錦眼鏡余話2:No52
辞世のうた:3 

次は戦国の武将 蒲生氏郷です。
今回は2人とも、なじみのない人ですが。。。
辞世のうたとしては素晴らしいと思うので取り上げてみました。

蒲生氏郷(没年1595年:享年40歳)

<氏郷の辞世>
限りあれば 吹かねど花は散るものを 心みじかき春の山かぜ

(風など吹かなくても、花の一生には限りがあるので、自然と散りますよ。
それなのに、春の山風は何故にこんなに早く花を散らしてしまうのですか。)

まだ武将として存分に働きたいと思っていた矢先の死、悔いの伝わってくる辞世ですね。
世の中には、死んでも死にきれない思いを持って、旅立つ人がたくさんいることでしょう。

氏郷は、千利休の弟子でした。
千利休が秀吉の怒りに触れ切腹を申しつけられました。
千利休の切腹を見送る人はいませんでした。
見送ることによって、秀吉の怒りを恐れての行動でした。
ところが、利休の弟子:細川忠興と古田織部の2人のみが利休を見送ったと言われています。
数寄者(風流をたしなむ人)として名をあげました。

同じく利休の弟子だった氏郷は、秀吉の勘気を恐れて見送らなかったことを悔いました。
そこで、利休の養子「千少庵」をかくまい、千家再興を嘆願しました。
懸命の嘆願が実ったとき、氏郷は病の床に着きました。

千少庵が病気の氏郷を見舞いに行ったとき、
氏郷が黙って千少庵に示した和歌が辞世の和歌「限りあれば」でした。

このとき、千少庵がしたためた返歌が下の和歌です。
「降ると見ば 積もらぬ先に払えかし 雪には折れぬ青柳の枝」
和歌で、頑張って生きてくださいと励ますなんて、昔の人はたいしたものです。


次も戦国の武将 黒田如水です。

黒田如水(没年1604年:享年59歳)

<如水の辞世>
おもいおく 言の葉なくてついに行く 道は迷わじ なるにまかせて

(この世に思い残すことはもう何もありません。
              今は迷うこともなく心静かに旅立ちます。) 

お互いに同じ時代を生きた上記の蒲生氏郷とは、対照的な辞世です。

黒田如水と言うと誰だろうかとなりますが、「黒田官兵衛」のことです。
「竹中半兵衛」とともに、秀吉の軍師(参謀)として有名でした。

黒田官兵衛は、姫路城で生まれたと言われています。
若い時から軍事的な才能があったそうです。
敵の兵隊3千人をわずか3百人足らずの兵でもって撃退したそうです。

黒田官兵衛は、敵を説得し戦わずして降伏させることが得意でした。
秀吉の軍師として活躍しました。
ところが、1回だけ失敗したことがあります。

黒田官兵衛は、敵方を説得するために敵城へ単身で乗り込んだのですが、
敵側(荒木村重)に囚われ牢に幽閉されてしまいました。
助け出されたときは、劣悪な牢での幽閉生活によって、
両膝が曲がり立つことが出来なくなりました。
官兵衛はそれ以後、歩行ができなくなったそうです。

それでも、秀吉は官兵衛の才知を必要としたため陣輿に載せて、
戦に参加させたと言われています。
秀吉亡き後、ようやく隠居ができたそうです。

ところで、九州福岡市の「福岡」という地名は、
黒田官兵衛の命名によるそうです。
(官兵衛の故郷が岡山の備州福岡であったことから、その名をとって命名した)