樹々の緑通信
★京大学生運動史研究会とは
山本正志(1965 年理学部入学)の呼びかけに応えて参加された京大(統一派)
OBによってスタートした研究会です。
例会での話し合いでは、京大学生運動史の資料の発掘・編纂・普及について、 さらに多くのOBに呼びかけていくこと
にしています。
事務局:山本正志 電話・FAX
075-702-670 メール mymmt6419776543@gmail.com
山 本 正 志 の ホー ム ペー ジ http://w01.tp1.jp/~sr10697360/index.html
研究会の「月報」はほぼ毎月発行し、44 号で終結しています。 配布は原則会員のみとしてきました。
会報全号を希望される方(京大旧統一派、または研究目的)は山本まで。データ FILE での配布はしません。
「京大学生運動史研究会」の発足とその後の経過について 2013/9/20 の「京
都の民主運動史を語る会」(機関誌「燎原」)
でお話した記事を転載します。
京都の民主運動史を語る会 2013/09/20
今日のお話の主題は「京大学生運動史研究会」のこれまでの取組みで、何が明らかになってきたのか、何を解明していく
ことが必要なのか、ということなのですが、資料「「平和は求めて追うべし‥京大反戦自由の伝統」は1980年代に民青
同盟京大地区委員会がまとめ、学生新聞「京大版」に掲載されたものです。
これは学内でも配布されていますので私も持っていました。
最初に私の経歴を紹介させていただきます。 1965年4月に入学(理学部)、民青同盟は倉敷青陵高校時代から加盟、そのま
ま学生運動(統一派・平和を守る会)に加わりました。当時、京大同学会(全学自治会)も教養部自治会も執行部は社学同・
中核派等のトロツキスト連合によって握られていました。
当時、アメリカのベトナム侵略反対、日韓条約反対闘争が闘われていましたが、6月の教養部自治会選挙で委員長は社学同
のUが当選しましたが副委員長には僅差で私が当選し、常任委員会は多数を握りました。同時に行われた同学会代議員選挙で
は多数を獲得し、同学会を民主化、初代の委員長は村上治充さんでした。
66年12月に同学会委員長に選出され、67年
12月まで2期つとめましたが、思い出深いのが全学で闘われた自衛官入学反対
闘争です。
工学部院生協議会を中心に 60 年代に入って取り組まれてきたこの闘いは、ついに全学学生大会・全学ストにいたり、奥田総
長との大衆団交で「京大に自衛官は入れない」という趣旨の確認を勝ち取り、その成果は全国の大学に波及してゆきました。
68年から69年にかけて京大学生党委員会の責任者をつとめました。当時京大でもトロツキスト諸派がヘルメット・ゲバ棒に
よるデモや「内ゲバ」を繰り返していましたが、医学部、文学部を除くほとんどの自治会を民主化し、党員数も400人を超え
るまでになりました。
71年3月に6年間の学生生活を終えて共産党(東地区委員会)の専従になりましたが、80年から85年の間は京都府委員会
で文化・知識人対策を担当しました。
この間、芸術団体(劇団や美術家、音楽家等)、各大学の先生方とお付き合いする機会をもつことができ、京都の民主的文化人・
知識人の層の厚さを実感することができました。
87 年の京都市会議員に立候補することになり、穀田さんなどとともに当選、2007年4月まで20年間市会議員をつとめました。
じつは立候補が決まった当時、鰺坂真先生や友人などが呼びかけて「励ます集い」が約80人の参加で西部食堂でもたれたので
すが、案内状を送ったOBはおそらく400人以上あったと思います。私は議員を辞めるまでこの400人近くの先輩・後輩のOB
に毎年年賀状を出してきました。おそらく1960年頃から75年頃までのともに活動した仲間の数は2千人近くなると思いますが、
公務員や教員関係はともかく、銀行や企業に就職されたOBとは住所は分かっていても私の名前で連絡をとることはできません
でした。私の思いと研究会の呼びかけ2007 年に市会議員を辞めた後もこの年賀状交換は続けています。11年は年賀に代えて
「年頭所感」をお送りしました。その中で「『平和は求めて追うべし‥京大反戦自由の伝統』を読むにつけ、私の心に長く温め
てきた企画がある。それは『物語・京大学生運動史』とも言える、少しでも充実した私たちの先輩や同僚、後輩たちの足跡を残
