錦眼鏡余話1:No30
フェリーチェ・ベアト:1

3月6日の朝刊を読んでいると、
1ページ全部を使った広告が目にとまりました。
タイトルは、「フェリーチェ・ベアトの東洋」とありました。
その横に。。。
「幕末の日本、激動のアジアを記録した写真と言うタイム
カプセルが今、開く」
とありました。

ベアトは、幕末から明治にかけて20年以上も日本に滞在し、
彼の撮った写真は貴重な歴史的資料となっています。
写真は、ロスアンゼルスのJ・ポール・ケディ美術館コレクションの
巡回展として3月6日から5月6日までの2ヵ月間、
東京都写真美術館(目黒区三田)に展示されます。

広告を見ているうちに、
ベアトの巡回写真展を無性に見たくなりました。
友人のSさんの顔が浮かんできました。
さっそく、Sさんに連絡をとり、ふたりで見に行くことにしました。
打合せの結果、3月17日(土)に見に行くことになりました。

ここで、
フェリーチェ・ベアトなる人物をインターネットで調べてみます。

ベアトは1832年、
イタリアのヴェニス(ヴェネチア)に生まれました。
19世紀末後半に中東から東南アジアを放浪し、
主にインド・中国・日本・朝鮮・ビルマなどの国々の様子を
ヨーロッパへ伝えた写真師の1人です。
「クリミア戦争」や「セポイの乱(インド)」、
「第二次アヘン戦争(中国)」、「下関戦争」など戦争や紛争を
写真に撮り、世に伝えた報道写真家のパイオニアです。

ベアトは幕末の日本に来て、江戸・横浜・京都などを撮影しました。
ベアトは単に風景だけでなく、建物や職業人、庶民(風俗)、
肖像画など、撮影した対象物は多岐に渡っています。

その中でも驚くのは、「愛宕山から見た江戸のパノラマ写真」です。
この写真は、
1864年(元治元年)のイギリスの新聞に掲載されました。
パノラマ写真(5枚の写真を合成したもの)は、
愛宕山の上に大きなカメラ、三脚、ガラスプレート、薬品
などを運び、暗室をつくり、ガラスに薬品を塗ってフィルムを
つくり撮影したようです。

このパノラマ写真は、1864年にイギリスの新聞に掲載とありますが、
当時日本とイギリスを船で行き来するだけでどれだけの日数が
かかったかを考慮すると、実際に写真を撮ったのは
1年ほど前だったのではないかと勝手な推測をしました。
また、文久時代(1864年より前の時代)の日本の事情からすると、
ベアトは、愛宕山に様々な道具を広げ暗室までつくり、
よくもまあ写真を撮ったものだと驚きますね。
それは、
生麦事件などが多発した攘夷運動の盛んな時代だったからです。

ベアトのことを調べ出したら、写真技術の歴史が知りたくなりました。

1839年、写真技術はフランスで確立されたようです。
フェリーチェ・ベアト誕生(1832年生れ)の7年後になります。

当時の写真は、建物や風景を銀板に写し取る技法でした。
1839年、フランスのダゲールが発明した写真の技法を
フランス政府が買い取り、一般に公開したそうです。
当時の西欧社会は、熱狂の渦に巻き込まれたと言われています。
人々に大きな衝撃を与えたそうです。
発明されたばかりの写真は、驚くべきスピードで世界中に
広まっていきました。

当時、幕末の混乱期だった日本にも写真技術は伝わってきました。