錦眼鏡余話3:No119
虹の翼:その2 

日本でも、江戸時代に何人か、空を飛ぼうと夢見た人がいましたが、
「翼をはばたかせる」や「凧に乗って」という考え方でした。
彼等は、世間の人々からは少々変わり者とか変人扱いを受けました。
また時には、人心を惑わす輩(やから)と言うことで厳しい処罰を受けた者もいたようです。

ところが、忠八の「すごさ」は、
翼をはばたかして空を飛ぶということなど考えなかったことです。

忠八は翼や翅が空気の抵抗を受けて揚力を生んでいることに気づいたのです。
固定した翼をもつ装置をつくり、それに推進力を与えれば、
鳥や玉虫のように徐々に上昇し、水平飛行ができると考えました。
凧が風に向かって上昇するように。。。
忠八は子どもの時から、独創的な凧をつくり飛ばすことを楽しみにしていました。

私は、「忠八は科学的な思考をする人間なのだ」と思いました。

忠八は、さっそく模型機の設計を始めました。
推進力には、竹とんぼや船のスクリューからヒントを得て4枚プロペラにしました。
動力には聴診器のゴムを紐にして使いました。
模型機には車輪もつけました。
現在の模型飛行機によく似た模型機でした。
ただ、プロペラうを後ろにつけたところが違いました。

忠八は、この飛行器に「玉虫型飛行器」と名づけました。
また、忠八は玉虫型飛行器の翼を複葉にしました。

明治24年9月の夕方、
忠八は丸亀の練兵場で密かに模型機を飛ばしました。
最初は、模型機を地面から走らせました。
模型機は、10メートルほど飛びました。

次に、模型機を手に持って飛ばしました。
なんと36メートルも空中を飛びました。
忠八は、プロペラ式模型機が世界最初の飛行をしたことに気がついていませんでした。

ライト兄弟が世界最初の「人を乗せた飛行機」を、飛ばすことに成功したのは、
忠八の「玉虫型飛行器」の飛行成功から12年後ことでした。

このあと、忠八の関心は、人間を乗せた玉虫型飛行器を飛ばすことに移りました。
忠八は仕事が終わってから、人を乗せて、空中を飛行する飛行器の
設計図の製作に取りかかりました。

完成した設計図をどうやって実現するかで悩みました。
陸軍の一等看護卒の忠八の給料では設計図を実現できるだけの資力を
蓄えることはできません。
そこで、上司に頼み、陸軍の力で実現して欲しいと思い行動を起こしました。
ところが、軍の上層部には、空を飛ぶ飛行器など夢物語に等しいものだと
一顧だにしてくれませんでした。

忠八は日清戦争の野戦病院で傷病人を手当てしたりと活躍しました。
ところが、忠八自身が赤痢にかかり死にかけたりしましたが、
ようやく日本に戻ることができました。

軍隊にいる間に、忠八は3度も飛行器の設計図を添えて、
飛行器製作のための上申書を提出しましたが、
軍は興味すら示しませんでした。

飛行器製作の夢を捨てきれなかった忠八は、陸軍を去る決意をしました。
自力で稼ぐ以外に方法はないと考えました。

忠八は、看護卒の経験を生かし、
薬品を開発・販売する会社へ就職をしました。
この会社で、忠八はめきめきと実力を発揮しました。
商売の世界は、実力がものを言う世界なのです。

とうとう、忠八は、
製薬会社のトップにまで上り詰めました。

「空を飛ぶ」というい人類の夢は、この時期、世界で急速に進み始めました。
ヨーロッパとアメリカは、飛行機の開発競争で熱くなっていました。
そして、とうとうライト兄弟の飛行成功のニュースが世界を驚かせました。
忠八もその新聞を読み、自分の夢が破れたことに気がつきました。

それは、
忠八がようやく個人としての資力を注ぎ込んで飛行器製作を始めようとする
矢先のことでした。

飛行機は、この後、急速に発展し、
特に戦争で大きな役割を担っていくことになります。

忠八は、人が空を飛ぶことなど夢でしかなかった日本の時代に、
実現への具体的な手法を見つけ出した最初の人物であることだけは確かです。

また、日本と言う国が、当時貧しかったことも、忠八の夢実現を阻んだ理由の一つです。
当時、日本の陸軍が、
どこの誰だか分らない忠八の飛行器に資力を注ぐ余裕などまったくなかった
というのが真実だったのです。

ところが、欧米諸国は熾烈な資本主義社会に入っていました。
飛行機開発のバックに富裕層がいて、夢実現の後押しをしていました。

日本社会にあっては、大変残念ですが、忠八の飛行器構想と情熱が早過ぎたのでしょう。
これも、世界の科学進歩から取り残されていた日本社会だったからだと思います。
日本は、
官民あげて欧米諸国に追いつけ追い越せといういことが大前提の時代だったのです。

虹の翼:終わり