その時あっくんが動いた 〜戦!若松の戦い〜


ご機嫌如何ですか、またまた登場しちゃいました。KAZです。前回の「その時あっくんが動いた」は、あっくんが出雲入りしたところまでお伝えしました。今回はその後の足取りを辿りたいと思います。今回の「その時」は、平成15年5月2日PM1:00と定めました。名づけて〜血戦!若松の戦い〜。いよいよあっくんは戦場へ赴きます。

実は、前回でほとんどネタは尽きています。「ほかにネタはないんか」と聞かれると、

ないです!

二番煎じなのは百も承知しておりますが、ネタがないのだから仕方が無い。勢いだけでお送りする第2回「その時あっくんが動いた」、まずは平成15年4月29日から見ていきましょう。

 

平成15年4月29日、出雲を旅立つ時が来ました。目的地は福岡県の太宰府市。300kmちょっとの旅になるはずです。手早く身支度して、車に乗り込みます。今回はトヨタのカルディナ。実家の仕事で使用されているワゴン車です。せっかく出雲まで来たのだから、出雲大社に寄ってみる事にしました。出雲大社、縁結びの神様で有名なところです。

 
 
 

荘厳な神々の里、10月は全国の神々が出雲大社に集まります。このため10月は神無月と呼ばれていますが、出雲だけは神様のいない月は無い。あっくんは邪念を振り払い、厳粛な気持ちで本殿に一礼、手を合わせます(正式には2礼、4拝、1礼)。

春の天皇賞とNHKマイルC、オークス、ダービーが取れますように。安田記念と宝塚記念も取れますように。それから平場のレースも取れますように。特に万馬券きぼんぬ....

これは古代の出雲大社の想像図です。高さは古代史の常識を覆す48m!これまで伝説として伝えられてきましたが、数年前、宇豆(うず)柱と呼ばれる巨大な柱の根元が発掘されました。どうやら本当に、図のような拝殿が実在したようです。やはりと申しましょうか、台風が来るたびに倒壊し、その度に再構築されたようですが、すごい根性だと思います。現代の感覚では無意味な高層建築、なんという無駄な根性と感心することしきりですが、大和朝廷に対して威厳を誇示する意味合いがあったでしょうから、古代の人々にとっては決して無駄な建築ではなかったでしょう。

時刻はPM1:00過ぎ。そろそろ出発しなければなりません。あっくんはカルディナに乗り込み、出雲市を後にします。国道9号線をしばらく西に走り、三瓶(さんべ)山あたりから山間部に入ります。

ここは江戸時代に栄えた石見銀山の関所です。江戸時代の佇まいが残る山間部を快調に走るカルディナ、だいぶFFの挙動にも慣れてきました。FFは、特に峠の感触がFRと大きく異なります。フロントで踏ん張るため、車に牽引されているような感覚。リアにかかる横Gが、スカちん(FR)のように伝わってきません。しかしながら、普通に走る分には全く問題なし。中国山脈を縫うように駆け抜けます。

 

これは、途中で立ち寄った休憩所です。山深いところにあるキャンプ場。ここでミネラルウォーターを何十本ものペットボトルに詰め込みます。中国山脈の地下200mからくみ上げた地下水、今宵の水割りは格別でしょう。

さあ、後は一気に九州入りです。浜田自動車道瑞穂(みずほ)ICから高速に入り、中国自動車道を目指します。平均速度は例によって120km/h。中国自動車道から山陽自動車道へ抜け、広島経由で瀬戸内海沿いを走ります。

仮にスカちんで走っていたら、アップダウンの多い中国自動車道を走っていたでしょう。が、今はリアに何十リットルもの水を積み込んだ身重のカルディナ。アップダウンが少なく、直線の多い山陽自動車道を選択します。

ここは山口県下関市の壇ノ浦PAです。源平最後の合戦が行われた壇ノ浦。関門海峡の向こう側が九州(北九州市門司区)です。ここから目的地の福岡県太宰府市まで100km弱。この後、関門大橋を渡り、九州自動車道を使って、一気に大宰府入りしました。若松血戦3日前のことです。

「ここで本日のゲストのご紹介です。エレファントマンさんです」

 

「早速ですがエレファントマンさんは、あっくんとはどのようなご関係なのですか?」
「それはですね、もうね、昔から知ってたと言うより、ほとんど他人なわけですよ。でもね、意外と彼の過去を知ってたりなんかするわけでしてね。ほんとにね、私はね、こう見えても手先が器用なんですよ」
「ずいぶんと流暢な日本語ですけど、エレファントマンさんは日本人なのですか?」
「それは言えません。覆面レスラーとか、どうやって入管してくるのかとかね、そういうことを考えると、夜も眠れなくなっちゃいますよね。パスポートはどうなってんだと。そのうち年齢不明、国籍不明、謎の覆面議員なんて出てくるかもしれないなんてね」
「そう言われれば、どっかの市議会で覆面議員がどうとか、もめてますね」
「もうね、他にやること無いのかと言いたいですよ。覆面を取るとか取らないとか、どーでもいい話でしてね。あなた方はどっちを向いて仕事しているのかと。覆面して議会に出るのが目的ではないでしょう。手段のためには目的を選ばないのかと問い詰めたい。小一時間(ry」
「....さて、無事に九州入りしたあっくん、この後、数奇な運命を辿ることになります」

平成15年5月1日、九州入りして2日が経ちました。この日あっくんは、実家の仕事の関係で、熊本県の山鹿(やまが)市にいました。ここで何やら商談があるそうです。カルディナの運転手あっくんは、商談が終わるまで待機します。が、親が仕事中だというのに、あっくんだけ遊んでいるわけにはいきません。苦悩するあっくん、自分も何か働かなければ.....

