私とマイコン
ここでは、懐かしのマイコンについて、いろいろと語ろうと思います。
今(これからもだろうけど)うまくいっていないので、あの頃は良かったと思ってしまうんです。
いろいろ自分勝手な事を書いていますが、お許し下さい。

81年頃のマイコンショップ

当時はまだマイコンショップと呼べる店はほとんどなく、電器店の片隅に、
マイコンコーナーがぽつんとある程度でした。
NECのチェーン店のシステムインxxという店も多かったです。
ガラス張りのショーウィンドウの中で、グリーンモニタの光が反射していたのが
とても未来的で、言葉では言い表せない新鮮な感動が心に焼き付いています。
ソフトはガラスケースの中に並べられていて、種類も少なく、すべてプラケース入りの
カセットテープで供給されていました。
ディスクはもちろんなかったし、現在のような大きなブックタイプのものもまだ
なかったです。
一律3000円程度で売られていました。
その後、マイコンブームのあおりを受けて、大型パソコンショップのJ&Pなどが
出来はじめ、その広さに圧倒されたものです。
ソフマップはまだまだ小さくて、ビルの一室でマイコンソフトのレンタルをしていましたが、
それまでソフトのレンタルなんてなかったのでニュースで取り上げられたりしていました。
マイコンショップがオリジナルゲームを開発している事も多く、その代表的なものが
九十九ソフトでした。


81年頃のソフトハウス

当時のゲームはほとんどがアマチュアによって作られたもので、ソフトハウスも、
一般からのソフトの募集によって成り立っているものがほとんどでした。
だいたい、5万から20万程度で買い取りをされていました。
もちろん没になる事もあった訳ですが、マシン語で作られてある程度遊べるものなら
ほぼ確実に買い取ってもらえたようです。
また、プログラマーを職業にしていた方もいた訳ですが、現在のような分業の
概念はなく、全部一人で作りたいものを勝手に作っていたので、気楽な商売でした。
製作期間も、一週間程度で作られたものが多かったのではないでしょうか。
粗製乱造気味でしたが、まだまだソフトが少なかったので、それも許されたので
しょうか。


マイコンドリーム

当時はまさにマイコンドリームだったと言っても過言ではないでしょう。
高額でのソフトの買い取りがいろんな所で行われていた為、容易に一攫千金を果たす
事ができたのですから。
もちろん、お金の面だけではなく、自分の作ったソフトが商品化され、パッケージに
なって販売されるのですから、こんな嬉しい事はありません。
同時に名声を得る事もできた訳です。
一部の方は”スタープログラマ”といってもてはやされたりもしていました。
プログラムコンテストも盛んに行われるようになり、10万から100万までの賞金がかけられ、
ブームに乗ってプログラムコンテスト専門雑誌「プロコン」まで創刊されたりもしました。
この時、現在のフリーソフト程度のものが作れれば、100万円獲得も夢ではなかった
のではないでしょうか。


尊敬する方々

私の尊敬すべき方は、I/O誌で数々の名作ゲームを発表された、芸夢狂人氏と今風太氏です。
芸夢狂人氏はPC−8001の数々の名作ゲームを残されていますし、
MZ−80BでもFALCON.Sのペンネームでいくつかの作品を制作しておられます。
ほぼ毎月のペースでI/O誌に掲載されていたもので、わくわくしながら打ち込んでいたものでした。
今風太氏(「こんぴゅうた」とお読みします。)も、数々の名作を発表しておられます。
どちらの方も主にシューティングがメインでしたが、今風太氏はPCジャンなどの
麻雀ゲームの先駆けでもあります。
現在は電撃麻雀遊戯for Winに力を入れておられます。
それから、中村光一氏もかなり良質なゲームを作っておられますが、あまりに有名になられたので
PC8001の頃のイメージからは遠ざかってきています。


