錦眼鏡余話3:No118
虹の翼:その1 

新年 明けまして おめでとうございます
皆様のご健康とご多幸をお祈りいたします

 
本年も、「錦眼鏡余話」メール通信を
よろしくお願いいたします
 
メール通信◇錦眼鏡余話◇3−118

◇虹の翼◇その1
 
小笠原で仕事をしていた時代、
吉村昭の小説「烏と玉虫」と「虹の翼」を読んでみたいと思い、
インターネットで検索しました。
ところが、
2冊とも絶版で、古本でもないことがわかり諦めていました。
 
「烏と玉虫」と「虹の翼」は、ともに「二宮忠八」を主人公にした小説です。
吉村昭は、最初、
二宮忠八について「烏と玉虫」という短編小説にまとめました。
ところが、二宮忠八について新しい資料が手に入ったので、
長編小説「虹の翼」にまとめなおしたそうです。

小笠原から帰ってきて、
今一度、「烏と玉虫」と「虹の翼」をインターネットで検索してみると、
「烏と玉虫」はありませんでしたが、
「虹の翼」は文庫本で数冊あると言うことなので早々注文しました。

私が手に入れた「虹の翼」は、分厚い「文春文庫」でした。
516ページの長編小説です。

私が二宮忠八に興味をもったのは、
世界に先駆けて、二宮忠八が模型飛行機を飛ばすことに成功したいう
事実を知ったからでした。
日本にそんな人がいたんだという驚きからでした。

明治24年4月29日の夕方、
丸亀の練兵場で自作の模型飛行機を飛ばすことに成功しました。
米国のライト兄弟が世界最初の飛行機を飛ばすことに成功したのは、
それから12年後の明治36年(1903)のことでした。


戦前の小学校の教科書に「飛行機の発達」という題で、
飛行機と二宮忠八のことを取り上げた教材があったそうです。

教科書には、忠八が世界に先駆けて飛行機の模型を完成させ、
それを飛ばすことに成功したこと。
しかし、資力がないため、実際の飛行機をつくることができないうちに、
ライト兄弟が初飛行に成功したという話が書かれてあったそうです。

二宮忠八は、四国・愛媛県の八幡浜市に生まれました。

吉村昭は、たまたま八幡浜市を旅行した折、
二宮忠八を知り興味を持って、
「二宮忠八」のことを小説に書こうと思ったそうです。
 
吉村昭は、
忠八の息子さんが大阪で、忠八の資料を保管していることを知り、
さっそく資料を見せてもらいに行きました。
 

二宮忠八の生家は、裕福な海産物問屋でしたが、商売に失敗して没落しました。
忠八は小学校を卒業して薬種問屋に奉公しました。
それから、写真師や測量師の助手なども経験しました。

明治19年に徴兵検査を受けて合格後、看護卒として軍隊に入りました。
忠八は大変な努力家で、勉強して一等看護卒になりました。
更に看護手へと出世をしました。

ある年、忠八の所属する連隊は四国の丸亀から高知へ向け、
山越えの練習をしました。
連隊は香川県の樅ノ木峠で弁当を食べることになりました。
食べ終わった弁当のゴミをカラスがついばみに来ました。
忠八は、そんなカラスの行動を観察していました。
 
カラスは、飛び去るときに羽をあおりますが、すぐに羽の動きを止めて
水平に滑空していきました。
忠八はカラスがはばたくこともせずに、飛んでいくのをじっと観察していました。
カラスは、両翼をわずかに上向きにして、
空気を受けとめていることに気がつきました。

天才と言われたレオナルド・ダ・ビンチも空を飛ぶことを考えました。
しかし、翼をはばたかして飛行するという考えから抜け出せませんでした。

大空への憧れは、ヨーロッパでは気球という乗り物で開発競争が進みました。
世界で初めて気球を発明したのは、フランスのモンゴルフィェ兄弟でした。
気球は事故が多く、痛ましい惨事が相次ぎました。
それでも。人間の大空への憧れはやみませんでした。

それから、飛行船が開発されました。
しかし、相変わらず風まかせの空飛ぶ乗り物でした。