しておくことができないか、ということである。それは、戦後一貫して京大学生運動を支え、大きな役割を果たしてきた『日本
共産党京大学生細胞(後の党委員会)の闘いの歴史』を発掘し記録することである。残念ながらこの点については、正式の記録
文書などは入手できないという事情もある。
このあたりで、自分にしかできない仕事として取り掛かることを決意して 2011 年の出発としようと思う」と書きました。あち
こちのOBから反響がありました。
「京大学生運動史研究会」を呼びかけるにあたって鰺坂真先生をはじめ幾人かの方と相談して、11年1月23日に第1回の会合
を持ちました。
岩井忠熊、芦田文夫、中野一新、家野貞夫、湯山哲守の諸氏と私の6人で話し合いの結果、以下のことを確認しました。
▽「京大学生運動史研究会」は毎月開催、呼びかけに答えた賛同者に参加を呼びかける。・名簿の整理・追加:山本の年賀状名簿
は約400人。
名簿の追加を呼びかけて対象者を増やしていく。
▽各種資料の収集:学内で配布されたビラ類をはじめ出版物、研究論文、遺稿集、新聞雑誌記事などの提供を呼びかける。
▽「月報」の発行:研究会開催予告や研究会の記録、収集資料の紹介などを中心に定期に刊行する。
▽成果物の公開と配布:資料収集と研究会での検討を経て一般公開については慎重に検討する。
といった内容でスタートしました。
現在会員は130人、呼びかけると数人から5万円のカンパが寄せられるなど「待っていた」「期待している」といった声と同時に
「いまさら過去を掘り返しても」 「事実確認や固有名詞などの検証なく記録公開はいかがなものか」といった声も寄せられまし
た。したがって「月報」は会員以外は非公開として、印刷文書にこだわっています。
また「京大統一派」のOB以外は呼びかけていません。
2011年1月23日の初回の会合では岩井忠熊氏にお話をしていただきました。岩井先生は「燎原」の2006/11/15から「滝川事件以
後 15年戦争期京大学生運動の断章」を6回連載されています。
当日の岩井先生のお話から 山田幸次さん(元京都市会議員 昭和5年三高ストで検挙、退学)は滝川事件以前の三高世代でした。
当時の三高のやり方は、あのストライキの関係者を呼び出して追及し、反省するというと形式的な1週間程度の謹慎処分で済まさ
れているのです。「反省しない」というと放学になるのですが、山田幸次さんは毅然として「反省しない」と答えて放学になりま
した。北山茂夫さん(日本古代史専攻、元立命館大学教授)は、とても立派な人物として山田幸次さんのことをほめています。
東洋史の宮崎市定さんは三高の教授だったと思いますが弁解していました。
「燎原」の昭和55年(1980/6/15)には「55年ところどころ」という山田幸次さんのお話が掲載されています。
中野一新さんは「吉村達次さんに聞いた話ですが戦前の最後の学生運動は学消(学生消費組合)だったということです。山岡亮一
先生の話では瀧川事件の翌年卒業者で京大に残った人たちが『昭和9年会』というリベラルな会をつくり、西尾雅七さん、松井
清さん、島恭彦さん、田畑茂二郎さん、庄司光さんなどが入っていたということです」というエピソードを紹介されています。
2011年6月3日には、大阪堺市の定免政雄氏(元共産党大阪府委員会委員長 1947 年9月卒)のお宅に鰺坂先生とともにお伺
いしてお話をお聞きしました。
じつは私もそうですが「戦後京大の党組織が再建されたのはいつごろで中心はどんな人たちだったのか」ということがよく分か
っていなかったのです。
定免さんは昨年1月お亡くなりになりました。
定免政雄氏のお話
私は1947年9月に卒業しましたが、当時の細胞は100人くらいいました。若杉光夫さん(映画監督 46 年卒)は京都地方委員
会の常任で、彼の後47年の夏休みが終わってから「お前がやれ」ということで私が常任になりました。当時は小柳津恒さんや
儀我壮一郎さんや北牧孝三さんたちがいて、しばらくして舞鶴から河田賢治さんが帰って来ました。
2011 年6月 25 日の小畑哲雄氏のお話では、「燎原」2007/7/15 から「戦後京大学生運動私記」として小畑氏の回想記が5回
連載されています。
天皇事件(51年11月)から荒神橋事件(53年11月)ころの京大学生運動のことを詳しく書いておられます。
11年9月は田中清和氏(1961年3月卒)のお話で「安保前夜の京大学生細胞解散事件」についてお聞きしました。
