※1 キリシタン キリシタン(吉利支丹・切支丹)とは、ポルトガル語のChristâoをそのまま読んだ語で、キリスト教およびその信者を指す。キリスト教は天主教とも言われた。
 16世紀
1517年
 宗教改革
 
『95ヶ条の論題』

 ※2ルターが※3贖宥状(しよくゆうじよう)販売を批判し、ヴィッテンベルク城の教会扉に掲げた文書。イエスを唯一の救世主と信じる福音信仰に基づき、心からの改悛のみが魂を救うとし、※3贖宥状や教皇を批判した。
※2マルティン・ルター(Martin Luther 1483年11月10日 - 1546年2月18日)は、ドイツの神学者、教授、作家、聖職者。聖アウグスチノ修道会に属する。1517年に『95ヶ条の論題』をヴィッテンベルクの教会に掲出したことを発端に、ローマ・カトリック教会から分離しプロテスタントが誕生した宗教改革の中心人物である。
※3贖宥状カトリック教会が発行した罪の赦しを表す証明書。教皇レオ10世が、サンピエトロ大聖堂新築などで教皇庁の財政危機を引き起こし、解決のため贖宥状販売を許可したことが宗教改革を招く要因となった。 
 1534年  
 イエズス会創立

 
 
 イグナチウス・ロヨラを中心に、パリ大学で学んでいたザビエルを含む6人が組織。宗教改革に対してのカトリック擁護(対抗宗教改革=カトリック宗教改革)や東洋方面への布教を使命とした修道会。1540年に教皇パウルスⅢ世によって認可。(耶蘇=Jesus(ラテン語の近代中国音訳)会)海外宣教を積極的に進め、ヨーロッパの広範囲における再カトリック化にも成功し、数百の大学を創設するなど教育活動にも力を入れた。
 
 1537年  ポルトガル王ジョアンⅢ世、アジアのポルトガル領への宣教を始める
 ジョアン3世は1502年6月7日、ポルトガル王マヌエル1世の長子としてリスボンで生まれる。1536年、教皇パウルス3世の教書により、ポルトガルの異端審問所を設立。イグナチオ・デ・ロヨラがイエズス会という新修道会を創設したことを耳にした王は、ポルトガル植民地内の異教徒へキリスト教を布教する宣教師を派遣してほしいと依頼。ロヨラが推薦したのが、フランシスコ・ザビエルとシモン・ロドリゲスであった。こうしてザビエルはアジアへ赴くことになる。  
 1545年  トリエント公会議    
 1546年
 天文15
 ※4 アンジロー、マラッカへ渡る  アンジロー(弥次郎とも?-1551年頃)ポルトガル商人の勧めで薩摩から現在のマレーシアのマラッカに渡り、1947年ザビエルと出会う。インドのゴアに行き、受洗。日本人最初のキリスト教徒となる。パウロ・デ・サンタ・フェーと称し、ザビエルに同行し薩摩(鹿児島)に上陸。各地で布教を助け、ザビエルのため教理書を和訳するなどした。ザビエルが去り、日本でキリシタンの迫害が強まると中国へ逃れ同地で殺されたとされるが、詳しい消息は不明。

※4 ヤジロウは薩摩国あるいは大隅国(両国とも鹿児島)の出身である]。彼自身やザビエルの書簡によれば、彼は若い頃に人を殺し、薩摩や大隅に来航していたポルトガル船に乗ってマラッカに逃れた。その罪を告白するために彼はザビエルを訪ねたという。二人を引き合わせたのは、天文15年(1546年)に薩摩半島最南部の山川にやって来たポルトガル船船長のジョルジュ・アルヴァレスである。船長はマラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させ、ザビエルを紹介した[3]。 ヤジロウはもとは貿易に従事していたと考えられている。フロイスの『日本史』では海賊(“八幡”(ばはん))であったと書かれている。ザビエルの導きでゴアに送られたヤジロウは、1548年の聖霊降臨祭にボン・ジェス教会で、日本人として初めて洗礼を受けた。洗礼により彼は「パウロ・デ・サンタ・フェ(聖信のパウロ)」の霊名を授かった。その後、彼は同地の聖パウロ学院でキリスト神学を学んだ。ヤジロウはザビエルから、日本でキリスト教の布教をした場合を問われ、スムーズに進むだろうと答えた。ヤジロウの人柄と彼の話す日本の様子を聞き、ザビエルは日本での活動を決意した。1549年4月19日、ヤジロウはザビエルに従いゴアを離れ、同年8月15日に鹿児島に上陸。ここに日本におけるキリスト教布教の第一歩を記した。その後のヤジロウの生涯については不詳である。上記フロイスの記述によればザビエルの離日後、ヤジロウは布教活動から離れて海賊の生業に戻り最後は中国近辺で殺害されたという。またフェルナン・メンデス・ピントの『東洋遍歴記』、ジョアン・ロドリゲスの『日本教会史』によれば仏僧らの迫害を受けて出国を余儀なくされ、中国付近で海賊に殺されたという。
 
 1547年 天文16  ザビエルがアンジローとで合う  ザビエル、マラッカにて日本人アンジローと出会い日本に布教することを決意する。   
 1548年 天文17  ※5 フランシスコ・ザビエルが日本にキリスト教を布教  フランシスコ・デ・ザビエル(スペイン語: Francisco de Xavier または Francisco de Jasso y Azpilicueta, 1506年頃4月7日 - 1552年12月3日)は、イエズス会宣教師。イエズス会の創設メンバーの1人。ポルトガル王ジョアンⅢ世の依頼で1541年イグナティウスによって東洋への宣教に派遣され、インド(ゴア)、東南アジア(マラッカ)を経て、1549年8月15日(この日は「聖母マリアの被昇天の祭日」に当たり、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。)に来日(コスメ・デ・トルレス神父、ファン・フェルナンデス修道士、パウロ・アンジローとその兄弟ジョアン、従者のアントニオ、そして中国人とインド人がそれぞれ一人の計8名が薩摩に上陸)。日本に初めてキリスト教を布教。2年3か月にわたって宣教活動を行った。
※5 スペインのナバラ王国生まれのカトリック教会の司祭、宣教師。
イエズス会の創設メンバーの1人。バスク人。1506年頃4月7日、フランシスコ・ザビエルはナバラ王国のパンプローナに近いハビエル城で生まれ、地方貴族の家に育った。彼は5人姉弟(兄2人、姉2人)の末っ子で、父はドン・フアン・デ・ハッソ、母はドーニャ・マリア・デ・アズピリクエタという名前であった。父はナバラ王フアン3世の信頼厚い家臣として宰相を務め、フランシスコが誕生した頃、すでに60歳を過ぎていた。ナバラ王国は小国ながらも独立を保ってきたが、フランスとスペイン(カスティーリャ=アラゴン)の紛争地になり、1515年についにスペインに併合される。父フアンはこの激動の中で世を去った。その後、ザビエルの一族はバスク人とスペイン、フランスの間での複雑な争いに翻弄されることになる。1525年、19歳で名門パリ大学に留学。聖バルブ学院に入り、自由学芸を修め、哲学を学んでいるときにフランス出身の若きピエール・ファーヴルと同室になる。のちにザビエルと同様にバスクから来た37歳の転校生イニゴ(イグナチオ・デ・ロヨラ)も加わる。イニゴはパンプローナの戦いで片足の自由を失い傷痍軍人として故郷のロヨラ城で療養の後、スペインのアルカラ大学を経てパリ大学モンテーギュ学院で学んでいた。1529年、ザビエルの母が死亡。その4年後、ガンディアの女子修道院長だった姉も亡くなる。この時期ザビエルは哲学コースの最後の課程に入っていたが、ロヨラから強い影響を受け、聖職者を志すことになる。そしてロヨラの感化を受けた青年たちが集まり、1534年8月15日、ロヨラ、ザビエル、ファーブルとシモン・ロドリゲス、ディエゴ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、アルフォンソ・サルメロンの7人が、モンマルトルの聖堂において神に生涯を捧げるという誓いを立てた。これが「モンマルトルの誓い」であり、イエズス会の創立である。この時のミサは、当時唯一司祭となっていたファーブルが執り行った。一同はローマ教皇パウルス3世の知遇を得て、叙階許可を与えられたので、1537年6月、ヴェネツィアの教会でビンセンテ・ニグサンティ司教によって、ザビエルもロヨラらとともに司祭に叙階された。彼らはエルサレム巡礼の誓いを立てていたが、国際情勢の悪化で果たせなかった。 日本滞在が2年を過ぎ、ザビエルはインドからの情報がないことを気にしていた。そして一旦インドに戻ることを決意。11月15日、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド、マテオ、ジュアン、アントニオ)を選んで同行させ、トーレス神父とフェルナンデス修道士らを残して出帆。種子島、中国の上川島を経てインドのゴアを目指した。1552年2月15日、ゴアに到着すると、ザビエルはベルナルドとマテオを司祭の養成学校である聖パウロ学院に入学させた。マテオはゴアで病死するが、ベルナルドは学問を修めてヨーロッパに渡った最初の日本人となった。 当初より世界宣教をテーマにしていたイエズス会は、ポルトガル王ジョアン3世の依頼で、会員を当時ポルトガル領だったインド西海岸のゴアに派遣することになった。ザビエルはシモン・ロドリゲスとともにポルトガル経由でインドに発つ予定であったが、ロドリゲスがリスボンで引き止められたため、彼は他の3名のイエズス会員(ミセル・パウロ、フランシスコ・マンシリアス、ディエゴ・フェルナンデス)とともに1541年4月7日にリスボンを出発した(ちなみにこの日は彼の35歳の誕生日である)。8月にアフリカのモザンビークに到着、秋と冬を過して1542年2月に出発、5月6日ゴアに到着。そこを拠点にインド各地で宣教し、1545年9月にマラッカ、さらに1546年1月にはモルッカ諸島に赴き宣教活動を続け、多くの人々をキリスト教に導いた。マラッカに戻り、1547年12月に出会ったのが鹿児島出身のヤジロウ(アンジロー)という日本人であった。1548年11月にゴアで宣教監督となったザビエルは、翌1549年4月15日、イエズス会士コスメ・デ・トーレス神父、フアン・フェルナンデス修道士、マヌエルという中国人、アマドールというインド人、ゴアで洗礼を受けたばかりのヤジロウら3人の日本人とともにジャンク船でゴアを出発、日本を目指した。1551年(天文20年)1月、日比屋了珪の支援により、一行は念願の京に到着。了珪の紹介で小西隆佐の歓待を受けた。ザビエルは、全国での宣教の許可を「日本国王」から得るため、インド総督とゴアの司教の親書とともに後奈良天皇および征夷大将軍・足利義輝への拝謁を請願。しかし、献上の品がなかったためかなわなかった。また、比叡山延暦寺の僧侶たちとの論戦も試みるが、拒まれた。これらの失敗は戦乱による室町幕府の権威失墜も背景にあると見られ、当時の御所や京の町はかなり荒廃していたとの記録もある。京での滞在をあきらめたザビエルは、山口を経て、1551年3月、平戸に戻る。ザビエルは、平戸に置き残していた献上品を携え、三度山口に入った。1551年4月下旬、大内義隆に再謁見。それまでの経験から、貴人との会見時には外観が重視されることを知っていたザビエルは、一行を美服で装い、珍しい文物を義隆に献上した。献上品は、天皇に捧呈しようと用意していたインド総督とゴア司教の親書の他、望遠鏡、洋琴、置時計、ギヤマンの水差し、鏡、眼鏡、書籍、絵画、小銃などであった。ザビエルは、初めて日本に眼鏡を持ち込んだといわれる。これらの品々に喜んだ義隆はザビエルに宣教を許可し、信仰の自由を認めた。また、当時すでに廃寺となっていた大道寺をザビエル一行の住居兼教会として与えた(日本最初の常設の教会堂)。ザビエルはこの大道寺で一日に二度の説教を行い、約2ヵ月間の宣教で獲得した信徒数は約500人にものぼった。また、山口での宣教中、ザビエルたちの話を座り込んで熱心に聴く盲目の琵琶法師がいた。彼はキリスト教の教えに感動してザビエルに従い、後にイエズス会の強力な宣教師ロレンソ了斎となった。ザビエルは、豊後国府内(現在の大分県大分市)にポルトガル船が来着したとの話を聞きつけ、山口での宣教をトーレスに託し、自らは豊後へ赴いた(この時点での信徒数は約600人を超えていたといわれる)。1551年9月、ザビエルは豊後国に到着。守護大名・大友義鎮(後の宗麟)に迎えられ、その保護を受けて宣教を行った(これが後に大友家臣団の対立を生む遠因のひとつとなった)。一行は明の上川島(英語版)(広東省江門市台山)を経由し、ヤジロウの案内でまずは薩摩半島の坊津に上陸、その後許しを得て、1549年(天文18年)8月15日に現在の鹿児島市祇園之洲町に来着した。この日はカトリックの聖母被昇天の祝日にあたるため、ザビエルは日本を聖母マリアに捧げた。1549年9月には、伊集院城(一宇治城/現 鹿児島県日置市伊集院町大田)で薩摩国の守護大名・島津貴久に謁見、宣教の許可を得た。 ザビエルは薩摩での布教中、福昌寺の住職で友人の忍室(にんじつ)と好んで宗教論争を行ったとされる。後に日本人初のヨーロッパ留学生となる鹿児島のベルナルドなどにもこの時に出会う。しかし、貴久が仏僧の助言を聞き入れ禁教に傾いたため、「京にのぼる」ことを理由に薩摩を去った(仏僧とザビエル一行の対立を気遣った貴久のはからいとの説もある)。1550年(天文19年)8月、ザビエル一行は肥前国平戸に入り、宣教活動を行った。同年10月下旬には、信徒の世話をトーレス神父に託し、ベルナルド、フェルナンデスと共に京を目指し平戸を出立。11月上旬に周防国山口に入り、無許可で宣教活動を行う。周防の守護大名・大内義隆にも謁見するが、男色を罪とするキリスト教の教えが義隆の怒りを買い、同年12月17日に周防を発つ。岩国から海路に切り替え、堺に上陸。豪商の日比屋了珪の知遇を得る。1552年4月、ザビエルは、日本全土での布教のためには日本文化に大きな影響を与えている中国での宣教が不可欠と考え、バルタザル・ガーゴ神父を自分の代わりに日本へ派遣。ザビエル自らは中国を目指し、同年9月上川島に到着した。しかし中国への入境は思うようにいかず、ザビエルは病を発症。12月3日、上川島でこの世を去った。46歳であった。遺骸は石灰を詰めて納棺し海岸に埋葬された。1553年2月にマラッカに移送し、さらにゴアに移され、1554年3月16日から3日間、聖パウロ聖堂にて棺から出され一般に拝観が許された。そのとき参観者の一人の婦人が右足の指2本を噛み切って逃走した。この2本の指は彼女の死後聖堂に返され、さらに1902年そのうちの1個がハビエル城に移された。遺骸は現在ボン・ジェズ教会に安置されている。棺の開帳は10年に1度行われ、最新の開帳は2014年11月23日から2015年1月4日の間に行われた。右腕下膊は、1614年にローマのイエズス会総長の命令で、セバスティアン・ゴンザーレスにより切断された。この時本人の死後50年以上経過しているにも係わらずその右腕からは鮮血がほとばしり、これをもって「奇跡」とされた。以後、この右腕はローマ・ジェズ教会に安置されている。この右腕は1949年(ザビエル来朝400年記念)および1999年(同450年記念)に日本へ、また2018年にはカナダに運ばれ、腕型の箱に入れられたまま展示された。なお右腕上膊はマカオに、耳・毛はリスボンに、歯はポルトに、胸骨の一部は東京になどと分散して保存されている。ザビエルは1619年10月25日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年3月12日に盟友イグナチオ・ロヨラとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。 日本人の印象について、「この国の人びとは今までに発見された国民の中で最高であり、日本人より優れている人びとは、異教徒のあいだでは見つけられないでしょう。彼らは親しみやすく、一般に善良で悪意がありません。驚くほど名誉心の強い人びとで、他の何ものよりも名誉を重んじます。と高評価を与えている。ザビエルが驚いたことの一つは、キリスト教において重い罪とされていた衆道(同性愛又は男色)が日本において公然と行われていたことであった。布教は困難をきわめた。初期には通訳を務めたヤジロウのキリスト教知識のなさから、キリスト教の神を「大日」と訳して「大日を信じなさい」と説いたため、仏教の一派と勘違いされ、僧侶に歓待されたこともあった。ザビエルは誤りに気づくと「大日」の語をやめ、「デウス」というラテン語をそのまま用いるようになった。以後、キリシタンの間でキリスト教の神は「デウス」と呼ばれることになる(インカルチュレーションも参照)。幕末に滞日したオランダ人医師ポンペはその著書の中で、「彼ら日本人は予の魂の歓びなり」と言ったザビエルの物語は広く西洋で知られており、これがアメリカ合衆国政府をしてペリー率いるアメリカ艦隊の日本遠征を決心させる原因となったのは明らかである、と述べている。カトリック教会の聖人。記念日は12月3日。

