![]()
|
||||||||||||||
ミサ(Missa)とは 1.ミサ(Missa)の語源 ミサの語源は、はっきりとしていませんが、ミサという名称は、ミサ最後のラテン語の言葉「Ite, missa est.」(ite = 行きなさい、missa est = 派遣である)というフレーズの中の語に由来し、ラテン語の「派遣」を意味する missio(ミッシオ)に由来すると言われいます。 聖体祭儀・感謝の祭儀である「エウカリスチア」は、古くは「パンを割く式」などと呼ばれていましたが、4,5世紀くらいからMissa(ミサ)という名称で呼ばれるようになりました。それは、その頃から上述のように、ミサの最後の派遣の言葉となった「Ite Missa est(イーテ、ミッサ エスト)」これは、「あなたがたは行きなさい」「終わりです」ないしは「派遣されました」の意味で、この言葉に由来するとされています。 ミサとは使徒たちの時代から、キリスト者にとって何時も礼拝の中心的行為でした。ミサは、イエスが弟子たちに「私の記念としてこれをおこないなさい。」(マタ26・26-30、マコ14・22-26、ルカ22・14-23)と命じられた主の晩餐(最後の晩餐)で、ご自身が制定なさった聖体祭儀(エウカリスチア)に他なりません。 2.ミサとは何か 聖体祭儀の典礼は、わたしたちの主イエス・キリストの贖いの神秘ですから、ミサを簡単に説明することは、大変難しいものです。しかし、イエスの死と復活の救いの神秘は、聖体祭儀の恵みのうちに、凝縮されているといっていいでしょうから、聖体祭儀の4つの側面をあげて、それぞれ簡単に説明しておきます。 (1) 十字架上で献げられたキリストのいけにえ、愛の祈念である聖体祭儀 ①神の愛の祈念、いけにえであるミサ 聖体祭儀(エウカリスチア)は、しばしば「聖なるミサのいけにえ」と呼ばれます。しかし、カトリック教会は「ミサとは、単に十字架上のイエスの死を思い出させるものではなく、あるいはそれを象徴しているものではない」と教えます。ミサは、秘跡的にカルワリオ(ゴルゴタ)の丘でささげられたキリストの贖いのいけにえをその中で現存させるがゆえに、その救いの力がより十全にわたしたちの生に働くものなのです。」 注)いけにえは、当然、罪のあがないという意味合いを持ちます。神の民は、神のご意志に反する罪に陥ったとき、自分にとって自らの命の代わりとなる最も貴重なものをいけにえとして神にささげて全幅の信頼のうちに神との和解を果たし、再び神の与えた掟に適った生き方、祝福(benedictio、字義的には是認の意味)のうちに歩み直す恵みを得てきました。もちろん人間がささげられるもののうちで神からいただかないものなどないのですが、御父は愛する御ひとり子さえ惜しまず私たちの罪のあがないのために渡された(ロマ8:32参照)のです。まさに私たち一人ひとりへの愛ゆえに、御父は御子を渡され、御子は愛のうちにご自身を渡されたのです。その意味で私たちは、キリストと共に聖霊の交わりの中で父なる神に自らの生をささげるように招かれているのです。 イエスは、亡くなる前夜、自らの死と復活の記念として、自らの愛の証しとして聖体の秘跡を制定されました。そのように、聖体はわたしたちに対する神の愛の祈念なのです。過ぎ越祭という場面において、イエスはパンとぶどう酒を取り、それぞれをこれから引き渡されるご自分の体、罪の赦しのために渡されるご自分の血であると語られたのです。そして、最後の晩餐の終わりに、イエスはこの食事が典礼的な祈念であると使徒たちに話されました。「わたしの記念としてこれをおこないなさい」と。 ここで指摘すべき大事な点は、イエスが自らの体と血について語ったときに用いられた言い回しには、いかに〈いけにえ)という強い含みがあるかということです。イエスは、自らの体は〈ささげられ〉その血は〈流される)であろうと言われました。後で見ることになりますが、この言い回しは、いけにえとして動物の体がささげられ、またその血が流されたユダヤ人たちのいけにえの儀式を彿彿とさせたことでしょう。したがって、最後の晩餐の席で、イエスがご自分の体と血が、いけにえとなる過越の小羊のようにささげられ 2つ目のポイントは、「記念」というユダヤ的概念です。聖書における記念は、単に過去の出来事を想起するだけでなく、その出来事を現在化するものでもあります。それゆえ、イエスが「わたしの記念としてこれをおこないなさい」と言われたとき、最後の晩餐の席での彼の御体と御血という(いけにえとしてのささげもの)を聖書的な記念として現在よう、イエスは弟子たちに命じておられたのです。事実、イエスが最後の晩餐で語られた御体と御血とは、カルワリオ(ゴルゴタ)の丘でいけにえとなった彼の実際の体と血であり、私たちにとっては、まさにこれがミサの中で現在化しているのです。 教皇ヨハネ・パウロ2世は次のように説明しています。「イエスは、弟子たちが食べ、飲むように与えるのは、自分の体と血であると仰せになっただけではありません。イエスはそれらがいけにえとしての意味を持つことを示され、ご自分のいけにえが秘跡の形で現存するようにされたのです。それから間もなくして、イエスはこのいけにえをすべての人 の救いのために十字架上でささげられたのです。」 同様に『カテキズム』は、「ミサは十字架のいけにえの現在化である」と教えています。聖体祭儀を通して、「十字架上で(イエスが)一度血を流してささげたものが表わされ、その記憶が世の終わりまで続き、その救いの力によつて私たちの犯す罪がゆるされるのです」と記します。 では、キリストが自らの記念としておこなうように弟子たちに指示されたこととは何だつたのでしようか。それは、単に最後の晩餐の出来事を形式的に繰り返すこと、故事を想起するだけの儀式などではありません。そもそもキリストが最後の晩餐で弟子たちに命じられたのは、「私が愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハ13:34)ということでした。まさにそれはイエスの愛の記念としてミサを祝うこと、つまり常にキリストの愛に生かされ、また生きることにほかなりません。言いかえれば、私たちが弟子として、自らの生をキリストの奉献に一致させることによつて、キリストが命をささげられた愛を記憶し、私たちが皆それぞの仕方で実践し伝え続けることなのです。 (2) イエスの真の現存である聖体祭儀 ①イエスの真の現存 聖体祭儀のもう一つの側面は、それがイエスの真の現存に等しいものだということです。前述したように、イエスは様々な形で(貧しい人々のうちに、彼のことばのうちに、諸秘跡のうちに、そして彼の名によつて集められた2人あるいはそれ以上の人たちの祈りのうちに)ご自分を信じる者とともにいて下さいますが、イエスは聖体のうちにこそ、比類のないあり方で現存しておられます。イエス・キリストの御体と御血である聖体のうちに、彼の人性と神性が実体的に現存しているからです。聖体を通して「神であり人である全キリストが現存するようになる」のです。 聖体は、単なるイエスの象徴ではありません。また、キリストは霊的に漠然とパンとぶどう酒のうちに存在しておられるわけでもありません。最後の晩餐のとき、イエスはパンとぶどう酒を取つて言われました。「これはわたしのからだ……これはわたしの血の杯……」と。聖体を単に神聖な象徴あるいはイエスの「形見」と見なす他のキリスト教共同体とは異なり、カトリック教会は、ミサの聖変化において司祭がこれらのイエスのことばを唱えるとき、祭壇上のパンとぶどう酒は真のキリストの御体と御血に変化するということを明確に主張します。 この変化を説明するために「全実体変化(anssubstalltiatio)」という神学用語が用いられますが、それはパンとぶどう酒が聖変化によって、いかにして「パンの全実体が私たちの主キリストの実体となり、ぶどう酒の全実体がその血の実体に変化する」Юのかを説明しています。 しかしながら、この変化はいわゅる化学変化ではありません。外観はまったく感覚的に捉えられるパンとぶどう酒の形色そのままです。ホスチアは依然としてその見かけがパンのようであり、味もパンのようで、感触もパンのままです。そして、カリス(聖杯)の中には、あらゆる感覚において普通のぶどう酒と思われるものが入っています。パンとぶどう酒の化学構造は全く変わっていません。しかし、これらの形色をもった聖体のうちに、私たちのために命をささげ復活されたイエスの御体と御血が現実に存在しているのです。 イエスご自身、聖体に関して教えられた際に、いかにして私たちが彼の御体と御血にあずかるのかを教えるために、深い現実味のあることば遣いをされました。イエスは、最後の晩餐の席で、パンとぶどう酒がご自身の体と血である(「これはわたしの体……これはわたしの血……」)と話されたのですが、それだけでなく、聖体についての非常に広範な教えを述べられたときには、実際に彼の肉を食べ、その血を飲まなければならないということも語られたのです。 聖体祭儀の中でイエスのまことの体(肉)を食べ、まことの血を飲む行為がいかに重要なことであるか、イエスは次のように教えられました。「よくよく言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたがたのうちに命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、わたしのうちにとどまり、わたしもまたその人のうちにとどまる」(ヨハ6:53-56)と。 初期キリスト教神学者であったエルサレムのキュリロス(チリロ)は、聖体がまことにご自身の体と血であると言われたイエスのことばを信じるよう、キリスト信者を鼓舞しました。「パンとぶどう酒を単にそのままの素材として理解してはいけません。というのも、主がそれらをご自身の体であり血であるとはっきりと言われたからです。感覚からするとそうではないかもしれませんが、信仰がこのことを保証してくれます」。 ②来たれ、来たれ、インマヌエル イエスの聖書的呼称の一つに「インマヌエル」がありります。これは「神は私たちとともにおられる」(イザ7:14、マタ1:23)という意味です。イエスは神の御ひとり子であり、人となり(受肉し)、私たちのうちに住んでおられます。イエスは、私たちのそばに留まることを望まれたがゆえに、彼が聖体のうちに秘跡的な仕方で現存するという賜物を私たちに与えて下さいました。こうしてイエスは、世界中でミサが執りおこなわれるたびに、またあらゆるミサの中で、インマヌエル(神は私たちとともにおられる方)であり続けます。この賜物を当たり前のように考えてはなりません。森羅万象の中で最も驚くべき出来事が、ミサがささげられるたびごとに起こっているのです。つまり、神の御ひとり子ご自身が祭壇の上においでになり、私たちのただ中に留まって下さるのだということです。信じる者にとって、ミサはキリストとの出会いそのものであり、聖霊の交わりにおける御父との円居の実現なのです。 しかし、私たちとともに留まりたいという神の望みは、そこで終わるものではありません。イエスの現存は、ミサ以外のときでさえも、神聖な形色が存続する限り、聖体の形色のうちに留まり続けます。こういうわけで、カトリック教会ではことごとく、聖体は聖櫃(tabemaculimi 幕屋をも意味する語)と呼ばれる神聖な場所に保存されなければなりません。私たちは、聖櫃のうちにおられる私たちの主をあがめる表現として、片膝をつくことによって、あるいは他の何らかの聖なるしぐさによって(日本では深くお辞儀をして)、聖体の中のキリストの現存をあがめます。 また私たちは、 ミサ以外のときに教会や聖体礼拝堂で聖体のうちにおられるイエスとともに時間を過ごすよう努めるべきです。聖体において現存されるキリストとの親密さは、私たちの魂に大きな力と慰めをもたらしてくれるはずです。聖アルフォンソ・リゴリは、これがいかに私たちにできる最も重要な信仰実践の一つであるかを説いています。「あらゆる信心の中で、いとも聖なる秘跡(聖体)のうちにおられるイエスを礼拝する信心は、他の諸秘跡とは比べようもないものです。それこそ父なる神にとっては唯一最も愛すべき存在、私たちにとっては唯一最も助けとなる方だからです」。教皇ヨハネ・パウロ2世は、「私たちが聖体における主の現存のうちに憩うとき、あたかも私たちは、最後の晩餐のときにイエスの胸に寄り添った最愛の弟子のようになるのだ」と教えました。 世界中のあらゆる聖櫃の中で、イエスはインマヌエル、すなわち「神は私たちとともにおられる」その方であり続けます。いとも聖なる秘跡(聖体)のうちに、パレスチナ中の通りを廻り歩き、病める者を癒し、人々に悔い改めを呼びかけ、彼らに罪のゆるしを与えられたあのイエスと私たちは出会うのです。そして聖体のうちにおられるイエスは、癒しのわざ、ゆるしのわざ、全世界のあがないのわざを続けておられるのです。まさに今、イエスは聖体という秘跡のうちに私たちに会いに来て下さいます。イエスは、私たちがご自身に近づくことを望まれ、ご自身がまさに2000年前に神の民のためになさったのと同じように、私たちの生活の中で大いなるわざを今もおこないたいと思っておられるのです。 しかし、そのためには、私たちがイエスに向かって行かなくてはなりません。そして、心から彼を信じなくてはなりません。教皇ヨハネ・パウロ2世は、イエスが私たちに聖体のうちに現存なさるご自身を訪れてほしいといかに強く願っておられるかを特筆しています。「イエスは、この愛の秘跡のうちに私たちを待っています。私たちは、信仰にあふれた礼拝と観想において、イエスに出会うために時間を惜しんではなりません。……私たちのこの礼拝が、決して途絶えることがありませんように。」 (3) わたしたちの聖なる主との交わり、新しい契約である聖体祭儀。 ①聖なる主との交わり、新しい契約 新約聖書は、イエスが私たちの罪のためにカルワリオ(ゴルゴタ)の丘でいけにえとなつた過越の小羊だと啓示しています(1コリ5:7-8:1、ペト1:19;黙5:6参照)。しかしながら、ユダヤ教の他のいけにえの儀式と同様に過越祭において動物を殺すだけでは不十分でした。いけにえにささげられた小羊を食べることは、過越祭の祝いの不可欠な構成要素でした(出12:8-12参照)。いけにえをささげた後に、共同体の食事(会食)が続きました。それは、契約を締結したことを表わし、その参与者たちと神との間の交わり(communiO)を作り上げる分かち合いの食事でした。 このことには、聖体祭儀を交わり、一致として理解する上で重要な意味が含まれています。イエスが私たちの罪のためにいけにえとしてささげられた新しい過越の小羊であるなら、十字架上の彼のいけにえに交わりの食事が伴うであろうことは自然な成り行きのように思われます。つまりそれは、私たちが神のまことのいけにえの小羊、イエス・キリストをいただく食事のことです。そのことを聖書的な観点から見れば、イエスがいけにえとなられたがゆえに、そこに交わりの食事があると言つてもよいのかもしれません。これは、いけにえと交わりという、聖書に典型的な組み合わせの帰結と言えるでしょう。パウロは、コリントの信徒への第一の手紙の中で、こうしたユダヤ的ないけにえとの交わりの観念を反映した見方に私たちを導いています。彼は、次のように教えました。「キリストは、私たちの過越の小羊として屠られたのです。だから……祭りを祝おうではありませんか」(1コリ5:7-8)と。 キリストのいけにえが、過越祭の食事のうちにその頂点を見出すものとして理解されているかに注目して下さい。その後の箇所で、パウロは、過越祭の食事をいかなるものと考えているのか明らかにしています。すなわち、それこそが聖体祭儀なのです。パウロは、同書11章で最後の晩餐のときに聖体を制定されたイエスのことを語っており、10章ではキリストの御体を食べ御血を飲むことによって築きあげられる深い一致について述べています。「私たちが祝福する祝福の杯は、キリストの血との交わり(communio)ではありませんか。私たちが裂くパンは、キリストの体との交わり(communio)ではありませんか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。(それは、私たち)皆が一つのパンにあずかるからです」(1コリ10:16-17)。こうして私たちは愛のうちに神と人々と一つになるのです。 カトリック教会が聖体拝領を聖体礼拝の頂点と捉えてきたことは、『カテキズム』が教えているとおり少しも不思議ではありません。「感謝のいけにえの祭儀は、聖体拝領(communio)|こよるキリストと信者たちとの親密な一致に向けられたものです。聖体拝領とは、私たちのために命をささげられたキリストご自身をいただくことです」。 実際に、聖体拝領は、私たちが神とともに持つことのできるこの世での最も深い永続的な一致です。キリストは、ミサのときには私たちの祭壇の上に秘跡的に来て下さり、ミサ以外の時には聖櫃の中で私たちのために常に現存しておられます。このことは、実に長怖の念を駆り立てますしかし、私たちと一致したいという主の望みは、それをはるかに越えるものです。私たちが聖体を拝領するとき、私たちの主は私たちの体の中に入られ、そのような最も親密な一致のうちに私たちの魂と交わって下さいます。 主が聖体拝領の後に私たちのうちにお住まいになるときこそ、私たちの最大の注意を彼に注ぐべき時です。私たちは、教会の自分の席に戻ってから、主に私たちの心を注ぎ出すべきです。それは、主を愛し、主に感謝し、心からの望みと願いとを主と分かち合うことだからです。聖体拝領後のこの瞬間に、私たちは、9カ月の間、自らの胎に神であり人である方を宿したマリアのようになるのです。これは何と言う神秘でしょうか、マリアをお造りになった方、彼女を救う方が、彼女の胎に宿られたとは!さらに、私たちが主の御体と御血をいただくとき、程度の差こそあれ、マリアに起こったことが私たちのうちにもこの秘跡によつて起こるのです。“私たちは、神であり人である方の現存を宿す、生ける聖櫃となります。他の信者の服装をうかがって周囲を見回したり、その日の午後遅くにおこなわれるフットボールの試合のことを考えたり、教会の駐車場からいち早く自分の車を出す対策を思い巡らしたりしている場合ではありません。聖体拝領後のひとときは、私たちのうちに住まうために、深い愛をもって来て下さつた私たちの主とともに憩うべき時なのです。 ところで、キリストがご自身をいけにえとしてささげられた新しい過越の契約の中身とは何だつたのでしようか?それは旧約に示された神と民との契約、救いの約束をある意味で集約し完成させるものです。最後の晩餐において主は、ご自分が私たちを愛しているように私たちも互いに愛し合うように、ご自身の愛にとどまるように、と命じられました(ヨハ15:12,15:9-10参照)。それは、私たちが主の愛に生きることこそが、私たちにとって主と一致するため、永遠の命に達するため、そして世の救いのための要だからです。この契約を履行するために、すなわち私たちが主と同じ愛に生きることができるために、私たちはまず愛そのものである主と出会い、一つに結ばれる経験を必要としています。私たちは、主が残されたこの愛の記念を、自らを神と隣人にささげることで終わりの日まで実践し続けるよう招かれているのです。 定期的に聖体を拝領することは、私たちの人生にすばらしい影響を与えてくれるはずです。聖体をいただくことによって、私たちは、自分の弱さと罪に打ち勝ち、自らが信仰者として決意する召命に導かれ、試練や苦しみに遭うときに支えられ、また私たちが聖性のうちに成長できるように助けていただけるはずです。 まさに私たちは、聖体となられたキリストの御体と御血によって養われ、私たちのうちに住まわれるキリストの命、神の愛によって徐々に変えられていきます。現代風の言い方をすれば、ある意味で、私たちは自らが食べているものになるのです。そのことは、かつて教皇レオ1世が主張したとおりです。「私たちがキリストの体を食べ、その血を飲む目的は、私たちが食べて飲むものに変化することです。また私たちはすでにキリストにおいて死に、葬られ、復活したのですが、それは常にキリストを私たちの霊と肉のうちにまとうことに他なりません。 (4) キリストによる派遣 聖体祭儀は、古くは「パンを割く式」などと呼ばれていましたが、4,5世紀くらいからMissa(ミサ)という名称で呼ばれるようになりました。それは、その頃からミサの最後の派遣のことばとなったIte, Missa est(イーテ、ミッサ エスト)に由来すると言われています。これは「あなたがたは行きなさい」「終わりですJないし「派遣されました」とも訳せます。まさにミサはキリストによる派遣(missio)と繋がっているのです。 復活されたイエスは、使徒たちに「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハ20:21)と語られました。御父は、私たちを罪から解放し、永遠の命にあずからせるために、御子を世にお遣わしになりました。私たちは、聖体祭儀によつてキリストに深く結ばれて、この世界へと派遣されていきます。それは神の救いの神秘を世界にもたらすために、主がご自分の民を派遣するということを意味しています。ミサでの体験を通して、私たちはまさに「地の果てまで、私の証人となる」(使1:8)というみことばをこの世において生きる者となるのです。この世において神の愛の神秘を「証する者」(=殉教者)として生きることこそが、私たちがミサを祝う目的なのです。 教皇フランシスコは、2019年10月を「福音宣教のための特別月間」とすることを定められました。Юそれは、教皇ベネデイクト15世の使徒的書簡『マキシムム・イルド』20公布100周年を記念して、教皇が全教会に向けて福音宣教のための特別な期間とするように呼びかけてのことでした。かつて教皇ベネデイクト15世は、「諸国民への宣教」(Missio ad Gentes)をスローガンにして、一度は死んで復活したキリストによる救いを第一次大戦後の苦しみに喘いでいる全世界の人々に伝えようとしたのです。 こうした呼びかけに応えて、日本の司教団も福音宣教に創造性をもつて取り組んでいくことを表明しました。その中の一つで、福音宣教の第一の動機は、そもそも私たちがイエスから愛を受けているからだとして、その愛を受け救いの喜びに生かされるために「秘跡、特にミサにおけるイエスとの人格的な出会いの恵み」を大事にするよう、司教団は勧めました。イエスの愛を知り、それに生かされている者は、その喜びを自分の内奥だけに留め置くことはできません。おのずと外へ広がり、誰にでも知らせ伝えたいという衝動に駆られるものです(1コリ9:16) (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
3.ミサの式次第とその意味 開祭 1 入祭の歌 会衆は集まると入祭の歌を歌う。その間に司祭は奉仕者とともに祭壇に行き、礼をする。それから座席へ行き、会衆に向かって立つ。 2 あいさつ 入祭の歌が終わると、司祭は会衆とともに十字架のしるしをする。 聖書的な観点からすると、「主があなたがたとともに(おられますように)」(Dominus vobiscum)は、単なる普通の挨拶などではありません。これは、司祭が「みなさん、おはようございます」と言い、信者たちが「おはようございます、神父さま……」と返す世間一般のやりとりとはまったく次元の異なるものです。仮に、私たちがこれらのことばの聖書的な背景を本当に理解しているなら、よリー層畏敬の念をもって私たちは典礼に臨めるかもしれません。 基本的な次元において、このことばはイエスのみ名において集う信者の共同体にイエスがともにいて下さる現実を伝えています。というのも、イエス自身が「二人または三人が私の名によつて集まるところには、私もその中にいる」(マタ18:20)と仰ったからです。 この典礼的挨拶は、私たちが受けた洗礼によって私たちの魂のうちに住まわれる神の命の深遠な現実をも表現しています。このことばによって、司祭は、私たちが受けた神の命が私たちの中で成長し続けるようにと祈っているのです。 司祭 父と子と聖霊のみ名によつて。 注)ローマミサ典礼書第3版 In nomine Patris, et Filii, et Spiritus Sancti 父と子と聖霊のみ名において ラテン語原文はin nomine.…でありpcr(~によって、~を通して)ではありません。これは厳密には三位の神のみ名の「うちに」、あるいはみ名の「中で」、み名「において」という意味です。この意味において、十字架のしるしに伴うことば「父と子と聖霊のみ名において」は、私たちが、三位の神の力のうちに、神の支配の中で、あるいは神の保護の下で、神に結ばれて祈るということを示していると言えるでしよう。 注) 十字架のしるし 「私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。すなわちユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです。」(1コリ1:23-24) ローマ時代、十字架は重罪人、特に政治的犯罪人や人民を惑わす動乱を企てた者たちを処刑するための、もっとも忌み嫌われた処刑方法でした。それゆえ当時は、十字架のしるしを今日のようにファッションとして身に着けることなど考えられないことでした。しかし、キリスト信者にとつて十字架のしるしは、パウロが言うとおり、神の力、神の知恵であるキリストを象徴的に表わすじるしです。 キリストは十字架上で死ぬことによって、私たちのあがない(罪の支配からの解放)、私たちに対する限りない愛のしるしとなられました。ですから十字架は、私たちを死から永遠の命へと復活させる大いなる恵みの表現でもあるのです。それは父なる神が、人類を御ひとり子によって救うことを望まれ、彼のあわれみといつくしみを御子の死によって私たちに示されたからです。 また十字架は、神と私たちの間に、さらには私たちの間にあったあらゆる敵意を取り除いて、真の平和をもたらす和解のしるし(コロ1:20、エフェ2:16)にもなりました。それゆえキリストを信じる者は、パウロが「私たちには、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかに、誇るものが決してあつてはなりません」(ガラ6:14)と言っているように、人類をあらゆる悪の力から解放して真の平和に導いて下さつたキリストの十字架だけを誇ります。 こうしてキリストが弟子たちに命じているとおり、信じる者は自ら十字架を担うことを大きな誇りとして、イエスの後に従うことができるのです(マタ10:38)。 それゆえ典礼における十字架のしるしは、単に祈りを始める所作ではありません。実に十字架それ自体が、信仰を表わす根本的なしるしであり、証であり、また力強い祈りであつて、私たちの生活に計り知れない恵みを注いでくれるものなのです。十字を切る(十字架のしるしをする)ときはいつでも、ミサの時であっても、個人の信心業であっても、このしるしをするたびに神の力と加護が与えられると理解されていたキリスト教の初期時代にまで遡る一つの聖なる慣習に、私たちは参与しているのです。 このしるしをしながら、私たちは神の現存を祈り求め、また私たちを祝福し、助け、そしてあらゆる災いから守っていただくために神を招きます。初期キリスト信者たちは、頻繁に十字架のしるしをしながら、その十字架のうちに秘められた力を引き出したいと望んでいたと言つても何ら驚くべきことではありません。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 会衆 アーメン。 注) 「アーメン」はヘブライ語。(ヘブライ語:אָמֵן(ティベリア式発音: āmēn アーメーン、現代音: amen アメン); アラビア語:آمين(āmīn アーミーン); ギリシア語: ἀμήν (古典音: amḗn アメーン、コイネーおよび現代ギリシア語: amín アミン); ラテン語: āmēn アーメーン; ロシア語: Аминь アミン)はヘブライ語で、「本当に」「まことにそうです」「然り」「そうありますように」の意。アブラハムの宗教で使われる用語である。 古代ユダヤ教会では、ラビが聖書の一句を読み、続けて会衆が復唱することで、聖書(丸暗記)教育を施した。しかし、会衆は次第に復唱を省略し「アーメーン!(そのとおり!)」とだけ言うようになった。これがユダヤ教から派生したキリスト教にそのまま受け継がれ、神父が祈りの言葉を言った後に会衆がアーメンと言うようになった。キリスト教において一般に祈りや賛美歌の終わりに置く言葉として使われている。 聖書においては3つの用法が見られる。 1.文頭のアーメン。 他の話者の過去のことばを参照するとき。(列王記上1:36、ヨハネの黙示録22:20。) 2.独立したアーメン。文章が省略されている補足的な文、例えばネヘミヤ記5:13、ヨハネの黙示録5:14(参照: コリント人への第一の手紙14:16)。 3.文尾のアーメン。話者に変化がない。詩篇の最初の3巻におけるような「同意」の意味や、新約聖書の使徒書簡に頻繁に現れる頌栄などに、現れる。 福音書におけるアーメン(「本当に」の意味)の用法は独特である。イエスのこの語を日本語の聖書では、「誠に汝らに告ぐ」(大正改訳)「よく言っておく」(口語訳)「はっきり言っておく」(新共同訳)「まことに」(新改訳)と訳されるもので、それらは文頭にあるけれども、しばしばいかなる過去への参照も持たない。イエスは、別の人の発言ではなく彼自身の発言を断定するためにこの言葉を用いた。この用法は教会が採用した。使徒の時代のこの言葉の礼拝における用法は上で引用されたコリント人への第一の手紙によって証明される。 殉教者聖ユスティノス(150年ごろ)は、会衆が聖餐のお祝いの後の祝福に「アーメン」と答えることと記述した。洗礼式文への導入(正教会一般、日本の正教会でも三位一体の各位の名前の後で「アミン」という)は、教父の時代には既に行なわれていたと考えられる。 注)司祭と会衆は。次のいずれかの言葉で互いに挨拶を交わす。 司祭 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。 (司祭 主イエス・キリストによって、神である父からの恵みと平和が皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。) (司祭 主は皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。) 注)ローマミサ典礼書第3版 Dominus Vobiscum Et cum spiritu tuo 主があなたがたとともに。また、あなたの霊とともに。