60安保闘争前夜の59年11月27日、第8波全国統一行動があり、東京では全学連ブント派の扇動による国会突入がありました。
新聞、テレビで大きく報道され、その是非をめぐって激しい議論が起き、日本共産党はトロツキストの挑発行為だとして全学連
指導部のブントを批判しました。これに対し、今泉(当時の京大学生細胞キャップ、ブントでは「東の島、西の今泉」と称され
ていた)、北小路らが12月3日、新聞記者会見をして「日本共産党京大学生細胞解散声明」を出し、「党はもはや前衛ではなく
なった」と誹謗しました。
これに対して私たちは、4日夜、地区委員会の招集により黒谷のお寺で緊急会議を開き、彼らを除名し、翌5日には全学規模で
ビラをまきました。
(山本)「残ったのは何人いたのですか。『7人のサムライ』が残ったという伝説があるようですが?」
(田中)私の記憶では、30 人近くいました。「7人のサムライ」という伝説(?)は、私も後に耳にしたことがありますが、
おそらくは 12 月4日の緊急会議のときに選出された新指導部のことだろうと思います。当時、学生党員のうちには地域の組織
に所属していた者もいたので、「元々学生細胞にいたのが7人」という意見もあるようです。(ここまで田中清和氏の話)
その後の例会では、50 年以降の党の非合法化、分裂という事態の下での活動の実態のお話も幾人かの方からお聞きしました。
当時の非公然機関の「核」はビューローと呼ばれ、「表」の公然機関とは別にありました。非公然活動というのは手間、ヒマが
かかります。人数も要るが金はない。学内の党組織を離れて、府委員会の「総務」担当として、上下・相互の文書連絡や会議
場所の設定、上部組織からきたオルグの宿泊の世話などが仕事でした。たとえば隠れ家(アジト)を準備する仕事でいえば、
一週間おきに居場所を変えなければならないので、多い時には 10 軒ぐらいの家を確保しておかなければならない。しかも一部
屋を提供できるほどのゆとりのある家、加えて家族全員が協力的であることが条件になるので、協力者を探して依頼することは
大変だった。当時、学内で看板を出すと許可していないということで、つかみあいの喧嘩を学生補導のある先生とやったことが
ありますが、ある時の府のビューロー会議に私宅を提供してくれたのが、その先生だったので驚いた、というお話も。
また、郡部で非合法の機関紙「平和と独立のために」を党員をたずねて手渡し、かろうじて食事はそこでいただきながら地域
をまわる、という当時の日常活動の実態もお聞きしました。当時学内から次々と「工作隊」が補充され、こうした「地下活動」
部隊の供給基地とされていたようです。
ところで私(山本)も「山村工作隊」ということをある先生からお聞きしていましたが、これはある方からお預かりした当時
の資料の中で見つけたものです。
「農工通信」(54 年3月)とありますがその中で「全党の同志はこの闘いに続こう!
周山**では君たちの来てくれるのを一日
千秋の思いで待っている」といった記事があります。
地域オルグの地下活動だけではなく、農村に入っての援農とオルグ(農民組合の組織化など)活動も活発だったと思えます。
2011 年12 月18日には「京大天皇事件60 周年を語る集い」で神戸女学院の河西秀哉氏を招いてお話をしていただきました。
その後の例会でのテーマと話題提供者については割愛させていただきます。次回は 10 月に予定していますが、それ以降も様々
な分野・テーマでの話題提供者を発掘、探求していくことにしています。
当時配布されたビラなどのまとまった資料としては、京大文書館(京大会館)に、「戦後学生運動関係資料
解説・目録」(松尾
尊~氏寄贈 50 年代前半の資料)、
「大学紛争関係資料T〜X 解説・目録」(尾ア芳治氏、加藤利三氏他寄贈 69 年〜71 年他)、「戦後学生運動関係資料V 解説・
目録」(西山勝夫氏寄贈
61 年〜65 年)がありますが、これらは閲覧も撮影も可能です。私も全て目を通しました。
また、京大新聞は現物が京大本部図書館に綴じてありますが、古い号は欠番もあります。縮刷版は第1巻(大正 14 年4月〜
昭9年3月)以降すべて京大本部図書館にあり、私の手元にもお借りしたものがそろっています。
私の手元にある資料の中には「内部関係資料」もありまして「京都に於ける学生運動の再建統一のために」京都府委員会