恐怖のハンドアセンブル

私のPC−8001用のゲームはすべてハンドアセンブルによって作りました。
ハンドアセンブルというのは命令表を片手に、ニモニックをマシン語コードに
変換していく作業の事で、恐ろしく手間のかかる仕事なのです。
しかも、一度書いたプログラムは容易に変更できません。
変更しようとするなら、ジャンプ命令を入れて、あちこちに飛ぶというような
つぎはぎプログラムになります。
だから最初からバグのないように徹底的にチェックする必要があり、仕様も完全に
決めておかなければならないのです。
後で、こうした方が面白いと思っても変更はほとんど無理なので、アセンブラでの
プログラミングと比べると不利です。
実際、良質なゲームはたいていアセンブラで作られていました。
もし、当時アセンブラの便利さを知っていれば、あんなに苦労せずに、もっと
面白いゲームができたのにと残念です。
また、FUNFUNというゲームがハンドアセンブルで制作されたものと知り
驚いたものでした。


地獄のダンプリスト入力

当時は、ゲームを入手するには、3000円を出して市販ソフトを買う他に、
雑誌から入力しなければなりませんでした。
やった事のある方は分かると思いますが、入力はものすごく大変な作業です。
下手をすると、制作するよりも辛いかもしれません。
当時は4キロバイト程度の短いプログラムでしたが、それでも何時間もかかりました。
苦労して入力したゲームはそれだけ愛着も強く、何度もくり返し遊んだものです。


ワンボードマイコンの頃

PC−8001やMZ−80Bよりもさらに昔、TK−80の頃になってくると
私もよく知らないのですが、でも、なぜか懐かしい。
その頃は、キットになっていてハンダゴテで組み立てていたという事です。
キャラクタディスプレイボードなどを接続して、BASICを使えるように
するのが最終目的だったのです。
その頃はコンピュータというと、巨大な電子計算機で磁気テープが回転しているのや
SF映画に登場するようなものを連想した時代です。
マイコンがあれば何でも可能だという風潮もありました。


難しくなったプログラミング

今ではWINDOWSが全盛になりましたが、本当に便利になったのだろうか。
簡単な事を、わざと難しくしている様に思えてならないんです。
昔は簡単な入門書2冊ほど読破すれば十分ゲームが作れるようになりました。
それが、今は、まともなゲームを作れるまでには、長い道のりが待ちかまえています。
六千円近くするような超、分厚い本を何冊も購入して読破しなければならないし、
そして、とにかく難解な用語が多いです。
昔、マシン語は難しいとよく言われたけど、今のWINDOWSプログラミングを
覚える方が難しい気がする。
昔は、覚えなければならない事柄は少なく、合理的でした。
今は、ものすごくいろんな事を覚えなければならない。
しかも、WINDOWSはマシンのパワーを半減させています。
実際、WINDOWSのシューティングゲームなどは、スピードが遅くて、触手が動かない。
直接V−RAMをマシン語レベルでガシガシアクセスしていた頃のゲームは
マシンパワーは低いにもかかわらず素晴らしいものが多かった。
昔のMSXの様にハードを共通化してしまう方がまだましではと思ってしまう。
さらに、突然ハングアップする、なぜか動かない、動作がどうも変とかは日常茶飯事
で、当たり前になりつつある。
昔の方が良かったとつくづく思う。


くだらないゲームほど懐かしい

マシン語で作られた素晴らしいゲームより、BASICのしょうもないゲームが
より懐かしかったりします。
BASICマガジンや、Pioの片隅に載っていた、短い暇つぶしのゲームを
打ち込んで、RUNする。
画面には、単純なキャラクタが一個、敵も一匹だけ、それをミサイルで撃つだけ
そんなゲームを、だらだらと遊んでいたあの時間が、なぜだかとても懐かしくて
幸せだった気がします。


当時の背景

大爆発したインベーダーブームも終わりかけた頃、ギャラクシアンやスクランブル、
、ボスコニアン、ドンキーコング、ディグダグ、NEWラリーXなどが出てきて、
映画館では、スターウォーズ、スタートレック、宇宙戦艦ヤマト、銀河鉄道999、
火の鳥2772、トロン、レンズマン、クラッシャージョウ、コブラなどのSFが上映されていました。
YMOの曲や、荒井由美の歌う「あの日に帰りたい」などが有線などで流れていた
のが懐かしく思い出されます。
この頃になるとピンクレディは下降線を辿っていました。
デジタルインベーダーやルービックキューブなどのおもちゃも熱中しました。
テレビでは、欽ドンや欽ドコの良い子悪い子普通の子なんかを見たり、
漫才ブームで、そーなんですよ川崎さん!とかもみじ饅頭!とか言って笑って
いた頃が懐かしいです。