3 回心 注)あいさつの後、司祭はその日のミサを簡単に説明することができる。続いて回心の祈りが行われる。司祭はまず次のようなことばで会衆を回心に招く。 司祭 皆さん、神聖な祭りを祝う前に、わたしたちの犯した罪を認めましょう。 (司祭 皆さん、わたしたちの罪を思い、感謝の祭儀を祝う前に心を改めましょう。) 注)会衆はしばらく沈黙のうちに反省し、続いて手を合わせ、頭を下げて告白する。 第一形式 司祭 全能の神と、 会衆 兄弟の皆さんに告白します。わたしは、思い、ことば、行い、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈って下さい。 注)ローマミサ典礼書第3版 回心の祈り Confiteor「私は告自します…」 Conitcor Dco omnipotenti, et vobis fratrcs, 私は告白します。全能の神と、兄弟であるあなたがたに。 quia peccavi nimis cogitatione, verbo,opere et omissione: 私は、思い、ことば、おこない、怠りにおいて、何度も罪を犯したからです。 mea culpa, mea culpa, mea maxirna culpa. 私の過ちによって、私の過ちによって、 私の大いなる過ちによって。 Ideo precor beatam Mariam semper Virginem, それゆえ私は、幸いなる終生おとめマリア、 omnes Angelos et Sanctos, et vos, fratres, すべての天使と聖人、そして兄弟であるあなたがたにお願いします。 orare pro me ad Dominum Deum nostrum. 私のために、私たちの主なる神に祈って下さるようにと。 第二形式 司祭 神よ、 会衆 罪深いわたしたちをあわれみ、いつくしみを示し、救いをお与えください。 続いて司祭は罪の赦しを宣言する。 司祭 全能の神がわたしたちをあわれみ、罪をゆるし、永遠のいのちに導いてくださいま すように。 第三形式 先唱 打ち砕かれた心をいやために遣わされた主よ、あわれみたまえ。 会衆 主よ、あわれみたまえ。 先唱 罪びとを裁くために来こられたキリスト、あわれみたまえ。 会衆 キリスト、あわれみたまえ。 先唱 父の右の座にあってわたしたちのためにとりなしてくださる主よ、あわれみたまえ。 会衆 主よ、あわれみたまえ。 続いて司祭は罪の赦しを宣言する。 会衆 アーメン。 4 あわれみの賛歌(Kyrie キリエ 「主よ、あわれんで下さい」) 主よ、あわれみたまえ。 主よ、あわれみたまえ。 キリスト、あわれみたまえ。 キリスト、あわれみたまえ。 主よ、あわれみたまえ。 主よ、あわれみたまえ。 注)ローマミサ典礼書第3版 Kyrie, eleison. 主よ、あわれんで下さい。 -Kyrie, eleison. 主よ、あわれんで下さい。 Christe,eleison. キリスト、あわれんで下さい。 -Christe,eleison. キリスト、あわれんで下さい。 Kyrie, eleison. 主よ、あわれんで下さい。 -Kyrie, eleison. 主よ、あわれんで下さい。 5 栄光の賛歌(Gloria グローリア 「主に栄光」) 待降節と四旬節以外の主日、およびすべての祭日と祝日、また特に盛大な祭儀の時に歌う。 司祭、先唱者あるいは会衆の半分が歌い出し、 一同が二つに分かれて交互に歌うこともできる。 天のいと高きところには神に栄光、 地には善意の人に平和あれ。 われら主をほめ、主をたたえ、 主を拝み、主をあがめ、 主の大いなる栄光のゆえに感謝し奉る。 神なる主、天の王、全能の父なる神よ。 主なる御ひとり子、イエス・キリストよ。 神なる主、神の小羊、父のみ子よ。 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。 世の罪を除きたもう主よ、われらの願いを聞き入れたまえ。 父の右に座したもう主よ、われらをあわれみたまえ。 主のみ聖なり、主のみ王なり、 主のみいと高し、イエス・キリストよ。 聖霊とともに、父なる神の栄光のうちに。 アーメン。 注)ローマミサ典礼書第3版 Gloria in excelsis Deo et in terra pax hominibus bonae voluntatis. いと高きところには、神に栄光がありますように。 そして、地上には善意の人々に平和がありますように。 Laudamus te,benedicimus te, adoramus te, glorificamus te, 私たちはあなたを讃え、あなたを賛美し、あなたを礼拝し、あなたに栄光を帰します。 gratias agimus tibi propter magnam gloriarn tuam, あなたに感謝をささげます。あなたの大いなる栄光ゆえに。 Domine Deus, Rex caelestis, Deus Pater omnipotens. 神なる主、天の王、全能の父である神よ。 Domine Fili unigenite, Iesu Christe, 御ひとり子である主、イエス・キリストよ、 Domine Deus,Agnus Dci, Filius Patris, 神なる主、神の小羊、父のひとり子よ、 qui tolls peccata mundi, miserere nobis; あなたは世の罪を取り除かれる方です。私たちをあわれんで下さい。 qui to1lis peccata mundi, suscipe deprecationenl nostram. あなたは世の罪を取り除かれる方です。私たちの願いを聞き入れて下さい。 Qui sedes ad dexteram Patris, miserere nobis. あなたは父の右に座しておられる方です。私たちをあわれんで下さい。 Quoniam tu solus Sanctus, tu solus Donlinus, あなただけが聖なる方、あなただけが主、 tu solus Altissimus, Iesu Christe, イエス・キリストよ、 あなただけがいと高き方であるがゆえに、 cum Sancto Spiritu: 聖霊とともに、 in gloria Dei Patris. Amen。 父なる神の栄光のうちに。アーメン。 注)「神にあっては、能力と本質、意志と知性、神の正しい意志やその賢明な知性にないことは、知恵と正義はただ一つの同じものなので、神の能力にもありえないのです。」(『カテキズム』271項) Gloriaの次の部分は、ある意味で物語を、すなわちキリストにまつわる話を語っています。Gloriaはキリストの救いのみわざの物語を「彼の到来」から、「あがないの死」へ、「勝利の復活と昇天」へと移行しながら3幕構成に要約しています。 最高の父 私たちは、Gloria(栄光の賛歌)の中で主を「全能者」または「天の王」と呼んで、神が全能なる力をもって天と地を支配する方であるがゆえに神を称えます。さらに、『カテキズム』が説明するとおり、主が全能であることは、父性ということにおいて理解されなくてはなりません。まさにそのことが、Gloria力の中で私たちが実践していることなのです。 私たちは、主を「神なる主、天の王、全能の父である神」と呼びます。ただ単に神の力と神が王であることを口にして、それで終わるわけではありません。さらに続けて、この方を私たちの天の父として、その極みまで賛美するのです。 もし神が単に無限の力をもつ王であるだけなら、自分のやりたいことを何でもおこなって思うがままに自らの権力を行使する独裁者なのではないかという印象を受けかねません。しかし、神は『カテキズム』が称する「父としての全能」56とぃぅ属性をもっておらます。まさに良き父親が愛する子どもたちには最も善いものを望むように、神の力は、つねに私たちのために最も善いものを捜し求め、また私たちすべての必要を備えて下さる愛に満ちたご意志と完全に調和しています。 教会が証する神の全能さとは、全く近づき難い何か神秘的、超越的な力として捉えられるだけでなく、私たちとどこまでも親密であろうとするがゆえに御子において神が人となられ、私たち一人ひとりの苦しみも喜びもともにすることのできるあわれみ深さ、さらに私たちのために死ぬことさえ惜しまぬ愛の完全さとしても理解されるべきでしよう。 私たちの神がいかに善なる方であるかを認めることは、(神は無限の力を持つておられながら、その善性を私たちと分かち合うことを自由に選ばれる愛に満ちた父である)と理解することにほかなりません。私たちはそのような方を礼拝し、感謝と賛美をささげざるを得ないのです。愛する者同士が互いに、様々な機会に「愛しているよ」と繰り返し語り合うように、私たちも神に向かって、「あなたを讃え、あなたを賛美し、あなたを礼拝し、あなたの大いなる栄光ゆえにあなたに感謝します」と言って、私たちの神への愛を表明するのです。 最も興味深いのは、その栄光ゆえに神を称えている最後の一行です。これは純粋な賛美の表現です。つまり、私たちのために神がおこなわれるわざゆえに私たちは神を愛するのではなく、神の栄光ある善性と愛ゆえに、すなわち(神が神であるがゆえに私たちは神を愛している)ということなのです。 Gloriaにおいて、イエスは「御父の子」、「御ひとり子」と呼ばれているのですが、それはイエ神の子であることを指摘する新約聖書の様々な文言に立脚しています(たとえば、ヨハ5:17-18、10:30-38、2コリ1:9、コロ1:13、ヘブ1:1-2を参照)。第四福音書は、「受肉」すなわち神の御子が人となった神秘に私たちの注意を集めていますが、これらの称号は、特にこの福音書の序文にある劇的なひとくだりを反映しています。 ヨハネは、神の永遠の「みことば」、初めから御父とともにおられ創造のわざの起源であつた永遠の「みことば」について美しくも詩的に熟考しながら、自らの福音書を始めています(ヨハ1:1-4)。この熟考の最後で、ヨハネは驚くべきことに、この神の永遠の「みことば」が「肉となり、私たちの間に住まわれた(宿られた)」ことを告げています(ヨハ1:14)。なんと、万物の神である方が実際に肉体すなわち人性をまとわれたのです。キリストの生涯の証人であるヨハネは続けて、神の「みことば」であるイエスのことを「私たちはその方の栄光を見た。それは父の(みもとから来られた)ひとり子としての栄光であって…」(ヨハ1:14の追加強調部分)と言つています。 したがって、私たちがGloriaの中でイエスを「御ひとり子」と呼ぶとき、イエスを単に教師や使者、あるいは神が愛する人物、神から遣わされた預言者と認めているわけではありません。ヨハネの豊かな神学的用語を使って、私たちは彼とともに、肉となって私たちの間に住まわれた神の子であり永遠のみことばであるイエスを賛美するのです。 神の小羊と王 Gloriaでは、イエスのことを「神の小羊」と呼んでいます。その表現はGloriaの内容をキリストのあがないの使命へと話を前に進めていきます。このことから、黙示録に描かれている罪と悪魔に対する小羊の勝利(黙5:6-14、12::11、17:14)、そして天使たちと天の聖なる者たちによる小羊への礼拝(黙5:8、12-13、7:9-10、14:1-3)が思い出されます。Gloriaの中でイエスをこの称号を用いて呼ぶことによって、私たちは黙示録の中で啓示されている小羊の天上での礼拝に加わるのです。 Gloriaはまた、「神の小羊…あなたは世の罪を取り除かれる方」と言つてイエスに呼びかけていきます。この一文では、ヨハネ福音書において、かつてヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネが自分に近づいて来るイエスを初めて見たときに、彼が語つた預言的なことばを私たちは繰り返しています(ヨハ1:29を参照)。 これらのことばは、ィェスが新しい過越の小羊であることを啓示しています。つまり彼は、私たちの罪のために十字架上で自らの命をささげた方なのです。エジプトでの最初の過越の夜、イスラエルを死から救うためにいけにえとされた小羊のように、まさにイエスは、全人類を罪から生じた死の呪いから解放するため、カルワリオ(ゴルゴタ)の丘でい けにえとされた新しい過越の小羊なのです。 最後のGloriaは、今や天において自ら所有する権威の比類なきところに座しておられるイエス、すなわち「父の右に座しておられる方」を賛美するように恭しく私たちを導きます。 この表現から、私たちは、天に昇って「神の右の座に着かれた」(マコ16:19)イエスについて語るマルコ福音書の記述を思い起こします。聖書において、神の右の座とは権威ある座のことを言います(詩110:1、ヘブ1:13を参照)。 Gloriaの中で、私たちは天と地に及ぶキリストの支配ととこしえに続く彼のみ国(ダニ7:14)の証人となります。そして私たちは、このキリストに「私たちの願いを聞き入れて下さい」「私たちをあわれんで下さい」と謙虚に祈るのです。 イエスの使命の全体が、いかにGloriaのこの部分に集約されているかに注目して下さい。私たちは、御子の受肉から彼の過越の神秘、そして彼が天に座しておられる情景へと移行していきます。すなわち、肉となり私たちの間に住まわれた父の「御ひとり子」イエスを賛美することから、ご自分をいけにえとすることによって世の罪を取り除く「神の小 羊」である彼を賛美すること、さらに罪と死に勝利して「父の右の座に着いておられる」がゆえに彼を賛美することへと移行していきます。実に、救いの歴史の頂点がまさにGloriaのうちに要約されているのです。 反体制文化的な祈リ キリストの救いの使命についての叙述を受けて、Gloriaは次にただひとり「聖なる方」、「主」、そして「いと高き方」という3つの聖書的呼称を用いてイエスを賛美します。 イエスを「いと高き方」と呼ぶことで、あらゆる他の「神々」に優る至高の存在であるイスラエルの神に因んだ聖書的呼称が思い起こされていまア| (創14:18、詩7:18)。 同様に、旧約聖書では一般に神を「イスラエルの聖なる方」と呼んでいるわけですが、この場合、一方で他に全く類を見ない神の聖なる本性を表現し、他方でこれとは全く異なる、最高に聖なる神とイスラエルとの特異で親密な関係を表現しています(詩71:22、箴9:10、イザ1:4、ホセ11:9-11)。 新約聖書は、イエスが聖なる方であることを啓示しています。黙示録の3章7節で、イエスはご自身のことをこの神の称号をもって言い及んでおり、黙示録の16章5節では、天使が彼をこの称号で呼んでいます。 多くの弟子たちが聖体についてのイエスの教えのことで彼から離れていく中、ペトロはイエスに忠実であり続け、彼のことを「聖者」であると認めています(ヨハ6:69)。悪霊でさえも、イエスを「聖者」であると認識しているのです(マコ1:24、ルカ4:34)。 たぶん、最も顕著なくだりは「あなただけが主である」という箇所になるでしよう。聖書に出て来る「主」(ギリシア語でKyrios)は、神に因んだ呼称です。しかし古代ローマ世界では、「主」は皇帝に付与された呼称でした。ですから、他方でイエスと神を結びつけて、彼のことを「主」と呼ぶことは(1コリ8:6;フィリ2:11)、極めて反ローマ帝国主義的なことでもあったのです。 すなわち、新約聖書は、イエスこそが主であり、カエサル(ローマ皇帝)ではないと宣言しているのです。古代ローマ世界で、イエスだけが主であると言つた者は、ローマ皇帝にとつて敵とみなされたでしよう。事実、多くの初期キリスト信者たちは、この信仰ゆえにローマ皇帝あるいはローマの神々への礼拝を拒否して命を落としました。Gloriaのこのひとくだりは、仕事にしろ、財産にしろ、経済的な安定にしろ、地位や名声あるいは家庭にしろ、この世の何か他のものにもまして、イエス・キリストとその掟に忠実でなければならない、と今日の私たちにも要求しているのです、「あなただけが主です」と。 Gloriaは、三位一体の第3のペルソナ(位格)である聖霊のことを述べて締めくくられています。イエス・キリストは、「父なる神の栄光のうちに聖霊とともに」称えられます。こうして、その賛美のことばは簡潔でありながらも、聖三位への礼拝とともにその頂点に達するのです。 Gloriaの後、司祭は「集会祈願J(Collecta)として知られる祈りをささげるよう会衆を招きます。この祈りはミサに参列する会衆の意向を一つに集め、「開祭の儀」を結びます。 ※「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著による解説(抜粋) 6 集会祈願 司祭は会衆を祈りに招く。 司祭 …祈りましよう。 会衆はしばらく沈黙のうちに祈る。続いて司祭は集会祈願を唱える。 聖霊の交わりの中で、あなたとともに世々に生き、支配しておられる御子、わたし たちの主イエス・キリストによって。 会衆 アーメン。
ことばの典礼 7 第一朗読 集会祈願が終わったら会衆は着席して、朗読の始まるのを待つ。 朗読者は朗読台に行き、朗読聖書を用いて第一朗読を行う。朗読者は朗読の終わりを示すために聖書に一礼し、脇に立つ奉仕者は「神に感謝」と答える。 会衆は沈黙のうちに神のことばを味わう。 注)エマオヘの道を行く二人の弟子の心を開いて、復活の主が語りかけてくださったみことばを聴くように、また、聖霊降臨の恵みを受けた使徒たちが熱く語る宣教のことばに耳を傾けた人々のように、第一朗読のみことばに耳を傾けましょう。 第一朗読の聖書の箇所は主として旧約聖書から当日の福音の内容との関連で選ばれています。また、復活節には使徒言行録の主な箇所が継続的に朗読されます。 ミサの中でみことばを深く味わうことができるよう、あらかじめ当日の聖書箇所を、その前後関係や福音の箇所との関係を考えながら読んでおくことをお勧めします。ミサのみことばの祭儀と日ごろの聖書の学びが結び合わされて、より一層、みことばに養われる体験を深めることができるでしょう。(ミサの鑑賞-感謝のミサをささげるために 吉池好高 著 オリエンス宗教研究所より) 教会は、ミサの二つの主要部、すなわち「ことばの典礼」と「感謝の典礼」の連続性を表現するために、「二つの食卓」というイメージをしばしば用いてきました。神の民はまず、ことばの典礼において公に朗読される「みことばの食卓」で養われます。その後、「聖体の食卓」で主の御体をいただきます。 聖体の秘跡はまさにイエスの御体と御血であり、キリスト信者の生活の「源泉と頂点Jである一方で、聖書のみことばは、聖体のうちにおられるイエスとのより深い交わりに私たちを導いてくれます。 教皇ベネディクト16世は、ミサのこれら二つの部分は、単に並置されているのではなく、まさにともに「単一の礼拝行為」を形成していることから、それらがいかに内的に一致しているかということを、次のように指摘しました。 信仰は、神のことばを聞くことによって生まれ、強められます(ロマ10:17参照)。聖体において、肉となったみことばは、自らをわたしたちに霊的な糧として与えます。こうして「教会は、神のことばの食卓とキリストのからだの食卓という、二つの食卓から、いの ちのパンを受け、またそれを信者に与えます」。それゆえ、教会が典ネしの中で神のことばを読み告げ知らせるとき、神のことばは、その本来の目的である聖体へと導くのだということをつねに心にとめなければなりません。 これらの食卓の一方にだけあずかるということは、結局、単純にそうすることにはならないはずです。私たちは、聖書にある霊感を受けた神のことばと聖体の秘跡のうちに現存している受肉した神のみことばの両方を必要とします。イエスご自身も宣教生活の間、人々が飼い主のいない羊たちのような有様をご覧になって深くあわれみ、まず「いろいろと教えられ」(マコ6:34)、その後でパンを分け与えられたのです。1500年代に、 トマス・ア・ケンピスは、その古典的な信心書『キリストにならいて Imitatio Christi』の中で、魂がこれら二つの食卓の両方から養われることをいかに深く望んでいるかを、次のように表現しました。 これら二つのものなしに、私たちは正しく生きることはできません。神のことばは私の魂の光であり、聖体の秘跡は私の命のパンだからです。またこの二つは、聖なる教会の宝庫の中に相対して置かれた二つの食卓とも言えるものです。その一つは、そこに聖なるパン、すなわちキリストの御体が供えられる聖なる祭壇の食卓です。他の一つは、聖なる教訓を含んでいて、私たちに正しい信仰を教え、聖所の垂れ幕を引き上げ、私たちを至聖所の帳の奥にまで確実に導く神の律法の食卓です。 聖書深読(Lectio divina) キリスト教の伝統において聖書深読(Lectio divina レクツィオ・ディヴィナ)と呼ばれる、信仰者がみことばに向かう基本的な原則があります。 これには4つの柱があります。聖書のみことばの的確な解釈に向かうように読むこと(Lectio 読書)、聖書の意味と私たちに語り掛ける神の声を祈りのうちに深く理解すること(meditatio 黙想)、私たちのことばで祈り、私たちにみことばを告げ知らせた主に応えること(oratio 祈り)、そしてみことばを聞いて考え、祈って受けとめ(contemplatio 観想)、人生において祝うこと、すなわち実践すること(actio行動)です。 ミサにあずかる前、あるいはあずかった後に、聖書深読(lectio divina)の実践を通してミサの中で朗読される聖書の箇所をよく味わうことができるようになれば、ミサにおいて朗読されたみことばを信者として実生活の中で、それを生きることができるようになります。キリスト信者は、主のみことばである福音を受け取り、それを告げるように招 かれているのですから、受け取ったことを信じ、信じたことを宣べ伝え、宣べ伝えたことを自らも実行しなければなりません。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 8 答唱詩編 通常、先唱者が詩編を歌い、会衆は答唱の部分を歌って参加する。 第一朗読で宣言された神のみことばを聞いた後、続いて私たちは、自らの乏しい人間のことばではなく、神ご自身の霊感を受けて書かれた聖書、詩編の書から取られた賛美と感謝のみことばをもって答えます。詩編の朗唱(歌唱の方がより望ましいのですが)によつて、朗読された聖書の箇所を黙想するように導いてくれる祈りの雰囲気を創出することができます。 私たちは、至極当然のように、神を礼拝するときに賛歌を用いますが、それはパウロが弟子たちに詩編を歌うように勧めていたことでもあるのです(コロ3:16)。 そもそも、典礼的礼拝に詩編を使用する伝統はかなり昔まで遡ります。もともと詩編の書は、イスラエルの神殿祭儀の際に、私的信心と公的礼拝の両方に用いられた150編からなる賛美歌の集成です。神殿の礼拝においては、共通の反復句(antiphona)を詩編の前後に歌い、二つのグループが交互に詩編の連節を歌っていたようです。詩編の書それ自体に、このことを示唆する箇所がいくつか認められます。 たとえば、いくつかの詩編には、「イスラエルよ、さあ言うがよい…」(詩124:1、129:1)という呼びかけが含まれていますが、これは集会で応答するように会衆を招く添え書き(ルブリカ)であるように思われます。 これは、詩編136にも見られます。この詩編は「恵み深い主に感謝せよ」という招きで始まり、その後に続く節は神に感謝する様々な理由を列挙しています。これらの節はそれぞれ、「ただひとり驚くべき大いなるみわざをおこなわれる方に」、あるいは「荒れ野を通つてイスラエルの民を導かれた方に」のような起句で始まります。そして、それぞれ「そのいつくしみはとこしえに絶えることがない」という同じ反復句で締めくくられています。モチーフと応答の間を行ったり来たりするやりとりは、それ自体が先唱者によって朗唱される先唱句とそれに対する応答としての会衆からの反復句(答唱句)から構成される一種の典礼的対話であることを示しています。 このようなやりとり、いうなれば「交唱的な」動きは、答唱詩編だけではなく、ミサ全体を通じて目にされます。すなわち、「主があなたがたとともに/また、あなたの霊とともに」(Dominus vobiscum/Et cumspiritu tuo)、「主のみことば/神に感謝」(Verbum Domin/Deo gratias)、「心を上に(挙げよ)/私たちは主に向けています」(Sursum corda/Habemus ad Dominum)などです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 9 第二朗読 第二朗読がある時は、第一朗読と同様に行われる。 第二朗読は、新約聖書の中から、分けても書簡または使徒言行録、あるいは黙示録からおこなわれます。 その朗読箇所は、しばしば第一朗読や福音とは関係なく選ばれていますが、これらの新約聖書の記述は、イエス。キリストの神秘、その救いのみわざ、そして私たち信仰者の生の意味を熟考させるものです。 またこれらは、キリストを信じる私たちの生活における信仰実践上の適応を引き出してくれ、「キリストを身にまとい」「罪を拒否する」ように私たちにいつも勧めてくれます。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 10 アレルヤ唱(四旬節には詠唱) 一同は立ってアレルヤ唱(または詠唱)を通して歌う。 アレルヤ唱に先立って続唱の歌われる日がある(主の復活と聖霊降臨の日。それ以外は任意)。 注)ハレルヤ(ヘブライ語: הללויה, הַלְּלוּיָהּ, הַלְּלוּ יָהּ、ギリシア語: Αλληλούια、ラテン語: Alleluia, Alleluja、英語: Hallelujah、ロシア語: Аллилуйя、ドイツ語: Halleluja, Alleluja、フランス語: Alléluia)は、ヘブライ語由来の言葉で、「YHWH(ヤハウェ)をほめたたえよ」の意 (ヘブライ語で旧約聖書「詩篇」をテヒリームと呼び、テヒラーという名詞の複数形。この単語は「讃える、賛美する」を意味する動詞ヒッレールからの派生名詞で、「賛美」を意味する。この動詞の複数命令形ハレルーに神の名ヤハウェを短縮したヤーを付した形がハレルヤ。「ヤ(ヤハウェ)」を「ハレル(ほめたたえよ)」)。ユダヤ教の讃美の言葉に由来し、アーメン、ホサナ(オザンナ、ホザンナ)など共に、キリスト教に残る代表的なヘブライ語の祈りの一つでもある。 ラテン語などでは、ハレルヤの語頭のhを発音せずにアレルヤという。日本のカトリック教会では典礼において「アレルヤ」を使用している。正教会(日本正教会)では中世以降のギリシャ語・教会スラヴ語を反映して「アリルイヤ」と発音される。 アレルヤ唱――第二に、会衆は「Jahwehをたたえよ」つまり「主をたたえよ」という喜びを意味するヘブライ語表現に由来する「アレルヤ」を唱えるか歌います。それは、多くの詩編(詩104-106、111-113、115-117、146-150)の最初または最後に見られる表現です。天上の天使はこの表現を用いて救いのなわざゆえに神をたたえ、小羊の婚宴におけるキリストの到来をその民に告げました(黙19:1-9)。 この喜びに満ちた賛美は、福音書という形態において私たちのもとに来られるイエスを歓迎するのにふさわしい方法です。喜びにあふれる「アレルヤ」は、悔い改めの期間である四旬節には用いられませんが、欧米では「アレルヤ」を「おおキリスト、あなたに栄光と賛美」あるいは「終わりなき栄光の王、主イエス。キリスト、あなたに賛美」など他のことばに置き換えた形の詠唱が用いられています。 11 福音朗読 福音は、助祭(または共同司式司祭)が朗読する。司式司祭ひとりの場合は自ら朗読する。 助祭が朗読する場合はその前に司式司祭の祝福を受ける。 聖書全体が霊感を受けていることは周知のとおりですが、第ニバチカン公会議は、さらに当然のこととして、その中でも福音書が「きわめて卓越したもので……。それは、受肉したみことばであるわれわれの救い主の生涯と教えについてのいとも優れた証言だからである」と教えました。 ミサは、この福音の卓越性を反映しています。いかに典礼が、福音朗読に特別な敬意を払っているかに注目して下さい。この朗読の間、司祭と助祭、侍者、そして会衆は、他の聖書箇所が朗読されている間にはしなかったことをおこないます。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 助祭 主は皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。 助祭または司祭は福音書に十字架のしるしをしながら唱える。 注)十字架のしるし―一また以前と同じ挨拶の対句(「主があなたがたとともに」「また、あなたの霊とともに」)の後、司祭または助祭は(たとえ|ゴ「ョハネによる聖福音」と言って)福音を朗読することを会衆に告げ、福音書の上に、そして額、日、胸に十字架のしるしをします。会衆も同じように自らの体に三度十字架のしるしをするのですが、これは、私たちの思い、ことば、ぉこないを主にささげ、福音書の中にある主のことばが常に私たちの知性と国の上に、また心の中にあるように願う所作なのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 助祭 (マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)による福音。 会衆 主に栄光。 朗読が終わると、助祭または司祭は福音書をおしいただいて唱える。 助祭 キリストに賛美。 会衆 キリストに賛美。
