錦眼鏡余話2:No54
辞世のうた:4 

次は、戦国の世を統一した豊臣秀吉の辞世のうたを紹介します。
これは、有名なので、皆さんも知っていると思います。

豊臣秀吉(没年1598年:享年62歳)

<秀吉の辞世>

露とおち露と消えにし我が身かな
              浪速のことも夢のまた夢

インターネットで調べていると、
上の辞世のうたと少し違う秀吉の辞世が残っていることがわかりました。
下の辞世のうたがそれです。
上の辞世と違うところに下線を付けてみました。

「露とおき露と消えぬる我が身かな
              難波のことも夢の世の中

私は始めのほうが秀吉の心情をよく表しているような気がします。
尾張の水飲み百姓の家に生まれ、天下を統一した秀吉。。。
自分の人生に満足していたかのようにもみえましたが、
臨終にさいして、自分の人生、儚いものだったと感じていたようでした。
過ぎてしまえば、人生を誰でもが、そんなものと感じるのかもしれません。

下線をつけた辞世のうたは、
江戸時代の大田南畝の著書「半日閑話」に載っているそうです。

インターネットでは、「露とおち露と消えにし我が身かな。。。」のほうが
圧倒的に多く紹介されていました。
私も始めの「辞世のうた」で覚えていました。

ところで、秀吉は京都の伏見城で亡くなりました。
秀吉は死んだあと神体として祀られたため、葬儀は行われなかったそうです。
京都の東山区にある阿弥陀ケ峰の山頂に豊国廟が建てられました。
神号は、豊国大明神です。
ところが、
大阪夏の陣で豊臣家が滅びると、徳川家康の命により破戒されたそうですが、
それを明治天皇が再興したと言われています。

また、壮麗な豊国神社が阿弥陀ケ峰の麓に創建されましたが、
これも、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡すると、徳川家康により廃祀されましたが、
こちらも、明治天皇により再興されたそうです。

天賦の英知で天下を統一し、満足して最期を迎えたと思いきや、
自分の死後、豊臣家(秀頼)がその後も栄えていくのかが心配だったようです。

私も、これからの残り少ない老後の人生、悔いの残らぬように
したいことをして生きたいと思っています。

次は、秀吉といろいろな意味で対比される徳川家康の辞世のうたを
取り上げてみます。

徳川家康(没年1616年:享年75歳)

<家康の辞世>

嬉しやと二度さめて一眠り 
           浮世の夢は暁の空

先にゆき跡に残るも同じ事
           つれて行ぬを別とぞ思ふ

家康は2つの辞世のうたを残しています。
私は、上のほうの辞世しか知りませんでした。

「嬉しいなあ。。。最期かと思って目を閉じたが、また目が覚めたよ。
この世で見る夢は、暁の空のように美しいよ。
さて、もう一眠りするか。」

下の辞世のうたは、調べていて巡り会いました。
当てずっぽうかもしれませんが、勝手な解釈をしてみました。

「私が先に死のうと、あなたが先に死んで私が残ろうと、結局は同じことだ。
お互い先に死んだからと、相手を連れていけないのが別れなのだと思うよ。」

徳川家康の辞世のうたも、最初のものが広く知られているようです。

小さな領主の後継ぎとして生まれ、強大な今川家と織田家の狭間で、
忍耐強く耐え忍び、チャンスがくるのを辛抱強く待った家康でしたが、
江戸幕府約250年以上の礎を築きました。
搗(つ)いて、こねて出来上がった餅を食べた人生。。。
最後に笑った武将としての満足感が、辞世のうたにも出ているような感じがしました。