2023元旦

今年もゆっくりと老後を楽しみながら歩んでいこうと思っています。

(視覚、聴覚は近年落ちてきました)

私の毎日は朝の運動から。起床後、近所の市営高層住宅(10階)の階段

(2回で)300段ほどに挑戦。

朝のコーヒーと新聞(京都・赤旗)の後はメールとネット記事(リベラ

21、孫崎亭、望月衣塑子、白井聡他、10人ほどの興味あるサイト

ロイタ―などネット配信)に1時間ほどかけて目を通します。

午前中は隔日で京大図書館へ。新聞各紙を読んだ後は、雑誌類(世界、

中央公論、現代思想、Newton研究中国、その他)の興味のある記事

を読みます。

昼食後はクロスバイクで毎日約20キロのロードランで1時間余り、

冬は昼過ぎ、夏は早朝で、鴨川土手の遊歩道を、出町⇒柊野⇒五条大橋

⇒出町のコースです。(これまでで4万キロを超えました)

ところで高齢者の「生き生き」生活の秘訣は「キョウイクとキョウヨウ」。

「今日は行くところがあるか」「今日する用事があるか」と毎日朝起きて

自分に問いかけています。

昨年暮、「湯山哲守追悼集」発行、少しだけお手伝いをしました。

今年もお元気でお過ごしください。

 

2023年元旦                山本正志

606-8201 京都市左京区

田中玄京町76

075-702-6705 (FAX)

 

 

 

 

 

 

 

 

2020年元旦

近況報告

 

新しい年を迎えお元気でお過ごしのことと思います。

私も73歳となり、体のあちこちの不自由さを痛感しております。

まずは眼、左右とも「加齢黄斑変性」で治療継続中、

左右の画像が一致しません。(特に自動車運転や読書は不自由になりました)

次に耳、とにかく聴き取れない。(会話、テレビ、講演や小集会での会話)

出歩くのが「どうせ無駄」との思いが先に立つようになりました。(講演も隣

の席の人が笑っているのが??です。労演はセリフが聴き取れず、退会しました)

しかし体は元気です。毎日クロスバイクで25q(南コース伏見羽束師橋往復)

16q(北コース上賀茂まで左岸・右岸往復)を日替わりで鴨川土手道を走って

います。(爽快)

また昨秋から魚釣りも始めました。(小学生の頃には岡山・下津井で休みといえ

ば魚釣りでした) 大阪港で豆鯵の釣れる場所を探り当て、1、2時間で30匹、

image00240匹と釣れます。(唐揚げがおいしい)

テキスト ボックス: つれあいは数年前
から三味線を
昨年10月、河上肇記念会事務局長を代わっていただきました。京大学生運動史

研究会はしばらくお休みにしています。追いかけているテーマはあるのですが、手

がかりが見つかりません(特に1970年代に発行された「学生新聞京大版」=党中

央委員会、「京大学園新聞」は当時の全共闘の暴力との対決など貴重な資料です)。

関係の資料があればお知らせください。

週3日は京大本部図書館に通っています。自宅で赤旗・京都新聞を読んでいますが、
朝日、日経、毎日、読売、産経。日刊工業、日経産業の各紙に目を通しています。
「世界」、「アエラ」、「ニュートン」、「金曜日」などもそろっています。特に最近の産
業界の「5G」、「IT」、「量子コンピュータ」、「顔認証ITシステム」、「ドローン」、
「ブラックマター」など話題となっている最新情報にも注目しています(理学部図書
室には最新の情報誌もあり、経済学部図書室には「研究中国」他各大学や研究所の紀
などもそろっています)。いずれも自由に入室出来ます。京大には80以上の学部・
学科図書室があり、ほとんどは入室自由です。「京大反戦自由の歌=樹々の緑」の録音
(京大合唱団)CDは建築学科図書室に所蔵されていました(寄贈物)。また小林よし
のり「天皇論」をはじめ「
台湾論」、「沖縄論」なども教育学部図書室にありました。
皆さんも自由に来室して探求の時間を楽しんではいかがですか。私は今のところ10余
りの図書室しか利用していません。まだまだこれからです。

 

 

 

 

 

 