12 説教 主日と守るべき祭日には説教が行われる。他の日にもすすめられている。 説教は、通常、司式司祭が行う。 キリスト教典礼の黎明期から、神のことばは単に読まれるだけではありませんでした。朗読の後には説教が伴い、朗読伊1所の意味が説明され、会衆の生活にどのようにみことばを適応させていったらよいのかを導き出していました。説教を意味するhomiliaという語は、ギリシア語で「説明」を意味します。 初代教会では、司教が概して主日のミサを司式し、また説教をする人物でした。この原始的な実践から、アウグスティヌス、アンブロジウス、ヨハネ・クリゾストモ、そして他の数多くの教父たちによる有名な説教集が生まれました。 そうであるにもかかわらず、朗読された聖書箇所を説明するという典礼的実践は、キリスト教がその始まりというわけではありませんでした。それは、古代ユダヤ教の習慣に起源があります。たとえば、エズラ記において、律法の書は単に人々に朗読されただけではありませんでした。レビ人は、「律法を民に説明」しました(ネヘ8:7)。彼らが神の律法を読み、その「意味を明らかにしたので、人々はその朗読を理解した」のです(ネヘ8:8)。 ユダヤ教の会堂(シナゴーグ)でも、同じことが実践されていました。聖書が朗読されれば、必ずその後に説明が伴っていました。イエスご自身、この慣習を実践していました。故郷であるナザレの会堂で、彼は朗読された聖書を詳しく説明し(ルカ4:18-30参照)、またガリラヤ全土の会堂で定期的に教えられました(マコ1:21;ルカ1:15参照)。 説教は、信者が朗読された聖書の箇所の意味を理解し、自らの生活にそれを適用できるようにするための彼らへの信仰教育にとって極めて重要なものなのです。 第ニバチカン公会議は、説教は様々な形態を採るキリスト教の信仰教育の中でも「格別な位置」を占めるべきだと教えました。そのように信仰を伝えるために説教は非常に重要なものです。そして、みことばの意味を的確に伝える説教は、まさに秘跡を受けるためのもっともよい準備になるものです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 説教が聖書朗読に続きます。カトリック教会の伝統に基づく現行の制度においては、ミサの説教者の役割は教皇・司教・司祭・助祭に限られています。このことは、必ずしもこの人々が他のキリスト者よりも、学識や徳において優れているからという理由に基づくのではありません。もちろん、彼らはその役目のために多くのことを学び、必要な特別の訓練を積んで、その務めに任じられた者たちです。けれども、この役割自体は彼らの努力によって獲得されたものではありません。 教役者(教皇・司教。司祭・助祭)に限られたこの務めは、カトリックの教会においては、イエス・キリストにその起源を持つと信じられ、叙階の恵みによって受け継がれてきた教会の教役者制度の一部なのです。この制度の中で、キリストとその教会による任命として、司祭、助祭たちは使徒たちの後継者である司教の権限のもとでこの役務に任じられ、その務めに従事しているのです。 説教はそれが理想的になされるなら、イエスの福音をミサの中で生き生きと再現するような、みことばの解き明かしとなります。けれども、説教はやはり人間のことばを通しての、イエスのメッセージであることを忘れてはなりません。 説教そのものはそれを語る司祭の人間的資質に制約され、その信仰理解を反映したものです。キリストのように語ることのできる人は誰もいません。司祭はキリストの名によつて説教し、キリストからの委託を受けた者として語っているのですが、その語る内容自体は彼の人間的努力の産物です。まさにこのことが、キリストのメッセージを伝える手段としての説教に独自の性格を与えているのです。 説教は人間(教役者)の貧しさを通して語る、イエス・キリストのみことばです。説教を語る者も、説教を聴く者も、聖霊の照らしを願いながら、そこで語り、聴かれる人間のことばの背後に、イエス・キリストの思いを汲み取ろうとするとき、説教を通してイエス・キリストご自身が語っておられることが分かってくるはずです。このようなものとして聴かれるときにのみ、説教はそれを語る司祭のことばを超えて、聖霊の働きに支えられて、イエス・キリストのみことばとなるのです。(ミサの鑑賞-感謝のミサをささげるために 吉池好高 著 オリエンス宗教研究所より) 13 信仰宣言 立 つ 説教の後、すべての主日と祭日に、次のいずれかの形式で行う。 「洗礼式の信仰宣言」 天地の創造主、 全能の、神である父を信じます。 父のひとり子、 おとめマリアから生まれ、 苦しみを受けて葬られ、 死者のうちから復活して、 父の右におられる主イエス・キリストを信じます。 聖霊を信じ、 聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、 罪のゆるし、 からだの復活、 永遠のいのちを信じます。 「使徒信条」 天地の創造主、 全能の、神である父を信じます。 父のひとり子、わたしたちの主イエス・キリストを信じます。 主は聖霊によってやどり、 おとめマリアから生まれ、 ポンティオ・ピラトのもとで苦しみを受け、 十字架につけられて死に、葬られ、 陰府に下り、 三日目に死者のうちから復活し、 天に上って、 全能の、神である父の右の座に着き、 生者と死者を裁くために来られます。 聖霊を信じ、 聖なる普遍の教会、 聖徒の交わり、 罪のゆるし、からだの復活、 水遠のいのちを信じます。 アーメン。 「ニケア・コンスタンチノープル信条」 われは信ず、唯一の神、 全能の父、天と地、見ゆるもの、 見えぎるもの、すべての造り主を。 われは信ず、唯一の主、 神の御ひとり子、イエス。キリストを。 主はよろず世のさきに、父より生まれ、 神よりの神、光よりの光、 まことの神よりのまことの神。 造られずして生まれ、父と一体なり、 すべては主によりて造られたり。 主はわれら人類のため、 また、われらの救いのために天よりくだり、 聖霊によりて、おとめマリアより 御からだを受け、人となりたまえり。 ポンシオ・ピラトのもとにて、 われらのために十字架につけられ、 苦しみを受け、葬られたまえり。 聖書にありしごとく、三日目によみがえり、 天にのぼりて、父の右に座したもう。 主は栄光のうちに再び来たり、 生ける人と死せる人とを裁きたもう、 主の国は終わることなし。 われは信ず、主なる聖霊、生命の与え主を。 聖霊は父と子とよりいで、 父と子とともに拝みあがめられ、 また預言者によりて語りたまえり。 われは一、聖、公、使徒継承の教会を信じ、 罪のゆるしのためなる唯一の洗礼を認め、 死者のよみがえりと、 来世の生命とを待ち望む。 アーメン。 主日または祭日などのミサにおいては信仰宣言がおこなわれます。その際には主に「ニケア・コンスタンチノープル信条」、ないし「使徒信条」と呼ばれるものが用いられます。これらの信条は、キリスト教信仰の規準ないし規範として初代教会で用いられていた、信仰告白の要約です。 もともと信条は、洗礼志願者が教会の信仰を告白する洗礼式の式文の一部でしたが、後には、正しい教義を保証し異端を退ける手段となりました。古代においては正統信仰を確認するための手段の一つであったことから、ミラノのアンブロジウス典ネしや一部の東方教会、特に正教会においては現在に至るまで、信仰宣言は奉納の後、奉献文を開始する前におこなわれます。ちなみにラテン語規範版の典礼書で用いられる信仰宣言のところには、Symbolumと書かれています。これは、「割り符」を意味するsymbolusから来ることばです。その意味で、信仰宣言は、現在でも、それを唱える者が正当な教会の信仰を持っていることのしるしとされているのです。 しかし信条そのもの(その一言一句のすべて)が聖書に由来しないことから、「なぜこの非聖書的文言が、ことばの典礼に含まれているのか」と不思議に思う人もいるかもしれません。それに答えるためには、信条が聖書の話を要約していることに注意すべきでしょう。天地創造からキリストの受肉、死と復活、聖霊の派遣、教会の時代、そしてキリストの再臨に至るまで、信条は救いの歴史の構想全体を貫いて私たちに物語っています。 私たちは、一つの短い信仰告白の中に、創世記から黙示録へと貫かれる説話、つまり創造、堕罪、あがないを描出しています。しかも私たちは、このドラマの主役である父と子と聖霊という三位なる神のベルソナ(位格)に鋭敏な眼差しを注いでそうするのです。ある神学者は、「聖なる諸書が長く語ることを、信条は簡潔に述べる」と評しています。 壮大な戦い この刹那的で「何でもあり」という文化的環境にあつて、信条は、私たちを明確な現実の上に立たせるものであり、私たちの信仰と人生における選択とが関係し合っていることを私たちに思い起こさせるものです。信条は、天地創造から今日教会が担う聖化する使命の源であるキリストのあがないのみわざへと進展していく道筋を語りながら、大胆にも人類史全体に対する話の枠組みを構成しています。言い換えれば、信条は、人生には筋書きがあり、私たちが今現在存在するのには当然の理由がある、と教えているのです。信条は、天地万物が単なる偶然として今あるのではなく、唯一のまことの神である「天地を造られた方」によって在らしめられたのであり、神のご計画に従つてある方向へと動いていることをはっきりと示しています。また信条によれば、この神のご計画は、私たちに幸福と永遠の命への道を示すために、「人となられた」神の子である「唯一の主イエス・キリスト」において完全に啓示されたことになります。 さらに信条は特に、いかにしてイエスが「私たち人類とその救いのために」、また「罪のゆるし」をもたらすために来られたのかに触れています。 私たちは神によって救われ、神から罪をゆるしてもらう必要があると認めること自体、キリストの到来以前の私たちの状況が何かひどく険悪であったことを物語つています。それは、サタンとその手先が神に逆らったその起源と、いかに彼らが楽園にいたアダムとエヴァと残りの人類を堕落させて神に逆らう者たちの仲間にしたかということを指し示しています。 このように、信条の物語は、世の初めから怒涛のごとく湧き起こる激烈な戦いを暗黙のうちに伝えています。それは、善と悪、神と蛇(創3:15、黙12:1-9)、アウグスティヌスが「神の国」と「人間の国」と呼んだもの、そして教皇ヨハネ・パウロ2世が「愛の文明」ないし「いのちの文化」と「死の文化」と呼んだものの間にある戦いです。 このように私たちは、自分たちの短い人生がこの壮大な物語に巻き込まれていることに信条を通して気づかされます。そして私たちにはそれぞれ、このドラマにおいて演じるべき重要な役割があるのです。問題は、「私がどれだけ上手く自分の役割を演じることができているだろうか」ということです。信条は、選択に正否の別はないと言い、私たちが何を信じようと、どう生きようと問題ではないという現代の相対主義的神話に私たちを与させはしません。信条は、私たちが人生の終わりに、「生者と死者を裁くために栄光のうちに再び来られる」主イエス・キリストのみ前に立たなければならないことを思い起こさせます。その時、私たちの人生のあらゆる選択は、神が裁きをおこなうそのみ前で粋にかけられ、私たちがいかに生きたかに従って、正当な報いまたは罰が与えられることにかるのです。 ですから信条は、この壮大な苦闘において、私たちをいい加減な傍観者のまま放っておきません。信条は、私たちがこの戦いのどちら側に付いて戦うことにするのか選び取るようにあえて要求します。私たちは、確かな正も否もないと考えさせようとするこの世の君主に従う道を選ぶべきでしようか。あるいは、終わることのないみ国の幸福へと私たちを 導かれる天地の王に従う道を選択をすべきでしようか。 答えは自明です。私たちは、ミサの中で信条を用いて信仰告白するとき、公に全会衆と全能の神のみ前に立って、イエスとともに信条旗を立てるのです。私たちは、世俗のように生きるのではなく、「私は唯一の神を信じます…」と、「一心に主に忠誠を誓うように励みます」と、荘厳に宣言するのです。このように考えれば、信仰宣言において私たちは、単なる決まり文句を適当に唱えるだけで終わつてよい、と考えるわけにはいかないことが分かるでしよう。 信じることの二つの側面 それにしてもなぜ、私たちは毎週毎週、同じ信仰告白を繰り返す必要があるのでしようか。なぜ日曜日ごとに教会に戻って来て、「はい、私は今までどおりこれをすべて信じます」と言う必要があるのでしようか。 信条の最初にあつて、信仰に関する様々な表明を結びつけるキーワードが、ミサの中で毎週信条を復唱することの意味を浮き彫りにしてくれます。そのキーワードとはCredo「私は信じます」です。『カテキズム』によると、信じることには二つの側面があります。まず、信じることは知的な何ごとかです。それは「神が啓示されたあらゆる真理への自由な同意」です。 これは、信条において最も明白な狽1面です。私たちは、「神は唯一」であり、イエスは「神の御ひとり子」であつて、亡くなってから三日目に復活したことを「私は信じます」と断言するのです。また私たちは「聖霊」と「唯―の、聖なる、普遍の、使徒継承の教会」を信じ、知性をもって教会が公式に教えるすべての事柄に同意するのです。 その一方で、信仰にとってもっと根本的なのは、それが「神への人格的な帰依」であるということです。92信じることを表わすヘブライ語(amanは「アーメン」という語の語源なのですが、この一語がまさにそのことを表現しています。この語は、人が別の何ものかに拠って立つことを意味していると理解することができます。 言い換えれば、旧約聖書の観点からすると、神を信じることは、単に神が存在するという知的信念だけを表わすのではなく、自らの人生を一個人として神に委ねることをも意味しています。それは、いかに神がまことに自分の人生の礎であるかを表現しているのです。 私たちが信条の中で「唯一の神を信じます……」と言うとき、全く人格的な何事かを私たちは表現しています。単に神が存在すると断言する以上に(もちろん、そうなのですが)、私たちは「自分の全生涯を全く自分たちとは異なる唯一の方に委ねる」とも言っているのです。 このようなわけで、私たちは日曜日ごとにミサで信条を復唱しています。ちょうど夫婦がお互いの信頼と献身を誓い合い、普段からお互いに「あなたを愛している」と語り合うように、主に身をささげ、全生涯を委ねること、すなわちまさに主を「信じる」ということを、何度も何度も愛情を込めて語りかけながら、私たちは信条において主への献身を毎週更新するのです。 このようなく心から信じる〉ということの聖書的な意味を思うとき、信条とは、単に紙の上でチェツクされる必要がある教義目録ではないことがはらきりとわかります。信条の「私は信じます」は、毎週、ますます私たちの生活を、また人生を神に任せるように、と私たちを招いているのです。 このことは、「私の生活の中心に実際のところ誰がいるのか。私は実際のところ誰に信頼を置いているのか」と問いかけるよう私たちに要求しています。信条の諸表現と直面するとき、私たちは、「私は本当に一生懸命に神の御旨を追い求めているだろうか。それとも、自分自身の願望、夢、計画を優先して自分の思いを第一に追い求めているのではないだろうか」と自間することができます。「私は本当に自分の生活を主なる神に任せているだろうか。それとも私の生活には、イエスの道にそぐわない領域があるのではないか」。「私はみ摂理であるイエスのご加護に自分の心配事を委ねているだろうか。それとも、私は自分で自らの人生をコントロールすることを放棄して、神にもっと信頼することを恐れているのではないか」。 私たちの中に完全な信仰を持つ人は一人もいませんが、私たちは信仰宣言を唱えるとき、神への信仰を育みたいという願望、つまり私たちの人生をよりいつそう神に委ねたいという願望を表現しています。私たちが神以外の何事かあるいは何者か(私たちの能力や地位、計画、財産、経歴、政治家、友人)に全幅の信頼を寄せることは愚かなこと、落胆に終わることであるかもしれません。私たちが全幅の信頼を寄せるに値するのはただ神のみです。 イエスは次のように言われました。「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(マタ6:33)。「神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける」(ルカ18:29)。 『カテキズム』はこの点を次のように指摘しています。「キリスト者の信仰は、神への人格的な帰依と神が啓示された真理への同意ですから、だれか一人の人間を信じることとは違います。全面的に神に信頼し、神が語られることを固く信じるのは、正しく、よいことなのです。神でないものをこのように信じることは空しく誤っています」。 私たちは、「あなたにとって私は何者だというのか」(マタ16:15参照)というイエスの問いに、どれほど的確な答えを持っているでしょうか。私たちは、ミサ聖祭において教会が証している神である方を自らの人生の主として選び直すように、いつも新たにその方への信頼を告白するように求められているのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
14 共同祈願 主日、祝祭日だけでなく、会衆の集まるミサの時には、できるだけ行うようにすすめられている。 意向は通常、次の順序で行う。①教会の必要のため、②国政にたずさわる人々と全世界の救いのため、 ③困難に悩む人々のため、④現地の共同体のため。 祈りへの招きと結びの祈りは司式司祭が、各意向は助祭あるいは先唱者が唱え、会衆は各意向の後の 答唱句を唱和する。 ことばの典礼は、「信者の祈り」(oratio fidelium)として知られる共同祈願において最頂点に達します。これはミサの中でも最も古い構成部分の一つで、紀元155年にはすでに殉教者ユスティノスがそのことについて証言しています。 ユステイノスは、キリスト教徒がミサで何をするのかを説明し、祈りや儀式の概要を記しながら、ローマ皇帝に宛てて手紙を書きました。この書簡において、彼は聖書朗読と説教の後にささげられる執り成しの祈りについて次のように記述しています。「それから私たち一同は起立し、永遠の救いにあずかるために正しく生き、行動し、また掟に忠実であるように、自らのため…また至るところの、他のすべての人のために祈ります」。当然のことながら、これは今日のミサの「共同祈願Jと実によく似ています。つまり「共同祈願」は、少なくとも2世紀の殉教者ユスティノスの時代にまで遡る教会の伝統にもとづく執り成しの祈りなのです。 しかし、執り成しの祈りの実践は、キリスト教の歴史の中でさらに遡ります。ペトロがヘロデによって投獄されたとき、エルサレムの教会は「彼のために熱′|、な祈り」をささげ、その夜、み使いがやって来て鎖をはずし、彼を解放しました(使12:1-7)。パウロは、弟子であるテモテに勧めを与えて、すべての人のために執り成しをするよう次のように言いました。「願いと祈りと執り成しと感謝とをすべての人のためにささげなさい。王たちやすべての位の高い人のためにもささげなさい。私たちが、常に敬虔と気品を保ち、穏やかで静かな生活を送るためです。これは、私たちの救い主である神の前に良いことであり、喜ばれることです。神は、すべての人が救われて、真理を認識するようになることを望んでおられます」(1テモ2:1-4)と。パウロ自身、自分が関係した諸教会共同体の必要のために絶えず祈り(1テサ1:2-3)、また彼らに願つて自分の任務のために祈ってもらいました(2コリ1:11)。 新約聖書において、執り成しの祈りがこのように強く求められていることを考えれば、共同祈願が正式にキリスト教の早初期からミサの中にその場を得ていたのもふさわしいことです。しかしながら、この共同祈願は、中世期を通じて長い間、ローマ典礼のミサ聖祭においては忘れ去られていました。それゆえこれを再興したことは、第ニバチカン公会議の改革の重要な出来事の一つだと言えます。 祭司的な執り成し こうしたミサにおける共同祈願は、信者にとって意義深い時を表わしています。『ローマ・ミサ典礼書の総則』は、信者がこの共同祈願において「祭司職の務めを実行している」ことを指摘しています♂06神の民、すなわち叙階された聖職者、修道者、そして信徒たちすべてに、祭司的役割が与えられているということが聖書の中で証言されています。キリストが私たちを「祭司の王国」として下さつた(黙1:5-6を参照)がゆえに、私たちは「選ばれた民、王の祭司」(1ペト2:9)なのです。 祭司職がミサのときに実践される一つの方法は共同祈願のうちにあつて、それによつて私たちは全人類を代表して、キリストの祭司的祈りに参与しているのです。イエスは喜んで全世界のために執り成しながら、胸中の思いを打ち明けました(ヨハ17章)。イエスは、「ご自分を通して神に近づく人々を、完全に救うことがおできになります。…彼らのために執り成しておられるからです」(ヘブ7:25)。私たちは、典礼のこの機会に、独特な方法でキリストの執り成しに参与するのです。 『カテキズム』は、執り成しの祈りが「神のあわれみに結ばれた心の持ち主の特徴的な行為」Ю7でぁると述べています。私たちが本当に神の思いと合致しているなら、他者のために自然と祈りたくなるはずです。ことばの典礼の頂点は、こうした共同祈願をささげるには絶好の時です。 ミサのこの段階に至るまで、信者は、聖書において示され、説教で詳しく説かれ、信条において要約された主のことばを耳にしてきました。そして、神のみことばによって涵養されてきた信者は、イエスの思いと一つになって、教会と世界の必要のために祈りながら、神の呼びかけに応えるのです。 祈りは普遍的な視野で、たとえば権力者のため、様々な必要や苦しみを抱えている人々のため、そして万人の救いのためにおこなわれなければなりませんから、共同祈願を通して、私たちは自分自身のことだけではなく、「他人のことにも」(フィリ2:4)注意を払うように訓練されます。 ミラノのアンブロジウス典ネLにおいては、キリストの教え(マタ5:24)にもとづいてこの共同祈願の終わりに、つまり供えものを祭壇にささげる前に、一同は平和の挨拶を交わします。また正教会においては、共同祈願に相当する長い連祷の後、感謝の典礼の開始に相当する大聖入の前に、古代教会からの伝統に従って、啓蒙者(未信者)の退席が宣告されてから、あらためて全世界の平和と神の聖なる諸教会のため、また人々の一致のために、さらにわたしたちが憂い、怒り、艱難から免れるように祈ります。そして、霊肉ともに穢れから清められ、罪無くして聖なる祭壇の前に立つことのできるように、また生命と信仰、神に関する知識が増し、神への畏れと愛をもって聖なる秘跡を受け、天の国に入る勝利者として下さるよう祈るのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 注)『ローマ・ミサ典礼書の総則』は、共同祈願の意向は、まず教会の必要のため、次に国政にたずさわる人々と金世界の救いのため、困難に悩む人々のため、現地の共同体のため、という項目を示しています。 感謝の典礼 感謝の典礼と呼ばれるミサの後半において、司祭はイエスの十字架上のいけにえを祭壇上に現存させるのですが、そのとき司祭は、イエスが最後の晩餐でなさったこと、また使徒たちに自分の記念としておこなうように命じられたことを実行します。 感謝の典礼では、パンとぶどう酒が会衆によつて供えものとしてささげられ、聖別されてイエスの御体と御血に変化し、私たちはそれを聖体拝領において受けるのです。感謝の典礼は、「供えものの準備」、「奉献文(エウカリステアの祈り)」、「交わりの儀」の三つに分類されます。 供えものの準備 典礼の中で供えものをささげることは、初代教会の実践にその起源があります。殉教者ユステイノスは、紀元155年には、すでに執り成しの祈り(共同祈願)の後に、信者が司祭のもとにパンとぶどう酒を携えて行く習慣があったことを語っています。またヒッポリトス(215年)も同じような実践を書き留めています。lЮ儀式が発展するにつれ、信者たちあるいはその中の代表者が行列を作って祭壇へ進み、パンとぶどう酒に加えて、油、はちみつ、羊毛、果実、蜜ろう、あるいは花のような広範な供えものをささげていたようです。パンとぶどう酒は感謝の典礼に用いられましたが、他方、その他の供えものは司祭の生活を支えるため、また貧しい人々のために役立つようささげられました。 この実践は、かつて「公教会五つの掟」の一つとしておこなわれ、現在の教会にも受け継がれています。すなわちキリスト信者は、「教会が神への礼拝、使徒職及び愛徳のわざ、および奉仕者の生活の正当な維持に必要なものを援助するために教会の要請に応ずる義務を有する」と同時に、「社会正義を促進し、主の命令を心に留め、自己の所得をもって貧しい人を援助する義務を有する」(教会法第222条)のです。 ミサのこの部分は、「奉納」(offertorium)という名称としても知られていますが、それは供えること、携えること、ささげることを意味するラテン語のofferreに依拠しているからです。今では「供えものの準備」とも呼ばれていますが、そこにはやはり「いけにえ」という概念が残っています。実際、これらの供えものをささげることそのものにかなり重要性がありました。なぜなら、それらは概して個人宅や個人の畑から持って来るもの、あるいは手作り品だつたからです。 そのように、供えものは自分自身をささげることを表現していました。確かに、自分たちの重労働の実りを手放すことには犠牲的な意味合いが含まれていたように思われます。そのため、供えものをささげることは、個々人が自分自身を神にささげることを象徴しているのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 15 奉納の歌と奉納行列 共同祈願が終わると奉納の歌が始まる。その間に、信者の代表が行列して、パンとぶどう酒を奉納し、それとともに献金なども奉納することができる。 16 バンを供える祈り 奉納の歌が歌われない場合、声を出してこの祈りを唱えることができる。 司祭 神よ、あなたは万物の造り主、 ここに供えるパンはあなたからいただいたもの、 大地の恵み、労働の実り、 わたしたちのいのちの糧となるものです。 会衆 神よ、あなたは万物の造り主。 供えものの準備、奉納 ミサにおけるパンとぶどう酒のささげものについては、聖書の中に強力な裏付けがあります。パンとぶどぅ酒は、イエスの時代の過越祭や最後の晩餐で用いられたことに加えて、イスラエルのいけにえの儀式において定期的にささげられていました。パンとぶどう酒の象徴的意義、そして神にこれらの供えものをささげることが何を意味したのでしょうか。 聖書において、パンは今日の多くの西洋社会でそうであるように、単なる食事の添え物ではありませんでした。古代イスラエル人たちにとって、パンは最も基本的な食物で、生命維持に不可欠な食物と見なされていました(シラ29:21;39:26)。それどころか、「パンを食べる」という表現は、一般的に純粋に「食べること」そのものを指しているものと考えられます(創31:54、37:25、王上13:8-9、16-19)。聖書はパンを糧(「パンによる支え」)のようにさえ描写していますが、これはパンがいかに人間の命の支えとして理解されていたかを示しています(レビ2626、詩105:16、エズ4:16、5:16)。 さらにイスラエル人たちは、自分たちのパンをある一定量、定期的なささげものやいけにえとして(出29:2、レビ2:4-7、7:13)、恒例の「七週の祭り」(レビ23:15-20)のときにささげるよう告げられました。自身のパンを差し出すことは、個々人が自らを神にささげることを表わすまさに個人的な犠牲的行為であったものと思われます。ちなみに、いわゆる初代教会の「パンを割く式」(使2:42参照)は、酵母を入れたパンを用いておこなわれていたであろうと言われています。西方教会は九世紀以後、ユダヤ教化の影響で種無しパンを用いるようになり今日に至っていますが、一方、東方教会は、カトリック東方諸教会においても正教会においても、聖体礼儀(ミサ)に用いるパンは通常酵母を入れて発酵させたものを用いています。 注)「七週の祭りJは、ヘブライ語では「シャヴーォートJと呼ばれ、ギリシア語で言うところの「ペンテコステ」(五旬祭)に相当する祭りで、英語では“Feast of weeks"と言われます。 同じように、ぶどう酒は単なる副飲料水(side beverage)ではなく、古代イスラエルの食事の際に提供された通常の飲みものでした。ぶどう酒はパンと一緒に消費され(士19:19、サム上16:20、詩104:15、士10:5)、祭りの時(サム上25:36、ヨブ1:13)や客人を迎えた時(創14:18)に出されました。さらに、パンのようにぶどう酒もまたイスラエルではいけにえとしてささげられました。 ぶどう酒は十分の一税として神殿にささげられた初物の一つであり(ネヘ10:36-39)、またイスラエルの感謝やあがないのためのいけにえをささげるときに神酒(献酒)として等どれました(出29:38-41、民15:2-15)。いけにえの供えものと個々の供犠者との間には密接な関係があったので、パンとぶどう酒をささげることは、まさに自己奉献を象徴するものでした。また旧約において、パンとぶどう酒は神の国の豊かさ、恵みのしるしでもありました(イザ2516-9,55:1-3)。 今日、同じことがミサの中でささげられる私たちの供えものにも当てはまります。パンとぶどう酒において、私たちは被造物としての賜物や労働の結果(ミサの祈りがそれらのことを「大地の恵み、労働の実り」と呼んでいます)を神にお返ししながらささげているのです。 