エピソード4
 
 


 私が生まれ育ったのは、浦和の元町、北浦和という駅から歩いて5分くらいのところである。秩父から出てきて教師をしていた父と、鹿児島から出てきて事務をしていた母が結婚し、根をおろした場所だった。当時の父母の収入から考えると、天文学的な借金をして購入したということだったが、オンボロで小さな平屋にすぎなかった。借金の返済のために、空いた敷地(といってもわずかだったが)に小さなアパートを建てたり、母家を間貸ししたりして、一戸建てといっても、幼いときには色々な人が我が家には出入りしていた。現在の日本の状況からすると、よくもまぁあんなところを貸す人も貸す人だし、借りる人も借りる人だったなぁと思ってしまう。

 こんなふうだったから、貧乏のエピソードにもことかかない。極め付けは来客があるというので、「練炭を買ってきて」と母が渡したなけなしの50円を父が「倍に殖やそう」とパチンコ屋に寄り、揚げ句手ぶらで帰ってきて母が涙したという話だが、今となってはこれも大笑いの思い出であろう。

 父は小学校の教師だったが、当時はずいぶんといい加減で、夏休みはほとんど家にいたし、卒業した教え子達を集めて、我が家で「塾」をやっていた。父が帰ってくるまでの間は母が「塾生」を教えることになっていたものの、兄と私の幼子2人を抱えて、「先生」などできるはずもない。漢字の書き取りや計算ドリルなどの課題を与えて、終わった「生徒」から私たちの「おもり」をすることになっていた。生徒達には、家の前の道でずいぶん遊んでもらったものである。小遣い銭で、近所の肉屋でコロッケを買っては、私たちにも「おすそわけ」をしてくれたりもした。おやつにうえていた時代だったから、あの美味しさはまだ記憶にとどまっている。

 時に母までが留守のことがあって、その時には、ほとんど無法状態になってしまう。中には悪知恵のはたらく生徒もいて、戸棚の中に、ワインを見つけて皆にふるまい、「美味しいジュースだよ」とだまされて飲まされた私が、真っ赤な顔でウンウンうなっているところに母が帰り、大慌てしたこともあったらしい。こんな状態だったから「塾」は子供たちには「好評」で、おおはやりだった。本当におおらかな時代だった。

 が、夏のある日事件が起こる。雷が鳴りひびき、ものすごいヒョウとどしゃぶりがしばらく続いていた。一家4人、夕飯を食べていた私たちには平和な一時にすぎなかった。すると、突然畳が浮き始めた。床上浸水である。幼稚園の年中だった私にとっては、とてもエキサイティングな出来事で、不謹慎にも思わず「おもしろい」と言葉を発してしまった。「バカヤロー」とどなった父の顔はひきつっていて、事態がのっぴきならない事になっていると気がついたのだった。我が家の周りは低地になっていて、裏にはドブが流れ、そのドブが、集中豪雨で一気にあふれたのであった。平屋の我が家には逃げる2階などあるはずもなく、とりあえずオルガンの上に兄と私は非難し、父と母が大慌てに慌てている様子をながめていた。

 やがて、雨が小降りになり、幸いそれ以上のことにならなかったが、水に浸った後始末の大変さと、父母の落胆は今想像するに余りある。一方、幼い私たちは水の引いた道に散らばっている色々な家財道具の中から、怪獣の人形などを見つけては、密かに喜んでいた。こういうのも「親の心子知らず」というのだろうか。

 元々ボロボロの上、水浸しになってしまった我が家を前に、父母は再び大決心をした。建て替えである。だんだん出来上がっていく新しい家をながめながら、私は胸をふくらませていた。が、結果は期待を裏切るものとなってしまった。各部屋にはそれぞれ小さな台所がついていて、やがて新しい住人が入居してきたのである。結局、私たち4人が住めたのは4畳半と台所だけで、風呂もトイレも他はすべて共同で、以前の平屋より狭くなってしまったのだ。

 こうした状況からの再出発だったが、経済事情が好転するにつれ、徐々に住人が少なくなっていき、私たちの専有部分も増えていった。私が大学3年の頃にはアパートも取り壊され、やっと、家族だけの住まいになった。父母にとってはさぞかし感慨深かったことだろう。 こうした父母の苦労は、それとなく私たち兄弟にも伝わり、期待に応えるべく、勉強はせざるをえない状況にあった。幸いなことに、兄は開成高校から、慶応大学の医学部に現役で進学できたし、私も開成中学から開成高校へ進み、東京医科歯科大学の歯学部に現役で進学した。小児科の医師となった兄は現在アメリカのシカゴの病院で研究をしている。私はまたご存知のとおり、ここ熊谷の地で、歯科医療にいそしんでいる。私たち家族の原点は、水浸しになったあのオンボロの平屋にあるのは間違いない。今では姿を変え住人も父母の2人きりとなってしまったが、あのころの苦労や不自由さそしてひたむきさは、いろいろな意味で私の財産となっている。

 余談だが、女房と結婚して、まもなく14年が過ぎようとしている。九州への新婚旅行から帰ってみると新居の電話が止まっていた。貯金が底をついていたのである。慌てて2人の財産を合わせてみたのだが、お互いに相手の懐をあてにしていたようで、4万円しかなかった。2人で大笑いをしたこと、この時が今の私たち家族の原点ではないかと思う。


20012月発行 院内新聞「まうす」第42号より



 

床上浸水