 
  ※6 コスメ・デ・トーレス   コスメ・デ・トーレス(Cosme de Torres, 1510年 - 1570年10月2日)フランシスコ・ザビエルと共に戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。ザビエルの意志を受けて18年にわたって日本で宣教。彼の目指した「適応主義」(宣教師が現地の文化に根ざして生きること)は当時のヨーロッパ人の限界を超えた思想であり、日本におけるキリスト教布教の成功をもたらした。フランシスコ・ザビエルと共に戦国時代の日本を訪れたイエズス会宣教師。 スペイン・バレンシア出身のトーレスは若くして司祭となり、故郷を離れてメキシコに渡った。さらにビリャロボス艦隊に同行して東南アジアのモルッカ諸島までやってきた。1546年、そこでトーレスは運命的なザビエルとの出会をする。ザビエルに心酔したトーレスは共にインドのゴアへ渡り、同地でイエズス会に入会。来日後、一行は平戸の松浦氏の庇護を受けることができたため、トーレスは京都を目指したザビエルらと別れて平戸に滞在。さらに1551年にザビエルがインド目指して出発すると、トーレスはザビエルに日本布教の責任を託された。
※6 トーレス
 
トーレスは日本人ロレンソ了斎などの協力者を得て地道な宣教を続けた。トーレスが宣教責任者として成功した理由には彼の「適応主義」があげられる。これはサビエルの意志でもあった。つまり、日本ではヨーロッパ人の宣教師たちに対して日本文化を尊重し、日本式の暮らしを行うことを求めたのであった。トーレス自身、肉食をやめ、質素な日本食を食べ、日本の着物を着て後半生を過ごした。トーレスの地道な活動は実をむすんだ。山口や九州の各地で徐々にキリスト教が広まり始めたのである。彼は戦乱に翻弄されて山口、豊後、肥前などを転々としながら、後続の宣教師たちを教育し、日本人協力者を養成し、信徒の世話をし、仏僧たちの議論に答えた。1556年には商人だったルイス・デ・アルメイダがトーレスの感化によってイエズス会に入会、以後宣教師として盛んに活躍することになる。トーレス自身も九州各地で宣教を続け、1563年には大村純忠に洗礼を授けて初のキリシタン大名とし、またキリシタン布教と不可分の関係にあった南蛮貿易の拠点として横瀬浦(長崎県西海市)(1562年)、ついで長崎(1570年)の開港に尽力した(ただし長崎に最初のポルトガル船が来航したのはトーレスの没後の1571年であり、彼自身はこれには立ち会えなかった)。1559年にはサビエルの宿願だった京都での布教を果たすべく、満を持してガスパル・ヴィレラ神父らを派遣した。トーレスの時代、戦国時代の相次ぐ戦乱は布教活動において大きなマイナスであった。畿内での宣教はやがて織田信長によって政治的安定がもたらされることで軌道にのることになるが、九州では依然続く戦乱と政治的不安定の影響でなかなか安定した活動が行えなかった。日本地区の布教責任者として、各地を転々としての宣教に疲れ果てたトーレスは、1560年代のおわりにインドの上長に新しい布教長の派遣を依頼。これに答えて派遣され、1570年6月に天草に到着したのがフランシスコ・カブラル神父である。1570年10月2日(元亀元年9月3日)、天草志岐(熊本県天草郡苓北町)で死去。トーレスが日本に来たとき、1人の信者もおらず、1つの教会もなかったが、彼の死去時には京都、堺、山口、豊後、肥前などに多くの教会と多数のキリスト教徒が生まれていた。サビエルの夢を実現させたのは盟友トーレスであった。
 
 1551年
 天文20
 ロレンソ了斎ザビエルと会う







 フランシスコ・ザビエル病没 
 ロレンソ了斎(1526-1592)戦国時代から安土桃山時代にかけての日本人イエズス会員。1526年肥前国白石(現在の佐賀県白石町)に生まれ、目が不自由であったため琵琶法師として生計を立てていたが、1551年山口県の街角でフランシスコ・ザビエルの説教を聞きキリスト教に魅力を感じてザビエルから洗礼を授かる。ロレンソという洗礼名を受けた。名説教家として知られ、精力的な布教活動を行い、当時の日本におけるキリスト教の拡大に大きな役割を果たした。1563(永禄6)年、正式にイエズス会に入会し修道士(イルマン)となる。(ロレンソ了西と表記されることもある。) 

 1551年11月15日、日本のさらなる布教には中国文化の学びと布教が欠かせないとの考えから、日本人青年4人(鹿児島のベルナルド・マテオ・ジュリアン・アントニオ、うちマテオとベルナルドはゴアの神学校パウロ学院に入学。マテオはゴアで病死。ベルナルドは司祭となり、ヨーロッパに渡った最初の日本人となった。)を同行し、インドに帰り中国での布教をめざす。1552年12月3日(享年46歳)中国の川上島で没。遺体はインドのゴアの聖パウロ教会に安置され、一般公開されている。)
 1619年10月25日、教皇パウルス5世により列福。1622年3月12日、友のイグナチウス・ロヨロとともに教皇グレゴリウス15世によって列聖された。