私とマイコン

私がマイコンというものを知ったのは、1981年の中頃でした。
ラジオの制作という雑誌の付録にマイコンBASICマガジンというものが
はさまっていて(その後、マイコンBASICマガジンは独立して、一つの雑誌になった)
それを読んで、マイコンでTVゲームができるという事を知り、欲しくてたまらな
かった。
当時、マイコンは誰でも買えるものではなく、マイコンを持っていない人の事を
”ナイコン”と言っていました。
なんとか、クレジットで買ってもらえる事になり、一番、安かったVIC−1001を
購入しようとしたのですが、在庫がないという事で、最も人気のあったPC−8001
に変更しました。
結果的にはPC−8001にして正解だったと思います。
PC−8001が家に届いたときの、新鮮な感動は忘れられません。
ソフトは一本もなかったので、初歩のラジオに載っていた、エイリアンハンティング
という、BASICの短いプログラムを打ち込んで、何度も何度も飽きることなく
遊びました。
初めて購入したソフトはツクモソフトのインベーダーゲームでした。
そして、I/Oのマシン語ダンプリストを打ち込むのに、日々明け暮れてました。
芸夢狂人氏のゲームは、私と弟を夢中にさせ、中でもスペースマウスなどは
いったいどれだけやった事かわかりません。
さらに、遊ぶだけでは物足りなくなり、自分でプログラムを組み始めました。
最初はBASICの短いゲームを、そして徐々にハンドアセンブルでマシン語の
ゲームを完成させました。
当時、ゲームの買い取りが盛んに行われ、ある程度のものであれば、5万円から
100万円という高額で買い取ってもらえたのです。
まさにマイコンドリームでした。
完成したゲームを大阪のソフトハウスに持って行きました。
我ながら、たいした行動力だったと思います。
そして、その夜、電話があり、ソフトを5万円で買い取るという事でした。
すごく嬉しかったです。
気をよくして一週間かけて新しいゲームを作り、また、持って行きました。
すると今度は10万円で買ってもらえたのです。
また、違うゲームを作り今度はI/Oに投稿しました。
そして、そのゲームはカセットテープで販売され、20万円の収入がありました。
さらに、I/Oプログラムコンテストに入賞し、なんと30万円の賞金が入り
もう一度I/Oプログラムコンテストに入賞し、今度は10万円の賞金が、
さらにタイトープログラムコンテストというものにも入賞し10万円を手にしました。
私にとっては、夢のような時代でした。
しかし、いつまでもそんな事は続きません。
だんだん、メーカー製のソフトが進出し、アマチュアが個人で作ったゲームは
商品化されなくなってしまったのです。
プログラムコンテストもなくなっていき、またレベルはどんどん高くなっていったので
私には手も足も出なくなりました。
アマチュアではやっていけない時代になり、プロとしてやって行くことに決め、
ファミコンやゲームボーイのソフトをいくつか作ったのですが、
ファミコンソフトメーカーでは、自分の作りたいものを作ることができないし、
何度もやり直しをさせられたりして、辛いものがありました。
その頃から、やる気が薄れて、5年勤めたファミコンソフトメーカーも辞め、
だんだん退化していき、現在に至っています。


メディアの氾濫

マイコン黎明期の頃は、まだソフトの種類も少なかった。
しかし、今や膨大な数のソフトが次々と生み出されています。
これはとても素晴らしい事です。
しかし、あまりにも多すぎるので、目眩をおぼえる事があります。
インターネットでは、恐ろしいほどの情報が渦巻き、プレステやパソコンなどの
超美麗なゲームが続々と発売される。
本や音楽やアニメや映画なども次から次へと作り出される。
この、人類全体のパワーというか、バイタリティはいったい何なんだろう・・
と、恐怖すら感じるのです。
そして古いものは、完全に忘れ去られる。
今や、PC−8001やMZ−80やPC8801などのゲームは、完全に消え去り、
ただ、懐古される対象に過ぎない。
今、作られているゲームも、やがては消え去るのでしょうか。
そう思うと、何だか虚しく感じられます。


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