以下、山梨市史からの引用です。 山梨市史 文化財・社寺編 p390-392 平成17年3月20日発行 編集: 山梨市役所 発行: 山梨市 印刷: 株式会社 きょうせい 現存する史料は、法蔵寺の歴史について以下の三説を掲げています。 第1説は正安元年(1299)没の教願が開いた天台宗綱目寺を、寛永5年(1628)没の教伝が改宗、彼を当宗開基としています。 第2説は一番複雑で、文暦元年(1234)に開創された天台宗綱目寺が、その後教願によって真言宗に改められ、 文和4年(1355)円誉融満による浄土宗宝蔵寺への改宗・改称を経て、永享年間に浄意(永享10年=1438没)が浄土真宗へ改宗、 天正初年顕如に帰依した教存が本尊を拝領、彼が天正3年(1575)に没した時、現寺号に改称したというものです。 第3説は文亀年間、教願が真言宗綱目寺を創建、文禄元年(1592)に5代教伝が改宗・改称したとするものです。 三説に共通する点は、前身寺院を綱目寺、開山を教願とする点のみで、それ以外はまったく異なっています。 このように所伝がバラバラで信をおきがたいと考えたためか、「国志《は当寺の項では除地を記すのみで、由緒には触れていません。 幕末の「寺記《が採用したのは第3説で(ただし、創建時の寺吊を高目寺、改称後の山号を高目山とする)、 それに続く史料「若尾明細《も創建年号を文亀2年(1502)2月と明記する以外は同説によっており、「地誌稿《も第3説をそのまま踏襲しています。 幕末・明治期の寺伝は第3説だったといってよいでしょう。 ただ、当寺に伝わる貞享4年(1687)に書かれ始めた『仏入滅日記』は、「〇梵 鋼目開山教願法印大覚位 正安元年巳亥3月20日《を挙げ没年を正安元年と記し、 並んで「当寺開山教伝法師寛永5年戊辰12月13日《が記され、第1説が採用されています。 寛永5年(1628)の没年は、真宗への改宗を文禄元年教伝の時とする第3説と矛盾しません。 そういう点で第2説は孤立的ですが、前掲「日記《には第2説に見える教清が7世として載り、教存を教伝を読み誤りと考えれば、 当宗開基と同一人物も見出されるなど、他説と共通する部分がまったくないわけではありません。 日記には、前記2人の開山を記した後に異筆で、「2代教残、3世教頑、4世教円、5世教伝、6世教順、7世教清、8世教祐、9世教山、10世教応、 11世教海、12教令、13教乗、14世宗賢師、15世宗貫《と書き連ねるが、すべて同筆だから、 明治初年の住持15世宗貫(史料?では16世、教願を加えたカ)が書き入れたものとみられるが、これら寺伝の混乱から、永い無住時代があったことが想定されよう。 歴代住職が「教《の字を継承しているところからすると、教願も真宗僧だったとも考えらます。 仏典は移動するから何ともいえませんが、本願寺9世実如(大永5年=1525没)の花押が押された聖教が伝存していることを付記しておきます。 なお、天保2年(1831)には、寺子屋を開き、宗賢・宗貫2代に亘って子女の教育に努めています(寺小屋調査)。