結局のところ、この儀式はパンとぶどう酒の供えものによって、私たちが全生涯を神にささげることを象徴しているのです。ある人が、注釈として次のように書いています。「どんなパン屑でさえも、耕して種をまく重労働、額に汗して得る収穫、 トウモロコシをずっと脱穀していた腕の疲れ、燃えたぎるパン窯のそばでパン生地をこねるパン職人のつぶやきを偲ばせてくれるのです」と。 ぶどう酒についても同じことが、言えるでしょう。ぶどう酒は、一年を通して丹念に手塩にかけて育てられてきたぶどうの木から収穫されるぶどうから作られるからです。 お金に勝るもの 献金の実践は(結局のところ、これによって油や果実、その他の様々な供えものからなる奉納の存在感が薄くなったのですが)、同じ視点で理解することができます。お金を献金の籠の中に入れることは、単に何か正しい理由に適った献金をするだけではありません。それは、自分たちの生活を神にささげることをも表現しています。私たちのお金は、生活時間と重労働を具体的に表現しており、ミサの間、ミサの供えものを奉納しつつそれらを神にささげるのです。また初代教会でも、エルサレムをはじめ諸地域にある教会共同体を助けるために募金がおこなわれていたことが記されています(1コリ11:21、16:1)。 それでもなお、キリスト信者の中には、「ネ申様はなぜ、私たちからの供えものを必要とするのか。神はご自分の子を遣わされ、その方は私たちの罪のために死んで下さったのではないか。それなのになぜ神様は、パンとぶどう酒とお金という私たちのちっぽけないけにえを今なお必要とされるのか」と訪しがる人もいるかもしれません。 結論から言えば、神はこのようなものを必要とはしておられません。何も事欠くことなく、私たちの供えものがあろうとなかろうと神は神であられます。しかし一方で、私たちは献身的な愛の中で自らを成長させる必要があります。これこそ、神が私たちを招いて、私たちの生活をご自分に結び合わせようとしている一つの理由なのです。私たちは、こうした小さなささげものによって自身をいけにえとしてささげる愛のうちに成長し続けます。 さらに、ささげものそれ自体に大した価値はないにしても、私たちがそれらをイエスの完全ないけにえと結び合わせるとき、それらに計り知れない価値が生まれます。イエスの弟子たちは、自分たちが持っていたほんの僅かなものを彼に差し出すことによって、イスラエルの人々だけでなく異邦人も含めた膨大な数の人々の命を満たす主のみわざに参与しました(マコ6:30-44;8:1-10)。それゆえ、ミサで私たちが供えものをささげるとき、それらはまるで(供えものに象徴される)私たちの生活のすべてと小さないけにえのすべてを(司祭がその代理をつとめる)イエスご自身の手に委ねるようなものです。それから、司祭は私たちの運ぶ供えものを受け取って祭壇に奉納します。その祭壇こそ、私たちがキリストの御父へのささげものと結ばれていることを表現するために、キリストのいけにえが現存させられる神聖な場所なのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 17 ぶどう酒の準備 助祭または司祭はぶどう酒と少量の水をカリスに注いで沈黙のうちに祈る。 18 カリスを供える祈り 奉納の歌が歌われない場合、声を出してこの祈りを唱えることができる。 司祭 神よ、あなたは万物の造り主、 ここに供えるぶどう酒はあなたからいただいたもの、 大地の恵み、労働の実り、 わたしたちのいのちの糧となるものです。 会衆 神よ、あなたは万物の造り主。 19 清め 司祭は祭壇の脇に行って手を洗い、沈黙のうちに祈る。 20 奉納祈願 立つ 司祭は会衆を祈りに招く。 司祭 ・・・祈りましょう。 一同はしばらく沈黙のうちに祈る。 次のような祈りをすることもできる。「神の栄光と賛美のため、また全教会とわたしたち自身のために、司祭の手を通しておささげするいけにえをお受けください。」 続いて司祭は奉納祈願を唱える。 ・・・・・・。わたしたちの主イエス・キリストによって。 会衆 アーメン。 会衆は、司祭がこれらのことばと儀式的行為によって聖なる務めの準備をしている間、それをじっと見守りながら畏敬の念を抱きつつ、静かに座って待ちます。その終わりに、まさに準備の最後の行為として、司祭は会衆の方に向き直り、奉献文の祈りを始めるにあたり、皆に祈るように願い求めます。 Orate, fratres: 祈って下さい、兄弟のみなさん。 ut meum ac vestrum sacrficium 私とあなたがたのいけにえが、 acceptabile fiat apud Deum Patrem 全能の父である神のみもとに受け omnipotentem. 入れられるものとなりますように。 この祈りの新しい英語版のミサの翻訳では、「私の」いけにえと「あなたがたの」いけにえと明確に言っており、ラテン語規範版をより正確に反映していて、より美しくこの祈りの意味を引き出しています。「私」の側のいけにえは、「キリストの代理者として」(in persona Christi)秘跡をおこなう叙階された司祭を通して現存するイエスのいけにえを指し示しています。 一方、「あなたがた」の倶1のいけにえは、ミサの中でキリストと一体となってささげられるもの、すなわち全教会そのものを言っています。会衆は、いかに両方のいけにえ(イエスのいけにえと自分たちのいけにえ)が一つとなり、司祭の手を通して御父にささげられることになるのかが解かる次の祈りをもって答えます。 Suscipiat Dominus sacrificium de manibus tuis 主があなたの手からいけにえを受け入れて下さいますように。 ad laudem et gloriam nominis sui, み名の賛美と栄光のため、 ad utilitatem quoque nostram 私たちとその聖なるすべての教会の totiusque Ecclesiae suae sanctae. 善益のために。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
奉献文 -感謝の祈り- 学者たちは、奉献文の起源が食事のたびに唱えられていたユダヤ教の食卓の種々の祈りにあると言って来ました。食事の初めに、家長または共同体の主宰は、パンを取り、神を賛美する祝福「バラカー」(barakah:ヘブライ語で祝福を意味する)のことばを回にして次のように言っていたようです。「万物の王、私たちの神である主をほめたたえよ。主は天からパンをもたらされたからJと。それからバンが裂かれ、会食者に分け与えられ、そして様々な品目からなる食事を始めます。 過越の食事では、最初のエジプトでの過越の話を繰り返し、イスラエルの歴史の基礎を形成する出来事を現世代に解釈した「ハガダー」(haggadah)の朗読もあったようです。これは、過去になされた神の救いのわざを現在化し、その話を自分たちの生活に生かすものです。 食事が終わるころに、主宰はぶどう酒の杯を祝福する二回目のより長い祝福「バラカー」(barakah)の祈りをささげました。 この祝福の祈りは3部構成になっています。すなわち、1)創造のみわざゆえの神への賛美、2)過去になされた神のあがないのみわざへの感謝(たとえば、契約や土地、律法の授与)、そして3)未来に向けての嘆願、つまり神の救いのみわざが自分たちの生活の中で継続し、ダビデの王国を立て直すメシアが遣わされ、自分たちがそのみわざによって究極的な救いに達するように、という嘆願です。 初期の奉献文は、このような一般的な食事の祈りの構成パターンを採っていたようです。その奉献文は、イエスの死と復活という救済の基礎を形成する出来事を繰り返し語りながら、パンとぶどう酒を祝福して唱えることばを含み、また創造のみわざゆえの神への賛美、救いのみわざゆえの感謝、そして嘆願をささげるという三重構造を含んでいました。この後ですぐに理解されることなのですが、こうした古代のユダヤ教的要素は今日のミサの奉献文の中にも見出されます。 現在のカトリック教会には主に、5世紀頃からローマ典礼の奉献文(Canon Romanus)として約1500年近く用いられてきた奉献文に依拠した第1奉献文をはじめ、第ニバチカン公会議後に新たにカトリック教会が公認した第2、第3、第4奉献文、および2つのゆるしの奉献文、3つの種々の機会の奉献文があります。第2奉献文は、3世紀初頭のローマのヒッポリトスの『使徒伝承』に記されている奉献文に依拠したもの、第3奉献文はローマ、アレクサンドリアの伝統をアンチオキア式に改めたもの、そして第4奉献文はシリア・ビザンチン様式の奉献文、現在でも東方教会で用いられている『聖ワシリイ(バシレイオス)の聖体礼儀』をモデルに起草されたものと言われています。 このように現在のカトリック教会の典礼は、初代教会の様々な伝統を尊重し、それらに依拠した豊かさを享受していると言えます。そのため司祭は、必要最小限で短時間に済ませられるという理由だけで、単一の奉献文だけを延々と用いるべきではなく、教会の典礼的伝統の多様性を適切に活かすよう努める必要があるでしよう。 奉献文を構成するのは次のとおりです。 1)叙唱 2)感謝の賛歌助 Sanctus 3)聖霊の働きを求める祈り Epiclesis 4)聖体制定の叙述/聖別 5)信仰の神秘 Mysterium Fidei 6)記念、奉献、取り次ぎ、栄唱 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 21 叙唱前句 司祭 主は皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。 司祭 心をこめて神を仰ぎ、 会衆 賛美と感謝をささげましょう。 奉献文は3部構成の対句とともに始まりますが、それは少なくとも3世紀から教会で唱えられてきたものです。 Dominus vobiscum. 主があなたがたとともに。 -Et cum spiritu tuo. また、あなたの霊とともに。 Sursum corda. 心を上に(挙げよ)。 -Habemus ad Domlnum. 私たちは主に向けています。 Gratias agamus Domino Deo nostro. 私たちの神である主に感謝をささげましょう。 -Dignum et iustum est. それはふさわしく正しいことです。 この対句は、歴史上、ヒッポリトスの奉献文(215年ごろ)の中で初めて見出されるものです。それから18世紀もの時を経た現在も、初代教会のキリスト信者と一つになって、私たちは継続的に同じことばを奉献文の初めに唱えているのです。 主があなたがたとともに(Dominus vobiscum) 私たちは、以前からずっと始めの対句(「主があなたがたとともに」「また、あなたの霊とともに」)を耳にしてきました。それは、ミサを始める開祭の儀や福音朗読の直前で用いられていました。第2部では、これと同じ挨拶が、聖書の中に見出される困難極まりない重大な使命に神によって招かれた人々に宛てて用いられているのを確認しました。 彼らが自分たちの責務を遂行するには、いつもともにいて下さる主を必要としていました。この点で、私たちがミサの中でとりわけ神聖な部分、すなわち奉献文を始めるとき、この挨拶が復唱されることは実にふさわしいことなのです。司祭と会衆はともに、ミサでささげられる神聖ないけにえの神秘にあずかる支度として、まさに主がともにいて下さることを必要とするのです。 心を上に 次に、司祭は「心を上に(挙げよ)」(ラテン語でsursum corda)と言います。この祈りは、エレミヤの哀歌に見られる類似する勧告「天におられる神に向かい、私たちの心も手も挙げよう」(哀3:41)を彿彿とさせます。しかし、私たちの心を「挙げる」とは一体どういう意味なのでしょうか。 聖書において、人間の考えや感情や行動は人格から生まれ出て来るのですが、心はその人格の内奥の中心です。人が意図したことに向かっていくときは、いつもそこに人間の心が作用しています。それゆえ、ミサで司祭が「心を上に(挙げよ)」と言うとき、これからの展開に全神経を集中して注意を払うよう、私たちに強く求めているのです。これは、あらゆる心配事を脇に置くように、また奉献文において展開されていくことの崇高さに、私たちの思いや望みや感情、つまり私たちの心を集中させるように、との注意喚起です。 この要求は、パウロがコロサイの教会に宛てたことばを思い出させてくれます。「あなたがたはキリストとともに復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。上にあるものを思いなさい。地上のものに心を寄せてはなりません」(コロ3:1-2)。ちょうどパウロがコロサイの教会に「キリストがおられる上にあるもの」を探し求めるよう招かれたのと同様に、私たちも全存在を天にあるものに向けていくように招かれています。なぜならその天にキリストがおられるからです。そして、そここそが奉献文において私たちが赴くところなのです。正教会の聖堂においては、聖職者しか入れないイコノスタシスの向こう側の至聖所が、この時まさに、天使と聖人に囲まれた天上の至聖所となると考えられています。 細心の注意 北アフリカの教父であった聖チプリアヌス(258年没)は、いかにこの祈りが、私たちの注意をこの世の雑念から引き離し、奉献文でおこなわれる荘厳な儀式に心を集中させるよう私たちを導いているかを説明しています。 愛する兄弟よ、立って祈る時、私たちは全身全霊で祈りに向き合わねばなりません。世俗にまみれた思いは過ぎ行くままに任せ、私たちの心を、ただ祈りのために傾けようではありませんか。なぜなら、司祭が奉献文の前の叙唱において、「心を上に(挙げよ)」と喚起し、これに人々は「私たちは(それを)主に向けています」と応えて祈りの準備を整えるのですが、そうすることで司祭もまた、主以外の何ものにも心を向けないことを心に刻み付けるからです。 別の教父、エルサレムのキュリロス(チリロ)も同じ点を指摘し、信者たちにこの時の重大性に注意を払うよう促しました。 心を上に(挙げよ)―この崇高な時に際して、私たちの心を神へと高く上げなければなりません。うかつにも地上のことに、地上の心配事に心を落としてしまわないように気を付けなければなりません。ミサに献身している司祭は、その全身全霊をもって、この時ばかりは世俗の懸念や雑事を脇に置いて、人々を愛してやまない天におられる神に、私たちの心を向けるよう私たちに勧告しているのです。…心を上に挙げながらも世俗の関心事に気を取られてしまうような心など持たぬようにしようではありませんか。 注)面で、神殿の「垂れ幕」が上から下まで真っ二つに裂けたことが記述されています(マタ27:51)。この垂れ幕とは、当時の神殿の至聖所と聖所を区切る帳(とばり)のことであったろうと言われているのですが、イコノスタシスは神殿のこの垂れ幕に相当するものと考えられています。 続いてキユリロスは、主に気を配ることは私たちが常になすべきことではあっても、私たちは堕落することもある弱い存在なので、そうすることの難しさを認めています。 しかしそうであるにしても、もし最高に専心して、私たちが神に細心の注意を払う時間があるというのであれば、それは今この奉献文をささげる時なのです。「私たちは、もちろん常に神のことを思わなければなりませんが、人間の脆さゆえに、それは不可能なことでしよう。しかし、この神聖な時だけは、少なくとも私たちの心は神とともにあるべきなのです。」正教会の祭儀において、大聖入(カトリック教会で言われるところの聖体祭儀に相当する正教会における儀式「聖体礼儀」の中で(もちろん、その双方を完全に同一視することはできませんが)、儀式を執りおこなう司祭が、パンとぶどう酒を運んで、至聖所に据えられている祭壇の上に置くまでの一連の動作が大聖入と呼ばれています。)の「ケルビムの歌」の前に語られる「今この世の慮りを悉く退くべし」ということばは、上述の父たちのメッセージと同じ様な響きを持っているように思われます。 大いなる感謝 最後の典礼的対句において、司祭は「私たちの神である主に感謝をささげましょう」と言います。すでに栄光の賛歌(「感謝をささげます」)と聖書朗読の応答(「神に感謝」)で見てきたように、感謝は、神のいつくしみと私たちの人生における神の救いのわざに対する共通した聖書的応答です。主に感謝するように私たちを促す司祭は、詩編に見出される同じ勧めのことばを繰り返します。「主に感謝せよ。主はいつくしみ(恵み)深く…」(詩136:1-3、また詩107:8,15,21,31も参照)と。 ユダヤ教の慣習では、感謝とは、創造主に対して私たちが実際にささげることのできる唯一のものなのですが、実のところ創造主にとつては私たちに感謝されることなど必要ないのです。1世紀のユダヤ人釈義家アレクサンドリアのフイロンはこのことについて次のように説明しています。 神の性質の中で一番の特徴は、神が祝福を与えるお方だということだと私たちは断言します。しかし、もっとも大切なことは、神が天地を創造されたということであり、私たちはそのことに感謝するのです。そもそも、造られた者が神に恩返しをすると言つても、それすらも天地の創造主が造られたものなのですから、造られた者が神に恩返しをすることなどできないのです。ですから、唯一私たちにできることというのは、絶えず、どこにいても、神を讃え、神に感謝をささげることだけなのです。 同じようにパウロも「キリスト信者の生活は、感謝の祈りによって特徴づけられるべきだ」と教えています。私たちは、「あふれるばかりに感謝すべき」(コロ2:7)であり、すべてのおこないにおいて(コロ3:17)、また「どんなことにも」(1テサ5:18:フィリ4:6を参照)、特に賛美において(1コリ14:16-19,エフェ5:19-20,コロ3:16を参照)感謝すべきだ、 と。 感謝の祈りをささげる聖書的な慣例に従って、司祭は私たちを「私たちの神である主に感謝する」ように招きます。しかもミサのこの時点で、私たちには既に感謝すべきことがたくさんあります。古代イスラエル人たちが敵から救い出されたことを主に感謝したように、御子を遣わして罪や悪魔から救って下さったがゆえに、今、私たちも神に感謝すべきなのです。キリストの死と復活であるあがないの行為が、このミサにおいて私たちにも実現しようとしているのですから、私たちはそれに対してへりくだって感謝を表わさなければなりません。 また、今まさに私たちの間で起ころうとしている神秘、奇しきみわざにも感謝しましょう。祭壇にささげられたバンとぶどう酒が変化して、イエスの御体と御血になろうとしているからです。私たちの主であり王である方は、真に現存される聖体のうちに、すぐさま私たちとともにおられることになります。私たちの教会が神の存在の宿られる新しい至聖所のようになるにつれて、私たちの心は感謝で満たされていきます。私たちがそこに近づいていけるとは、なんと畏るべき特権でしようか。私たちは、古代イスラエルの人々のように、神が住まわれる神殿に賛美と感謝に満ちた喜びの詩編とともに近づいていけるのです。事実、私たちは、巡礼者たちがエルサレムに近づいたとき耳にした詩編作者のことばの響き「感謝のうちに御前に進み」(詩95:2)や「感謝して主の門に進み」(詩100:4)を、司祭が「私たちの神である主に(賛美と)感謝をささげましょう」と促すとき、耳にすることになります。 とにかくミサのこの時点で、(私たちには感謝すべきことが実に数多くあります。それゆえ、〈私たちの前で今まさに起ころうとしている神秘に対して、唯一のふさわしい応答は感謝である)ということは間違いありません。「主に感謝するように」との司祭の招きに答えて、私たちは「それはふさわしく正しいことです」(Dignum et iustum est)と応えるのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 22 叙唱 司祭は、ミサ典礼書にある七十二の叙唱のうちから、その日にふさわしい叙唱を選んで唱える。 司祭 聖なる父、全能永遠の神、・・・・・・・・終わりなくほめ歌います。 主に感謝するように私たちを招いた後、司祭は直ちに、感謝の祈りにおいて神に語りかけます。その起句は御父に宛てられていて、私たちが聖書に一貫して見てきたこと、すなわち、主に感謝することは神の民の本分であることを表現しています。たとえば、ある叙唱は次のように始められます。 Vere dignum et iustum est, それはまことにふさわしく正しいことです。 aequum et salutare, また当然のことであり、救いでもあります。 nos tibi semper et ubique gratias agere: 私たちが、いつ、どこでも、あなたに感謝を ささげることは。 Domine,sancte Patet omnipotens aeteme Deus. 主よ、聖なる父にして全能、永遠の神よ。 しかし、司祭はこの祈りを自分のためにささげているのではありません。司祭は、自分と一緒になって神に感謝をささげたいという自分たちの望みを今まさに表現した会衆に代わってこの祈りをささげているのです。それゆえ彼らは、神に感謝と賛美をささげることは、まったくもって「ふさわしく正しいこと」だと言うのです。 ヨハネ・クリゾストモは、(司教として自らが思い描く)司祭がいかにこの祈りの中で会衆を代表しているかを特筆しながら、この点を指摘しています。「感謝をささげること(エウカリスチア)を共同でおこなうのは正しくふさわしいことです。感謝をささげるのは、司祭だけではなく、会衆全員がおこなうことなのです。司祭が祈りを唱え始めると、信者は続いてこう言って同意します。『それは正しくふさわしいことです』と。その後、司祭は感謝のわざ、すなわちエウカリステアを始めるのです」。 叙唱は、旧約聖書の詩編に見られる感謝の様式を踏襲しています。一般的に感謝は、神の創造のみわざの賜物(詩136:4-9)、民の生活の日々の糧(詩67:6-7)、驚くべきみわざ(詩75:1)、そして救いのみわざ(詩35:18)に対してささげられました。 この種の詩編では、主が特別な方法で人間を救って下さったことに対して、それが癒しであるにしても(詩30,116)、敵からの救いであるにしても(詩18,92,118,138)、あるいは困難からの解放であるにしても(詩66:14)、神の民は感謝をもってそれに答えたと伝えられています。詩編作者は自分たちの試練といかに神がそれから自分たちを救ってくれたかを物語っていますが、同時にそれは、賛美と感謝の根拠になっています。 この形式は詩編136に見られます。この詩編は、詩編作者が創造の驚くべきみわざのゆえに、つまり大地と水と星と太陽と月を造ったがゆえに(詩136:4-9)、神に感謝することから始まります。それから、この詩編はイスラエルの歴史における神の救いのみわざを物語ることへと移行します。つまり、イスラエルの民をエジプトから連れ出し、紅海を分け、フアラオを海の水の中に飲み込ませ、イスラエルの民を荒れ野を通らせて導き、そして遂にイスラエルの敵を打ち負かしたことを語るのです。 次に、詩編作者は、かつて自分たちの先祖を救われたのと同じ神が、現在に至って、神の民を解放するためにいかに働きかけられておられるかをも高らかに語つています。自分たちの先祖をエジプトから解放したその神が、また「私たちが低くされていたとき、私たちを思い出し」、「敵から私たちを助け出し」(詩136:23-24)て下さつたのです。それゆえ、詩編作者とともに集うその共同体には、感謝すべき大きな理由があるのです。 ご自分の民に対する神の愛は、歴史の中で終始一貫して変わることはありませんでした。神は、出エジプトの時代から現在に至るまで、ご自分の民にずつと誠実であり続けたのです。詩編作者は次のように結びます。「天の神に感謝せよ。いつくしみはとこしえに(変わることがない)」(詩136:26)と。 奉献文は、この聖書的な形式を踏襲しています。いにしえの詩編作者たちと同じように、私たちにも感謝すべきことがたくさんあるからです。詩編136のように、奉献文は救いの歴史の中で神がなされた驚くべきみわざを語ります。その語り口には多様な形式があり、それゆえ叙唱にはいくつもの選択肢があります。 この祈願の幾つかの形式は、天地創造のみわざのゆえに神に感謝をささげています。他の形式では、祝祭日や典礼季節にもよりますが、キリストの救いのみわざという特定の側面が強調されます。たとえば、降誕節に司祭は、神が人となられたことに感謝します。聖週間には、イエスがサタンに打ち勝つ時がいかに近づいているかに触れます。そして復活節には、キリストが私たちのために永遠の命を勝ち取られたことを神に感謝します。 しかし、これらの祈りはすべて、神の救いの計画の真髄について、つまり永遠の命を与えるキリストの死と復活のゆえに神に感謝することに焦点を当てています。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
23 感謝の賛歌 司祭の叙唱に続いて、会衆は感謝の賛歌を歌う。 司祭 聖なるかな、 会衆 聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主。 主の栄光は天地に満つ。 天のいと高きところにホザンナ。 ほむべきかな、主の名によりて来たる者。 天のいと高きところにホザンナ。 感謝の賛歌 Sanctus「聖なる、聖なる、聖なる主よ」 Sanctus, Sanctus, Sanctus 聖なる、聖なる、聖なる万軍の神なる主よ。 Domnus Deus Sabaoth. Pleni sunt caeli et tcrra gloria tua. あなたの栄光は、天と地に満ちています。 Hosanna in excelsis. いと高きところにホザンナ。 Benedictus qui venit in nomine 主の名において来られる方は祝福されますように。 Domini. Hosanna in excelsis. いと高きところにホザンナ。 私たちは、この祈りに促されて、聖体祭儀において現実に起こっていることを天使の視点で見ることができるようになります。 起句である「聖なる、聖なる、聖なる主よ」によって、私たちはすぐさま霊的に天に引き上げられます。これはイザヤ書の6章3節に由来するもので、この箇所において預言者イザヤは天の王が神の玉座に座しておられる幻を見ています。 そのとき、王の威厳が厳かに現われ、天のみ使いたちがその方を崇めています。イザヤは、「高く上げられた玉座に主が座っておられ、その衣の裾は聖所を満たしていた」イザ6:1)のを見たと伝えています。イザヤは、主の上に、六つの翼を持つ天使、すなわち「燃えてぃるものたち」を意味するセラフィムを見ました。 この特異な呼称は、この天使たちが非常に神に近い存在であるため、神の輝きを放っていることをほのめかしています。そうではあっても、このような天使的存在でさえ非常に長れかしこみつつ、神の臨在の前にあるのです。彼らは、神の満ちあふれる栄光に耐えられず目を背けて顔を覆い(イザ6:2)、お互いに呼び交わし、喜びに狂気して賛美の歌を次のように歌います。 「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな万軍の主。その栄光は、全地に満ちる。」(イザ6:3) ここで「聖なるかな」という語が三度繰り返されていますが、これはヘブライ語における最上級の強調表現です。そのようにセラフイムは、〈全き聖なる方であり、すべての神々を超える唯一の神である主〉を歓呼のうちに讃えているのです。また、「主の栄光は全地に満ちる」と歌いながら、被造物の至るところに示されるその成光のゆえに神を賛美しています。(詩8:1,19:1…6;24:1-3を参照) この天使の賛美の歌は劇的な効果を持っています。彼らが歌うとき、神殿の敷居は揺れ動き、その内部は煙で満たされます。イザヤは、当然のことながら畏れおののきます。イザヤは、自分が神の聖なる臨在に立ち会うには取るに足らない存在だと理解しつつ、「ああ、災いだ。私は汚れた唇の者。…しかも私の目は、王である万軍の主を見てしまった」(イザ6:5)と言います。 天使たちとともに歌う 新約聖書において、ヨハネはこれと同じ体験をしました。彼は主の日に霊に満たされて(黙1:10)、我を忘れさせる天上の典礼の幻を見たのです。ヨハネは栄光に輝く人の子イエスを見て、恐れながら「この方を見たとき、私は死人のようにその足元に倒れた」(黙1:17)と言い、イザヤと同様の反応をしています。イザヤと同じように、ヨハネは神の玉座の前で、「聖なる、聖なる、聖なる、全能者である神、主。かつておられ、今おられ、やがて来られる方」(黙4:8)と同じ賛美の歌を歌う六つの翼をもった天使のような生き物を見ています。全世界に現わされた主の栄光のゆえに、セラフイムが神を賛美したというイザヤの叙述を思い起こさせて、ヨハネは、その創造のみわざゆえに神を賛美しながら、いかに「二十四人の長老」が神の玉座の前にひれ伏して賛美の歌を歌っているかを、次のように伝えています。 私たちの主、また神よ、 あなたこそ、栄光と誉れと力とを受けるにふさわしい方。 あなたは万物を造られ、万物はあなたの御心によって存在し、 また造られたからです(黙4:11)。 こうした背景を念頭に置くと、私たちがミサで「聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、万軍の神なる主よ…」と歌うとき、それが何を意味しているのか、より明確になるはずです。私たちは、天使たちや聖なる人々とともに声を合わせて、喜びの賛美をささげているのです。ですから、ミサのまさにこの時に、私たちも天使、聖人たちと同じようにすることは、実に畏れ多くもふさわしいことではないでしょうか。 聖体祭儀において、私たちはイザヤやヨハネのようになって、天上の典礼の域に達するのです。天使たちが歌ったとき、地が揺れ動き、神殿を煙で満たした幻の中でイザヤが見たのと同じ天の玉座に、今このとき、私たちも神秘的に入っていくのです。 預言者も使徒も、ともに自分は畏るべきじるしを見るには取るに足りない者であると感じていましたし、セラフイムでさえも、神の栄光のみ前を飛び交っているときに、あえて顔を覆う必要を感じていました。 彼らに倣って、私たちは今、祭壇の上に現存しようとしておられる王の中の王、全き聖なる神である主に出会うために備えるのです。この賛歌を歌った後、私たちが畏敬の念を持って脆いてきたのも実に理にかなったことだったと言えましょう。 「感謝の讃歌」つまりSanctus(「聖なる」を意味するラテン語)として知られているこの祈りの後半で、私たちは、イエスがエルサレムに行列して入城された際に、彼を歓迎して群衆が用いたことば、「ホザンナ」(Hosanna)と「主の名において来られる方が祝福されますように」(Benedictus qui venit in nomine Domini)を繰り返します。 この二つの表現は詩編118に由来するのですが、もともとは巡ネしの詩編として、主要な祭の折に、神殿に向かう道すがら唱えられていたものです。「ホザンナ」は「私たちを救って下さい」を意味するヘブライ語の音訳で、典礼的な礼拝において賛美の表現になっていたものです。「主の名において来られる方」の上に願う祝福は、普通、神殿にやって来る巡礼者たちの上に祈り求められました。「枝の主日」として知られる日に、会衆は、主の名において来られる方、言い換えれば、〈神に等しく、神に代わって働きかけられる方であるイエス)を迎えるためにこの表現を用います。 ですから、聖体祭儀のこの時点で、私たちがこの表現を繰り返し口にすることは、まったくもってふさわしいことなのです。エルサレムの群集が、詩編118に起源を持つこの表現によってイエスを聖なる町に迎え入れたように、私たちも自分たちの教会にイエスを迎え入れるのです。なぜなら、イエスご自身が、祭壇上の聖体のうちに、今まさに現存しようとしておられるからです。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 司祭は奉献文を続ける。奉献文の間、会衆は司祭とともに立っている。 よく使われる第二奉献文(上段)と第二奉献文(下段)が次ページ以下に収められている。
