫真の画面、だけではない、ありそうな物語、筋道だったドラマなのだ。

 

この項 おわり

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