              
 1552年
天文21
 カーゴ、シルヴァ、アルカソバ来日
 ※7 アルメイダ・トルレス来日





























※8 日本人最初の神学生の誕生 
 1552年9月7日、ザビエルが選んだ三人の修道士が豊後に到着。アルメイダ、トルレスと共に布教。ルイス・デ・アルメイダ(Luís de Almeida 1525年? - 1583年10月)は、戦国時代末期の日本を訪れたポルトガル商人。医師の免許を持ち、西洋医学を日本に導入して日本初の病院を作ったことで知られる。後にイエズス会員となった。 1525年頃リスボンでユダヤ教からカトリックに改宗したコンベルソの家庭に生まれた。1546年にポルトガル王から与えられる医師免許を取得した後で、世界雄飛を夢見てゴアからマカオに渡った。1552年に貿易目的で初来日。 
※7 アルメイダ・トルレス
 日本とマカオを行き来して多くの富を手にした。山口でフランシスコ・ザビエルの事業を継承していたイエズス会宣教師コスメ・デ・トーレス神父に会う。アルメイダは宣教師たちとの出会いを通して思うところがあり、豊後府内(大分県大分市)にとどまり、私財を投じて乳児院を建てた。これは当時の日本で広く行われていた赤子殺しや間引きの現実にショックを受けたからであるとされている。さらに豊後府内の領主であった大友宗麟に願って土地をもらいうけ、1557年に外科、内科、ハンセン氏病科を備えた総合病院を建てた 。これが日本初の病院であり、西洋医学が初めて導入された場所である。 この病院においては、みずからが外科医療を担当した一方で、元僧侶の日本人キリシタンが内科医療や薬のことに携わった。そのほか、聖水や十字架、数珠、祈祷文などを用いた呪術的な医療も盛んに行われた。実際、この病院で主力だったのは、外科医療よりも呪術的な医療であり、アルメイダ自身は、実際のところ、外科医療よりも呪術的な医療を重視しており、病気治癒の効果がデウスの力あることを強調する発言を残している。 また、大分において「ミゼリコルディア」(ポルトガル語:(Santa Casa de )Misericórdia 、「憐れみ(の聖なる家)」)といわれるキリスト教徒の互助組織を発足させた。布教においても活躍し、コスメ・デ・トーレス神父は、改宗が難しそうな土地へたびたびアルメイダを向かわせた。学識あるアルメイダは僧侶など知識人の欲求によく応え、改宗へと導いた。医師としても貧しい人々を助けたので多くの信者を獲得した。神父としての活動を始めてからも、貿易への投資を続け、病院の資金を調達した。また、慢性的な財政難に苦しんでいた日本の教会へも惜しみなく私財を寄進した。日本人医師の協力を受けて病院を運営していたアルメイダは1558年には医学教育も開始。医師の養成を行った。やがてアルメイダは九州全域をまわって医療活動を行うようになり、1563年には平戸の北部、度島でも治療に当たっていた。同年には横瀬浦から避難し後に日本史を書いたフロイスも度島で10か月ほど滞在した。宇久純定の治療を依頼されるほどその名声は高まっていた。1580年、アルメイダはマカオにわたって司祭に叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦(熊本県天草市)で没した。冒険商人から無償奉仕の医師へと転身し、病人と乳児に尽くした波乱の生涯であった。


 鹿児島のベルナルド(かごしま ? - 1557年3月)は、16世紀の日本人キリシタン。日本人初のヨーロッパ留学生であり、またローマ教皇とも対面した。1549年8月15日に日本に到来した宣教師のフランシスコ・ザビエルは鹿児島で宣教を行ったが、ベルナルドはザビエルが最初に洗礼を授けた日本人であった。以降2年間、ベルナルドはザビエルに同行してその活動を支え続けた。 鹿児島出身。イエズス会の記録にベルナルドという洗礼名のみ記録され、日本名は知られていない。1551年11月5日にザビエルが日本を離れると、他の4名の日本人の一人として帯同した(他は大友義鎮の家臣といわれる上田弦佐なる武士と、日本名不明のマテオ(山口出身)、ジョアン、アントニオという青年)。
※8 日本人最初の神学生の誕生 
一行はマラッカからコチンをへて、1552年2月にポルトガルの東洋における拠点都市ゴアにたどりついた。同年4月、中国入国を目指すザビエルはベルナルドらと別れてゴアを出帆、上田もこれに同行した。残ったベルナルドとマテオの2人はゴアでイエズス会学校に学んだが、マテオは病死し、他の2人もその後の消息は不明となった。 一人残されたベルナルドは、1553年3月にポルトガルに向けてゴアを出発し、同年9月にリスボンに到着した。長い航海の疲れからベルナルドは病床に就いたが回復し、1554年2月からコインブラの修道院で暮らした。イエズス会員としての養成を受けることになったベルナルドの様子については、長上からローマのイグナチオ・デ・ロヨラのもとに書簡で報告されていたが、ベルナルドの強い信仰心と真摯な姿を聞いたロヨラはベルナルドをローマへ招いた。ローマ行きの指示を受けたベルナルドは、コインブラを発って1554年7月17日にリスボンを出発、陸路スペインを抜け、バルセロナから船でイタリアにわたった。慣れない土地での長旅はベルナルドの体に負担を与え、ベルナルドは再び体調を崩した。シチリアからナポリを経由したベルナルドがようやくローマに到着したのは1555年1月のはじめであった。ローマにおいてロヨラと対面しただけでなくローマ教皇パウルス4世への謁見をも許された。なお、ローマにおいてロヨラは常にベルナルドの健康を気遣っていたという。
1555年10月18日、ローマを離れたベルナルドは海路スペインに向かい、そこから陸路をとってリスボンに戻ったのは1556年2月12日であった。再びコインブラにやってきたベルナルドはコインブラ大学などで学んでいたが、積年の疲労から再び床に就き、そのまま衰弱して1557年3月のはじめの四旬節に死去した。東洋から来たベルナルドの深い信仰と清い生き方は、ヨーロッパのイエズス会員たちにその死に至るまで大きな感銘を与えた。

 1563年
 永禄6
 ※9 フロイスと宣教師来日   ルイス・フロイス(Luis Frois 1532-97 別名ポリカルポPolicarpo)ポルトガル出身のイエズス会士。1532年にリスボンに生まれる。1541年、9歳でポルトガルの宮廷に仕え、1548年、16歳でイエズス会に入会。同年、10月に当時のインド経営の中心地であったゴアへ赴き、そこで養成を受ける。同地において日本宣教へ向かう直前のフランシスコ・ザビエルと日本人協力者ヤジロウに出会う。このことがその後の彼の人生を運命付けることになる。1561年にゴアで司祭に叙階され、語学と文筆の才能を高く評価されて各宣教地からの通信を扱う仕事に従事した。1563年(永禄6年)、31歳で横瀬浦(当時大村領、大村家の貿易港、現在の長崎県西海市北部の港)に上陸し、フェルナンデス修道士から日本語を学び、65年上京、大村純忠のもと、念願だった日本での布教活動を開始。その後、大村純忠と後藤貴明の争いにより、横瀬浦が破壊されたので平戸に近い度島に避難し、ここで10ヶ月、病魔と闘いながら同僚から難解な日本語および日本の風習を学び、1564年(永禄7年)に平戸から京都に向かった。1565年1月31日(永禄7年12月29日)に京都入りを果たし、ヴィレラや日本人修道士ロレンソ了斎らとともに布教活動を行った。しかし保護者と頼んだ将軍・足利義輝が永禄の変で殺害されると、三好党らによって京都を追われ、摂津国・堺に避難した。 
※9 フロイス
翌1566年にヴィレラが九州に行ってからは、京都地区の布教責任者となった。1569年(永禄12年)、将軍・足利義昭を擁して台頭していた織田信長と二条城の建築現場で初めて対面。既存の仏教界のあり方に信長が辟易していたこともあり、フロイスはその信任を獲得して畿内での布教を許可され、オルガンティノなどと共に布教活動を行い多くの信徒を得た。その著作において信長は異教徒ながら終始好意的に描かれている。フロイスの著作には『信長公記』などからうかがえない記述も多く、戦国期研究における重要な資料の一つになっている。その後は、九州において活躍していたが、1580年(天正8年)の巡察師ヴァリニャーノの来日に際しては通訳として視察に同行し、安土城で信長に拝謁している。1583年(天正11年)、時の総長の命令で宣教の第一線を離れ、日本におけるイエズス会の活動の記録を残すことに専念するよう命じられる。以後フロイスはこの事業に精魂を傾け、その傍ら全国をめぐって見聞を広めた。この記録が後の『日本史』である。当初、豊臣秀吉は信長の対イエズス会政策を継承していたが、やがてその勢力拡大に危機感を抱くようになり、1587年7月24日(天正15年6月19日)には伴天連追放令を出すに至り、フロイスは畿内を去って加津佐を経たのち大村領長崎に落ち着いた。1590年(天正18年)、帰国した天正遣欧使節を伴ってヴァリニャーノが再来日すると、フロイスは同行して聚楽第で秀吉と会見。1592年(文禄元年)、ヴァリニャーノとともに一時マカオに渡ったが、1595年(文禄4年)に長崎に戻る。 1597年(慶長2年)には『二十六聖人の殉教記録』を文筆活動の最後に残し、7月8日(5月24日)大村領長崎のコレジオにて没した。65歳。フロイスは日本におけるキリスト教宣教の栄光と悲劇、発展と斜陽を直接目撃し、その貴重な記録を残すことになった。 63年肥前横瀬浦に到着依頼、12年間畿内に滞留。この間、信長の保護を得、教徒を舞台にした政治情勢などをローマに送る。82年以降96年までのうち11年度分の日本年報をコエリョ、ゴメスの両準管区長秘書として執筆。83年からローマ本部の指示で『日本史』を編述し、そのかたわら『日欧文化比較』を著す。日本で死去。

 1564年
 永禄7
 高山右近、父と共に受洗






※10 オルガンティノ
※11 カブラル来日 
  父、高山交照(ダリヨ)と共に高山右近(ジュスト=正義の人後の摂津領主)カトリック教会の福者。父は摂津国人・高山友照、母は洗礼名マリア。右近の生年は日本側の史料に所見がなく、外国側史料でも一致しないが、天文21年(1552年)から天文22年(1553年)ごろと推定され[1]、友照の嫡男として生まれた。後世キリシタンとして有名となる右近であるが、早くも永禄6年(1563年)に10歳でキリスト教の洗礼を受けている。それは父が奈良で琵琶法師だったイエズス会修道士・ロレンソ了斎の話を聞いて感銘を受け、自らが洗礼を受けると同時に、居城沢城に戻って家族と家臣を洗礼に導いたためであった。右近はジュストの洗礼名を得た。
※10 オルガンティノ
 オルガンティノとともに日本に来て九州での布教責任者となったフランシスコ・カブラルが大名の大村純忠を入信させたにもかかわらず、その頑固で短気な性格から多くの日本人を教会から遠ざけたのとは対照的だった。 オルガンティノは1576年(天正4年)に京都に聖母被昇天教会いわゆる「南蛮寺」を完成。1578年(天正6年)、荒木村重の叛乱時(有岡城の戦い)には家臣と村重の間で板ばさみになった高山右近から去就について相談を受けた。1580年(天正8年)には安土で直接織田信長に願って与えられた土地にセミナリヨを建てた。オルガンティノはこのセミナリヨの院長として働いた。最初の入学者は右近の治める高槻の出身者たちであった。第一期生の中には後に殉教するパウロ三木もいた。しかしこのセミナリヨは信長が本能寺の変で横死した後で安土城が焼かれた時に放棄された。1583年(天正11年)には豊臣秀吉に謁見して新しいセミナリヨの土地を願い、大坂に与えられたが、結局、右近の支配する高槻に設置された。1587年(天正15年)に最初の禁教令が出されると、京都の南蛮寺は打ち壊され、高山右近は明石の領地を捨てた。オルガンティノは右近とともに表向き棄教した小西行長の領地・小豆島に逃れ、そこから京都の信徒を指導した。翌年、右近が加賀国に招かれると、オルガンティノは九州に向かった。 1591年(天正19年)、天正遣欧少年使節の帰国後、彼らと共に秀吉に拝謁。前田玄以のとりなしによって再び京都在住をゆるされた。1597年(慶長2年)には日本二十六聖人の殉教に際して、京都で彼らの耳たぶが切り落とされると、それを大坂奉行の部下から受け取っている。オルガンティノは涙を流してそれらを押し頂いたという。 1605年、長崎のコレジオに移った[1]。半生を日本宣教に捧げたオルガンティノは最晩年、長崎で病床につき、1609年(慶長14年)、76歳で没した。
 