24 奉献文 司祭は奉献文を唱える。(ここでは、第二奉献文を記載します。) 聖霊の働きを求める祈りEpiclesis 古代ユダヤ人の食卓の祈りにおける杯の祝福は、神がメシアをイスラエルに遣わして、ダビデの王国を再建して下さるようにとひたすら願う祈りを含んでいたことを、私たちは既に見ました。至極当然のことながら、初期キリスト信者たちは、これと同じ懇願を奉献文に含めました。 Epiclesis(エピクレーシス=ギリシア語で、元来「あだ名、あるいは一般的に『名』」を意味する語でした。それはある人を「その名」によって呼び、その人に呼びかけるときに用いられるその人の「名Jということです。この意から派生して、「名」に依り頼んで、その名をもつ方に祈り願うという意味が生まれました。それゆえこのことばは、「あるものの上に(神の助けなどを)呼び求めること」を意味するようになりました。)と呼ばれる聖霊の働きを求める祈りにおいて、司祭は、御父が聖霊を遣わして、パンとぶどう酒のささげものが私たちの主の御体と御血になるように祈ります。古代ユダヤ人たちがメシアを遣わして下さるよう神に切に願ったように、今ミサの中で、司祭は、パンとぶどう酒の形色のもとにメシアであり王である方が再び現存されますようにと、次のように祈ります。 Haec ergo dona,quaesumus,Spiritus tui rore sanctifica,ut nobis Corpus et Sanguis fiant Domini nostri lesu Christi それゆえ、私たちはお願いします。あなたの霊の露によって、これらのささげものを聖なるものにして下さいますように。私たちのために、私たちの主イエス・キリストの御体と御血になりますように。(第二奉献文) または、 Supplices ergo te, Domine,deprecamur, ut haec munera,quae tibi sacranda detulimus,codem Spiritu sanctiflcare digneris,ut Corpus et Sanguis finant Filii tui Domini nostri lesu Christi. それゆえ主よ、私たちは切にあなたに願います。これらの供えものは、聖なるものとしていただけるようにあなたにおささげしたものですが、あなたが同じ霊によつて、これらを聖なるものにして下さいますように。あなたの御子、私たちの主イエス・キリストの御体と御血になりますように。(第二奉献文) これとは別に、聖体制定の叙述の後に続くもう一つのエピクレーシス(聖霊の働きを求める祈り)があります。それは、古代ユダヤ教の種々の祈りの中で唱えられたもう一つの懇願、つまリダビデの家の再建を切に願うことと関係しています。ちようど『メシアが、再建されたダビデの王国で神の民を一つにしてくれるように』と多くのユダヤ人たちが期待したように、私たちは、聖体祭儀において私たちのところにやつて来られるメシアが、自分たちをその教会の中でもっと強固に一つにしてくれるにちがいない、と確信して願うのです。 それゆえ司祭は、聖霊に依り頼み、より大きな交わりにあずかる人々をすべて聖体が引き寄せてくれるように次のように祈ります。 Concede,ut qui Corpore et Sanguine Fiilii tui reficimur, Spiritu eius Sancto repleti, unum corpus et unus spiritus inveniamur in Christo. あなたの御子の御体と御血によつて私たちが養われ、その聖霊に満たされて、キリストのうちにあつて、一つの体、一つの霊となりますように。(第三奉献文) 同様に、他の奉献文においても、司祭は、聖体祭儀の中でキリストの唯一の体にあずかる私たちが、「一つに結ばれますように(congregemur in unum)」(第二奉献文)、あるいは「一つの体に集められますように(in unum corpus.…congregati)」(第四奉献文)と切に願います。 ちなみに東方教会、ことに正教会においては、秘跡制定句ではなく、このエピクレーシスこそ聖別の効果をもたらす要因であると考えられてきました。『聖ヨハネ・クリゾストモの聖体礼儀』では、主の晩餐のことばが先に唱えられ、その後、パンと杯のぶどう酒が聖霊の働きによって聖別されるように祈り、イエス・キリストを示す聖号(lCXC)を用いながら十字のしるしをすることによって、それらがキリストの御体と御血になると考えられています。 とはいえ東方教会の神学においては、そもそも全実体変化という概念がなく、またいつ、どのようにパンとぶどう酒が御体と御血に変化するのかという仔細な議論もさして重要ではありません。むしろ被造物の神との交わりを回復・実現させる聖体礼厳のものによって、教会全体が聖なる者の集いへと変えられていくことの方が根本的に重要だと考えられてきました。27聖体の保存および礼拝の習慣がない正教会においては、聖体は仰ぎ見て拝む対象ではなく、「取って食べなさい」とキリストが言われたとおり、あくまでも皆がキリストの命にあずかるためにいただくものなのです。(「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 注)現在のギリシア、ロシアなどの正教会には、ローマを常時聖櫃に納めておくという習慣はありません。 まことにとうとく すべての聖性の源である父よ、 いま聖霊によってこの供えものを とうといものにしてください。 わたしたちのために 主イエス・キリストの 御からだと+御血ちになりますように。 主イエスはすすんで受難に向かう前に、 パンを取り、感謝をささげ、 割って弟子に与えて仰せになりました。 「皆、これを取って食べなさい。 これはあなたがたのために渡される わたしのからだ(である)。」 会衆は司祭とともに合掌して深く礼をする。 食事の終わりに同じように杯を取り、 感謝をささげ、 弟子に与えて仰せになりました。 「皆、これを受けて飲みなさい。 これはわたしの血の杯、 あなたがたと多くの人のために流されて 罪のゆるしとなる 新しい永遠の契約の血(である)。 これをわたしの記念として行いなさい。」 会衆は司祭とともに合掌して深く礼をする。 聖体制定の叙述/聖別 Accipitc et manducate ex hoc omnes: みな、これから取って食べなさい。 hoc est enim Corpus meum, なぜなら、これは私の体、 quod pro vobis tradetur. あなたたちのために渡されるものだから。 Accipite ct bibite ex eo omnes: みな、これから受けて飲みなさい。 hic est enim calix Sanguinis rnei なぜなら、これは私の血の杯、 novi et aetemi testamenti, 新しい永遠の契約の、 qui pro vobis et pro multis effundetur あなたたちと多くの人々のために流されるものだから、 in remission peccatonm. 罪のゆるしのために。 Hoc facite in meam commemorationem. これを私の記念としておこないなさい。 カトリック信者の中には、これらのことばはあまりにも聞き慣れているという人もいるかもしれません。私たちの中には、子供の頃からミサのたびに繰り返されているこれらのことばを何百回となく聞いたと言う人もいます。いつものことだと嫌気が差したり、日課のように受け止めていたりする人さえいるかもしれません。 しかし、私たちがこれらのことばを、過去に一度も聞いたことがなかったとしたらどうでしようか。私たちが、最後の晩餐の席にいたペトロやヤコブ、あるいは他の使徒たちの一人だとしたらどうでしようか。私たちにとって、これらのことばはどんな意味を持つでしょうか。 これらの聖なることばの意味を十全に理解するためには、ユダヤ教の過越祭を背景にそれらを聞くことが重要です。 聖体制定の経緯を語る福音書は、最後の晩餐が過越の食事(すなわち神がイスラエルをエジプトから解放したあの夜の出来事を起源とする、イスラエルの歴史を通して祝われる祭ネL[マタ26:19;マコ14:16;ルカ22:13])という脈絡の中でおこなわれたことを私たちに物語っています。 最初の過越のとき、神は、傷のない小羊をいけにえとしてささげ、それを食べ、その小羊の血を戸回の柱にしるしとして塗るよう指示しました。この儀式にあずかった家族は命を救われましたが、そのときエジプト人の初子は十番目の災いによって死んでしまいました。その後、イスラエルの民は、毎年、その最初の過越の話を繰り返し語り、再びいけにえの小羊を食べて繰り返し過越の食事をおこなって来たのです。 そして最も意義深いことは、イスラエルの民が毎年祝う過越祭(出12:14参照)を典礼的な「記念」(ギリシア語で「アナムネーシス」anamnesis)として祝ってきたということです。この事実は、古代のユダヤ人たちにとって、単に過去の出来事を思い起こすこと以上の意味を含んでいます。 過越祭のような記念日は、アメリカ国民が単に自分たちの国の建国を思い起こす7月4日のような現代の休日とは全く異なったものでした。聖書で言う「記念」において〈過去)とは、ただ単に思い起こされるだけのものではなく、追体験されるものでもありました。過去の出来事は、祭礼を祝っているイスラエルの人たちに神秘的な仕方で現在化されました。 このようなわけで、イエスの時代のユダヤ人たちは、過越祭を祝うとき、最初の過越が「記念」として自分たちに現在化されているものと信じていました。実際、後のユダヤ教のラビたちの過越についての記述によれば、ユダャ人がその祭を祝うとき、まるでエジプトから脱出した世代の偉大な祖先たちとともに、エジプトから歩いて脱出しているかのようであったと語られています。『カトリック教会のカテキズム』にも、これと同じことが指摘されています。 記念とは、聖書的には、過去の出来事を単に想起することではなく、神が人間のためにおこなわれた偉大なわざを宣言することを意味します。これらの出来事を祝う典礼祭儀の中で、出来事は何らかの形で現存し、現在化されます。イスラエル人たちは、エジプトからの解放を記念する過越祭をおこなうたびに、それによつて自分たちの生活が活性化できるように、解放の出来事が信じる者たちの記憶の中によみがえってくると理解しています。 このように最初の過越の出来事が継承されていたがゆえに、各々の新しい世代は、支配者への隷属から解放されたことの起源となるこの出来事に、霊的に参与できたのかもしれません。こうして毎食ゃこなわれる過越祭は、世代から世代ヘー貫して継承され、連帯性を陶冶していきました。すべてのイスラエル人は過越祭に参与し、皆がエジプトでの奴隷状態から救われたのです。そして皆が、契約による唯一の神の家族として結ばれてきたのです。 ミサはいけにえであるのか もし仮に、あなたが最後の晩餐の席にいた使徒たちの一人であるとしたら、イエスのことばのうちで、あなたの心を打つはずのものと言えば、いけにえに関する言い回しを使って、イエスが自らのことを表現されたことばではないでしようか。 第一に、過越の出来事それ自体がいけにえに関わることであつたのです(出12:27)。イエスが過越祭という脈絡の中で体と血について語っているとすれば、過越の小羊、つまり儀式においていけにえとなったその体と、それから取り分けられた血のことが思い出されるからです。 第二に、イエスがご自分の体について「あなたたちのために渡される(ことになる)」と言われるとき、ルカ福音書の中で「渡される」を表現している用語(ギリシア語でdidomai)は意味深長です。というのも、新約聖書の他の箇所では、そのことばがいけにえとの関連で用いられているからです(たとえば、ルカ2:24;マコ10:45;ヨハ6:51;ガラ1:4を参照)。 第三に、イエスが「…のために流されて、罪のゆるしとなる」自らの血のことを話すとき、それは罪のゆるしをもたらす目的で祭壇の上に注がれた血のこと(レビ4:7,18,25,30,34)、すなわち神殿でささげられたあがないのいけにえをほのめかしています。 そして第四に、たぶん最も意義深いこととして、イエスは「新しい永遠の契約の血」について語つておられます。 このことばは、神とご自分のお選びになった民との契約を締結するシナイ山でのいけにえの儀式のときに、モーセが言ったことばを反映しています(出24:1-17)。いけにえの祭儀の途中で、モーセは動物の血を取って次のように告げました。「見よ、これは契約の血である」(出24:8)と。 預言者エレミヤは、神が「イスラエルの家と結ぶ新しい契約」について語り(エレ31:31-35)、それが人々の心のうちに刻み付けられるものであり、それを通して人々が真の神の民となる約束について語りました。 また預言者イザヤは、神がみことばに聞き従う人々との間に「ダビデに約束した真実といつくしみによる永遠の契約」(イザ55:3)を結ぶことを語っています。 エゼキエルは、神がその民をあらゆる罪から清め救いその只中に住まわれること、そして一人の牧者を送り「永遠の平和の契約」(エゼ37:26)を結ぶことを語っています。 そしてまさにイエスは、最後の晩餐のときに、自らの血のことを「新しい永遠の契約の血である」と言っておられるのです。そこに居合わせた使徒たちは、このことばを聞いて、モーセがシナイ山でのいけにえの血について語つたことをすぐさま思い出したことでしょう。あるいは、預言者たちが語つた新しい契約、ダビデの結ぶ〈いつくしみと愛にもとづく新しい永遠の契約)について想起できたかもしれません。 いずれにせよイエスはここで、過越の慣例儀式、渡される体、流される血、そして契約の血というすべてのいけにえにまつわる主題と合わせて、何らかのいけにえのことを語ろうとしておられるように思われます。しかしイエスは、(過越の食事の脈絡から思い浮かぶ)いけにえとしてささげられる過越の小羊について語る代わりに、いけにえとしてささげられ、また注がれるご自分の体と血について語っておられるのです。今や彼の血が、契約のいけにえの血なのです。驚くべきことに、イエスはご自分のことを、普通に過越祭でささげられるいけにえの小羊であると見ておられます。 こうして最後の晩餐のときのイエスの行為から、不思議にも十字架上で彼がいけにえとなることがそれとなく予見されているのです。最後の晩餐という過越の食事で、イエスは罪のゆるしのために進んでご自身の体と血をささげられました。もはや、彼が他になすべきことは、ただ聖金曜日に自ら血を流してそのいけにえをささげることだけでした。 「イエスは、弟子たちが食べ、飲むように与えるのは、自分のからだと血であると仰せになっただけではありません。イエスはそれらがいけにえとしての意味を持つことを示され、ご自分のいけにえが秘跡のかたちで現存するようにされたのです。それから、イエスはこのいけにえをすべての人の救いのために十字架上でささげられました」(教皇ヨハネ・パウロ2世、『教会にいのちを与える聖体』12項)。 確かにヨハネ福音書は、明らかにイエスを「世の罪を取り除く神の小羊」として一貫して描いているのですが、イエスは、ご自身が「世に命を与える天から降ってきた命のパンであり、永遠に渇くことのない命の泉である」と語っておられます(ヨハ6:32-36参照)。そして信仰をもってくイエスの肉を食べ、その血を飲む者は永遠の命を得る)と教えているのです(ヨハ6:53-57参照)。つまリイエスのいけにえにあずかることこそ、罪のゆるしを得ることであり、またイエスの命にあずかること、永遠の命に生きることにほかならないのです。 最後の晩餐と十字架との関係を理解すると、いかに今日私たちがささげる聖体祭儀が、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘でささげられたキリストのいけにえを記念しているかという重要なことが明らかになります。イエスは、「私の記念としてこれをおこないなさい」と言って、聖体の制定を締めくくっておられるからです。 イエスが使徒たちにおこなうように命じられる「これ」とは何のことでしょうか。それは、彼の体と血という新しい過越のいけにえを祝うことです。 では、どのように彼らはそれをおこなわなければならないのでしようか。それは、聖書が言うところの「記念として」です。ミサで使われる「記念」ということばには、すでに見たように、ただ単に過去の出来事を思い起こすこと以上の意味があります。典礼的な記念は、過去と現在とを同時にもたらし、昔の出来事を現世代のために神秘的な仕方で現在化させます。 ですから、イエスが使徒たちに「私の記念としてこれをおこないなさい」と命じられたとき、人々に自分のことを容易に思い起こさせるような単純な祭儀的な食事を摂るように言つていたわけではないのです。イエスはまさに典礼的な記念として最後の晩餐を祝うように教えておられたのです。最後の晩餐が意味することはすべて、中でも特に、キリストの御体と御血といういけにえのささげものが、あますことなく、聖体祭儀の中で信者たちに対して現存することになります。 最後の晩餐においてイエスは弟子たちに、ご自身と御父との愛の交わりのうちに留まるように教え(ヨハ15:9-10参照)、「私があなたがたを愛したように互いに愛し合いなさい」(ヨハ15:12)という掟を与えられました。それゆえ私たちは、イエスの契約にあずかる者として聖体祭儀をとおして彼が私たちのために命をささげたその愛を現在化し、神と隣人への愛に生きるという掟を世の終わりまで履行していくよう招かれているのです。 こうして、最後の晩餐という典礼的な記念としての聖体祭儀は、今日の私たちにも秘跡的に現在化して、エルサレムの三階の広間、そしてゴルゴタ(カルワリオ)の丘の出来事になります。そして、ちようどいにしえのユダヤ人たちが、毎年、過越を記念してエジプト脱出にあずかったように、私たちも、聖体祭儀という新しい過越を祝うたびに、イエスの十字架上の死による勝利という新しい出エジプト(exodus)、つまり永久の死から永遠の命への過越に参与するのです。 この意味において、ミサはいけにえと理解されるべきです。『カトリック教会のカテキズム』が説明しているように、「新約聖書では、記念には新たな意味づけがなされています。教会が聖体祭儀(エウカリステア)をおこなうとき、キリストの過越を記念し、これが現存するものとなります。キリストが十字架上でただ一度ささげられたいけにえは、つねに成し遂げられた状態にある」のです。そして、このいけにえは救いの目的のために現在化します。それはすなわち、その救いの力が私たちの生活に働きかけ、私たちが犯す日々の罪に打ち勝つため、また私たちが、自らをすべてささげるイエスの愛のおこないにおいて彼とより深く一致することができるためです。 実にミサにあずかるたびに、私たちは、御子の親密さ、御父に自らをささげる愛のささげもの(十字架上でイエスが亡くなるときに最も明らかに示されたささげもの)に秘跡的に参与する特別の機会をいただくのです。『カテキズム』が説明しているように、ミサにおいて、私たちは、自分たちのあらゆる喜びと苦しみを、イエスが自らを御父にささげることと結び合わせることができます。またそうすることによつて、私たちはさらに自分たちの生活を御父へのささげものとして奉献するのです。 「聖体祭儀では、キリストのいけにえはまた、そのからだに属する人々がささげるいけにえとなります。信者たちの生活、賛美、苦しみ、祈り、労働などは、キリストのそれとキリストのまったき奉献とに合わせられ、新たな価値を得るのです。祭壇上に現存するキリストのいけにえによって、すべての時代のキリスト者がキリストの奉献に一致することが可能となります。 多くの人のためなのか、あるいはすべての人のためなのか 新しい英語版のミサ典礼書の中にある二つの変更点について簡潔に述べておきたいと思います。 第一に、かつての聖体制定の叙述の翻訳では、キリストの血の「杯」に“thc cup"という表現を当てていたのに対して、改訂訳では“the chalice"と表現しています。この方が、ラテン語規範版のミサ典礼書により忠実であり、かつより正式な表現で、この容器の典礼的な本性を強調する翻訳です。これは普通に使われるコップではなく、主が最後の晩餐のときに制定された聖体祭儀に使われる「カリス(聖杯)」を指します(ルカ22:20;1コリ11:25以降を参照)。この最も神聖なる器は、伝統的に英語で“chalicc"と呼ばれてきましたから、この用語が改訂訳で使われることになりました。 第二に、かつての英語のミサ典ネL書の翻訳では、人々の罪のあがないの価値を持つイエスの血は、「すべての人のため」“for all"に流されたと表現されていました。しかし改訂訳では、この「すべての人のため」“for all"の代わりに「多くの人のため」“for many"と置き換えられています。 “For this is thc chalice of iny blood,the blood of thc ncw and eternal covenant,which will bc poured out for you and many for the forgiveness of sins.'' これは、あなたたちのため、また多くの人のために、罪のゆるしのために流される私の血、新しい永遠の契約の血の杯である。 注)このラテン語原文は、“Hic est cnim calix sanguinis mei novi et aeterni testamenti,quipro vobis et pro multis effundetur in remissionem peccatorum''です。 実は翻訳をこのように変更した方が、諸福音書にあるイエスによる実際の聖体制定の叙述(たとえばマタ26:28)により近いものとなるのです。またこの方が、ラテン語規範版と、また何世紀にもわたって聖体祭儀のこの部分で用いられてきた言い回しとも、より調和が取れるのです。 しかしながら、「多くの人のため」ということばは、イエスの普遍的な救済の使命の目的を限定してしまう表現なのではないか、と疑問視する人たちも中にはいました。新しい言い回しは、イエスが皆のために十字架にかかって死んだのではない、つまリイエスがゴルゴタ(カルワリオ)の丘で血を流されたのは「すべての人のため」ではなく、まさに精選されたグループの人たちのため(多くの人のため)であったという印象を与えかねないことが危惧されたのです。 しかしながら新しい翻訳は、基本的な次元において、間違いなくイエスはすべての人のために死んだにしても、誰もがこのささげものの享受を選択するわけではないという現実を指摘しているのです。つまり個々人が救いの賜物を歓迎し、この恵みに従って生活することを選択しなければならないのです。そうすることによつて、誰もがこのミサ典礼書に記述されている「多くの人」に含まれることになります。 さらに、多くの聖書学者は、最後の晩餐の席で「多くの人のため」に流される血についてイエスが語った言い回しが、イザヤ書の53章11-12節で三度言われている「多くの人」を彿彿させると述べてきました。イザヤは、その預言の中で、自らを死に渡し、「多くの人」の罪を負い、「多くの人」を義とするため(イザ53:10-12)、神が「罪のためのささげもの」となるご自分の僕を遣わして下さるであろう、と予め語っています。 イエスは、最後の晩餐のとき「多くの人」のためにご自分の血が流されることを語つて、ご自身がイザヤの言う「苦しむ僕」であることを明らかに示されています。イエスこそ、「多くの人」のために死ぬ目的で来られた方なのです。このことは、イエスが「すべての人のため」に死んだ(1テモ2:6)という事実に反して理解されるべきではありません。 イザヤ書の他の箇所で「主の僕」について語られている預言によれば、彼が人類すべてに救いを告げ知らせる普遍的な使命を担つていることは明らかです(たとえば、イザ42:1-10;49:6;52:10参照)。ある意味で、「多くの人」という表現は、彼らのために死ぬことになる唯一の方、すなわち主の僕(イエス)を、そのあがないのいけにえから利する多くの人と対比しているように思われます。 注)旧約聖書の七十人訳のギリシア語では、イザ53:11-12「多くの」という語が用いられています。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