(1963/8/20 いわゆる「820 決定」)や、64 年に志賀義雄らに追従して京大細胞から除名された西村・角田らに対する批判文書
「党内の分派活動はゆるしえない」などもあります。またそれぞれの時期の「党会議方針書」も60 年代を中心にそろっています。
ただこれらの方針書では氏名などは一切記述がありません。
1951 年 11 月発行の「平和を希うがゆえに京大天皇事件の真相」は京大同学会の発行したパンフレットです。53 年 12 月発行
の「荒神橋・市警前で警官は何をしたか」は「11・11事件究明教授団」発行となっています。
「京大平和の戦士」(51/1/30〜51/10/16 bQ〜36 )は「京大平和の戦士社発行」となっていますが、いわば党細胞の合法宣
伝物でした。
「嵐をついて」(京大細胞機関紙 51/5/23〜 55/10/8 bS〜210 )も当時の学生運動や政治状況を知る上で貴重な資料でこれほど
そろっているのは珍しいと思います。
1950 年以降の非合法下での活動で紹介した
「平和と独立のために」(54/2/28〜55/4/21
340〜404)は党機関にも余り残っていないと思われます。
ある解説では:50年からのレッドパージ(非合法化)以降、共産党は数多くの宣伝紙や機関紙を発行していたが、52 年3月に発禁
になった『平和と独立のために』は党の首脳である政治局の意見を広範に下級組織に発表するための内部機関紙であった。当時は
共産党の大衆機関紙である『アカハタ』(当時はカタカナ)も発禁となっており、共産党が『アカハタ』の後継紙を配布したら同罪
ということで、この『平和と独立のために』もその編集・印刷関係者ばかりでなく読者までも逮捕するという徹底した弾圧をうけた。
このような弾圧にもかかわらず『平和と独立のために』は地下で発行され続け、全国に配布されていった。とあります。
この他に個人の記憶、思い出などの書籍は実に多数ありまして、まだまだ探求の途上にあり、今後も各方面のご協力をお願いした
いと思います。
「ああ楼台の花に酔う」=(西山夘三著 82/10)、
「田中診療所の三十年」(佐本昌平発行責任 85/8)、「人生は奇縁なり」(重富健一 04/11)、「樹々の緑‐戦争のあとがき−」(細川 汀
10/12)などの他にもまだまだあります。
最近鰺坂真先生にお聞きして、品川正治さんの「手記 反戦への道」を読みましたが、品川さんが三高の生徒総代だった1944年2月
の「軍人勅諭読み替え事件」にはこう書かれています。
当日は…九時から京都師団長の査閲が始まった。私は…閲兵・分列行進の指揮を執り整列している全校生徒の前に立っていた。
…「只今から軍人勅諭の奉誦を始める。本官の指名の順に奉諭せよ」。 突然、理科の集団の最前列にいた男の手が挙がった。
浅沼実君だ。…「我国の天皇は世々軍隊の統率し給う所にぞある」浅沼君は昂然と胸を張り、口調も荘重を極めていた。
「あっ‐」と私は息を呑んだ。勅諭の正文は「我国の軍隊は世々天皇の統率し給う所にぞある」で、「天皇」と「軍隊」をいれ替え
ればまったく逆の意味になる。階級の高い査閲官の一人が、「何いっー、もう一度言え」と叫ぶまでは、指名した査閲官本人自身
「よし、次…」と促しかけるほど見事に語呂が合っている。…査閲官は駆けよって軍刀の柄に手を掛けたが、思い留まって、「査閲
中止!全員解散!」と叫んだ。
…その事件は一切公表を禁じられた。
敗戦の前年に当時の三高でおきた事件ですが、こうした気概をもった学生がいたことを知らされました。
新たな資料を検索していますが、先日「学生新聞」のバックナンバーが党本部資料室にあることが分かり、閲覧できました。気づい
た関係部分をコピーしてきました。(学生新聞「京大版」は残されていませんでした)
今後の方向
・まだ未着手の分野が多く残されていて、その中でも歴史・事実に反した出版物やネット上の記述(特に反共派、全共闘系列の活動
家のもの)が多数横行しいます。例えば、京都大学の多くの関係者が関わっている「京都大学九〇年史
=京大史記」の「京都大学
学生運動史」(上田実 S63年農卒)の中で「昭和42年の自衛官入学拒否の闘いは、同学会執行部(代々木系)をのり越えて、反
代々木系の「全学共闘会議」によって展開されたのである」とあります。
しかし「全学共闘会議」が結成されたのは69年(昭和44)いわゆる「学園紛争」(京大では69年1月の学生部封鎖以降)の中での
