展示作品の写真横には、作品解説のプリントが用意されていました。
会場が暗いので、あとで読むつもりで1枚ずつもらうことにました。
館内を見ていくうちに、ベアトの生涯が少しずつ分かってきました。
ベアトは、
1855年に義理の兄弟となったジェームス・ロバートソンから
写真技術を習得しました。
ジェームス・ロバートソンは、トルコのコンスタンティノーブル(
今のイスタンブール)で最初期の商業写真スタジオを開いていました。
そこで、ベアトはロバートソンから正確できれいな「鶏卵ガラスネガ方式」
の技法を教えてもらいました。
「鶏卵ガラスネガ方式」。。。
私も初めて聞く言葉でよく分かりませんが、
19世紀に広く使われた印画紙は、驚くべきことに鶏の卵の卵白を
使っていたようです。
卵の卵白を使用した印画紙を「鶏卵紙」と呼ぶそうです。
それにガラスネガを密着させて焼きつけるようです。
ベアトは、クリミア戦争の戦地で、ロバートソンの助手を務めました。
この経験が彼の将来を決定づけたと言われています。
ベアトは、戦争や紛争、開国間もない国々を周って、
貴重な映像を撮り続けていくのです。
1858年には、インドで「セポイの乱」(イギリス植民地支配に
抵抗したインド人兵士の大乱)を撮影しています。
1860年には中国に渡りました。
第二次アヘン戦争で、フランスとイギリス軍隊に8か月間同行し、
写真を撮り続けました。
ベアトは、「鶏卵ガラスネガ方式」に必要な化学薬品や壊れやすい
無数のガラス板、写真機材などを運び、戦場の過酷な条件下
で陰惨なシーンを含む軍事行動の記録を残しました。
その後、ベアトは日本を訪れました。
日本には、1863年から1884年までの約20年間滞在しました。
日本は、ベアトの生涯で1番長く滞在した国でした。
また、滞在した時期も、江戸幕府から明治政府へと移りゆく激動の
変化を写真として記録しました。
(冬着姿の女性:明治元年頃:鶏卵紙に手彩色:ポール・ケディ美術館所蔵)
ベアトは、日本滞在中に、感度が高く露光時間の短い「コロジオン
湿板方式」へと写真技術をかえました。
「コロジオン湿板方式」とは、
ガラス板の上に、「感光剤の定着材としてのコロジオン」と「感光剤と
しての硝酸銀溶液」を塗布し、それが乾かないうちに撮影を行う写真方式です。
この写真方式が開発されるまでは今までの写真方式だと1分前後の露光が
必要でしたが、この写真方式では5秒から15秒の露光で撮影が可能となりました。
日本以前のインドや中国で撮影したベアトの作品には、
露光時間が長かったため、作品中の人物が動いたために
ぶれたものが何枚もありました。
ベアトの作品の中に、パノラマ写真があるのには驚きました。
江戸の愛宕山から撮った江戸の町並みのパノラマ写真は圧巻でした。
攘夷の吹き荒れる当時、愛宕山で写真機材を広げ暗室まで作って
パノラマ写真を撮るなんて、ベアトは意外と豪胆な人物だったようです。