26 記念唱 司祭 信仰の神秘。 会衆 主の死を思い、復活をたたえよう、 主が来られるまで。 または 主の死を仰ぎ、復活をたたえ、 告げ知らせよう、主が来られるまで。 信仰の神秘 Mysterium Fidei 私たちは、今まさに、ミサの中でもここぞという瞬間に到達しました。司祭がパンとぶどう酒の上に聖別のことばを語つた今、それらはキリストの御体と御血になっているのです。司祭は、キリストの御血が入っているカリスの前で、沈黙のうちに神を賛美しながら敬虔に片膝をついてから立ち上がり(日本では合掌して深く礼をする)、厳粛に「信仰の神秘」(Mysterium Fidei)と言います。 このことばは、本来、これに対して会衆が返すべきことばを発するように招く儀式上の指図というようなものではありませんでした。このことばはむしろ、今まさに生起している神秘のことで司祭が感じる驚きや畏敬の念を表現しているものと言えます。神の子であるイエス・キリストの御体と御血は、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘で私たちの罪のためにささげられましたが、そのイエスは、今やパンとぶどう酒の形色のもとに祭壇の上に実際に現存しているのです。それゆえパウロの表現(1テモ3:9)を用いて、司祭はこれこそまさに「信仰の神秘」であると声高らかに宣言するのです。 この神秘によって司祭が感じる驚きに共感して、会衆は「イエスの死と復活に集約された救いの歴史を告げ知らせます」と宣言するのです。この会衆の宣言については、三つの選択肢がありますが、そのうち二つはパウロがコリントの教会の信者に宛てていることば「だから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(1コリ11:26)から取られています。 Mortem tuam annuntiamus,Domine, 主よ、私たちはあなたの死を告げ知らせます。 et tuam resurrectionem cofitemur, そして、あなたの復活を告白します。 donec venias. あなたが来られるまで。 または、 Quotiescumque manducamus panem 私たちはこのパンを食べ、この hunc et calicem bibimus, 杯を飲むたびに、 mortem tuam annuntiamus,Domine, あなたの死を告げ知らせます。 donec venias. 主よ、あなたが来られるまで。 三つ目の選択肢は、イエスを信じてやって来たサマリア人たちが、イエスに出会った後に言ったことば、「私たちは、この方が本当に世の救い主であると分かつたのです」(ヨハ41:42)を用いながら、キリストの死と復活が持つ救いの力を告げ知らせるものです。 Salvator mundi,salva nos, 世の救い主よ、私たちをお救い下さい。 qui per crucem et resurrectionem あなたは、あなたの十字架と復活によつて、 tuam liberasti nos. 私たちを解放されました。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 司祭は奉献文を続ける。 わたしたちはいま、 主イエスの死と復活の記念を行い、 ここであなたに奉仕できることを感謝し、 いのちのパンと救いの杯をささげます。 キリストの御からだと御血に ともにあずかるわたしたちが、 聖霊によって一つに結ばれますように。 世界に広がるあなたの教会を思い起こし、 わたしたちの教父〇〇〇〇世、 わたしたちの司教○○○○(姓名)、 (補佐司教の姓名を加えることができる) すべての教役者をはじめ、 全教会を愛の完成に導いてください。 また、復活の希望をもって眠りについたわたしたちの兄弟と すべての死者を心に留め、 あなたの光の中に受け入れてください。 なお、わたしたちをあわれみ、 神の母おとめマリアと使徒をはじめ、 すべての時代の聖人とともに 永遠のいのちにあずからせてぐださい。 御子イエス・キリストを通して あなたをほめたたえることができますように。 記念Anamenesis、奉献、取り次ぎ、栄唱 私たちに明らかにされるこの筆舌に尽くし難い神秘を、私たちはすべて一度に理解することはできません。そのため、それらの意味を把握してその神髄に迫るために、ひと呼吸おいて時間を長く取る必要があるかのような叙述が続きます。聖体制定の叙述に続く二つの祈りがまさにそれです。その二つの祈りは、ミサの中で生起していることの多様な様相を明確にし、私たちがそれを心の中で沈思黙考する機会を与えてくれます。 最初の祈りは、アナムネーシス(anamnesis)つまり「記念」と呼ばれます。私たちは、奉献文がいかなる意味で(典礼的な)「記念」であり、十字架上のキリストの救いのわざを現在化し、それゆえ私たちがその力に、より十全的に参与できるかを見てきました。しかしながら、より厳密で専門的な意味において、このアナムネーシスとはミサの中で生じていることを明らかにする祈りのことを意味します。イエスは、「私の記念として、これをおこないなさい」と言われました。そこで、司祭は教会が忠実に以下の命令を果たしてきたと、天の御父に語ります。 Memores igitur rnortis et resurrectionis eius… それゆえ、あの方の死と復活の記念を…(第二奉献文) もちろん神に対して、私たちが典礼で何をおこなうのかを告げ知らせる必要はありません。すでに神はそれをご存知であり、その意味を完全に理解しておられます。しかしながら、私たちの側には神に語る必要があります。小さな子どもたちが熱心に自分たちの功績を親に報告するように(たとえば、「パパ、僕が外野にヒットを打ったのを見てくれた?二塁打になったんだよ!」というように)、私たちには、聖なる神秘にあずかる喜びを天の御父に伝える必要があります。 奉献 (典礼的な)「記念」(anamnesis)は、「奉献」として知られる二つ目の祈りの基礎になります。その奉献は、ミサにおいて〈聖金曜日にイエスがささげたもの)をささげるという、長れ多い特権を私たちがいかにいただいているかを表現しています。十字架上でイエスは、ただひとりご自身のいけにえをささげられました。ミサにおいて、イエスは私たちをこのいけにえと結び合わせながら、ご自身の教会とともにそれをささげておられるのです。 Offerimus tibi, gratias referentes, hoc sacrificium vivum et sanctum. 私たちはあなたにささげます。感謝しながら。この命に満ちた聖なるいけにえを。(第三奉献文) 上述のように、私たちはこのキリストのいけにえと一つになるよう、招かれています。そのことゆえに、奉献文の中で、奉献が単にキリストのいけにえと呼ばれるだけではなく、「あなたの教会のささげもの(oblatio Ecclesiae tuae)J(第三奉献文)とも呼ばれるのです。 そして教会は、ミサを祝うたびに、キリストの十字架上のささげものである唯一のキリストの自己奉献のわざに参与していることから、その二つのささげものは実際には一つのものであります。 またこのささげものの象徴性は、いかに教会が自力で自らを神にささげているのかではなく、キリストのいけにえと一つになってささげているのかも示しています。パンとぶどう酒の物質的なささげものが、まさにキリストご自身の完全なささげものをいかに象徴していたのかを思い出して下さい。 ところで、聖別の後、神にささげるこのような人間的なささげものは、聖体としてのキリストの御体と御血、すなわち御父にささげられた御体と御血になっています。それゆえ、教会はキリストにおいて十字架上の御子の完全な自己奉献的な愛に参与するのです。このことを『ローマ・ミサ典礼書の総則』は次のように説明しています。 この記念の中で、教会、とくに今ここに集まった教会は、聖霊のうちにあって、汚れのないいけにえを御父にささげます。しかし教会は、信者が汚れのないいけにえをささげるだけでなく、自分自身をささげることを学び、キリストを仲介者として、日々神との一致と相互の一致の完成に向かい、ついには神がすべてにおいてすべてとなるように意図しているのです。 三つの典型的ないけにえ 第一奉献文では、次いで聖書からいけにえの三つの雛形が引用され、神がアベル、アブラハム、メルキゼデクのいけにえを喜んで受け入れられたように、教会のささげものを受け入れて下さるように願います。 …accepta habere, sicuti accepta habere dignatus es munera pueri tui iusti Abel, et sacrificuim Patriarchae nostri Abrahae, et quod tibi obtulit summus sacerdos tuus Melchisedech, sanctum sacrificium, immaculatam hostiam. それらを受け入れて下さい。かつてあなたが、あなたの僕である義人アベルの供えもの、私たちの父祖アブラハムのいけにえ、またあなたの大祭司メルキセデクがあなたにささげたものを、聖なるいけにえ、汚れの無いいけにえを受け入れて下さつたように。 旧約聖書に登場するこれらの父祖たちは、それぞれキリストのいけにえを前もって示すいけにえをささげ、キリストの供えものに結ばれながら、私たちが神にささげるべき典型的な自己本献を示しています。 パンとぶどう酒を神にささげ、またアプラハノ、を祝福した神秘的な祭司であり王であったメルキゼデクの供えものに神は好意を示されました。キリスト教の最初期から、彼のいけにえは、最後の晩餐のときのパンとぶどう酒、すなわちキリストのいけにえを予示していると考えられてきました。「アベルの供えもの」と聞くと、私たちは神に最善を尽くさなければならないことを思い起こします。人地の実りをささげただけの彼の兄弟カインとは対照的に、アベルは「羊の群れの中から肥えた初子」(創4:4)をいけにえとしてささげ、喜んで主に最善を尽くました。 神はアベルの寛大ないけにえに好意を示されましたが、カインにはそうではありませんでした。 最後に、アブラハムは、パンやぶどう酒あるいは動物以上のものをささげました。彼は進んで自分にとつて最も尊いもの、すなわち自身のひとり息子であるイサクを神にささげました。アブラハムのいけにえにまつわる出来事は、たぶん旧約聖書のどのようないけにえよりも、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘でささげられたキリストのいけにえを前もって示すものです。 創世記22章は、アブラハムがいかに愛するひとり子イサクをモリヤの山にろばに乗せて連れて行ったかを語つています。イサクは、いけにえささげるために使う薪を山に運んで登り、あがないのいけにえとしてささげられるためにその薪の上で縛られました。神に完全に身を委ねて従うというこのアブラハムの英雄的な行為に応えて、神は彼の子孫を通して全人類を祝福すると誓われました。 何世紀も経た後、父なる神はご自身の愛するひとり子イエスをエルサレム(アブラハムがイサクをささげたところ、まさにモリヤを思い起こさせる町[代下3:1;詩76:2参照])でささげました。イサクのように、イエスはろばに乗ってその地に向かい、イサクのようにゴルゴタ(カルワリオ)の丘まで十字架という木を担っていきます。そこで、再びイサクのように、イエスはその木に縛られ、あがないのいけにえ(創世記22章で、神がアブラハムに誓われた世界中に祝福をもたらすいけにえ)としてささげられます。こうして、聖金曜日に神である御父と神である御子は、その昔アブラハムとイサクによって予め示されたことを成就させ、人類を祝福するというアブラハムに約束した誓いを現実のものとされたのです。 取り次ぎの祈リ 奉献文が結びに近づくころ、司祭は様々な取り次ぎの祈りをささげます。初めに司祭は、すぐにキリストの御体と御血によつて養われることになるすべての会衆のために祈ります。「キリストのうちにあつて、一つの体、一つの霊になりますように」(第三奉献文)と。 これは、コリントの教会への第一の手紙の10章17節にあるパウロの次のことばを反映しています。「パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンにあずかるからです」。 司祭はまた、私たちがキリストのいけにえに参与することで、「あなたにささげられた永遠の供えもの」(第三奉献文)、あるいはローマの教会に対するパウロの勧め、すなわち「自分の体を、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげなさい。これこそ、あなたがたの理にかなった礼拝です」(ロマ12:1)を反映している「生けるいけにえ(まことのささげもの)」(第四奉献文)となるように祈ります。 次に司祭は、教皇と教区司教の名を挙げ、それからすべての司教たちと聖職者、そして生者も死者も合わせた神の民全体のために取り次ぎを願いながら、まず普遍教会のために「全世界に広がる教会」(第二奉献文)、「地上を旅する教会」(第三奉献文)のために祈ります。取り次ぎの祈りには、普遍的な視野をもって「使徒からの同じ信仰を正しく伝えるすべての人」(第一奉献文)、「あなたの民となったすべての人」(第三奉献文)への祈りに加えて、「真心をもってあなたを探し求めるすべての人のため」(第四奉献文)の祈り、そしてミサのいけにえが「全世界の平和と救いのためになりますように」(第二奉献文)という祈りもあります。 続いてささげられる死者のための祈りも、「信仰のうちに先立った人」(第一奉献文)、「あなただけがその信仰を知っておられるすべての死者」(第四奉献文)、さらに「み旨に従って生活し、いまはこの世を去ったすべての人」(第三奉献文)、「すべての死者」(第二奉献文)のためにささげられます。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
27 栄唱 司祭 キリストによってキリストとともにキリストのうちに、 聖霊の交わりの中で、全能の神、父であるあなたに、 すべての響れと驚光は、世々に至るまで、 会衆 アーメン。 結びの栄唱(doxology)と大いなるアーメン 奉献文は、すでに二世紀にはミサで使われていた賛美の表現とともに終極に至ります。そこで、会衆は英語で“the great Amen"つまり「大いなるアーメン」(「全くそのとおり」という意味)として知られている返答をもって答えます。 「アーメン」はヘブライ語の単語の音訳であり、それまで言われてきたことの有効性を確約するもので、典礼が関係する諸状況においてしばしば用いられていました。たとえば、レビ人たちが「イスラエルの神、主はたたえられよ、世々とこしえに」と歌うと、民はこ対して唱和して「アーメン」(代上16:36)と声を上げました。またエズラが厳粛な集会の中で律法の書を朗読したとき、神への賛美で最後を締めくくると、民は「アーメン、アーメン」と答えました(ネヘ8:6)。パウロもこのことばを同じように使っており(ロマ1:25;ガラ1:5;エフェ3:21)、彼の書簡の中には「アーメン」で締めくくられたものさえ認められます(1コリ16:24;またいくつかの写本の1テサ5:28;2テサ3:18にも見られます)。 最も特筆すべきことは、天上の天使たちや聖なる者たちが、それぞれ天上の典礼において一斉に神への賛美を国にしながら、いかに「アーメン」と声をあげているかということです。黙示録では、天と地と地の下にあるあらゆる生き物は、「玉座に座っておられる方と小羊とに、賛美、誉れ、栄光、権力が世々とこしえにありますように」と唱和しています。天使的被造物はそれに答えて「アーメン」と言いますが、まるで「然り、主はとこしえに賛美され、たたえられますように」と大きな声をあげているかのようです。また別の場面では、天使たちは、「アーメン。賛美、栄光、知恵、感謝、誉れ、力、権威が、世々限りなく私たちの神にありますように、アーメン」(黙7:12;また黙5;14;19:4を参照)と言い、神の玉座の前にひざまずいて礼拝しています。 天上の天使たちと聖なる者たちのこの賛美は、司祭がミサのたびに次のように言うところで、地上においても繰り返されています。 Per ipsum, et cum ipso, et in ipso, est tibi Deo Patri omnipotenti, in unitate Spiritus Sancti, omnis honor et gloria per omnia saecula saeculorum. 彼(キリスト)自身によつて、彼自身とともに、彼自身のうちに、全能の父なる神であるあなたに、聖霊との一致のうちに、すべてのほまれと栄光が、世々とこしえにありますように。 これらのことば自体、聖書にその起源があります。その一部は、パウロのローマの教会への手紙に由来しています。「すべてのものは、神から出て、神によつて保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン」(ロマ11:36)という具合に。 パウロはまた、エフェソの教会への手紙の4章3節で「霊による一致」についても触れています。典礼のこの箇所は、ミサにおける私たちの礼拝が三位一体的な本性を持っていることを表現しています。私たちは、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘で完全に自己奉献された御子によって、御子とともに、御子のうちに、また私たちの中に住まわれる御子の霊と一致して、私たちの人生のすべてをささげながら、全能の御父を最善の形で賛美するのです。 「すべてのほまれと栄光が、世々とこしえに、全能の父なる神にありますように」という司祭の賛美の声を耳にした後、私たちは天使たちのように答えて、ぜひとも一緒に神を賛美したいという気持ちで、「アーメン」と大きな声をあげます。そして、これは普通の「アーメン」ではありません。「アーメン」と言いながら、私たちは、救いの歴史のあらゆる偉大な先達、つまリレビ人たち、エズラ、パウロ、そして天上の天使たちと聖なる人々によるこの終わりなき賛美の合唱に、私たち自身を加えるのです。すでにローマの初期キリスト信者のミサの中で唱えられていたこのアーメンが、「天の国でこだまする天の雷鳴のごときもの」とヒエロエムスが言つたのも理に適った例えと言えましょう。 注) 日本では習慣として「すべてのほまれと栄光は、世々に至るまで」の部分から会衆も加わって唱えられるか歌われてきましたが、本来はこの栄唱で会衆が口にするのは「アーメンJだけです。 これは前出のCharles Belmonteの著作の163ページに引用されています。さらに、「すべてのほまれと栄光は神のもの」と認めた上で、会衆が唱える「アーメン」は奉献文全体を「全くそのとおり」と認証しているものと言えます。司祭は、この奉献文の祈りを通して、全教会を一貫して代表してきました。そのとき、会衆は司祭がこれまでずっと祈ってきたことのすべてに「然りJと応答するのです。それゆえアウグスティヌスは、この大いなる「アーメン」が、司祭の祈りのもとに記された会衆の署名であると叙述しています(『説教』27.2[PL 38,1247]、『説教』272も参照)。 交わりの儀 いよいよ私たちは、最後の準備の時を迎えました。既に聖体制定の叙述が語られ、パンとぶどう酒は聖別されました。私たちの主は、今や真に私たちの前に現存しておられるのです。わずか数分の後、私たちはイエスの御体と御血を聖体拝領において受け取ることになります。 次にここで扱うミサの部分は、主の祈り、平和のあいさつ、平和の賛歌(Agnus Dei)と他の準備的儀式を含んでいる、会衆を聖体拝領という神聖な瞬間へ導くものです。 また一連の儀式を通して、会衆は確実にキリストの御体と御血をふさわしくいただくよう、促されます。 28 主の祈り 司祭の次のような招きのことばにこたえ、会衆は主の祈りを唱える。 司祭 主の教えを守り、みことばに従い、つつしんで主の祈りを唱えましょう。 会衆 天におられるわたしたちの父よ、 み名が聖とされますように。 み国が来ますように。 みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。 わたしたちの日ごとの糧を今日もお与えください。 わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。 わたしたちを誘惑におちいらせず、 悪からお救いください。 主の祈り Pater noster, qui es in caelis; 天におられる私たちの父よ、 sanctficetur nomen ttum; あなたの名が聖とされますように。 adveniat regnum tuunl; あなたの国が来ますように。 fiat vo1untas tua, sicut in あなたの意思が成就しますように、 caelo, et in terra. 天においてそうであるように地においても。 Panem nostrum cotidianum 私たちの日々のパンを、今日、私たちに da nobis hodie; お与え下さい。 et dimitte nobis debita nostra, また、私たちをその負い目から放免して下さい。 sicut et nos dimittimus 同じように、私たちも私たちに負い目 debitoribus nostris のある人々を放免します。 et ne nos inducas in tentationem; 私たちを誘惑に導くことなく、 sed libera nos a rnalo. 悪から解放して下さい。 主の祈りは、福音書の中でイエスによって教えられ(マタ6:9-13;ルカ11:1-4)、幾世紀にもわたってミサの中で使われてきました。『ディダケー』によれば、初期キリスト信者は、日に3回この祈りをささげていたようです。私たちの中のある人にとって、この祈りは、子供の頃から耳にしてきた「型にはまった祈り」であり、また日曜日ごとに単純に繰り返すだけの祈りになってぃるかもしれません。しかし、これを当たり前のように何も考えずに唱えてよいわけではぁりません。私たちが主の祈りをささげる前に、私たちがこうして御子キリストと同じことばで神に語りかけられるということが、いかにすばらしい特権をいただいていることなのかを心に留めるよう、主司式司祭は次のように注意を促します。 Pracccptis salutaribus mOniti et divina institutione formati,audemus dicere: 救いのための勧告に従い、神の教えに導かれて、あえて言いましょう。 たぶん「主の祈り」の最も顕著な狽1面は、いかに私たちに神を「父」と呼ばせているかということです。確かに古代のユダヤ人たちは、神をみなイスラエルの民の父と見倣していました。しかし個人的なレベルで神を「父」と呼ぶことは、一般的なことではありませんでした。それにもかかわらず、このことこそがまさに、イエスが私たちにそうするようにと呼びかけておられることなのです。 福音書の中で、イエスは自分の弟子たちにこの祈りを教えられました(マタ6:9-13;ルカ11:1‐4)。しかも、もしイエスが彼の母語であるアラマイ語を話しておられたとすれば、たぶん「父」ということばには「アッバ」“Abba"という用語を当てていたと考えられます。それは、「おとうちゃん」「パパ」に似た、親しみと愛情のこもった言い方です(マコ14:36;ロマ8:15;ガラ4:4-6参照)。 これはイエスの救いのわざのおかげで、私たちが神との間に結んだ親密な関係を強調する表現です。私たちがキリストに一致していることによって、神はまことに私たちの父となられます。私たちは今や、「御ひとり子のうちにある子ら」つまり「キリストの兄弟姉妹」となりました。つまり私たちがイエスとともにあるのであれば、私たちもまた「これは私の愛する子」(マタ3:17)と呼んでいただく幸いにあずかっているのです。 このように神を父と呼ぶことは、本来人間にとってあまりに恐れ多いことです。それゆえ私たちは、あえて(謹んで)、そのようなことばで呼びかけるように招かれているのです。実は正教会の聖体礼儀における主の祈りへの司祭の招きのことば、「主宰や、我等に、勇を以って、罪を獲ずして、敢えて爾、天の神・父を呼びて言うを賜え」もこれと同じ響きを持っています。罪深い被造物である私たちが神と結ぶこの関係の深遠さは、この祈りの冒頭の一行に表現されています。「天におられる」唯一の方、すなわち全能なる永遠の神が、まさに私たちの「おとうさん」なのです。 この祈りにある「私たちの」という表現もまた意味深長です。それは、主なる神が私たち皆に共通の天の父でいて下さるおかげで、私たちが互いに共有している深い一致を指し示しています。キリストに結ばれているすべての人は、彼においてまことに兄弟姉妹なのです。キリストのゆえに、イエスの父は私たち一人ひとりにとっての父となったのであり、私たちは皆、神との契約による家族関係において「御父の子ら」なのです。そのような次第で私たちは皆のために、皆とともに祈ります。 「主の祈り」は伝統的に七つの祈願に区分されてきましたが、その最初の三つ(名、国、意思)は神に焦点が当てられ、最後の四つ(与えて下さい、ゆるして下さい、導いて下さい、解放して下さい)は私たちの必要に焦点が当てられています。 あなたの名が聖とされますように-聖書において、神の名は神ご自身と関係付けられます(創32:28-29;出3:14-15;イザ52:6)。この祈願は、神の名が崇められますように、つまり神の名が、神ご自身が聖なるものとして認識され、扱われるようにと祈っているのです。しかしそれは誰によって、どこにおいて実現されるように願つているのでしょうか。そもそも神が聖なる方であることは私たちの祈りとは関わりがありません。この祈りを通して、まず祈る者が生きる場で神の名が聖とされるように祈っているのです。つまり私たち皆が聖なる者となるように命じられている(レビ11:44)ように、私たちを通してこの世界で日々神が聖なるものと認められるように祈るのです。 注)日本語では「わたしたちを誘惑に陥らせずJと訳されていますが、ラテン語(英語もほぼ同義ですが)では「わたしたちを誘惑に導かないで下さいJと正確にギリシア語から訳されています。それゆえ日本語の主の祈りには出てこない「導くJという動詞がここで話題になっています。 あなたの国が来ますように-あなたの国(神の国)とは字義的に神の支配、統治のことを意味します。預言者たちは、神がいかにイスラエルのために王国を建て直して下さるのか、また神ご自身がいかにあらゆる民を治めて下さるのかを前もって語りました(イザ40:9-11;52:7-ゼカ40:9-1152:7-10,16-17)。この祈願は、イエスの到来とともに、すでにこの世において開始された神のいつくしみお愛による統治が、イエスを信じる私たち、ならびに世界中のすべての人の心の中で十全に受け入れられ、完成されるようにと祈つているのです。 あなたの意思が成就しますように、天においてそうであるように地においても-この祈願は、最初の二つの祈願に関連しています。天において、神の御意志(み旨)は完全に遵従さていて、神の名は崇められ、神の統治はすべての天使や聖人に喜んで受け入れられています。そこで私たちは、天においてそうであるように地においても、私たちから始まってすべての者が神を礼拝し、神のご意思に従うように、神のいつくしみと愛をすべての人が生きるようにと祈ります。これは神の国の実現と同義です。 私たちの日々のパンを、今日、私たちにお与え下さい-私たちがこの世において神の国が実現するように働くためには、当然そのための糧が必要です。先に見たように、聖書においてパンは最も基本的な食料の一つであつて、生命を維持するために不可欠なものであると見なされていました。ですから人々がパンについて語るとき、単なる食料としてそれを思い浮かべていたのではないものと思われます。それは一般的に、生命を維持するものの象徴でもありました。この祈願で「日々のパン」と言われているのは、私たちが日ごとに必要としているまさに根本的なもののことです。 それは神の子として生きる私たちにとつての根源的な肉体的、精神的、霊的糧ともいえます。とりわけパンとは、荒れ野でイスラエルを支えるために与えられた「マナ」を彿彿とさせるものです(出16:16-22)。ラビ文学では、メシアが来られるとき、再びマナの奇跡が実現されると期待されていました。実際、イエスは大勢の人々にパンを与えるという奇跡をおこなわれた際、ご自身が与えるパンとは、まさに天から降ったパンであり、それが世を生かすご自分の体、永遠の命の糧であると教えられました。それは単に食べて満腹するだけの物(ヨハ6:26)ではなく、イエスの教え、神のことば(知恵)ならびにイエスご自身、真の命(秘跡的恩恵)です(ヨハ6:35-58参照)。父なる神が、かつてイスラエルの人々が必要とした分だけの天のパンを各人にしっかりと与えられたように、イエスは、今日私たちがみ国の完成のために働けるように必要な糧を必要なだけ与えて下さいます。「日々のパン」を求めるこの祈りは、究極的な意味においては、聖体拝領で分け与えられるキリストの命のパンを指し示していることから、この祈願にはミサにおいては特に聖体をほのめかすニュアンスも含まれていると言うことができます。 また、私たちをその負い目から放免して下さい。同じように、私たちも私たちに負い日のある人々を放免します-神の意思が私たちの間で果たされるためには、まず私たちのうちにある神の意思に反するおこない、罪をゆるしていただかなくてはなりません。それが出来るのは唯一神のご自身なのです。私たちは聖体を拝領する前に、神に罪のゆるしを願います。罪は、神を信じないこと、知らないこと、愛さないこと、その意思に従わないことです。ですから、間もなく私たちの中に住まわれるイエスのために、各人がマリアのように主の聖櫃となるために、私たちを全面的に清めて下さるように願うのです。 しかし、私たちが自らを傷つけた人々をゆるさない限り、神のあわれみが私たちの心の奥に届くことはありません。M3自分は自らの負い目をゆるしていただくよう神に願うのに、他者に対してそれを拒絶するというのはまったく矛盾したことです。イエスは、私たちが他者に示したあわれみの大きさに従って、神は私たちをゆるして下さると教えられました(マタ6:14-15;18:23-35を参照)。また多くをゆるされた人は、それだけ豊かに他者をゆるすことができるはずです(ルカ7:47参照)。さらに山上の説教の中で、イエスは、神を礼拝するために祭壇に近づく前に、兄弟が自分に罪を犯したのであれば、まずその兄弟と和解すべきだと教えておられます(マタ5:23-24参照)。同様に、聖体拝領をしようと祭壇に近づく前に、私たちは、自分たちに罪を犯した人々をゆるし、兄弟たちと和解するように求められているのです。 私たちを誘惑に導くことなく-この祈願は、人生の中で生じるあらゆる試練や悪事への誘惑を取り除いて下さいというようなものではありません。この聖書的表現は、誘惑に身を明け渡すという意味で、誘惑に導くことを神が私たちにお許しにならないようにとの願いを表現しています。これは私たちが、直面する誘惑に打ち勝つよう神が私たちを強めて下さいますようにという祈りです。 教皇ベネデイクト16世は、私たちがまるでこの祈願の中で神に向かって次のように言っているかのようだと教えました。「私が浄められた者となるためには、試練が必要であることを私は知っています。もしあなたがこの試練を私の上に臨ませるのであれば、どうぞ私の力が限られたものであることを思い出して下さい。私にあまりに多くのものを任せないで下さい。私に与えられる誘惑の限界をあまりに広く引き伸ばさないで下さい。もしそれが私にとつて多すぎるようでしたら、そばにいて、あなたの御手で私を守つて下さい。」それはパウロが、「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試錬に遭わせることはなさらず、試錬とともに、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていて下さいます」(1コリ10:13)と言つたのと同様です。 悪から解放して下さい-この祈願を聖書的な観点から理解するとき、これが一般的な害悪あるいは不幸、不運からの救いを求めて祈っているのではないということが分かります。ここでの「悪」という表現は、聖書における「悪魔」であると説明されます。このことは、悪とは抽象的な何ものかではないことを私たちに想起させてくれます。それは、世界で起こる行き当たりばつたりの「悪いこと」などではありません。この祈願において、悪とは、ある人格者、つまり神のみ心に背き、他者を自らに与させて神に反逆するように導く堕天使であるサタンのことです。 それゆえ、この結びの祈願において私たちは、御父がサタンから、またその偽りや仕業、罠から私たちを救って下さるようにと願うのです。私たちは、敵意や争い、ねたみ、そねみ、怒り、嘘偽り、そしり、利己心や怠惰、不和や仲間争い、貪欲や情欲、泥酔、無知蒙味、偶像礼拝などに耽って悪魔に与する生き方で身を滅ぼしてはなりません。私たちは神の命に招かれた光の子として、上智、聡明、賢慮、勇気、知識、孝愛、主への畏敬という聖霊の賜物(イザH:1-5)に支えられて、愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制という実を結ぶように招かれているのです(ガラ5:22)。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