 

 

保育・教育って大切な仕事  

 山本正志(日本科学者会議京都支部)

 

 私は岡山県下津井港の漁師の家庭の5人兄弟の3番目、当時保育園はあったが多くの家庭が子ども

たちを家庭で(事実上放置の状態で)育てた。といっても当時は子どもたちだけで道路で、海岸で、

山で、寺の境内で好きなことをして日が暮れるまで遊んだ。

 私の家庭は妻と子どもたち4人の6人家族。父親として子育てをしたという実感はいまもってない。

(4人の保育園の送り迎えは朝夕ラッシュ時に3ヶ所の離れた保育園で、悲惨を極めたが)

 学生運動、共産党専従16年、その後京都市会議員20年の時期を通じて「社会変革こそ使命」と

思い込み、科学的社会主義の哲学を聞きかじってきたが、あくまでそれは自然と人間社会の発展法則

に関する理論の問題だった。

 ところが保母という妻の仕事の関係上、保育・子育てにも理論があるということをやっと知って、読

み始めたのが田中昌人先生の本、これがおもしろい。「えっ、人の誕生から成長にいたる過程にも発展

法則があるのか!」とそれからいろいろの書物や講演会にも接触を始めたという次第。

「人知りそめし」(母親のことかな)「物知りそめし」(おもちゃのことかな)「我知りそめし」(自我

の発生)「理(ことわり)知りそめし」の各段階で節があり、それぞれの適切な支え(保育・教育)があっ

て人としての成長が保障される。(不適切な介入や放置では成長が阻害される)といった大まかな田中理

論のさわりの部分だけは今も頭の隅っこに残っている。「人の成長も発達理論に裏付けられているのか」

と感心して「保育・教育って大切な仕事なんだなあ」と口にしたら「気づくのが20年遅い」と言われ

てしまった。

(ひろば151号  2007年8月 掲載)

 

 

ご挨拶(2007年8月4日 ある集会での挨拶です)

 