フランシスコ・カブラル(Francisco Cabral、 1529年 - 1609年4月16日)は戦国時代末期の日本を訪れたイエズス会宣教師。カトリック教会の司祭。日本布教区の責任者であったが、当時のポルトガル人冒険者の典型のような人物で、日本人と日本文化に対して一貫して否定的・差別的であったため、巡察師ヴァリニャーノに徹底的に批判され、解任された。
※11 カブラル
 彼は元来インドに赴任した軍人であり、ヨーロッパ中心主義という同時代人の制約を超えることができなかった。カブラルは頑固で短気として知られていたが、学究熱心でもありヨーロッパ文化とイエズス会を代表するエリートだった。カブラルからすれば、アジア人である日本人は低能力な民族であり、布教においても宣教師を日本文化に合わせるより、「優れた」ヨーロッパ式を教えこむことの方が日本人にとって良いと考えていた。 カブラルはさらにトーレス、ジョアンと呼ばれた2人の日本人伝道士を従えて、戦乱続く畿内へ視察に赴いた。堺ではすでに活動していたオルガンティノとロレンソ了斎の出迎えを受け、足利義昭との会見に成功した。さらにフロイスを伴って向かった岐阜では織田信長の知己を得て、その庇護を受けることに成功した。フロイスによれば、このときカブラルは眼鏡をかけていたが、岐阜の市民の間に「伴天連は目が四つある」といううわさが広まり、岐阜城の門前は「四つ目」を見ようと集まった群衆で大騒ぎになっていたという。1573年(天正元年)にはカブラルは山口へ足を伸ばした。そこはトーレスが1556年(弘治2年)に訪れてから誰も宣教師が訪れていなかった地域であったので、信徒の大歓迎を受けた。九州に戻って大友宗麟に洗礼を授けたのもカブラルであった。宗麟は若き日に出会ったザビエルへの追憶としてフランシスコの洗礼名を選んだ。一見、順調に進んでいるかのようであったイエズス会の布教活動だったが、カブラルの方針によって日本人信徒と宣教師たちの間に溝ができつつあった。カブラルは日本語を不可解な言語として、宣教師たちに習得させようとせず、日本人に対してもラテン語もポルトガル語も習得させようとしなか った。それは、日本人がそれらを理解し宣教師たちが話している内容がわかるようになると宣教師を尊敬しなくなる、という理由からだった。さらに日本人が司祭になる道も閉ざしていた。

 1572年
 元亀3
  ※12 コエリョ来日   ガスパール・コエリョ(Gaspar Coelho、 1530年-1590年5月7日)はポルトガル出身で戦国時代の日本で活動したイエズス会司祭、宣教師。イエズス会日本支部の準管区長。ポルトガルのオポルト生まれのコエリョは1556年にインドのゴアでイエズス会に入会。同地で司祭に叙階され、1572年(元亀3年)に来日。九州地方での布教活動にあたる。1581年(天正9年)に日本地区がイエズス会の準管区に昇格するとヴァリニャーノによって初代準管区長に任命された。1585年(天正13年)には宣教を優位に行いキリシタン大名を支援する為、フィリピンからの艦隊派遣を求めている。さらに日本全土を改宗した際には日本人を尖兵として、中国に攻め入る案を持っていた(この案は彼だけでなく多くの宣教師が共有)。1586年(天正14年)には地区責任者として畿内の巡察を行い、3月16日に大坂城で豊臣秀吉に謁見を許され、日本での布教の正式な許可を得た。
※12 コエリョ
1587年(天正15年)、九州平定を終えた秀吉は、ポルトガル商人が日本人を奴隷等として海外に売っていた事を知ると、バテレン追放令を発布、布教責任者であるコエリョを召喚して叱責した。コエリョ自身もヴァリニャーノが定めたキリシタン領主に過度の軍事援助を慎む方針を無視し、フスタ船(英語版)を建造して大砲を積込み、更にはそれを博多にいる秀吉に見せるという行為を行った。高山右近や小西行長がこの行為を懸念し、コエリョにその船を秀吉に献上するように勧めたが、これに全く応じなかった。ヴァリニャーノやオルガンティノによると、バテレン追放令はコエリョのこうした挑発的な行為に主な原因を求められるとしている。これを受けたコエリョは大友宗麟や有馬晴信に対して、キリシタン大名を糾合して秀吉に敵対することを求め、自身もその準備に乗り出したが、晴信は小西行長と同様に彼を嫌っていたので実現しなかった。その後、コエリョはフィリピンへ援軍を求めたが拒否されると、1589年(天正17年)にマカオに使者を送って天正少年使節を伴って再来日を伺っていたヴァリニャーノに、各位に働きかけて大規模な軍事援助を求めるよう要請した。その間、全国のイエズス会員たちを平戸に集結させ、公然の宣教活動を控えさせることにした。コエリョは1590年(天正19年)に肥前国加津佐で没した。ヴァリニャーノは彼の要請に驚き、彼が準備していた武器・弾薬を総て売り払い、日本で処分するのが不適当な大砲はマカオに送ることを命じている(ただしヴァリニャーノも程度の差こそあれ、かつては彼と同様にキリシタン大名へ支援することは考えていた)。

 1579年
 天正7
 ※13 ヴァリニャーノ来日   アレッサンドロ・ヴァリニャーノは、 (Alessandoro Valignano 1539-1606)イエズス会巡察師。66年東インド管区巡察師に任ぜられ、3回来日。第1次巡察(79-82)では日本人聖職者の要養成を目的にセミナリオ(司祭・修道者の予備教育機関=初等教育機関=小神学校)、コレジヨ(イエズス会士養成のための高等教育機関=大神学校)、ノビシアド(修道会員養成機関=修練院)などの教育機関を設置。日本年報などの通信制度の整備、天正遣欧使節派遣などを指令した。第2次(90-92)では活字印刷機を将来してキリシタン版を開版、司教セルケイラとともに来日した第3次(98-1603)では発の日本人司祭の誕生を見るなど日本教会の基礎固めに尽力。フィリピンから渡来の托鉢修道会(フランシスコ会)との対立など、日本教会の抱える諸問題の対応にあたった。また、中国の宣教開拓のためのリッチを派遣。『日本巡察記』・『日本イエズス会礼法指針』・『日本教会史』など多数の著作がある。
※13 アレッサンドロ・ヴァリニャーノ
1579年(天正7年)、総長の名代として日本を訪れた巡察師ヴァリニャーノは、九州においてカブラルから日本人が布教に適していないという悲観的な報告を受けて衝撃を受けた。カブラルは止めたが、ヴァリニャーノはあきらめきれずに畿内へ視察に赴いた。畿内においてヴァリニャーノは多くの優れたキリスト教徒たち、キリシタンの武将たちに会って感激し、日本布教区の問題点が実はカブラルにあるのではないかと考え始めた。
 ヴァリニャーノは巡察師として日本各地を訪れ、大友宗麟・高山右近・織田信長らと謁見している。1581年、織田信長に謁見した際には、安土城を描いた屏風(狩野永徳作とされる)を贈られ、屏風は教皇グレゴリウス13世に献上されたが、現在に到るも、その存在は確認されておらず、行方不明のままである。また、従者として連れていた黒人を信長が召抱えたいと所望したためこれを献上し、弥助と名づけられて信長の直臣になっている。また、この最初の来日では、当時の日本地区の責任者であったポルトガル人準管区長フランシスコ・カブラルのアジア人蔑視の姿勢が布教に悪影響を及ぼしていることを見抜き、激しく対立。1582年にカブラルを日本から去らせた。ヴァリニャーノは日本人の資質を高く評価すると共に、カブラルが認めなかった日本人司祭の育成こそが急務と考え、司祭育成のために教育機関を充実させた。それは1580年(天正8年)に肥前有馬(現 長崎県南島原市)と近江安土(現 滋賀県近江八幡市安土町)に設立された小神学校(セミナリヨ)、1581年に豊後府内(現:大分県大分市)に設けられた大神学校(コレジオ)、そして1580年に豊後臼杵に設置されたイエズス会入会の第1段階である修練期のための施設、修練院(ノビシャド)であった。また、日本布教における財政システムの問題点を修正し、天正遣欧少年使節の企画を発案した。これは日本人にヨーロッパを見せることと同時に、ヨーロッパに日本を知らしめるという2つの目的があった。1582年、ヴァリニャーノはインドのゴアまで付き添ったが、そこで分かれてゴアに残った。1590年(天正18年)の2度目の来日は、帰国する遣欧使節を伴って行われた。このときは1591年(天正19年)に聚楽第で豊臣秀吉に謁見している。また、日本で初めての活版印刷機を導入、後に「キリシタン版」とよばれる書物の印刷を行っている。1598年(慶長3年)、最後の来日では日本布教における先発組のイエズス会と後発組のフランシスコ会などの間に起きていた対立問題の解決を目指した。1603年(慶長8年)に最後の巡察を終えて日本を去り、3年後にマカオでその生涯を終えた。聖ポール天主堂の地下聖堂に埋葬されたが、その後天主堂の焼失・荒廃により地下聖堂ごと所在不明となった。しかし1990年から1995年の発掘により発見され、現在は博物館として観光用に整備されている。
 視察を終えたヴァリニャーノはカブラルの宣教方針を完全に否定し、(カブラルが禁じた)日本人司祭の育成、日本布教区と本部との連絡通信の徹底、トーレスの適応主義の復活を指示した。ヴァリニャーノはトーレスの日本文化尊重の姿勢を絶賛し、宣教師が日本の礼儀作法を学ぶことの重要性を指摘している。カブラルはヴァリニャーノを逆に非難したが、結果として1581年(天正9年)に布教責任者の立場を解任され、後任にはコエリョが任命され、日本地区が準管区に昇格したため、初代準管区長となった。1583年(天正11年)に日本を離れてマカオに去ったカブラルは、後にインドのゴアに移り、同地で1592年から1597年までインド管区長をつとめた。1609年4月16日、ゴアで死去。
 
 1582年
 天正10
 天正遣欧使節の派遣
 本能寺の変(信長死去) 
 イエズス会の企画(主にイタリア人のイエズス会巡察師ヴァリニャーニの勧め)で大友義鎮(宗麟)・有馬鎮貴(後の晴信)・大村純忠の3人のキリシタン大名が、伊東マンショ・千(ち)々(ぢ)石(わ)ミゲル・中浦ジュリアン・原マルチノら四人の少年を派遣(1582年2月天正10年1月出発)。スペイン国王フェリペ2世(84年11月マドリード)、ローマ教皇グレゴリオ13世(85年3月に謁見、同教皇の死去にともない同年4月シクストゥス5世に拝謁。)1590年7月(天正18年6月)帰国したが、その際ヨーロッパから活字印刷術が導入され、いわゆるキリシタン版と称する重要な出版物を遺した意義は大きい。4人の使節はその後、伊東・中浦・原の3人はイエズス会司祭になるが、千々石ミゲルだけは帰国後棄教(キリシタン布教が領土的野心を浦に秘めていたことが棄教の理由。『大村家秘録』・『大村家歴代』)する。
 
