錦眼鏡余話5:No163
イスタンブール紀行:4 

ホテルへ帰る途中で、昼食を済ませました。
昼食で気がついたことは、トルコの食事は量が多いということです。
見た瞬間、ボリュームに驚き、しまったなあと思いました。
Iさんの忠告を軽く考えて注文したことを後悔しました。
とても、食べられる量ではないと思いました。
もったいないので、
包んでもらい今晩の夕食にと、ホテルへ持ち帰ることにしました。
 
一休みしてから、午後の観光です。
歩いていく距離にあるので、土産物屋を覘きながら行きました。
始めに行くところは「アヤソフィア」です。
 
10分ほどで「アヤソフィア」に着きました。
入口付近は観光客で一杯です。
私達は団体客ではないので、
直ぐに入口から中へ入り、入場券を買うことができました。
入場料(30TL)は、ガイドブック(25TL)より値上がりしていました。
 
(ギリシャ正教の大本山から、後にイスラム寺院に姿を変えた「アヤソフィア」)
 
「アヤソフィア」の中は、半分修復中でした。
修理をしている場所が鉄パイプで仕切られ、
白い薄い布ようなもので覆っていました。
 
ここで、「アヤソフィア」の説明をします。
 
ビザンツ建築の最高傑作と言われている「アヤソフィア」は、
幾たびかの焼失を経て、537年、ユスティニアヌス皇帝の命を受け、
6年近くの歳月をかけて大聖堂が完成しました。
内部は、多数のモザイク画で飾られています。
 
(門扉の上を飾るギリシャ正教時代のモザイク画)
 
「アヤソフィア」は、その後、ビザンツ帝国が終わりを告げるまで、
ギリシャ正教の大本山として崇められてきました。
 
1453年、オスマン朝は、コンスタンティノーブル(イスタンブール)を陥落させ、
スルタン・ムフメット2世により、
大聖堂(アヤソフィア)は、ジャーミィ(礼拝堂)に変えられました。
1700年代には、全てのモザイク画も漆喰で塗りつぶされ、
長い間、日の目を見ることがありませんでした。
モザイク画は、人々の記憶から消えてしまいました。
 
ところが、1931年、
アメリカ人の調査隊により、壁の中のモザイク画が発見され、
「アヤソフィア」がビザンツ時代の遺跡として、大きく脚光を浴び始めました。
翌年、
トルコ共和国の初代大統領:アタチュルク(ムスタファ・ケマル)が
「アヤソフィア」を博物館として一般公開することを決めました。
 
(左上にモザイク画があるのがある。、また、左下にステンドグラスも見える。)
 
Iさんと上の階へのぼることにしました。
3段ほど階段をのぼると、幅2メートル程のスロープ(坂道)に変わりました。
脇に手すりが付いています。
スロープは大きいもので人の頭ぐらいの自然石で埋め尽くされていました。
石と石の間は、でこぼこがないように漆喰のようなもので埋められています。
長い年月の間、
数えきれない人々の靴で石の表面は磨かれたようにつるつるになっていました。
滑らないように気をつけて歩きました。
サンダルで来たご婦人が滑って、のぼるのに難渋していました。
 
(上の階から見たモザイク画。Kに装飾的なアラビア金字の大円盤。)
 
下の写真:リュックを背負い、たたずむ女性の視線の先は、上の壁にある大きな十字架です。
左端の二人の女性も、大きな十字架に見入っています。
 
 
下の写真は「アヤソフィア」のドームの模様です。
 
見学を終えて外へ出ると、「アヤソフィア」の中が暗かったので、
明るく暖かく感じられました。
 
私達が「アヤソフィア」見学のために来たときよりも、周辺は人々で
賑わっていました。
見学で疲れたので、しばらくの間、ふたりでベンチに座って休みました。
疲れがとれたので立ち上がると、
私達に日本語で話しかけてきた土地の人がいました。
 
「アヤソフィア」に見学に来たお客さんを迎えにきたと、
流暢な日本語で話しかけてきました。
(ガイドブックには、こういう人には気をつけましょうと書いてありました。)
「貿易関係の仕事で、日本へよく行きくよ。」
途中で突然、「私は何歳に見えるかね?」と質問してきました。
私が45歳とか、35歳とか適当に答えると、
嘘か本当か知りませんが、なんと「23歳」だということでした。
外国の人の年齢はわかりませんね。
 
彼が
「これからどこへ行くの?」
聞いてきたので、
「スルタンアフメット・ジャ−ミィを見学に行く予定だよ。」
と答えると、
「あの道を行けば、すぐそこだから。」
と指をさして教えてくれました。