ことであり、彼ら自身も当時は「全共闘」は名乗っていませんし、まして自衛官闘争は私が同学会委員長でしたか
ら、彼らが主導権
を握ったという局面はありません。
こうした誤った歴史記述や、全学連、民青同盟、党への非難・中傷の類については事実を明らかにして公表していくことも大切な
作業であると思います。
中でも70年代の京大の状況を振り返ってみる時、トロツキストたちの同学会、自治会破壊と暴力的支配、岡本総長をはじめ当局と
の癒着、裏取引き、竹本問題など権力の陰謀、こうした局面の真相解明と当時の活動家たちの奮闘も掘りおこし記述していくこと
も大切 です。
当面、すでに報告を受け話題にした京大生協 の歴史、学生部落研の歴史、京学文の歴史などの他、女子学生の運動、寮闘争
(激烈な暴力攻撃との闘い)、百万遍と関田町学生会館の歴史、合唱団や唯物論研究会などサークル活動の掘り起こし、さらには
民科(民主主義科学者協会)など学術関係団体や、湯川さんの核廃絶への取組みの学生に与えた影響など、学生運動の中核部隊の
歴史だけでなく世相を踏まえた学生の意識状況などの解明にも手が付けられればといった思いもありますが、こうしたことについ
ては今後研究会で話し合って行きたいと思っています。
月報 話題提供 テーマ
.1 岩井忠熊氏 企画の検討
.2〜4
資料、年表、他
.5
定免政雄氏(1947年9月卒) 2011/06/03 聞き取り
.6 報告と提起
.7 小畑哲雄氏 天皇事件 荒神橋事件
.8
田中清和氏(1961年3月卒)「京大学生細胞解散声明」との闘い
.9
望田幸男氏(1958年3月卒) 党の常任に
.10 12 月「天皇事件60 周年を語るつどい」予告
.11 中野一新氏(1964年3月卒) 1960年安保の年入学。E同好会民主化
.12 河西秀哉氏(神戸女学院) 京大天皇事件60周年を語る集い
.13
小野秀生氏(1966年3月卒)
1961年入学 ブント派、「日本の声」派との闘 い
.14 吉村克之氏(1057 年3
月卒) 1953 年水爆展の事務局長
.15 山本正志氏(1971年3月卒) 同学会の民主化と60年代の大学問題
.16 山本正志氏(1971年3月卒) 京大民主化と全共闘
.17 西山 功氏(1966 年3
月卒) 生協民主化
.18
70年代、暴力との闘い、同学会の崩壊
.19
井口和起氏(1963年3月卒)、湯山哲守氏(1968年3月卒)
.20 京大学生部落研関連年表
.21
佐本昌平氏(1962年3月卒) 「田中診療所の三十年」
.22
芦田文夫氏(1953〜1957年3月卒) 京大新聞社
.23
冨田克敏氏(1958 年 3 月卒) 1954年から1957年までの京大学生運動
.24
家野貞夫氏(1965年再建府学連初代委員長)
.25
孝岡楚田氏(立命館大卒 1966〜67 年京学文事務局長)
.26
山本正志氏(1971年3月卒) 京都の民主運動史を語る会(燎原)で報告
.27
松岡健一氏(1950年1月停学処分) 反レットパージ闘争と「前進座事件」
.28
鰺坂 真氏 (1956 年3 月卒) 京大唯物論研究会の歴史
.29
野村秀和氏 (1958年3月卒) 京大教官研究集会、京大職員組合、荒神橋事件
.30 前田達男氏(1964 年 3
月卒)1960年代前半期の京大学生運動
.31 畦地保子氏(1949 年 3
月卒)「京大病院看護婦不採用事件について」
.32 南出成子氏(1965 年 3
月卒) 看護学校時代の学生運動
.33 岩本智之氏(1964年3月卒)と石動敬子氏(1973年3月卒) 「京大合唱団の歴史」
.34 京都3学生会館闘争
.35 内山 進氏 (1973 年3
月卒)京大における学生寮での闘い
.36 東 正一郎(1975年3月卒) 京大医学部の闘い
.37
医学部「社会医学研究会」
.38 「京大社会医学研究会」機関紙を発見
.39 中村雅秀氏(1974年3月院卒) 同志社大学、京都大学での民主化運動
.40 下野克已氏(1966年3月卒) 学生学会とインゼミ
.41
京院協結成の時期
.42 東南ア研闘争い
.43
劇団創造座と風波
付録 女子学生会の活動 京都学生運動史への思い
資料類
「平和は求めて追うべし‥京大反戦自由の伝統」(1980年代に民青同盟京大地区委員会がまとめ、学生新聞「京大版」に掲載)