5分後、あっくんは無意識のうちに「くじら君」の前にいました。そう、

パチンコです!

「CRルパン三世」をやって確変(確率変動)に入れば、時間がかかってしまいます。ここは羽モノで勝負するのが賢明と判断しました。

Vゾーンキタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━!!!!!

親の商談が終わる時刻にあわせて両替、3k円くらいの儲けになりました。あっくんは再びカルディナに乗り込みます。

次の目的地は阿蘇。九州自動車道阿蘇ICで降りて、国道57号線を大分方面へ走ります。次第に「寝観音」の姿が見えてきました。
目的地の一の宮町に到着、ここで撮った写真がこれです。

阿蘇の外輪山は、観音様の寝姿に見えることから、「寝観音」と呼ばれます。これは、観音様の頭から胸辺りを写した一枚。やまなみハイウェイ辺りから、寝観音の全体像を見ることができるはずです。が、観光で来たわけではないあっくんは、そこまでは行けません。上の写真では、観音様の姿が分かりにくいでしょうか。こうすればどうでしょう?なかなかファンキーな観音様です。

下の写真は、立ち寄ったスーパーから少しだけ見えた、阿蘇の噴煙です。やはり、晴れ男の旅は一味違います。こうして一日の労働を終えたあっくんは、福岡県太宰府市に戻りました。若松の戦い前日の出来事です。

「再び解説のエレファントマンさんです。エレファントマンさん、熊本まで行ってまでパチンコで稼ぐとは、仕事熱心ですねえ」
「これはですねえ、全くの偶然ではなかったかと。学生時代に彼はパチンコで4万円使って、タバコ1箱取ったらしいですからねえ。当時はセブンスター1箱200円でしたから、1本2.000円計算になります。もうね、ヴァカかと、アフォかと」

 

「それにしても、寝観音というのは初めて聞きました。そんなに有名なのですか?」
「けっこう有名ではないかと思われ。昔ね、よくいたでしょう、教科書の人物画に落書きする香具師が。ヒゲを描いたり、頬に傷入れたりとかね。今では「らくがお」って言うんでしょうか、昔から何の進歩もありませんねえ、彼は」
「....さて、若松血戦の当日、いよいよ今日のその時がやってまいります」

平成15年5月2日、あっくんは大宰府を旅立ちます。目的地は北九州市若松、九州自動車道を降りて、国道201号を北に走ります。これから合戦に赴くあっくん、かつて多くの武将達がそうしたように、あっくんも北九州にある、ご先祖様の墓参りに立ち寄りました。墓を掃除して線香に火をともし、無心で手を合わせます。

この一戦、願わくば勝利へ導き賜んと願い申し奉り早漏.... もとい、候

戦いの準備は整いました。いざ、血戦の地、若松へ!
その時、平成15年5月2日PM1:00、若松競艇第6レースのスタートです!

皿倉山が見下ろす若松競艇場、この日はスタート地点から1マークへ緩やかに風が流れているため、チルト角をマイナス調整し、スタートダッシュを重視した選手が目立ちます。競艇は、同じ選手が1日2レース出場することができます。つまり、午後の6レースあたりから、午前中に出場した選手が再び出始めますので、調子が読みやすくなります。このためあっくんは、競艇は6レースから始めることにしていました。

 

勝負をかけた最終12R、4対2の進入隊形(スロースタート4艇、ダッシュスタート2艇)は、1マークで1号艇の岩崎が見事にインを押さえ、固く収まりました。2号艇の芝田がまくり差してたらプラスだったんですが、あっくんはあえなく撃沈、収支はマイナス5k円でした。無念の敗北です。

「エレファントマンさん、実に激しい若松の戦いでしたが、如何お感じになられたでしょうか?」
「競艇はね、ギャンブラーの終着駅って言われてるんですよ。競輪、競馬、オートレース、全てを淘汰したギャンブラーは競艇に行き着きます。近頃は多摩川でね、進入固定(1号艇から6号艇まで順番にインコースから並んでスタートする)が導入されてますが、あれはいただけませんねえ。やはり平和島や丸亀の方がアツいのではないかと思われ...」

 

「さてエレファントマンさん、今回の若松の戦いは歴史をどう動かしたんでしょうか?」
「故郷の北九州市にね、少しばかり上納金を納めただけでしてね、歴史はちぃーっとも動いてないですよ。もうね、競艇はね、最後のギャンブルですからね、鉄火場の雰囲気を壊さないでもらいたいと。女子供が近寄り難い雰囲気を大切にして欲しいと。間違っても禁煙席なんか作っちゃダメだと。わたしはね、今度はね、浜名湖競艇に行こうと思ってます。え〜、行きますとも」
「......この後、あっくんはどうしたのでしょうか?若松の戦い後の足取りを振り返りながらお別れしたいと思います。本日も最後までお付き合い頂き、ありがとうございました」

 

平成15年5月3日、若松の戦い翌日、あっくんは小倉駅にいました。ここから「のぞみ号」で、一気に新横浜へ帰るためです。


 
 

 

サンライズ出雲号で出雲市入りしてから1週間、あっくんは西日本をうろうろしました。ゴールデンウィークはあと2日ありましたが、5月3日のうちに帰っておく必要がありました。そう、5月4日は春の天皇賞。明日は東京競馬場に戻って、オークストライアル(スイートピーS)と天皇賞(京都)に挑まなければなりません。果てしなく続く戦い、しかしながら、今は若松の戦いにおける敗北の二文字が重く圧し掛かります。旅の終わり、のぞみ号に乗ったあっくんは、次のように慟哭したと伝えられています。

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