 1587年
 天正15
 バテレン(伴天連)追放令   九州平定の1587年、大村純忠が長崎の地をイエズス会に寄進した事実が発覚。これに怒った豊臣秀吉は、キリスト教宣教師(バテレン)を国外追放し、発令直前には大名のキリスト教入信を許可制、一般人の信仰は「その者の心次第」として禁止しなかった。結果的には、貿易その者は禁じなかったため、不徹底に終わった。播磨国明石城主、高山右近は棄教しなかったため、領地を没収された。
※バテレン(伴天連)とは、ポルトガル語のパードレ(padre)が転訛した言葉で司祭・神父をさす。
 
 
 1590年
 天正18
  天正遣欧使節団帰国  彼らを支援していたバルトロメオ大村純忠、フランシスコ大友義鎮(宗麟)は3年前に病死。日本におけるキリスト教布教が危ぶまれるようになるなかでの帰国となった。
 
 
 1591年
 天正19
  ヴァリニャーノ秀吉と会見  ヴァリニャーノ、聚楽第で秀吉と会見。インド福翁の書簡を贈る。   
 1592年
 文禄元
  『ドチリナ・キリシタン』出版


 朝鮮侵略(文禄の役)
 ドチリナ・キリシタンは、近世初期にイエズス会によって作成されたカトリック教会の教理本である。当時のポルトガル語でDoctrina Christã(現在の表記ではDoutrina Cristã)、ラテン語でDoctrina Christianaと表記する。日本で刊行されたドチリナ・キリシタンは、刊行年・刊行地共に不明の国字本「どちりいな・きりしたん」、文禄元年(1592年)発行の天草版ローマ字本[3]、慶長5年(1600年)発行の長崎版ローマ字本[3][4]、同年発行の長崎版国字本「どちりな・きりしたん」の4種類がある。ローマ字本はヨーロッパ人の日本語学習のため、国字本は日本人信徒の教理学習用として編纂され、問答体の平易な文章で書かれている。天正18年(1590年)に2度目の来日をしたアレッサンドロ・ヴァリニャーノがヨーロッパから持ち込んだ活字印刷機により他の数々の書物と共に印刷された。ドチリナ・キリシタンでは、キリスト教が来世における救済の教えであることを、キリシタンに対して繰り返し強調していた。また、デウスの十戒の第4の掟で、「父母に対する孝行」を「主人・司たる人(主君や領主)に対する忠誠と服従」と敷衍して規定していた。
 
 1593年
文禄2
 フランシスコ会来日   1209年創立の托鉢修道会。1593年~来日して布教し、イエズス会に対抗。サン=フェリペ号事件で秀吉の怒りを買い1596年に26聖人殉教が起こった。弾圧が厳しく1638年に全滅。他に来日した修道会には、ドミニコ会・アウグスチノ会などがある。 
 
 1596年
慶長元
 サン=フェリペ号事件   スペイン船サン=フェリペ号が、フィリピンを発ってメキシコに向かう途中、土佐国浦戸に漂着した同船をめぐる紛争事件。豊臣秀吉の命で現地に派遣された増田(ました)長盛が積荷などを没収したが、そ
の過程で水先案内人が、スペインの広大な版図はキリスト教布教絡みで獲得したことを揚言。秀吉の怒りを買って97年のフランシスコ会士を中心にした26聖人殉教事件へと発展したというのが通説である。そこには、日本の宣教からイエズス会側がフランシスコ会の排除を策したという一面もあった。 
 1597年
 慶長2
 二十六聖人殉教     秀吉は、それまでフランシスコ会宣教師の宣教活動を黙認していたが、かねて宣教し追放令を発布していることを根拠に、この禁令を犯したとの理由で突然彼らの捕縛に乗り出した。そして、京都と大坂にあったフランシスコ会員と、大坂の小笠原アンドレの家にいたイエズス会員が12月8日に捉えられ、12月31日、秀吉はこれら24人の宣教師と信徒全員を長崎で磔の刑に処することを決定した。
 処刑されたのは、フランシスコ会員の宣教師6名(スペイン人4名、ポルトガル人1名、メキシコ人1名)、日本人イエズス会員3名、信徒15名、さらに道中彼らを援助していた京都の大工フランシスコと、イエズス会のオルガンティーノ神父から彼らのもとに遣わされたペドロ助四郎が加わり、皆で26名で、1597年2月5日(慶長元年12月19日)正午頃のことであった。
 殉教地は、人々の往来が盛んな時津(浦上)街道と海の間に挟まれた小高い丘(現長崎市西坂公園)で、港からも町からもよく見渡せた場所であった。それは、人々への見せしめのためであった。26人の殉教者は十字架に磔にされ、聖歌を歌ったり詩編を唱えたりするなか、正午頃役人に槍で突かれ、絶命した。
 
 1598年
慶長6

1600年  慶長5
 朝鮮侵略(慶長の役)
  豊臣秀吉死去

  関ヶ原の戦い
   
 1601年
 慶長6
  セバスチャン木村司祭となる  イエズス会士。日本二百五福者の一人。1550年、平戸でザビエルから洗礼を受けた宿主木村氏の孫。12歳から同宿として、教会に奉仕し、1580年、有馬のセミナリオに入学し、1584年にイエズス会に入会する。その後、都から、平戸、島原半島と巡り、天草コレジオで学び、1595年神学の勉強のためにマカオに渡る。1598年、副助祭となり、1600年に帰国し、助祭となる。1601年、長崎で叙階され、日本人初の法人司祭となる。その後九州で働き、1621年6月、密告により長崎で逮捕され、大村の鈴田の牢に入れられる。長崎の西坂で、火あぶりの刑によって殉教。 
 1603年
 慶長18
 徳川家康征夷大将軍となる     
 1609年
 慶長14
  ※14 フェレイラ来日























 フェレイラ・クリストヴァ(Ferreira Christovao 1580頃-1650)転びバテレン。ポルトガルに生まれる。1596年イエズス会に入会、1608年マカオで司祭叙階。09年来日、日本語が堪能で、14年追放令後も京都に留まる。17年長崎で管区長秘書となり、日本年報や殉教報告の執筆、管区会計を務めた。フェレイラが来日したのは、すでにキリスト教の布教が困難を極めていた1609年(慶長14年)であった。日本語にすぐれ、日本のイエズス会の中心となって働いていたが、日本管区の管区長代理を務めていた1633年(寛永10年)に長崎で捕縛された。寛永10年9月17日(1633年10月18日)、長崎において中浦ジュリアン神父らとともに穴吊りの刑に処せられた。この刑は、過酷な苦痛をもたらすが事前になかなか死なないように処置をされ、しかし棄教の意思表示は自由にできるようにされるため、耐え抜くのは困難であった。その中でも他の者はすべて殉教したが、5時間後にフェレイラのみが耐え切れず棄教した。
※14 フェレイラ
その後、フェレイラは沢野忠庵を名乗り、日本人妻を娶った。以後は他の棄教した聖職者、いわゆる転びバテレンとともにキリシタン取締りに当たった。1644年(正保元年)にはキリスト教を攻撃する『顕疑録』を出版した。これとは別に、天文学書『天文備用』や医学書『南蛮流外科秘伝』などにより、西洋科学を日本に伝えている。管区長代理であったフェレイラの棄教は、イエズス会とヨーロッパのカトリック教会に衝撃を与え、多くの宣教師が日本潜入を志願した。実際に潜入した宣教師たちは、捕縛され、ある者は殉教し、ある者は棄教した。棄教した司祭の中に、フェレイラとともに遠藤周作の『沈黙』のモデルとなったジュゼッペ・キアラがいる。 長崎奉行所の宗門目明しとして30人扶持を受け、36年排耶書『顕偽録』を著したが、これは奉行書の指示によるものと考えられている。医学、天文にも通じて南蛮流外科、地球説をはじめ、南蛮学説など江戸時代の化学の発達に影響を与えた。皓台寺の過去帳に病死と記される。『日本切支丹宗門史』を記したレオン・パジェスは、フェレイラが死を直前にしてキリスト教に立ち帰ったと伝えるが、事実は定かではない。なお、遠藤周作はフェレイラの子孫と名乗る女性に会ったことを書き残している。フェレイラの娘婿に門下の医師・杉本忠恵がいて、のちに幕医となっている。フェレイラの墓所は東京都台東区谷中の瑞輪寺で、ここにある娘婿の杉本家の墓に合葬されている。


 
 1612年
 慶長17
 禁教令(キリスト教禁止令)


 ※15岡本大八事件
 
 徳川秀忠は、幕府直轄地(幕領)および直属家臣にキリシタン信仰を禁じ、翌年に全国へ及ぼした法令。家光はさらに禁教を強化し、高札などで徹底した。 

 岡本大八事件は、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて発生した江戸時代初期の疑獄事件。 この事件の当事者がキリシタンであったため、これまでキリシタンを黙認していた家康も、このまま放置する事はできずキリスト教禁止を表明し、その摘発を行いました。その結果、旗本のジョアン原主水(はらもんど)や、大奥の侍女ジュリアおたあなどが改易・追放処分となった。