29 副文 司祭 いつくしみ深い父よ、すべての悪からわたしたちを救い、 現代に平和をお与えください。 あなたのあわれみに支えられ、罪から解放されて、 すべての困難にうち勝つことができますように。 わたしたちの希望、救い主イエス・キリストが来られるのを 待ち望んでいます。 会衆 国と力と栄光は、限りなくあなたのもの。 新しい種類の平和 Libera nos, quaesumus, Domine, 主よ、私たちはお願いします。私たちをあらゆる ab omnibus malis, 悪から解放して下さい。 da propitius pacem in dicbus nostris, 私たちの日々に平和を寛大にお与え下さい。 ut,ope misericOrdiac tuac adiud, あなたのあわれみ深い働きに助けられて、 et a peccato simus semper libcri 私たちが常に罪から自由でありますように。 et ab omni perturbatione securi: そして、あらゆる困難から解き放たれますように。 exspectantes beatam spem et 待ち望みながら、祝福に満ちた希望と adventum Salvatoris nostri Iesu Christi. 私たちの救い主、イエス・キリス卜の到来を。 ここで私たちは、主の祈りの最後の祈願「悪から解放して下さい」をさらに詳しく説明する祈りに至ります。(※注これは主の祈りの「副文」と呼ばれています。)司祭は続けて、「主よ、私たちはお願いします。私たちをあらゆる悪から解放して下さい。いつくしみ深く私たちの日々に寛大に平和をお与え下さい…」と祈ります。 ここで思い描かれている平和(shalom)とは、単に世界に戦争や対立がない'大態のことよりもさらに別の次元のことを指しています。この「平和」ということばの聖書的理解は、何よりもまず、大いに人格的で霊的な何ものかです。それは、神との契約への忠実さから流れ出る神からの賜物、すなわち神のご意志の実現という点で何一つ欠けることのない内的な完全性、あるいは内的な幸福を意味します。個々人がその人生を主に委ね、神のご計画に従うとき、自らのうちに深い内的平和を見出し、そしてこの内的平和が、秩序正しい、調和のとれた他者との関係を通して世界に流れ出すのです。 これこそが、ミサの中で私たちの祈り求める「平和」であり、そのことはこれに続く祈願において明確にされていきます。司祭は、人間の状況を苦しめる二つのもの、すなわち私たちの平和を損なわせる罪と困難から私たちを解放して下さるよう、主に願います。神の掟は、私たちが幸福に至る道であり、それを破れば私たちのうちに平和は失われてしまうのです。もし私たちが我欲、高慢、嫉妬、色欲あるいは貪欲に身を任せてしまうと、私たちは決して幸福ではなくなります。私たちは確信なく、落ち着きなく、さらなる支配力や他者からの注目、富あるいは快楽を探し求める一方で、すでに所有しているものを喪失するのではないかと絶えず心配しているような状況に陥るのです。 キリスト信者は、生活の中で、自分の心の中から神の平和がかき消されてしまうような恐れを経験することがあります。職場や小教区の状況、あるいは家族の状況に心を悩ますことがあるかもしれません。将来を憂慮したり、あるいは苦難を恐れたりすることもあるかもしれません。重大な決断を下したことに不安を感じたり、経済状況や自分に対する他人の評価を心配したりするかもしれません。もちろんキリスト信者は、人としての自らの責任に気を配るべきです。しかし、心配事が私たちの心を支配し、その平和を失わせてしまうとき、それは何かが霊的に間違っているということのしるしです。そのようなとき、私たちは心の底から神に信頼を寄せてはいないのです。 ミサのこの時点で、司祭は、イエスが自ら与えようと思っておられる奥深い平和を私たちに味わせないようにしている、こうしたあらゆる心配事から、私たちを解放して下さるよう、主に祈ります。そして私たちが、この世の試練を経験しながらも、主がすべてを正されるその訪れの時を確信をもって期待しながらこの祈りを唱えているのだということを、司祭は示します。その希望を、感謝の祭儀では、使徒パウロのテトスヘの手紙のことばを借りて、次のように表現しています。「祝福に満ちた希望、私たちの救い主イエス・キリストの到来を待ち望みながら」(テト2:13参照)と。 国と力と栄光は… 再び天上の天使たちのように、会衆は神を賛美しながら司祭の祈りに答えます。 Quia tuum est regnum, et potestas, et gloria in saecula. なぜなら国と力と栄光は、世々とこしえにあなたのものだからです。 この祈りは、プロテスタントの主の祈りの結びとしても知られているものです。それは、イエスが私たちに実際に教えられた祈りの一部(マタ6:9-13;ルカH:1_4参照)ではありません(しかも通常、カトリックの典礼で唱えられる主の祈りに付属する祈りには含まれていません)。しかし、この祈りは聖書にその原形を持っていて、ミサのまさにこの瞬間こそが、収まりのつくふさわしい場所だと思われます。 基本的な次元において、この祈りは天上の礼拝(黙5:12;19:1)に見られる同様の賛美の声を反映しています。しかも、ここで私たちがその礼拝のことばをもって祈るとき、私たちは最初期のキリスト信者たちが参加していたミサにともにあずかっているのです。というのも、この祈りのことばは、使徒たちの時代に続く最初の世代のキリスト信者たちが祝った聖体祭儀において用いられていた「感謝の祈り」から採られたものだからです。(『12使徒の教訓 ディダケー』(紀元110年頃の成立)の10項を参照。) その上、このことば自体は、さらに一千年も遡る旧約聖書の時代のもの、すなわち、ダビデ王がその治世の終わりに神にささげた究極の賛美の祈りに由来します。この祈りは、息子ソロモンにその王座を譲る前に、彼が王として残した最後の諸作を代表するものの一つです。 私たちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに、天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたは万物の頭として高みにおられます(代上29:10-11)。 ダビデは、すべての王たちの中で最も名高い王でした。彼は権勢をほしいままにし、また栄光に満ちた君主であって、彼の王国はイスラエルの歴史の中で幾度か訪れた絶頂期のうちの一つをイスラエルにもたらしました。さらに自らの治世の終わりに、ダビデは、自分が王であったときに手にした繁栄は、すべて神からいただいたものであると謙虚にも悟るのです。彼が手中に収めた力も光輝も王国も何一つ彼自身のものではなく、すべては神のものでした。ダビデは言います、「主よ、偉大さ、力、光輝はあなたのもの……国もあなたのもの」であると。 ミサのたびに、私たちはダビデ王のこのことばを繰り返します。そうすることで、神を自分たちの人生の主であると認め、私たちに授けてくれるあらゆる祝福のゆえに私たちは神を賛美するのです。私たちのどのような善行も、体験する成功も、究極的には神からの賜物です。つまり、「国と力と栄光は、限りなくあなたのもの」なのです。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) 30 教会に平和を願う祈り 司祭 主イエス・キリスト、あなたは使徒に仰せになりました。 「わたしは平和をあなたがたに残し、わたしの平和をあなたがたに与える。」 わたしたちの罪ではなく教会の信仰を顧み、 おことばの通り教会に平和と一致をお与えください。 会衆 アーメン。 31 平和のあいさつ 司祭と会衆との間に平和のあいさつがかわされる。 司祭 主の平和がいつも皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。 続いて、会衆も互いに平和のあいさつをかわすように、助祭または司祭は次のようなことばですすめることができる。 助祭 互いに平和のあいさつをかわしましょう。 一同は合掌して「主の平和」と唱えながら相互に一礼する。 平和のあいさつ Domine Iesu Chlriste, qui dixisti 主イエス・キリスト、あなたはご自分の Apostolis tuis: 使徒たちに仰せになりました。 Pacem relinquo vobis, pacem 「私はあなたがたに平和を残し、 mcam do vobis: 私の平和をあなたがたに与える。」 ne respicias peccata nostra, 私たちの罪をご覧になるのではなく sed fidem Ecclesiae tuae; あなたの教会の信仰をご覧下さい。 camque secundum voluntatem そして、あなたのご意思にしたがって、 tuam pacificare et coadunare digneris. 教会を平和にし、一つに集めて下さい。 御父に平和の賜物を願った後、司祭は、最後の晩餐のときにイエスが弟子たちに語つたことば、すなわち「私は、平和をあなたがた'こ残し、私の平和を与える」(ヨハ14:27)を思い起こしながら会衆に語りかけていきます。 この一節に関して、イエス自身、自らが与える平和とは「世が与えるような」平和ではないと、先のことばに続けて説明しています。この表現と関連した叙述がヨハネ福音書の15章11節に見られます。「私の喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるように」。そのようにイエスの愛に留まる者には、イエスの平和と喜びが約束されているのです(ヨハ16:22参照)。事実、復活された主は、弟子たちに会った時、最初にこの平和と喜びを与えておられます(ヨハ20:19-21参照)。 多くの人々はこの世の安寧と平和を求めますが、それは往々にして人間的成功にもとづく平和であり、一路順風の平和であり、諸問題や苦しみを回避して得る平和です。しかし、こうした類の平和や喜びは脆く儚いものです。それは、外的な状況次第で簡単に変化し得るものです。人の健康、仕事、財務状況、周囲からの評価などがそれです。こうした不安定な基盤の上に人生の上台を置いても、真の平和と喜びは全く得られません。かえって、さらなる不安を生み出すだけです。 しかしながら、キリストはより深遠な、より長く継続する平和と喜びを与えて下さいます。この平和と喜びは、この世が与えるものとは異なります。イエスに私たちの人生の土台になっていただき、私たちのために立てて下さつた主のご計画に従って生きるとき、つまり私たちがイエスとともに信仰、希望、愛に生きるとき、主は私たちに深い内的で霊的な平和と喜びを与え、人生の多くの失望や試練や苦しみに立ち向かわせて下さいます。これこそが真の心の平和、喜びであって、あらゆる結婚生活のうちに、またあらゆる家庭、共同体、小教区そして国家のうちにも真の一致を築いてくれるものです。そしてこれが、典礼のこの部分で、司祭が願い求めて祈っていることなのです。 それから、司祭は平和の挨拶として、会衆の方を向いて、パウロの多くの書簡の中に出て来ることばを人々に語ります。「主の平和がいつもあなたがたとともにありますように」(ロマ1:7;1コリ1:3;ガラ1:3を参照)と。これは単に使徒的な挨拶というだけでなく、もともと復活されたイエスが、戸に鍵をかけて閉じこもっていた弟子たちの前に現われたとき最初に語つたことば、「あなたがたに平和があるように」に依拠している力ある呼びかけです。そのことばを聞いた弟子たちは喜んだと記されています(ヨハ20:19-22)。 まさに、晩餐の席でイエスが弟子たちに約束した平和と喜びが、復活したイエスと出会つた弟子たちに与えられたのです。祭壇上に現存される復活のキリストは、司祭の口を通して、新たに私たちにご自分の平和を与えようと語つておられます。私たちは不安や悲しみで心を閉ざすのではなく、主の平和に喜びをもってあずかるよう招かれているのです。 平和のしるし 次に平和のしるし(平和のあいさつ)が続きますが、それはいにしえのキリスト信者の実践、特にペトロとパウロの「聖なる口づけをもって互いに挨拶を交わしなさい」(ロマ16:16;1コリ16:20;2コリ13:12;また1テサ5:26; lペト5:14も参照)という勧めを反映しています。この「聖なる日づけ」は、初期キリスト者たちが分かち合った愛における一致を表現するものであり、ふさわしくも典ネしの中で実践されることになったのです。すでに紀元155年には、殉教者ユスティノスがミサの中で回づけを交わすことについて語っています。200年頃、テルトゥリアヌスはこの儀式が祈りとして承認されていることに触れています。 こうした初代教会の実践は、マタイ福音書5章24節の教えに沿うものとも解されます。実際、ミラノのアンブロジウス典礼においては、現在でもこの平和のしるしは共同祈願のとき、つまり供え物を祭壇に奉納する前におこなわれています。 私たちは今日のミサにおいて、平和や一致、そして愛を表わす何らかのしるしを交わします。そのしるしは、地域の習慣によって異なることが許容されています。ある文化的状況では、このしるしが握手することを意味する場合もあるでしょう。他には、お辞儀をしたり、あるいはまた別のしるしをしたりすることも当然あり得ます。 その所作がどうであれ、平和のしるしは、主の祈りを、今からおこなわれようとしている聖体拝領と結びつけるものと理解することができます。その一方で、この平和のしるしは、すでに見たように、すべての神の子らの一致を表現する役日、主の祈りを美しく儀式的に形式化する役目を果たしています。私たちは、個々別々に神に依り頼むのではなく、神の契約によって結ばれた家族の兄弟姉妹として、一緒に「天におられる私たちの父よ」と言いながら神により頼むのです。他方で、平和のしるしは、聖体をいただくときに会衆がお互いに分かち合う深い一致を、あらかじめ象徴的に示すものなのです。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
32 平和の賛歌 司祭は、パンを割り、小片をカリスの中に入れて、沈黙のうちに祈る。その時、会衆は平和の賛歌を歌う。パンを割る間、何回も繰り返すことができ、最後に「われらに平安を与えたまえ」で結ぶ。 先唱 神の小羊、 会衆 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。 先唱 神の小羊、 会衆 世の罪を除きたもう主よ、われらをあわれみたまえ。 先唱 神の小羊、 会衆 世の罪を除きたもう主よ、われらに平安を与えたまえ。 平和の賛歌 Agnnus Dei と聖体の分割、御体と御血の混合、「神の小羊」 ミサのこの部分は、これから考察することになる三つの儀式を含みます。すなわち、パンを裂くこと、キリストの御体と御血の一致、そして「神の小羊」の祈りの唱和です。ここで司祭は、聖体となったパンの分割(fractio panis)、すなわち「パンを裂くこと」として知られている象徴的な行為において、聖体となったホスチアを裂きます。 古代のユダヤ人たちにとつて、「パンを裂く」という表現は食事を始めるときの儀式を意味していました。食事の席では、家長がパンを取り、祝福の祈りを唱え、それからパンを裂いて、その場に居合わせた者たちとそれを分かち合いました。「パンを裂く」という表現は、それを聖体祭儀と関係付けた初代キリスト信者たちにとつて大変重要な意味を持っていました。 福音書は、イエスご自身がパンを裂いたときの出来事を四つ報告しています。最初の二つは、〈イエスが奇跡的にパン増やして多くの群集を養った)という出来事で、二か所の記事の中で記されています(マタ14:19;15:36;マコ6:41:8:6;ルカとヨハネでは一カ所のみ)。特にマタイ福音書は、いかにこのパンの増加の奇跡が聖体祭儀を予示しているか理解できるように、私たちを導いてくれています。群集に食物をお与えになるとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱え、それらを裂いて、群衆に配るようにと弟子たちに与えました(マタ14:19)。 マタイは後にこの四つの動詞を用いて、最後の晩餐のときに聖体が制定されたことを記述しています。この最後の晩餐が、イエスがパンを裂いたときの三つ目の出来事です(マタ26:26;またマコ14:22;ルカ22:19;1コリH:24を参照)。「イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、これを裂き、弟子たちに与えながら言われた…」(マタ26:26)。これらの動詞を関係づけながら、マタイは、パンの増加がいかに聖体というさらに偉大な奇跡を前もって示そうとしているのかを強調しています。 前者(パンの増加の奇跡)では、イエスはパンを増やして大群集に食べさせました。後者(最後の晩餐)では、超自然的なパン、つまり聖体の秘跡としての命のパンを与えて、さらにもっと大きな数の人々、すなわち全世界、全時代を通じて聖体にあずかるキリスト信者の大きな群れを養うのです。 イエスがパンを裂かれたと伝えている四つ目の出来事は、また聖体のニュアンスを含んでいる別の場面です。すなわち、〈二人の弟子がエマオに向かう途上で、イエスが彼らに現われた)という復活の記事です。最初、彼らは自分たちと一緒に歩いているのがイエスだとは分かりませんでしたが、彼が「パンを取り、賛美の祈りを唱え、パンを裂いて彼らにお渡しになった(お与えになった)」とき、イエスだと分かったのです (ルカ24:30)。 初代教会においてバンを裂くこと 使徒言行録は、初代教会がいかに人々を集めて、ともにパンを裂いていたかを記述しています(すでに見たように、「パンを裂く」という用語は諸福音書やパウロの諸書簡に見られる聖体祭儀と関係がありました)。 諸教会や諸バジリカそして諸司教座聖堂が建設されるよりはるか以前に、エルサレムの最初期のキリスト信者たちは、ともに神殿を詣でて、またパンを裂くために自分たちの家に集まって神を礼拝しました(使2:46)。同様に、数年後、エルサレムから遠く離れたトロアスで、パウロに従っていたキリスト信者たちは、週の始めに「パンを裂くために」彼とともに集まりました(使20:7,H)。キリスト信者が使徒たちの教え、祈ること、そして交わりに熱心であることと並んで、使徒言行録が初期キリスト信者たちの生活にとって主要な四つの特質の一つとして「パンを裂くこと」を掲げているほど(使2:42)、そのために集まることは非常に重要なことでした。 パウロ自身、単に聖体祭儀を叙述するためにだけ「パンを裂く」という表現を用いていたのではありません。彼は、多くの人々が同じパンを皆で分かち合う儀式のうちに豊かな象徴を見ていました。それはパウロにとって、キリスト信者が一つのキリストの御体をともにするときに分かち合う深い一致のことをも指しているのです。「私たちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではありませんか。パンは一つだから、私たちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」(1コリ10:16-17)。 それゆえ司祭がミサの中で聖体のホスチアを裂くとき、パンを裂くというこの偉大な伝統が、つまり旧約聖書の時代のユダヤ人たちからイエスの実践へ、使徒たちと初代教会へ、そして今現在へと及ぶ伝統が、この儀式を通して思い起こされるのです。 御体と御血の混合-ホステアを裂いた後、司祭はその一部をカリスに入れながら、次のように沈黙のうちに祈ります。 Haec commixtio Corporis et Sanguinis Domini nostri Iesu Christi fiat accipientibus nobis in vitam aetemam. この私たちの主イエス。キリストの御体と御血の混合が、それを拝領する私たちにとつて永遠の命となりますように。 キリストの御体と御血の混合commixtioとして知られるこの儀式は、かつて教会の一致を表わすためにおこなわれていました。ローマでは、司教がfermentum(パン種)と呼ばれる聖別されたホスチアの小片を町中の司祭たちに送り、司祭たちはローマの司教との一致のしるしとして、ミサの時、自分たちのカリスにそれを入れていました。中には、この儀式をキリストの復活を象徴的に再現しているのだと解釈する人もいました。この考え方は8世紀のシリアに根ざしているといわれるもので、それによれば、ミサの中でパンとぶどう酒が別々に聖別されることは、死によってキリストの御体と御血が分離することを象徴している一方、御体と御血の混合の儀式は、キリストの復活において御体と御血が再び一致することを表現しているというのです。 平和の賛歌 Agnus Dei-司祭がホスチアを裂く儀式を司り、それから御血に御体を混ぜる間、会衆は平和の賛歌Agnus Dei (ラテン語で「神の小羊」の意味)として知られる次の祈りを歌うか、あるいは唱えます。 Agnus Dei, qui tollis peccata mundi; miserere nobis. 神の小羊、世の罪を取り除かれる方。私たちをあわれんで下さい。 Agnus Dei, qui tollis peccata mundi; miserere nobis. 神の小羊、世の罪を取り除かれる方。私たちをあわれんで下さい。 Agnus Dei, qui tollis peccata mundi; dona nobis pacem. 神の子羊、世の罪をを取り除かれる方。私たちに平和をお与え下さい。 「神の小羊」は、私たちをまっすぐに神のに座にまでり|き上げてくれるまた別の祈りです。これらのことばを唱えるとき、私たちは、ヨハネが黙示録に記している勝利の小羊であるイエスを、無数の天使たちに加わって、天上の典礼において礼拝するのです日「また私は見た。そして、玉座と生き物と長老たちとの周りに、多くの天使の声を聞いた。その数は千の幾千倍、万の幾万倍であった。彼らは大きな声でこう言った。『屠られた小羊こそ、力、富、知恵、権威、誉れ、栄光、そして賛美を受けるにふさわしい方です』」(黙5:11-12)と。 ヨハネはまた、すべての被造物が小羊を礼拝するのを見ました。「また私は、天と地、地の下と海にいるすべての造られたもの、そして、そこにいるあらゆるものがこう言うのを聞いた。「玉座に座っておられる方と小羊に、賛美、誉れ、栄光、そして力が限りなくありますように』」(黙5:13)と。ミサの中で平和の賛歌を唱えるるとき、私たちは神の小羊を礼拝しながら、この天と地の合唱に加|わるのです。 私たちが、「神の小羊、世の罪を取り除かれる方」とイエスに宛てて呼びかけることはまことにふさわしいことでです。なぜなら新約聖書は、イエスが私たちのためにいけにえとなられた新しい過ぎ越の小羊であると啓示しているからです。パウロは、イエスのことを「屠られた私たちの過越の小羊」(1コリ5:7)と呼んでいます。黙示録は、イエスを「屠られた小羊」(黙5:6,12;13:8)と言い、その血は聖なる者たちの衣を洗い(黙7:14)、サタンにさえ打ち勝った(黙12:11)と証しています。 とりわけヨハネ福音書は、イエスが〈十字架の死によつて私たちのためにいけにえとなられた過越の小羊である〉と認められるべき根拠を浮き彫りにしています。ヨハネが、イエスの回元に酸いぶどう酒を含ませた海綿を差し出している兵士たちの記事を伝えるとき、「その海綿はヒソプの枝につけられていた」と記しています。 なぜヨハネは、この些細なことを詳しく記述しているのでしようか。それは、これがエジプトでの最初の過越の時に使われたのと同種の枝だったからです。モーセは、過越の小羊を屠り、彼らの家の鴨居にその小羊の血を塗ってしるしを付けるため、ヒソプを小羊の血に浸して使うようにとイスラエルの長老たちに指示しました(出12:22)。ヨハネは、私たちがイエスの死を過越のいけにえとして理解できるよう、このことを記しているのです。『ヒソプが最初の過越のいけにえに使われたように、今や、ゴルゴタ(カルワリオ)の丘で新しいいけにえの小羊となられたイエスにそれが用いられている|』というわけです。 過越の小羊との関連で、これとはまた別にヨハネ福音書が特に関心を寄せていることは、兵士たちがイエスを十字架から取り下ろしたとき、死亡を確認するために普通は足を折るところで彼らがそうしなかったという点です(ヨハ19:33)。ヨハネがこのことを指摘しているのは、本来、過越の小羊は、その骨を折られることがなかったからです(出12:46)。こうして再び、イエスの死は過越の小羊のいけにえとして描かれているのです。 見よ、神の小羊だ! しかしながら、「神の小羊」という祈りのことばは、最も直接的に洗礼者ヨハネに由来しています。ヨハネは、イエスのことを「神の小羊」と呼んだ最初の人物でした(ヨハ1:29,36)。ヨハネがヨルダン川で洗礼を授ける活動をしている最中、初めてイエスを見たとき、彼は「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)と叫んでいます。 この短い発言の中には、実に多くのことが包含されています。このことばを発していることから、ヨハネはイエスこそがイザヤによって預言された偉大な「苦しむ僕Jであると見抜いている、と解されます。イザヤは、「いつの日にか、神がイスラエルを罪から救うために誰かを遣わして下さるであろう」と予告したのですが、その人物が「屠り場に引かれる小羊のように…」(イザ53:7)と形容されているように、イエスは苦しむことを通してそれを成し遂げられるのです。さらに、この「主の僕」は人々の罪を背負い、「自らを償いのささげげものとする」(イザ53:10¨H)ことになります。そうであれば、彼が自らをいけにえとしてささげることには、当然、あがないの力があったはずです。彼のいけにえによって、やがて多くの人が義とされるのです(イザ53:11)。 もちろん、いけにえとなる小羊からは、過越の小羊が思い起されるはずです。しかし、イザヤ書で紹介されている新しい要素は、「自分の命をささげる一個人が罪のためのいけにえとなる」という考え方です。それゆえ、洗礼者ヨハネがイエスを「世の罪を取り除く小羊Jと呼ぶとき、彼は単にイエスを過越の小羊であると見ているだけではなく、イザヤ書53章に登場する永年待ち続けた苦しむ僕、つまり自らの命を罪のゆるしのためにいけにえとしてささげることになる小羊であるとも見ているのです。 ミサのまさにこの瞬間に、「神の小羊」を唱えることは何とふさわしいことでしょうか。司祭が聖別されたホスチアを裂く間、会衆は、洗礼者ヨハネとともに、イエスこそが自らの命を世の罪のあがないのためにいけにえとしてささげるイザヤ書53章の「主の僕である小羊」だと確信するのです。イエスこそ、屠り場に引かれて行った小羊です。イエスは、自らのいけにえによって多くの人々を義としたその方です。こうして、私たちはイエスを「神の小羊」と呼び、その死によって「あなたは世の罪を取り除かれる方」と、イエスに向って言うのです。 この祈りは、「ネ申の小羊、世の罪を取り除かれる方…」と典型的に三度繰り返されます。これは、ミサの中で三度繰り返される他の祈りを模倣しています。回心の祈り(Confiteor)では、私たちは各々、三度自らの罪を認めて、「私の過ちによつて、私の過ちによって、私の大いなる過ちによつて」と言います。また「あわれみの賛歌」(Kyrie)では、神のあわれみを願い求めて三度繰り返して叫び声を挙げます。さらに「感謝の賛歌」(Sanctus)において、三度「聖なる主」を歓呼した後、聖体拝領の直前に、私たちは自分たちを罪から解放することのできる唯一の方、すなわち私たちのためにご自分の命をささげて「世の罪を取り除かれた神の小羊」に、あわれみと平和を願い求めるのです。 最後に注目すべき点として、平和の賛歌(Aguus Dei)においても、あわれみの賛歌(Kyrie)と同様に、「あわれんで下さい」という願いが繰り返されていることがあげられます。最後にイエスを「神の小羊」と呼ぶとき、あわれみを求める叫びは、平和を求める祈願へと変わります。こうして平和の賛歌は、今しがた与えられたばかりの平和のしるしに結ばれていきます。そしてこの一致は、後に続く聖体拝領によつて堅固に築き上げられることになるのです。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
