錦眼鏡余話2:No51
辞世のうた:2 
 
まず、古いところからいきましょう。

在原業平(ありわら の なりひら)

業平は、平安時代初期の貴族で、歌人です。
平城天皇のお孫さんだそうです。
六歌仙のひとりです。
「古今和歌集」の序文(仮名序)で、選者のひとり紀貫之(き の つらゆき)が
「近き世にその名きこえたる人」として挙げた6人の歌人のひとりです。
六歌仙には、他に「僧正遍昭」や「小野小町」、「喜撰法師」などがいます。

高校時代に習った「伊勢物語」の作者としても、在原業平は記憶があります。
そのときの国語教師が、在原業平は平安時代のプレーボーイだと紹介した
ことを覚えています。

今でも、ふと口に出る在原業平の和歌に

「名にし負はばいざこととはむ都鳥 わが思ふ人はありやなしやと」
隅田川には、この歌にちなんで命名された「言問橋(ことといばし)」が現在もあります。

「千早ぶる神代も聞かず竜田川 韓紅に水くくるとは」(百人一首)
上の和歌は、子どもの頃に遊んだ百人一首の中にありますが、
今でも口をついて出てくるのだから驚きです。

「伊勢物語」には、当時有名だった和歌も引用されています。
下の和歌もその一つで、百人一首の中にあります。
作者は「源 融(みなもと の とおる)」です。
「みちのくのしのぶもぢずり誰ゆゑに みだれそめにし我ならなくに」

最後に
<在原業平の辞世の歌>(没年880年:享年55)

つひに行く 道とはかねて 聞きしかど 昨日今日とは 思はざりしを」

この歌の本当の意味は、せめて数日前に今日死ぬと分かっていれば
もっとましな辞世の歌がつくれたのにと言う意味だそうです。

しかし、私には、
こんなに早く死ぬのなら、もっと遊んでおけばよかったと、
平安時代のプレーボーイの在原業平が悔やんで詠ったように思えてなりません。


2番手は、西行法師です。

西行法師の出家前の俗名は、「佐藤 義清(のりきよ)」です。
平安時代末、御所北側を警護する「北面の武士」でした。
平清盛と同じ年で、交流もあったと言われています。
武士としても実力は一流で、歌人としても、その歌が高く評価されていたそうです。
家柄もよく、文武両道に優れ、容姿も端麗だった西行が何故出家したかは
昔からいろいろと論じられてきたそうです。
ここでは長くなるので、それを取り上げませんが、出家時の逸話を紹介します。
出家するときに、衣の裾に取り付いて泣く子(たった4歳)を
縁から蹴落として家を捨てたと言われています。
何が西行を出家させたのだろうか。。。西行22歳のときでした。

西行の和歌は「新古今和歌集」に、最多の94首が取り入れられています。
彼は宮廷を舞台に活躍した歌人ではなく、
山里の庵の中から歌を詠んだと言われています。
西行は、特定の宗派に属せず地位や名声も求めず、山里の庵で自己と向き合い、
和歌を通して悟りに至ろうとしたのでしょうか。

<西行の辞世の歌>(没年1190年:享年73)

願はくは花のしたにて春死なん そのきさらぎ(如月)の望月のころ

死んだときに詠った辞世ではありませんが、
この<願はくは>が、西行法師の辞世と一般的に言われています。
如月は現在の2月です。
釈迦の命日は、2月15日です。
西行が亡くなったのが2月16日ですから、釈迦の命日と1日違いということです。
願いはほぼ叶ったようです。

西行が亡くなってから、約500年後のこと。
江戸時代中期、
西行を慕っていた広島の歌僧・似雲(じうん)法師が西行の墳墓を発見したそうです。
墳墓は、大阪府河南町の弘川寺です。

それからと言うもの、似雲は西行が愛したと言われるさくらの木を
西行のお墓を囲むように植えていったと言われています。
その数、1000本になったとそうです。

それから、さくらの木は更に増え、
今では西行のお墓を抱くように1500本ほどになり山肌を覆っています。
3月下旬から4月にかけて、西行法師の墳墓の周りは、ピンクに染まります。
現在、弘川寺境内には、西行記念館があります。
(開館は4月1日〜5月10日、10月10日〜11月20日)

なお、似雲法師の墳墓も弘川寺にあります。