映画 「蛇にピアス」

 

男はサド(嗜虐)の傾向があり、女はマゾ(被虐)の傾向を帯びるのが一般的だというひとつの見方がある。もちろん男の側からの利己的な妄想ないし偏見だと無視する切り方もあるが。この真面目な論拠として、人間という動物の生来のすがたが男は大きく強い(本来男女が同じ肉体を持っていたとしても、どこかの時点で男が進化論的に女よりも大きくなったことは間違いないので、この議論があてはまるのはそれ以後のことになるが)し、女はそれに比較して肉体的に弱いことがある。男女平等などという道徳観念がなかった野性時代、雄種は従わない雌を力ずくでものにすることが普通だったという推測はあながち誤ってはいないと思う。

もうひとつ、この議論を補強する更に基本的な事実として、性行為そのものに雄種が自身の武器を雌種の体内枢要部へ突き刺す、形として暴力的な非対称性がある。これは雄からの積極的な攻撃と、雌の受身のかたちからなる人間の性のパターンをよりはっきりさせる。相手の陽物との交合で(期待して待ち受けるにせよ)元来雌が主体になるにはコントロールが難しい動作であり、どうしようもなく未知の異物を受け入れるという降伏、恐怖の忍従に近いのではないか。

上記の二相を含む行為を繰り返すうちにも雄は力を奮って異性を扱う(責める)こと自体に快感を見出し、逆に雌は異性から粗暴にされ痛みを覚えることでエクスタシーを得るというフェテッシュな図式が出来たのだろうと考えることが可能だ。もちろんそれが現代の人間すべてにあてはまると主張するものではないけれど、人間の性を考える際に無視できない(普遍性のある)ケースなのではないかと思うのだ。

 アマとルイ

蛇にピアスという映画(金原ひとみ原作 蜷川幸雄監督)を観た。19の自由な女 ルイ (吉高由里子)が街で出遭った男アマ (高良健吾)の異様に人工的な舌の変形(舌にピアスをして、時間をかけてその穴を広げ、最終的に蛇の舌のように先を二つに割く スプリット・タン というらしい)に興味を覚え、自分もやってみようという。その男の知り合いであるピアスの専門家シバ(ARATA)の店を紹介される。

シバは初対面でルイに惹かれ、非常に痛いとされる舌ピアスを難なくやらせてしまう女に更に興味を覚える。彼は女に苦痛を与えることで欲情をかきたてる種類の男なのだった。彼女が刺青に興味を持ったことを知ったシバは、女がまったく自分の趣味に適っていることをひそかに悦んだはずだけれど、しかもそれを商売として出来ることになった。強運が続くシバは図に乗ってちょっとした賭けを張る。その“労働”の対価としてルイ自身の体を要求(「えっち,一回でどう?」)し、これも当てる。既にアマと同棲関係にあったルイは、その取り引きを存外軽く受け入れたのだ(「あ、そんなんでいいんだ」)。

“えっち”といういかにも軽すぎる言葉(これが若者の間で性行為そのものを指すようになったのはいつごろからだろうか。)で彼らが性行為の重みをどう考えているかが窺い知れる(「あ、そんなんでいいんだ」)。

自分の店で惹かれる女とふたりだけになり、その裸をカンバスにして刺青(すみ)入れの作業を続ける。しかもそのたびにのりをこえ、SとMの性行為に耽る二人。アマの目を盗んで行うそんな暗い営為を重ねるうちにも、シバとルイの関係はお互いにもう戻れないほどに深いものになっていく。

 

常識から隔絶した一種異様な世界で、官能と無節操の中で無気力に生きる美しい女をめぐる三角関係があやしくも緻密に描きだされる。怪物的な無情の男シバ、陽気な蛇のように素直なアマ、それぞれ適役であり好演といっていいだろう。それらにも増して初めての主役だという新人らしからぬルイ役の女優(本当に19歳だと)。

ドラマの中で、頻繁に描写される男女の性行為が、ドラマの筋自体には重要な必須のものとなっていることは当然として、実によくコントロールされた、さっぱりしたものになっていることは好感が持てる。必要最小限で、しかもエロチックな感じも失われていない。(私見ではもう少しなまな女体の光景を愉しみたかった。ヒロインにはその価値はあると思う)。高度な演出力の勝利だろうけれど、それにも増して女優の資質が大きいと思う。顔も身体も美しくエロチックで、演技力とバランスの取れた大胆さ。吉高由里子はよくやった。

 

アマが起こした暴力沙汰が殺人事件に発展し、ルイの精神状態はどんどん悪化する。もともとピアスであれ、セクシャルな肌見せファッションであれそれらは自傷行為の延長上にあるものだろう。他人への甘え、目立ちたがり、愛の不在による心の飢えが引き起こすのには間違いない。もちろん彼女には自分しか見えていないのだ。ルイの社会的な存在感が友人たち(あびる優、ソニン)との街中などでの会話、パーティでのコンパニオンのアルバイトなどで丁寧に描かれ、変死したアマの葬儀の最中にも酔って刑事にくってかかるなど周到な描写がなされていて、観客はヒロインの辛い心理に容易に同化していく事が出来る。それと対照的にルイを求め続けるシバの無表情と性格描写の不足(わずかに終末近く、夢の話を始めるあたりで、彼のざんげのようなものを示すだけ)はドラマにおけるサスペンス効果となって不気味な陰影を劇全体に与える。無機質で怪物的な都会の象徴として繰り返し現れる、巨大な蛇がのたくるようなコミュタートレインの映像美とあいまって、このドラマの基調であるあやしい雰囲気を支えている。

 シバとルイ

アマの傷害行為が殺人事件にまで発展したことを知ったルイがいそいそと毛染め剤を買いに走り、今の生活を守ろうとする。同じように、アマの死後流されるままにシバのもとで生きる彼女が、驚くべき身近の人間の背信と犯罪の可能性を知ることになって、しかも動ずることなくやはりその生活を護るために証拠隠滅へ走る。そのまことに愛らしいちっぽけな保身の姿はまた前の愛人が自分のために闘った証しとして残してくれた戦利品を呑込んで自分の体に同化するという行為と矛盾するようで、更に高みの愛へ昇華していくような風景でもある。いや、それらは全体として保身というよりもルイが自傷行為の極限へ、既にアマに続いて愛する男の手による自分の死を許容し、周囲のだれかれをも赦してしまう“マゾヒズムのマリア”のような女の姿を示しているのかもしれないのだが。

 

いずれ、人体改造という神を恐れない不遜な行為がゆきつく川の下流へ流されはじめているルイが、都会の只中でひとり方途を見失って座り込んでしまう最終シーンは、誰にも分かりやすいバッドエンドの示唆なのだろうけれど。


この巻終了 ‘08.10.10

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