※15岡本大八事件
岡本大八事件は、慶長14年(1609年)から慶長17年(1612年)にかけて発生した江戸時代初期の疑獄事件。 マカオの朱印船騒擾事件=慶長14年(1609年)2月、肥前日野江藩(後の島原藩)主有馬晴信の朱印船が占城(チャンパ)の途上でポルトガル領マカオに寄港したおり、配下の水夫がポルトガル船マードレ・デ・デウス号の船員と取引をめぐって騒擾事件を起こし、これをマカオ総司令アンドレ・ペソアが鎮圧して晴信側の水夫に60名ほどの死者が出た。翌慶長15年(1610年)5月、ペソアが長崎で長崎奉行長谷川藤広に事件の調書を提出し、駿府に出向いて徳川家康に陳弁する旨を申し出た。ところが藤広は、ポルトガルとの交易縮小を危惧し、ペソアの意向に反して、事件の真相を伏せたまま自らの代理人を駿府に派遣してしまった。
 ペソアはこれに不満をもち、また以前より幕府の糸割符制度による不利益をポルトガル商人に陳情されていたこともあって、自ら駿府に赴こうとする騒ぎを起こした。結局これはイエズス会から止められたが、藤広の怒りを買う結果となった。藤広は報復を考えていた晴信をたきつけ、家康にペソアと商船の捕縛を請願させた。また晴信はこれと抱き合わせに、伽羅木入手のための朱印船を出帆する許可を請願した。伽羅入手はそもそも家康が藤広に所望していたものであり、家康の意向に沿ったものだった。
 報復を許可することでポルトガルとの交易が途絶する危惧はあったが、同時期にスペインやオランダとの交易が活発化しはじめポルトガルの地位が相対化していたこと、また伽羅入手を急いだこともあり、結局家康は晴信へ報復の許可を出した。実行の監視役として、もと藤広の家臣で当時本多正純家臣となっていた岡本大八を送り、ペソアには駿府への召喚を命じた。
  ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件=日本船のマカオ寄港を禁止するむねの朱印状を渡されたものの、ペソアは長崎に泊めおかれていた。家康からの召喚を受け、命の危険を感じたペソアはこれを無視して出港しようとしたが、そこへ晴信が朱印船の船団を引き連れて長崎に入った。藤広と大八が見守る中、晴信は、同年12月12日、ペソアの乗るデウス号を長崎港外にて4日4晩かけて攻撃した。炎上した船の中でペソアは爆薬庫に火を放ち自決してしまった(ノサ・セニョーラ・ダ・グラサ号事件)。
 事件の前後、ポルトガル船の日本来航は途絶え、中国産生糸の供給が絶えてしまう。さらに同年、藤広や長崎代官村山等安らの誣告により、神父ジョアン・ロドリゲスがマカオに追放された。ロドリゲスはポルトガル語通訳であり、家康からの信任も厚かった人物で、これもポルトガル交易には打撃となった。なお、この中傷はイエズス会総長や教皇、周辺大名の圧力によるもので、ロドリゲス神父の貿易による利益拡大が疎まれたためとされる。
 大八の虚偽の発覚=翌慶長16年(1611年)、日本との外交接点を失ったポルトガルは貿易再開を図るため、薩摩藩の援助を得て、国副王代として艦隊司令官マヨールを駿府の家康と江戸の秀忠に謁見させた。このとき先のマカオでの事件の弁明とともに、藤広の罷免、船の賠償を求めたが、幕府側は全てペソアの責任として取り合わず、貿易の再開だけを認めた。
 こうした経緯は大八、藤広を通じて家康に報告されていた。晴信には、龍造寺氏との代々の争いで生じた失地を回復するという有馬氏の悲願があった。ポルトガルへの報復を果たし、伽羅も献上できたことで、晴信は褒賞による領地の回復に期待を寄せていた。一方、先んじて伽羅献上を達成したことから、藤広との間には不和が生じることとなった。藤広は幕府側の先買権を強化するため、有馬氏(晴信)と関係が深かったイエズス会ではなく、対立するドミニコ会に接近したが、こうした動きはますます晴信の不満を募らせた。藤広がデウス号の時間をかけた攻撃を「てぬるい」と評したことに腹を立て「次は藤広を沈めてやる」と口走るほどであった。大八はこうした晴信の思惑と懐疑につけこんだ。大八は晴信と同じくキリシタンであった。
 家康への報告から戻った大八を、晴信は饗応した。このとき大八は、「藤津・杵島・彼杵三郡を家康が今回の恩賞として晴信に与えようと考えているらしい。自分が本多正純に仲介して取り計らう」と虚偽を語り、仲介のための資金を無心した。晴信は家康側近の正純の働きかけがあれば、これらの旧領の回復は揺るぎないと考え、大八の所望に応じてしまった。大八は家康の偽の朱印状まで周到に用意し、結果6000両にもおよぶ金銭を運動資金と称してだまし取った。
 やがていつまでも褒賞の連絡がないことに業を煮やし、晴信は自ら正純のもとに赴いて恩賞を談判、大八の虚偽が発覚することとなった。断罪=正純は駿府で大八を詰問したが、否認しつづけるばかりで埒があかなかった。また贈賄をしていた晴信にも非があるものの、晴信の嫡男・有馬直純に家康の養女・国姫が嫁いでおり一存では断罪できず、結局裁決は家康に委ねることとなった。家康は駿府町奉行になっていた彦坂光正に調査を命じ、翌慶長17年(1612年)2月、大八を捕縛する。駿河問いによる厳しい拷問により、大八は朱印状の偽造を認めたものの、晴信の「沈めてやる」との失言を引き合いに、「晴信は長崎奉行の藤広の暗殺を謀っている」と主張した。
 正純は大八を江戸に送り、また晴信も呼び出して3月18日、大久保長安邸で両者を尋問、晴信も藤広への害意を認めてしまった。慶長17年(1612年)3月21日、大八は朱印状偽造の罪により駿府市街を引き回しのうえ、安倍河原で火刑に処せられた。 翌22日、晴信も旧領回復の弄策と長崎奉行殺害企図の罪で甲斐国郡内に流罪を命じられ、晴信の所領である島原藩(日野江)4万石は改易のうえ没収に処された。ただし、家康に近侍していた嫡男・直純は、父と疎遠であることも理由に有馬氏の家督と所領の安堵が認められた。晴信には後に切腹が命じられ、しかしキリシタンであることから自害を拒んで同年5月7日、配所にて家臣に斬首させた。46歳没。一方、藤広には咎めは一切なかった。



 1613年
 慶長18
  隠れ(潜伏)キリシタン


 慶長遣欧使節団






 ルイス・ソテロ
 江戸時代、禁教にもかかわらず表面的には棄教を装い、マリア観音像やロザリオなどにより、密かに信仰を持続したキリシタン。各地に存在したが、長崎浦上の信徒はその例。

 伊達政宗が支倉常長(六右衛門長経)を正史として、フランシスコ会宣教師ルイス・ソテロとヨーロッパに派遣した使節。ノビスパン・スペイン・イタリアへ行き、スペインに行く。1651年、国王フェリペ3世に謁見、その後洗礼を受け、ローマ教皇パウルス5世に謁見し、伊達政宗の親書を奉呈した。メキシコ貿易の開拓について強行の政治力を期待したが、聞き入れられなかった。1620年に帰国したが、既に禁教令が発布されており失敗に終わり、支倉常長は蟄居同然の暮らしを余儀なくされた。

 ルイス・ソテロ(Luis Sotelo, 1574年9月6日 - 1624年8月25日)は、スペイン帝国セビリア生まれのフランシスコ会宣教師である。サラマンカ大学で学び、1594年にフランシスコ会に入会。ヌエバ・エスパーニャから1600年、フィリピンに渡り、マニラ近郊で日本人キリスト教徒の指導に従事し日本語を学ぶ。1603年(慶長8年)、フィリピン総督の書簡を携えて来日し徳川家康や秀忠に謁見、日本での布教に従事した。1609年(慶長14年)には上総国岩和田村(現・御宿町)田尻の浜で座礁難破し、地元の漁民達に助けられた前フィリピン総督ドン・ロドリゴとの通訳や斡旋にあたる。また仙台藩主・伊達政宗との知遇を得、東北地方にも布教を行った。1613年(慶長18年)、布教が禁止され捕らえられるが伊達政宗の助命嘆願によって赦され、慶長遣欧使節団の正使として支倉常長らとともにヌエバ・エスパーニャを経てヨーロッパに渡る。エスパーニャ王、ローマ教皇パウルス5世に謁見し日本での宣教の援助を求めるが目的を達せず1617年、エスパーニャを発ちヌエバ・エスパーニャ経由でフィリピンに入り、マニラで日本に渡る機会を待って1622年(元和8年)、長崎に密入国したが捕らえられる。この際も伊達政宗の助命嘆願があったが容れられず、1624年(寛永元年)に大村でフランシスコ会の宣教師2名、イエズス会とドミニコ会の宣教師各一名と共に火刑により殉教した。1867年にローマ教皇ピウス9世により列福された。キリスト教の布教に大変熱心な宣教師であったが、それ故に「聖なる偽り」(布教のために嘘をついたり、他者を欺くような行為をすること)も多く、彼が残したり或いは語ったとされる史料は信憑性に疑問があるともされる。


 1614年
 慶長19
 キリシタンの国外追放

 大坂冬の陣
 高山右近、マニラにて昇天。
 大坂夏の陣

 
 キリシタンを国外追放。高山右近(高槻城主、後明石城主。棄教しなかったため秀吉によりその地位を追われ、前田利家に身を寄せる。1614年の禁教令によりマニラに追放。その地で病死した。2017年烈福。)ら約300人をマニラ・マカオに追放。さらに禁教の強化のため、高札などで徹底した。 
 
 1615年
 慶長20
 鎖国政策の始まり   九月、幕府はキリスト教を禁じ、中国(明)船を除く外国船の来航を平戸と長崎に限定。イギリスが商館を閉鎖し、日本との貿易から撤退。   
 1616年
 元和
 徳川家康死去    
 1622年
 元和8
 元和の大殉教   1622年9月10日(元和8年8月5日)に宣教師、伝道師(同宿)、信者55名が刑死した事件。平山常陳事件が引き金になり、大村の鈴田牢と長崎牢に拘禁中の9名の司祭と、修道士・伝道士ら25名が火刑に処せられ、宣教師の宿主ら有力キリシタンとその家族30名が斬首された。殉教地は長崎の西坂で、この殉教を機に迫害は強化された。1868年に殉教者は列福された。カルロ・スピノラ(Carlo Spinola、1564年 - 1622年9月10日)は、イエズス会のイタリア人宣教師。元和の大殉教で火刑に処された者の一人である。グレゴリオ暦作成の中心人物であった科学者クリストファー・クラヴィウスに師事し、天文学、数学、暦学なども修得していた。
 
 
 1628年
 寛永5
 ※16 このころ絵踏み始まる。 



























 スペイン船の来港を禁止

 江戸幕府は、1612年(慶長17年)徳川家康によるキリシタン禁令(禁教令)、1619年(元和5年)徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置などの度重なるキリスト教の禁止を経て、1629年(寛永6年)に絵踏を導入、以来、年に数度「キリシタン狩り」のために前述したキリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒んだ場合は「キリスト教徒」として逮捕、処罰した。踏み絵の発案は、オランダ人説・沢野忠庵説など様々であるが、定説はなく詳細不明である。
※16 絵 踏
 踏み絵(ふみえ)とは、江戸幕府が当時禁止していたキリスト教(カトリック教会)の信徒(キリシタン)を発見するために使用した絵である。本来、発見の手法自体は絵踏(えぶみ、えふみ)と呼ばれるが、手法そのものを踏み絵と呼ぶ場合も多い[要出典]。
踏み絵には当初は文字通り紙にイエス・キリストや聖母マリアが描かれたものを利用したが、損傷が激しいため版画などを利用し、木製や金属製の板に彫られたものを利用するようになった。絵踏が廃止されると、そのまま廃棄されたり再利用されたりしたため、現存するものは少なく、表面が磨滅した形で現存しているものも多い。
また上記から転じて、ある事柄への該当者や反対者を燻り出すために用いる道具や、その手段を「踏み絵」と呼ぶ。
 踏み絵
 江戸幕府は、1612年(慶長17年)徳川家康によるキリシタン禁令(禁教令)、1619年(元和5年)徳川秀忠によるキリシタン禁令の高札設置などの度重なるキリスト教の禁止を経て、1629年(寛永6年)に絵踏を導入、以来、年に数度「キリシタン狩り」のために前述したキリストや聖母が彫られた板などを踏ませ、それを拒んだ場合は「キリスト教徒」として逮捕、処罰した。踏み絵の発案は、オランダ人説・沢野忠庵説など様々であるが、定説はなく詳細不明である。
 初期の段階では、(初期の踏み絵にはキリスト教信仰の象徴である十字架が刻まれていたおり、潜伏キリシタンの中には、その信仰のため踏むことができないものも大勢おり、キリシタン狩りに効果があった。しかし、後期の踏み絵には踏み絵の作成者がキリスト教信仰を理解せずに作成されていったため、十字架が刻まれていない物が作られるようになった。そのため、次第に内面でキリスト教を信仰さえすればよい、という考えが広まり、役人の前では堂々と絵踏みをするが、密かに主イエス・キリストに祈って許しを請う信者「隠れキリシタン」が現れ始め、後期には必ずしも『キリシタン狩り』の効果は上がらなかった。

