玉田敬君を偲ぶ
 

200548日 無二の親友、玉田敬君が急逝しました。

東京医科歯科大学歯科同窓会報に寄稿した追悼文を転載しました。



 棺に納められた彼の亡き骸を前に、僕は号泣した。人目憚ることなど、できなかった。全館に響き渡るような声で、僕は泣きに泣いた。間違いなく彼は、僕の生涯の友だった。僕らの時間は、まだまだあるつもりだった。来世があるのなら、きっと来世でまた友として出会うのだろうが、現世での彼とのつき合いはこんな中途半端で終わってしまった。


 彼と出会ったのは、ちょうど24年前の、あの市川(*註)でだ。僕が18歳で、彼は24歳だった。里見公園の桜がきれいだったのをよく憶えている。学生時代は、一緒に旅行したり映画を観たり、授業をさぼって銀座に行って、それで「銀座の穴場」を教えてくれたり。歳が離れた同級生だったけど、不思議と気が合った。香港へのクラス旅行を企画し、一緒に幹事をしたのも良い思い出だ。


 時にはケンカをして口をきかないとか、そんな子どもじみたようなこともずいぶんあったけれど、僕のやっていた下手くそなバンドのコンサートに、いつも足を運んでくれて、「前よりもうまくなった」とか、褒めたり励ましたりしてくれたのも彼だった。結婚は僕の方が先だったが、もちろん、その時には親身に相談に乗ってもらったし、彼が結婚しようかというときも、いろいろと相談を受けたり、のろけられたり。そういう相手として、僕を選んでくれたのが、とても嬉しかった。


 お互いが歯科医師として、足を踏み出した後も、僕のことをいつも気にかけてくれていた。同窓会の学術部に誘ってくれたのは彼だったし、歯科医として慢心の極みにあった僕の目を醒ましてくれたのも彼で、歯科医としての今の僕があるのは、すべて彼のおかげと言ってもいいくらいだ。彼が教えてくれたこと、アドバイスしてくれたこと、数えたらキリがない。僕の歯科医人生に、最も影響を与えてくれたのは、間違いなく彼だった。沼津と熊谷という、ずいぶん離れた土地に診療所を作ったけれど、学術部にいたおかげで、毎月のように顔を合わせることができ、ほんとうに良かった。


 彼とは4回も一緒に講演した。最後に講演したのは、2月だった。そのたった2ヶ月後に、彼の動脈瘤は突如破裂し、わずか30分で帰らぬ人になってしまった。まだ まだ一緒に講演するつもりだった。講演の合間の休憩時間には、ふたりとも講師の顔から学生時代の顔に戻って、ふざけた話をしては腹を抱えて笑ったりと、お互い講師らしからぬ講師だった。でも、それは、もう過去の思い出になってしまった。さびしい。ただただ、ひたすらに、さびしい。


 彼のやり遺した最後の仕事を、僕が代わった。彼のお父様の義歯が完成していたのに、セットだけを遺して逝ってしまったのだ。「息子さんの遺作です」と言ってその 義歯を見せると、ちょっとだけ目を細めて、嬉しそうな、そして悲しそうな、そんなお父様の顔を僕は一生忘れることができないだろう。彼の愛した診療所で、彼が作った最後の義歯を、僕は彼のお父様に装着した。適合よく金属床がおさまり、お父様はそっとかみしめ、そしてかすかに微笑んだ。僕はなんども咬合調整をし、その義歯に僕なりの息吹を吹き込んだ。最初で最後の「共作」が、彼のお父様の口の中に収まった。少しだけ僕の目から涙が出た。


            *註:東京医科歯科大学教養部の市川キャンパス


東京医科歯科大学歯科同窓会報 第153号 20056月発行より