闘病記
 

私の断食体験

 私が断食を決心したのは、病気を治すためです。67㎏の体重が52㎏まで落ちました。奇妙な病気は治りましたが、断食が効を奏したのかどうかは、実はよくわかりません。手記として、私の闘病の記録を残す機会に恵まれたのは本当に幸運だと思います。

 四年前の春のことです。その頃、私は胸を弾ませていました。アメリカの歯周病学会の前会長のF教授の前で、自分の症例を発表することになっていたからです。田舎の一開業医にとっては、めったにないチャンスです。歯科医になって10年、それまでの努力が報われるかどうか、自分の真価が問われるのだなどと、随分肩に力を入れて日々を送っていました。

 

 少し疲れたな、だるいなと思って、熱を計ってみると、微熱がありました。ただ、やたらに胸の筋肉が痛いのです。それでも最初は、風邪を引いただけと軽く見ていました。

 何日か経ちましたが、一向に体調がすぐれません。それどころか左足の股関節が痛くなり、朝、起き上がるのが難儀になってきました。ただ、急に病状は進むというようなことは無く、診療はなんとか続けていました。症例発表のことも頭から離れませんでしたし、何より、私は診療所の屋台骨を背負っていましたから、そのくらいのことで、休んではいられないという気持ちが先に立っていました。


 こうした一進一退が二週間ほど続いた後の五月の中旬、なんか今日はいつもより痛むなぁ、おかしいなぁと思っていたら、急に足の関節という関節が激痛とともに腫れてきました。足の甲など、みるみるうちに、ぱんぱんに膨らみ、足の指が床につかないような状態になりました。ひざ関節も、股関節も、同様です。あまりの痛さに声を出さずには居られず、文字にはできないような言葉で、うなり声をあげていました。

 そんな自分の中で、もう一人の冷静な自分が「これはリウマチだ」と分析していました。慢性関節リウマチがどんな経過をたどるか知っていましたので、慢性になったら、もう歯科医としては「死」とおんなじだ、とすぐに思いました。医者に見せたら絶対入院だ。そうしたら関節にステロイドだ。そうしたら・・・もう駄目だ。


 乱暴な考えですが、直感的にこれは、医者に行っても治る病気ではない。だから違う方法を考えなくては。免疫機能に狂いが生じているから、免疫を最大限に引き出すのは断食しかない!と無理やり思いこみました。迷いや躊躇はまったくありませんでした。

 断食は2日間の完全断食と、2週間の半断食(11回重湯と生野菜ジュース)という計画で臨みました。それ以上はしないつもりでしたし、何日間か床に臥せっていれば病気は治ると甘く考えていました。断食さえすれば治ると誤解していたのです。また、西洋医学には頼らないと決めた以上、関節の方の手当ても、里芋湿布(里芋をすって、サラシに塗り、患部に巻き付ける)を使いました。  


 翌日からは、さらに悲惨な状態になりました。今度は、手の方が腫れてきたのです。肩関節、ひじ関節、手首、手の甲、指が腫れ、手が全く動かせなくなりました。こうなると、まったくの寝たきりです。寝返りも打てません。四肢はすべて、里芋湿布のサラシでぐるぐる巻きとなり、まるでミイラのようです。全く動けませんから、体位変換してもらうまでの何時間かは、同じかっこうで寝ていなくてはなりません。頭の向きも変えることさえできなくなっていました。

 リウマチがこれほど痛いとは知りませんでした。気がおかしくなるくらい痛いのです。痛くて眠ることさえできません。タオルさえ重く感じて痛みますので、シャツ一枚のまま、横になっていました。夜は寒いのですが、痛いのに比べたら、どうということはありません。だんだんと明るくなって天井の見飽きた模様が、また見えるようになると、ああ、朝になったんだなぁ、とわかります。首を動かして、時計を見上げることがもできないのです。


 妻も歯科医なのですが、私がこんな状態になると、歯科医院も休診です。「看病」を通り越して「介護」をしなくてはなりませんので。買ってきた「老人介護」の本を参考にしながら、定期的に体位の変換をしてくれました。ただ、これには筆舌に尽くし難い激痛が伴い、あまりの痛さに毎回気が遠くなりそうでした。四肢の関節すべてが同時に捻挫しているような状態なのですから、どこをどう動かしても激しく痛むのです。六〇㎏余りの体重を自分ではどうすることもできず、四〇㎏そこそこの妻が、自分の肩を夫の背中に入れて、寝返りを打たせる・・・今思うと、大変だったろうなぁと思います。

 もちろん、トイレは自分では行けません。なんとか、キャスター付きのイスにひきずり上げて乗せてもらい、連れていってもらって、便座にまた、ひきずってもらい、パンツも下ろしてもらって・・・。用を足すとその逆の手順で寝床にころがしてもらいます。その一つ一つが本当に気が狂うほど、痛みました。


 ただひとつ楽になれるのは、里芋湿布を交換した後のわずかな時間です。ひんやりして痛みが和らぎます。十分ほど経つと、また痛みがぶり返すのですが、ウトウトできる唯一の時間でした。この里芋湿布ですが、里芋とショウガをすりおろして小麦粉と混ぜて練り上げ、サラシに盛っていきます。四肢をミイラのように巻くためには大量に必要ですので、フードプロセッサーを利用しました。また、四時間毎に交換しますので、里芋の皮を剥いたり、サラシを用意したりと、妻も寝る間がなかったようです。僅かな間に睡眠をとっている妻を夜中に起こして、湿布を交換してくれと頼むようなときには、胸が痛みました。