33 拝領前の信仰告白 司祭 神の小羊の食卓に招かれた者は幸い。 会衆 主よ、あなたは神の子キリスト、永遠のいのちの糧、 あなたをおいてだれのところに行きましょう。 聖体拝領の準備のための祈リ Aguus Deiが歌われている間、司式司祭は次のように祈つて聖体拝領のための準備をします。この祈りは、単に司祭のためだけではなく、聖体拝領に臨むすべての信者にとつても有益なものです。 Domine Iesu Christe,Fili Dei vivi, 主イエス・キリスト、生ける神の御子よ、 qui ex voluntate Patris, あなたの御父の御意志に従って、 cooperante Spiritu Sancto, 聖霊と協働し、 per mortem tuam mundum vivificasti: あなたの死によって世界を生かしてくださいました。 libera me per hoc sacrosanctum この至聖なるあなたの御体と御血によって Corpus et Sanguinem tuum わたしを解放してください。 ab omnibus iniquitatibus meis et 私のすべての咎から、また universis malis: あらゆる悪から。 et fac me tuis semper inhaerere そして私がいつも、あなたの命ずることに mandatis, 従うようにして下さい。 et a te numquam separari permittas. また、私があなたから離れることを決してお許しにならないで下さい。 または、 Perceptio Corporis et Sanguinis 主イエス・キリストよ、 tui, Domine Iesu Christe, あなたの御体と御血を受けることが、 (quod ego indignus sumere praesumo) (取るに足りない私があえていただくのですから) non mihi proveniat in iudicium et 私にとって裁きと罰になりませんように。 condemnationem: むしろ、あなたのいつくしみによって sed pro tua pietate prosit rnihi 私に益となりますように、 ad tutamentum mentis et corporis, 心と体を守るために、 et ad medelam percipiendam. そして癒しの薬となるために。 34 拝領 拝領前の信仰告自の後、拝領の歌が始まる。拝領者は行列をつくる。司祭は、拝領者一人ひとりにバンを示しながら言う。 司祭 キリストのからだ。 拝領者 アーメン。 35 拝領後の感謝 拝領後、会衆は沈黙のうちにしばいく祈るか、または詩編や聖書の歌を歌うことができる。 36 拝領祈願 司祭 ・・・・祈りましょう。 拝領後の沈黙の祈りがなかった場合、会衆はしばらく沈黙のうちに祈る。 ・・・・・・。わたしたちの主イエス。キリストによって。 会衆 アーメン。 聖体拝領 みなさんはこれまでに、ミサを婚宴だと考えたことはありましたか。ミサのことを考えるとき、私たちには「典礼」、「交わり」(一致)、「真の現存」あるいは「いけにえ」ということばがすぐに思い浮かぶかもしれません。しかし、結婚というのはどうでしようか。ともかく教会の教父たちから十字架のヨハネの神秘詩に至るまで、そしてさらには教皇ヨハネ・パウロ2世の神学的著作に至るまで、カトリック教会は、典礼の頂点である聖体拝領を「私たちの神聖なる花婿イエスとの聖体祭儀における親密な一致」だとしばしば慣習的に説明してきました。 私たちが聖体拝領の前に、司祭が簡潔に宣言することばを考慮するとき、私たちはミサがいかなる意味で婚宴であるのかを理解することができます。 Ecce Agnus Dei, ecce qui tollit peccata rnundi. 見よ、神の小羊を。見よ、世の罪を取り除く方を。 Beati qui ad cenam Agni vocati sunt. (この)小羊の晩餐に招かれた人々は幸い。 前半のことばは、洗礼者ヨハネが弟子たちにイエスを指して述べた、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハ1:29)に依拠しています(残念なことに、これは日本語のミサ式次第では省かれています)。ここで司式司祭は、聖別された御体と御血を会衆に示して、同じようにキリストの現存を認めるように招いています。 一方で、後半の表現は、ヨハネの黙示の最終場面から一いうなれば聖書全体の最終極面から一取られています(黙19:9)。このことばの真意を十全に理解するためには、一度、ヨハネの黙示のこの部分を含むより広範な脈略の中で、それがどのように見えてくるのかを考察する必要があります。 ハレルヤ ヨハネの黙示の19章1-6節には、主に新しい歌を歌っている天使たちや長老たちとともに天の大群衆が出てきます。彼らは神を賛美しながら4回、「ハレルヤ」と声を挙げています。これは大変意義深いことです。なぜなら、この典礼的に重要な語である「ハレルヤ」(主を賛美せよ) は、旧約聖書では数多く見出されても、新約聖書全体ではわずか4回しか使われていないからです。しかもその四つの事例は、すべてヨハネの黙示19章の、まさに1節から6節までの中で、矢継ぎ早に次々と現われるのです。 ヨハネの黙示の19章1-6節の「ハレルヤ」という突然の合唱から、旧約聖書の有名な「ハレル詩編」(詩113-118)が思い出されるかもしれません。これらの詩編のグループは「ハレル集」とも呼ばれますが、それは、それらの詩のいくつかが「ハレルヤJで始まるか終わるかしていて、あがないのわざのゆえに神を褒め称えているからです。 興味深いことに、このハレル詩編は、ユダヤ人たちが過越の食事の中で歌うことになっていた詩でした。ユダヤ人たちは、出エジプト記の中でエジプト人たちからイスラエルを救い出し、再びご自分の民をあがなうであろう主(Jahweh)を賛美しながらこの「ハレルヤ」を歌いました。それどころか、イエスと弟子たちが最後の過越の食事、すなわち最後の晩餐のときに歌ったと思われる歌がまさにこのハレル詩編なのです。そしてまさにその時、イエスは聖体の秘跡を制定されたのです(マタ26:30;マコ14:26を参照)。 小羊の婚宴 こうした背景を重要な手掛かりとして、ヨハネの黙示の19章6節に出てくる4つの「ハレルヤ」のうちの最後のハレルヤを理解することができるかもしれません。天上の小羊の晩餐の間、ずっと大群衆の声が神を賛美しながら共鳴している中で、この四番目の「ハレルヤ」が天上の礼拝の転換点となります。 ハレルヤ、全能者である神、主が王となられた。 私たちは喜び、大いに喜び、神の栄光をたたえよう。 小羊の婚宴の日が来て、花嫁は支度を整えた。(黙19:6-7) それから、天使はヨハネにこう書き記すように命じています。 小羊の婚礼の晩餐51に招かれている者は幸いだ。(黙19:9) この「小羊の婚礼の晩餐」とは一体何でしょうか。実はそれこそが主の食卓、つまり聖体祭儀なのです。まず第一に、晩餐と小羊ということばから、ユダヤ人たちが小羊をいけにえとしてささげ、それを主要料理としてよく食べていた「過越の晩餐」が思い出されます。さらに私たちは、「ハレル詩編」のような黙示録19章の1節から6節の「ハレルヤ」が合唱される中でおこなわれる小羊の晩餐を読み知れば、過越の食事がほのめかされていることがより明白になります。 こうして、この究極の小羊の晩餐は、明らかに一種の過越の食事であり、ヨハネの黙示の典礼的な枠組みを考慮すると、それは「聖体祭儀という新たな過越の食事である」と理解されるでしょう。これこそエルサレムの最後の晩餐で、キリストが弟子たちに示された神秘そのものです。教会はミサにおいてそれを記憶し祝い続けているのです。 しかし、この箇所(黙19:1-6)は、私たちにさらに劇的な何事かを語つてくれています。ヨハネの黙示の19章6-9節において、小羊は花婿であるということが明らかにされているのです。つまり、この過越の晩餐が婚宴だということです。花婿である小羊はイエスであり、また花嫁は私たち自身が表わす教会なのです。そしてイエスはその教会と結婚の絆を結ぶためにやって来られます。まさにこれこそが婚宴であって、この婚宴の中で、小羊はご自分の花嫁と結ばれ、キリストとその教会の〈決して分かつことのできない究極的な絆〉の完成が象徴されています(黙21-22;エフェ5:21-33を参照)。 私たちは、「とこしえに神である花婿と結ばれたい」と望む婚姻の交わりを、この地上における聖体祭儀の典礼において前もって味わうのです。私たちがこの典礼によって参与することになるのが、イエスと教会のこの天上的な婚姻関係です。それゆえ、司祭が「小羊の晩餐に招かれた者は幸い」と言うとき、彼はヨハネの黙示に出てくる天使たちの小羊の婚宴への招きをそのまま反復して私たちにも語っているのです(黙19:9)。 あなたがこのことばをミサにおいて耳にするとき、あなたは自分がその婚宴に招かれていることに気づいているでしょうか。あなたは、イエスとその教会の婚宴をともにするように招かれています。それも、あなたは決して平凡な招待客などではありません。あなたこそキリストの花嫁なのです。あなたは、教会のメンバーとして、聖体拝領のために聖堂の通路を進むとき、あなたの花婿イエスと結ばれる瞬間へと向かっているのです。 実際に、聖体拝領は結婚という次元で理解されます。夫と妻は、できる限り最も親密な仕方で身体を結び合わせ、夫婦行為の中で互いに自らを与え合います。同様に、私たちの神なる花婿は、この地上でできる限り最も親密な方法で、ご自分を私たちに結び合わせるためにやって来られ、まさにご自分の体と血を聖体祭儀の中で私たちにお与えになります。 このようなわけで、教会が聖体拝領後に感謝の祈りをささげてきた習慣は非常に重要です。私たちは主とともに憩いたいと思うものですが、それは人生の多くの時点で、なかんずく聖体拝領後のしばらくの間、主が私たちの心のうちにおられるときに、主に語りかけて感謝したいと思うはずです。良き夫であれば、妻との親密な交わりの後、すぐにメールを確認したり、あるいは芝を刈るため駆け出して行ったりすることはしないでしょう。また、花婿が私たちの中に親密な仕方でとどまっておられる限り、駐車場から車を出すことを考えたり、何かの集会のことを気にしたり、友人とおしゃべりをしようと思ったり、コーヒーとドーナツを買うことを考えたりするはずがありません。この時間は、私たちが最愛なる方と憩うために取るべきひとときです。愛情をもって最大の関心と感謝をその方に寄せる時間であり、私たちの愛を表現するための最高の時間です。 この観点から、ミサはまさしく婚宴です。花婿と一つであることを切望する花嫁のように、私たちの心は神なる花婿との聖なる交わりを切に求める思いで満たされているに違いありません。そして、聖体となって下さった花婿の体は、できる限り最も親密な方法で、秘跡的に私たちのうちに入って来て、私たちの体とまさに一つとなるのです。 聖体拝領前の告白-主よ、わたしはふさわしい者ではありません しかし、単なる人間にすぎない私たち、おまけに罪深い者である私たちは、いかにして(完全に聖であり全能なる神〉にあえて近づくことができるというのでしようか。ラテン語規範版のミサ式次第では、私たちは、聖体拝領という神の小羊の婚宴への招きに答えて、一方で自分には主を拝領する資格などまったくないと認め、それと同時に、イエスが私たちを召し出し、癒して下さるに違いないという信頼を表現する次の祈りを唱えます。 Domine, non sum dignus, ut intres sub tectum meum, 主よ、私はあなたを私の屋根の下にお迎えするのにふさわしい者ではありません。 sed tantum dic verbo, et sanabitur anima mea. おことばを下さい。そうすれば私の魂は癒されるでしょう。 このことばは、中風で苦しみながら家に寝込んでいる自分の子どもをイエスに癒して下さるように頼んだ、ローマの百人隊長の謙遜と信頼を表わしたものです。この百人隊長は、神との契約の部夕ヽ者であった異邦人であり、また神の民を虐げていたローマ帝国の百人の兵士を束ねる士官だったので、謙遜にも自分の家にイエスを招く資格などまったくないと認めているのです。 さらに百人隊長の告白は、諸福音書に見られる他の多くの人々の信仰を凌駕する偉大な信仰を言い表わすもので、それがイエスをも驚かせています。彼は、イエスがただことばを語るだけで、どんなに遠くからでも病を癒すことができると信じているのです。「ただ、おことばを下さい。そうすれば、私の子は癒されるでしょう」(マタ8:8)と。イエスは、この男をその信仰ゆえに称えています。 百人隊長のように、私たちは、イエスにわが′とヽの「屋根」の下に来ていただく資格などないことをよく知っています。それでも百人隊長が、イエスは自分の子どもを癒すことができると信じたように、神の子とされた私たちもイエスによって癒されることを確信しているのです。聖体において、イエスは最も親密な私たちの心の客人になって下さるのですから。 注) 第ニバチカン公会議後の日本の教会では、百人隊長のことばではなく、ペトロのことば(ヨハ6:68)に依拠した「主よ、あなたは神の子キリスト、永遠の命の糧、あなたをおいてだれのところへ行きましょうJという表現が用いられてきました。ただ、これは普遍的な教会の典礼のことば遣いから見ると異例とも言える表現です。 マリアの初聖体 聖体を拝領する神聖な時の考察を締めくくるにあたり、かつて聖母マリアにとって、その初聖体にはどのような意義があったのかを思い巡らした教皇ヨハネ・パウロ2世の考察に注目しましょう。 まず、教皇ヨハネ・パウロ2世は、自らの胎にイエスを身ごもるマリアと聖体を拝領する人物との間にある深い関係性に特別な関心を寄せています。ある意味で、聖体を拝領するたびに、私たちはマリアのようになるのです。「マリアはその聖体への信仰を、聖体が制定される前から示していました。マリアはご自分のおとめの胎を、神のみことばの受肉のためにささげたからです。」馬39ヵ月の間、マリアはイエスの体と血を胎内に宿していました。同じように私たちは、ミサで秘跡的な形で主の御体と御血を拝領します。「お告げを受けたとき、マリアは神の子を、真の意味での肉体において、すなわち体と血において身ごもりました。こうしてマリアの中で、ある意味であらゆる信者において秘跡の形でおこなわれることが、それを先取りする形で始まりました。信者はパンとぶどう酒のしるしのもとに、主の御体と御血を拝領するからです。」 続いてヨハネ・パウロ2世は、マリアが初めて聖体のことを耳にしたとき、どのように感じだろうかと思い巡らしています。彼女は最後の晩餐に同席しておらず、多分、後に使徒たちから、そこで何が起こったのかを聞き知ったことでしょう。 「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、その他の弟子たちの日から、最後の晩餐で語られたことばを聞いたとき、マリアはそれをどのように感じたでしょうか。『これは、あなたたちのために与えられる私の体である』(ルカ22:19)。私たちのためにいけにえとして引き渡され、秘跡のしるしのもとに現存するこの主の体は、マリアが胎内に身ごもった体と実に同 じものなのです。」 それからヨハネ・パウロ2世は、幸いなるおとめが聖体拝領から受け止めたと思われる特別な意味を美しく解釈しました。「マリアにとって聖体を受けることは、いわば自分の胎内にもう一度、主の心を迎え入れることだったのだろうと思います。その心は、かつて マリアの心に合わせて脈打っていたものでした。 なんと含蓄に富んだ洞察でしょうか。このように、わが子と再会するために身支度しているマリアを想像してみて下さい。聖体拝領のたびに、マリアがイエスに傾けたその愛情ある眼差しを想像してみて下さい。彼女にとって、わが子を再び自分のうちに宿らせることは、ことばに言い表わせない喜びであったに違いありません。マリアが、聖体を拝領する私たちの模範であるように、マリアがわが子を迎えたように、私たちも聖体拝領のたびに、熱烈にイエスを迎えることができるように祈りましょう。「マリアの心がイエスと完全に調和して高鳴るように、聖体によって、私たちの心もイエスとさらに一層調和しながら高鳴りますように」と。 聖体を授与した後、司祭は杯をすすぎながら「拝領後の祈り」をささげます。その祈りの中で、司祭は聖体が私たちの生活の中で霊的に実りをもたらすよう、主に願います。 Quod ore sumpsimus, Domine, pura mente capiamus, et de munere temporali fiat nobis remediun sempitemum. 主よ、私たちが口で拝領したものを、純粋な心で受け取ることができますように。そして今受けた賜物が私たちにとって永遠の命のための薬となりますように。 神の民は皆、いつも自分たちがおこなったこと、祝ったことを深く理解し、それに倣う者、それを生きる者になるように招かれています。キリスト信者は、自分たちがミサにおいて祝った主の過越の神秘を生きるよう招かれています。 そのため、私たちが聖体にあずかるのは単なる習慣などではなく、まさに主の愛において自らをキリストの背丈に成長させるため、まさに「聖なる者となる力をいただくため」なのです。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより)
閉祭 37 お知らせ 必要があれば会衆への短いお知らせが行われる。 38 派遣の祝福 司祭 主は皆さんとともに。 会衆 また司祭とともに。 司祭 全能の神、父と子と聖霊の祝福が+皆さんの上にありますように。 会衆 アーメン。 39 閉祭のあいさつ 助祭または司祭は次のようなことばで閉祭を告げる。復活の八日間と聖霊降臨の日にはアレルヤを加える。 助祭 感謝の祭儀を終わります。(ミサ聖祭を終わります。) 行きましょう、主の平和のうちに。(行きましょう、主の平和のうちに。) 会衆 神に感謝。 40 退堂 司祭と奉仕者は退堂する。 あいさつ、祝福、散会 Dominus vobiscum. 主があなたがたとともに。 -Et cum spiritu tuo. また、あなたの霊とともに。 Benedicat vos omnipotens Deus, Pater, et Filius, et Spiritus Sanctus. 全能の神、父と子と聖霊が、あなたがたを祝福して下さいますように。 -Amen. アーメン。 Ite, missa est. 行きなさい。ミサは終わりました(あなたがたは派遣されました)。 -Deo gratias. 神に感謝。 神とのコミュニケーションである祝福 ミサ聖祭の終盤、散会する前に、司式者である司教あるいは司祭は会衆に向かつて、ことばと十字架のしるしとともに「派遣の祝福」を与えます。 祝福を受けた信者は、再び、自らの生活の場に戻つていくことになります。祭儀にあずかつた人々は、聖体拝領で受けたキリストの御体を糧にして、新たな生活へと、祝福とともに送り出されていくのです。 ところで、祝福は送る側と受け取る側の二者があつて初めてその間で成立するものです。聖書に目を向ければ祝福は、祝福する神と祝福される被造物との間で交わされていることがよく分かります。つまり祝福は、二者の間でやりとりされる一種のコミュニケーシヨンであると言えます。 注)司教も司祭が唱えるのと同じ祝福の文言を唱えますが、司祭が十字架のしるしを一度切るのに対し、司教は三度切ることになっています。この祝福に関して、「司教掩祝(えんじゅく)」と呼ばれている教皇を含めた司教たちにのみ留保された祝福の定式が用いられることがあります。それは次のとおりです。 司教:Sit nomen Domini benedictum―会衆:Ex hoc nunc et usque in saeculum. (主のみ名はたたえられますように) (今も世々に至るまで) 司教:Adiutorium nostrum in nomine Domini―会衆:Qui fecit caelum et terram (私たちの助けは主のみ名にあります) (彼は天と地を創られたからです) 司教:Benedicat vos omnipotens Deus, Pater+,et Flius+, et Spiritus Sanctus+. (全能の神、父と子と聖霊があなたがたを祝福して下さいますように) ―会衆:Amen (アーメン) 教皇がこの定式を用いて、日曜日の正午におこなわれるお告げの祈り(アンジェルス)の最後に、集まった人々を祝福していることはよく知られています。実は、この祝福の文言も、ラテン語のブルガタ訳聖書の詩編に根拠を持つもので、一言一句違わず引用されています。最初の一行目は詩編113:2から、二行目は詩編124:8からです。 創世記の初めに描かれている天地創造の場面で、神は最初の被造物である水の中で生きる魚類と天空を舞う鳥類を祝福されています(創1:20-22)。次いで、地上に生きる動物や家畜を創られます(創1:24)。そして最後に、私たち人類を創られました(創1:27)。 しかし神は単にそれらを創造されただけではなく、創られたものを善しとして祝福しておられるのです(創1:22,28)。 神が被造物に与えられる祝福の目的は、「産めよ、増えよ、満ちよ」(創1:22,28)ということばに示されています。神が祝福を通してそれを受け取る側に願っていることは「繁栄」です。倉1られたものが豊かさを享受して栄え、途絶えることなく子々孫々までも末長く増えていくようにとの神の切なる思いが、祝福に込められているのです。 特に神がお選びになったアブラハム(創12:2…3)、その一族の後継であるイサク(創26:3-4)とヤコブ(創28:13以降)において、数え切れない子孫でアブラハムの家が満たされたことこそが祝福の結果であったことは、はっきりと伺えます。 また、家が栄えて行くためには、人間が末永く生きていくことのできる環境に置かれているということが大変重要な要素となります。人間の生命維持に欠かせない家畜の増殖(上記のとおり)、それと地から得る継続的な穀物の実り、つまり「豊穣」も同様です(レビ25:21;申28:8)。したがって、祝福にはこれから先に善なるものを希求し、明るく開かれた未来を志向する要素が強く現われてきます。 このように、祝福することのできる主体はあくまでも神であって、人間ではありません。ミサの中で司式者は参加している会衆に向かって「神が祝福を与えて下さいますように」と祈ります。 それは、ミサを司式する司教や司祭にキリストの祭司としての権能が与えられているからです。このことは、民数記6章22‐27節からはっきり分かるように、かつてユダヤの民の中において、民に「神の名を置くことによって」祝福を与える役目を祭司たちがその職権として担っていたことに関係しています。 つまり、神はイスラエルの民に祝福を与えるとき、それをおこなう代理(仲介)を祭司アロンにゆだねたのです。もし教会におけるミサ聖祭で、司教あるいは司祭である司式者が神からの祝福を祈るのであれば、それは祝福を与える神とそれをいただく会衆との間の代理者・仲介者として彼らが立てられているからに他なりません。 以上の考察をふまえた上で、「派遣の祝福」をどのように理解したらよいでしょうか。一般謁見の場で“1、教皇フランシスコが見事な見解を示しています。教皇はミサ聖祭に参加した信者は皆、「聖体によって養われた者、恵みをいただいた者、栄光にあずかった者」として、得たものを生活の場で表わすよう促しているのです。 注)確かに祝福の主体は神ですが、しかしヘブライ語の原文では「祝福するJという動詞の受動態を用いて、「主(神)は祝福されますように」(創24:27;出エジ18:10;ルツ414)と言われることがあります。これは字義どおり神が祝福されるという意味ではなく、人間の側からの神への称賛、賛美を意味しています。そのため日本語では「主(神)は(ほめ)たたえられますように」と訳されるのです。 モーセは神から告げられて、神のメッセージをアロンに伝えています。それは、アロンが神とイスラエルの民の間の仲介者(代理者)となって、彼が神の祝福を民に与えるという内容です。それゆえ神の民への祝福は、「祭司による祝福」と言われます。 教皇フランシスコは、2018年の一般謁見において「ミサを味わうJというテーマで連続講話をおこなっていましたが、2018年4月4日がその一連の講話の最後で、キリスト者として信仰を証しすることの重要性を強調されました。 彼らは司式者の祝福によつて自分たちの生活の場である家庭、職場、学校に送り出されていきます。彼らは、それぞれが遣わされた場で神の「恵み」と「栄光」を福音宣教によって多くの人々に証し伝えていく「使命」(Missio)を果たすわけです。復活され天に昇って行ったキリストも、後に全世界に宣教に出かけていく弟子たちを、手を上げて祝福されました(ルカ24:50-51)。それゆえ教会は、ミサの最後に、いただいた恵みを伝えるようにと、聖なる使命を受けて、それぞれの生活の場に派遣されていく信者を祝福するのです。 祝福を受けた信者の証と宣教のわざが、祝福を与えて下さつた神に対する応答です。したがって、祝福は決して単に神からの一方通行のわざではなく、私たち信者もそれに応えていかなければならず、それゆえに祝福は、神とのコミュニケーシヨンであると言うことができるのです。 新たなる派遣 古代世界では、慣習的に、儀礼的な散会をもって集会を締めくくつていました。初期キリスト信者たちは、同じような終え方を彼らの典礼的な集会に取り入れる必要性を感じました。そのため四世紀以降、その役割を果たすために、Ite, Missa est (イーテ、ミッサ エスト)というラテン語の言い回しが使われるようになりました。これは、字義的には「行きなさい、解散です、派遣されました」という意味で、それが新しい英語のミサの翻訳では、「行きなさい、ミサは終わりました」と訳されています。興味深いことに、正教会の聖体礼儀の最後にも次のような宣言が見出されます。「蓋爾は我らの成聖なり、我等栄光を爾父と子と聖神(せいしん)に献ず、今も何時も世世に、アミン。主の名に因りて、平安にして出づべし」。 この散会について最も重要なことは、聖体祭儀の典礼全体がこの最後の一行にあるMissa(解散、派遣)ということばから「ミサ」と名付けられているということです。このことは、いかにミサが究極的には「外に向かって(神が)送り出すこと」として理解されるべきかを示しています。それは『カテキズム』が説明しているように、「聖体祭儀が『ミ サ聖祭』(“Missa"、英語では“Holy Mass")と呼ばれるのは、救いの神秘の実現である典礼が、信者が日常生活の中で神のみ旨を果たすようにと願う信者の派遣(missio)で終了するから」です。 イエスは、使徒たちに語りました。「父が私をお遣わしになったように、私もあなたがたを遣わす」(ヨハ20:21)と。御父は、私たちを神の命にあずからせるため、御子を世にお遣わしになりました。私たちが見てきたように、イエスの受難と死、そして復活という過越の神秘全体が、聖体祭儀という典礼の中で私たちに現わされました。それゆえ私たちはイエスの生涯とその使命、その神秘により深く結ばれることができるのです。私たちが聖体祭儀によってイエスにより深く結ばれれば結ばれるほど、私たちを取り巻く世界の中で、私たちはイエスの命、愛と平和、喜びをよリー層広げていくことができるのです。 キリストはこうも教えられました。「大通りに出て、見かけた者はだれでも婚宴に連れて来なさい」、そして「あなたがたは行って、すべての民を私の弟子にしなさい」と。 つまり、この典礼の最後の一文によって、私たちは目的なく散会させられるのではありません。それは、使命を伴う散会なのです。すなわち、全被造物を神の恵みにあずからせるために、主が神の民を力づけ新たに派遣するということを意味しているのです。 福音宣教の源泉であるミサ 「教会は、その本性から宣教的であり、福音宣教のわざは神の民の基本的な義務とみなされるべきもの」です。言うまでもなく、その原動力はミサでの体験にあります。 これまで見てきたように、私たちのミサは、「地上における天国」の体験、「天に上げられること」だと言えます。正教会の典礼では、聖体拝領の後「我等、すでに真の光を観、天の聖神を受け、正しき信を得て、分れざる聖三者を拝む、彼我等を救い給えばなり…」と歌われます。正教会においては、ミサにあずかることはイエスの弟子たちの「ダボル山」での経験と重ね合わせて説明されることもあります。 私たちは、ミサの中で旧約の律法と預言(モーセとエリア)を完成させ、エルサレムで新たな過越(cxodus)を完遂される栄光に輝くイエス(ルカ9:29-33)を目の当たりにして、「ここにいることはすばらしいこと」(ルカ9:33)だと叫んだ弟子たちと同じ体験をしたのです。 そして御父に「彼にこそ聞き従いなさい」(ルカ9:35)と命じられてその山から降りる私たちは、黙示録的に言えば天上の主の神殿から出て、この世の只中へとその神秘的な体験を胸に、出かけて行くわけです。つまり三位の神との交わりの体験、真の喜びと平和である神の国の体験をして、すでに始められた世の聖化を完成させるために、私たちはこの証人として出かけていくのです。 私たちは、信仰、希望、愛によつて主に結ばれ、すでに主とともに天の憩いを味わったのですから、地上の労苦を耐えるようにしようではありませんか。 ミサを祝った私たちは、「それぞれ自分の家に帰つていきます。私たちはともに光を浴びて嬉しかったのです。大いに喜び、大いに楽しみました。今、互いに別れて去っていきますが、主から離れることがないようにしましょう」。私たち自身が私たちが祝ったものにいつも倣うものでありますように。ミサを祝った私たちの生活そのものが、神への賛美であり続けますように。 聖霊の交わりの中でキリストの愛の秘跡にあずかった私たちは、聖堂を出て以前と何ら変わらぬ生活に戻っていくのではなく、この世にあってこの世の者とは異なる聖なる生き方において、より積極的に福音を証するため、つまり信仰の神秘の体験をもって世を福音化するために派遣されていくのです。主は世の終わりまでいつも私たちとともにいて下さいます(マタ28:20)。 「行きましょう。主の平和のうちに」。 (「ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味」E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレスより) |
||||||||||||||
なお、「ミサについて」の解説にあたり、「『ミサ聖祭 聖書に基づく言葉と所作の意味』E・スリ・田中 昇・湯浅 俊治共著発売/星雲社 発行/フリープレス」より多くを出典させていただきました。また、「『ミサの鑑賞-感謝のミサをささげるために』 吉池好高 著 オリエンス宗教研究所」よりも出典させていただきました。 |
||||||||||||||
![]() ![]() |