錦眼鏡余話1:No31
フェリーチェ・ベアト:2
 
 
さて、3月17日(土曜日)の見学の日ですが。。。
東京都写真美術館は、JR恵比寿駅下車徒歩7分ほどにあります。

当日はあいにく雨模様でした。
恵比寿駅で降りて、東京都写真美術館へたどり着くのに
4回も道を尋ねました。
教えてくれる人は、皆さん、自分が知っている場所なので、
初めての人が間違えることを想定しては教えてくれませんでした。
たいした距離でもないのに、東京都写真美術館までたどり着くのに
無駄な時間を費やしました。

東京都写真美術館では、同時にいくつかの催し物を行っていました。
「フェリーチェ・ベアトの東洋」展は、2階のフロアーでした。

入口で入場券を買って展示会場に入ると、中は暗かったです。
ちょっと暗すぎるなと思っていると、
友人のSさんも「暗いなあ。。。」とつぶやきました。
そのためか、
参観者はいずれも作品を舐めるようにして観ています。
また、作品解説板の文字を読むため、参観者が作品のすぐ手前に立つため、
それが障害になるため、他の参観者がスムーズに進むことができません。


(長弓を持つ侍:1863年:鶏卵紙:ポール・ケディ美術館所蔵)

展示作品の写真横には、作品解説のプリントが用意されていました。
会場が暗いので、あとで読むつもりで1枚ずつもらうことにました。

館内を見ていくうちに、ベアトの生涯が少しずつ分かってきました。
ベアトは、
1855年に義理の兄弟となったジェームス・ロバートソンから
写真技術を習得しました。
ジェームス・ロバートソンは、トルコのコンスタンティノーブル(
今のイスタンブール)で最初期の商業写真スタジオを開いていました。
そこで、ベアトはロバートソンから正確できれいな「鶏卵ガラスネガ方式」
の技法を教えてもらいました。
「鶏卵ガラスネガ方式」。。。
私も初めて聞く言葉でよく分かりませんが、
19世紀に広く使われた印画紙は、驚くべきことに鶏の卵の卵白を
使っていたようです。
卵の卵白を使用した印画紙を「鶏卵紙」と呼ぶそうです。
それにガラスネガを密着させて焼きつけるようです。

ベアトは、クリミア戦争の戦地で、ロバートソンの助手を務めました。
この経験が彼の将来を決定づけたと言われています。
ベアトは、戦争や紛争、開国間もない国々を周って、
貴重な映像を撮り続けていくのです。

1858年には、インドで「セポイの乱」(イギリス植民地支配に
抵抗したインド人兵士の大乱)を撮影しています。

1860年には中国に渡りました。
第二次アヘン戦争で、フランスとイギリス軍隊に8か月間同行し、
写真を撮り続けました。
ベアトは、「鶏卵ガラスネガ方式」に必要な化学薬品や壊れやすい
無数のガラス板、写真機材などを運び、戦場の過酷な条件下
で陰惨なシーンを含む軍事行動の記録を残しました。

その後、ベアトは日本を訪れました。
日本には、1863年から1884年までの約20年間滞在しました。
日本は、ベアトの生涯で1番長く滞在した国でした。
また、滞在した時期も、江戸幕府から明治政府へと移りゆく激動の
変化を写真として記録しました。

(冬着姿の女性:明治元年頃:鶏卵紙に手彩色:ポール・ケディ美術館所蔵)

ベアトは、日本滞在中に、感度が高く露光時間の短い「コロジオン
湿板方式」へと写真技術をかえました。

「コロジオン湿板方式」とは、
ガラス板の上に、「感光剤の定着材としてのコロジオン」と「感光剤と
しての硝酸銀溶液」を塗布し、それが乾かないうちに撮影を行う写真方式です。
この写真方式が開発されるまでは今までの写真方式だと1分前後の露光が
必要でしたが、この写真方式では5秒から15秒の露光で撮影が可能となりました。
日本以前のインドや中国で撮影したベアトの作品には、
露光時間が長かったため、作品中の人物が動いたために
ぶれたものが何枚もありました。

ベアトの作品の中に、パノラマ写真があるのには驚きました。
江戸の愛宕山から撮った江戸の町並みのパノラマ写真は圧巻でした。
攘夷の吹き荒れる当時、愛宕山で写真機材を広げ暗室まで作って
パノラマ写真を撮るなんて、ベアトは意外と豪胆な人物だったようです。

ベアトは、日本で開いていた写真館を人に譲り、不動産などの
投機ビジネスに手を出しましたが、大きな損失を出して日本を去りました。

その後、ビルマへ渡ったベアトは、ビルマの景観や建築、肖像の数々が
撮影し、写真家としての地位を確立しました。

1909年1月9日、ベアトは波瀾万丈の放浪生活の末、イタリアの
フィレンツェで77歳の人生を閉じました。

今日一日、勉強したなあと感じました。

<フェリーチェ・ベアト>:終わり