 しかし、一向に治る様子はありません。全然良くならないのです。それでも「医者には連れていかないでくれ」という私の訴えを妻は受け入れてくれました。しかし、両親には納得がいかなかったようです。「早く入院させろ」「救急車を呼べ」などと騒ぎました。私は私で、「医者行ったら死んでしまう」と叫んでいました。私と両親との板挟みになった妻は、見ていて本当にかわいそうでした。一方、「お父さんが病気だから、どこにも連れていってもらえなくて、つまんない」と子供たちは、いたってのんきでした。

 でも、実は自分の体よりも、もっと心配していることがありました。歯科医院の経営のことです。診療所を作るときに多額の借金をしていて、診療ができなくなれば、倒産してしまいます。少なくとも妻が働ける程度には回復しなくては、とあせっていました。それと、一ヶ月半後に迫った症例発表のこともです。一生に一度あるかないかのチャンスです。自分が歯科医として、どのように評価されるか、自分の努力の証が得られる機会をみすみす逃してしまうのかと、気をもんでいました。


 こんな状態でしたので、断食は別に苦になりませんでした。とにかく早く治したい一心でした。重湯は子どもたちに口に運んでもらい、生野菜ジュースと水はストローを使って飲んでいました。とにかく、宿便を出すと治るのでは・・・と甘い期待をしていましたので、一週間目からは、そろそろかなぁ、などと思っていました。

 十日ほど経って、それらしきものが出ました。ああ、やっと出たか、これで治るとホッとしました。ところが、勘違いだとわかったのは次の日です。以前にもまして、痛みと腫れがひどくなったように感じました。私は、これは治らないかもしれないと本気で考え出しました。出口だと思っていたところが、出口ではないとわかったときの落胆は、言葉では言い表せません。


 免疫能の活性化の妨げになると思い、鎮痛剤は一切使わずに、痛みに耐えてきました。眠れない夜を幾夜過ごしてきたことでしょう。寒くても、痛くても耐え忍び、治ることだけを信じて、頑張ってきました。でも、もう、これ以上、何ができるのでしょう。

 その晩、幻覚)を見ました。深いジャングルの川の中洲に寝そべっている自分がいました。そうして、なにやら自分でも意味のわからないことを口走っていました。

 「お父さん、お父さん、大丈夫?」と妻が耳元で叫んだので、我に返りました。妻によると、目をはっきりと見開いて、まったく別の人格でしゃべっていたそうです。のぞき込んだ妻の顔は、いつになく険しいものでした。


 次の日も、良くなる兆しはまったく見られません。筋肉が落ち、細くなった自分の体を確認し、私はついに観念しました。

 「もうだめだ、もうあきらめよう、破産もやむをえない。それどころか、このまま死んでしまうかもしれない。けれど、もし何年かして、体が自由になったら、そうしたら、その時は、もう一度、歯医者ができたらいいなぁ」


 心からあきらめ、もう、もがくのはやめようと決心しました。その晩、私は、懐かしい友人達の顔を一人ひとり思い浮かべ、「あの頃は楽しかったね。もう会えないかもしれないけど、もう一度会いたいね。会えるといいね。さようなら」と声をかけていました。隣で寝息を立てている妻にも「ごめん。もうだめだ。今まで本当にありがとう。でも、本当にすまない」。そうつぶやきながら、涙が止まりませんでした。

 でも、不思議なことが起きました。奇跡です。翌日から徐々に関節の腫れが引きはじめたのです。そして、三日後には、自分の足でなんとか立つことができたのです。がりがりにやせ細ったこの足で。


 筋肉という筋肉がすべてなくなってしまったものの、私の闘病はこうして幕を閉じました。病後、初めて一人でシャワーを浴びていると、いたずらして叱られた六歳の二男が、泣きべそをかきながら、浴室に入ってきました。自分の身体を洗うことでも精いっぱいの状態でしたが、頭を洗ってやろうと重い腕をやっとの思いでのばすと、涙が溢れて止まらなくなりました。はずかしながら、子どもを「いとおしい」と思った初めての瞬間でした。生きているということは、ただそれだけですばらしいことなのだと、心から感じることができた瞬間でもありました。

 完全に体が元に戻るのに、二年かかりました。しばらくは、腕の重みを肩が支えることができず、両腕を三角巾で吊っての生活を余儀なくされたり、ホッチキスを押せなくなっている自分に驚いたり、座布団を三枚以上敷かないと、尾てい骨が痛くて腰掛けられなかったり・・・ということもありました。が、再発することも無く、元気にやっております。それから、症例発表ですが、あれほど力んでいたのがウソのように肩の力が抜けたのも手伝ってか、非常に高い評価をいただきました。でも、その時には、結果うんぬんより、とにかく演台に立てたこと、そのことを神に感謝しながら、万雷の拍手が、病からの生還を祝ってくれているように感じていました。


幕内秀夫氏監修「日常茶飯事」Vol. 6 2002 720日発行より