錦眼鏡余話2:No55
辞世のうた:5 

女性の辞世のうたを一つ紹介します。

細川珠:玉または玉子(没年1600年・慶長5年:享年38歳)

〔細川ガラシャの辞世〕

ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
                   花も花なれ 人も人なれ

「本能寺の変」で、織田信長の天下統一への道を
断った明智光秀には5人の娘がいました。

明智光秀は当時、側室を持つのが当たり前の時代に
側室を持たなかった数少ない戦国の武将だったそうです。
明智家4人目の娘が珠(玉または玉子)です。
「細川ガラシャ」(洗礼名)といったほうが有名ですね。

明智珠(たま)は、細川忠興に輿入れをしました。
本能寺の変で、光秀の娘であったことから、丹後の山奥に
幽閉されました。(緩やかな幽閉だったそうです。)
2年後には、秀吉の許しを得て、大阪玉造の細川邸に呼び戻されました。

細川忠興という人物は、乱暴な男で、嫉妬深い性格のようでした。
珠を半ば監禁状態において、外との接触を禁止したそうです。

細川忠興が秀吉の九州征伐に伴って出陣していたとき、
侍女のキリスト教信者が洗礼の方法をバテレンから教えてもらい、
珠は細川邸で洗礼を受けたそうです。

秀吉が死に、徳川家康と対立した石田光成は、関ヶ原の戦い目前に、
諸大名に側室を人質にするため大阪城登城を命じました。
この事態を予期していたガラシャ(珠)は、自害を禁ずるキリシタンの教えに従い
家臣に命を絶つことを命じて細川邸に火を放ちました。

ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の
                   花も花なれ 人も人なれ

細川忠興は、関ヶ原では東軍(徳川家康側)として戦いました。



次は、
江戸時代の俳人・松尾芭蕉の辞世のうた(俳句)です。
これは、あまりにも有名な辞世です。

松尾芭蕉(没年1694年・元禄7年:享年51歳)

<芭蕉の辞世>

旅に病んで
    夢は枯野をかけめぐる

芭蕉は江戸時代前期の俳諧師で、現在の三重県伊賀市の出身でした。
俳諧を民衆的な文学に高めたのが芭蕉でした。
自ら諸国を行脚して、自然と人生に思いを秘めた多数の俳諧を残しました。

「蕉風」(正風:しょうふう)俳諧は、
芭蕉が大成した俳諧の概念を指す言葉となっています。
その概念とは、芭蕉の言葉を借りれば、
「万葉集の心なり。されば貴となく賎となく味わうべき道なり」
だそうです。

芭蕉といえば、紀行文「おくのほそ道」が有名です。
河合曾良を伴って、1689年5月16日(元禄2年3月27日)、江戸を立ち、
東北や北陸を巡り、岐阜の大垣まで旅をした紀行文です。

「おくのほそ道」から、幾つか芭蕉の句を紹介します。

「夏草や兵(つわもの)どもが夢の跡」(岩手県平泉)
「閑(しずか)さや岩にしみ入る蝉の声」(山形県立石寺:りっしゃくじ:山寺)
「五月雨(さみだれ)をあつめてはやし最上川」(山形県大石田)
「荒海や佐渡によこたふ天河(あまのがわ)」(新潟県出雲崎)

その最期も、旅の途中であったのも芭蕉らしいです。
大坂御堂筋の旅宿で客死しました。
そのとき、「病中吟」として詠んだのが上の辞世の句です。
芭蕉はここが最期とは思ってはいなかったようです。

芭蕉の墓は、三重県伊賀市ではないのです。

大津市膳所(ぜぜ)の義仲寺(ぎちゅうじ)にあります。
なんと、そこにある木曾義仲(よしなか)の墓の隣にあるそうです。
これは芭蕉の遺言によるものだそうです。
何故、木曾義仲の隣を指定したのか不思議な気がします。
芭蕉は、義仲寺の無名庵で句会を催したことがあるからかな。。。
それにしても、不思議です。

<辞世のうた:6(最終回)へ続く>