 たくさんの方々に遠いところからもお集まりいただきましてありがとうございます。

今日は、卒業以来40年ぶりにお会いできた方もいて、懐かしい思いでいっぱいです。

最近の心境をお話させていただきます。

20年間京都市会議員としての生活を送ってきたわけですが、今回新人の人にバトンタッチいたしました。

「まだ60歳だから、議員を続けられるのではないか。やめないでほしい」といった声もお聞きしている

のですが、選挙のたびに声帯ポリープができまして、発声がままならないことになりました。

こくたさん、西山さんの選挙、その後の選挙のたびにポリープができ、とうとう4回も手術することに

なってしまいました。最初は簡単な手術でよかったのですが、次第に重大なことになり、最後は昨年の

7月に入院して手術をいたしました。おなじみになった府立医大の先生に「来年4月には私の選挙があ

るのですが」とお尋ねしましたところ、「多分またできる。癖になっていて、悪性にならなければよいが」

といわれ、観念して地区委員会に後継者を探してくれるように話をして、この4月、とがし豊議員に引

き継ぐことができました。

もともと、20年前の5月、当時左京地区委員会の副委員長をしていた私に、中川義文委員長から「タヤ

市会議員の後はお前だ」といわれ、家に帰って「今度市会議員選挙に出ることになった」と告げますと翌

日に離婚届が飛んできました。「あんたなんかに議員がつとまるはずがない。挨拶はできないし人のいうこ

とは聞かないし、出るのだったら勝手にどうぞ」というわけです。確かに私は近所の方との挨拶などは一

切しませんでした。

次々と挨拶をするたびに「本を読む時間がなくなる、もったいない」と本気で思っていましたから。とう

とう「選挙は一切手伝わない」ということで立候補することになりました。

20年間の議員生活を振り返ってみて、私はやはりやらせていただいてよかった、と思っています。党の

専従をずっと続けていく決意だったんですが、議員をやってみて国民健康保険のことや税金のこと、市民

生活全般にわたってはじめてわかったことも多く、本当に勉強になりました。

世間知らずということでは家の中でも時々激しく対立したこともありました。「借金をして家を買う」と

いうので「一生借金を背負って追われる生活なんかいやだ」といいますと「あんたはあほか」といわれ

ました。「このまま家賃を払い続けても何も残らないが、借金を払い終わったら財産になる。そんなこと

もわからないの」というわけです。生命保険をかけるときもそうでした。「俺の命がなくなるというのに

金がほしいのか」というと「バカ、死んだときのことよりも子どもが高校、大学と進学するときの支度

金も出るし、事故や病気で体が不自由になったら責任もてるんですか」といわれました。

こんな人間が、介護保険や医療・福祉など、人様の世話をすることができるまでになって、人に会うと

ふっと笑顔になるまでになりました。

もう一つは、かなり自由な勉強をすることができました。ご存知のように議員には調査研究費というお

金が出ていますが、たとえば中小商工業研究交流集会とか、自治体問題研究所の学校とか、原発の視察

とかいろんなところに出かけていって現場を見ることができました。京都府委員会はよくまあこんな勝

手気ままな議員を「野放しに」してくれたものだと感謝をしています。

 

今日の案内にも「第二の人生」と書いてありますが、のどを痛めて声も出ないので一応、政治活動の表

舞台での活動はお断りをしています。今やっているのは日本科学者会議京都支部の幹事をしておりまし

て、一昨日京都で開かれた原水爆禁止科学者集会の準備などでは看板作りからサーキュラーの印刷、お

弁当の手配など、裏方の仕事で結構忙しくしております。科学者会議には議員になる前から関わってき

たのですが、自由になったら本格的に科学者・研究者の一員としてのスタートを切りたいと思っていま

した。

もう一つは京都教育センター事務局のお手伝いをしています。資料室の担当というとで資料整理と勉強

するのが仕事です。議員の時から教育には、とりわけ京都の教育にはかかわりを持ってきましたので、

教育のゆがみと子どもたちへの影響、本来の教育のあり方など、多くの問題がありますが、時間的にも

各種の教研集会や学習会などに参加できるようになりました。その他に河上肇記念会の世話人、日本ユ

ーラシア協会(旧日ソ協会)京都府連の副会長という役も引き受けています。

そういうことで今では毎日図書館へいっての勉強や科学者会議、教育センターなどの仕事で毎日をすご

しています。できればどこか正式に勉強する場を得たいと考えています。

最後に、私が議員をしていて二つ三つ、困ったということがあるのですが、それは町を歩いていてしょ

っちゅう「なぜ国会議員に出ないんですか」と言われたことです。「次は府会議員ですね。国会へ出る

のはいつごろですか」といわれ、「私は全くその気はありません」といっても信じてもらえませんでした。

もう一つは、議員というのは組織人で、バッジをつけていますから、かなり窮屈で言いたいことが言え

ないということがあり、私自身は困りました。例をあげますと天皇の孫が生まれた時に市会で賀詞決議

をあげることになりました。「国会でも衆議院、参議院ともに賛成しているじゃないか」ということなん

ですが、私は絶対反対でした。議員団でも大論議をして私は反対を貫いたんですが、「国会でも賛成して

いるし目をつぶれや」というようなことで全員賛成ということになりました。困ったのはその後「山本、

おまえもか」といわれたことです。組織の原則上そのときに「私は反対の立場です」と口にできないこ

とには困りました。無防備都市宣言の問題など、こうしたことがたびたびありました。自由にものが言

えないというだけでなく、日本共産党の赤旗に書いてあることを口移しで宣伝しているだけじゃないか、

といわれることは耐えられませんでした。私も同じように見られるわけですが、これでは研究者・学者

としては失格だと思います。その意味では一日も早く自由になって自分で調べ、確信持ったことを表明

できる立場になりたいと願い続けて20年間我慢してきました。私は党の議員であっても自分の立場を

ある程度は自由に表明していく方がかえってまわりから信頼を深めることになるのではないだろうか、

意見の違いというのは調査、研究していけば必ず出てくるし、だからこそ活発な議論にもなるわけです

から、その方が組織としての信頼も増し、伸びるのではないか、と考えています。

これからは研究者としての自分を確立していくことを目指し努力を続けていくことを表明して御礼の言

葉とさせていただきます。本日はありがとうございました。