 

 奉書船以外の日本船の海外渡航禁止。

 1630年
 寛永7
 ペトロ岐部、日本に帰国    
 1633年
 寛永10
 フェレイラ棄教

 寛永十年の鎖国令

 ※中浦ジュリアン殉教
 十月、日本管区長フェレイラ棄教し、沢野忠庵と名のる。

 四月、第一次鎖国令。キリシタンを禁制を強化。

 天正遣欧使節団の最後の一人、長崎の西坂にて殉教。
 
 1634年
 寛永元
 1635年
 寛永12
 1636年
 寛永13
  寛永十一年の鎖国令

 寛永十二年の鎖国令

 永十三年の鎖国令
 第2次鎖国令。第1次鎖国令の再通達。長崎に出島の建設を開始。 

 第3次鎖国令。中国・オランダなど外国船の入港を長崎のみに限定。東南アジア方面への日本人の渡航及び日本人の帰国を禁じた。

 第4次鎖国令。貿易に関係のないポルトガル人とその妻子(日本人との混血児含む)287人をマカオへ追放、残りのポルトガル人を出島に移す。ポルトガル船の来航を禁止。オランダ商館を長崎の出島に移す。

 
 1637年
 寛永14
 島原の乱   島原半島と天草地方の農民が領主の苛政に対し天草四郎(フランシスコ益田時貞16歳)を首領として起こした農民一揆。キリシタン大名有馬直純の日向天封後に帰農した武士や庄屋層がキリシタンの中心であったが、新領主松倉重正が島原城を築き分不相応な軍役
を負担したため領民は苦しみ不満が募った。1634年から3年間飢餓が続き農民は貢租減免を求めて37年12月11日代官を殺害し、一揆が始まった。唐津城主寺沢堅高支配の大矢野島でも農民が大庄屋のもとに結集して蜂起し天草四郎を首領とし、島原勢に合流して有馬氏の廃城の原城(はるじょう)に籠もった。総勢2万数千人であった。幕府はこれをキリシタン宗門一揆と規定して両藩主を帰領させ板倉重昌を征討上使下向せしめたが、板倉は陰暦元旦に2度目の総攻撃を敢行して戦死した。その3日後に戦後処理の上使として着いた松平信綱は持久策で一揆勢を兵糧攻めにし、海上のオランダ船から砲撃せしめ、4月11,12日に総攻撃して一揆勢を全滅させた。この欄が幕府に与えた衝撃は大きく、鎖国政策とキリシタン弾圧は一気に加速した。ポルトガル船の来航を禁じて貿易を打ち切り、キリシタン邪宗観を意図的に人民に植え付ける契機となった。松倉・寺沢両家とも断絶した。
 



 1639年
 寛永16
 寛永十六年の鎖国令 


 鎖国の完成


 切支丹禁制

 ペトロ岐部殉教
 第5次鎖国令。ポルトガル船の入港を禁止。それに先立ち幕府はポルトガルに代わりオランダが必需品を提供できるかを確認している。奉書船以外の渡航を禁じ、また海外に5年以上居留する日本人の帰国を禁じた。
 一般的には1639年(寛永16年)の南蛮(ポルトガル)船入港禁止から、1854年(嘉永7年)の日米和親条約締結までの期間を「鎖国」と呼ぶ。しかし、「鎖国」という用語が広く使われるようになったのは明治以降で、近年では制度としての「鎖国」はなかったとする見方が主流である。

 五月、将軍家光、諸大名にキリシタン禁制を厳令。

 岐部、江戸で殉教。(五十二歳)
 
 
 1640年
 寛永17
 井上政重宗門改役に就任   井上筑後の守政重、幕府の宗門改役に就任。   
 1643年
 寛永20
 訴人褒賞性と五人組性結合

 ジュゼッペ・アキラ来日
 
 訴人褒賞性と五人組性を結びつけ、キリシタン摘発を五人組の連帯責任とする。 

 ジュゼッペ・アキラ(Giuseppe Chiara 1602-1685)イタリア出身のイエズス会士。強制改宗により棄教し岡本三右衛門と名乗り生きた。マーティン・スコセッシ監督による遠藤周作の小説『沈黙』の主人公のモデルとなった人物。クリストヴァン・フェレイラが長崎で捕らえられ、穴釣りの拷問の末棄教したことを受け、アキラを含む10名のイエズス会士が日本に向かい1643年6月27日に筑前国に上陸したが、すぐに捕らえられ、同年8月27日に江戸へ移送される。宗門改奉行、井上政重邸に預けられ詮議が行われ、この詮議にはフェレイラ(沢野忠庵)地震も協力した。また大老酒井忠勝・老中堀田正盛らの邸でも取り調べが行われ、その際には将軍徳川家光自身も自ら検分したという。アキラはフェレイラ同様穴釣りの拷問を受け3日後に棄教、そのご信仰に戻ることは許されなかった。1646年(正保3)、小石川の切支丹屋敷に移され、同じく入国を企てた仲間とともに収容された。幕命により岡本三右衛門という殉教した下級武士の後家を妻として娶り、そのまま岡本三右衛門の名を受け継いだ。幕府からは10人扶持を与えられたが、切支丹屋敷から出ることは許されなかった。その後も度々キリシタンおよび宣教師についての情報を幕府に提出し、宗門改方の業務も行った。幽閉43年の後、1685(貞享2)年7月25日に病死。遺体は荼毘に付され(当時のキリスト教では火葬は禁忌)、切支丹屋敷に近い小石川無量院に葬られた。墓碑には「入専浄真信士霊位、貞亨二乙丑年七月廿五日とある。

 1644年
 寛永20
 ※17 潜伏キリシタンの生活




 秘密の組織 
 1644年*1マンショ小西神父が殉教したのを最後に、日本には一人の神父もいなくなりました。それでもキリスト教への取り締まりは、ますます厳しくなり、絵踏み、宗門改制度*2五人組制度などが行われました。
そのため、潜伏キリシタンたちは、見かけは仏教徒を装いながら、自分たちだけで密かに信仰を守り伝えていきました。
このように厳しい状態が来るのではないかと予想した宣教師たちは、信者たちに生き残る道を教えていました。 自由な時代に栄えた信心会(ミゼリコルディアの組、ロザリオの組など)をもとに、信者たちの秘密の組織が作られました。それは、次の3役で構成されました
帳方(ちょうかた):毎年祝日を決める役、その秘伝を伝承している人。これを記したものを「お帳」または「日繰」といい、信仰生活のよりどころとしました。
水方(みずかた):洗礼を授ける役。集落ごとに1名、組織の最高権威者で世襲制をとっていました。授け役ともいいます。聞役(ききやく):洗礼を授ける「水方」の助手役で、洗礼の時、水方が御用分(お授けの言葉)を間違わないように聞いている役目をすることから起こった名称といわれています。
 また、長崎では「帳方」の家に集って、その週の「さし合い」の日(祝日)を聞いて帰り、各戸に触れ回る任務をしていたことに由来するともいわれ、「触役」ともいわれます。
こうして、組織の指導系統ができ上がり、250年間に及ぶ長い間、一人の神父もいないのに、信者たちは信仰を伝えていったのでした。
潜伏キリシタンの生活
秘密の組織は作ったものの、気づかれないように、隠れて信仰を守り伝えるのは大変でした。そのため信者たちは、いろいろな工夫をしました。
檀家(だんか)制度によって、普段は仏教徒を装っていた信者たちは、踏み絵を踏んだり、宗門改の時には口先だけで信仰を捨てたり、また葬式のために僧侶を呼んだりしなければなりませんでした。しかし、その後で自分たちだけで葬式をやり直し、神のゆるしを求めて、コンチリサン(痛悔)の祈りを唱えるのでした。
マリア観音
また、家には仏壇や神棚を置き、仏像や先祖の位牌(いはい)もまつりましたが、それらをイエス様、マリア様の代わりにして、祈ることもしていました。マリア観音(かんのん)などが、その一つです。
潜伏キリシタンの行事、儀式
潜伏キリシタンたちは、キリスト教の行事を自分たちの言葉で、密かに守り伝えて来ました。現在、注3かくれキリシタンに 残っている行事、儀式から一部をご紹介しましょう。
 ご産待ち(ごさんまち) …… クリスマス・イブ
 ご誕生(ごたんじょう) …… クリスマス
 悲しみの入り      …… 灰の水曜日
(この日から四旬節に入る)
 お花(おはな) …… 枝の主日
 上がり様(あがりさま) …… 復活祭
 四十日目様        …… 昇天祭
 十日目様(そおかめさま) …… 聖霊降臨祭
 お授け(おさずけ) …… 洗礼
 直会(なおらい) …… 聖体
  御神酒(おみき) …… ぶどう酒
  刺し身(さしみ) …… パン

 


 1644年
 寛永20
 マンショ小西神父が殉教   1644年マンショ小西神父が殉教したのを最後に、日本には一人の神父もいなくなる。長崎・対馬出身、小西行長の孫といわれる。イエズス会に入り、1628年ごろローマで司祭叙。1644年殉教。   
 1657年
 明暦3
 大村郡崩れ(郡崩れ)   肥後国大村藩郡村でキリシタン崩れがあり、603名が逮捕される。   
 1665年
 寛文5
 キリシタン探索厳令  幕府、一万国以上の幕領に宗門改役を置き、キリシタン探索を厳令。   
 1674年
 延宝2
 キリシタン禁制の高札   幕府、キリシタン禁制の高札を立て、バテレン銀五百枚、イルマン三百枚に増額。   
 1687年
 貞享4
 キリシタン類族改め   七月、幕府、キリシタン類族改め制実施。   
 1708年
 宝永5
 シドッティ来日(屋久島上陸)   Giovanni Battista Sidotti(1668-1714年)鎖国令以降、江戸期の日本に渡航した数少ない宣教師の一人に、イタリア人教区司祭ジョバンニ・シドッチがいる。シドッチは鎖国下の日本への渡航を願い、教皇庁に許しを求めていた。教皇庁は殉教することが明白な地に司祭を送ることはできないと拒絶したが、シドッチの再三の願い出に教皇クレメンス11世は特別な許可を与えた。 シドッチは苦労の末に屋久島へ上陸したが、すぐに捕らえられ、長崎を経て江戸に送られ、死ぬまで切支丹屋敷にいた。江戸では儒学者新井白石が取り調べにあたったが、シドッチの人格の高潔さと学識に感銘を受け、尋問というよりは対話という形で、多くの新知識を学び取った。その成果が『西洋紀聞』『采覧異言』である。 現在のイタリアのシチリア貴族の出身。特定の修道会に所属しない教区司祭で、ローマ教皇庁の法律顧問を務めていた。東アジアに派遣された宣教師らの報告によって日本における宣教師や現地の信徒(切支丹)の殉教を知り、日本への渡航を決意した。教皇クレメンス11世に願い出て宣教師となり、マニラに向けて出帆した。 高祖敏明(前上智学院理事長)は教会史料の分析や、シドッティが布教省の命によりローマ時代に日本語学習を始めていたこと、典礼論争に関する清皇帝への特使に同行してアジアに来たことから、来日は個人的動機だけでなく、日本に開国を促す非公式な教皇使節であった可能性を指摘している。
 
