錦眼鏡余話2:No56
辞世のうた:6 
 
幕末の長州藩で活躍し、
若くして死んだ高杉晋作の辞世のうたを紹介します。
高杉晋作(没年1867年:享年27歳)
<晋作の辞世>
おもしろきこともなき世を おもしろく        
晋作は、代々毛利家に仕えてきた名門の高杉家長男として生まれました。
1857年(安政4年)、18歳の時、吉田松陰が主宰する「松下村塾」に入りました。
松下村塾で松陰から、高杉晋作は単なる知識ではなく、
知識とは物事を実践するためのものということを学んだようです。
その後、藩命で江戸へ遊学し、昌平坂学問所(当時の幕府の最高学府)で学びますが、
何か心が満たされずにいたようです。
吉田松陰は、幕府に捕えられて、江戸小伝馬町の牢に投獄されました。
晋作は、投獄された松陰の世話をしながら、対話でもって教えを受けました。
1859年(安政6年)、藩命で萩に帰るよう命じられ、江戸を出発。
その10日後、松陰の死罪が決定し、その日のうちに刑が執行されてしまいました。
高杉晋作は、松陰の死によって、幕府への激しい怒りとともに討幕を心に誓い、
倒幕運動へと身を投じていきました。
1862年(文久2年)5月、藩命で長崎から中国の上海へ渡航。
ここで、清が欧米の植民地になりつつある実情を見聞して帰国しました。
その後、晋作はイギリス公使館焼き討ち事件や関門海峡での外国船砲撃事件などを
引き起こしました。
一連の事件で、晋作は単なる攘夷では、国を守ることはできないという考えをもちました。
1864年(文久4年)、幕府による第一次長州征伐が迫る中、農民・町民を組織した
奇兵隊をつくりました。
1866年(慶応2年)、晋作は桂小五郎らと共に、
土佐の坂本竜馬の仲介で薩摩藩と秘密裏に軍事同盟を締結しました。
この薩長軍事同盟が、実質的な討幕へと動き出すのです。
1866年(慶応2年)6月に、第二次長州征伐が始まりました。
戦い続けた晋作の身体は、肺結核に冒されていました。
1867年(慶応3年)、大政奉還を見ずして、この世を去りました。
享年27歳でした。
晋作の人生は、松陰の教えを守り、時代を駆け抜けた太く短い一生でした。
<辞世のうた>
おもしろき こともなき世を おもしろく
上の句を詠って、世を去った晋作でしたが、晋作を看病していた野村望東尼
野村望東尼は福岡藩から勤皇方として追われ、晋作に助けられたそうです。)
下の句(下線)をつけたと言われていますが、諸説あるそうです。
おもしろき こともなき世を おもしろく
           すみなすものは 心なりけり

十返舎一九は江戸時代後期の戯作者です。
日本で、文筆のみで生計を立てた最初の人だそうです。
教科書などでは、「東海道中膝栗毛」の作者として紹介されています。
十返舎一九(没年1831年:享年66歳)
駿河国府中(現在の静岡市葵区)の町奉行の同心の子として生まれました。
戯作者になるまで、様々な商売をしてきた器用な人のようです。
江戸で武家奉公し、その後、大坂へ移り住み、町奉行に勤めました。
それから、しばらく浪人をしたあと、義太夫語りの家に寄食し、浄瑠璃作者に。
再び、江戸にもどり、蔦屋重三郎方に寄食し、用紙の加工や挿絵描きなどをしていました。
蔦屋は、江戸時代の版元(出版人)、黄表紙・洒落本、浮世絵などを出版しました。
蔦屋に勧められて黄表紙(大人向けの絵本?)を何冊か出版し、洒落本や人情本などの
幅広いものを手掛けています。
浮世絵まで後世に残しています。
「東海道中膝栗毛」が大ヒットし、一躍当時の流行作家になりました。
出版元から係のものが来て、机の横で原稿が出来上がるのを待っていて、
出来上がると、すぐに係が版元へ持っていくという忙しい生活をしたようです。
また、膝栗毛を書くにあたり、取材旅行へも出かけたそうです。
現在の作家にも通ずる生活ですね。
この時代、山東京伝、式亭三馬、曲亭馬琴などの人気作家が輩出しました。
こうした読物がヒットする背景には、寺子屋の増加により、
文字の読み書き(識字)が一般庶民の間にも根付いてきたという時代背景もありました。
<一九の辞世>
この世をば どりゃ おいとまに 
         線香の煙とともに 灰左様なら
戯作者らしい辞世のうたを残しました。
なお、姓名の「十返舎」は、
正倉院の名香「黄熱香」(蘭奢待「らんじゃたい」とも言われ、私はこれで覚えています。
織田信長が切り取ったことで有名。)は、十回焚いても香を失わないところから
「十返しの香」とも呼ばれているところから命名したと言われています。
「一九」は、幼名の「市九」からきていると言われいます。
(辞世のうた:最終回)