 1709年
 宝永6
 十二月、新井白石、シドッティを小石川切支丹屋敷で訊問。     
 1714年
 正徳4
 四月、シドッティ、牢に入れられる。十一月、獄死     
 1715年
 正徳5
 新井白石『西洋紀聞』刊。     
 1790年
 寛政2
 浦上一番崩れ   寛政2年、浦上村の庄屋・高谷永左右衛門が自分が信仰していた円福時に88体の石仏を寄付することを決めて、村人に寄進を迫ったところ、多くの人々から拒絶された。これに激怒した庄屋が反対派の村人19名をキリシタンとして告発。しかし、証拠不十分の上、等の庄屋による不正事件が発覚したため、自体は複雑化した。最終的には1795(寛政7)年に村人は放免され、彼らが円福時の本寺にあたる延命寺に詫びの一札を入れることで事態の収拾となった。なお、庄屋の永左右衛門の子孫は明治維新後に没落し、その屋敷地は浦上四番崩れ(浦上教徒事件)で迫害後に帰還を許された浦上キリシタンたちによって買い取られて浦上天主堂のもととなった。
 
 1797年
 寛政9
 潜伏切支丹五島へ移住   長崎彼杵半島の潜伏キリシタン三千余名、信仰の自由を求めて五島へ移動。   
 1823年
 文政6
 シーボルト来日   シーボルト、長崎に来る。(翌年診療所と塾を開く)   
 1825年
 文政8
 異国船打払令   江戸幕府が発した外国船追放令。   
 1839年
 天保10
 浦上二番崩れ




 蛮社の獄 
 天保10年、浦上村の住民がキリシタンであるとの密告により、帳方(隠れキリシタンの組織の指導者)利五郎ら主だった幹部が摘発された。しかし、捉えられた者は誰一人として自分たちがキリシタンであることを認めず、長崎奉行書の役人である益田土之助も事態を大きくしないように進言したため、捕らえられた者は注意を受けたのみで釈放された。

幕府、渡辺崋山、高野長英らを捕らえる。
 
 
 1841年
 天保12
 天保の改革   八代将軍吉宗にによる天保の改革。   
 1844年
 弘化元
 テオドール・フォルカード来日   カトリック教会のローマ教皇庁は、鎖国期を通じて日本への再宣教の方策を模索していたが、19世紀半ばには日本に開国の兆しありと見て、フランスに本部を置くパリ外国宣教会 (Missions Étrangères de Paris; M.E.P.) に日本への宣教師派遣を依頼した。こうして1844年にテオドール・フォルカード (Théodore-Augustin Forcade) 神父(司祭)が那覇に派遣され、2年滞在して日本への渡航許可を再三求めたが、果たせず1846年に帰国した。しかし、同年にフォルカードを初代教区長として日本使徒座代理区が設立され、その後1855年からユジェンヌ・エマニュエル・メルメ・カション (Eugène-Emmanuel Mermet-Cachon)、プリュダンス・セラファン=バルテルミ・ジラール (Prudence Séraphin-Barthélemy Girard)、ルイ・テオドル・フューレ (Louis-Théodore Furet) の3人の司祭が那覇に赴任して日本語を学んでいたが、1858年に日仏修好通商条約が結ばれたことで、日本入国が可能になった。メルメ・カションは函館に赴き、ジラールは江戸を経て横浜に拠点を構えた。ジラールは1862年、横浜に開国以来最初のカトリック教会となる聖心教会(その後移転し、現在の山手教会)を建てた。このころ、ヨーロッパのカトリック教会の強い関心が日本に寄せられていた証左として、1862年に「日本二十六聖人」の列聖が行われたことがあげられる。 だが、明治政府の予想に反して、キリスト教禁止と信徒への弾圧は諸外国の激しい抗議と反発を引き起こした。岩倉使節団が欧米諸国を視察した際、キリスト教の解禁が条約改正の条件であるとされ、1873年(明治6年)にキリスト教禁止令は解かれた。
 
 1846年
 弘化3
  ベッテルハイム来日  英国海軍琉球伝道会宣教師ベッテルハイム、那覇に上陸。   
 1853年
 弘化3
 ペリー来航   七月、米使節ペリー、艦隊を率いて浦賀に来航。   
 1854年
 安政元
 日米和親条約締結   幕府は米国に領事裁判権、関税自主決定権を認める。   
 1856年
 安政3
 浦上三番崩れ   安政3年、浦上村のキリシタンに関する密告があり、密告者の中に棄教した「転び者」が含まれていたことから、この年の9月18日に帳方吉蔵らキリシタン15人が捕縛された。過去の一番崩れがもっぱら訴えた庄屋の不正問題に話が移り、続く二番崩れでは内部の慎重論もあって「証拠不十分」による関係者の釈放の形で終わったのに対して、三番崩れでは「転び者」による告発であったことから、取り調べは大規模かつ徹底的に行われ、吉蔵以下役職にあった幹部のほとんどが獄死もしくは拷問によって殺害され、浦上のキリシタン組織は壊滅状態に陥った。しかし、長崎奉行はこの件を村人は先祖代々の教えを禁じられたキリシタンの教えとは知らなかったことによって生じた「異宗事件」として処理し、キリシタンの存在を公式には認めなかった。(長崎県立図書館蔵「異宗一件(事件)」帳簿) 
 
 1858年
 安政5
 安政の大獄   大老井伊直弼による攘夷派の処罰。吉田松陰、橋本左内らが処刑される。   
 1860年
 万延元
 プティジャン、那覇に到着
 桜田門外の変

 大老井伊直弼、暗殺される。
  
 
 1863年
 文久3
 プティジャン、横浜から長崎へ     
 1864年
 文久4


1865年
 文久5
 大浦天主落成


 長崎浦上の潜伏キリシタン発見 
 1864年になってフューレは長崎に土地を購入、後から加わったベルナール・プティジャン (Bernard-Thadée Petitjean) 神父(後に司教)と共に1865年に教会堂を建てた。これが大浦天主堂である。一か月後、教会を訪れた婦人たちが自分たちは禁教下で信仰を守り続けた潜伏信徒(隠れキリシタン)であることを告白、神父は驚愕した。これを「長崎の信徒発見」という。信仰を表明した信徒の多くはカトリック教会に復帰して司祭の指導を受けるようになった。しかし、彼らは同時に寺請制度を拒否したために長崎奉行所が迫害に乗り出し(浦上四番崩れ)、1867年に成立した明治新政府も慶応4年3月15日(1868年4月7日)に五榜の掲示という高札を掲示してキリスト教禁教を継続したため、信徒への拷問や流刑などが行われた。明治政府が刑事罰を与えたキリスト教徒はカトリックに留まらず、他の地方でも東北で正教会への日本人改宗者が投獄されるなど、キリスト教弾圧が全国的に行われた。
 
 


 1867年
 慶応3
 浦上四番崩れ(浦上教徒弾圧事件)







 徳川慶喜、将軍となる 
 慶応3年、隠れキリシタンとして信仰を守り続けてきた浦上村の村民たちがキリスト教信仰を表明し、寺請制度を拒否して自葬することに端を発した事件。江戸幕府はキリシタンたちを大量に捕縛・拷問。その後、江戸幕府のキリスト教禁止政策を引き継いだ明治政府は浦上キリシタン3394人を総流罪・信仰弾圧を強行した。信徒の中心人物114名は津和野、萩、福山へ移送され、数多くの拷問・私刑を加え続けさせられた。しかし、この事件は外交問題にまで発展したため、明治政府は禁制の高札撤去(1873年)せざるを得なくなり、浦上のキリシタンたちは帰村が許されることとなった。

 徳川慶喜、徳川幕府15代将軍となる。
 
 
 1868年
 慶応4
 五榜の掲示   慶応4年3月15日(1868年4月7日)に、太政官が立てた五つの高札である。太政官(明治政府)が民衆に対して出した最初の禁止令である新政府の当初の暫定的な姿勢を表明したものとして、6年も経たないうちに全て消え去る事となった。第一札から第三札、即ち、第一札による五倫(君臣の義、父子の親、夫婦の別、長幼の序、朋友の信。端的には天皇や家父長に対する忠孝)や憐れみの推奨および悪業の禁止、第二札による徒党・強訴・逃散(集団で謀議を計ること)の禁止、第三札による切支丹・邪宗門の禁止は、いずれも徳川幕府の統制や弾圧をそのまま踏襲したものである。第四札は、明治新政府独自の万国公法の履行と外国人殺傷の禁である。第五札は、古代律令制の復活を彷彿とさせる脱籍浮浪化に対する禁であり、これも明治政府的なものである。 第一札から第三札によって江戸幕府の統制や弾圧を継承はしていたものの、その一方で、同時に旧幕府時代の高札の廃棄も命じているところから、「五榜の掲示」は新政府の権威を象徴する性格を有していた。このため、新政府に敵対していた奥羽越列藩同盟の各藩では、五榜の掲示はそもそも立てられていないか、あるいは、新政府との開戦と同時に破棄された模様である。 「五榜の掲示」のうち、第三札(切支丹邪宗門の禁制)については、掲示からわずか48日後の慶應4年閏4月4日(1868年5月25日)、明治四年太政官布告第279号「切支丹宗門及ヒ邪宗門禁止ノ制札ヲ改ム」により、当初「切支丹邪宗門」と一括りで表現されていた文言を「切支丹宗門」と「邪宗門」とに分け、別条にし、更に密告褒賞を削除するという変更を諸藩に加えさせている。 
 1871年
 明治4
 岩倉使節団   明治維新期の明治4年11月12日(1871年12月23日)から明治6年(1873年)9月13日まで、日本からアメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された使節団である。岩倉具視をリーダーとし、政府首脳陣や留学生を含む総勢107名で構成された。 その目的は、条約を結んでいる各国を訪問し、元首に国書を提出する。江戸時代後期に諸外国と結ばれた不平等条約の改正(条約改正)のための予備交渉。そして、西洋文明の調査であった。だが、日本は法制度が整っていないことやキリシタン迫害、キリスト教禁教の継続などを理由に不成功に終わった。 
 
 1873年
 明治6
 キリスト教の公認(黙認)     幕末に欧米各国と結ばれた不平等条約を解消するために、岩倉使節団が派遣されたが、キリスト教徒を迫害する国とは交渉できないとのことから、岩倉はキリスト禁教令を解くようにと政府に打信。これにより、明治6年に日本全土のキリスト教禁制の高札が取り除かれ、1614(慶長19)年以来259年ぶりに日本でキリスト教が公認(黙認)されるようになった。 
 
 1889年
 明治22
 大日本帝国憲法   1889年(明治22年)2月11日に公布、1890年(明治23年)11月29日に施行された日本の憲法。
 信教の自由を保障する規定である。1868年に出た五榜の掲示では、キリスト教を禁止していた。しかし、1873年に廃止され、キリスト教は解禁されていた。天賦人権説を否定する立場から起草されていることは草案作成者井上毅とヘルマン・ロエスレルとの間の往還書類で判明しており、政府が宗教の論争から自由であること、宗派の分裂が政治の分裂を招くことから政府は宗教を統一するよう介入すべきで正教と謬教に同等の権利を与えてはいけない、という趣旨が含まれ、条文の表現はあえて曖昧に記述されている。一方で国家神道との関わりについては日中戦争以降の国家ファシズム期のように、国民および官吏に対する参拝の義務といった論理(解釈)は確定して含まれていたわけでは無かった。

 
 
 1946年
 昭和21
 日本国憲法にて信教の自由規定   日本国憲法第三章二十条「信教の自由は何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も国から特権を受け又は、政治上の権力を行使してはならない。